山藍摺

 約五秒、息を止める。
 目を瞑るのは、触れる直前。ぎりぎりの、鼻の先が擦れる位置まで近づいてから。
 唇から漏れ出る吐息を浴びるのが好きだった。緊張が伝わってきて、向こうもドキドキしているのだと分かるから気に入っていた。
 間近から覗き込んで、瞳いっぱいに自分の姿が映りこんでいるのを確かめるのも楽しかった。瞬きすら忘れて見つめ返してくる彼が、慌てて瞼を下ろして顎を上げるのが可愛かった。
 もう何十回と繰り返しているはずなのに、まだ慣れないらしい。不器用に、けれど必死に応じようとしているところがいじらしくて、今のまま変わらないで欲しいと思っている。
「……っン」
 今日も鼻から抜ける息を零し、日向は不慣れなキスを終えてホッと肩の力を抜いた。
 放っておけば膝から崩れていきそうなのを支えてやり、細い手首を引き寄せる。制服の裾を抓んでいた指を無理矢理解いて握りしめれば、抱きしめられるのを嫌った日向が抗い、逆に押し返して来た。
 胸を突かれ、影山は仕方なく身を引いて距離を作った。
「ンだよ」
 突き飛ばされる、とまではいかなかったものの、拒否されたのはそれなりにショックだ。キスの余韻も掻き消えてしまい、面白くなかった。
 不貞腐れた声を出し、口を尖らせる。不満を露わにした彼を上目遣いに睨み、日向は右手をぎゅっと握りしめた。
「誰か来たら、どーすんだよ」
 言って、彼は作った拳で口元を覆い隠した。
 影山が触れたばかりの場所に押し当て、右から左へと腕を走らせる。ぐい、と乱暴に拭う仕草を見せられて、影山は眉間の皺を深くした。
「こねーよ」
「そんなの、分かんないだろ」
 機嫌を損ねたまま低い声で反論するが、日向は耳を貸さなかった。尚も持論を口にして、今度は短い爪を唇へと衝き立てた。
 柔らかな肉を軽く引っ掻き、ようやく利き腕を下ろす。それでも落ち着かないのか指は空を握り潰し、黒いスラックスに新しい襞を作り出した。
 制服を掻き毟る彼を見下ろして、影山は短い、けれど深い溜息を零した。
「……ったく」
 悪態をつき、耳を澄ませて周囲へ気を巡らせる。確かにざわざわした空気は感じるものの、騒ぐ声は遠かった。
 近づいてくる人の気配もない。第一、誰か来れば扉の開閉音ですぐ気づける。そこまで注意力散漫ではないと胸を張り、影山は顔を赤くした恋人に肩を落とした。
「嫌なのかよ」
 ここは烏野高校、その屋上。本来は生徒の立ち入りが禁止されている場所であるが、鍵が壊れているのは周知の事実だった。
 とはいえ学校自体が高台にあるので風は強いし、フェンス近くへ行くと向かいの校舎から丸見えだ。もし忍び込んだのが教員に知られようものなら、反省文三枚どころの騒ぎではない。
 だから出入り自由と知っていても、実際に足を向ける生徒は少なかった。
 その法則を破り、影山たちは屋上にいた。昼休み、部室を避け、敢えて危険を冒して此処に至ったのは、単純に誰にも見つかりたくなかったからだ。
 特別教室棟は昼間でも人が少なく、屋上に続く階段を登っていても注意される可能性は低い。後は本校舎の窓から見える場所にはいかない、というルールさえ守っておけば、存外なんとかなるものだ。
 他に、大声を出さない、という点も重要だ。あくまでも静かに、大人しく過ごすこと。それがふたりの約束だった。
 そういうわけで、影山が拗ねる声もいつになくトーンが低い。静かに、しかし迫力たっぷりに言われた日向はうっ、と息を呑み、雑音が絶えない本校舎をちらりと窺った。
 出入り口がある四角い建物――塔屋の周囲なら、四階にある一年生の教室からはほぼ見えない。けれど小心者が顔を出し、万が一を恐れていた。
 コートの中では信じられないくらいに強気の性格をしているのに、妙な話だ。
 そういえば彼は試合前、頻繁にトイレに駆け込んでいる。度胸はあるのに、エンジンがかかるのに時間がかかる日向にため息を重ね、影山は邪魔な前髪を掻き上げた。
「ひなた」
「……だって」
 凄味を利かせて名を呼べば、彼は渋々顔を上げた。
 けれど言いかけて、途中で止めてしまう。言い難いのか俯いて、膝に転がした手を握っては開く。
 ズボンの皺を伸ばしては作り直し、ひっきりなしに太腿を引っ掻き回す。視界の端で動く小さな手にかぶりを振って、影山は思い切って腕を伸ばした。
 軽く曲げた中指の背で柔らかな頬を小突けば、日向は仰け反り気味に背筋を伸ばした。そして顔を綻ばせたかと思えば、すぐに目を逸らしてしまった。
 今度は屋上と階段とを繋ぐ、鉄製の扉を見つめる。それがいつ開くか、ひやひやしている様子が窺えた。
「おい」
 影山的には、自分に集中して欲しい。それなのに願いは叶わず、苛々が募った。
 他人の視線を避けられて、しかも不用意に人が近づいてこない場所は、公共の空間である学校の中ではかなり限られていた。
 ここを見つけ出すのだって、かなり苦労した。騒げないしちょっと肌寒いのが難点だけれど、誰にも邪魔されず、気兼ねせずに済む場所は貴重だった。
 だというのに、日向は怯えを隠さない。大丈夫だと繰り返し言っているのに信じてもらえないのは、かなり腹立たしかった。
「こっち向けって」
「影山」
「当分、朝も夕方も、部活ばっかりなんだから」
 余所事に気を払う暇があるなら、自分だけを見て欲しかった。その気持ちがそっくりそのまま声に出て、影山は日向を促し、細い顎に指を添えた。
 下から掬い上げる形で視線を誘導し、大粒の瞳に己を映し出す。日向の視界を端から端まで埋め尽くして、彼はいつもより早く、目を閉じた。
「……うっ」
 キスを強請り、迫る。途端に日向は息を止め、全身をかちこちに凍らせた。
 逃げていったりはしない、ただ動きを止めるだけ。それを良い事に影山は細い腰に腕を回し、力任せに引き寄せた。
 今度こそ願いを叶え、小さな体を胸に閉じ込める。日向は一瞬抵抗して肩肘を突っ張らせたが、力んだ時間は三秒にも満たなかった。
「は、……ん、ひなた」
 徐々に力が抜けて重くなる身体を支え、影山は瞼を押し上げた。
 薄く開いた唇から舌先を覗かせて、しな垂れかかってくる日向の頬に押し当てる。そのまま頭ごと上に滑らせて舐めてやれば、華奢な肩がびくりと跳ね上がった。
「ひぁっ」
 か細い悲鳴が聞こえてきた。ただでさえ高めのボーイソプラノがもっと高くなって、影山は嬉しそうに顔を綻ばせた。
 耳に心地よい響きをもっと聞きたくて、調子に乗って耳朶へも浅く噛み付く。途端にびくびくと閉じ込めた身体が大きく震えて、上腕を爪で引っ掻かれた。
 半袖シャツから覗く腕に白い筋が走った。蚯蚓腫れになるほど酷くはないが、休み時間中に消えるかどうかは、正直微妙なラインだった。
「いってーな」
「うるせえ。ば、っか」
 文句を言うものの、実はさほど痛くない。日向も本当は分かっているはずで、言い返してくる声は弱々しかった。
 舐められた場所に手の甲を押し当て、斜め上へ走らせてねめつけられた。涙ぐんだ眼は潤んでおり、どれだけ眼力を強めようと、迫力はないに等しかった。
 コートの中でボールを狙う時の、小さな獣と化した双眸とはまるで別人だ。背筋がぞっとする威圧感は、今の彼からは微塵も感じられなかった。
 あるのは、愛玩動物に通じるかわいらしさ。身長百六十センチ少々の、同年代よりも些か低めの身長と高い声が作り上げる、愛くるしさだけだ。
 彼とは出会いからして衝撃的であり、印象的だった。
 思えばあの日から、既に心を囚われていたのかもしれない。高校で再会して後、恋心を自覚するのに、さほど時間はかからなかった。
 そして一方通行だと思われた感情が、実は双方矢印が向き合っていた事実も、意外にあっさり判明した。
 男同士だとか、チームメイトだとか、そういう面倒なことは一切頭に浮かばなかった。お互いバレーボール一辺倒の人生を送って来て、初めて出来た相棒的存在だ。惹かれあうのは必然で、世間一般の常識だって何の障壁にもならなかった。
 ただそうはいっても、矢張り配慮は必要だった。
 自分たちは良くとも、周囲に迷惑はかけられない。特に部のメンバーに要らぬ心配をかけるのは、是が非でも避けたかった。
 偏見は怖くないが、仲間まで悪く言われるのも御免だった。となれば、自分たちの関係は隠さなければならない。練習中は今まで通りが鉄則だった。
 一緒に居られるだけで嬉しかった。
 我慢出来ると信じていた。
 けれどそれが意外に難しいと気付くのにも、あまり時間はかからなかった。
 部活中は大抵傍に誰かいる。先輩であったり、同級生であったり。マネージャーもいるし、コーチや顧問の目もあった。
 朝はともかく、練習が終わった後の帰りも団体行動のパターンが多い。家が遠く、帰り道が別々なのはネックだった。
 人前ではなるべく、感情が表に出ないように頑張っていた。けれど時々、我慢ならなくなる。もっと触れたいし、触れていたいのに、環境がそれを許してくれなかった。
 日中は授業で、朝も夜も練習ばかり。常に傍に居るとはいえ、ふたりきりになる機会となれば、数えるほどしかなかった。
 日向が作った傷をなぞり、影山は捲れていた制服の袖を引っ張った。衣替えが終わったとはいえ、東北の夏はまだ遠い。風が吹き抜ける屋上は、日蔭なのも手伝ってかなり気温が低かった。
 反面、日向は暖かかった。
 名が示す通り、陽だまりのような温もりだった。サイズ的にも触り心地は抜群で、ずっと抱きしめていたかった。
 もっともそれは許されない。あと十分もすれば、午後の授業が始まってしまう。チャイムが鳴る前に教室に戻っておかなければ、遅刻扱いされてしまいかねない。
 子守唄替わりの教師の声を思い出したら、欠伸が出そうになった。流石にこの状況ではまずいと耐えて、影山は顔の下半分を覆っている日向に顔を寄せた。
「っ」
 くちづけを警戒し、彼はきゅっ、と目を閉じた。力んでいると誰が見ても分かる表情を至近距離で観察して、影山はその痛々しさに目を眇めた。
「ボケ」
 言って、こつん、と額に額をぶつける。骨に響いた軽い衝撃に、彼はハッと目を見開いた。
 入れ替わりに、影山は瞼を閉ざした。耳を欹てて呼吸を数え、戸惑っている気配に心の中で笑みを零す。
「ン」
 刹那、首を伸ばして赤くなっている場所にくちづける。唐突の額へのキスに驚き、日向は目を白黒させてから悔しそうに唇を噛んだ。
 触れられた場所に手を添えて、薄茶色の髪の毛ごと握りしめる。悪戯が成功したのを喜んで、影山はしてやったりと口角を歪めた。
「もう……」
「嫌じゃねーんだったら、いいだろ」
 今度は日向が不貞腐れる番だった。
 ハリセンボンと化した彼を笑い、影山が丸々と膨らんだ頬を小突く。直後に彼は口を窄め、一気に息を吐き出した。
 風が生まれ、前髪が泳いだ。視界の上端を流れる黒い糸に意識を流し、影山は肩を竦めて苦笑した。
「最近、全然してねーんだから」
「そうだけど」
 拗ねこそすれ、本気で嫌がる気配はない。なら大丈夫だろうと畳み掛けるように言って、影山は背に回した腕に力を込めた。
 範囲を狭め、閉じ込める。日向も腰が絞まったのを感じたのか、視線を下へ落とした。
 顔を伏した彼の隙を衝き、影山は首を前に倒した。
「かげやま?」
 そこまで柔でないと知りつつも、折れそうなほどに細い身体を抱きしめる。肩口に額を埋めて寄り掛かってきた彼に、日向は慌てて顔を上げた。
 訝しげに名前を呼ばれても、返事をする気になれなかった。
 確かな質感と体温に安堵しつつ、胸に生じた不安は拭えない。気持ちは通じ合っていると思うのに、するりと零れ落ちて行ってしまうような手応えの無さが、影山を暗い淵へと追い込んでいた。
「どうしたんだよ、お前。なんか変?」
「ンなことねーよ」
「あるって。どっか具合悪い?」
 ぎゅうぎゅうに締め付けられるのを嫌がり、日向が声を響かせた。不思議そうに問いかけられて、否定しても、否定し返された。
 形だけの心配なら、誰にだって出来る。降って湧いた怒りに火がついて、影山は奥歯を噛み締めた。
「ひなた」
「わわっ」
 顎が砕けるくらいに歯を食いしばり、勢いつけて背筋を伸ばす。突然突き放された方は吃驚して、零れ落ちんばかりに目を見開いた。
 驚愕を露わにする眼を睨みつけ、影山は呆気に取られている日向の頭を引き寄せた。
 後ろに手を回し、目も瞑らずにくちづける。寸前で吐いた息が肌にぶつかって弾け、熱風が産毛を擽った。
「んんっ」
 咄嗟に後ろへ下がろうとした日向だけれど、力勝負で敵わないのは明白だった。
 腕力に物言わせての無理矢理なキスには、愛情らしきものがまるで感じられない。相手を屈服させ、従えようとしているとしか思えなくて、日向は懸命に抗って剥き出しの腕に爪を立てた。
 深く抉り、掻き毟る。突き刺さる痛みに眉を顰め、影山は瞬時に舌を引っ込めた。
 ガチッ、と物騒な音が聞こえた。あと少し遅れていたら噛み千切られていたと、彼は冷や汗を拭って赤濡れた媚肉を咥内へ戻した。
 日向はそんな彼を威嚇するようにもう二度、三度と前歯をカチカチ言わせ、好き放題舐められ、吸われた唇に人差し指を押し当てた。
 生々しい感触が残り、湿り気を移された皮膚が薄皮に張り付いた。それを強引に引き剥がして、日向は気になるのか、何度も唇を擦った。
 元から赤かった場所が、摩擦で更に赤みを強めていく。些末な変化にも目を凝らして、影山は最後、深々とため息を吐いた。
「お前、……俺の事、好きか」
「ひぁあ!?」
 左腕で頭を抱えながらぼそりと言えば、聞き損ねるところだった日向が素っ頓狂な声を上げた。
 ただでさえ響く彼の声が、風に流され散って行った。騒いではいけない、という暗黙の了解を忘れた彼に首を振って、影山はぴょん、と飛び跳ねた恋人に視線を投げた。
 日向は一瞬で茹蛸になり、耳の先まで真っ赤だった。
 大粒の目を左右に泳がせ、口をもごもごさせる。照れている、としか表現のしようがない姿は可愛らしくて、場所が場所なら押し倒したいくらいだった。
 もっともそんな真似をしたら、ビンタ一発では済まない。悲鳴だって、先程の比ではないだろう。
 自重して、影山は前髪を指に絡ませた。
「俺は、お前のこと、すっげー好きだけど」
「うぅ、嘘だ」
「好きでもねえ野郎にキスなんてするか、ボケ」
 たとえ百万円を引き換えにしても、日向以外とキスをするなどお断りだ。同性が相手なら、尚更嫌だ。
 偉そうに胸を張って断言し、続けて彼は背中を丸めた。威張っていたのは一瞬で、落ち込んでいるのか、頭を抱える姿はかなり格好悪かった。
「影山」
 あんな風に乱暴で強引なキスをしておいて、好きだと言われても説得力がない。けれど裏表がない彼の性格的に、嘘を言っているとも言い切れなかった。
 今の言葉は信じるに値する。では何故、と首を傾げて、日向は口をヘの字に曲げた。
 次の大会は目前に迫っていた。日程的には余裕があるけれど、暢気に構えていたら時間は一瞬で過ぎ去ってしまう。
 後悔はしたくない、だから練習に励む。影山のことは好きだけれど、影山とやるバレーボールはもっと大好きだった。
 彼だけではない。澤村や菅原や、東峰のことだって大事だ。
 次負けたら、彼らは今度こそ引退だ。けれど三年生から教わりたいこと、教わらねばならないことは、まだまだ多い。一戦でも多く一緒に試合をするためには、もっと上手くなり、勝たなければならなかった。
 余計なことは考えたくない。極力頭をからっぽにして試合に挑みたい。
 影山とギクシャクしたままでいるなど、絶対に嫌だった。
 立ち入り禁止を破って屋上で逢引きしていたのがバレたら、怒られるだけでは済まない。それでびくびくしていたのは否定しないが、それだけが彼の不機嫌の要因とは思えなかった。
 理由を知りたくて、口を開く。
「やっぱお前、今日、ちょっと変」
「なあ。お前さ、……わざとやってんの?」
「は?」
 しかし求めていたのとは違う返答に、日向は目を点にした。
 話が飛んだ。着地点が全く見えない。意味がまるで読み解けなくて絶句していたら、拗ねた影山が腕の隙間から顔を出した。
 偉そうな王様然とした態度がすっかり影を潜め、穴倉に閉じこもる臆病な熊になっている。ちょっと面白くて笑いそうになって、日向は堪えて続きをまった。
 影山は息を吸って吐き、それを三回繰り返して浅く唇を噛んだ。
「お前さ、……本気で俺のこと、好きか」
「好きじゃなかったら、俺だって」
「だったらなんで――」
 ぶつけられた質問に、先程投げつけられた回答でやり返す。だが影山は納得せず、言いかけて途中で口を噤んだ。
 中途半端なところで黙られて、日向は目を眇めた。
「影山?」
「――ン」
「ちょ!」
 そこへ、不意打ちでキスが落ちてきた。
 軽く触れるだけの、実に可愛らしいキスだ。けれど今は、とてもではないがそういう雰囲気ではなかった。
 油断も隙もあったものではない。くちづけひとつで誤魔化されてやるつもりはなくて、日向は眼力を強めて口元を拭った。
 その、横に引き抜こうとした手を寸前で捕まえて、影山はビクついた恋人を睨みつけた。
「やっぱ、お前、俺のこと好きじゃねーだろ」
「はい?」
 いきなり動きを制されて驚いたが、それ以上に彼の台詞に度肝を抜かれた。真顔で告げられた内容が即座に理解出来なくて、日向はぽかんとなって口を開閉させた。
 空気を噛み砕き、飲み込んで、息を吐く。一連の動作を滞りなく終わらせてから、彼はどことなく哀しげな男に小鼻を膨らませた。
「ンなわけねーだろ!」
 泣きたいのはこっちだ。憤り、感情が赴くままに怒鳴りつける。最早声量を気にする余裕など、これっぽっちも残っていなかった。
 唾を飛ばして叫んだ日向に、影山も堪えていたものを一気に吐き出した。
「じゃあなんで、拭いてんだよ!」
「――へ?」
 腹に響く低音で凄まれて、日向は目をぱちくりさせた。
 何を言われたか、即座に理解できない。瞬きを五回も繰り返してからやっと音と意味が合致して、彼は呆気に取られてぽかんとなった。
 しかし影山は至って真剣な表情で、肩を怒らせ耐えていた。
 悔しそうで、哀しそうで、寂しそうで、苦しそうだった。
 そんな顔をして欲しくない。けれど彼を孤独な王様に舞い戻らせたのは、他ならぬ日向自身だ。
「お前、……いっつも、俺がキスした後。口、拭くだろ」
「そんなこと」
 絞り出すように告げられて、日向は身を揺らした。前に出ようとして思い留まり、否定出来ない自分に絶句する。
 言われてみれば、その通りかもしれなかった。
 意識していたわけではない。けれど思い返してみれば、確かに拭いていた。手の甲を押し当て、袖に擦りつけ、指で引っ掻きもした。
 それらは決して、意図的な行動ではなかった。気が付けば、勝手に手が動いていただけだ。
 けれど影山の目には、そうは映らない。
「正直に言えよ。気持ち悪い、って」
「んな!」
 理由を考えれば、それしか答えが出て来なかった。辛そうに顔を歪めた彼の台詞に、日向は全身を戦慄かせた。
 違うのに、上手く説明できない自分がもどかしかった。
 影山とのキスは、好きだ。一度だって不快に感じた例はない。
 いつも偉そうにして自信満々なのに、キスの時だけ少し恐々しているのが面白かった。一回では足りなくて何度も強請って、赤ん坊のように甘えてくる姿が可愛かった。
 日向は最後まで言わせてもらえなかった台詞を噛み砕き、飲み込んだ。 影山でなければ、キスなど許したりしない。抱きしめられると胸がほっこりして、ドキドキして、握った手はいつだって放し難かった。
 最近は少し慣れてきたけれど、キスはやはり緊張する。心臓が落ち着かない。初めの頃は、頭が爆発して壊れてしまうのではないか、とさえ思った。
 それは今でも、あまり変わらない。影山は不意打ちが多いし、あらかじめ宣告された時は余計に力が入った。
「あ」
「日向?」
「そっか。分かった」
 恥ずかしさを堪えて彼とのキスを振り返り、とある共通点に気付く。ストンと綺麗に落ちてきた答えにうん、と頷いて、日向は左胸を握りしめた。
 制服に皺を刻み、惚けている男を清々しい想いで仰ぎ見る。影山は訝しげに首を傾げ、なにか言おうとした口をすぐに閉ざした。
 言葉を飲み込んだ彼に微笑んで、日向は指を解いた。
「おい」
 そのまま、トスン、と分厚い胸に倒れ込めば、慌てて受け止めた影山が声を高く響かせた。
 なんだかんだ言って、彼は優しい。だから好きだと心の中で呟いて、日向は羨ましいくらいに逞しい身体を抱きしめた。
「ひなた?」
「おれ、影山のこと、すっげー好き」
「嘘言うなよ」
「ウソなもんか。だって、お前とキスしたら、ドキドキし過ぎて落ち着かねーもん」
 唇が濡れたままだと、どうしても影山のことを思い出してしまう。彼に触れられた痕跡を残していたら、いつまでも心臓がうるさい。
 好きだから、好き過ぎて、遺せない。壊れてしまう。影山のことばかり考えて、他に集中できない。
 だから、無意識に拭っていたのかもしれない。
 確証はない。ただ他に思いつかない。開き直った風に言い切った彼に絶句して、影山は三秒置いて頭を抱えた。
「ンだよ、それ」
「隙あり!」
 目に見えてがっかりして脱力する彼を笑い、踵を浮かせて背伸びをする。唇を狙った日向に口の端へくちづけられて、影山は吃驚して目を丸くした。
 一方の日向は目標から若干左に逸れてしまったのを不満がり、ぶすっと頬を膨らませた。
「お前、でかすぎなんだよ」
「……テメーがどうしようもない馬鹿だっての、忘れてた」
「はあ? お前にだけは言われたくないんですけどー」
 身長差は、十五センチ以上。その差は、例え座っていても埋められない。
 面と向かって抗議した日向に、影山はがっくり肩を落とした。
 真面目に悩むだけ、時間の無駄だった。
 日向が単純な性格の持ち主で、物事をあれこれややこしく考えたがらないタイプなのは、随分前から知っていたのに。
 盲点だったと顔を覆って、彼は緩く首を振った。指の隙間から前を覗けば、日向は口を尖らせぷりぷり怒っていた。
 高校一年生の男子らしからぬ拗ね方は、底抜けに可愛かった。
「しゃーねーな」
 言って、腕を下ろす。同時に首を伸ばし、影山は身を乗り出した。
 途端に強気だった日向がびくりと身構え、逃げ腰になった。それを制して口角を歪め、影山は癖のある茶髪を指で絡め取った。
「午後の授業中は、俺のことだけ、考えてろ」
「う~~……」
 そっと重ねあわせた唇は甘くて、良い匂いがした。
 緊張でガチガチになった日向は鼻から抜ける吐息を零し、影山の腕をぎゅっと、痣になるまで握りしめた。

2014/06/29 脱稿