桃尻

 ちりりん、と風が鳴った。
 涼やかな音色に誘われて、長く伏していた瞼を持ち上げる。数度の瞬きを経て光を取り戻した視界は淡くぼやけ、輪郭は靄がかかったかのように朧だった。
 汗を吸って張り付いた前髪を嫌い、雲雀は首を振った。途端、額の上にあった何かが揺れ動いた。後頭部では小さな塊がぶつかり合う振動が、直接地肌に伝わった。
 地上にありながら水中を漂う浮遊感を覚え、彼は次第にはっきりしてきた意識に目を見開いた。
「ああ、起きた」
 直後、珠を転がすような軽やかな声が響く。聞き覚えのあるその声は、しかし本来、この場にあってはならぬ人のものだった。
 もしや自分は、依然夢の中にあるのか。勘繰り、雲雀は四肢に力を込めた。
 けれど被せられた布団は存外に重い。額を覆う湿った布も枷となり、彼を寝床に縫い付けた。
「無理しないでください」
「君は……」
 それでも諦め悪く藻掻く彼に呆れ、白い手が伸びてきた。
 無茶を諭し、大人しくするよう宥めて胸元を叩かれた。ぽんぽん、と同じリズムで動く手は小さく、握れば簡単に折れてしまいそうなほどに細かった。
 この手の持ち主を、自分は知っている。その名前を呼ぼうとして、雲雀は自分の喉が乾いているのに気が付いた。
 違和感を覚え、動きを止める。彼が無謀な挑戦を止めたと知り、手を休めた青年が、入れ替わりに身を乗り出した。
 膝立ちのまま軽く腰を浮かせ、畳に敷かれた布団を上から覗き込む。ついでとばかりに額の濡れタオルを取り払われて、熱が逃げていく感覚が殊の外心地良かった。
 ほっと胸を撫で下ろし、雲雀は深く長い息を吐いた。安堵を含んだ深呼吸に青年は微笑み、枕元に置いた盆へ丸めた布を移動させた。
 指先に残る水気は自身の服に擦りつけ、訝しげな雲雀を優しく見つめる。その眼差しは、紛れもない本物だった。
「吃驚しました」
「それはこっちの台詞なんだけど」
 率直な感想を舌に転がされ、雲雀はムッと口を尖らせた。
 この青年は現在、遠く離れた地を拠点にしていた。海を隔て、陸を隔て、飛行機を何便も乗り継ぎ、ほぼ一日かかってようやく辿り着けるような場所に住んでいる。
 何度か訪ねた事のあるイタリアの古城を思い浮かべ、雲雀は右腕を浮かせて額を覆った。
 肌に残る湿り気を取り払い、前髪も脇へと流す。怠さが残る身体は節々が軋み、動かす度に鈍い痛みを発した。
 それをなんて事もないようにやり過ごして、雲雀は傍らへ視線を投げた。
 剣呑な眼差しをいとも容易く受け流し、この世で唯一雲雀に勝てる青年は、屈託なく笑った。
「ヒバリさんも、人の子だったんですね」
「なにを、今更」
「ちょっと安心しました。草壁さんから連絡が来た時は、天地がひっくり返るかと思いましたけど」
「僕をなんだと……」
 彼曰く、第一報が飛び込んできたのは、丁度香港へ出向いていた時だったそうだ。
 空港へ到着した直後だったのに、全ての予定をキャンセルして日本行の便に飛び乗った。突発的な事だっただけに誰にも相談出来ず、独断専行で動いたので、部下はほぼ全員、香港島に置き去りにして来てしまったらしい。
 後始末が大変だと、当事者は呑気に笑った。
 きっと今頃、嵐の守護者は頭を抱えて唸っている違いない。昔から嫌いだった相手に少なからず同情して、雲雀は中空に浮かせた右手を握り、広げた。
 感覚はかなり戻りつつあった。熱も下がっている。ただ身体は疲労を訴え、もう暫く休むよう告げていた。
「それで。診断結果は」
「熱中症による脱水症状、だそうです」
「…………」
 問えば、真顔で返された。行儀よく正座した青年にあっけらかんと教えられて、雲雀はぐうの音も出なくて押し黙った。
 さっと顔を背け、目を瞑る。若干のいたたまれなさに苦闘していたら、またもやクスクス笑われた。
「あんまり寝てなかったんでしょう。仕方ないですよ」
「草壁の奴」
「怒らないであげてください。発見が遅れていたら、危なかったんですから」
 一生を捧げると誓った主人が突然倒れたのだ、草壁が慌てるのも無理はない。気が動転して会話にならなかった空港での通話を思い出し、彼は拗ねてしまった雲雀の肩を撫でた。
 それでも機嫌は治らず、雲雀は多忙の身で駆けつけてくれた青年に背を向け続けた。
「小動物」
「ちゃんと睡眠とって、食事して。ゆっくり休んでいれば、すぐ良くなりますよ」
 ちりん、ちりん、と風鈴が鳴った。その透明な音色を損ねることなく告げて、ドン・ボンゴレは湿気て重くなっている黒髪を梳いた。
 いつもは触らせてもらえない頭に手を伸ばし、ぽんぽん、と軽く叩いて慰める。そしてゆっくり立ち上がり、濡れタオルを乗せた盆を抱きかかえた。
「みんなには、夏風邪ってことにしておきます」
「好きにすれば」
「ちょっと待っててください。そろそろ凍ってると思うので」
 話の筋が読めない。突然彼方へと飛んだ話題にぎょっとして振り向けば、まんまと罠に引っかかった雲雀を笑い、綱吉は目尻を下げた。
 そのまま何も言わず、敷居を跨いで外廊下へと出てしまう。障子戸は開け放たれ、軒先ではガラスの風鈴が、風を受けてのんびりそよいでいた。
 トタトタと響く足音もやがて遠くなり、雲雀は浮かせた頭を枕へ戻した。
「情けない」
 よもや熱中症で倒れるなど、末代までの恥だ。
 確かにここ最近、眠りは浅かった。食欲も沸かない。病臥に伏す兆候は、言われてみればそこかしこに散らばっていた。
 体調管理がなってないと指摘されたら、反論出来ない。大人しく現状を受け入れて、雲雀は吹き抜ける風の涼しさに目を閉じた。
 呼吸を鎮め、意識を空に溶かす。けれど神経が尖っているのか、眠りは落ちてこなかった。
 代わりに、騒々しい足音が聞こえた。徐々に近づいてくる気配にかぶりを振り、雲雀は仕方なく瞼を持ち上げた。
「お待たせしました」
 息せき切らして戻ってきたのは綱吉で、手にはこげ茶色の盆が握られていた。笑顔で運ばれてきたものは、ガラスの器と、銀色のスプーンだった。
 底の浅い小鉢に、丸々とした何かが盛りつけられていた。食べ物だろう、ほんのり甘い香りが辺りを漂う。器の色艶も手伝って、見た目にも涼しかった。
 その正体が何か、雲雀は胡乱げに目で問いかけた。けれど綱吉は答えず、嬉しそうに頬を緩めて銀の匙を手に取った。
「どうぞ」
 一口分を削り取り、差し出す。金属に触れた傍から溶けていくそれは、良く冷えた氷菓子だった。
 軒に立てかけられた葦簀越しの光を浴びて、細かな粒がきらきら輝いていた。角ばっていたものがみるみる丸くなっていくのを目の当たりにして、雲雀はゆっくり身を起こすと、コクリと喉を鳴らし、恐る恐る口を開いた。
 綱吉が絶妙な加減で匙を前に出し、そして引き抜いた。ひんやりした感触だけが舌先に残されて、それもあっという間に消えてなくなった。
 仄かに甘い香りが、内側から鼻腔を擽った。覚えがある味に、雲雀は嗚呼、と頷いた。
「桃?」
「はい。草壁さんが、たくさん用意してくれましたから」
 二口目を匙で取り、綱吉が正解だと顔を綻ばせた。大人しく食べさせられている雲雀を楽しげに見つめて、休みなく手を動かす。
 シャクシャクと氷を崩す音が断続的に続き、そこに風鈴の風雅な音色が重なった。
「あまい」
「固形物はまだ辛いでしょうし、ただ水を飲むだけ、ってのも味気ないですからね」
「君が作ったの」
「はい。……と言いたいところですけれど、残念ながら」
 膝を起こし、雲雀は布団の上で姿勢を作り直した。楽な体勢で綱吉を待ち、まるで餌をねだる雛鳥のように口を開く。
 噛み砕く必要のない桃のシャーベットを飲み込んで、彼は濡れた唇を指でなぞった。
 右から左へ、嫣然と。最後にちろりと舌を出し、湿り気を奪い取って妖しく微笑む。
 昼間から艶っぽい仕草を見せられて、綱吉の手はいつの間にか止まっていた。
「溶けるよ」
「え? あ、ああ」
 器の縁にスプーンを引っ掻けたまま、ぽかんとしていた彼を呼ぶ。一瞬後に我に返った綱吉を笑って、雲雀は行儀よく座る恋人に視線を投げた。
 目が合った。
 首筋に、チリッ、と電流が走った。
 緊張が空気を伝い、近からず、遠からずの相手へと駆けていく。雲雀は警戒する綱吉をクツクツ笑い飛ばし、甘い、甘いシャーベットを強請った。
「まだ?」
「ちょっと待ってください。溶けちゃって、掬い難くて」
「僕は別に、こっちの桃でも良いんだけど?」
「うひっ!」
 口を開け、親鳥を待つ。そんな珍しい態度に戸惑いつつ急ぎ匙を動かした彼は、直後に伸びてきた手に尻を撫でられて飛び上がった。
 器の中で氷菓の山が崩れ、雫が跳ねた。カチャカチャ音立てるスプーンごとガラスの小鉢を抱きしめて、真っ赤になった青年は琥珀の瞳を潤ませた。
 下を向けば、雲雀が不遜に笑っていた。
 とんだ悪戯な手があったものだ。病人であっても油断ならないと肩を落とし、綱吉はシャーベットを安全な場所へ避難させ、入れ替わりに盆を持ち上げた。
 そして。
「いたっ」
 きちんと加減して、平らな面を雲雀の額へ叩き付けた。
 小気味の良い音が響いた。いつまでも引かない盆を退かすべく、雲雀が仕方なく腕を引っ込める。暖簾を押し上げる風に脇へずらされて、綱吉は出てきた不機嫌な顔を呵々と笑い飛ばした。
「やるようになったじゃない」
「ヒバリさんが悪いんでしょう」
「減るものじゃなし」
 そこに触り心地も抜群な桃尻があったのだ、据え膳を食わずしてどこが男か。
 不貞腐れて愚痴を零し、雲雀は拗ねてそっぽを向いた。黒髪から覗く赤い耳朶に苦笑を禁じ得ず、綱吉は残っていたシャーベットを器から掬い取った。
「我慢してるの、自分だけだと思わないでくださいね」
 スプーンを口に含んだまま告げて、起き上がる。盆を手に立つ青年を振り返り、雲雀は些か驚いた様子で目を丸くした。
 数秒の沈黙を経て、彼は上掛け布団を引き寄せた。
 肩まで被り、四肢の力を抜く。瞼を閉ざした男に相好を崩し、綱吉は引き抜いた匙を空の器に投げた。
「予定、三日分丸々なくなったんで」
「ゆっくりしていくと良いよ」
「はい」
 顔を伏したまま雲雀が言った。
 抑揚に乏しい無感情な、いかにも堪えていると分かる囁きに頷き、綱吉は嬉しそうに微笑んだ。