黄水仙

 カランカラン、と鈴の音が響いた。
「ありがとうございましたー」
 僅かに遅れて、軽やかな女性店員の高い声が影山の背中を押した。思わず前のめりになって顔を伏して、彼はそそくさと店を出た。
 肩から提げた鞄を揺らし、猫背気味に道を進む。追いかけて来る影など有りはしないけれど、足取りは自然と速くなった。
 競歩並みの速度で突き進んで、彼は見えた角を右に曲がった。
 あまりの勢いの良さに、犬を連れた散歩中の男性に驚かれてしまった。小型犬にも姦しく吠えられたが無視して更に進んで、赤信号に引っかかってようやく立ち止まる。
 肩で息を整えて、彼は温い唾を飲み込んだ。
 顔を上げて、信号が変わるまでの時間を数える。車の数は少なく、無視して渡っても問題なさそうな交差点だった。
 だというのに律儀に交通規則を守って、影山はポケットに突っ込んでいた右手を引き抜いた。
 袖捲りした黒のジャージは、所属している部活動のものだ。背面には白抜きで、烏野高校排球部の文字が記されていた。
 鞄はリュックタイプでないので、傍から丸見えだ。看板を背負って歩いているようなものであり、目立つ行動は避けたかった。
「は~……」
 深く長い溜息を吐いて、影山は背筋を伸ばした。形よく引き締まった脛を惜しげもなく晒して、黒ジャージにショートパンツ姿の青年はポケットから引き抜いたものを前にがっくり肩を落とした。
 顔の前に高く掲げたもの、それは小さなキーホルダーだった。
 金色の留め具には細い鎖が繋がれていた。更にその先には色鮮やかなビーズと共に、親指大の球体が結び付けられていた。
 ビー玉だ。
 色は、オレンジ。中には気泡のひとつも含まれておらず、光に透かせば向こう側が見渡せた。
 一部分だけ色を含んだ景色を前に見て、影山はそれを大事に握りしめた。
 金属のひんやりした感触が、一瞬だけ掌に襲い掛かった。
「買っちまった」
 瞬く間に温くなるビー玉を閉じ込めたまま、ぼそりと呟く。表情は苦々しげで、後悔が窺えた。
 けれど今更、店に返却することも出来ない。突発的な自分の行動にため息を繰り返して、彼は手の中の物をポケットに戻した。
 気が付けば信号は変わっていた。慌てて横断歩道に踏み出して、青色が点滅する前に道を渡り切る。
 ポケットの中では鎖が擦れ合い、チャリチャリと可愛らしい音を立てていた。
 どこからどう見ても、女子向けのキーホルダーだった。
 だというのに、買ってしまった。文房具を選びに行った筈なのに、レジに出していたのはこの小さな飾り玉だった。
 店員に『彼女へのプレゼントですか?』と訊かれて、それで我に返った。必死に否定して、けれど贈り物だというのはどうしても違うと言えなくて、梱包も断って出て来てしまった。
 絶対変に思われた。思い返して顔を赤くして、影山は火照って熱い頬を右手で隠した。
「くっそ。なんだって俺が、こんな」
 悪態をつくが、聞いてくれる相手は居ない。ひとりごちて落ち込んで、彼は路面の小石を蹴り飛ばした。
 今日は土曜日。部の練習は、午後からの予定だった。
 影山が所属する烏野高校男子排球部は、先日行われたインターハイ予選で善戦虚しく敗退した。全国大会に行く、という目標の下、一致団結して頑張ってきたのだが、一歩どころか五歩も六歩も及ばなかった。
 だからといって、そこで腐ってしまえるほど、彼は諦めが良くなかった。
 目の前に高い壁があるのなら、壊す方法を探すだけ。乗り越える術を模索し続けるだけだ。
 そしてそのきっかけを与えてくれるだろう、東京遠征が目前に控えていた。
 井の中の蛙のままではいられない。他県の強豪校と対戦できるのなら、挑まないわけがなかった。
 但しその前に、期末試験が控えていた。
 こちらもまた、是が非でも倒さなければならない強大な壁だった。
 勝率は、かなり悪い。味方の援護を受けてはいるものの、それでも五分五分に行くかどうか、だった。
 なんといっても、この時期になっても教科分のノートが揃っていなかったのだ。どれだけやる気がなかったのか、これだけで十二分に分かるというものだ。
 その事実を知られ、部長からこってり絞られたのを思い出す。部活後の体育館で、正座しての説教は、かなり脚に来た。
 二度とあんな思いをしたくなくて、練習前に買い物に行ったはずなのに。
 どうして本来の目的を忘れ、違うものを購入してしまったのか。
 ファンシー系のグッズも扱っている店を選んだのが、そもそもの失敗だった。
 けれど第一に、小耳に挟んだ話を思い出したのが、なによりも悪い。オレンジ色のビー玉を使ったキーホルダーを見て、顔が浮かんでしまったのが最大の要因だった。
 瞼の裏に現れた笑顔に向かって舌打ちして、影山は苛々しながらポケットを叩いた。布越しに固い感触を確かめて、胸に渦巻く後悔に顔を歪める。
 買ってしまったものは、もう仕方がない。その点は潔く諦め、認めるしかなかった。
 残る問題は、これをどうやって渡すか、だ。
「月島なんかに見られたら、何言われっか分かったもんじゃねーしな」
 ごそごそとポケットを探り、再度取り出したキーホルダーに向かって愚痴を零す。頭の浮かんだのは、同じ一年生のミドルブロッカーだった。
 嫌味な性格で、何かにつけて絡んでくるから嫌いだった。身長も彼の方が高くて、見下ろされるのが癪に障った。
 いかなる理由であれ、これを持っていると月島に知られたら、からかわれるのは目に見えている。自分用でなく、人へ贈るものだと気付かれたら、尚更に。
 いやらしく目を細めて笑われる未来を想像していたら、胃の辺りがむかむかして来た。こめかみには青筋が走り、噛み締めた顎がギリギリ音を立てた。
「うお、やっべ」
 うっかり手の中の物も握り潰してしまうところで、寸前で気付いて慌てて手を広げる。幸いにもキーホルダーは無事で、針金で作られた籠も歪んでいなかった。
 ビー玉はその中に収められ、コロコロと無邪気に転がっていた。
 この色が、似ていると思ったのだ。
 同じようなデザインのものが沢山並べられている中で、何故かこれだけが輝いて見えた。呼ばれている気がして、無意識に掴んでいた。
 手に取った後も妙にしっくり来て、棚に戻すことが出来なかった。
 こんなに小さいのに、結構いい値段がした。当分、自動販売機で購入する牛乳は、一日一パックまでと制限しなければならない。
 それでも買わなければ良かったとは思えなくて、影山は鈍痛を訴える頭に指を添えた。
 嫌なのは、誰かに知られる事。
 そしてどうやって渡せば良いか、分からない事。
 受け取ってもらえるかどうか微妙なところ。
 どうしてこれにしたのか、訊かれた際に答えられないこと。
「どうすっかなー……」
 悩み過ぎてぐるぐる回る頭を抱え込み、影山は学校に続く道を急いだ。
 今日は六月二十一日。それは影山にとって最も大切で、愛おしい存在の誕生日でもあった。
 名前は、日向翔陽。同じ烏野高校に通う一年生で、同じ男子排球部に所属する、長く絶望と焦燥のただ中にいた影山を明るい方向へ引っ張り上げた張本人だ。
 名は体を表すとはよく言ったもので、彼は飛び抜けに陽気で、屈託がなく、馬鹿で、お調子者だった。
 運動神経は抜群で、背の低さを補って余りある跳躍力の持ち主だ。体力も底なしで、なによりバレーボールに真摯で、真面目で、やる気と根性は影山にも負けなかった。
 何事にも真正面からぶつかっていって、簡単には諦めない。そのがむしゃらさは時に人をイラつかせるけれど、決して揺らがない心の強さは、途方もなく眩しかった。
 そんな彼が、今日、一年生で誰よりも先に誕生日を迎えた。
 その一週間ほど前が三年生の菅原の誕生日で、そこから話が広がって、今日だというのを教えられた。
 寝耳に水だったので、とにかく驚いた。
 そんなこんなで、部のメンバーはほぼ全員、今日が何の日かを知っている。上級生から特に可愛がられている日向だから、きっと大勢から、色々なプレゼントをもらう事だろう。月島はどうか分からないが、もうひとりの一年生である山口は律儀だから、共同名義で何か買っているかもしれなかった。
 自分だけなにもなし、というのは避けたくて、必死になって考えた。けれど思いつかずに当日になって、つい今しがた、このキーホルダーを購入した。
「喜ぶ……か。アイツだし」
 上級生はもっといいものを用意していそうだ。気が利く人たちが多いので、実用的で、日向が喜びそうなものをリサーチして、準備している事だろう。
 それに比べて自分は、と軽く落ち込んで、影山は人差し指から垂らした鎖を揺らした。
 差し出せば、気に入るかどうかは別として、受け取ってはくれるだろう。この三ヶ月で知った日向の性格を思い返して、彼は力なく肩を落とした。
「で、どうすっかな」
 隠したところで、いずれ日向の口から真実は知られる事となろう。どんな顔をして買ったのかと、月島に茶化されるのはほぼ確定だ。
 しかしそれが今日になるのは、是が非でも回避したかった。
 となれば、日向がひとりの時間帯を狙うしかない。但し練習が始まった後は分のみんなが常に一緒だし、練習後も勉強会があるので、思うほど簡単ではなかった。
 あと少ししたら、期末テストだ。そちらにも頭を悩ませなければならなくて、考えるだけで憂鬱になった。
「はー……」
 ノートやボールペンや、タオルやサポーターのような、ありきたりなものにすれば良かった。沢山あっても困るものではないから、誰かとプレゼントが被ったって構わなかったのに。
 唯一無二を渡したい、などという不釣り合いな欲望に耳を傾けるのではなかった。慣れない事はするべきでない、を痛感して、彼は遠くに見え始めた景色に目を細めた。
 見上げた先には、目的地である烏野高校の校舎が聳え立っていた。
 高台にある学校なので、遠くからでも目に付きやすい。ただ男子排球部が根城にしている第二体育館は、この位置からでは見えなかった。
 今日は午前中、別の部が使用しているので、早く着いて自主練習するのは無理、と言われていた。だというのに時計を見れば、まだ十二時にもなっていなかった。
 授業は最初から予定されておらず、格好は既に練習着だ。部室で着替える必要はない。昼食は、母に頼んで弁当を用意して貰った。
 もっともそれを食べても、練習開始時間には遠く及ばなかった。
 外でストレッチでもして、暇を潰すしかなさそうだ。力み過ぎて空回っている自分自身を意識して、影山は両手をポケットにねじ込んだ。
 流石の日向も、まだ来てはいないだろう。坂ノ下商店の前を抜けて坂道を登りながら、彼は後ろを振り返った。
 追随する人の影はなかった。それにホッとして、同時にがっかりして、影山は次の一歩を踏み出した。
 鈍い足取りで傾斜の緩い坂を進み、正門を目指す。土曜日だけれど部活は当たり前のようにあるので、門扉は開かれ、施錠されていなかった。
 耳を澄ませばグラウンドで練習中の、サッカー部らしき掛け声が聞こえて来た。
「バレーしてえなあ」
 ああいう雄叫びを聞いていると、自分も身体を動かしたくなってくる。うずうずするのを止められなくて、彼はぼそりと呟き、駐輪場の入り口を素通りした。
 そして三歩行きかけて、出した足を勢いよく引っ込め振り返った。
「なにやってんだ!」
 声も張り上げ、怒鳴る。路上だというのも忘れて目を剥いた彼に、烏野高校専用駐輪場の出入り口にいた少年は困った顔で頬を掻いた。
 正門の少し手前にあるスペースは、奥に広い作りだった。校舎よりも一段低くなった場所にあり、雨避けの屋根が綺麗に列を成していた。
 本日の利用者は少なく、そのスペースは大半が空いていた。数少ない停車中の自転車の中には、影山が良く知るシルエットも含まれていた。
 毎日山越えを強いられているママチャリを遠くに見つけて、視線を手前に戻す。呆気に取られる影山の前で、日向は照れ臭そうに首を竦めた。
 彼は駐輪場の入り口に凭れる形でしゃがみ込んで、携帯電話を握り締めていた。
 バックライトが消える直前に見えた画面から、メールを書いている途中だったらしい。宙を泳いだ親指は結局どこにも着地せず、縦長だった端末は真ん中で小さく折り畳まれた。
 昨今主流になっている、大型液晶画面が自慢のタイプとは違う。余談だが影山が親に持たされているのも、日向と同じ、通話機能が主体のものだ。
「え、えーっと」
 勇ましく振り向いた体勢のまま固まっている影山に、日向は目を泳がせ、言葉を濁らせた。
 屈んだまま立ち上がろうとせず、動こうともしない。瞳だけが右往左往して、宙を彷徨っていた。
 大きな日蔭はなく、南から直射日光が降り注いでいた。当然、携帯電話を操る手元は明るすぎるくらいだった。
 こんな環境下で弄っていたら、目を悪くする。そんな事、子供だって知っているというのに。
「おい、日向」
 返事がないのに焦れて、影山は大股に一歩戻った。
 地面を揺さぶりかねない凄まじいプレッシャーに、叱られた少年がびくっ、と肩を震わせた。大仰に居竦んで冷や汗をだらだら流し、大慌てで立ち上がって携帯電話は鞄のポケットへ押し込む。
 もっとも、それで影山の怒りが収まるわけがない。彼は奥歯をギリギリ噛み締めて、居心地悪げに身をよじったチームメイトを睨んだ。
 日向は完全に萎縮していた。ただでさえ小さめの背が余計縮んで見えて、影山は額を覆うと天を仰いだ。
「なにやってんだ、お前は」
「いや、なにって、言うか」
 気温は、じわじわと上がり始めていた。
 本格的な夏はまだだけれど、熱中症になる可能性はゼロではない。むしろ油断している今頃の時期の方が、危険度は高いくらいだった。
 直射日光は極力避け、水分補給を忘れず、塩分も適度に補充して、休息を挟む。スポーツ選手は身体が資本であり、体調管理の重要性は非常に高かった。
 だというのに、この体たらく。呆れてものも言えないと肩を落とし、影山は力なく首を振った。
 そんな彼を不満そうに睨み、日向は頬を膨らませた。
「にぶちん」
「なんか言ったか?」
 ぼそっと吐き出した罵倒は、本人には届かなかった。聞き取れなかった影山は右の眉を持ち上げて、そっぽを向かれて憤慨した。
「日向」
「べつにー。チャリ漕いでる間にいっぱいメール来てたから、返事してただけだしー?」
 拳を作って振り上げるが、殴る真似はしない。そうやって一歩引いたところに佇む彼に口を尖らせて、日向は誰かを真似て嫌味たらしく言葉を繰った。
 わざと神経に触るように、語尾を上げ気味にして言い放つ。それが月島の口調と良く似ていたものだから、腹立たしさは二倍だった。
「ああ、そうかよ」
 けれどその苛立ちを上手く説明出来なくて、影山は投げやりに怒鳴った。荒っぽく足元を蹴り飛ばして砂利を踏み、正門に向き直って大股に歩き始める。
 後ろで日向が一瞬青くなり、慌てふためいて足踏みしているのにも気付かない。振り向きもせず門扉を潜り抜けて、彼は埃っぽい地面に唾を吐いた。
 どうしていつも、喧嘩腰になってしまうのだろう。皆のように彼に優しくしたいのに、何故か本人を前にすると上手く立ち回れなかった。
 気が付けば怒鳴り声をあげて、偉そうなことを言ってしまう。そんなだから日向も反発して、余計に口論が酷くなるのだ。
 菅原から指摘されて、気を付けるようにしていたのに。いつだって後から思い出して、やってしまったと頭を抱え込むばかりだ。
 自然とため息が零れて、背中が丸くなった。ジャージのポケットに両手を押し込んで俯いて、影山は足取りを緩めてペースを落とした。
 とぼとぼ、という表現がぴったりくる背中だった。
「影山!」
「っ」
 そこへ不意に声が飛んできて、彼は大仰に震えあがった。
 反射的に振り向こうとして、右肘をビクつかせる。ポケットから半端に引き抜いた手が、中に入っていたものに引っかかった。
 布と皮膚に挟まれたキーホルダーが、摩擦をものともせずに滑って行く。あろうことか手首の骨の出っ張りに金網の籠がすっぽりはまり込んで、慌てて掴もうとするけれども間に合わなかった。
 鎖に繋がれたビー玉が、キラキラ光りながら地面に落ちていった。
「影山、待てって。おれ、ホントはお前に――あれ?」
 追いかけて来たのは、日向だった。小走りに、息を弾ませて、声を張り上げて近づいて来て、直前でスピードを落とす。
 彼の目にもビー玉の光は見えて、不思議そうに首を傾げた。
「落ちたけど」
「分かってるっての」
 なかなか拾おうとしない影山に眉を顰め、足元を指さす。それで我に返った影山は荒っぽく怒鳴り、身を屈めて腕を伸ばした。
 砂を被っている鎖を抓み、付着した汚れを軽く叩いて落とす。最中に揺れたビー玉が光を集め、チカ、チカ、と眩しく輝いた。
 オレンジ色の輝きが、地面に伸びる影の中でも踊っていた。
「なに、それ。キレーだな」
 それを眺め、日向がうっとりと呟いた。もっと近くで見ようと身を乗り出し、興味津々に覗き込んで来た。
 真ん丸の目を大きく見開き、口元も興奮で緩んでいた。お蔭でキーホルダーを引っ込められなくて、影山は戸惑い、苦虫を噛み潰したような顔を作った。
 今なら渡せる気がした。
 周囲には誰も居ない。日向も関心を示している。これほどの好機がこの後もあるとは、とても思えなかった。
 だというのに、言葉が出て来なかった。
 お前にやる、とただ一言。それだけ告げるだけで充分なのに、緊張で全神経が硬直し、筋肉は麻痺していた。
 首筋を温い汗が滑り落ちていった。口の中はカラカラに干上がって、息継ぎひとつもままならなかった。
 顔が勝手に赤くなっていくのが分かる。頭の天辺からは湯気が噴き出し、地上にありながら茹でられている気分だった。
「……っ!」
 その時。
 突如頭上で、カラスが鳴いた。
 カァ、と甲高く嘶き、漆黒の翼を広げて空へ舞いあがった。
 どん、と背中を強く押された。勿論錯覚だが、この時は本気でそう感じた。
「うっ」
 心臓が戦慄き、息が止まった。金具を抓む指が緩んで、垂れ下がっていたビー玉が大きく跳ねた。
 地球の重力に惹かれて、キーホルダーが影山の手を離れた。
「あぶな!」
 それに驚き、日向が咄嗟に両手を差し出した。
 類稀な反射神経の良さを発揮して、影山の腰辺りで見事、無事に受け止める。素肌に踊ったひんやりした感触に安堵の息を吐き、彼は頬を緩めて肩を竦めた。
「気をつけろよな」
 影山のおっちょこちょいぶりを笑って茶化し、銀色の留め具を抓んで差し出す。けれど彼は顎を引き、ふるふると首を横に振った。
 受け取りを拒否されて、日向は不思議そうに目を瞬かせた。
「影山?」
「いや。……いい。やる」
「はい?」
「お前に。その、今日だろ、誕生日」
「へ?」
 その真っ直ぐで純真な眼差しが痛くて、影山は口元を手で隠して顔を背けた。赤みを強める耳を黒髪から覗かせて、しどろもどろに、たどたどしく呟く。
 いつもの威勢の良さが嘘のように、力の抜けた声だった。喉の奥で押し潰したような、小さすぎて非常に聞き取り辛い言葉に目をぱちくりさせて、日向は自分の右手に移動したオレンジ色のビー玉に視線を落とした。
 それは太陽を閉じ込めたかのような輝きを放ち、期待の眼差しで彼を見つめていた。
「え?」
 綺麗で、可愛らしく、それなりに良いお値段がしそうな品だった。無骨で仏頂面の男には似つかわしくなくて、だからこそ日向は信じられなかった。
 素っ頓狂な声を上げて背筋を戦慄かせ、彼は恥ずかしそうに佇む背高の男に唖然とした。
 影山が、これを。
 日向の誕生日プレゼントにするために。
 店に出向き、選び、レジへ持って行った。
 それ自体が奇跡だ。
「――ぶはっ」
 店員の前で挙動不審な行動を取る彼が楽に想像出来て、耐えられなかった。堪らず盛大に噴き出して、日向は左手で腹を抱え込んだ。
「お前!」
 勿論影山は憤慨し、声を大にして叫んだ。握り拳を震わせて、火が点いたように真っ赤になって奥歯を噛み鳴らす。
 今にも飛びかかって来そうな雰囲気に肩を震わせて、日向は自然と浮かんだ涙で睫毛を濡らした。
「ごめっ、ごめんって。でも、うひゃ、影山が……これ。これって」
 いったい彼は、どんな顔をして店に出向いたのだろう。真剣に選んでいる横顔を思い描くだけで腹が捩れて、横隔膜が痙攣して息が出来なかった。
 軽く呼吸困難を起こした彼に肩を怒らせ、影山は我慢ならずに手を伸ばした。
「要らねえんなら、返せ」
「やだ。貰うに決まってんだろ」
 贈ったものを取り返そうと腕を振り、日向を攻撃する。だが軽々と躱された。バックステップで避けた日向は声を高くして叫び、影山から渡されたキーホルダーを両手に閉じ込めた。
 大事そうに胸に抱きしめて、幸せそうに微笑みさえする。
 一切の力みのない笑顔を目の当たりにして、影山が深追い出来るわけがなかった。
「……チッ」
 そんな顔をされたら、もう手が出せない。予定が大幅に狂ったがなんとか渡すのには成功して、影山はホッとしたような、ちょっと悔しいような微妙な気分で舌打ちした。
 不満が残る横顔に相好を崩して、日向はキーホルダーを掲げ、光に翳した。
「あんがと。すげー嬉しい」
 改めてじっくり眺めて、相好を崩す。祝福メッセージはメールで沢山受け取っているけれど、実際に物を渡されたのはこれが初めてだった。
 もっとも、嬉しい理由はそれだけではない。あの無骨な影山が真剣に悩んで、選んでくれた事の方が百万倍、心に響いた。
「なあ。これ、どこで買ったの?」
「……駅前んとこの、文具屋の」
「あー。あそこかあ」
 陽光を反射してキラキラ眩しいビー玉に目を細め、尋ねる。隠し通せるとは思っていなかった影山は正直に答え、日向は場所に見当をつけて鷹揚に頷いた。
 こんなものも売っているのかと感心して、針金の籠を小突く。ゆらゆら当て所なく揺れているそれを愛おしげに撫でて、彼は何かを思いついたのか、唐突に伸びあがった。
 一瞬で距離を詰められ、影山はビクッと身を竦ませた。
「ひなた?」
「なあ、これってさ。他にもあった?」
「あ?」
 ギョッとして訝しげに見返せば、爛々と目を輝かせながら訊かれた。咄嗟に意味が理解出来なかった影山は絶句して、じりじり迫る少年をそれとなく押し返した。
 この近さは不味い。首を擡げた雄としての欲望に急ぎ蓋をして、彼はチームメイトから一定の距離を取った。
 だというのに人の気も知らないで、日向は折角広げた空間を埋めに掛かった。
 しつこく付きまとい、教えろと言って聞かない。影山が折れるしかなくて、彼は力なく項垂れると、首肯して黒髪を掻き回した。
「あった。赤とか、黄色とか」
「黒っぽいのは?」
「は? それは……覚えてねえ」
 留め具や鎖の形状は全て同じで、針金に閉じ込められたビー玉の色だけが違っていた。記憶を手繰って顎を小突いた彼に、日向は緩慢に相槌を打ち、手の中のキーホルダーをまじまじと見つめた。
 裏返しても、見た目は変わらない。小さな掌には光が集まり、ダイヤモンドが煌めいているようだった。
「日向?」
「ちょっと行ってくる」
「はああ!?」
 その輝きをじっと見つめて、日向は突然宣言した。握り拳を作って瞬時に反転した彼に驚き、影山は裏返った声を張り上げた。
 呆気に取られて立ち尽くす彼を残し、オレンジ色の髪の少年は一目散に駆け出した。両腕を前後に振り回し、駐輪場目指して砂煙を巻き上げる。
 取り残されて、影山は数回、瞬きを繰り返した。
「なんだ……?」
 いつものことだが、日向の考えることはよく分からない。行動は突飛で、常識が通用しなかった。
「黒っぽいの、か」
 追いかけて走る真似はせず、彼が遺した言葉を振り返って考える。引っかかる単語があるとすればそれくらいで、影山は小首を傾げ、顎に指を添えた。
 下向いた眼が、黒一色のジャージを映し出した。
 上に目を転じれば、伸び気味の前髪が視界に飛び込んできた。再度足元を見れば短い影が、北を向いて真っ直ぐ伸びていた。
「黒」
 そもそも日向は、何故あんな妙な場所に居たのだろう。学校に着いたなら部室に向かえばいいものを、日差しが降り注ぐ中、正門よりも手前の駐輪場などで。
 通りかかる人など殆どいないのに。
 居るとしたら、せいぜい午後から部活がある高校生くらい。そして真っ先にあそこを通るのは、誰よりも練習熱心な影山で。
「――あれ?」
 そういえば日向は、何かを言いかけていた。
 本当は、お前に、と。
 後に続くはずだった言葉は、なんだろう。あの時彼は、何を言おうとしていたのだろう。
「夢見過ぎだろ、俺」
 想像して、影山は赤くなった。恥ずかしさに身体を火照らせ、有り得ない、と空想の産物を必死に否定する。
 けれど妄想するのは自由だと、耳元で悪魔が囁いた。
「くっそ。後で覚えてろ」
 悪態をつき、影山は唸った。頭の中では日向の声で、彼に言われたかった台詞が繰り返し反響し続けた。
 今日は誕生日だから、一番にお前に会いたかった、などと。
 あまりにも都合良すぎる解釈に照れて首を振り、部室へ行こうと気持ちを切り替える。
 それから、数時間後。
 練習を終えて、勉強会を終えて帰宅の途に就いた影山は、何とも言えない表情を浮かべていた。
 気を抜けば頬が緩んで、月島には散々気味悪がられた。けれど今日ばかりは、彼と喧嘩をする気も起こらなかった。
 前を行く、日向の鞄。
 自転車を押しながら山口と雑談する彼の鞄の端には、オレンジと黒に見えなくもない濃紺のビー玉が、仲睦まじげに結ばれていた。

2014/06/20 脱稿