紅雀

 風薫る五月が終わり、六月に入った。インターハイ予選も滞りなく終了して、続けて受験という大きな壁が目の前に現れた。
 これまでは見えていたけれど、顔を背けていたものが、いつの間にかすぐ間近に迫っていた。部活動と勉強と左右に吊るした天秤が揺らめき、どちらか片方を選ぶよう、声を張り上げた。
 それを真っ向から殴り返して、肩で息を整える。どうしてどちらも選ぶ、という道を進ませてくれないのかと詰り、痛くて堪らない拳を胸に抱きかかえる。
 不安がないわけではない。心の奥底ではまだ迷っている。けれどやり尽くした、と胸を張って言い切れるかと問われたら、頷くなんて無理だった。
 いずれきちんと向き合わなければならないと知りつつも、思いは鬩ぎ合い、葛藤は消えなかった。
 あまり考えていて楽しい話ではない。お蔭で足取りまで重かった。楽しげなクラスメイトの群れを離れ、菅原は陰鬱な表情で階段を下った。
 上履きの底で廊下を削り、下駄箱が並ぶ昇降口へ向かう。衣替えが終わったというのもあって、視界は白で溢れていた。
 日蔭に入るとまだ肌寒いので、上着を羽織る女生徒も何人かいた。男子でも、長袖シャツを着用している生徒が数人見受けられた。だが冬服の、あの分厚くて野暮ったい学生服を着込んでいる学生は、ひとりとして残っていなかった。
 黒の学ランに憧れて烏野高校に入学した後輩には怒られそうだが、男子もブレザーにすればいいのに、と時々思う。女子の分だけ数年前にデザインが新しくなったというのに、男子は創立当時のままだというのは、不公平ではなかろうか。
 もっとも、思うだけで口にしたりはしない。だったら生徒会に立候補して、生徒から支持を集めて云々と言われたくないからだ。
 そんな暇があったら、後輩に奪われた正セッターの地位を取り戻すために練習したかった。少しでも長くコートの中に立っていられるように、研鑽を重ねたかった。
 結局のところ、どれだけ悩んだってそこに落ち着く。自分も脳みそまで筋肉だったかと苦笑して、菅原は下駄箱から靴を取り出した。
 一年生の頃より、二年生の頃よりずっと、三年生になった今の方が充実していた。皮肉なもので、前より数倍練習熱心になった気がする。
 もっと早く、やる気を出しておけばよかった。そこだけは後悔して、彼は靴を履き替えた。
 昼休みとあって昇降口は混みあい、先を急ぐ生徒で溢れていた。
 人ごみをすり抜けるようにして、表を目指す。上履きを下駄箱に押し込んで向かった陽だまりは、穏やかな温もりに満ちていた。
 嗚呼、悪くない。
 空は曇りがちで、その分陽射しが弱かった。足元に落ちる影は薄い。気温はあまり上がらないだろう。
 雨の心配はなさそうだ。出がけに見た天気予報を思い浮かべて、菅原は急ぎ正門へ向かった。
 今日の昼飯は、坂ノ下商店で買うと決めていた。
 弁当はあったのだが、二時間目が終わってからの休憩時間に食べてしまった。だからこの時間に食べるものがなにもない。胃袋は落ち着いているものの、周りから良い匂いが漂う中で、ひとり口寂しく過ごすのも虚しかった。
 午後の授業だってある。放課後は部活だ。食べられるのなら、今のうちに食べておきたかった。
 幸い、資金は豊潤にあった。学食は味に不満で、しかも唐辛子が常備されていない。購買も同様だ。
 だったらちょっと歩かなければいけないが、種類が豊富な坂ノ下商店に行くのが最善ではなかろうか。
 あの店が学校の近くにあって良かった――胃袋的にも、バレーボール的にも。
 まさか入学以来通い詰めていたあの店の店員が、少しだけ指導を受けたことのある猛将の孫だとは知らなかった。人間、意外に身近なところで繋がっている。世の中は不思議の連続だった。
 どこかで聞いた事があるようなフレーズを思い浮かべ、菅原は道を急いだ。買うつもりでいる品物は、味の好み的にほかの学生と競合になる危険性は低いながら、売り切れてしまう可能性はゼロではなかった。
 正門を潜り抜け、学校の敷地を出て公道に足を伸ばす。強い風が吹き抜け、正面から受け止めた菅原が緩い傾斜を勇ましく駆け出そうとした矢先だ。
「菅原さん!」
 唐突に、後ろから呼びかけられた。
 全く予想していなかった出来事に、体が前につんのめった。転びそうになったのをすんでのところで回避して、彼は冷や汗を流して振り返った。
 雑多に人が行き交う昇降口の正面に、良く知る少年が立っていた。
 足を肩幅に広げて肩を怒らせ、首を竦める姿はさながら仁王像だ。勇ましく吠えている後輩を視界に入れて、菅原は身体ごと向き直った。
「日向?」
 烏野高校男子排球部所属、ポジションはミドルブロッカー。身長百六十二センチで正気かと言われがちな一年生は、正真正銘、烏野の救世主だった。
 動物的な身のこなしに、人間離れした俊敏さと脚力を武器として、コート内を縦横無尽に駆け回る。囮としての役割はもちろんの事、誰も追い付けない超速攻が、彼の持ち味だった。
 もっともそれも、同じ一年生セッターの影山が居て初めて成り立つ攻撃だ。菅原は、日向の速攻に応じられるトスを上げられない。
 それが悔しいと思いつつ、どこかで諦めている自分がいる。真似出来ない、敵わないと、心の底で認めていた。
 それでも悪足掻きを続けて、前を見据えて歩みを止めない。うらやましいくらいに眩しくて、一生懸命な後輩に情けない格好は見せられないのだから。
 そんな、出来るなら立派な背中を見せてやりたい筆頭格に、呼び止められた。嫌に勇ましく構えている日向に小首を傾げて、菅原は通行人に道を譲った。
 左に避けている間に、力んでいた日向が駆け寄ってきた。タタタ、と足音が聞こえてくるような動きで近づいて、必要ないのに背伸びをして下から覗き込んできた。
「菅原さん、坂ノ下ですか?」
「え? ああ、うん。そう」
 鼻息荒い質問は、主要な言葉がかなり欠けていた。
 これから坂ノ下商店に買い物に行くのか、と訊きたいのだろう。頭の中で足りない言葉を補って、菅原は緩慢に頷いた。
 瞬間、何故か日向の目がキラキラと輝いた。
「ああ、これは……」
 嬉しそうに頬を緩め、満面の笑みを浮かべて小さくガッツポーズさえ作る。興奮気味に喜んでいる姿を眺め、菅原はたらりと冷や汗を流した。
 今の目は、なにかを期待している眼だ。そしてその何かとは、つまり。
 食べ物。
 体格の割に食欲旺盛なこの一年生は、お陰で常時金欠だった。
 小遣いが少ないのではない。単純に、使い過ぎているだけだ。
 欲しいモノを、欲しいと思った時に購入して、計画性など皆無。当然、小遣い帳だってつけていない。
 痩せ細った財布を前に愕然としている光景を、これまで何度見かけた事か。その度に可哀想になって、菅原はなにかと彼に恵んでやっていた。
 今回も、それを狙っているのだろう。頼られるのは嬉しいが、あまりにも露骨すぎてちょっと悲しかった。
「まったく」
 それでも物欲しげな顔をされたら、甘やかしてしまうに違いない。
 これではいけないと思いつつ、どうにも出来ない。今年の一年生は四人で、他の三人が全員菅原以上の身長という可愛げのなさだけに、日向ひとりを偏愛してしまうのは仕方のないことだった。
「日向は、弁当は?」
「もう食べちゃいました」
「やっぱり?」
 鞄の半分近くを占めている大きな弁当箱は、どこへ行ってしまったのか。念のためと問うた菅原に、日向は元気よく声を張り上げた。
 勇ましく敬礼のポーズを取り、呵々と笑う。つられて菅原も相好を崩して、ふたりは並んで正門を潜った。横に広い空間を抜け出して、傾斜角の緩い坂を下って行く。
「菅原さんは、今日は何、食べるんですか?」
「俺? そうだなー。どうしようかな」
 左にカーブする道を進み、向かいからやって来た人を避けて路肩に移動する。最中に問われた菅原は、一瞬悩んで顎に指を添えた。
 空腹ではないけれど、詰め込めば入るはずだ。反対の手で実際に腹を撫でて、彼は何やら意気込んでいる後輩に視線を流した。
 目が合った。頬を紅潮させた一年生は、直後にぱっと顔を背けた。
「あれ?」
 いつもなら嬉しそうに微笑んでくれるのに、今日は反応が違う。珍しい事もあるものだが、原因は思い当たらず、菅原は戸惑いに眉を寄せた。
 しかし考え込むより早く、目的地に着いてしまった。
 自動販売機に挟まれた入口は、冬場と違って開けっ放しになっていた。透明なガラス戸の向こう側は広く、棚がいくつも並んでいた。
 この時間帯、客は烏野高校の学生ばかりだ。店側もそれを承知で品揃えを充実させており、会計も、混雑を避けるためにレジがふたつに増やされていた。
 もっとも、ピーク時は過ぎた後らしい。行列は解消されており、出来てもせいぜい二、三人だった。
 排球部コーチの烏養の姿もあった。いつものようにエプロンをして、事務的に会計業務に勤しんでいた。
「お邪魔しまーす」
「しゃーっす」
 そんな忙しそうなコーチに軽く挨拶して、敷居を跨ぐ。菅原に続いて店に入った日向の声を受けて、強面顔の男が顔を上げた。
 仕事中なので、煙草は咥えていない。ふたりを見て「おう」と短く挨拶を返して、烏養はすぐに作業に戻ってしまった。
 仕方がないとはいえ、つれない態度には苦笑するしかない。肩を竦め、菅原は目を細めた。
「日向は何食べたい?」
 そうして斜め後ろをついて回る後輩に向け、当たり前のように訊ねた。
 けれど、待てど暮らせど、返事がなかった。
「あれ?」
 聞こえなかったのかと疑い、肩越しに振り返る。だが居ると思っていた日向は、とっくに姿をくらましていた。
 今、自分は誰に向かって喋りかけていたのか。全く気付いていなかったのが恥ずかしくて赤くなり、菅原は誤魔化すように咳払いを繰り返した。
「んっ、ぶふっ、ンン!」
 丸めた右手を口元へ持っていき、喉の調子が悪いと見せかけて何度も息む。頬がほんのり色づいているのもその所為だと言い訳をして、本気で気管支が可笑しくなりそうになって腕を下ろす。
 開襟シャツから覗く喉仏を軽く撫でて息を整えていたら、例の後輩がひょっこり、棚の影から顔を出した。
「菅原さん、風邪ですか?」
「いや、なんでもないよ。ちょっと噎せただけ」
 心配そうに問いかけられて、罪悪感が胸を撫でた。余計な気を遣わせてしまったと自分の行動にため息をついて、菅原は大丈夫だと右手を振った。
 取り繕うように微笑めば、日向は信じた。声は聞こえなかったものの、唇の動きは『よかった』と囁いていた。
 菅原はレギュラーメンバーではないので、試合になってもベンチスタートだ。
 相手チームのレシーブを崩すような強烈なサーブは打てないし、日向の持ち味を存分に生かすトスも出せない。それでも必要とされ、大切に思われているのが感じられて、くすぐったくてならなかった。
「日向は、何食べたいんだ?」
 気を取り直し、届け損ねた質問を再度繰り出す。目を見ながら口ずさんだ菅原に、日向は驚いたのか、どんぐり眼を丸くした。
「ん?」
「あ、いえ。菅原さんこそ、今日は、どうするんですか?」
「俺? 俺は、んー……」
 このやり取りは、さっきもやった。あの時は答える前に店に着いてしまったので有耶無耶になったが、今はその心配がない。
 視線を浮かせて考え込んで、菅原は慣れた店内をゆっくり進み始めた。
「確か、こっち……と。あった」
 日向と合流する前に、頭に思い浮かべていたもの。食料品が並ぶ棚を突き進んで彼が辿り着いたのは、インスタントラーメンが群れ成す一角だった。
 その、一番下。非常に目立たない場所に手を伸ばし、菅原は赤が際立つパッケージを手に取った。
 軽く折った膝を伸ばし、覗き込んできた日向にも見せてやる。微妙に毒々しい色合いを目の当たりにして、少年は何を感じたか、眉間に深い皺を刻んだ。
 菅原が選び取ったのは、ただでさえ辛いラーメンを更に辛くした、超激辛ラーメンだった。
 蓋部分の解説文を信じるなら、麺にまで唐辛子を練り込んであるらしい。スープは一口飲めば舌が焼け、唇が腫れ上がる事請け合いだ。
 そんな見るからに痛そうな食べ物を手に、烏野高校男子排球部副部長は嬉しそうに顔を綻ばせた。
 泣き黒子の目を細めて相好を崩した先輩に、日向は味を想像して口を押えた。
「それって、確か」
「そっか。日向は前に、ちょっと食べた事あるな」
 声も震えていた。まだ会計も、開封もしていないのに既に及び腰になっている後輩に破顔一笑して、菅原はその時のやり取りを脳裏に呼び起こした。
 少し前の昼休みに、部室で、日向は菅原からラーメンをひと口分けてもらった。直後、彼は文字通り火を噴いて倒れた。
 最初はさほど辛くないと思った。だが、ダメだった。麺を噛み千切って飲み込んだ直後に口の中が爆発して、唇は三倍近くに腫れ上がった。
 とてもではないが、人が食べるものではない。だのに菅原は平然とスープを啜り、美味そうに最後の一滴まで飲み干していた。
 信じ難いものを見た。あれからしばらく、日向は飲み食いだけでなく、喋る事すらままならなかったというのに。
「大袈裟なんだからー」
 じりじり後退していく後輩を呵々と笑い、菅原はカップ麺に向き直って満足げに頷いた。
 高校入学当初、坂ノ下商店はこの商品を扱っていなかった。入荷するようになったのは、毎日のように頭を下げに来た菅原の努力のたまものだ。
 満面の笑みを浮かべて幸せそうな彼をげんなりしながら眺めて、日向はふと目に入った商品を、大慌てで掴み取った。
「菅原さん、あの、これ!」
「ん?」
「食べますか!」
 辛い物トークに走ると、菅原は止まらない。とてもついて行けないと焦り、急いで話題の転換を図る。
 甲高い大声に振り返った菅原が見たのは、小さな手に鷲掴みにされたブロックタイプの栄養補助食品だった。
 ぱさぱさしたクッキー状の塊で、小腹が空いた時などには重宝する。だが生憎、今は必要ない。
「いや、食べないけど……なんで?」
 ラーメンがあるのだから、これで十分だ。大丈夫だと首を横に振った菅原に、日向は何故か目に見えてがっかりと肩を落とした。
 商品を棚へ戻し、とぼとぼとその向こう側へ歩いていく。てっきり買ってくれるよう強請って来ると思っていた菅原は、予想に反した展開にきょとんとなった。
「ひなた?」
 名前を呼んでみるが、返事はない。手元に残ったラーメンと、日向が消えた棚とを交互に見比べ、菅原は首を捻った。
 どうしたのだろう。彼の様子は、いつもとどこか違っていた。
 具合が悪そうな雰囲気はなかったけれど、心配になった。後を追いかけて隣の陳列棚に向かえば、後輩は真剣な顔をして、猫背気味に商品棚を睨みつけていた。
「ったく」
 日向が立っていたのは、チョコレートやクッキーといった菓子類が並ぶ一帯だった。
 オーソドックスな定番品から、最近発売されたばかりの新商品まで。品数は豊富で、より取り見取りだった。
 そんな棚を端から端まで吟味している彼に肩を竦め、菅原は先に自分の会計を済ませようとレジへ向かった。
「菅原さん!」
「うおっ、と」
 それを寸前で制して、日向が不意に声を高くした。
 完全に油断していた。またしてもつんのめって転びそうになって、菅原は片足立ちで何度か飛び跳ねた。
 跳ね上がった心臓がどくん、どくんと五月蠅い。冷や汗が首筋を流れ、目を丸くした三年生は妙に鼻息が荒い一年生に眉を顰めた。
「これ、食べませんか」
 その日向が、昔からある菓子を手に真剣な顔で訴える。握られていたのは、細長いクッキー生地にチョコレートを塗したものだった。
 赤色主体のパッケージは、激辛ラーメンと違って爽やかだ。それを顔の前にずい、と突き付けられて、菅原は困惑して目を泳がせた。
「……食べたいのか?」
 今一つ分からない訊き方だが、強請られていると思うべきなのだろうか。
 どうにも確信が持てなくて、自信無さげに尋ね返す。すると日向は腕を引っ込め、残念そうに菓子を戻した。
 欲しがっているわけではなかったらしい。言動不一致の後輩を怪訝に見つめ、菅原は妙にしょんぼりしている日向に肩を竦めた。
「どうしたんだ、さっきから」
 人に食べたいものを訊ねたり、勧めたり。なにか理由があると勘繰って水を向ければ、俯いていた日向が瞳だけを持ち上げた。
 拗ねているのか口を尖らせ、もぞもぞ身を捩ってから遠慮がちに手を伸ばす。シャツの裾を引っ張られ、菅原は彼に向き直った。
「ん?」
 それでもなかなか喋ろうとしない彼を促し、訊く体勢を作る。短気な影山と違って辛抱強く待つ先輩を仰いで、日向はようやく、おずおず口を開いた。
 シャツを抓む指先に力が籠った。皺が大きくなって、布が引っ張られる感覚がウェストを駆けた。
「今日、菅原さん」
「うん」
「誕生日、だって……」
「え?」
 声は小さく、今にも消えてしまいそうなほどに弱々しかった。
 顔を伏して俯いた少年の、右に渦を巻く旋毛が見えた。吃驚して目を丸くして、菅原は続ける言葉に迷って口を開閉させた。
 確かに今日は、菅原の誕生日だった。
 しかしそれほど大騒ぎするものではないからと、後輩たちには教えていない。ただ同級生は知っている。そういえば朝練の後、部室で澤村に祝われた。
 プレゼントも特になくて、軽い調子で礼を返した。それで終わったつもりだったのだが、日向に聞かれていたらしい。
「え、と。……え?」
 落ち込んでしょぼくれている後輩に、戸惑いを隠せない。誕生日からどうしてこうなったかの流れも想像つかなくて、困惑は否めなかった。
 動揺を露わに声を上擦らせ、意味もなく両手をあたふた振り回す。目を泳がせて言葉を探している彼を仰ぎ見て、日向は手を引くと、膨れ面で口を尖らせた。
「おれ、いつも、菅原さんに奢って貰ってばっかりだから」
「それって、えーっと。あー……」
 ぼそぼそ呟く声は聞き取り辛かったが、どうにか全部拾えた。頭の中で素早くパズルを組み立てて、菅原はようやく合点が行ったと胸を撫で下ろした。
 つまり日向は、日頃の感謝をこめて、菅原に何かを贈ろうと思っていたのだ。
 いつもと逆のことをして、礼を尽くそうとした。あまり高いものは無理だからと、食べ物に絞ってプレゼントを選んでみた。
 しかし悉く断られてしまって、落ち込んでいると。
 要点をまとめると、詰まるところそういう事だろう。
 菅原は辛い物が好きだが、日向は苦手だ。本人は妹がいるから、と否定していたが、出前で寿司を頼む時はいつもワサビ抜きだそうだ。
 菅原が喜んで食べてくれて、自分もちょっとはお零れにあずかれるものを。そういう基準で選ぼうとして、失敗した。
 不貞腐れた表情から色々な情報を読み取って、菅原は照れ臭そうに微笑んだ。
「サンキュ」
 全く期待していなかっただけに、気持ちだけで十分嬉しかった。
 祝おうとした、その想いだけで胸がいっぱいだった。
「でもなー、別に構わないぞ?」
 確かに何かもらえるのならそれに越したことはないが、無理をしてまで買って欲しいとは思わない。日向が常時金欠なのは、菅原も重々承知していた。
 だから別段構わないと言おうとしたのだけれど、日向は納得しかねるのか、ぶすっと頬を膨らませた。
「ヤです」
「ひなた……」
「だって。おれだって、菅原さんにお祝いしたい!」
 頑として譲らず、大声で叫ぶ。レジにいた烏養が何事かと振り返り、店内が一瞬騒然となった。
 注目を集め、菅原は首を竦めた。騒ぐと怒られるからと手を振って息巻く後輩を宥めて、困った顔でため息を吐く。
 額に落ちる前髪を掻き上げて、彼はゆるゆる首を振った。
 そういえば日向は、頑固なのだった。
 柔軟性に富んでいるかと思えば、意地を張って梃子でも動かない事もあった。頭が固いわけではないのだけれど、納得できないことは絶対にしないと、そういう意志の強さが根底にあった。
 だからどんなに言葉を駆使して説得しても、聞き入れたりしないだろう。荒々しい輝きの双眸に肩を竦めて、菅原は頬を緩めた。
 苦笑を浮かべ、目を泳がせる。左右を見回して陳列棚を確認して、握り拳で身構えている後輩を残し、歩き出す。
「菅原さん」
 唐突に動き始めた彼に驚き、日向は慌てて後を追いかけた。
 その菅原は、調味料などが並ぶ一角で足を止めると、半眼して顎を撫でた。
「えーっと、……ん。あった」
 瞳を彷徨わせ、なにかを見つけ出して摘み取る。先頭にあったものを掌に転がして、おもむろに日向へと放り投げる。
「ほれ」
「うわ、とぅ」
 山なりの弧を描いたそれが落ちてきて、日向は急いで両手を広げた。胸の前で無事キャッチして、さほど重くないそれを凝視する。
 赤色の蓋がついた寸胴の小瓶には、日向も見覚えがあった。
「これ、菅原さん」
「だったら、俺は、それがいいな」
 それは一味唐辛子だった。
 うどんやソバや、色々な料理に振り掛けたり、味のアクセントに足したりする調味料の一種。その需要は激辛ラーメンよりは高いらしく、見易い場所に置かれていた。
 受け取った物と菅原を交互に見比べて、日向はなんとも言えない表情を作った。
 事情を告白したら、リクエストされた。だが求められたのは、思い描いていたものと随分違っていた。
 おそらくは、そんなことを考えているのだろう。思っていることが顔にすぐ出る後輩に相好を崩して、菅原は不満げな一年生の額を小突いた。
「俺、すぐ使いきっちゃうからさ」
 この店の商品の中で、最も使用頻度が高いのはこれだろう。
 だから一味唐辛子を贈ってもらえたら、とても嬉しい。
 そう言って納得しかねている後輩を諭し、笑いかける。そこまで言われたら承諾するしかなくて、日向は渋々頷いた。
 値段は、それほど高くない。財布には良心的だと貼られた値札を見て、彼は残念そうにため息を吐いた。
 そんな、露骨にがっかりしている後輩に微笑んで。
「それにこれなら、日向も使えるだろ?」
 なにも大量に振り掛ける必要はない。ちょっと味に変化をつけたい時、アクセントを加えたい時などに、一振り加えるだけでいい。
 辛いのが苦手なら、少しずつ慣れていけばいい。それ以前に、誰かと一緒に食べるのは、楽しい。
「部室に置いとくからさ」
 今日は無理かもしれないけれど、また今度。
 近いうちに。
「な?」
 みんなには内緒だと囁いて、悪戯っぽく目を細める。
 人差し指を口に押し当てた菅原に、日向は最初ぽかんとして、直ぐに目を輝かせ頷いた。

2014/06/08 脱稿