I’m With Stupid

 巨大な水柱が立ち上がり、大きな波が高速で水面を走った。浴槽の縁を乗り越えた温い湯は一斉に直角の崖を滑り落ち、即席の滝は一瞬で消え失せた。
 濡れた壁に反響する水音は、数秒経てば静かになった。肩や首筋を叩いていた細波も落ち着いて、降谷はほっと、息を吐いた。
「ふはー。やっぱ風呂はいいなあ」
 ところがその静寂を破り、鼻歌でも歌いだしそうな呑気な声が聞こえてきた。折角心安らげると思っていたのに乱されて、彼は不機嫌を隠さず眉を顰めた。
「ねえ」
「はー、ビバドンド……って。ン?」
 案の定、なんだかよく分からない歌を口ずさみ始めた彼に、低い声で呼びかける。反応は芳しくなく、返事まで数秒待たなければならなかった。
 振り向かれ、また水面が波立った。跳ねた水滴が顎に当たって、降谷は鬱陶しそうに雫を払い除けた。
 周囲には湯気が薄く幕を張り、壁に取り付けられた鏡はどれも曇っていた。誰かが使った後にきちんと締めなかった蛇口からは水が滴り落ち、ぴちゃん、と冷たそうな音がこだました。
 窓は閉め切られ、風の音は聞こえない。沈殿する空気は過分に湿り、肌にしっとり貼り付いて離れなかった。
 青道高校野球部専用寮の浴室は、一時の喧騒を忘れてひっそり静まり返っていた。
 寮生の大半は既に入浴を済ませ、今頃部屋で寛いでいる頃だ。時計の針は着実に前に進み、消灯時間までのカウントダウンを続けていた。
 本当ならこの風呂場も、電気が消されているべき頃合いだった。しかし一部の生徒が遅くまで自主練習に勤しんでいる為、特別に湯も抜かれず、温かいまま保持されていた。
 その恩恵を受けて、降谷はひとり静かに風呂を楽しむつもりでいたのだけれど。
「ンだよ」
 どうしてなのか、他の人よりずっと遅い時間帯にかかわらず、同じタイミングで湯船に浸かる男がいた。
 降谷に負けないくらいに不機嫌な声を出したのは、同じ学年の、同じポジションのチームメイトだった。
 右利きと左利きの違い、速球派と変化球派の違いこそあれど、ピッチャーであることに変わりはない。ひとつだけのマウンド、たったひとつの背番号を争う間柄の相手と仲良く湯船に浸かる義理は、降谷にはなかった。
 もっともそれは、あちらも同じだ。話しかけられた方も不機嫌を隠そうとせず、面白くないとでも言いたげに口を尖らせた。
 窄めた唇から息を吐き、目を平らにして睨みつけてくる。ただ迫力があるとは、お世辞にも言えなかった。
「なんで今入ってるの」
「ああ? そういうテメーこそ、なんでこんなに遅いんだよ」
 湯に沈めていた腕を浮かせ、水面を下から叩く。ぱしゃっ、と弾かれた水滴が小気味の良い音を響かせたが、それは不躾な大声に掻き消されてしまった。
 折角の音色を台無しにされて、不満が一気に膨らんだ。降谷は不機嫌を隠しもせず頬を膨らませ、図らずも入浴時間が被ってしまった相手にため息を吐いた。
「自主練、してたし」
「俺だってそうだよ」
「僕は、御幸先輩に受けてもらってた」
「ぬあっ。なんだとあの野郎!」
 直後、ザバッと大きな音が轟き、目の前に壁が出来上がった。
 湯船から立ち上がった沢村の怒号に、降谷も顔を上げた。彼はすっかり逞しくなった太腿を惜しげもなく晒して、濡れた肌に光を集めていた。
 肩から上腕にかけての筋肉も引き締まり、全体的に見てバランスが良い。日頃からたっぷり走り込みをしているので、その成果が表れているのだろう。
 翻って自分はどうかと振り返り、降谷は湯から引き抜いた右肘を直角に曲げた。
 筋肉自慢の部員が見せてくれるような力瘤は、待てど暮らせど、現れなかった。
 神妙な顔をして上腕の皮を摘んでいる降谷を、ひとりで憤慨していた沢村も怪訝に思ったらしい。水の抵抗を振り切って蹴り上げた足を下ろし、首を傾げた。
「なにやってんだ、お前」
「三百秒」
「は?」
「御幸先輩に、お前は風呂に入ったら三百数えるまで出るな、って言われた」
「……はい?」
 あまり伸びない皮膚を抓る彼に尋ね、質問とはかけ離れた回答に益々変な顔をする。意味を理解するのに数秒を要した沢村は、真剣な表情の降谷をじっと見つめた末、嗚呼、と頷いた。
 そしてしおらしく膝を折り、波立つ湯船へと身を沈めた。
「勘違いすんじゃねーぞ。俺は別に、テメーに言われたからじゃなくて」
「……」
「無視すんな、コラ!」
 その上で余所を見ながらぼそぼそ言われ、一方的に怒鳴られた。握り拳を突き上げた彼に降谷は一瞥を加え、波立てぬよう顎まで湯船に沈めた。
 口に水が入らないよう注意しつつ、沢村に左肩を向ける形でじっと座り込む。微動だにせず、相手にもしない彼に焦れたのか、騒々しいサウスポーはひっきりなしに温い湯をかき混ぜた。
 だがバシャバシャ言う音も、そう長くは続かなかった。
「ンだよ。俺だって、投げたかった」
「来ればよかったのに」
「だったら呼びに来いよな」
「頼まれてなかったから」
「ぶー」
 その代わりに恨み節が聞こえて来て、降谷はちらりとそちらに目を向けた。沢村は肩まで湯に浸かって、何もない空間を睨みつけていた。
 部としての練習後、夕飯から入浴までの自由時間。
 降谷は屋内練習場で、ひとりフォームの確認をしていた。そこへたまたま、正捕手である御幸が通りかかって、機嫌が良かったのだろう、ミットを構えて座ってくれた。
 その間、沢村はずっとグラウンドでタイヤを引いて走っていたらしい。
 湯船の中の彼は時折脹脛、そして太腿を揉んでは膝を伸ばし、爪先に向かってぐっと身体を折り畳んだ。その度に水面がざわめき、荒々しい波が押し寄せてきたが、これはあまり不快に感じなかった。
 透明な湯を手で掬い、彼は小さな水たまりにふっ、と息を吹きかけた。
「……なに?」
 冷めた湯を顔に浴びせかけ、鼻先を伝った雫を拭い取る。視線を感じて振り返れば、物言いたげな眼がふたつ、狭くはないが広くもない湯船に浮かんでいた。
 湿っていながら跳ねている黒髪を掻き上げて、沢村は苛立たしげに舌打ちした。
「まだかよ」
 機嫌が悪いのか、声がいつになく荒っぽい。それでいながらやや高めのトーンに、降谷は首を捻った。
「なにが?」
 質問の意味が理解出来なくて、素直に聞き返す。途端に沢村は愕然とした様子でぽかんと口を開き、数秒後に犬を真似てぶんぶん首を振った。
 完全に水と化した雫が飛んできて、降谷はその冷たさにむすっと口を尖らせた。
 左手を湯船から引き出して盾の代わりにし、構えを作って眼力を強める。そういう反応が気に食わなかったのか、沢村もまた、剣呑な目つきで応戦した。
「だから、三百秒!」
「ああ」
 その上で怒鳴られて、ようやく合点がいった降谷はぽん、と呑気に手を叩いた。
 そういえば、そうだった。
 なにか忘れている気がしていたが、間違いなくそのことだ。そんな、無事に思い出せたことをまず喜んでいる降谷に唖然として、沢村は濡れた手で顔面を覆い隠した。
「数えてたんじゃねーのかよ」
 シャワーで身体を洗うだけで終わらせず、きっちり湯船に浸かって身体を温めて疲れを取る事。その忠告は、沢村も以前に受けていた。
 それなのに守っていなかったのを、降谷経由で御幸に知られたら困る。だから我慢して耐えていたのに、これでは風呂を出るに出られない。
 かといって、今から新たに三百秒を追加するのも癪だった。
 分単位に換算すればたかが五分だが、体感的にはそれくらい、とっくに過ぎている。長風呂好きの人ならばともかく、烏の行水で済ませがちな人間には、追加の五分は茹だるのに十分な長さだった。
 逆上せそうだ。くらりと来た頭を支え、沢村はどうしたものかと揺れる水面に見入った。
 ゆらゆら泳いで見える身体も、触れてみればしっかり固い。一瞬不安になって太腿を掴んだ彼は、先に上がってはくれないかと剛腕投手に視線を投げた。
 だが降谷はピクリともせず、彫像のようにじっとしていた。
 もしや既に逆上せているのかと勘繰るが、遠くを見据える眼にはまだ力があった。時折開閉する唇の脇を汗が伝い、湿った後れ毛が首筋に貼り付いていた。
「痩せ我慢しやがって」
 それは自分もだが棚に上げ、沢村は我慢比べが続きそうな状況に天を仰いだ。
 それにしても、退屈だった。
 他に誰か居たら会話も弾んだだろうに、降谷が相手では間が持たない。微妙に話がかみ合わないのは実証済みで、お喋り好きの身の上には拷問のような時間だった。
 暇を潰そうにも玩具などなく、ましてやテレビやラジオは期待できない。ぴちゃーん、と洗い場の方から響いた水音に耳を澄ませ、沢村は湯船で胡坐を組んだ。
 楽な姿勢を作り、やおら両手を胸の前で結ぶ。手繰り寄せたのは、幼い頃の記憶だ。
「確か、こう」
 独り言で確認しつつ、指を閉じて掌を重ねあわせる。中央に出来た隙間に水が入らないようしっかり握りしめて、親指を十字に交差させる。
 形が出来たところでゆっくり湯に沈め、直後。
「うひゃは」
 ぴゅっ、と飛び出した細い水柱に、彼は歓喜の悲鳴を上げた。
 まるで鉄砲魚の、水噴射のようだった。しかしこんな湯船に魚がいるわけがなく、また、プラスチック製の玩具が持ち込まれたわけでもない。
 突然視界の端を水が走って、降谷は驚きに目を丸くした。
「おっしゃ。まだまだ腕は鈍ってねーな」
 ガッツポーズを決めた沢村がやったのは明白だが、何をしたのかはさっぱり見当がつかない。道具もないのに、どうやったらあんな真似が出来るのか。不思議で仕方なくて、降谷は呆然と横顔を見つめた。
 その突き刺さる眼差しに、沢村も当然気が付いた。
 嬉しそうに笑っていたのをスッと消して、彼は肩を引いて振り返った。
「ンだよ」
「今の、どうやるの」
「は?」
 沢村的には、子供じみていると笑い飛ばされる覚悟でいたらしい。警戒しながら突っかかってきた彼は、抑揚に乏しい問いかけにきょとんとなった。
 素早く瞬きを繰り返し、右側に陣取るチームメイトをじっと見やる。
 その三秒後。頭の中の整理を済ませた沢村はニヤリ、という擬音がぴったり来そうな笑みを浮かべた。
「なんだよ、お前。やったことねえの?」
 明らかに馬鹿にした表情で水面を思い切り叩き、彼はずい、と身を乗り出した。近付かれ、降谷は一瞬の躊躇の末に頷いた。
「知らない」
「へーえ。親父さんとかと一緒に風呂入ったりしねーの」
「あんまり、記憶にない」
「んじゃ、しょうがねーか」
 正直に認めれば、沢村は更に距離を詰めて呟いた。固い浴槽の床を確かめながらゆっくり進んで、膝がぶつかる寸前で動きを止める。
 足を伸ばして座り直し、両手を広げて何も持っていないのを降谷に示す。合計十本の指はふやけており、指紋の皺が面白い事になっていた。
 胼胝の痕があった。手の甲から手首の一帯は日に焼けて黒く、アンダーウェアの袖のラインがくっきり表れていた。
「いいか。これを、こうして」
 彼はその濡れた手を軽く振ると、先程と同じように掌を重ねあわせた。
 親指以外の四本を隙間なくぴったり合わせ、手首を九十度の角度でずらす。お互いを抱きしめる格好でぎゅっと握りしめて、クロスさせた親指の間にだけ、小さな空間を残す。
 それを静かに湯船に沈め、親指が水面から顔を出すかどうか、というギリギリの位置で。
 掌に溜め込んだ水を、一気に。
「――ブッ」
 刹那。
 顔面に凄まじい水圧を受け、降谷は鼻腔と喉を焼く痛みに悶絶した。
「うっしゃ!」
 大成功だと笑う沢村の声が聞こえた。一瞬何が起きたのか分からなくて、降谷は両手で顔を覆って大きくかぶりを振った。
 興味津々に聞いていた説明の終盤。実践と称し、沢村はあろうことかチームメイト目掛けて水鉄砲を発射したのだ。
 避ける暇などなかった。顔の中心にまともに食らって、一部が鼻に入って気管の手前まで駆け下りていった。
「ゲホッ」
 咄嗟に防衛本能が働いて、押し返そうと肺が暴れた。噎せて数回咳き込んで、降谷は唾も混じって濡れた口元をぐい、と拳で拭った。
 乱れた息を整え、俯いたまま瞳だけを正面に向ける。湿った前髪越しに見えた沢村は、どこか怯えたような、不安げな表情をしていた。
 真ん丸に見開かれた双眸と、若干色を悪くした肌から、こんな結果になると想定していたのではないと知れた。一寸驚かせるつもりで、悪戯心を働かせたのだろう。
 悪気があっての行動ではない。それは十分伝わって来て、降谷はもうひとつ咳をして両手を湯船に沈めた。
「大丈夫、か?」
「えい」
 がっくり肩を落として項垂れる姿に、心配になった沢村が口を開いた。それを待っていたわけではないのだが、降谷は意気込むと、水中で重ねた両手を思い切り凹ませた。
 だが、何も起こらなかった。狙った通りに水は噴き出さず、水面が僅かに盛り上がっただけだった。
 不安でいっぱいだった沢村も、呆気に取られて目を点にした。
 ふたり揃って波打つ湯船を見下ろし、ほぼ同じタイミングで顔を上げた。お互いきょとんとしたまま首を傾げて、降谷が先に手を泳がせた。
 教えられた通りにやった筈だ。
 それなのに、水鉄砲は不発に終わった。
「あれ」
 おかしい。
 こんなつもりではなかった。
 やられた分、やり返そうと思った。だのに水柱は立たず、何度やっても結果は同じだった。
「……ぶ、くふっ」
 スコッ、スコッ、と空気が水面を撫でる音だけが虚しく響く。そのあまりの間抜けぶりに、堪え切れなくなった沢村が口を押えて噴き出した。
 必死に声を殺すものの、肩は大きく震えており、まるで隠せていない。背中を丸めて小さくなった彼にムッとして、痺れを切らした降谷は指を解き、手を横並びに揃え直した。
 マウンド上で思い切り振りかぶる、いつものフォームではなく。
 下から上へ。例えるなら、ボーリングの球を放り投げる要領で。
 思い切り、腕を振る――
「ぶひゃ!」
 直後、巨大な水の塊に襲われた沢村がみっともない悲鳴を上げた。
 頭から水を被り、ぐっしょり濡れた黒髪が一斉に下を向いた。大量の雫がぼたぼた落ちて水面を叩き、一部が睫毛を越えて目に入った。
 咄嗟に息を止めたので噎せはしなかったが、いきなり水を浴びせられたのだ。沢村の肩の震えが怒りに切り替わるのに、そう時間はかからなかった。
「なにしやがる、テメエ!」
「仕返し」
「ああ?」
 当然のように怒鳴られた。それをしれっとやり過ごして、降谷は目を吊り上げた彼を睨み返した。
 最初に仕掛けてきたのは、沢村だ。目には目を、と昔の人も言っていた。
 だから同じだけ、やり返したに過ぎない。咎められるいわれはないと胸を張れば、沢村の顔はみるみる真っ赤になった。
 正論を返されて、ぐうの音も出ないでいる。だからと言って怒りが収まるわけでもなくて、彼は湯船の底を膝で蹴り、地団太踏んで暴れ出した。
「うっせえ。お前なんか、こうしてやる!」
「ちょっと」
 口では敵わないと観念したらしい。反論を諦めた沢村は雄叫びを上げ、膝立ちになって湯を掬い上げた。
 降谷がやったほどではないけれど、多量の水が宙を舞った。空中で砕けた雫が散らばって、一部を浴びた降谷は咄嗟に後ろに下がって構えを作った。
 僅かに腰を浮かせ、両腕は顔の前で交差させる。第二撃を狙おうとしている沢村をその先に見つけて、彼は利き腕を水面に走らせた。
 横薙ぎに腕を払い、掌だけでなく手首から肘の一帯も使って湯船を削る。広い範囲から反撃を食らい、沢村も慌てて守りに入って奥歯を噛み締めた。
 目や鼻を真っ先に庇って雫を叩き落とし、隙をついて攻撃を放っては、さしたるダメージを与えられずに臍を噛む。バシャバシャと浴槽に大波小波を引き起こして、縁から大量の水が溢れているのにも気付かない。
「こなくそ!」
「やったな」
「へへーん。悔しかったらここまでおいでー」
「ムカツク!」
 一進一退の攻防が続き、水位はどんどん下がっていく。調子に乗って挑発を繰り返す沢村に、降谷は珍しく声を荒らげた。
 腹に力を込め、大きいのを食らわせようと構えを作る。両手を使って水を掻き集める彼を見て、沢村は妨害すべく身体を起こした。
 膝立ちの体勢を改めて、足の裏でしっかり浴槽を踏みしめた。そのまま水上に抜け出して、立ち上がるべく前方へ体重を乗せようと動いた――のだけれど。
「どわっひゃあ」
「――!?」
 ここが湯船の中で、足元が地面に比べてずっと滑りやすいことを、すっかり忘れていた。
 バナナを踏んで転ぶのは漫画だけだが、風呂場で倒れるのは割とよくある話だ。それをまざまざと思い出して、沢村はカクンと折れた膝が導くままに、前のめりに空を舞った。
 もとい、そこにいた降谷目掛けて吹っ飛んだ。
 一方の降谷も、突然の事に驚いて咄嗟に動けなかった。
 助けるべく腕を伸ばすべきか、それともダメージを嫌って回避すべきか。その判断も下せぬうちに、顔面蒼白になった沢村が胸に飛び込んできた。
 もれなく超巨大な水柱が一本立ち上がり、薄れかけていた湯気が一気に濃くなった。風呂場全体に粒の大きな雨が降り注ぎ、半分近くまで湯量の減った湯船が控えめな波を立てた。
 目の前が真っ白になって、ぼやけた視界が元に戻るのには結構な時間が必要だった。
「いった……」
「いつ、つぅ~~」
 一瞬、死んだかと思った。湯船に押し倒された降谷は水中から無事に抜け出して呻き、胸元から下半身に掛けて感じる重みに首を振った。
 目を眇め、顎を引く。下を見れば人の脚に跨がった沢村が、膝を抱えて歯を食いしばっていた。
 倒れた際、湯船の底で打ったらしい。だが降谷も彼を受け止めきれなくて、一時期湯船に全身が没していた。
 お蔭で頭の天辺までびしょ濡れで、ひっきりなしに雫を滴らせる頭が鬱陶しくてならなかった。
「ちょっと。重いんだけど」
「うるっせ……つぅぁ~、いってぇ……」
 それに湿って温い肌が重なり合うのは、あまり快いものではない。離れて欲しくて、押しのけようとした降谷だが、中腰になった沢村は話を聞かず、悪態をついては愚痴を零し続けた。
 隙間から覗き見ても、湯の中に沈んでいる彼の膝頭がどうなっているかは分からない。ただ水面から顔を出している尻は形よく引き締まって、逞しい太腿に繋がっていた。
 意外に肉厚でボリュームがある雰囲気に、気が付けば手が伸びていた。
「ふぎゃっ」
 触ったのは無意識だった。勿論撫でられた方も予想しておらず、沢村は突然の事に驚き、裏返った悲鳴を上げた。
 内股になって人の脚を膝で挟み、背筋を伸ばして竦み上がる。顔は熟れたトマトのように真っ赤で、怒鳴りたいのに言葉が出ないのか、口をパクパクさせる姿が滑稽だった。
「へえ」
「ちょ、……触んな!」
「打ったのは膝?」
「って、バカ。動くな」
 思ったほど柔らかくない感触に感嘆の息を漏らし、苦情には耳を貸さずに手を滑らせる。ついでに怪我の具合を見ようとして邪魔な膝を起こせば、沢村が慌てて腰を引いた。
 痛いだろうに無理をする彼を怪訝に見上げ、降谷は構わず、三角に折った膝の角度を強めた。
 直後だった。
 左足、膝関節のすぐ外側。
 骨が出張って固い場所に、ふにゅり、と。
 尻や太腿とは明らかに異なるモノが、当たった。
「あれ」
「ばっ……――!」
 こちらは存外、柔らかい。その奇妙な感触に好奇心が擽られ、触れたものの正体を探ろうと瞳が泳いだ矢先だ。
 沢村が頭から湯気を噴き、甲高い悲鳴を上げた。
 耳の先どころか全身茹で蛸になって、近付こうとした男の胸を思い切り突き飛ばす。
「うわ」
 堪らず後ろにふらついて、降谷は跳ね上がった湯水に目を丸くした。
 ばしゃん、と盛大に音が響いた。王冠状に飛び跳ねた一部が鼻に掛かって、目の前が滲んで見えた。
 尻餅をついた動作が大袈裟だったから、沢村も遣り過ぎたかと不安になったらしい。右往左往した彼は不自然に両手を腰元で交差させ、背中を丸めて口を窄めた。
「や、あ……わ、悪りぃ」
「なんなの、もう」
 しどろもどろの謝罪を受け、降谷は小声で吐き捨てた。
 睫毛に垂れ下がった水滴を拭い、肌に貼り付いた前髪も邪魔だからと掻き上げる。湿った髪は互いに張り付いて、手櫛で梳かれた通りに固まった。
 普段は隠れている額が露わになって、視界が開けた。やっと人心地ついたとホッとして、降谷は前方で凍り付いているチームメイトに首を傾げた。
 沢村はぽかんと間抜けに口を開き、目があった瞬間にハッとして、大慌てで顔を背けた。
 動きのひとつひとつが大仰で、毎度のことながら、挙動不審甚だしかった。
「痛い?」
 それはきっと、膝を打った所為。
 勝手な思い込みで問いかけて、降谷は首を右に倒した。そうして患部を見せるよう、再度促して手を伸ばした。
 投手にとって、下半身は生命線だ。マウンド上で踏ん張る力が足りなければ、ボールにスピードが乗らないし、コントロールも覚束ない。
 だからこそ、降谷も、沢村も、相当な距離を毎日走り込んでいる。
 入学当初はただ辛いだけだったが、結果が目に見える形で表れ始めてからは、あまり苦に感じなくなった。今はスタミナをつける為にも必要な事と、きちんと理解している。
 沢村もそれが分かっているから、遅くまでひとり黙々とタイヤを引いているのだ。
 彼には負けたくなかった。
 不本意なピッチングでマウンドを下ろされて、何度も悔しい思いをしてきた。先発を任される以上、九回まで投げ抜くのが投手の務めなのに、まるで果たせていない。
 その一方で、沢村は崩れかけた試合を幾度も立て直し、チームを勝利に導いてきた。勿論ピンチを招きもするが、なんだかんだで切り抜けている。チームメイトからの人気も高く、彼の周囲はいつだって賑やかだ。
 あまりにも対照的すぎて、羨ましくて、妬ましい。
 ただ彼のようになれないのは、とっくの昔に承知していた。だからマウンドの上で、自分の力を示す事でしか、皆に認めてもらう方法が思いつかない。
 エースになりたい。
 マウンドは誰にも渡さない。
 けれど競争者が不注意で怪我をして、勝手に脱落するのも許せなかった。
 もし自力で立てないくらいに酷いなら、急いで病院を手配して貰わなければならない。もう遅い時間だが、救急センターなら対応してくれるだろう。
「ばっか。大丈夫だから、触んな」
 しかし沢村は大声で喚き、触れられるのを拒否して横薙ぎに腕を払った。
 心配して具合を確かめようとしているだけなのに、嫌がられた。顔を赤くして捲し立てる彼に降谷は眉を顰め、じたばた動き回る邪魔な腕をまず退かしにかかった。
「そうは見えないけど」
 勝気で生意気な瞳は湯気の所為か、それとも痛みから来るものなのか、とにかく潤んでいた。上気した肌は鮮やかな色に染まり、手首を取られた身体は腰砕けに湯船に沈んだ。
 力を失って小さくなる彼を怪訝に見つめ、降谷は眉を顰めた。
 普段からなにかと五月蠅い彼の変調に戸惑い、熱の有無を疑って、残る手で紅に色付く頬を撫でる。
「っや!」
 瞬間、沢村の肩がびくりと跳ねた。嫌がって顔を背け、何かを堪えているのか、ぎゅっと目を瞑って口も閉ざす。
 引き結ばれた唇がか細く震える様に、降谷は眉間の皺を深めた。
 触れた肌は想像通り、仄かに熱を持っていた。生きているのだから当たり前なのに、それが妙に新鮮だった。
 長湯した所為もあり、平均体温よりも少し高めだ。だが寝込む程ではない。短い産毛に湯気が絡みついて、全体的に湿っている。それをゆっくり削り取って、降谷は水面付近まで浮上していた彼の右膝に目を向けた。
「赤い」
「……へ、変なこと言ってんじゃねーよ」
「変?」
 穏やかに波立つ湯船の中に、他よりもずっと赤くなった膝小僧が見えた。血は出ていないが痛そうで、思わず口を突いて出た感想に、何故だか沢村が噛み付いた。
 いったいどこが、変だというのか。
 かなり水位の下がった浴槽を一瞥して、顔を上げる。沢村は相変わらず林檎のように赤くなったまま、左足を横に倒して姿勢を作り直していた。
 なにかを隠そうとしている風にも見えた。もしやほかの場所もぶつけているのかと勘繰って、降谷は剣呑に右の目を吊り上げた。
「ねえ。本当に大丈夫なの」
「そう言ってるじゃねーか。だから、ンな……俺に触ンな!」
 跳ね除けられた左手を湯船に沈め、寝かされた膝を起こそうと水を掻く。それを寸前で気取り、嫌がった沢村が降谷の肩を掴んだ。
 押し返そうと鎖骨のでっぱりに指を引っ掻け、力を込めるが上手くいかない。濡れた肌が思った以上に滑って、行き過ぎた手が肩のラインを越えて背中へと回り込んだ。
 それは傍目には、沢村の方から降谷を引き寄せようとしている風に見えたかもしれない。
「栄純君、降谷君。いる? ふたりとも、いい加減上がった方が――」
 だから風呂が遅い彼らを心配し、わざわざ様子を見にやって来た小湊春一は。
 湯気立つ浴槽の中で、降谷の肩に腕を絡めた沢村と、その沢村に圧し掛かっている降谷を見て。
 即座にピシャリと、磨りガラスの引き戸を閉めた。
 そして。
「お、おっ、おお俺は。何も見てないからね!」
 脱衣所で悲鳴のような叫び声を上げ、足音響かせて慌ただしく去って行った。
 まさに一瞬の出来事だった。
 ドタドタとけたたましい足音が響き、バタン、と勢いよくドアが閉まる音が続いた。途端に辺りは静まり返り、今の喧騒は夢か幻か、と疑いたくなった。
「……なに、今の」
「春っち?」
 取り残された二人は唖然として、誰も居なくなった出入り口を呆然と見つめた。
 何が起こったのか、すぐに理解出来なかった。息つく暇もなかった展開に絶句して、降谷が助けを求める形で視線を戻す。
 直後、目が合った沢村がハッと息を呑んだ。力なく垂らしていた左腕を使って降谷を押し返し、這うようにして彼の下から抜け出す。
「ちょ、違う。春っち、誤解だ~~!」
 そして水を掻き分けながら浴槽の縁に抱きついて、無人の空間へと必死に訴えた。ただ当然応答はなくて、彼は虚しく空を掻く手をパタリと落とし、力なく項垂れて嗚咽を漏らした。
 何が何だか分からなくて、降谷はむすっと口を尖らせた。
「ちょっと。なにが違うのさ」
 足の具合も気になるし、顔が異様に赤いのも、体調が優れない所為ではないかと思う。
 それ以外でも、手で水鉄砲を作る方法が不明なままだ。
 不機嫌に声を荒らげ、降谷は立ち上がった。身体にまとわりつく湯を一斉に落とせば、ザバッ、と響いた音にビクついた沢村が怯えた顔で振り返った。
「ちょ、こ……こっち来んな。このバカ!」
「なにそれ」
「うっせえ。いーから、俺に近づくな!」
 近寄ろうとしたら、全力で拒否された。顔を赤くしたまま喧しく怒鳴り散らされ、水面を叩いて水塊をぶつけられた。
 堪らず降谷が顔を庇った隙に起き上がりって、沢村は湯船から這い出した。そのままタオルも忘れて駆け出して、先程小湊が開けて、閉めたドアを潜って浴室を出て行く。
 ドスンバタンの騒音に眉を顰め、降谷は行き場のなくなった手をぎゅっと握りしめた。
「なんなの」
 真っ赤な顔も、気性の荒い声も。
 火照って熱い肌も、しっとり濡れて潤んだ瞳も。
 昨日までは意識に残りもしなかったものが、瞼の裏に貼り付いて離れなかった。
 意味が分からないと呟き、降谷は落ちてきた前髪を梳き上げた。短く息を吐いて胸の高鳴りを鎮め、自分が持ち込んだタオルと、置き忘れられていたもう一枚を拾い、ひとつに丸めて抱え込む。
「いいや。明日、聞こう」
 沢村は高速で着替えを済ませたらしく、脱衣所からはもう何の音も聞こえなかった。
 だがどうせ、明日になれば嫌でも顔を合わせる事になる。自主練習が長引いて風呂が遅くなるのだって、いつものことだ。
 頭を切り替え、降谷は小さく頷いて脱衣所へ向かった。
 その足取りがいつになく軽いのは、きっと、気のせいではない。

2014/04/19 脱稿