瓶覗

 ふわり、と身体が浮き上がった。
 重力から解放され、目の前いっぱいに天井が広がった。景色はスローモーションで流れ、聴覚は麻痺したのか、何の音も聞こえなかった。
 隣を歩いていたクラスメイトの驚く顔が見えた。踵の潰れた上履きが宙を舞い、空中で一回転するのが分かった。
 階段を登っている最中だった。移動教室の帰りで、一年一組の教室に戻る途中だった。
 前の授業が少し長引いて、お陰で休憩時間が短くなった。美術室は特別教室棟の二階にあって、一年生の教室は、本校舎の四階にある。移動距離は長く、チャイムが鳴る前に帰り着こうと焦っていた。
 胸に抱えていた教科書とノート、それからデッサン用のスケッチブックに筆記用具。それらが次々空に投げ出される様は、まるで映画のワンシーンのようだった。
「日向!」
 クラスメイトの絶叫が響いた。咄嗟に伸ばされた手は虚空を掻き、届かなかった。
 上履きはちゃんと踵まで履くべきだな、と、妙に冷静な頭がそんな結論を弾き出す。一時は近付いたと思われた天井が不意に遠くなって、日向翔陽はゆっくり流れていく時間に口元を歪めた。
 皮肉な笑みを浮かべ、目を閉じる。
 覚悟などなにも出来ていない。しかし不思議と恐怖はなかった。
 直後。
 後頭部に衝撃が走り、意識は途絶えた。

 真っ暗な中を歩いている感じだった。
 何も見えないし、何も聞こえない。冷たさも、温かさも、あらゆる感覚が死に絶えてしまった後のようだった。
 一定間隔で訪れる痛みがなかったら、自分という存在すら認識出来なかったかもしれない。ズキン、ズキンと押し寄せてくる波に眉目を顰めて、日向は歯を食いしばった。
 苦しみから逃れようと躍起になるが、根本原因を取り除かない限り無理だ。ではその原因とはなにかと考えた瞬間、突如視界がぶわっ、と広がった。
「――っ!」
 ドン、と背中を突き飛ばされた錯覚に目を見張り、息苦しさに負けて思い切り咳き込む。全身から汗が噴き出して、ぐっしょり濡れた手が乾いた布を掻き毟った。
「げほっ、は、くぁっ……う」
 息をひとつする度に体中が軋み、あらゆる関節が悲鳴を上げた。肺胞が一斉に活動を再開させて、心臓は爆音を奏でて大量の血液を送り出した。
 内側から焼け焦げてしまいそうで、唾を飲み込むことすら出来ない。堪らず枕に顔を押し当てて、日向は背中を丸めて冷えたシーツを握りしめた。
 一瞬だけ見えた世界は真っ白で、なにがどうなっているのか、さっぱり分からなかった。
「うっ」
 混乱する頭を抱え、芋虫と化してベッド上で丸くなる。途端にズキッ、と来る痛みが再発して、彼は苦しげに呻いた。
 咄嗟に左手を頭上にやるが、触れるまでには至らなかった。腕は途中で力尽き、失速して薄い枕の上に落ちた。
「日向!」
 そして焦りを過分に含んだ絶叫が、鼓膜を貫いた。
 あまりの大声に、痛みが増幅した。相手に悪気がなかったとしても苦悶せざるを得ず、日向は全身をビクつかせて奥歯を噛み締めた。
 顎が砕けるくらいに力を込め、嵐の如く襲い掛かってきた激痛にじっと耐える。汗は止まらず、身にまとったシャツが肌に張り付いて不快だった。
 呼吸もろくに出来ず、鼻の奥がツンとした。固く閉ざした瞼からは涙が滲んで、吐く息は体温の数倍熱を持っていた。
「日向、おい。大丈夫か」
「落ち着け、影山」
 再び真っ暗闇が落ちてきて、このまま沈んでしまいたくなった。けれど横から絶えず呼びかける声が邪魔をして、消えてなくなりたい衝動にブレーキをかけた。
 布団からはみ出した首筋に風を感じた。荒々しい物音がして、金属がぶつかり合う騒音が場に渦巻いた。
 ガタゴトと掻き鳴らされた音も甚だ不愉快でならず、日向は眉間の皺を深くして奥歯を軋ませた。
 上下の臼歯を擦り合わせ、咥内の空気を噛み砕く。久方ぶりに顎を緩めれば、他の部位に込められた力も一斉に抜けていった。
 引き結んでいた唇を解き、肩を上下させて新鮮な空気を存分に堪能する。急き過ぎて逆に機能不全に陥っていた肺は落ち着きを取り戻し、鼓動も速度を落として平常値に近づいた。
 ほっと息を吐き、日向は残る耳鳴りと頭痛にかぶりを振った。
 汗を擦った前髪が額にこびりつき、その感触が気色悪かった。
 手で払いのけるのも億劫で、どうしようかと思案する。しかしその時、伸ばされた誰かの手が優しく耳朶を撫でた。
「う……」
 髪を梳いた指がやがて額に触れて、湿った頭髪を追い払ってくれた。そのまま掌を押し当てられて、まるで全身に蔓延る微熱を吸い取ろうとしているようだった。
 実際冷えた感触が気持ち良くて、険しかった表情も自然と緩んだ。
 不思議と安心感を覚え、心地よさに笑みが零れた。強張っていた筋肉が瞬く間に綻んで、気のせいか、痛みも僅かながら薄れた。
「日向、どう? 大丈夫?」
 話しかけてくる声も優しくて、最初の怒鳴り声とは天と地ほどの差があった。
 しかし、問いかけの内容が、いまいちよく分からない。大丈夫かどうか繰り返し訊かれているが、どう考えたって、そんなわけがなかった。
 頭は割れそうに痛いし、身体のあちこちがギシギシ言って五月蠅かった。熱は引いたが完全ではなく、目を開けて世界を見回すのさえ億劫だった。
 放っておいて欲しい。そんな願いを胸に抱いて、日向はそっと、瞼を持ち上げた。
 涙の所為か、景色は掠れていた。色が滲んだぐにゃぐにゃした世界は、下半分が白で埋まっていた。
「う、……つぅ」
「無茶するな。ゆっくりでいいから」
 ここはいったい、どこだろう。疑問が湧き起り、思考を邪魔する痛みが走った。
 口元が歪んだからか。優しい声は静かに語り掛け、とんとん、と上になった左肩を軽く叩いた。
 穏やかな仕草は、母のそれを思い出させた。風邪をひいて熱を出した時、彼女もよくこんな風に、体のあちこちを撫でて、さすってくれた。
「日向、おい。返事しろ」
「こら、影山。ここは保健室なんだぞ。静かにしなさい」
 その向こうからは、先ほどの罵声の主と、制止役の声が聞こえてきた。
 焦っているようにも感じる怒号と、それを落ち着かせようと叱責する声。更にそこへもう一人分、女性らしき静かな口調が紛れ込んだ。
「目が覚めた?」
「あ、先生」
「それが、どうにも。意識はあると思うんですけど……」
 頭の上で複数の声が交錯し、次々に落ちてきた。
 定期的に痛む頭を使ってなんとか話をまとめようと試みるが、肝心の部分が欠けている所為で上手く繋がらない。いったい誰のことを話しているのだろう。分からなくて混乱し、日向はベッドの上で身を捩った。
 靄がかかっているような景色に目を凝らし、瞬きを繰り返す。次第に明るさを増していく世界は、相変わらず白で溢れていた。
 そこへ。
「日向、しっかりしろ!」
 突然、黒が押し寄せてきた。
「――!」
 唐突過ぎる色調の変化に驚き、思わず仰け反りそうになった。シーツの上でビクッと肩を跳ね上げた日向の前で、身を屈めた男が、悲痛な表情で歯を食いしばっていた。
 シンプルなパイプベッドの脇に立ち、必死に様子を窺って、覗き込んで来た。荒い息が鼻先を掠めて、日向はしばらく、瞬きも出来なかった。
 睨むように見つめられて、まるで蛇を前にした蛙だった。
「おい、影山。なにしてる」
「ああ、もう。日向、具合はどう? 分かる?」
 今にも食われそうな雰囲気に硬直していたら、その黒い男が脇へ追いやられた。
 入れ替わりに話しかけてきたのは、先ほど優しく頭を撫でてくれた青年だった。
 慎重に、言葉を選んで問いかけられた。だが質問内容は相変わらず意味不明で、要領を得なかった。
 日向は当惑し、眉を顰めた。本当は首を傾げたかったのだが、ベッドで横になった状態では難しかった。
 怪訝に辺りを見回し、ベッド際に集まっている人を確認する。総勢四名で、うち三人は男子学生だった。
 揃いの学生服を身に纏い、髪の毛はいずれも短い。ひとりだけ色素が薄めで、ひとりは相変わらず人を睨みつけていた。
 迫力ある眼差しからさっと逃げて、日向は紅一点の女性に目を向けた。
「あの……」
 これはどういう状況なのか。問おうとしたが、言葉が続かなかった。
 頭に響く痛みが、こんなところにまで影響を及ぼしていた。
 舌が上手く回ってくれず、息が上手に吐きだせない。音も掠れて小さくて、これでは相手に届いたかも分からなかった。
 もっと近くから話しかけた方が良いかもしれない。物理的な距離を詰める選択肢を掴み取り、日向は腹筋に力を込めた。
「うぅっ」
 途端に激痛が走った。身体中が引き裂かれ、木っ端微塵に砕けそうになった。
「大人しくしてろって。お前、階段から落ちたんだぞ」
 強烈な苦痛を訴え、喉が引き攣った。悲鳴すら上げられずに突っ伏した彼に、茶髪の青年が慌てた様子で声を荒らげた。
 後ろに控えていた黒髪も騒然となり、瞠目して真っ青になっていた。
 ぶり返した汗が即座に冷えて、気色が悪かった。一時は治まりかけていた頭痛も一気に酷くなり、日向は吐き気を堪えて目を閉じた。
 足りない酸素を必死に掻き集め、唾と一緒に飲み込んで喘ぐ。その合間に瞼を持ち上げれば、心配そうに覗き込んでくる男の姿が見えた。
 どうしてこんな痛い思いをしなければならないのか。
 答えはあっさり判明した。
 階段から落ちたと、青年は言っていた。
 つまり、そういうことだ。自分は足を踏み外し、階段から転げ落ちた。どれくらいの高さからだったのかは記憶にないが、かなりの衝撃が来たのは間違いなかった。
 どなれば、ここは保健室だろう。
 そういえば、あの女性の顔には見覚えがある。視界の大半が白いのも、場所が場所な所以だ。
 穴だらけだったパズルのピースが少しずつ集まって、一枚の絵になろうとしていた。情報が増えるのは気持ちを落ち着かせるのにも役立ち、ひとつひとつ納得する事で、痛みも弱まっていく気がした。
 時間をかけて息を吐いて、日向は四肢を伸ばした。
 耳を澄ませば遠く、チャイムの音が聞こえてきた。それは立っている四名にも届いたようで、うち三名が視線を宙に流した。
「ほらほら、君たちは教室に戻った」
 休み時間が終わったのだ。正当な理由がない限り、学生は教室で授業を受ける義務がある。
 早く戻らなければ遅刻扱いを受けるので、保険医は彼らを急かした。だが三人揃って気もそぞろで、動きは鈍かった。
 ベッドサイドでもたもたしている彼らを、日向も不思議な面持ちで見つめた。ぼんやりした眼差しは焦点が合っておらず、ここではないどこかを彷徨っているようだった。
 それが余計に、彼らを立ち去り難くさせていた。けれどどこかで踏ん切りをつけるしかなくて、麦の穂に似た髪色の青年が真っ先に声を上げた。
「また後で来るな、日向。行こう、大地」
「あ、ああ」
 傍らに立つ、どっしりとした体格の青年を小突き、ひらりと手を振る。促された方も慌てて頷いて、未だ決心がつかない表情のまま右足を退いた。
 後ろ髪引かれつつ踵を返した彼らに、日向は無意識に手を伸ばした。
 深い意図があったのではない。心細かったわけでもない。
 けれど身体が勝手に動いて、空を掻いていた。
 あの時、階段から落ちる直前。
 掴み損ねた友人の手は、ここにはない。
 しかし爪先を掠めたものはあって、反射的に手繰り寄せ、力任せに引っ張る。
「ひなた」
 最後にベッドから離れようとした男がはっとして振り返り、残り二名が怪訝に首を傾げた。
「影山?」
 彼らの位置からだと、日向の手がどうなっているかは角度的に見えない。名を呼ばれた青年は慌てた様子で顔を顰め、眉間に皺を寄せて唇を噛み締めた。
 胸に渦巻く葛藤を鎮め、彼はゆっくり息を吐いた。
「すみません。俺、コイツについててやってもいいですか」
 チャイムはもう鳴った。余韻も消え行こうとしている中、一秒でも無駄にするわけにはいかなかった。
 それなのに我儘を言い出した彼に、他三名は困った様子で顔を見合わせた。
 日向の指は依然厚みのある学生服を抓み、放そうとしなかった。そして掴まれた方はそれを身体で隠し、何故か三人から見えないように身体を動かした。
 苦悩を窺わせる低い声と表情に、最初に白旗を振ったのは意外にも保険医だった。
「しょうがないわね。君、クラスと名前は?」
「一年三組、影山です」
「オッケー。特例で認めてあげる。でも静かにね」
「あざっす!」
「そっちの二人は、行った、いった」
 静かにするよう言われた傍から、大声で礼を言うのはいかがなものか。上級生ふたりは苦笑して、促されて部屋を出た。
 扉が閉まる音が響き、廊下を駆ける足音はすぐに聞こえなくなった。その間も日向は黒い布を握り、手放し難い現実に目を眇めた。
 上級生が教室に戻ったのを見送って、保険医の女性はベッド際に佇む影山に肩を竦めた。
「ちょっとごめんね。気分はどう?」
 動こうとしない彼の肩を軽く押して退かせ、寝台に突っ伏す日向を覗き込む。彼は視線を一周させた上で彼女に焦点を定め、短い躊躇を経て口を尖らせた。
「頭、痛いです」
「でしょうねえ。他はどうかしら。吐き気はある?」
 一番酷かった時よりは幾分楽になったとはいえ、一寸動くだけでもズキズキ来た。瘤が出来ているのは明白で、仰向けに姿勢を作り直す気も起こらなかった。
 ひとつずつ確認していく保険医と、時間をかけてゆっくり返事していく日向を交互に見つめ、影山は居心地悪そうに身じろいだ。
 端へ追いやられた際に、日向の指も解けてしまった。彼に抓まれていた学生服をひっきりなしに弄りながら、黒髪の青年は手持無沙汰に視線を彷徨わせた。
 日向が横になっているベッドは部屋の最奥にあり、残りのベッドは使われていなかった。目隠しのカーテンは手近なところ以外は全開で、レールの端に集められていた。
 見晴らしが良いのは、先ほどまでここに人が居たからだ。
 具合が悪い生徒がゆっくり休めるよう、保健室のベッドには間仕切り用のカーテンがあった。
 人目を避けるべく、白い布で空間を遮蔽する為だ。だが今のところ、その役目は半分も果たされておらず、カーテンは手持無沙汰に揺れていた。
 ひと通り問診を終えた保険医が、袖をめくって時計を確認した。それを横目で窺って、影山はずっと腹に溜め込んでいた質問を、思い切って声に出した。
「あの、先生。こいつ、ホントに大丈夫でしょうか」
「うん?」
 人を指さしながら、妙に切羽詰まった様子で問いかける。訊かれた方は若干怪訝にしながら振り返り、どういう意味かと目で訴えた。
 眼鏡越しの怜悧な眼差しに一瞬臆し、彼は視線を泳がせると、言い難そうに口をもごもごさせた。
 人見知りなのは、相変わらずだ。少しずつ戻り始めた現実味に頬を緩め、日向はチームメイトの挙動不審ぶりに目を細めた。
 階段から落ちた後の記憶は、まるでない。誰が保健室へ運んでくれたのかも、判然としなかった。
 クラスメイトには後で謝ろう。先輩たちにも心配をかけてしまった。
 間抜けなことをしでかしたものだ。まさかあそこで滑るとは、夢にも思わなかった。
 吹っ飛ばした上履きは、そういえばどうなっただろう。誰かが拾っていてくれればいいが、忘れ去られていたら悲惨だ。
 その辺も、確認しなければいけない。気絶している間にどれだけの時間が流れたのかも、未だ不明のままだ。
 聞きたいことは山ほどあった。だが影山の切羽詰まった様子が意外に面白くて、割って入るのは惜しかった。
「頭を打ってるから、詳しく調べない事にはなんとも言えないけど。意識ははっきりしてるしねえ」
 手を握って、広げて、腕を伸ばし、肘を曲げるのも問題なかった。最初は辛かった会話も、時間を経れば少しずつ楽になっていった。
 後頭部の痛みは依然残っているものの、それもいずれ消えるだろう。
 落ちた際にあちこち打ったので、今後はそちらが痛み出す可能性が高い。大量に青痣が出来ているし、擦り傷の手当てもまだ終わっていなかった。
 もし立ち上がって真っ直ぐ歩けないだとか、呂律が回らず上手く喋られないのなら、脳に異常を来していると思って間違いない。だが今のところ、その傾向は見られなかった。
 ひとつずつ丁寧に説明した保険医に、しかし影山は食い下がった。
「けど、こいつ。おかしいですよ、やっぱり。日向がこんなに大人しいとか、有り得ねえ……です」
 喋っているうちに段々興奮して来て、つい口調が乱暴になった。それに気付いて取り繕うように語尾を付け足し、彼は横になったままの日向に顔を向けた。
 強い眼光で睨まれて、ついビクッとしてしまった。
 咄嗟に布団で顔を隠そうとしたのも、影山の疑惑を深める要因になったようだ。彼はそれみろ、とばかりに保険医に向き直り、奥歯を噛み締めて荒い息を吐いた。
 いったい彼の中で、日向翔陽という人物はどう認識されているのか。あいつならもっと痛がって騒ぐはずだと主張されて、当の本人は乾いた笑みを浮かべた。
「そう言われてもねえ」
 食ってっかかられた方も戸惑い、頬に手を添えて日向を見た。影山はベッドに背を向けて熱弁をふるっており、苦笑する少年に気付いたのは彼女だけだった。
 視線が交錯した。
 まさにその瞬間、日向の中でちょっとした悪戯心が芽生えた。
 ほぼ初対面に等しい相手とアイコンタクトを交わし、小さく頷く。向こうもすべてを理解したわけではないにせよ、なにかを気取って意地悪く微笑んだ。
 二人の間で秘密のやり取りが為されているとも知らず、影山は一方的に主張を重ね、拳を振り回した。
「もっとちゃんと、調べてください」
「そうねえ。まあ、その方が良いとは思うけど……ああ、ごめんね。五月蠅かったわね」
「日向も、良いな?」
 肝心の怪我人を置き去りに、一方的に同意を取り付けようと影山が息巻く。彼の話を殆ど聞いていなかった日向は戸惑い、それらしく目線を彷徨わせた。
 困った顔をして天井を見回し、最後に枕元の青年を見上げて、ひと言。
「あのさ。お前、……誰?」
 掠れ気味の小声で問いかけた直後だった。
 影山の顔から血の気が引いたのが分かった。
 サーッと、音が聞こえてくるようだった。みるみる青白くなっていく彼の変貌ぶりは凄まじく、ある程度予想していた日向も驚きを隠せない。隣で聞いていた保険医も目を見張り、カタカタ震えだした青年から半歩後退した。
 明らかに動揺していると分かる顔色と表情に、一瞬、やり過ぎたかと後悔が過ぎった。
「あ、えと」
「――ちょっと待てよ!」
 今のは冗談で、反応を試しただけの軽い嘘。
 慌てて弁解を頭に並べ、騙して悪かったと謝罪も含めて告げようとした矢先だ。
 激昂した影山が、いきなり日向に掴みかかった。
 前のめりに姿勢を倒し、腕を伸ばして細い肩を掴む。相手が怪我人だというのも忘れて罵声を上げて、思い切り力を込めて骨を軋ませる。
 頭を打った時よりも激しい痛みに襲われて、あまりの迫力に日向は息を呑んだ。
 さっきまで青白い顔をしていたのが嘘のように、今の影山は仁王並みに真っ赤だった。
「ちょっと、君」
 突然の暴挙に出た影山に驚き、保険医もハッとして止めに入った。だが女性の細腕では、身長百八十センチある男を押し退けるなど不可能だった。
 鬱陶しそうに彼女を押し返し、影山は悔しげに顔を歪めた。そしてふと悲しげに眼を潤ませ、大きくかぶりを振った。
「冗談じゃねーぞ。テメーは、バレー馬鹿で、死ぬほど下手くそで、サーブも、レシーブもてんで出来てねーけど。それでも跳べるって言っただろ。お前は、烏野でバレーやって、もう誰にも負けねえって……俺とお前の速攻で。最強だって証明するって」
 俯き、声を震わせ言葉を絞り出す。ギリギリ軋む痛みは徐々に弱まり、やがて力を失った彼の指は日向の肩を越え、ベッドのシーツに沈んだ。
 身を乗り出したまま真上に覆い被さられて、日向は半ば呆然と、影を帯びたチームメイトを見つめ続けた。
「ふざけんな。忘れたとか……許さねーぞ、ボケが!」
 鼻を啜りあげる音がした。吐き捨てられた台詞は掠れていて、迫力は皆無だった。
 眉間の皺が一層深まっていた。元から細い目は一段と細められ、ヘの字に曲がった唇は小刻みに震えていた。奥歯を噛み締めすぎて、首の筋が浮き上がっている。緩く握られた拳がベッドを殴り、振動が日向の全身に広がった。
 涙は見当たらなかった。
 けれど泣いているとしか思えなかった。
「ボケ日向」
「……ごめん」
「いいから、さっさと思い出せ。謝ってる暇あんなら、忘れてること、全部思い出しやがれ」
 手を伸ばせば、触れる前に掴み取られた。力任せに握られて、唾を飛ばしながら捲し立てられた。
 思い出せないのを謝っているのではないのだが、すっかり信じ込んでいる彼には通用しない。まさかここまで本気にされるとは思っていなくて、対処に困り、日向は目を泳がせた。
「ゲッ」
 この状況は、自分の手に余る。だからと保険医に助けを求めたのだが、その肝心の相手が見つからなかった。
 どこへ行ってしまったのか、ベッドサイドに姿が見えない。よくよく注意してみれば、カーテンの向こう側で動くものの気配があった。
 押し殺した笑い声も聞こえてきた。完全に他人事扱いの彼女に愕然として、日向は真剣な眼差しの男に唇を戦慄かせた。
 そういえばこいつは、馬鹿だった。物事を深く考えず、ストレートに受け止めて投げ返してくる、厄介な性格の持ち主だった。
 思ったことをすぐに声に出すから、そういうのが嫌いな相手からは煙たがられていた。言葉使いも乱暴で、声も低くて大きいから迫力があり、怖がられ、嫌われる要因になっていた。
 本当はただ不器用なだけで、根は素直な良い奴なのに、勿体ない。
 他人に誤解されがちなチームメイトの馬鹿正直さに苦笑して、日向は肩の力を抜いて顔を綻ばせた。
「……なあ。おれって、どんな奴だった?」
 好奇心が擽られ、萎れかけた悪戯心が蘇った。もう暫く演技を続けてみることに決めて、彼はベッドの上で小首を傾げてみせた。
 問われた方は目を丸くして、三秒黙って顔を赤くした。
「え。……あ」
 ぱっと目を逸らし、口元を覆い隠す。いったい何を考えているのか、表情からある程度察しがついた日向は堪らず苦笑した。
 ただそれも、影山の視界には入っていなかった。彼は真剣な様子で言葉を探し、やがて深呼吸して胸を撫でた。
 妙に畏まる姿がおかしいが、ここで噴き出したら全て水の泡。必死に堪えて平静を装い、日向は向き直った彼に目を眇めた。
 ぱっと見た感じでは微笑んでいるように映る表情に、影山はもう一度息を呑み、シーツに添えた手を握りしめた。
「テメーは、えっと……とにかくバレー馬鹿だ。ちっせーのに、エースになるって聞かねえし。人の顔見るなりトス上げろ、トス上げろって、そればっかで、すんげーうるせえ」
「ぐ」
 だが開口一番に告げられたのは、色気とは無縁の罵倒だった。
 もっとも、それは大体真実だ。自覚はある。鬱陶しがられていたのも知っている。
 ただ影山は、最後にはちゃんと付き合ってくれた。あれこれ理由をつけて遠回りをした後、いかにも仕方なさそうに、トスをあげてくれた。
 日頃から不機嫌そうにしている彼だけれど、バレーボールをしている時だけは嬉しげだ。特にトスを出す瞬間は、他に例を見ない真剣さだった。
 彼のあの顔は、嫌いではない。むしろ好きだ。影山が一番輝く瞬間は、この時以外にありえない。
「あと、まあ、努力はしてる……と思う。家遠いのに、いつも俺と張るくらい早く来てっし。しかもチャリで、山越えて来てんのは、スゲーと思う」
「へえ」
 続けて出てきたのは、意外なお褒めの言葉だった。
 照れ臭いのかぼそぼそ小声だったが、部屋が静かなので問題なかった。少なからず認めてもらえているのが感じられて、純粋に嬉しかった。
 影山は、あまり人を褒めない。褒められるのにも慣れていない。
 それ以前に、面と向かって意見を言われる事自体に慣れていない。今まで人から避けられ、背を向けられてばかりだったから、真っ向勝負を挑んでくる相手にどう対応して良いか、戸惑っている部分が多々見受けられた。
 最近は少しずつ、改善出来てきているように思う。いや、もしかしたら元に戻りつつあるのかもしれない。彼が『王様』と呼ばれるようになったのは中学生になってからで、だったら『王様』ではない時期もあった筈だ。
 彼は日向を指してバレーボール馬鹿だと言ったが、それはお互い様だ。
「そんで、お前はすげー、飛ぶ。動き回る。体力半端ねえ。ちっせえくせに、すげえ食うし」
「また言った」
「あ?」
「なんでもない。他には?」
 少々気になるのは、先ほどから小さい、を繰り返されるところだ。
 確かにバレーボール選手としては小柄な部類に入るが、クラスの中ではそれほどでもないのだ。百六十二センチは、世の平均サイズからみれば、さほど小さいとは言えない。
 ついムキになったところに聞き耳を立てられ、日向は慌てて首を振った。影山は不思議そうにしながらも緩慢に頷き、顎を撫でて口を尖らせた。
 黙って考えこんでいる姿は、美術の教科書に載る古代の彫刻にどこか似ていた。
 整った柳眉に、目鼻筋はくっきりしている。若干目つきが悪いのが難点だが、女子が騒ぐのも無理はない綺麗な顔立ちだった。
 背が高く、骨格もがっしりして肩幅がある。手足も長くて、背中は広い。無駄なく引き締められた体躯はほれぼれするくらいで、日向にはないものだらけだった。
 正直、うらやましい。日向は食べても太らないし、牛乳をたくさん飲んでいるのに背が伸びない。筋肉がつくのは太腿ばかりで、肝心のパワーが決定的に欠けていた。
 ただ影山だって、なにもしないで今の身体になったわけではない。
 強靭でエネルギッシュなその肉体を手に入れる為に、彼がどれだけ努力をしてきたか。話を聞く機会は一度も得られていないけれど、並々ならぬ努力が必要だったのは分かる。
 彼のプレイは確かに傲慢だったかもしれない。けれど一プレイヤーとしての彼は、とことん謙虚で、努力家だった。
「そうだな。あと、強いて言うなら、救いがねえくらい頭が悪いってことと」
「…………お前に言われたくない」
「なんか言ったか?」
 ぼそりと言い返せば、これまた耳聡い影山が眉を顰めた。
 うっかり口を突いて出てしまった言葉をぐっと飲み込んで、日向は緩く首を振った。
 幼少期、寝床で母に寝物語をせがんでいたのを思い出し、抓んだ布団を口元まで持っていってみる。表情を半分隠して上目遣いになった彼に、影山は眉間に集めていた皺を解いた。
 ずっとベッドに衝き立てていた腕を揺らし、握っていた指も解く。ただ腕自体は引っ込めず、掌全体で敷布団を凹ませた。
 薄い枕ごとそちらに身体が傾いた気がして、日向はぎょっと身を竦ませた。
「あ……」
 それと同時に目の前が暗くなって、目を向ければ影山が前屈みになっていた。真っ直ぐ伸ばされつっかえ棒だった腕は途中で折れ曲がり、ふたりの距離は一気に狭まっていた。
 光が遮られ、影山の顔が一瞬ぼやけた。焦点が合わなくて慌てて瞬きを繰り返しているうちに、彼は唇を舐め、浅い呼吸を繰り返した。
 吐息が鼻先を掠めた。浴びせられた微風にぞわりと来て、日向は掴んでいた上掛け布団に爪を立てた。
 清潔なシーツを引っ掻き回し、落ち着きなく指を蠢かせる。だが影山は一瞥しただけで特に何も言わず、それどころか上から右手を重ね、握りしめて来た。
 物理的に動きを封じられた。触れた熱にもドキリとして、日向は目を泳がせ右往左往した。
「あの、ちょっと」
「変な話だよな。最初は、気に入らない奴だと思ってたのによ」
「かっ、カゲヤマサン?」
「なあ、日向」
 言っている間に、影山はどんどん近づいてきた。囁き声は変に掠れて濡れており、耳に触れる微風も相俟って心臓に悪かった。
 今や彼の左腕は完全に折れ曲がり、肘がシーツに皺を作っていた。目は据わり、冗談でやっているのではないのが十二分に伝わってきた。
 冷や汗が流れた。裏返った悲鳴は無視された。影山は甘く低い吐息で同意を迫り、ベッド上で身動きが取れない日向に顔を寄せた。
 あと三センチ。
 キスを強請る男に、日向は総毛立った。
「だ、ダメ――!」
「ムぐ」
 咄嗟に、手を伸ばしていた。
 両手を重ねてバツの字を作り、影山へと突き出す。もれなく掌にむにゅっと柔らかい感触が広がって、その生温さに涙が出そうになった。
 カーテンの向こうには、保険医がいる。人がいる場所での彼の暴挙に、日向の理性は耐えられなかった。
 だが、影山は違っていた。
「……おい」
 彼は即座に身を引いて、ドスの利いた声を響かせた。
 はっと我に返って上を見れば、背筋を伸ばした男と目が合った。その表情は険しく、震えあがるほどの凄味があった。
「あ」
 瞬間、日向は自身の敗北を悟った。
 頬が引き攣り、笑顔が凍り付いた。誤魔化そうにも言葉は出ず、目を逸らすしか術がなかった。
 後ろめたいことがあると分かる態度に、影山の怒りが爆発した。
「てめえ、やっぱ全部覚えてやがったな」
「だって、普通信じるか?」
「うっせえ。散々心配させといて、ふざけんのもいい加減にしろ!」
 あんな下手な演技に騙される方が悪い。しかし影山が認めるわけなくて、襟首掴んで怒鳴りつけてきた。
 首を絞められて、息が詰まった。そのまま持ち上げられて、首が折れそうなくらいぶんぶん振り回された。
「ちょっと、こらこら。喧嘩しないの」
 それまで傍観者で見守っていた保険医も、暴れ出した影山に慌てて制止の声を上げた。けれど届くわけがなく、彼は小鼻を膨らませて歯軋りすると、悔しさを晴らすべく、勢いつけて頭を繰り出した。
 刹那。
 ごちぃぃぃん、と、除夜の鐘にも負けない音が響いた。
「ぐわっ」
「うぐ」
 脳みそを激しく揺さぶる頭突き攻撃は、日向のみならず、影山にも多大なダメージをもたらした。
 目の前が一瞬真っ白になり、すぐ黒くなって、また白くなった。天を仰いでベッドに倒れ、日向は続けて腹に食らったダメージに堪らず噴き出した。
 影山まで倒れ込んできた。彼の方がよっぽど痛かったに違いなくて、呻いている彼の体重に腹筋を引き攣らせる。
「あは、あははは。あははははっ」
「くっそ。笑ってんじゃねーぞ、ボケ」
「だって、影山……お前って」
「言うんじゃねーよ!」
 頭突きの直前、彼は言っていた。
 心配した、と。
 日頃の彼からは想像もつかない台詞だ。それ以外でも色々と、興味深い意見を聞かせてもらった。
 面白い。照れ臭い、恥ずかしい。
 嬉しい。
 色々な感情が同時に押し寄せて来て、笑いが止まらない。腹を抱えて身悶える日向に、影山も全身真っ赤に染めて煙を噴いた。
 最後の方はともかく、最初の方は本心からの言葉だったに違いない。滅多に聞く機会のない彼の本音は、異様なほどにくすぐったかった。
「くっそ。後で覚えてろよ」
「うん、覚えてる。ぜってー忘れないし」
「だからそれは忘れろ!」
「あははははは」
「こら。保健室で騒がない!」
 悪態をつく影山をからかい、怒鳴られたところで雷が落ちた。
 保険医の大声にビクッとして、日向はさっと布団を被った。影山も口を塞いで壁を向き、背中を丸めてゆっくり蹲った。
 喧嘩するほど仲が良い、という格言もある。
 人生を謳歌中の男子高校生に肩を竦め、保険医はやれやれと首を振った。

2014/05/18 脱稿