浅紫

 影山飛雄は、世界史の授業が嫌いだった。
 社会科が嫌いなのではない。いや、苦手な事には違いない。試験前ともなれば教科書を投げ捨てたくなる衝動に駆られもするが、そういった意味では他教科も同様だ。
 彼が嫌いなのは、世界史の担当教師だった。
 年の頃は四十代半ばか、後半。ただ後頭部がやや薄くなっており、背が低い上に姿勢が悪いので、実際よりももっと年上に見えた。
 そのくせ声だけは異様に大きくて、やたらと抑揚をつけて話す。居眠りをしている生徒にも厳しくて、国語でもないのに、教科書の音読を強いる事さえあった。
 一週間に一度は小テストがあって、記憶力が試された。六十点満点で、三十点未満だと翌週にペナルティが課せられる。合格点に届かなかった分を次回上乗せして得点出来なければ、これが延々繰り返される仕組みだ。
 つまり二十八点だった場合、次週の小テストでは三十二点が合格ラインになる。だのにまた二十八点だった場合は、その次の合格ラインが三十四点に繰り上がるのだ。
 陰湿で、実に面倒臭いこのシステムは、生徒たちに大不評だった。けれどこの男性教師は、そういった不満の声に一切耳を貸そうとしない。むしろ学生を苛めて楽しんでいる雰囲気が感じられて、余計に嫌われていた。
 更にその上、最悪な事に、この男は話が無駄に長かった。
 教科書通りに授業を進めていけばいいものを、事あるごとに内容が脱線した。
 テキストにない与太話を延々繰り広げて、収拾がつかなくなる事もあった。雑学好きの人間には楽しいかもしれないが、生憎と影山は、古代文明にも、それを破壊した侵略者にも、一切興味がなかった。
 そういった事もあり、世界史の授業は頻繁に延長戦に突入した。
 チャイムが鳴って休憩時間に入っても、先生が話し終わらなければ席を立つわけにいかない。貴重な休み時間が半分以上潰されて、ホッとしたのも束の間、速攻次の授業が始まった日もあった。
 正直、彼の授業は受けたくない。居眠りばかりで殆ど話を聞いていない影山ですら、世界史の文字を見るだけでうんざりする毎日だった。
 特に午前最後の授業がその科目の日は、始まる前から気が気でなかった。
 病気にでもなって、職を辞してくれないかと本気で願った相手はこれが初めてだ。案の定授業は長引いて、昼休みが始まって五分が経過した後も、一年三組だけは生徒全員が着席を強いられたままだった。
「ふざけんな、っつの」
 呪詛を吐いて悪態をつき、影山は盛大に舌打ちして廊下へ飛び出した。
 時計を見れば、昼休み開始から既に十分近くが過ぎている。それなのにあの教師は少しも悪びれる様子なく、話がひと区切りついたところで飄々と教室を出ていった。
 まさに自己満足の塊だ。自分のエゴに他人を巻き込んで、いったい何が楽しいのだろう。
 悪口は尽きなくて、並べ立てているうちに心が黒く汚れていく気がした。あんな最低な奴の為に嫌な気持ちで居続けるのも癪で、影山はかぶりを振ると、切り替えようと頬を叩いた。
 ペチッ、と小気味が良い音が響いた。すれ違った女子に変な顔をされたが無視し、彼は階段の手すりに手を伸ばした。
「もう全部売り切れてんじゃねーの、これ」
 遠心力を利用して強引に進路を変え、二段飛ばしで階段を駆け下りる。人通りは少ないが、たまに上って来る生徒がいて、その度に右に、左に、ステップを刻んで移動を繰り返した。
 気ばかりが急いて、一階到着と同時に全力で走る。昇降口で靴を履き替える暇も惜しいが、流石にこれを省くわけにはいかなかった。
「くっそー」
 じたばた足を動かしながら下駄箱を開き、スニーカーを取り出して入れ替わりに上履きを押し込む。開けっ放しの扉からは涼しい風が流れ込み、外から帰って来る生徒らの背中を押していた。
 今から出かけようとしている影山にしてみれば、見事な向かい風だ。行く手を遮り、壁となって立ちふさがる自然界に歯を食いしばり、彼は靴の踵を潰したまま、屋外へと踏み出した。
 強い風の抵抗は、一瞬だけだった。
 校門脇に植えられた桜の花は全て散り、緑の葉が存在を主張していた。ただ足元には薄紅の花弁が辛うじて残って、季節の移ろいを教えてくれた。
 靴跡が刻まれて黒ずんだ花びらは哀愁を誘い、直視に耐えない。素早く目を逸らして前に向き直り、影山は傾斜も緩やかな坂道に目を凝らした。
 正門から続く道は左にカーブして、住宅地へと続いていた。
 烏野高校は高台の上にあり、校舎最上階からの景色は案外悪くない。もともと周囲に高い建物が少ないので、見晴らしは抜群だった。
 小さくまとまった住宅街の周囲には田畑が多く残り、線路を走る電車はまるでミニチュアだ。晴れた日には海も見えて、湾岸沿いに広がる市街地は別世界のようだった。
 言うほど田舎ではないけれど、都会と呼ぶにはかなり物足りない。それを証拠に、二十四時間営業のコンビニエンスストアは少なく、あるのは個人経営の小さな商店ばかり。
 そのうちの一軒、学校に最も近い坂ノ下商店を目指し、影山は息を弾ませた。
 道を行く人の大半が、烏野高校の制服を着ていた。しかもほぼ全員が、店からの帰り道と言っても過言ではなかった。
 彼らの手にはそれぞれ、昼休みに食べるのであろう食料品が握られていた。
 握り飯、パン、カップラーメン、など等。中にはクッキーやチョコレート菓子を大量に抱えている女子もいたが、食生活は人それぞれなのでとやかく言うつもりはない。
 坂ノ下商店は食料品をメインに扱っている店舗だが、顧客の半数は学生だった。
 つまるところ昼のこの時間帯と、夕方が一番の稼ぎ時。特に昼飯時にはレジ前に特設コーナーが作られて、大量の総菜パンやおにぎりが飛ぶように売れていった。
 何が言いたいかと言えば、そのラッシュに乗り遅れると、一気に買えるものがなくなってしまう、という事だ。
 安いもの、或いは値段の割にボリュームがあって、お得感があるものはまず残っていまい。今から行って手に入るのは、割り引かれていない通常価格の商品か、若者の味覚に合わなくてそっぽを向かれた品だけだ。
 どうしてこういう日に限って、母は弁当を作ってくれなかったのだろう。
 つくづく、タイミングが悪すぎる。天罰を食らうようなことをしただろうかと考えて、影山はガラス張りの引き戸を潜り抜けた。
「失礼しまーっす!」
 店内で騒がない、と書かれた張り紙を無視して声を張り上げ、それなりに奥行きがある店内を見回す。手前側には座って食べられる空間が設けられているのだが、昼の混雑時は邪魔だからと撤去されていた。
 代わりに出ていた臨時の陳列台は、ものの見事に空っぽだった。
 肉まんの保温器もスカスカで、補充されてもいなかった。茶色い浅底のケースの隅に昆布のおにぎりが一個残されていたが、大勢が手に取っては戻す、を繰り返したのだろう。三角形の角が一ヶ所潰れていた。
「遅かったんだな、影山」
「コーチ……」
 店に入る時に掛け声をあげるなど、運動部くらいだ。レジ番をしていた男は入ってきた学生にすぐ気づき、脱力して肩を落としている影山に苦笑した。
 派手な金髪にエプロン姿の男はこの店の息子で、烏野高校男子排球部の新米コーチだった。
 先客の会計を済ませた烏養に話しかけられて、影山は項垂れて小さくなった。
 目の前の特売コーナーはあらかた買い尽くされて、すっかり荒れ野と化していた。目ぼしい物は何も残っておらず、先ほどのおにぎり以外だと、矢張りちょっと潰れて不格好なパンしか残っていなかった。
 細長いコッペパンの真ん中に切れ目を入れて、内側にバターを塗っただけのシンプルなものは、味気なさ過ぎてか、あまり人気がない。だからこそ残されていたそれを拾い上げて、影山は深々とため息を吐いた。
 まだ全滅でなかっただけマシと自分を慰め、拉げたおにぎりと一緒にレジへと差し出す。その気落ちっぷりがあまりに酷かったからだろう。烏養は苦笑して、会計を済ませた彼にぽい、と何かを放り投げた。
「コーチ?」
「オマケだ」
 反射的に受け取って、首を捻る。影山が空中で掴んだのは、栄養補助食品的なビスケットだった。
 前にも一度、彼から恵んでもらったアレだ。不細工なキリンのイラストが特徴的で、中身はぱさぱさしており、正直あまり美味しくなかった。
 だからいつも売れ残り、安売りの棚に追い遣られている。だが今は、こんなものでも有難い。影山ははっと息を止め、歯を見せて笑った男に深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「ばっか。デケー声出すな」
 しかし心遣いに感謝して、腰を九十度に曲げた彼に、烏養は慌てた様子で声を荒らげた。
 人差し指を唇に押し当て、さっさと立ち去るよう反対の手を振り回す。見れば店内にいた客が、何事かと様子を窺っていた。
 影山は烏養と顔見知りだが、他の生徒はそうではない。ここの店員が男子バレーボール部のコーチをしている話も、一部では知れ渡っているが、勿論聞いたことがない人も大勢いた。
 贔屓が他にばれるとまずい。それで焦った烏養に嗚呼、と頷いて、影山はもう一度ぺこりと、無言で会釈した。
 幸い、咎める人はいなかった。背筋を伸ばして敷居を跨ぎ、影山は店を出る直前にもう一度レジに頭を下げた。
 もっとも烏養は次の客の相手をすべく、視線を外した後だった。
 気付いて貰えなかったが落ち込むほどのものでもなくて、彼は手の中のものに頷くと、緩やかな坂道を大股に駆け出した。
 荷物があるので行きよりは少しペースを落とし、それでもかなりの速度で傾斜を登っていく。そして彼は正門を潜ると、昇降口の手前で右に曲がった。
「もう結構経ってんな」
 急いだのだが、坂ノ下商店からの往復だけでも五分以上使ってしまった。昼休み開始から計算すると、十五分は余裕で過ぎている。
 待ちくたびれているだろう相手を思い浮かべ、影山は勢いよく地面を蹴り飛ばした。
 校舎沿いにしばらく進むと、白い自動販売機が見えた。壁に凭れ掛かる形で立っているその手前でスピードを落として、彼は素早くポケットを弄った。
 財布は使わず、小銭は直接ポケットに入れるのが習慣だった。お蔭で走っている間も、ずっと太腿がじゃらじゃら擦られていた。
 もっともそれも、逐一ファスナーを開けて硬貨を出して、また閉めてポケットに戻して、の手間を考えると、それほど苦にならない。単純に慣れただけとも言える。この習慣は、中学時代からずっとだった。
 今更小銭入れが欲しいとも思わない。ただ着替えの度に中身を忘れてひっくり返し、床にぶちまけてしまうのがネックだった。
「えーっと、百円は……あった」
 直射日光に当たらない場所に置かれた販売機は、一部商品が品切れになっていた。
 しかし影山が毎日欠かさず飲んでいる乳製品は、まだまだ在庫たっぷりだ。それにもホッと息を吐いて、彼は銀色の硬貨を一枚、投入口に滑らせた。
 間もなくランプが一斉に灯り、早く選べと急かして来た。影山は躊躇なく指を二本立て、ほぼ同時に、隣り合うふたつのボタンを押した。
 パック飲料の自動販売機は、販売している種類が少ない。同じ商品が横並びになっているのはザラで、影山愛飲の飲むヨーグルトもそうだった。
 ただ同じタイミングでボタンをふたつ押しても、出てくるのは一個だけだ。
 機械が誤作動して二個出てくるなど、都市伝説も良いところだ。高校入学からずっと試しているけれど、今まで一度も成功した例がない。
 今回も当然ダメで、彼は落胆ついでに背を丸め、取り出し口に手を伸ばした。
 横に長い透明なカバーを内側へ押し込み、目当てのものを取り出してその冷たさに頬を緩める。これで準備完了と、ひと段落ついた彼は陽射しが明るい方角に顔を向けた。
「ちゃんと待ってんだろうな……?」
 ふと心配になって呟くが、そんな事、行ってみなければ分からない。おそらく大丈夫だろうと自分で自分を励まして、影山は暗い日陰から出た。
 荷物が増えたのと、残る距離が僅かになったのもあり、彼はもう走らなかった。
 比較的ゆっくりとした足取りで陽だまりを進み、約束の場所を目指す。辿り着くのに、そう時間はかからなかった。
 第二体育館前の、広くて何もない空間。
 校舎と繋がる渡り廊下側とは別の入口前に、その人は居た。
 近づいても反応はなかった。てっきり遅い、と怒鳴り散らされるとばかり思っていただけに、拍子抜けだった。
「日向?」
 ある程度覚悟していたので、予想外の展開に唖然としてしまう。ぽかんとしながら名前を呼んでみるが、返事はなかった。
 木製の下駄箱の横には、五段もない階段があった。扉は閉められて、中の様子は窺えなかった。
 その閉め切られたドアの前で、俯いて座っている小さな存在。陽に透かすとオレンジ色にも見える明るい茶髪の少年は、顔を伏して膝を抱えていた。
 元から背が低いのに、そうやっているともっと幼く見える。バレーボール選手に混じると小学生にすら間違えられる高校一年生は、穏やかな陽気の中、こっくりこっくり舟を漕いでいた。
「なんだ、寝てんのか」
 応答がないのにドキリとさせられたが、種が明かされると途端に力が抜けた。ホッと安堵の息を吐き、影山は慎重に残りの距離を詰めた。
 寝入る日向の足元には、赤と緑、そして白が組み合わさったカラフルなボールが転がっていた。
 ほかにも、既に食べ終えたと思しき弁当箱が、布に包まれて置かれていた。ただ片付け途中で睡魔に襲われたのか、端は結ばれておらず、単に巻き付けただけの状態だった。
「いい天気だもんな」
 待ち草臥れて、腹も膨らんだのもあり、眠気に抗えなかったのだろう。仰ぎ見た空に輝く太陽は眩しく、風は少なくて、気温は朝に比べて随分高くなっていた。
 真夏の厳しい陽射しはまだ遠く、照り返しも弱い。日向ぼっこをするのに、これほど適した季節はなかった。
 気持ちは分からないでもなくて、影山は嘆息して彼の隣に腰を下ろした。
 買い集めた昼飯を膝に集め、まずはパック牛乳にストローを挿す。その間も日向は動かず、すやすやと眠ったままだった。
「起きねえな」
 こんなに近くにいるのに、気配を察知する様子もない。完全に熟睡状態で、見れば涎まで垂らしていた。
 腕の隙間から覗く顔はだらしなく緩み、笑っているようにも見えた。
 楽しい夢でも見ているらしい。幸せそうな寝顔をしばらく眺め、影山はストローに口をつけた。
 彼と休み時間を一緒に過ごすのは、今日が初めてではなかった。
 朝と夕方の練習だけでは足りないからと、ここ最近は毎日のように連れ出されていた。最初のうちは教室に迎えに来られて、四時間目が移動教室だった所為ですれ違ったのをきっかけに、この場所で待ち合わせるようになった。
 昼飯を持って、ボールも持ち出して、弁当を食べた後はチャイムがなるまでひたすら練習。下手なレシーブを鍛えるのが、目下の日向の課題だった。
 本人はスパイク練習を希望したが、そんな暇などない。基礎もろくに出来ていない奴に上げるトスなんて、影山は持ち合わせていなかった。
 もっとも、それは建前だ。本当は、影山だってもっとトスを上げたかった。
 あんなにも気持ちよさそうに、嬉しそうにスパイクを打つ選手は他にいない。中学時代は味方にそっぽを向かれただけに、日向の存在は影山にとってかなり異質だった。
 人に求められるのが、こんなにも心震わせられるものだとは思わなかった。
 彼の願いに応えたい。期待に報いたい。
 スパイカーにとっての最高のトスを、彼にくれてやりたい。
 だがそれは、個人の我儘だ。バレーボールはチーム戦だから、日向ひとりに心を傾けるわけにはいかなかった。
 試合には勝ちたい、負けたくない。
 日向にトスを上げてやりたい。
 一部が重なり、一部が反発する欲望を同時に抱え、葛藤に奥歯を噛む。ストローの端が凹んで、透明な筒が楕円に歪んだ。
「しくった。全部パンにしときゃよかった」
 プラスチックがパキリと折れる音もして、影山ははっと息を呑んだ。
 白米と牛乳の取り合わせは、あまり美味くない。小学校の給食で散々学んだというのに、今頃思い出した彼はがっくり肩を落とした。
 今から坂ノ下商店に戻るのも面倒で、諦めるしかない。パンよりも米の方が腹持ち良いと自分を慰めて、渋々握り飯のフィルムを爪で引っ掻く。
 切れ目が入った縁を抓んで引っ張って、形が崩れないよう注意しながら海苔を巻きつけていく。
「……むにゃ」
「日向?」
 そしていざ食べよう、となった時、隣から呻くような声がした。
 咄嗟に手を引いておにぎりを顔から引き剥がすが、特筆すべき変化は特に見られなかった。
 日向は相変わらず膝を抱き、呑気に寝こけていた。
 どうやら、寝言らしい。緊張感が全くない姿に深くため息を零し、影山は気を取り直して握り飯に齧り付いた。
「ん。んま」
 米は冷たく、形は歪んでいたが、味はそれほど悪くなかった。
 もう一個か二個、買ってくるべきだった。あっという間に食べきってしまって、影山は指に残った米粒も食んで腹を撫でた。
「足りっかな」
 他に選択肢がなかったので仕方がないのだが、急に不安になってきた。午後の授業はまだいいとしても、このまま夕方の練習に突入したら、途中でエネルギー切れを起こしかねない。
 後で学内の購買を覗きに行こうか。しかしあちらの方が坂ノ下商店よりずっと激戦区で、目ぼしい商品はあらかた刈り取られた後と思われる。
「やべ。食ったのに腹減ってきた」
 考えていたら、腹の虫が蠢いた。今し方握り飯をひとつ胃に入れたばかりなのに、余計に空腹が刺激されたのか、食欲ばかりが膨らんでいった。
 早く宥めようと味気ないパンを貪り食い、コーチが恵んでくれた分も遠慮なく胃袋に収める。しかしまるで満たされず、却ってもっと食べたくて堪らなかった。
 今なら大食い選手権にも出場出来る気がする。十人前はありそうな特大ポークカレーを想像して、影山は音立てて唾を飲み込んだ。
 垂れそうになった涎は手で拭い、ふと、何気なく隣を見る。
 人の苦悩を知りもせず、日向は高いびきをかいていた。
 そちらが練習したいからと誘ってきたのに、この態度はいかがなものか。一向に目覚める様子がないのにもムッとして、影山は放置された弁当箱に視線を落とした。
 日向と自分の間に挟まれる形で居心地悪そうにしているそれに、好奇心が擽られた。
「……まさかな」
 大判のハンカチに、中途半端に包まれている弁当箱は、かなり大きい。
 二段重ねの長方形で、下段は白米と梅干、上段にたっぷりのおかずが大体のパターンだ。副菜は野菜を中心に、肉も存分に。和風の味付けが多いものの、使われている具材は幅広かった。
 家の畑で育てた野菜と米だと、日向は胸を張っていた。鶏も飼っているので、毎日新鮮な卵が味わえると嬉しそうに語っていた。
 いつぞやの会話が呼び起こされて、気が付けば咥内は涎でいっぱいだった。それを一気に飲み干して、影山は慌てた様子で首を振った。
 これがここにある、ということは、日向は既に食べ終えた後だ。
 蓋を開けてもどうせ、中身は空っぽに決まっている。しかし実際に、手に取って調べたわけではない。
 思い込みで思考を固定していたら、視野は狭くなる一方だ。最近学んだことを振り返って、影山はゴクリと喉を鳴らした。
 全身に緊張が走った。心臓が耳元に移動して、どくん、どくんと異様に大きな音を響かせた。
 額に汗が滲み、口の中が一気に乾いた。舌の先が痺れて、伸ばした指が震えた。
「ちょっと、見るだけだ」
 誰に向かってか、言い訳を呟く。掠れて殆ど音にならなかった台詞に生唾を呑み、勇気を振り絞って弁当箱の包みを左右へ払い除ける。
 音立てぬようそっと持ち上げた蓋は、吃驚する程軽かった。
「――だよなあ」
 次の瞬間、影山は自嘲気味に笑って天を仰いだ。
 額を覆い、弁当箱の蓋を戻す。ちらりと覗き見た中は案の定空っぽで、ケチャップの残り滓と短い竹串しか入っていなかった。
 下段は見ていないが、きっと似た状況だろう。確かめるまでもなかったと肩を揺らし、彼はゆるゆる首を振った。
 ちょっとでも期待した自分が愚かだった。素直に認め、影山は黒髪を掻き上げた。
「あー、くっそ。どうすっかなー」
 八つ当たりに食べ終えた包み紙を握り潰し、悪態をつく。空腹感は一時に比べると落ち着いたが、それでも完全に消えたわけではなかった。
 学食にいくなら、早い方が良い。だが先に来て待っていた日向を置いて去るのも、心苦しかった。
「早く起きろっての」
 食事は一応、終わった。昼休みはまだ十五分近く残っている。腹ごなしのレシーブ練習なら、それくらいで充分だ。
 ただ、肝心の日向がまだ目覚めない。
 今は左上腕に頭を寄せて、若干傾きながら寝入っていた。そのうち倒れて来そうな体勢で、影山は警戒して僅かに距離を作った。
 きっと肩を掴んで揺らせば、簡単に目を覚ますはずだ。他にも頭を叩く、ボールみたいに蹴り飛ばす、と案はいろいろあった。
 しかしあまりにも気持ちよさそうに眠っているので、叩き起こすのは忍びなく、なかなか実行に移せなかった。
「おーい、起きろ。日向」
 仕方なく呼びかけを継続するが、声のボリュームもいつもよりずっと控えめだった。
 これでは目覚ましにならないと自分に呆れ、影山は地面に転がるボールや、空の弁当箱に視線を流した。
「もう、テメーを食っちまうぞ」
 見れば日向の頬は丸々しており、全体的に柔らかそうだった。
 毎日山ひとつ越えてくるお蔭で脚は引き締まっているが、それ以外は成長途中も良いところ。寝息を立てる唇は窄められて、小ぶりの鼻はヒクヒク震えていた。
 起きている時はとにかく生意気だが、眠っていると静かだ。本人は声変わり後だと言い張る声は非常に高く、小動物じみた動きと相まって、時々吃驚するくらい可愛かったりもする。
「って、ちげーだろ」
 目を輝かせながらトスを強請る姿が浮かんで、影山は頭を過ぎった感想ごと脇に払い除けた。
 同い年の男に対して抱いて良いコメントではない。可愛い、という単語は、もっと違うものに当てはめるべきだ。
 しかし改めて日向に目を向けてみると、その意見はガラガラと音立てて崩れていった。
「……チッ」
 一応の自覚は、あった。
 まだきちんと知り合って一ヶ月ちょっとしか経っていないが、彼を特別な存在と感じていた。気が付けば目で追っていた。話しかけられるだけで心が躍った。
 初めての経験の連続だから戸惑っているだけ、と何度自分に言い聞かせたか分からない。けれどどれだけ理由をつけて、理屈で説明しようとしても、納得できる答えはひとつしか出てこなかった。
「日向、マジで起きねえの?」
 あんなに焦って教室を飛び出したのも。坂ノ下商店へ全力で走ったのだって。
 彼が此処で、自分を待っているからだ。
 入学したての頃、日向が昼休みを共に過ごす相手は三年生の菅原だった。
 そうだと知った時は、悔しかった。その後無事排球部への入部が認められて、仲間意識が芽生えたのか、日向は頻繁に三組に顔を出すようになった。
 地上を照らす太陽のように、彼の笑顔は眩しくて、温かい。
 ただあまりにも明るすぎて、平常心で直視できなくなったのは、いったいいつからだっただろう。
 劣情を抱え込み、手を伸ばす。緩く曲げた指の背で触れた頬は予想通り柔らかく、触り心地は抜群だった。
 日向は何も知らない。気付かない。
 それでいいと弁えているつもりだけれど、たまに無性に、言いたくて仕方がなかった。
「ホントに、食っちまうぞ」
 声が聞きたい、話がしたい。
 顔を見たい、見つめ返して欲しい。
 触りたい。
 抱きしめたい。
 好きだと言いたい。
 言ってしまいたい。
 身を乗り出す。傍から寝顔を覗き込む。荒くなりたがる呼気を殺し、どこまでなら近づいても平気かを試す。
 日向は動かない。まるで反応しない。
 期待が生まれた。欲望がざわめいた。知れず顔が赤くなり、頭のてっぺんから湯気が噴き出した。
「いいのかよ、ひなた」
 言葉は殆ど音にならず、問いかけは影山自身に向けられた。
 今ならキスが出来るかもしれない。頬くらいなら。一瞬触れる程度なら。
 きっと。
 きっと、大丈夫。
 心臓が止まりそうだった。耳鳴りが酷く、頭がくらくらした。
 目が回った。
 現実味が一気に失せた。
 それは幻聴か、現実か。
「――いいよ」
 妄想が作り上げた合成音、それとも実際に発せられた本人の声。
「っ!」
 区別がつかなくて、影山は目を見張って息を止めた。
「……む、ぅ、ん……?」
 すぐそこでは、日向が低く唸っていた。閉ざされた瞼がぴくぴく震えて、口元は引き結ばれて機嫌悪に歪められた。
 長い睫毛が躍っていた。目を開いた後も、彼はしばらくぼうっとしていた。
「んぁ、ふ……んー……あれ、かげやまぁ?」
 遠くを見たまま何度か瞬きし、きょろきょろした末にやおら向き直ってコテンと首を倒す。舌足らずに名前を呼ばれて、凍り付いていた男は猫のように全身を毛羽立てた。
「お、おぉ、おう! やっと起きたか、この野郎」
「ンんー? おれ……寝てた?」
 完全に裏返った声で捲し立てるが、日向はさらっと無視した。もう一度辺りを見回してから状況を整理して、欠伸ついでに目元を擦って目尻の涙を弾き飛ばす。
 隣で影山が、胸を抱え込んで青い顔をしているのにも気付かない。彼は荒い呼吸で汗を流し、あと一歩を逃した悔しさと、疑われなかった安堵に奥歯をカタカタ言わせていた。
 まったくもって、心臓に悪い。なによりタイミングが絶妙過ぎて、もっと早くから起きていたのではないかとさえ思えてならなかった。
「あー、そっかー。お前今日、遅い日なんだっけ」
「……おう」
「もう飯食った? やる?」
「レシーブな」
「やだ。トスが良い、トス。トスあげて」
 影山がぐるぐる悩んでいるのも知らず、日向は呑気に呟き、強請った。
 両手を振り回して叫ぶと同時に立ち上がり、転がるボールを追いかけ階段を飛び降りる。途端に前ボタン全開の学生服が膨らんで、翼のように広がった。
 黒い羽根を持つ、烏。
 一瞬の幻に騒然となり、影山は無邪気に振り返った日向から目を逸らした。
 早く捕まえないと、逃げられてしまう。
 その翼を使い、彼は悠然と空を翔けていってしまう。
 相手が人間だというのも忘れ、本気で怖くなった。だがあと一歩を踏み出す勇気が足りなくて、影山は奥歯を噛み、学生服を握りしめた。
「ダメだ。テメーはまず、そのヘタクソなレシーブをなんとかしろ」
「えーーー」
 拾ったボールを頭上に掲げ、日向は抗議の声を上げた。しかし聞こえなかったことにして、影山はスッと立ち上がった。
 邪魔になる学生服を脱ごうとボタンを外し、下に着込んだシャツの袖をたくし上げる。彼が準備を済ませる間、日向は空気たっぷりのボールを顔の前で凹ませた。
「いくじなし」
 風に攫われたひと言は、空耳か、本物か。
 影山は迷いを振り払うように、黒い上着を投げ捨てた。

2014/05/18 脱稿