Say You’ll Be There

 カレンダーの赤丸に気が付いたのは、その前日、夜の事だった。
「これ、何の印っすか?」
 風呂上り、頭を拭きながら同室の上級生に問いかける。タオルを被った沢村の言葉に、ゲーム機のコントローラーを握った男が振り返った。
「あ?」
 ポーズボタンを押して操作を中断して、胡坐を崩して下級生を睨みつける。目つきは剣呑で、機嫌もかなり悪そうだった。
 折角良い気分で遊んでいたのに、邪魔されたのが不満らしい。けれど倉持の悪態はいつものことで、沢村は平然と受け流した。
 頭上のタオルを首にずらしてぶら下げて、彼はほら、と顎をしゃくった。
 示された方角には、壁があった。その上にはポスターや時間割といったものが雑多に貼り付けられて、歴代の青道野球部員が作り上げた、テープを剥がした痕や、なんだか分からない染みを覆い隠していた。
 私物の量を言えば、二年生の倉持が一番多い。身体が大きい増子はあれで意外に几帳面で、身の回りの品はきちんと片付けられていた。
 彼が固執するのは、部屋に据え付けられた小さな冷蔵庫の中にあるプリンくらいだろう。それを思えば、毎日のようにゲームに明け暮れている倉持は、かなり不真面目な部類に入る。
 もっとも彼はこれで競争率が高い野球部のレギュラーで、鉄壁の守備を誇っていた。
 二遊間を共に守る三年の小湊とは、良いコンビだ。足の速さも持ち味で、リードオフマンとしてチームを勝利に導いている。
 ただこうやって寮で猫背になっているところだけを見ていると、ユニフォーム姿でグラウンドを駆け回っている時とはまるで別人だ。
 入部直後、無理矢理夜更かしされた恨みはまだ消えていない。寝坊したのは完全に沢村個人の失態だが、お陰で酷い目に遭った。
 思い出して頬を膨らませた後輩を見上げ、倉持はコントローラーを床に置いた。
 位置の関係で、何を示されたのか見えなかったようだ。背筋を伸ばして上半身を揺らした彼に、沢村も場所を譲って左にずれた。
 後れ毛から垂れた雫をタオルに吸わせ、湿り気が移ったシャツの袖を軽く引っ張る。長袖を折り返して七分丈にしていたのを戻しながら、彼は怪訝にしている倉持を窺った。
 沢村が見ていたのは、卓上のカレンダーだった。
 青道高校野球部の寮は、三人部屋が基本だ。学年別に、ひとりずつ。勉強机も、その数だけ用意されていた。
 入学してまだ一ヶ月半の沢村の机は、まだ物が少ない。一方、倉持の方はといえば、おおよそ勉学に必要のないもので溢れていた。
 そんな中で数少ない例外が、卓上カレンダーだった。
 白地部分があまり大きくないので沢山書き込めるものではないが、大きな大会などはしっかり記されていた。合宿や、関東大会のスケジュールも、目立つ色で表示されていた。
 だが明日の分だけは、説明書きが何もなかった。
 昨日だったら分かるのに。個人的な意見を心の中で呟いて、沢村はまだ目を泳がせている倉持に肩を竦めた。
 物で溢れ返っているから、どれのことか言われなければ分からない。そういう態度を見せられて、彼は口を開いた。
「カレンダー。センパイの、明日のトコに丸してあるじゃないっすか」
「ああ、それか」
 言われてやっと合点が言って、俊足のショートは鷹揚に頷いた。
 ゲームを再開する気はなくなったのか、彼はおもむろに立ち上がった。リセットボタンを押して格闘ゲームを終了させ、テレビの電源も切ってしまう。
 部屋が少し暗くなった気がした。真っ暗になったモニターをちらりと見て、沢村は近付いてきた倉持に眉を顰めた。
 彼は笑っていた。何かを企んでいると分かる不敵な表情は、初めて五号室を訪ねた時を連想させた。
 嫌な予感しかしない。思わず逃げ腰になった後輩を呵々と笑い、倉持は机上のカレンダーを持ち上げた。
「教えてやってもいいけど、聞いたらちゃんとなんか寄越せよ?」
「はい? え、あ、じゃあ良いです」
「聞いてきたのはテメーだろうが。最後まで聞けやゴルァ!」
「理不尽!」
 そしてあっさり断った沢村の首を絞めると、右足も巻き込んで後ろから引き倒しにかかった。
 いきなり技を掛けられたエース志望は全力で抵抗し、体の柔らかさも利用してなんとか逃れようと暴れた。近所迷惑も顧みず、ダンダンと床を叩いて、蹴り飛ばし、暴力で言うことを聞かせようとする上級生に目を吊り上げる。
 真っ赤になって抗う沢村の声は、壁が一枚しかない隣の部屋に響くどころではなかった。
「うっせーぞ、五号室!」
 どこからか、怒号が聞こえてきた。夜も遅い時間だというのに騒ぐ彼らを叱り、抗議の声は相次いだ。
 伊佐敷の罵声に始まり、気のせいか、御幸の声も混じっていた気がする。針の筵に座らされて、倉持は渋々腕の力を緩めた。
 その隙に抜け出して、沢村は落としたタオルを拾い上げた。
「そうっすよ、倉持センパイ。夜中に騒ぐのは良くないっす」
「テメーが言うな」
 ついでにカレンダーも拾って、倉持へと差し出す。四方八方から責められた男はこめかみに青筋を立て、角が凹んでしまったカレンダーを奪い取った。
 寮での生活は、連帯責任を養うものでもある。下級生に締まりがないようでは、監督役の最上級生への目も、必然的に厳しくなる。
 増子には迷惑をかけたくない。余所の部屋に出向いている彼は、今頃居心地悪そうに、大きな体を小さくしているはずだ。
 その姿は、想像しただけで笑えてくるほど滑稽だ。悪いと思いつつ噴き出しそうになったのを堪え、沢村は用済みになったタオルを椅子の背凭れに引っ掛けた。
 そのまま座ろうとしていた彼を制して、倉持は観念したのか、溜息をついてカレンダーを机に置いた。
「誕生日だよ」
「なにがですか?」
「テメー、わざとやってんだったら怒るぞ」
「なんでそうなるんですか。……って、誰の?」
「俺のに決まってんだろうが!」
 後輩に背を向けて、少し気障ったらしく言い放つ。だが返ってきたのは予想の斜め上の回答で、痺れを切らした倉持は勢いよく床を蹴った。
 親指で自分自身を指し示し、真っ赤になって怒鳴る。正面から唾を飛ばされて、沢村は冷たさに目をぱちくりさせた。
 今度は、部屋の外から怒られなかった。それに真っ先にホッとして、彼は耳まで赤くしている先輩に瞬きを繰り返した。
 一瞬忘れかけていた会話の流れを手繰り寄せ、順を追って整理していく。最後にぽん、と手を打って、沢村は目を真ん丸に見開いた。
「それは、おめでとうございます」
 カレンダーの赤丸は、倉持の誕生日だった。
 教えられて、素で返してしまった。当たり障りのない祝福の言葉は面白みに欠けた上に、微妙に心がこもっていなかった。
 知らなかったから、驚いた。祝う気持ちよりも若干、そちらの方が大きい。沢村も正直に認めて、プルプル震えている倉持に言い直した。
「おめでとうございます、倉持先輩」
「うっせえ。聞いたからには、なんか寄越せよ」
「あ、じゃあ俺、昨日誕生日だったんで何かください」
「はああ?」
 ぱちぱちと乾いた拍手と共に告げて、照れながらも拗ねている上級生に屈託なく笑いかける。しれっと爆弾を投げ返された倉持は顎が外れんばかりに驚き、絶句して素っ頓狂な声を上げた。
 今まで、彼のこんなに高い声は聞いたことがない。そういう意味ではドッキリ成功で、沢村はにっこり微笑んだ。
「ちょっと待て。お前、……え?」
「俺、五月十五日生まれっすから」
「ウソつけ!」
「嘘じゃないですってば。証拠もあるし。ほら」
 疑われて言い返し、彼は携帯電話を取り上げた。机の上に放り出していたものを広げ、カチカチとボタンを操作して画面に何かを表示させる。
 見ろ、と突き出された倉持が目にしたのは、可愛らしくデコレーションされたメールだった。
 絵文字が大量に使われているところからして、差出人が女性だと容易に知れた。となれば、候補はひとりしか居ない。
「ぬぁ、な……なんだと」
「ほかにも来てますよ」
 着信日付を見れば、確かに昨日のものだった。その上どれも日付変更直後の零時ぴったりに届いており、彼が故郷の友人からどれだけ慕われているか、それだけでも十二分に伝わってきた。
 悔しい事に、倉持にはそういった気の利く友人が居ない。中学時代に一緒に野球をやっていたメンバーとは、嫌な別れ方をしてそれっきりだった。
 昔の仲間を振り切って青道高校に来たのは同じなのに、どうしてこんなに差がついたのか。嬉しそうに笑っている沢村に段々腹が立って来て、倉持は怒りを発散すべく後輩を蹴り飛ばした。
「ってえ!」
「うっせえ。つか、若菜寄越せ」
「なんでそうなるんスか!」
 吹っ飛んだ後輩から携帯電話を奪い、涙ながらに怒鳴りつける。いきなり出てきた幼馴染の名前に驚き、沢村は圧し掛かってきた倉持を押し返した。
 お互い尻餅をつき、肩で息を整える。ぜいぜいと荒い呼吸音が二人分、重なり合って五号室の天井に消えていった。
 風呂に入ったばかりだというのに汗が滲んで、沢村は根本がまだ湿っている髪を掻き上げた。
「先輩、友達居ないんスね」
「黙れ」
「プレゼント、ファンタでいいですか」
「やっす!」
 ぼそりと感想を述べて、睨まれたところで問いかける。今すぐにでも買って来られる缶飲料一本で手を打たれそうになり、そのあまりのお手軽さに、倉持はたまらず噴き出した。
 反射的にツッコミを入れてから、楽しげに笑っている後輩をそこに見つけ出す。どこまでも調子が良い沢村に小さく舌打ちして、足を投げ出した彼は放置したままのゲーム機に手を伸ばした。
「どーせなら、ソフトの一本でも買ってこいっての」
 このまま此処に置いていたら、心無い誰かに踏み潰されかねない。安全な場所に退避させるべく抱えあげた倉持の言葉に、沢村は嫌そうに顔を歪めた。
「そんな金、ありませんって」
「まー、そうだよなー」
 高校生の小遣いなど、たかが知れている。寮暮らしで毎日野球漬けなので、アルバイトをする暇など当然なかった。
 三食保証されているとはいえ、食べ盛りの成長期だ、それだけでは到底足りない。お菓子やジュースだって毎日のように買うし、雑誌や漫画、それに寮で使う日常品や、グローブなどを手入れする備品だってなんだかんだで必要だ。
 翌月まで残る額は、雀の涙。そんな中で、どうやって高価なゲームソフトが買えるのか。
「ちぇ。期待してたのによ」
「後輩にたからないでくださいよ」
「こいつも、もう結構前の奴だしな」
「聞いてます?」
 カレンダーの印の下を敢えて空白にしたのは、そういう狙いがあったのかもしれない。存外に策士な倉持に肩を竦め、沢村は人を無視し続ける背中にため息を吐いた。
 ただ彼の落胆も、分からないわけではなかった。
 記憶が正しければ、毎日のように倉持が遊んでいるあの格闘ゲームは、二年以上前に発売されたものだ。
 少し前に続編が出たという話も聞いている。だがそちらは、倉持の私物に含まれていなかった。
 ゲームは新品で買うと、高い。物によっては一万円近くする。そんな大金、ポンと払えるわけがなかった。
「あーあぁ。俺も祝われてーなー」
 わざとらしく声を大にして言って、倉持は沢村の携帯電話を放り投げた。
 縦長の端末を真ん中で折って閉じ、腕を振る。空中でゆっくり回転する機械に、沢村は慌てて両手を出した。
 無事に胸元でキャッチして、彼は椅子に座ってそっぽを向いた先輩に苦笑した。
 一応祝ってやったのに、足りないらしい。自動販売機のジュース程度では、機嫌を直してもくれなさそうだ。
 次の試合は、日曜日だ。明日は土曜日で、練習は午後から予定されていた。
 無論、レギュラーの大半は朝から自主練習に取り組んで、休む暇なく体を動かしている。中には買い出しに行く部員もいるが、そちらは少数派だ。
「先輩って、今、どれくらい持ってます?」
「あ?」
「俺、昨日、誕生日だったんですよね」
「さっき聞いたよ。オメデトー」
「じゃ、倉持センパイも、俺にゲーム、買ってください」
「はあぁ?」
 裏返った声を出し、倉持が椅子を蹴って立ち上がった。素足で床を踏み鳴らし、あっけらかんと言い放った後輩に詰め寄る。
 だが沢村は、睨まれても平然と笑い飛ばした。
 中古ソフトでも、人気作はまだそれなりの値段がついている。そんなもの、とてもひとりでは買えない。
 けれど。
 もし、ふたりだったら。
「あー……」
 左右の手、人差し指。一本ずつ立てて白い歯を見せた後輩の弁に、倉持は成る程、と緩慢に頷いた。
 たとえ半分ずつ出し合ったとしても、結構な出費になるのは間違いない。けれど背伸びをすれば、ギリギリなんとか届く範囲ではある。
 無駄な出費を当面控えれば良い話だ。一か月間缶ジュースを諦め、水を飲んで渇きを癒していれば、帳尻は合う。
 それにプレゼントを贈り、贈られることにもなって、丁度いい。
「馬鹿のくせに、悪くねーな」
「そのひと言は余計です!」
 素直に感心するが、嫌味も忘れない。途端に沢村は目を吊り上げて、頭の天辺から煙を噴いた。
 ぷりぷり怒る後輩を呵々と笑い飛ばして、倉持はふと、五号室で唯一空の机に目を向けた。
 増子はまだ戻ってこない。けれど消灯時間が迫っているので、あと少ししたら帰って来るはずだ。
 続けて沢村の机を見れば、その前にいた一年生が不思議そうに目を丸くした。
「倉持先輩?」
「けどよ。お前、……俺が卒業したら、どうすんだよ」
 一年前まで、その席には別の人が座っていた。
 夏の予選大会で悔し涙を呑んだかつての三年生は、この春卒業し、それぞれの道へ旅立っていった。
 彼らの血が滲むような努力も、吐きそうになるくらいの強烈な緊張も、入学したての一年生はまだ知らない。いずれ身をもって体感する日が来るが、それはもう少し先の話だ。
 突き刺さるほどに痛い太陽光を思い出して、倉持は更に先の話を口にした。
 いつか誰しもが引退して、この寮を去る。荷物は残していかない。立つ鳥跡を濁さず。きちんと片付けてから、新一年生へと引き渡す。
 けれどそれはあまりに遠い未来過ぎて、五号室に来たばかりの沢村どころか、言った本人である倉持も、ピンとこなかった。
 なんとも言えない空気が流れた。沈黙が室内を覆い隠す。一気に気まずくなった雰囲気に、倉持は失敗したと舌打ちした。
 口にするのではなかった。可愛い後輩の気遣いを喜び、嬉しがって済ませてしまえばよかったのだ。
 後悔が胸に渦巻くが、今更だ。誤魔化すか、流すか、どうしようか悩み、彼は下唇を浅く噛んだ。
 息を止め、唾を飲む。
 覚悟を決めて、口を開こうとした矢先だった。
「じゃあ、その時は俺が、先輩んトコに遊びに行きます」
 共同で何かを持つというのは、道を別った後の処分に困るものだ。双方に所有権があるものを片方に委譲する場合、揉めることが多い。
 だのにそういう面倒なことは一切考えず、沢村は事もなげに言ってえくぼを作った。
 少し前まで中学生だった高校球児は、笑うと更に幼くなった。
 身長はそれなりながら、ウェイトはまだまだ足りていない。マウンドで踏ん張るには厚みが足りず、九回まで投げ切る体力は到底持ち合わせていない。
 腕相撲をしたら、楽々勝てる自信があった。普通に組み合っても、負ける気はしない。
 そんな無邪気な一年生に絶句して、三秒後。
 倉持は逆立てた髪をくしゃくしゃに握り潰した。
「ヒャハッ」
「……先輩?」
「良い度胸してんじゃねーか、沢村。そんなに俺様が好きなら、お望み通り、一生こき使ってやるよ!」
「ちょっ。なんでそうなるんですか」
 喉を鳴らし、笑う。自然と顔が緩み、口角が持ち上がった。
 不敵な眼差しに臆し、沢村が尻込みして叫んだ。どうして今の会話からその発想に至れるのかと喚き、伸びてきた腕を避けようと左に走った。
 しかし、逃げ切れない。後ろ襟を掴まれ、引きずり倒された。
「うわあ!」
「ヒャハハ。隙あり過ぎだぜ、沢村よ~」
 瞬時に腕を固定され、技を掛けられた。その素早さは、一塁を一瞬で駆け抜ける俊敏さに勝るとも劣らないものだった。
 呆気なく上半身を囚われて、必死に足掻くが抜け出せない。懸命に脱走を試みるが、倉持もこの一ヶ月で学習したのか、対策は万全だった。
 利き腕をがっちり捕まれ、捻られた。上半身は足で動きを封じられ、脇腹から胸元を締め上げられてかなり苦しい。
「ぎ、ギブ。ギブ!」
「降参するにはまだ早いぜ、おらおらおら~」
「ただい――なにやっとるんだ、ふたりとも」
「お、増子さん。お帰んなさい」
「ぐ、ぐるじぃ……」
 息が出来ない沢村の顔が、どんどん青黒くなっていく。けれど倉持は、増子が戻って来ても力を緩めようとしなかった。
 もっとも彼が後輩を相手にプロレス技を実践し、弄り倒すのはいつものことだ。本気で絞め殺すつもりがないのは、騒々しい後輩達の保護者でもある増子も承知していた。
「あ、そーだ。増子さん、俺ら、明日の午前出かけますけど、なんか買ってくるモンあります?」
「ぐえっ」
「ん?」
 尚も抗う沢村を叩き伏せ、倉持が言った。勉強道具を机に置いた増子は興味深げに振り返り、のた打ち回っている一年生に首を傾げた。
「沢村ちゃんと?」
「ッス。荷物持ちいるんで、大きい奴でも平気っすよ」
 倉持が複数形を使ったのを聞き逃さなかった増子に、彼は鷹揚に頷いた。反論を試みた後輩をギリギリ締め上げて言葉を封じ、勝手に話を進めていく。
 仲が良いのか悪いのか、判断に困るふたりを順に見て、増子は横に広い顎を撫でた。
「それじゃあ、頼もうかな」
「ちょっと! 俺、行くとは」
「行かねーの?」
 事情が良く分からないまま流れに乗ろうとした三年生を遮り、やっと逃亡に成功した沢村が息せき切らして怒鳴った。それを瞬時に叩き落して、倉持は真顔で問いかけた。
 それが何故だか少し悲しそうに見えて、沢村は次に続く言葉を見失い、口籠った。
「う……や。行く、っす、けど」
 そんな顔をされたら、嫌だとは言えない。渋った末に頷いて返した後輩に、倉持は満足げに親指を立てた。
「んじゃ決まりな」
 今の表情も、策略だったのかもしれない。瞬時に機嫌を取り戻し、彼は調子良くに言い放った。
 ただその口調は、掛け値なしに嬉しそうだった。
 もう言い返す気力も沸かなかった。高らかと笑う倉持に肩を竦め、沢村もしどけなく笑った。

2014/05/15 脱稿