In and Out of Love

「分かりましたよ。行きますよ、行けばいいんでしょう!」
 怒鳴り、思い切り扉を閉める。バタンと勇ましい音が轟いて、自分でやったことにかかわらず、栄純は反射的に首を竦めた。
 驚いて縮こまってしまったのにハッとして、慌てて背筋を伸ばすが傍には誰も居ない。ドア越しに倉持の笑い声が聞こえて来たが、それは部屋を出る前から響いていたものだ。
 腹を抱えて笑い転げる先輩を思い出したら、自然と拳が震えた。向こうからは見えていないので強気になって、栄純は歯を食いしばると、怒り心頭でドアを睨みつけた。
 だが、こうしていたところで何も始まらない。それどころか終わってもくれなくて、虚しい時間だけが過ぎて行った。
「ちぇ」
 舌打ちで気持ちを切り替えるより他なくて、栄純は渋々五号室の前から離れると、踏み潰したままだったスニーカーの踵を起こした。
 身を屈めて左足分もちゃんと履き直し、爪先でコンクリートを蹴る。最近洗う時間がなくて、靴は随分黒ずんでいた。
 もっとも、歩き回る分には何ら不足ない。グラウンドを走るには心許ないが、これから向かおうとしているのは練習場ではなかった。
「ったく。後輩使い荒いぜ」
 軒先に干された洗濯物を避け、段差を軽く飛び越える。屋根のない空間に出た途端に視界が広がって、栄純は迷わず空を仰いだ。
 陽はとっくに沈み、藍色の闇が一面に広がっていた。月は薄い雲に隠れて輪郭がぼやけ、星は殆ど見えなかった。
 生まれ故郷との差は歴然としており、少し物足りなかった。月ももうちょっと大きく見えた気がするが、その辺は勝手な思い込みかもしれない。
 短く息を吐いて姿勢を正して、栄純はズボンのポケットを軽く叩いた。
 もれなく中に入っていたものが暴れ、金属が擦れあう音がした。裸のまま突っ込んだ小銭がじゃらじゃら言って、足を動かす度に、右に、左に移動を繰り返した。
「しゃーねえ。行ってくっか」
 その金は、同室の先輩二名から預かったものだ。頼りになる後輩、という立場を強化する為にも、栄純は腹を括り、両腕を高く掲げた。
 背筋を思い切り伸ばして頬を緩め、勇ましく一歩を踏み出す。目指すは寮の外、この時間でも営業しているコンビニエンスストアだ。
 だが。
「あっれ、沢村。お前、こんな時間になにしてんの」
 リズムよく歩き出そうとした矢先、出鼻を挫く形で背中に話しかけられた。
「うおっ」
 思わず勇み足を踏んで、前のめりに倒れそうになった。
 人の調子を狂わせた声には、嫌という程聞き覚えがある。たたらを踏んだ栄純は眦を裂き、小鼻を膨らませて振り返った。
 だが、真後ろには誰も居なかった。
 一瞬ホラーな想像をしてしまい、サーッと青くなる。だが笑い声が続けて響いて、それでやっと、相手が何処にいるのかが判明した。
 御幸一也が立っていたのは、寮の二階通路だった。
 通路を照らす蛍光灯の光を受け、黒縁眼鏡の男がひとり佇んでいた。高い位置から見下ろされるのは正直いい気分ではなくて、栄純は騙されたのにもムッとして、手すりに寄り掛かっている上級生に声を荒らげた。
「別に、なんだっていいだろ」
 相手が一年先輩だというのも忘れ、怒鳴る。その喧嘩腰の口調を呵々と笑い飛ばして、御幸は柵に預けていた腕を引っ込めた。
「あっれー? お前、そんな口利いちゃっていいわけ?」
「うぐ」
 そしていつものお気楽調子で、脅すような一言を口ずさんだ。
 一瞬だけ真顔になった彼の台詞に、栄純はしまった、と息を詰まらせた。
 部内での上下関係は、絶対だ。それに御幸は、青道高校野球部の正捕手だった。
 投手である栄純にとって、彼の存在は非常に大きい。嫌われて、臍を曲げられて、球を受けてもらえなくなったらとても困る。
 とはいえ、だからといって遜り、おべっかを使うのも癪だった。
「なんだっていいじゃないですか。消灯時間までには戻ります」
「走るのはもうダメだぞ」
「そんなんじゃねーよ」
 妥協案として、目を逸らす事にした。距離があるのでボリュームを大きくして言い直せば、御幸は少しだけ表情を緩め、目を細めた。
 オーバーワークしがちな一年生を制御するのも、上級生の役目だ。だが予想が外れた御幸はおや、と小首を傾げ、口を尖らせて不満げな後輩をじっと見つめる。
 三秒後。
 ふっと鼻から息を吐き、彼は白い歯を見せて笑った。
「ははーん。さては倉持のパシリか」
「げっ」
「ふーん? いいな。俺も一緒にいこっと」
「げげっ」
 栄純と同室なのは、ショートを守る倉持と、サードを守る増子の二人だ。
 どちらも一軍メンバーで、守備の要であり、攻撃の柱だった。そして栄純も控え投手としてベンチ入りしており、五号室の全員が背番号持ちだった。
 そんな優秀な部屋の一年生は、ルームメイトにとても可愛がられていた。
 特に倉持は、プロレス技の練習台として頻繁に彼を利用している。今日のように消灯時間間際になって買い物に走らせるのも、本人の弁を借りれば、愛の鞭なのだそうだ。
 お調子者の一面を覗かせて告げ、御幸はくるりと身体を反転させた。階段を目指して動き出した彼にぎょっとして、栄純は若干怯え気味に身構えた。
 本音を言えば嫌なのだが、断ったら後が怖い。それに行き先が知られてしまっているので、もし先走って逃げたとしても、追い付かれるのは明白だった。
 ならば大人しく、先輩をこの場で待つしかなかった。
「んじゃ行くかー」
「べ、別にいいっすよ。欲しいモンあるなら、俺がひとっ走りして」
「いやいや、遠慮すんなって。俺も丁度散歩してー、って思ってたトコだし」
「……ぜってー嘘だ」
「なんか言ったか?」
「いいえ、何もありません!」
 リード面で強気なだけでなく、案外耳も良い。ぼそっと呟いたひと言を拾われて、栄純は慌てて気を付けのポーズで叫んだ。
 幼馴染と地元の学校に進むつもりでいた栄純が、親元を離れて東京の青道高校に進学したきっかけは、彼の存在だった。
 あの日聞いた、ボールがミットに収まる瞬間の音。あんな風に心を震わせる音色を耳にしたのは、生まれて初めての経験だった。
 だから彼にボールを受けてもらいたくて、青道に入学した。だのに思惑に反し、想定外の事態が頻発した。
 憧れを抱いていたキャッチャーが、実はかなり性格が悪かったのもそのひとつだ。投球練習をさせてもらえるようになったのだって、入部後、かなり経ってからだった。
 御幸がミットを構えてくれる機会は未だ少なく、頭を下げて頼んでも全然だ。それは三年生のクリスも同様だが、まだ彼の方がずっと篤実で、優しかった。
「んで、倉持に何頼まれたんだ?」
「なんで御幸……センパイに言わなきゃなんないんですか」
「んー? ま、いいけど。あんまり生意気言ってると、折角アイスでも奢ってやろーかと思ってたのに、止めにしちゃおっかなー」
「え、マジで!?」
 もしクリスが怪我で脱落していなかったら、御幸はどうなっていただろう。正捕手になれずに腐っているとは思えないが、マスクを被らずにベンチにいる彼の姿は、どうやっても想像出来なかった。
 文字通り甘いひと言に誘われて、声が上擦った。想定外の展開に栄純は目を輝かせ、現金な後輩に御幸は苦笑した。
「ゲームに負けた罰か?」
「そうなんっスよ。あとちょっとで俺が勝つって時に、いきなり邪魔してくるから結局、こう」
 五号室のテレビにはゲーム機が繋がれていて、他の部屋の部員もたまに遊びにいっていた。倉持はきっと負けそうになって、隣でコントローラーを握っていた栄純を、物理的に攻撃したのだろう。
 光景が浮かんで、御幸は堪え切れずに噴き出した。栄純は思い出してまた腹を立て、横暴極まりない先輩に口を尖らせた。
 身振りを交えて当時の様子を説明するが、御幸はあまり真面目に聞いていなかった。それにも若干ムッとして、栄純は寮の出口を大股で踏み越えた。
 通い慣れた道を勇ましく進み、いつもの癖で角を曲がる。間違って練習場へ行こうとしているのに気付いて、慌てて軌道を修正したところで、後ろから押し殺した笑い声が聞こえてきた。
「……くっ」
 恥ずかしさにひとり赤くなり、栄純は両拳を震わせた。
 正面を向けば二面ある練習場のフェンスが聳え立ち、夜闇の中でも異様な存在感を放っていた。
 明日も日が昇るころには起き出して、誰よりも早くグラウンドに出て走り込みだ。朝食前に軽く胃に入れる物も一緒に買ってくる事に決めて、彼はもう一度、ポケットの硬貨に指を伸ばした。
「しかし、今は便利になったよな」
「ん?」
 硬い感触を布越しに確かめ、ホッと胸を撫で下ろす。横から聞こえた声に顔を上げれば、追いかけてきた御幸が遠くを見つめていた。
 視線は交わらない。凛とした横顔だけを見せつけられて、栄純は思わず彼の方へ身を乗り出した。
 近づく気配を感じたのだろうか。それでようやく、御幸は栄純に笑いかけた。
「知ってるか? コンビニが出来るまで、先輩たち、三キロ先の店まで走らされてたらしーぜ」
「げっ。マジで?」
「しかもその店、九時半時閉店だとかでさ。もし間に合わなかったら、そっからもっと遠い店まで、全力ダッシュ」
「ひ~~……有り得ねえ」
「それに比べて、お前らは恵まれてていいよなあ。二十四時間営業が近所に出来てさ」
 フェンスを左手に見つつ、足を動かしながら御幸が言う。テンポは遅めで、ゆったりだった。
 閉店時間を気にしなくて済むからこその、このペースなのだろう。普段よりもずっと鈍いのに慣れなくて、栄純は羨ましそうに呟いた彼の違和感にも眉を顰めた。
「なあ。それ、いつの話?」
 寮近くのコンビニエンスストアには何度か足を運んでいるが、建物は言うほど新しくない。少なく見積もっても、築三年は経過しているはずだ。
 三年生の増子からもそんな話は聞いたことがなくて、怪訝に問い返した栄純に、御幸はしたり顔で口角を歪めた。
「んー。十年くらい前?」
「ンな昔かよ!」
 茶目っ気たっぷりに教えられて、突っ込まずにいられなかった。
 相手が誰なのかも忘れて盛大に怒鳴り、荒く息を吐いて肩を上下させる。一瞬で跳ねあがった心拍数を宥めるべく唾を呑めば、反応を面白がった御幸が腹を抱え込んだ。
 十年も前なら、御幸だってまだ青道に入学していない。コンビニエンスストアが出来た恩恵を受けているのは、彼も同じだ。
 危うく騙されるところだった。ホッと胸を撫で、栄純は悪戯が過ぎる先輩をねめつけた。
 その生意気な眼差しを正面から受け止めて、御幸はふっ、と鼻で笑った。
「ちなみに、俺、先輩な?」
「……ム?」
「て、ことで。タメ口利いた罰として、アイスはなーっし」
「えええーーーーー」
 自分を指さし、不遜に胸を張る。嫌な予感を覚えた栄純は眉間に皺を寄せ、続けて放たれたひと言に絶叫した。
 ムンクの叫び宜しく身を捩り、すっかり失念していたと奥歯を噛み締める。奢りでアイスを食べる気満々でいたのに裏切られて、悔しさに涙が出そうだった。
「オーボーだ。ショッケンランヨーだー」
「お、難しい言葉知ってんな。けど、使い方間違ってんぞ、こら」
「あでっ」
 喚いていたら、額を小突かれた。緩く握った拳を当てられて、骨同士がぶつかった衝撃に、栄純は思い切り頬を膨らませた。
 拗ね顔で睨まれた御幸は肩を揺らして笑い、両手をポケットにねじ込んで前に向き直った。
 道の両側には目立った建物もなくて、見晴らしは抜群だった。夜間照明のシルエットが暗がりにぼんやり浮かび上がり、雲間から覗く月が遠慮がちに地表を照らしていた。
 御幸が二歩分前に出て、栄純に背を向けた。風呂上りで乾ききっていない後ろ髪が明後日の方向に跳ねて、彼が歩く度にひょこひょこ揺れるのが面白かった。
「ちょっと寄り道してくか」
「え?」
「沢村、こっち」
 道は十字路に差し掛かり、進路を選べとふたりに迫った。迷わず真っ直ぐ行こうとした栄純だが、左に寄った御幸に手招かれ、目を丸くした。
 コンビニエンスストアがあるのは、この先の通り沿いだ。左に進むと、かなりの遠回りを強いられる。
 だが彼は戸惑う一年生を待たず、返事も聞かずにさっさと曲がってしまった。
 もしや先ほど話題に出た、九時半閉店の店を狙うつもりなのか。
 嫌な予感が胸を過ぎり、疑いの目を広い背中に投げる。だが御幸は意に介さず、黙々と細い道を進んだ。
 寮の近くよりは街灯が増えたものの、人家は少なく、景色はもの寂しかった。
 遠くで一瞬光って消えたのは、帰りを急ぐ車だろうか。あまり来た事のない場所に連れてこられて、栄純は興味深げに辺りを見回した。
 すれ違う人はなかった。振り向けば、寮の灯りはもう見つけられない。ちゃぷん、と水が跳ねる音がしてそちらに顔を向けると、前方に橋があるのが分かった。
「御幸?」
「こっちこっち」
 どれくらい歩いたのか、夜の所為で感覚が曖昧だ。昼間とはまるで違う世界に目を凝らし、栄純は河川敷へ降りる石段に爪先を置いた。
 土手は舗装されておらず、一面芝に覆われていた。一緒に植えられている樹木は緑の葉を茂らせ、天に向かって腕を広げていた。
「おお」
 河川敷は遊歩道が整備され、自転車が作った轍が何本も残っていた。覗き込んだ川面は黒く濡れ、流れは弱く、殆ど無いに等しかった。
 魚でも棲んでいるのか、また水が跳ねた。ぴちゃん、と響く音色にびくっとした栄純を振り返り、御幸が呵々と笑った。
「あれさ、桜なんだぜ」
「へえ」
「お前は知らないだろうけど、春になると、この辺、マジでスゲーから」
 今は禍々しく見える木々も、冬を越えて暖かくなる頃には様相が激変する。対岸に植えられた分も合わさって、川はピンク色に染まるのだ。
 その美しさに惹かれ、多くの人が訪れる。寮生は関係ないが、青道高校に通う生徒も大勢、遠回りをしてでも桜の下を潜りたがった。
 教えられて、栄純は改めて周囲を見回した。
 今はとてもそうは思えないけれど、御幸がそこまで褒めるのだから、きっと本当に、とても素晴らしい光景なのだろう。
 来年の楽しみが出来た。まだまだ遠い未来に思いを馳せて、栄純は胸を躍らせた。
 興奮に頬を赤らめ、口元を緩める。楽しそうに笑っている彼を見つめ、御幸も口の端を持ち上げた。
「んで、その桜目当てのカップルの真後ろで大声出して、ビックリして離れたところをぶった切ってランニングすんのが、すっげー楽しいんだぜ」
「アンタ最低だ」
「はい、またタメ口ー」
 矢張りこの男は、相当に性格が悪い。
 しれっと最悪なことを言われ、栄純はげんなりしながら御幸のチョップを受け止めた。
 頭の天辺を叩かれたが、あまり痛くない。ちゃんと手加減されていて、それが妙にこそばゆかった。
 カップルへの悪戯云々はさておき、イヤな奴ではあるが、悪い男ではない。実際、彼と野球がしたくて地元を離れたわけだから、好きか嫌いかと訊かれたら、天秤は前者に傾いた。
 ただそれを正直に認めるのは、癪でならなかった。
 打たれた場所を両手で押さえ、不満たらたらに御幸を睨む。彼は上機嫌に胸を反らし、茶目っ気たっぷりに笑った。
 プレイヤーとしては尊敬するに値する男だが、それ以外との落差があり過ぎるのが残念だ。マスクを被っている時はあんなにも格好良くて、誰よりも強くて、頼もしいのに。
「……へ?」
 彼のリードに、何度助けられた事か。
 そこまで心の中で呟いたところで、栄純は絶句して目を丸くした。
「沢村?」
 裏返った声の後に凍り付いた彼に、御幸もきょとんとなった。
 一瞬で入れ替わった表情を訝しげに見つめ、動かない栄純に向かって試しに手を振ってみる。それでも反応が得られなくて首を傾げていたら、いきなり真っ赤になった後輩が挙動不審に暴れ出した。
「なな、なっ、なんでもない!」
「大丈夫かよ、おい」
「へっ、へへへ、ヘーキ。ヘーキ、だから」
 突如奇声を上げて叫び、伸ばされた手を跳ね返す。その間も彼は意味不明な動きを見せて、土手の傾斜を駆けあがった。
 転がるように走り出した一年投手に目を見張り、ある程度距離が離れたところで、御幸は肩を竦めて桜並木に視線を流した。
「つーかさ。ま、正直、ちょっとうらやましいわけよ」
「御幸?」
「だってよ、俺らって青春全部、野球に注ぎ込んでるわけだろ? それが嫌っていうわけじゃないし、別に後悔してるわけでもねーけど。なんつーか、お気楽にいちゃついてる奴らを見てたら、そういう道もあったんだろうな、ってな」
「……よく分かんねえ」
 坂の途中で足を止め、栄純がかぶりを振った。風に流れた小声をしっかりキャッチして、御幸は静かに目を閉じた。
 瞼の裏に浮かんだのは、淡い紅色の洪水だ。
 今年の桜も、綺麗だった。
 見物人は山のようにいた。家族連れも、友人同士も多かったが、仲睦まじげにしている恋人たちも、数えきれない程溢れていた。
 野球漬けの毎日は楽しいし、好きなことに没頭出来るのは幸せだ。心強い先輩方に、面白い後輩もいる。
 青道高校を選んだのを悔やむつもりはない。
 ただあの時、少しだけ寂しかったのも本当だ。
「だからさ、俺、思ったわけよ」
 斜面を滑り落ちないよう踏ん張っている一年に近づき、緩く拳を作る。サク、と芝を踏む音が心地よくて、川面を走る風は優しかった。
「なにを?」
 真っ直ぐな眼差しと、質問が飛んできた。ストレートだと言い張るボールですらぐにょぐにょ曲がる変化球タイプのくせに、こういう時だけ彼は、降谷に負けない剛速球使いだった。
 堪らず苦笑して、御幸は追い付いた後輩に目尻を下げた。
「次、この道を歩く時はさ。惚れた相手と一緒に――なんてな」
 最後は照れ臭さに負けて、茶化し気味になった。笑い声に混ぜて言い切って、御幸は後頭部を掻き回した。
 柄にもないことを口にしたと、ひとり頬を赤くする。気まずさを覚えて鼻の頭も引っ掻いて、彼は遠慮がちに傍らを窺った。
 薄い月明かりに照らされた世界で、栄純はぽかんと間抜け顔を晒していた。
「アレ?」
 なんだか、予想していた反応と違う。
 呆気に取られ、肩がカクンと下がった。日本語が通じなかったのかと危惧して、思わず変な声が出た。
 それでやっと、栄純は嗚呼、と目を瞬かせた。
「お、おおぉ……イイっすね、それ。つーか、やっぱキザだな、アンタ!」
「お、おう?」
「くぁ~~~、くっそー。やっぱイケメンって奴は、そういうクサい事ばっか考えてたりすんのか~」
 直後握り拳を作り、足を踏み鳴らして雄叫びを上げる。何故か褒められた後に貶されて、御幸はどう返して良いか分からず頬を引き攣らせた。
 坂の途中で地団太を踏んで、栄純は今し方聞かされた将来図を脳裏に描き出した。
 満開の桜、そこを行く人の群れ。
 賑やかな雑踏、そこに紛れ込む見慣れた背中。
 幸せそうに笑う彼の隣には、まだ見ぬ美女がひとり。
 悪くない図だった。むしろ、これぞ理想のカップル像、と言えそうな光景だった。
 羨ましすぎて、涙が出そうになる。チリチリと胸を焼く痛みも無視して、彼は惚けたままの御幸に笑いかけた。
「アンタに選んで貰った人は、幸せモンだな」
 言っているうちに、鼻の奥がツンと来た。それさえも気づかないフリをして、栄純は相好を崩した。
 御幸は、返事をしなかった。
 一瞬驚いたように目を丸くして、惚けた顔になった。そしてひと呼吸置いて、唇をきゅっと引き結んだ。
 表情が険しくなったのは、瞬き一回分にも満たない僅かな時間だった。
 妙な沈黙が流れた。何も間違った事を言っていないはずなのに、御幸の冴えた眼差しが恐ろしかった。
「……れ?」
 どうして何も言ってこないのだろう。
 発言内容の選択を誤ったかと不安になり、栄純は笑顔を凍り付かせた。
 頬の筋肉がヒクリと震えて、口の形が変に歪んだ。不格好極まりない後輩の顔を数秒無言で睨みつけて、青道高校野球部の正捕手はやがて、深く、長く、ため息を吐いた。
 非常にわざとらしい仕草で肩を竦め、首を振り、脱力して頭を抱え込む。怒りを誘う行動を立て続けに見せられて、栄純は真っ赤になって地面を蹴り飛ばした。
「な、なんだよ」
「いや。バカなのは知ってたけどさ。分かってたんだけどなー、沢村が馬鹿だって事くらい」
「バカバカ言うな!」
 一度ならず二度も繰り返されて、堪忍袋の緒が切れた。
 怒りに任せて怒鳴り散らし、頭の天辺から煙を噴く。だが御幸は呵々と声を響かせるだけで、まるで相手にしなかった。
 ひと頻り笑って満足したのか、彼は目尻を拭って息を整えた。
「はー……やっぱ面白れーな、お前」
「うっせ」
「つーか、タメ口禁止だっつの」
「あイダ!」
 二度深呼吸して、悪態をついた後輩の脛を思い切り蹴り飛ばす。低い位置からの一撃は避けられなくて、栄純はその場でぴょんぴょん飛び跳ねた。
 倉持のタイキックに負けない痛さに顔を歪め、勝ち誇った笑みを浮かべる御幸をねめつける。まさか彼にまで蹴られる日が来ようとは夢にも思わず、腹立たしさに震えが止まらなかった。
 だが、相手は一応上級生。歯向かった後のことを考えると迂闊な真似は出来ず、ひたすら耐えるより他に術はなかった。
「おのれ、おのれぇ……」
 蹲って呻いている栄純に苦笑して、御幸は来た道に顔を向けた。
「そろそろ戻るか。あんまり遅くなると、うるせーからな」
 本来の目的である買い物も、まだ済んでいない。寄り道は終わりだと涼しげに宣言して、彼は短い芝を踏み潰した。
 背筋を真っ直ぐ伸ばし、交互に足を動かす姿は悠然としていた。それが却って人を寄せ付けず、拒絶しているようにも感じられた。
「御幸?」
 違和感を覚える背中に、栄純は小さく首を傾げた。
 普段と全く同じに見えるけれど、少し違っているようにも感じられた。身にまとう空気が冷たい、とでも言うのだろうか。表面上は穏やかなのに、怒っている風にも映った。
 一変した雰囲気に戸惑い、目を瞬く。だが彼は栄純を待たず、土手を登っていった。
 橋の袂を目指し、斜めに進む足取りに迷いはない。早くしなければ追い付けなくなると怖くなって、栄純は慌てて立ち上がり、勢い余って転びそうになった。
「わわっ」
 倒れかけた身体を左腕で支え、地面を引っ掻く。中指が土を抉り、黒くて小さい塊を弾いた。
 悲鳴は御幸にも聞こえたはずだ。けれど大丈夫かと声を掛けることもなければ、様子を確かめて振り返る事もなかった。
 御幸が自分を見ない。
 こんなにも近くにいるのに、無視されている。
 いったいどうしてなのか。
 何が悪かったのか。
 自分が彼に、何をしたというのか。
 訳が分からなくて混乱して、栄純は大きく鼻を啜り、力いっぱい顎を噛み締めた。
 ガリッ、と奥歯が擦れあって歪な音を立てた。胸いっぱい息を吸い込んで、屈んでいたのを良い事に、クラウチングスタートを決めて一気に加速する。
「みゆき、かぁずやああぁぁぁぁぁ!!」
「げっ」
 絶叫しながらの猛ダッシュには、流石の御幸もギョッとせざるを得なかった。
 猛烈な勢いで駆けてくる後輩に気付き、咄嗟に逃げようと構えるが僅かに遅い。シャツの後ろ襟を掴んで思い切り引っ張られ、首が絞まった男は慌てて肌と布の間に指をねじ込んだ。
 締め付けに抵抗して気道を確保し、それでも引っ張るのを止めない一年生に頬を強張らせる。荒い鼻息も聞こえて来て、大人げないことをしたと、彼は自分自身に苦笑した。
「こーら、止めろ、バカ。服が伸びんだろ」
 このシャツは最近買ったばかりで、まだ数回しか袖を通していない。それをダメにされるのは惜しくて、御幸は声を高くして後ろを振り返った。
 仰け反るように首を傾け、怒り心頭で目を吊り上げているだろう馬鹿の顔を覗き込む。
 瞬間。
 目が合った一年生はハッと息を呑み、唇を震わせ凍り付いた。
「沢村?」
 風が吹いた。今は緑の葉が茂るばかりの木立が一斉に細波立ち、車道を走る車のライトが闇を眩しく照らし出した。
 様子がおかしい後輩に首を傾げ、御幸が目を眇める。その一挙手一投足に目を見張り、栄純突如、耳から湯気を噴いた。
「あ、うぁ、う……」
 意味不明に呻いた後、ふるふる首を振って顔を伏す。表情を隠して俯いてしまった彼に、御幸は眉を潜めた。
 見ようによっては背中に縋り付く格好で、活動を停止されてしまった。布に絡みつく左手もそのままで、シャツの表面には大量の皺が刻みつけられた。
 顔を背けられる直前、見えた肌色は真っ赤だった。急変した態度にも怪訝に首を傾げ、御幸は一先ずシャツを放して貰おうと手を伸ばした。
 筋張った彼の利き手に指を翳し、覆うように重ね合わせる。熱が交錯した瞬間、ビクッと大袈裟に竦み上がった一年生は、いつもの喧しさが嘘のように静かだった。
「どうしたよ、沢村」
 彼がこんなだと、調子が狂う。早く普段通りに戻って欲しくて問いかければ、熟した林檎と化した左腕が、絞り出すように言葉を紡ぎ始めた。
「次、って」
「ん?」
「次は、って。あんた、さっき」
 その耳の先、首の後ろまで、見事な朱色だった。
 彼の声は掠れ、震えていた。音量は限りなく小さく、自信なさげで、今にも泣き出しそうな雰囲気だった。
 咄嗟に返事が出来なかった。相槌を打つことも、受け流して誤魔化す事も、なにひとつ、出来なかった。
 絶句し、御幸は三秒後、遠くに視線を投げた。
 馬鹿の赤面が移った。蘇った自分の台詞があまりにも恥ずかしくて、格好悪くて堪らなかった。
「いや、あれは……」
 次、この道を通る時は。
 好きになった人と、一緒に。
 ではその『次』、とは。
 いつを指しての、『次』なのか。
 どの時点で、彼はそう思うようになったのか。
 彼が告げた『次』の起点は、いつの事か。
 今、御幸は栄純と一緒にいる。
 彼が思い人と共に歩きたいと願った場所に、今、彼と一緒に居るのは――
「おっそ」
 思わず口を衝いて出た言葉は、嘲笑混じりだった。
 緩みたがる口元を右手で覆い隠し、聞こえた瞬間憤慨した馬鹿の手を払い除ける。エース志望の左腕は散々文句を喚き散らして暴れたが、御幸は相手にしなかった。
 彼の評価を、少し改めなければならないかもしれない。言うほど馬鹿ではなかったと口角を歪め、こみあげて来た笑いを懸命に押しとどめる。
 それでも少しは漏れてしまって、獣のように吼えている後輩に、御幸は破顔一笑した。
「もしかしてお前、あれ、本気にしちゃったの?」
「ぬおっ」
「沢村って意外に乙女ちっくなんだな」
「だ、ばっ……ちげーって。ンなんじゃねーよ!」
 元はと言えば、御幸が言い出した事だ。それを棚に上げての発言に絶叫して、栄純は赤く染まった顔を両手で覆い隠した。
 もしかしなくても、上手い具合に騙されたのだろうか。この男の性格の悪さは前々から承知していたのに、神妙な表情の所為で、すっかり信じて込んでしまった。
 勘違いが恥ずかしくて、今すぐここで死んでしまいたかった。
 いや、死ぬのは困る。野球が出来なくなるのは死んでも御免だ。
 となれば、穴に飛び込むしかない。だが穴はなくて、そこにあるのは川だけだ。
 あの程度の水深なら溺れる心配はないし、足を取られて流される事もない。ただ残念なことに、泳ぐのには若干季節が早かった。
 夏まで待つしかないのか。けれどそれでは遅すぎる。第一夏の予選大会が始まったら、海に行くどころの騒ぎではない。
 いや、そもそも何の話だったのか。
 思考があらぬ方向へ、際限なく突き進んでいく。変なところでぐるぐるしている栄純に、御幸は苦笑したままため息を吐いた。
「やっぱ、沢村は、沢村か」
 単純で、馬鹿正直で、真っ直ぐで、一途で。
 これほど見ていて飽きない人間は珍しくて、一緒に居て楽しい人間は少ない。本人が望んだわけではないのに自然と周囲に人が集まって、賑やかで、騒々しくて、誰彼構わず引き寄せて、惹きつけて。
 キャッチャーとしてだけでなく、人として、好奇心を擽られた。
「ほーら。いい加減、行くぞ。倉持が首なが~くして待ってんだろ」
「うわ、やっべ。そうだった」
 コンビニエンスストアへの買い物は、自分だけの用事ではない。
 すっかり忘れていたと声を高くして、栄純は頭を抱えていた両手をバッと広げた。
 寮を出発してから、もうかなりの時間が過ぎていた。元々短気で怒りっぽい倉持だから、今頃部屋で苛々しているに違いなかった。
 走って戻っても、許してもらえそうにない。プロレス技の実験台にされるのは、火を見るよりも明らかだ。
 御幸などに振り回されている場合ではなかった。こうしては居られないと憤りは一旦脇へ捨て置いて、栄純は土手を登りきるべく大股に踏み出した。
 その手を。
 御幸が。
「ちょっ」
「いーじゃねーか。減るモンじゃねえし」
「そういう問題じゃね……ってか、アンタ、何考えてんだよ」
 いきなり横から掴み取られ、慌てて振り払おうとするが逃げられない。四本の指を揃って握りしめられて、傍に来るよう引っ張られた。
 つんのめり、抗って、耐える。思い通りに動かない後輩に苦笑して、勝手な男は愉快そうに目を細めた。
「倉持には言っていいぜ。俺の所為で遅くなったって」
 右腕で人を押し退けようとする生意気さに相好を崩し、そっと囁く。同時に逃げられないよう指を絡めて握り直せば、鎖に囚われた一年生は赤い顔で唇を戦慄かせ、もごもごさせた末に上唇を尖らせた。
「アンタやっぱ、性格悪すぎだ」
「ははは。今更?」
 目も合わせぬまま吐き捨てられた。褒め言葉として受け取る事にして、御幸は栄純の手を引き、土手をゆっくり登り始めた。

2014/04/05 脱稿