Boy Strange

 こいつにだけは負けたくない、という奴がいる。
 同じ一年生で、ポジションも同じ。名前は降谷といって、悔しいが次期エースと目されているのは彼奴の方だ。
 だが、だからといって背番号一番を諦めるつもりはない。マウンドを譲る気はないし、チームを勝利に導くのだって常に自分でありたかった。
 だから、走る。下半身強化に勤しみ、フォームの安定とコントロール能力を磨くのを忘れない。ついでに体力もついて万々歳だ。
 夜遅くまでグラウンドに残り、タイヤと戯れるのはすっかり日課になっていた。最初は一周するのにかなりの時間を要したけれど、今なら三個くらい平気で引っ張れる気がする。そんな調子でひとり孤独に耐えていたのだけれど、いつの間にか、当たり前のようにグラウンドを並走する奴が現れた。
「テメ……っ、びっくりさせんじゃねえ!」
 今日もご多分に漏れず、たっぷりグラウンドを走った。日はとっぷり暮れて暗く、照明が灯らないグラウンドでは月明かりだけが頼りだった。
 自分の影さえも見えない中で、前だけを向いて地面を蹴る。全身の筋肉が悲鳴を上げ、関節は軋み、肺は引き攣って息をする度に喉が焼け焦げそうだった。
 それでも己に鞭打って、黙々と足を動かす。すべては一歩でも先へ進み、背後に迫るライバルを引き離す為。
 そしてもうこれ以上は無理だと白旗を振って、無人のベンチ前でゆっくりペースを落とした。引きずっていたタイヤと腰を繋ぐロープが撓んで、ずっと遠慮していたらしい汗がどっと溢れ出した。
 暑くてたまらず、立っているのも億劫だった。座り込みたい衝動を堪え、栄純は軽く曲げた膝に両手を置いて背中を丸めた。
 直後、だった。
 どすん、と背中に圧力を感じた。耐えきれず、力の入らない膝があっさり崩れ落ちる。いったい何が倒れて来たのかと思えば、耳元で荒い呼吸音が聞こえた。
 今にも息絶えてしまいそうな、苦しげな息遣いだった。
 うなじを擽る熱風に全身の毛が逆立って、栄純は堪らず悲鳴を上げた。大慌てで背中に凭れかかってきた男を押し退け、ついでに身体を反転させて尻餅をつく。
 さしたる抵抗も見せずに跳ね除けられたのは、栄純のチームメイトであり、何が何でも負かしたい相手だった。
 鳥肌が立った首筋を左手で押さえながら怒鳴り、地面を蹴って砂煙を巻き起こす。スパイクに削られたグラウンドには浅い穴が出来て、勢い余った左足が黒いタイヤにぶつかって止まった。
 本当は後退したかったのだけれど、休憩なしで長時間走り続けたのと、タイヤが重かったのとで動けなかった。戦友とも呼べる存在が思いがけず足枷になって、栄純は苦虫を噛み潰したような顔を作った。
 一方の降谷はといえば、相変わらずぜーぜーと肩で息をして、元から小さい目は更に細められて糸になっていた。
 視線は宙をさまよい、安定しない。目の前にいる栄純が見えているのかも怪しかった。
「おーい?」
 頭がぐらついて、そのうち倒れそうだ。流石に心配になって、栄純は小声で呼びかけ手を振った。
 けれど反応は得られない。体力の限界まで走りきって、力尽きる寸前としか思えなかった。
「お前なあ……」
 一軍に上がって登板回数が増えた降谷の課題は、体力強化とコントロール。剛腕投手として名が知られつつある彼だけれど、制球が甘く、高めに浮いたところを痛打される回数は日に日に増えていた。
 だからもっと走り込みをするよう、監督や、正捕手の御幸からも口を酸っぱくして言われていた。
 そういうわけで、いつの間にか降谷は、栄純と一緒に遅くまでグラウンドに居残るようになっていた。
「生きてるかー?」
 他の部員はとっくに引き上げて、今頃寮で寛いでいる頃だ。汗と、倒れた弾みで付着した土にまみれた状態では、とても寝床に入れない。
 寮に帰って、風呂に入って、着替えて、頭を乾かして。そういった日常生活をこなすのにも、体力は必要だ。それだというのに、降谷はギブアップ寸前だった。
 栄純が彼に負けたくないと思うように、降谷もまた、栄純に負けたくなかったのだろう。自分だけ先に戻るのが嫌で、意地を張ってこの有様だ。
 いつだって全力で、ペース配分などこれっぽっちも考えない。御幸に散々怒られていることをこんなところでも披露した彼に、栄純はたまらず苦笑した。
「お前、大丈夫かよ」
「……へい、き」
 そうは思えないが念のため聞けば、案の定の返答があった。
 短い返事の間に息継ぎを挟まなければならないくせに、強がりを止めようとしない。そういう根性が据わっているところは嫌いではなくて、栄純は呵々と笑うとゆっくり立ち上がった。
 腰に回したロープを頭から引き抜き、降谷にも外すよう目で告げる。指示された方はワンテンポ遅れて頷いて、頑丈で太い縄を掴もうとした。
 しかしベルトに引っかかっているのか、指は空を切った。
「あれ」
 二度目の挑戦でなんとか捕まえ、上から引き抜きに掛かる。だが腕を動かした途端に指からロープが滑り落ちて、力なく膝の上に落ちた。
 もう一度やっても、結果は同じだった。
 握り締める力さえ残っていないらしい。こんなになるまで走り込む必要など無かった。無計画すぎる彼に呆れて溜息をつき、栄純は仕方なく身を屈めた。
「馬鹿じゃねーの」
「君に言われたくない」
「ああ? 喧嘩売ってんのか、テメー」
 意地っ張りにも程がある。もっとも気持ちは分からないでもなくて、栄純は口ぶりとは裏腹に、降谷のロープを外してやった。
 太腿に寝転がる紐を掴み、真上へと持ち上げる。ロープが擦れて出来たであろう上着に残る黒ずみは、この暗さでも充分目立った。
「しゃーねーから、コイツは、心優しい俺様が片付けて来てやる。お前は先戻って、風呂でも入ってろ」
 仲良くするつもりはないが、その頑張りや根性は認めざるを得ない。力が入らなくて当分立てそうにない降谷に言って、栄純は彼のタイヤに手を伸ばした。
 だがそれを、横から伸びてきた腕に邪魔された。
「いい。自分で出来る」
「はあ? なに言ってんだ。ふらふらのくせに」
 手首を掴まれ、栄純は素っ頓狂な声を上げた。だが降谷は意地を貫き通すつもりらしく、頑として譲らなかった。
 とはいえ、彼に任せたらどうなるか。ひとりグラウンドに置き去りにするのも、正直気が引けた。
「……チッ」
 そこまで意地悪い人間になりたくなかった。一瞬の葛藤に舌打ちして、栄純はボールなどを収納している用具倉庫に目を向けた。
 照明がないのではっきりとは見えないものの、おおよその見当をつけて背筋を伸ばす。つられた降谷もそちらに意識を向けて、肩を数回、上下させた。
 その直後。
「ふわーっはっはっは。タイヤはもらったー!」
 栄純は自分が使っていたタイヤの穴に足を入れ、降谷が使っていた分を頭上に担ぎ上げた。
 そのままスポンと胴に通し、もう一個もまとめて抱えあげる。一気に胴回りが太くなった彼を見て、降谷はぽかんと目を丸くした。
 止める暇もなく駆けだした背中を見送り、出しそこなった手を膝に置く。無理をしているのが丸分かりの姿を眺めていたら、いきなり視界から消えられて驚いた。
「あ、転んだ」
 ぽつりと言って、降谷はよろめきつつ立ち上がった。
 派手にすっ転んだ栄純は、他に見ている人がいないのに慌てて起き上がって左右を見回した。それから最後に後ろを見て、一目散に駆けて行った。
 足がもつれていたのは彼とて同じなのに、無理をするからああなる。タイヤのひとつ運ぶくらい出来たと愚痴を零し、降谷は額に伝う汗を袖に押し付けた。
 そして、
「……臭い」
 少し悲しそうに呟いた。
 腕を下ろし、緩く首を振る。途端に頭がくらっと来て、栄純を倣ったつもりはないが、倒れそうになった。
 両足を広げて辛うじて踏み止まり、ホッと安堵の息を吐いて喧しい心臓をシャツの上から握りしめる。落ち着きかけていたのが再び五月蠅くなって、酷い耳鳴りに彼は顔を顰めた。
「疲れた」
 追い払おうとしても消えてくれない疲労感に、愚痴が止まらなかった。
 早く着替えて、熱いシャワーを浴びて、布団に飛び込んで眠ってしまいたい。けれど寮に戻るのは億劫でならず、許されるなら一歩も動きたくなかった。
 しばらく待てば多少は体力が回復すると思うものの、誰も居ないグラウンドでひとり過ごすのは寂しい。あの頃とは違うと分かっていても昔の記憶が蘇って、降谷は遠くに視線を投げた。
 少し前までここで騒いでいた人物は闇に紛れ、存在は見出せない。けれど先に寮に帰ったとも思えなかった。
 グラウンドはフェンスに囲まれており、出入り口は限られている。それは現在地であるベンチ近くにあって、備品倉庫とは逆方向だった。
 いくら活動的で騒々しい男とはいえ、金網を登っていく、とは考え難い。そして降谷も、近くを通りがかられて気づかないほど間抜けではない。
 遠くと近く、両方を交互に見比べてから、彼は止まらない汗に半眼した。
「だる……」
 今更口に出さずとも分かりきっている感想を述べて、昼に比べると少し冷たくなった空気を吸い込む。肺胞の隅々にまで酸素を行き渡らせて、絞り出したエネルギーを用い、久方ぶりの一歩を大地に刻み付ける。
 ふらつき、砕けそうになる膝を堪えて、更にまた、一歩。
 疲労と睡魔が同時に押し寄せていた。朦朧とする意識をなんとか保ち、降谷は牛の歩みで通い慣れたブルペンを目指した。
 それから、さほど時間も過ぎないうちに。
「よーっし、ここに隠しときゃあいつも見つけらんね……――うぎゃあ!」
 ひと仕事終えて額の汗を拭った栄純の悲鳴が、夜の空に消えていった。
「つかれた……」
「って、またテメーか!」
 ぼそぼそと呟く降谷を背中に背負い、全身に鳥肌を立てた栄純が顔を真っ赤にして怒鳴った。けれど叱られた方は相変わらず聞く耳を持たず、肩から回した腕でぎゅっと彼を抱きしめた。
 胸元で手首を交差させてアンダーごと練習着を握り、頭を垂らして額を肩口に埋める。身長差を補うべく背中は丸め気味で、全体重を預けられる側は堪ったものではなかった。
 ただ勇ましく怒鳴りつけはしたものの、振り払う元気はもう残っていない。重みに耐えきれず前のめりになって、栄純は目一杯顎に力を込めて歯を食いしばった。
 こめかみに血管を浮き上がらせて耐えている彼を知らず、降谷は手元に戻ってきた熱と、意外にも悪くない抱き心地に顔を綻ばせた。
「もう歩けない」
「だったらなんでこっちに来るんだよ!」
 次第に縮んでいく栄純に圧し掛かったまま呟けば、無駄に大きな声で叫ばれた。
 確かに今の降谷が向かうべきはブルペンの奥にある備品置場ではなく、寮だ。最短コースで進めば体力が尽き果てる前に入口くらいには辿り着けただろうに、何故わざわざ目的地とは反対方向に歩いて来たのか。
 グラウンドの出口とここまでの距離は、完全に蛇足だ。無駄でしかない。それなのに降谷の頭には、ひとりで先に帰るという選択肢が存在していなかった。
「……なんで?」
 指摘されて初めて気付いた顔の降谷に、栄純の怒りは一気に頂点を突破した。
「俺が知るかあ!」
 腹の底から声を絞り出し、ついでに残っていた力を根こそぎ引っ張り出して腰を捻る。腕を振り回して身長の割に細い体躯を押し返し、真剣みが足りなくて惚けているようにしか見えない顔を睨みつける――つもりだったのだけれど。
「いで」
「うっ」
 暗かったのと、体勢が不安定だったのがこんなところで影響した。
 目測を誤った栄純が見たのは華奢にも映る首筋と肩、そして意外に男らしい喉仏で、降谷の視界に飛び込んできたのは汗に湿った黒髪だった。
 ゴチッ、とかなり良い音がした。堅い場所に硬いモノがぶつかって、骨に響く衝撃に一瞬、息が出来なかった。
「って~~~~」
 栄純は額を押さえて蹲り、降谷は顎に手を当て後退した。よろめき、カクンと折れた左膝につられて姿勢が低くなる。だが尻餅だけは回避して、彼はきっと赤くなっているだろう場所をゆっくり撫でた。
 痛かった。
 きっと、デッドボールを受けたらこんな感じなのだろう。ややピントが外れた感想を胸の裡で呟いて、降谷は涙目の栄純に視線を投げた。
 彼は子供のように鼻を愚図らせて、二度ばかり噎せてから左手で空を殴った。
「なにしやがる!」
「今のは、僕のせいじゃないけど」
「いーや、テメーが悪い」
 しゃがみ込んだまま捲し立て、冷静な反論にも耳を貸さない。唾を吐いて怒鳴り散らす彼に肩を竦め、降谷はじんじんする顎をそのままに、彼方に顔を向けた。
 聞こえないフリをして闇を見つめ、返事もしない。そのうち栄純の方も叫び疲れたらしく、肩で息を整えると悔しげに舌打ちした。
 チッ、と唇を鳴らす音が静寂を破った。降谷は視線を戻し、足を投げ出して座っている栄純に手を差し伸べた。
 助け起こすわけではない。仕草の最中に自身も屈んで、彼は栄純の脚の間に身を置いた。
 ただでさえ暗い空間が、より一層暗さを増した。目の前を塞がれて壁が出来るのを茫然自失と見送って、遅れて我に返った栄純は額に触れた指先にビクッと肩を跳ね上げた。
 覆い被さる格好で身を寄せられて、視界は殆どゼロに等しかった。
「ふ、るや……?」
「赤くなってる」
 すぐそこに降谷がいるのに、彼が何をしているのかが分からない。前髪を掻き分けた指がひっきりなしに肌を擦って、慣れない感覚に心臓が震えた。
 きっと彼は、ぶつかった場所を調べている。切れていないか、瘤になっていやしないかと。
 距離が異様に近いのは、明かりが乏しくて傍に寄らないと見えない所為だ。
 だが理屈では理解出来ても、吐息が肌を掠める状況は理解出来なかった。
 大体降谷はライバルであって、怪我を心配されるようなオトモダチではない。しかしあちらがどう思っているのかは、そういえば今まで聞いた事がなかった。
 とはいえ、同じピッチャーとしてマウンドを、そしてエースナンバーを争っている間柄だ。野球を抜きにしても、仲良しこよしで過ごそうとは考えていないに違い無かった。
「なんもなってねーって。離れろよ」
「あれ。顔も赤い」
「う、うっせえ!」
 放っておけば、いつまでも額を弄り回していそうだった。こんな風に頭、もとい額を撫でられるのにも慣れていなくて、落ち着かない。
 しかし善意に拠る行動だから無碍に扱う訳にもいかず、困った末に口を尖らせ、栄純はぞんざいに言って降谷の胸を押した。
 お蔭で少し空間が出来て、視界が広くなった。その分向こうからも見えやすくなったようで、指摘された栄純は声を上擦らせた。
 言われた所為で、余計に頬が赤くなった気がした。気恥ずかしさに襲われて、全身がぶわっと熱くなる。止まっていた汗が復活して、顔から火が出そうだった。
 だから俯いて、降谷の視界から逃げた。彼の肩に手を置いて、肘を突っ張らせて近付いて来ないように力を込める。
 押し退けられ、降谷は素直に従った。上半身を前後に揺らし、ゆるりと首を振って己の胸元に目を眇める。
 筋張った指先を暗がりに確かめて、降谷は黒髪から覗く赤い耳朶に眉目を顰めた。
 小首を傾げ、喉の奥で唸っているチームメイトを黙って見守る。栄純は下を向いたまま動こうとせず、降谷に目をくれようともしなかった。
 視線が絡まない。いつだって、誰にだって真正面から馬鹿正直にぶつかって行く男が、目を逸らしたまま突っ伏していた。
 余所を向いて人を無視するのは、自分の専売特許だ。らしくない栄純に少し腹が立って、降谷は力みすぎて震えている指を下から掬い上げた。
「えっ」
 突然両腕を攫われて、予想していなかった展開に栄純は目を見開いた。ぎょっとして慌てて背筋を伸ばし、後ろに逃げようとする中で自然と視線が持ち上がった。
 降谷の顔は見えなかった。
 代わりにぎゅっと、今度は正面から。
 力任せに抱きしめられた。
「眠い」
「はああああ!?」
 そうして言い放たれたひと言に、栄純はこれまで以上の、闇夜に轟く素っ頓狂な声を上げた。
 脇から通した腕は背中でがっちり結ばれて、ゴムチューブよりも頑強だった。人の左肩に額を預けた状態で口にする台詞ではなくて、聞き間違いを疑った栄純は凭れ掛かってくる男の頭を容赦なく、遠慮無く殴り飛ばした。
 緩く握った拳でごんごん後頭部を叩くが、降谷は痛がりもしなかった。ただ鬱陶しくは感じているようで、顔を伏したままぐりぐりと肩におでこを擦りつけてきた。
「だーかーら。眠いんだったら部屋帰って寝ろよ」
「……もう歩けない」
「んなの知るか!」
 なんとか引き剥がそうと降谷のシャツを掴んで引っ張るが、何の成果も得られなかった。スタミナもパワーも栄純の方が僅かに上回っているのに、体勢が悪いからか、突き飛ばすのも容易でなかった。
 さっきから何度も、何度も張り付いてくる。取り除いても、追い払っても、しつこく付きまとってくる。
 人肌恋しい季節でも無いのに何故かと考えて、脱力した栄純は故郷よりも少ない星を仰いだ。
「なんなのさ、お前。ひっつき虫かよ」
 東京に出て来て一番驚いたのは、人の多さ、建物の密集具合、そして星の少なさ。
 風の匂いも古里と違う。放課後に幼馴染みと駆け回った野原に似た風景も、こちらに来てから全く拝めていない。
 日が暮れるまで遊び回った記憶は今も瑞々しく、色鮮やかに胸に刻まれていた。
 その懐かしい思い出をひとつ取り出して、掌に転がす。零れ落ちた呟きに、引き離されるものかと必死だった降谷は緩く首を振った。
「なに、それ」
 聞き慣れない単語に首を捻り、顔を上げる。背中にやった手は解かずそのままにしたので、二十センチに満たない距離で見つめ合う結果になった。
 だが今度の栄純は気にする様子もなく、意外な返答にきょとんと目を丸くした。
「なに。お前、知らない? こんくらいの、えっと、あれってなんだっけ。草? 種?」
 驚いて声を高くし、右手の親指と人差し指で大体の大きさを示す。だが肝心の彼の手は降谷の背中側にあって、知らないと言った当人には見えていなかった。
 それに、栄純も草むらを歩き回った後に服やズボンに付着していた、あの緑色の物体の正体を知らなかった。
 小指の頭ほどの大きさで、全体的に棘があり、セーターなどに張り付かれるとなかなか取れない。下手に引っ張ると糸が伸びたり毛羽立ったりして、面白がって付けたまま帰ったら母親には嫌がられ、要らぬ説教を食らいもした。
 オナモミという名前は最後まで出て来なかったけれど、雑で簡単な説明は、意外にも降谷に通じた。
 視線を右に流した彼はふむ、と頷いて思い当たる節を引き寄せて舌に転がした。
「ひょっとして、バカのこと?」
「誰が馬鹿だって!」
「君がじゃないよ」
 ただ彼の発した言葉に栄純が反射的に食ってかかって、微妙なすれ違いに降谷は顰め面を作った。
 棘が痛くて、服に付くとなかなか外れてくれない草の種の事を、そう呼んでいただけだ。決して栄純個人を指したわけではない。
 けれど誤解を解くべく説明するのも面倒だった。それに栄純が馬鹿なのは周知の事実だから、わざわざ訂正を加える必要だって無い。
 一応否定したけれど聞いていない彼にそっと溜息を吐き、降谷はぎゃんぎゃん吼えて五月蠅い栄純に寄りかかった。
「うお」
「うん。悪くないかも」
「はあ? てか、はーなーれーろー。ここで寝るなー、死ぬぞー」
 とすん、と体重を預けられ、騒がしかった彼が一瞬だけ黙った。それに満足して、降谷はひっそり頬を緩めた。
 うっかり受け止めてしまった方は小声の独白に眉を顰め、諦め悪く引き剥がし作業を再開させた。冬山で遭難したわけでもないのに喚いて、誰か通りかからないかときょろきょろ辺りを見回しもする。
 あまり遅くなるようなら、心配した上級生が探しに来るかもしれない。だがそれにはまだ猶予がある筈で、降谷は思いの外不快でない汗臭さや、体温や、赤く染まったままの肌色にほっと息を吐く。
 こうしているのは嫌ではない。この微熱は、嫌いではない。
 くっつき虫の、バカの実なのも悪くなくて、降谷は安堵感に目を閉じた。

2014/03/29 脱稿