Ring Ring

 訪ねた部屋は、無人だった。
 壁際に置かれた棚一面に並ぶのは、年代物のビデオテープ、DVD、そしてブルーレイ。更に隙間を埋める形で無数のフィギュアが飾られて、その凄まじさは半端なかった。
 見た瞬間に頬が引き攣るレベルのオタクぶりを、こんなところで実感させられた。
 棚に詰め込まれているのは、全て同じロボットアニメだ。シリーズ化されていて、年代によって設定が違ったり、ロボットの造形が違ったりしているらしい。
 らしい、と曖昧な形でしか言えないのは、ユーリがそのアニメを真剣に見たことがないからだ。
 城のリビングにある大型スクリーンでは、頻繁にその映像が流れていた。テーマソングが大音響で流されて、サビの部分だけなら諳んじられるレベルにはなっている。
 だが、その程度だ。
 メロディが頭の中でループする事はあっても、口ずさむことはない。間違ってそんな真似をしようものなら、あっという間に食いつかれ、夜通し鑑賞会に付き合わされる羽目になる。
 前にそうなってしまった同居人を見てからは、絶対にやるものか、と強く心に誓った。居並ぶフィギュアの雄々しいフォルムをぼんやり眺め、彼は仕方なく扉を閉めた。
「まったく。どこに行きおった」
 無駄足を踏まされた。怒りのままに床を蹴り、彼は古くて立てつけの悪いドアを睨みつけた。
 屋根裏と言っても過言ではない古い部屋に自ら足を運ぶ機会は、あまりない。今まではわざわざ呼びに行かなくとも、約束の時間になれば向こうから出向くのが常だった。
 それが今日に限って、どれだけ待っても現れなかった。
 まだ眠っているのかと念のために様子を見に来たが、徒労に終わった。肩透かしを食らわされた苛立ちが胸に渦巻き、ユーリは不機嫌に爪を噛んだ。
 薄い青色に塗られた爪先で唇を浅く抉り、踵を返して来た道を戻る。不必要に長い廊下は暗く、空気は湿って陰気だった。
 こんなところに住みたがるのは、キノコかカビくらいなものだ。城主であるユーリだって、あの男がここに居を定めるまで、こんな場所があると知らなかったくらいだ。
 もっと広くて過ごしやすい部屋はいくらでもあるのに、物好きにも程がある。そしてそんな物好きを傍に置いている自分は、もっと酔狂だと言わざるを得ない。
 目当ての人物が居ないのなら、ここに長居する理由もない。行き違った可能性は無きにしも非ずで、ユーリは急いで急こう配の階段を駆け下りた。
 カツカツと足音を響かせて明るい空間に合流し、打合せ場所として指定した部屋の扉を開ける。
「スマイル!」
 ノックなしに飛び込んでいた彼の声に、しかし応える者はなかった。
 相変わらずのがらんどうぶりに目を見張り、ユーリは腹立ち紛れに空を殴った。
 古めかしい柱時計を見れば、予定していた時間から軽く二時間が経過していた。
 連絡は一切ない。置手紙の類もない。携帯電話を試してみるが、電波圏外だと冷たくあしらわれた。
 いったい、あの男は何処へ消えたのか。
「アッシュ。アッシュはいるか!」
 考えるだけで頭が重くなり、痛みを堪えてユーリは叫んだ。
 無人の部屋に背を向けて、大声で怒鳴る。先ほどよりもずっと荒々しい足音と共に突き進む彼に、耳聡く音を拾った獣が慌てた様子で飛び出してきた。
 ドアに体当たりして現れたのは、三角形の耳をピン、と立てた浅黒い肌の男だった。
 尻からは毛並みも立派な尻尾が伸びて、今は怯えているのか、太腿に絡みつく形で下を向いていた。表情は大いに焦り、前髪に隠れた瞳は上下左右に泳いでいた。
 叱られる理由は思いつかないものの、怒られる覚悟は出来ている雰囲気だ。狼男でありながら臆病者の一面を覗かせたアッシュに、ユーリは肩を竦めて嘆息した。
 声に迫力を込め過ぎたらしい。そんなに怖がる必要はないと手を振って宥め、彼は城で共に暮らすもう一名の名を口に出した。
「スマイルを見なかったか」
「スマイルっスか?」
 果たしてそれが彼の本名なのか、それとも便宜上名乗っているだけなのかは、誰にも分からない。そもそも彼が実際に存在しているのかどうかさえ、定義があやふやになることもしばしばだ。
 その男の正体は、透明人間。白い包帯、そして青色の化粧がなければ誰の目にも留まることのない、空虚な存在。
 長く放浪の旅にあった彼を見出し、手元に引き寄せたのはユーリの気まぐれだ。
 そのスマイルは、ギター片手にあちこちを転々としていた生活が未だ名残惜しいのか、時折ふと連絡を絶ち、居なくなることがあった。そして周囲が大騒ぎする中、何食わぬ顔でひょっこり戻ってくる事も多々あった。
 今回もそうかもしれない。予兆はなかったかとここ最近の出来事を振り返り、ユーリは奥歯を噛み締めた。
 吸血鬼の最たる特徴である鋭い牙に尻込みしつつ、自分に非がなかったのにホッとしたアッシュはうーんと唸り、視線を上げて頬を掻いた。
「そういえば、ちょっと前に、ギター抱えて歩いてたっスね」
「なんだと!」
 そしてふと脳裏を過ぎった記憶を口にして、ユーリに掴みかかられた。
 体格的にはアッシュの方が圧倒的に大きく、並んで立つとユーリはさながら子供だ。しかしそんな彼相手に大袈裟に戦いて、狼男は三角の耳をペタンと倒した。
 思わず襟首を掴んで捻ったユーリだが、腕力がないのでアッシュは全く持ちあがらなかった。それでも威圧には十分で、彼は疲れた腕を下ろし、偉そうに手首を振った。
「それで、奴は?」
「そのあとは知らないっスけど……またいなくなったっスか?」
 居丈高に質問を繰り出すが、アッシュもスマイルの後を追いかけたわけではないので所在は分からない。後ろ姿をちらりと見かけただけなので、本当に外出したのかも判然としなかった。
 ここに来て、彼も嫌な予感を覚えたのだろう。声を潜めて尋ねたアッシュに、ユーリは遠慮なく舌打ちした。
「次のPVの打合せをすると言っておいたのに、二時間待っても来ない」
「あー……」
 腕組みしながら吐き捨てた吸血鬼に、同情を禁じ得ない。散々待たされたのだから、彼のあの怒鳴り声も無理なかった。
 優雅で気品に溢れる吸血鬼。しかも純血種とくれば、女性からの人気も絶大だ。
 但し今の彼の姿は、とてもマスコミの前に出せない。苛々しすぎて眉間に皺が寄ったユーリを見下ろし、アッシュは何かヒントがなかったか、ここ最近のスマイルの動向を振り返った。
 集中している時の癖なのか、茶色い尻尾がパタパタ揺れた。猫がいたらじゃれ付きそうな毛むくじゃらに肩を竦め、ユーリは人気が乏しい廊下を見回した。
 天井は高い。照明は時勢に逆らって蝋燭だけだが、各所に設置された明かり取りの窓が仕事をして、歩き回るには問題なかった。
 外はよく晴れているらしい。壁に浮き上がった窓枠を眺め、彼は尖った靴の先で床を叩いた。
 白いレースのシャツから飛び出た、黒い蝙蝠羽根が呼応して羽ばたいた。
「ユーリ?」
「ちょっと近くを見てくる」
 風が起こり、アッシュが顔を上げた。試案を中断して首を傾げ、短い返答に嗚呼、と微笑む。
 その意味深な表情にちょっとだけムッとして、色白の吸血鬼はタンッ、と床の上で飛び跳ねた。
 重力の束縛から逃れ、ふわりと浮き上がる。床に舞い戻る事なく中空で停止した彼を見つめ、アッシュはそうだ、と手を叩いた。
「どうした」
「そういえばスマイル、最近、森の方で面白いものを見つけたって、言ってたっス」
「森か……」
 突如発生した甲高い音に、ユーリは静かに頷いた。顎に手をやってしばし考え込み、小さな窓越しに見える世界に顔を向ける。
 古めかしく不気味な城の周囲には、鬱蒼と茂る森が広がっていた。
 ひと口に森と言っても、範囲はかなり広大だ。もうちょっと絞れないかと目で問うた彼に、しかしアッシュは黙って首を振った。
「そこまでは」
「そうか。悪かったな、中断させて」
 残念ながら、詳細は聞かなかった。素直に詫びられて、ユーリは務めて優しく言った。
 今の時間、アッシュは大抵台所に籠っている。新作料理の開発に余念がなく、夕飯の準備にも大忙しだ。
 ドラマー兼料理人の肩を軽く叩き、ユーリはそのまま空中に舞い上がった。大きめの天窓を選んで鍵を外し、屋根に出て周囲を見回す。
 城から延びる一本道は地平線まで続いており、その左右は深い森に覆われていた。
 小高い丘には花畑が広がって、おとぎ話の中のようだ。色鮮やかな光景に目を細め、ユーリは視線を外してモノクロの世界に意識を戻した。
「スマイルの奴」
 見つけたら、二発か三発、殴らないと気が済まなかった。
 崇高で尊い存在である吸血鬼との約束を反故にして、待ちぼうけを食らわせたのだ。本来なら死刑に処されても文句は言えない。だのにあの男は何度も、何度も同じことを繰り返した。
 自由気ままで、勝手で、掴みどころがない。
 それは誰からも認識されずに悠久の時の中を彷徨い続けてきた、彼なりの自己主張かもしれなかった。
 だがユーリは、彼を見つけた。捕まえた。
 簡単に手放してやるつもりは、毛頭なかった。
「私を待たせるとはいい度胸だ」
 永遠の時を生きる吸血鬼に取って、一日も、一年も、さほど違わない。それを承知で嘯き、彼は黒い羽根で空気を叩いた。
 バサリと広がった翼が風を産み、彼を包み込む。ひとまず進路を北西に定め、彼はルビー色の瞳を眇めた。
 矢張り殴るだけでなく、蹴りも追加してやろう。そんなことを考えながら、彼は日が照りつける中も平然と、空を翔けた。
 風を切り裂いて宙を滑り、時折停止して周辺に誰かいないかを確認する。だが木々の枝が邪魔をして、地表を窺うのは難しかった。
 上空からだと遠くまで見通せるが、足元を探るのにはあまり向いていない。ただユーリの体力では、地上に降り立って歩いて探すなど到底不可能だ。
 戻ってくると信じて、待つしか出来ないのだろうか。
 歯がゆさを覚えてまた爪を噛み、ユーリは力なくかぶりを振った。
 後先考えないまま出て来てしまったのを少しだけ後悔し、計画を立て直そうと城に向き直る。すっかり小さくなった尖塔に目を眇め、彼はひと際強く羽ばたいた。
 風が渦巻き、月光を思わせる淡い銀髪が一斉に逆向いた。
 頭髪に覆われていた尖った耳も露わになって、より遠くの音を拾い集め始めた。
 車のエンジン音、少女のものらしき歌声、鳥のさえずり。
 そして、ポロン、と弾かれた弦の音。
「――こっちか!」
 アッシュの言葉を思い出し、もしやと思って試してみたが、ビンゴだ。最初からこうしておけばよかったと己の浅はかさを呪い、ユーリは当たりを付けた一帯を睨みつけた。
 そちらもまた、緑濃い木々で覆われていた。
 ただ根を下ろしている樹木の種類が違うのか、真下に広がる光景よりは少しだけ色合いが淡かった。読みが外れていたのに若干照れ臭さを覚え、彼は急ぎ方向転換した。
 空を走り、ある程度進んだところで止まってまた音を探る。最初は微かで途切れがちだった音色も、距離が狭まるにつれてはっきりとしたメロディになっていった。
 誰かがギターを奏でている。それも、こんな辺鄙な場所で。
 行きずりの旅人、という可能性は否定できないものの、ここは狩人でさえ足を踏み入れたがらない地だ。吸血鬼の呪詛を今でも信じ、天罰が下るのを恐れる人は意外に多い。
 だからあそこに居るのは、吸血鬼をも恐れない不届きものだ。
 思っていた以上に、近くにいた。その事実にまずホッとして、ユーリは羽根を小さく折り畳み、風の抵抗を抑えて身を任せた。
 落下に転じ、そして。
「――っ!」
 地表に激突する寸前、一度は閉じた翼を最大限に解き放つ。
 黒羽根が空を裂き、薄い被膜が衝撃を飲み込んだ。突出した骨格は凶器じみて、美しくも恐ろしい姿に人々は畏怖を抱いた。
 伝説が謳うヴァンパイアの翼を身にまとい、彼は真紅に彩られた瞳を思い切り吊り上げた。
「スマイル!」
 目の前には見事に突風を浴びてひっくり返った男がひとり、失礼にも尻を向けて倒れていた。
 その胸には年代物のアコースティックギターが抱かれていた。転倒の際に壊れないよう、仰向けになっているのは計算しての事だろう。
 そうなるとでんぐり返しの要領で脚を拡げて上向けているその体勢も、わざと、という可能性が高かった。
 舞い上がった木の葉がようやく地面に戻り始め、一枚を払い除けたユーリは憤然と胸を張った。
「いつまでそうしているつもりだ?」
 個人的に今までで一番低い声を出して問えば、落ち葉を大量に被った男は微かに蠢き、数秒置いて一気に起き上がった。
 ガバッ、と背筋を起こして地面に座り直し、犬を真似てぶんぶん頭を振り回す。本人に言わせれば頭に張り付いた葉を落としたかったらしいが、硬質の髪に頑丈に絡みついており、願いはひとつも叶わなかった。
 完全な徒労だ。呆れ果てて突っ込む気にもなれず、ユーリはぼろ雑巾と化した男にただただ、ため息をついた。
「なにをやっているんだ、お前は」
「んー……取れないなあ、ってね?」
「そうではない」
 犬、もとい狼のアッシュならまだしも、そこにいる男は透明人間だ。てんで見当違いの行動を執って恥じらう様子もない彼に頭を痛め、ユーリはこめかみの辺りを指で小突いた。
 鋭く尖らせた爪が皮膚を掻き、その感触は悪くない。力を入れすぎると刺さってしまうので加減しつつ、ユーリは最後に銀髪を仰々しく掻き上げた。
 仕草のひとつひとつが洗練されており、もしここに乙女がいたなら、ひと目で心を奪われてしまう事間違いなかった。
 だが残念ながら、現在ユーリの前にいるのは、みすぼらしさを増したロングコートの男だった。
 その顔や首には白い包帯が緩く巻きつけられ、両手はこげ茶色の皮手袋で覆われていた。踝丈のブーツを履き、ズボンの裾は地面に擦るくらい長い。大事に庇われたギターは年代物で、どこで貰ってきたか分からないシールがあちこちに貼られ、剥がされ、傷だらけだった。
 もし都会で見かけたら、ホームレスだと勘違いしそうな格好だ。そんな全体的に古めかしい男を睥睨して、ユーリは苛々しながら唇を噛んだ。
 言いたいことが山ほどあり過ぎて、逆に言葉が出てこなかった。
 眉間の皺が深くなり、折角の美形が台無しだ。背中の羽根も苛立ちの影響を受け、落ち着きなくばさばさ音を立てていた。
 そんな吸血鬼を、スマイルは文字通り笑顔で見つめた。
「血圧上がるヨ?」
「誰の所為だと」
「ぼく?」
「他にいると思うか?」
「ンー、いないねえ」
「分かっているなら」
「ゴメンネェ」
 のんびりした口調で話しかけられて、呵々と笑い飛ばされた。反省している様子が全く見えない男に、ユーリは落胆して小さくかぶりを振った。
 上手く誘導された気分だった。
 彼と話しているうちに、徐々に力が抜けていくのを実感した。どんなに真剣に訴えかけても、スマイルは上手く躱してしまう。余計な力みを少しずつ剥ぎ取られて、真面目に怒るのが馬鹿らしくなるのだ。
 暖簾に腕押しという言葉がある。まさにスマイルはこれだった。
 飄々として掴みどころがなく、捕まえたと思ったらいつの間にかいなくなっている。透明人間のなせる技、というべきなのか。とにかく彼には、手応えがなかった。
 ひとりだけ憤慨して、エネルギーを消耗するのも癪だ。頭を切り替え、ユーリは手で枯葉を払い除け始めたスマイルに肩を竦めた。
「それで? 私との打ち合わせよりも優先させねばならなかった事とは、なんだ?」
「ン?」
 本題に戻る事にして、少しきつめに問いかける。だがスマイルはきょとんとして、片方だけ露出する眼を丸くした。
 常に笑顔を絶やさない彼の、珍しく驚いた顔に、ユーリも眉目を顰めた。
 口元に指を遣り、視線を僅かに右へ逸らす。もしや自分が勘違いしていたのかと不安になって、必死に頭の中のスケジュール帳のページをめくる。
 遠い目をしたユーリの横顔に、スマイルはふっ、と頬を緩めた。
「あー、もしかして、新曲のプロモーションの?」
「そう、それだ。お前がいつまでも来ないから」
「あれって、確か監督サンが日程ずらしてくれって言ってきたから、明後日になったんじゃなかったっけ?」
「え? あ――」
 ユーリを中心に結成されたバンド、Deuilの新曲プロモーション撮影についての打合せは、確かに今日予定されていた。しかし直前になって撮影スタッフ側に都合がつかなくなり、調整の末に後日改めて、となった。
 それは昨日、ユーリにも伝えられていたはずだ。
「いや、だが、先に私は、お前と」
「あー、そなの? ぼく、てっきり全部明後日になったんだって思ってた」
 ただその段階から、両者の理解に齟齬があったらしい。
 バンド内での打合せだけは、予定通りするつもりでいたユーリと。
 諸々全てひっくるめて、明後日に流れたと思っていたスマイルと。
 昨日の自分たちは、お互い言葉足らずだった。原因が判明して、ユーリは額に手をやって天を仰ぎ、スマイルはカラカラ笑ってギターを叩いた。
 弦を撫でるように弾けば、ポーン、と小気味の良い音が響いた。
「まったく」
 過去の自分自身に恨み言を呟き、ユーリはぽつぽつと音を繋ぎだしたスマイルに眉を顰めた。それは空を飛んでいる時、彼を探し出す寄る辺としたメロディに他ならなかった。
 彼のバンドでの立ち位置は、ベース。しかしユーリが彼を呼び寄せるきっかけになったのは、このギターだ。
「それは?」
「ン? タイトルは無いヨ」
 耳慣れないリズムに首を捻ったユーリに、スマイルは調子よく言って笑った。
 明るく、楽しく、踊り出しそうなアップテンポの曲調は、おおよそ彼らしくない。珍しいこともあるもので、不思議に思っていたら、心を読み取った男が口角を歪めた。
 左手でリズムを取りつつ、スマイルはやおら右手を伸ばし、人差し指でユーリを指示した。
 否。正確には、彼の足元を、だ。
「ん?」
 指し示された方はきょとんとし、右足を軽く浮かせた。だが靴に目立った汚れはなく、身なりが崩れているところもなかった。
 意味が分からなくて目を眇めた吸血鬼に、透明人間は肩を揺らした。
「違うちがう。そっちじゃなくて、ユーリの足元」
「地面?」
 そこにあるのは枝振りも立派な古木、沢山の落ち葉、そして地面に張り付くようにして生える幾多の植物。
 それらを順々に眺めて、ユーリはちょっとした違和感に口を尖らせた。
「輪が……」
「ソソ」
 地表は陽当たりが悪い為か、背の高い植物はあまり生えていなかった。代わりに苔が幅を利かせ、菌類であるキノコが頭角を現していた。
 その白いキノコが、ユーリの足元で円を作っていた。
「フェアリーリング。知らない?」
「名前だけなら」
 大きさは、良く育ったものでも親指の頭ほど。そんな小さなキノコがユーリを取り囲む形で、綺麗な円を形成していた。
 狙ったわけではないが、輪のほぼ中央に降下したらしい。奇妙な偶然もあったものだと物珍しげに覗き込んでいたら、スマイルが突然、声を立てて笑った。
「ム」
 喉を引き攣らせ、体全部を使って笑っている。いったい今の何が琴線に触れたのか分からず、ユーリはむすっと頬を膨らませた。
 拗ねた吸血鬼に威圧されて、消えるしか能のない透明人間は再び軽やかなメロディを奏で始めた。
「ソレはね、ユーリ。夢がない話をするなら、地中深くに埋まったキノコの菌糸が伸びて、輪っかになって地上に出てきただけなんだけど」
「……うん?」
 妖精がスキップしそうな演奏だが、スマイルの口調は平坦で抑揚がなかった。そのギャップが気にかかり、ユーリは首を傾げた。
 もっともそれも、彼の策略だったのだろう。芝居がかった台詞回しに吸血鬼が釣られたのを確認し、透明人間は派手に弦を掻き鳴らした。
「でね、夢がある方だと。それは、妖精の世界に通じる入口なんだって」
 ほかにも竜が吐いた炎の痕だとか、魔女が集会を開いた名残だとか、色々言われていたりする。
 そこまで説明して、再び、スマイルは何がツボに入ったのか、盛大に噴き出した。
「スマイル?」
 演奏を中断させて噎せた彼に驚き、ユーリは声を高くした。
 慌ててキノコの輪から出ようとして、大丈夫だと手で制された。スマイルは口元を手で拭うと、いつもの作り物ではない、本物の笑顔で目を細めた。
「だからねー、何か出てこないかなって、思ってたんだけどネ」
 城で聞いた、アッシュの話が突如蘇った。
 数日間、スマイルはここで何かが起きるのを待っていた。何も起きないと分かっていながら、もしかしたら、という一パーセントにも満たない確率に賭けて。
 彼らしくない軽快な音楽は、伝説が語る妖精を誘おうとしてのことだろう。
 こんな馬鹿らしい真似を真剣にやるところが、いかにもスマイルらしい。昔から一貫して変わらない男に苦笑して、ユーリは両手を腰に当てた。
「招かれて来てやったぞ」
「妖精サンとは違うけどネ」
「悪かったな」
「ンーン、全然?」
 偉そうに踏ん反り返れば、揚げ足を取られた。どうせ小さくもなければ可愛くもないと拗ねれば、スマイルは目を細め、白い歯を見せた。
 おもむろに手を伸ばし、差し出す。促され、ユーリはその手を取った。
「ものすごく光栄だネ」
「ならば良し」
 軽く引っ張られ、ようやく輪の中から外に出る。同時に囁かれて、彼は満足げに頷いた。

2014/4/16 脱稿