Go West

 夕食の時間が終わった後も、寮の食堂は大勢の部員でごった返していた。
 風呂の順番を待つ者、録画した試合をテレビで観戦する者、持ち込んだ雑誌を広げて談笑する者もいる。雑多に賑わう空間は比較的穏やかな空気に満ちて、それでいて活気に溢れていた――とある一角を除いては。
「栄純君と……あれ」
 遠目からでもはっきり違いが分かる雰囲気に、春一は首を傾げた。扉の窓越しに見えた光景に「おや?」と疑問符を浮かべ、興味を惹かれて進路を転換する。
 鍵のかかっていない扉を左に滑らせて中に入ると、その異様さはより際立って感じられた。
 明らかに、皆、その一帯を避けていた。仕切りもなにも無い空間なのに、透明な壁が聳え立っているようにしか見えなかった。
 横に長い机を幾つか並べた食堂で、春一も良く知る男子二名が向き合う形で椅子に座っていた。
 それだけなら、別段不思議ではない。いや、あまり目にしない組み合わせなので矢張り不思議だ。頭の上にはてなマークを乱立させて、春一は長い前髪を傾けた。
「降谷君?」
 部のトラブルメーカーであり、ムードメーカーでもある背番号十八番のサウスポーの正面に座っていたのは、次期エースと目されている同じ一年生の剛腕投手だった。
 背が高く、表情は変化に乏しい。しかし機嫌が良いのか、悪いのかは存外分かり易い降谷は、目下非常に不機嫌そうだった。
 栄純も同様だ。彼は先ほどから机に這い蹲って、頻りに前髪を掻き回していた。
 シャープペンシルを握った左手は動いたり、止まったりと落ち着きがない。元々じっとしていられない性分だからそれは仕方がないとしても、苛々した横顔は彼らしくなかった。
「お? 小湊じゃねーの」
「ああ」
 いったい、何があったのだろう。同じピッチャーとしてなにかと張り合う二人が一緒に居る光景に興味を抱いていたら、別の場所に陣取っていた同じ一年生が春一を呼んだ。
 素早くそちらに向き直れば、話しかけて来たのは金丸だった。
 軽く右手を振られ、小さな会釈で応じる。小走りに駆け寄った後に栄純達の方を見れば、彼らはまだ机に向かって唸っていた。
 徐々に速度を落としていった春一が何を気にしているのか、金丸もとっくに気付いていた。彼は椅子ごと身体を揺らし、機嫌よさげに呵々と笑った。
「どうしたの、ふたり」
「どうしたもこうしたも、ねーよ」
 口角を歪めて言い放った彼に、春一は眉を顰めた。
 しかしその口ぶりから、おおよその想像はついた。またか、と軽く肩を竦め、春一は試合以外では問題児でしかない両名に苦笑した。
「また寝てたの?」
「そーそー。沢村の奴なんか、一時間目から昼休みまで、ずっとだぜ。流石にセンコーもキレるわ」
「降谷君は?」
「そっちは良く分かんねえけど……お前の方が知ってんじゃねえの?」
「どうだったかな……ああ、うん。そういえば、あったかも」
 栄純と金丸はクラスが同じだから、日中彼がどう過ごしているのか、嫌でも目に付くのだろう。入学当初から三年生のクリスに頼まれていたというのもあり、金丸はなにかと栄純を気にかけていた。
 口調は乱暴ながら、意外に面倒見が良い男だ。彼に聞かれて思い出したことがあって、春一は緩慢に頷いてため息を吐いた。
 栄純も降谷も、マウンドの上では非常に頼もしいのだが、グラウンドを離れると途端に駄目人間まっしぐらだった。
 頭の中も野球ばかりで、授業は殆ど聞いていない。定期試験は、栄純はいつも赤点回避ギリギリで、降谷は毎回補習組だった。
 青道高校は運動部に力を入れており、中でも野球部は別格だ。だからこれまで、多少大目に見て貰えていた。しかしこうも連日居眠りが続けば、心優しい先生もいい加減怒る。
 説教されているふたりの姿がありありと想像出来て、最早笑うしかない。だが金丸のように腹を抱える気になれず、春一は両手を背に回すと右の爪先で床を叩いた。
「手伝ってあげないの?」
「俺はただの見張り番だからな」
 そして問えば、金丸は面倒臭そうに言い捨てた。
 率直に言って、あのふたりは頭が悪い。誰かの手助けなしで課題のプリントを全て埋めるなど、不可能に近かった。
 だが自力でクリア出来なければ、今後も同じ事が繰り返されるだろう。心を鬼にしている金丸に苦笑して、春一は絶賛苦悩中の友人に頬を緩めた。
 その矢先だった。
 動物的本能を発揮して食堂内の変化を悟り、栄純が顔を上げた。
「おぉ、まさしくそこにいるのは春っちではないか!」
「うわ、見つかった」
 いきなり背筋を伸ばしたかと思えば、元気よく叫んで利き手を振り回す。落ち窪んでいた眼は爛々と輝いて、まるで飼い主を見つけた子犬のようだった。
 聞き慣れているとはいえ、栄純の声は大きい。吃驚して心臓を跳ね上げて、春一は尻尾をぱたぱた振っている友人に小さく手を振り返した。
 期待を込めた眼差しは、遅れて反応した降谷からも飛んできた。無言で助けを求められて、春一は困った顔で傍らを窺った。
 直後。
「テメーら、人に頼ってねえで自分でなんとかしやがれ」
「そんな事言ったって、無理なもんはムリ!」
「自業自得だ、バカ野郎」
 助け舟を出したつもりはなかろうが、金丸が立ち上がって怒鳴り声を上げた。
 プリントの内容は不明ながら、授業でやった分しか出題されていないはずだ。それが分からないのは、先生の話を聞いていなかったからに他ならない。
 こうなったのも、すべて己の行いの所為。栄純がたまに春一に言う、『日頃の行い』の結果だ。
 反省するよう語気を荒らげた金丸は、自分に注目が集まっているのに舌打ちして頭を掻いた。
「いーから、黙ってやれ。それが終わんねー限り、練習には参加させねえからな」
「げえ!」
「そんな……」
 集中する視線を手で追い払い、椅子に座り直してぶっきらぼうに言い放つ。その厳しすぎる条件に、初耳だったのか、期待の投手二名は揃って顔を引き攣らせた。
「残念だが、監督にはちゃーんと、許可はもらってあるからな。さっさと終わらせねーと、どんどん長引くぜ」
「ちょっ、ウソだろおい」
「ガーン」
 こんなこと、金丸ひとりの裁量で下せるものではない。案の定片岡監督の名前が出て来て、それまで静かだったふたりは一斉に慌て始めた。
 降谷などはショックのあまり放心して、明後日の方角を向いていた。
 嫌なことがあると現実逃避して、聞こえないフリをするのは彼の悪い癖だ。栄純もパニックに陥って、頭を抱えて右往左往していた。
 どんな状況に追いやられようとも、彼らはいつもの彼らのままだ。安心して良いのか、不安になるべきか迷う光景にクスリと笑みを零し、春一はチームメイトに手を振った。
「じゃあ俺、もう行くから」
「ああ。すまなかったな、引き留めちまって」
「春っち、頼む。なにとぞ、なにぞと俺に御慈悲を~~」
「栄純君も、降谷君も、頑張ってね」
「ぬぉぉ、春っちぃぃぃぃ!」
 別れの挨拶に金丸が渋面を解き、聞こえた栄純が悲痛な叫び声をあげた。だが敢えて無視して、春一はさっさと歩き始めた。
 頼られるのは嬉しいが、甘やかすのはよろしくない。時に非情になることも必要だと微笑んで、彼は先ほど潜った扉を抜けて外に出た。
 一番の友人だと思っていた相手にまでフられて、栄純は利き腕を伸ばしたまま立ち尽くした。
 見捨てられた気分だった。素っ気なくされてひとりで傷ついていたら、惚けていた横顔に金丸の罵声が叩きつけられた。
「だから、さっさと終わらせちまえ、つってんだろ。テメーらが片付かねえと、俺だって動けねえんだぞ」
 無人の椅子をガンっ、と蹴り飛ばし、喚く。先ほどからぎゃあぎゃあ五月蠅いチームメイトに歯軋りして、栄純は口惜しげに唇を噛み締めた。
 まさかこの件が、既に監督の耳に入っていようとは思いもしなかった。
 髭にサングラスが特徴的な強面の片岡は、言ったことは必ず実行するタイプだ。金丸の弁が真実なら、明日グラウンドに出てもブルペンに入れてくれない可能性が高かった。
 野球バカ、もとい投手バカのふたりにとって、これほど酷な罰はない。ショックに打ちひしがれた栄純は黙って椅子に戻り、半分も終わっていないプリントに涙を呑んだ。
 なんとか数問は埋めたけれど、残りは全くの手付かずだった。
 前を見れば、降谷はもっと空白が多かった。ただでさえ考える力が減退しているところに、金丸が追い打ちをかけたからだろう。血の気の引いた顔色で、全体的に真っ白だった。
 ぐらぐら揺れて、そのうち後ろに倒れるのではと心配になった。
 彼がマウンドを譲ってくれるのなら嬉しいが、その原因が変に転んで怪我をして、だったら癪に触る。正々堂々勝負して上に立つのが嬉しいのであって、勝手に自滅して脱落されるのはお断りだった。
「ボケっとすんな」
 だからではないが、つい足が出た。机の下で降谷を蹴り飛ばし、栄純はシャープペンシルを握り直した。
 とは言ったものの、真剣になったところで問題が解けるわけではない。ハッと我に返った降谷も利き手に鉛筆を構え、ジャングルに迷い込んだ気分でプリントに向き合った。
「投げられないのは、いやだ」
「おうよ」
「……でも、分かんない」
「おう……」
 ぽつぽつ呟く降谷に、必要ないのに栄純が逐一相槌を打つ。段々覇気が失われていく声に合わせ、両者のオーラもどーんと沈んで暗くなった。
 大体、こんな数字ばかり並べて、将来なんの役に立つのか。それだったら一歩分でも長くタイヤを引いてグラウンドを走り、一球でも多くボールを投げ込む方が有益に思えた。
 自分には野球しかないのだから、それ以外を器用にこなすなど無理だ。適当に紙面を埋めてやろうかとも思ったが、何事にも一球入魂の性格が都度邪魔をした。
「あー、くそっ。こんなことしてる暇なんかねーのに」
「うん」
「なんだって俺がこんな目に……」
「自業自得じゃないの」
「テメーがそれを言うんじゃねえ!」
 必死に問題に食らいつき、足りない知恵を絞り出して唸る。最中の呟きに今度は降谷が反応して、堪らず栄純は金切り声をあげた。
 降谷だって真面目に授業を受けていなかったから、補習代わりのプリントを出されたのだ。ただでさえ彼は一般入試組だから、もっと勉強を頑張らなければいけないというのに。
 ブーメランが自分に突き刺さっているのにも気付かず、降谷はきょとんと目を丸くした。不思議そうに首を傾げて数秒黙り、やがてハッと息を呑んで手を叩き合わせる。
「――ああ、なんだ」
 金丸が揶揄していたのは栄純だけではなかったと、今頃気付いたらしかった。
 マウンドの外ではぼんやりしがちの降谷は、物事の捉え方が人と若干ずれていた。
 俗にいう天然で、マウンドで考えている事は非常に分かり易いが、それ以外では恐ろしく分かり難い。中学時代のチームメイトも、彼のこの性格には手を焼いた事だろう。
 喋っているだけでどっと疲れが押し寄せて来て、ペースを乱された栄純はがっくり肩を落とした。
 ちらりと後ろを見れば、金丸が東条達と和やかに雑談していた。
 本当なら、自分もあの輪に加わっていたはずなのに。もしくは狩場辺りを捕まえて、屋内練習場で汗を流していたのに。
 時計を見上げて悔しさに歯軋りし、こめかみに青筋を立てる。握ったシャープペンシルがみしみし音を立てて、そのうち真っ二つに折れてしまいそうだった。
「ねえ、やらないの」
「だからテメーが言うな!」
 それを制し、降谷がぼそっと言った。
 自分を棚に上げ、いけしゃあしゃあと言い放つ彼にこそ、腹が立つ。半ば八つ当たり気味に怒鳴って、栄純はプリントに意識を戻した。
 眺めていても楽しくない数字の羅列に眉を顰め、試しに計算を開始する。薄れつつある記憶を懸命に手繰り寄せて、数式に数字を当て込んでいく。
「あっちゃ」
 だが解は出てこなかった。綺麗に割り切れない事実に舌打ちして、どこで間違えたのか、栄純は計算式を逆に辿った。
 そして原因と思しき場所を無事発見して、ホッと胸を撫で下ろした。
 勿論ここで安心してはいけない。野球だって、ゲームセットの号令が響くまで、決して油断してはならないのだ。
 緩みかけた心を引き締め、彼は消しゴムを探して視線を右にずらした。
「れ?」
 しかし目当てのものは、何処にも見当たらなかった。
 春一が姿を見せてドタバタしている時に、床に落としてしまったのだろうか。使い慣れた消しゴムの行方を追って、栄純は机の下に視線を走らせた。
 身を屈めて覗き込みもするが、どこか遠くまで跳ねていってしまったようだ。近くには見当たらなくて、彼は顰め面で口を尖らせた。
 折角良い具合に進みかけていたのに、こんなところで躓くのはイヤだ。投球だってリズムが肝心なのに、要らぬところで乱されたのが面白くなかった。
「あ、そうだ」
 広い食堂で小さな消しゴム一個を探し求めるのは、時間の無駄だ。どうすべきか悩んで妙案を捻りだし、栄純は真面目に筆を動かしている降谷にほくそえんだ。
 彼の傍には、栄純がなくしたのと同じものが転がっていた。
「降谷、降谷」
 あちらは国語の課題に取り組み中だった。長文読解で行き詰まっている彼の意識を手繰り寄せて、栄純は爪先でちょいちょい、と彼の脛を小突いた。
 案の定、彼は集中を阻害されて機嫌悪そうに顔を上げた。
 剣呑な目つきで睨まれたが、栄純は気にしない。白い歯を見せて屈託なく笑って、彼はおもむろに右手を差し出した。
「ん」
 鼻から息を吐き、突き出した唇と顎で消しゴムを示す。これくらい言わなくても通じるだろうと踏んで、ジェスチャーだけでそれを寄越すよう促す。
 だが降谷はぽかんとして、無言で数秒停止した。
「ん、ん」
 もっともそういう反応も、栄純はある程度想定済みだった。
 これくらいでは怒らないと、懐の広い自分に酔いながら再度顎をしゃくる。早くしろと広げた右手を宙に揺らして、指を曲げ伸ばしして急かしもする。
 その動きを惚けた顔で見つめていた降谷は、たっぷり五秒が過ぎてから嗚呼、と頷いた。
 示された場所に目を向ければ、見えたのはまず机、課題のプリント。そして右手に握る鉛筆、消しゴムといった文房具。
 この中で栄純が自分に求めて来るものは何かと考えて、降谷は曲げていた指を伸ばした。
 手を広げ、持っていた鉛筆を机へと転がす。栄純はやっと通じたと嬉しそうで、気の抜けた笑みを浮かべていた。
 そんな彼に右手を差し伸べ、降谷はきゅっと、厚い掌を握りしめた。
 少々汗ばんだ、熱っぽい肌が重なり合った。普段はグラブで覆われている栄純の右手は、左手に比べると手入れが雑で、指先は乾いていた。
 ごつごつして固い降谷の右手とは、肌触りが微妙に違う。利き手が異なるだけでこんなに変わるものかと驚いていたら、手を握られた方が慌てて肘を振り回した。
「て、テメエ。何やってんだ!」
 掴まれた手を奪い返そうと躍起になり、裏返った甲高い声で栄純が叫ぶ。しかし降谷は指を解かず、一緒に振り回されながら不思議そうに首を傾げた。
 きょとんと惚けた顔をされて、ここで初めて、栄純は自分の思い過ごしに気が付いた。
「アホか。消しゴムだっつーの」
 この状況で、どうして握手を求める必要があるのか。予想外の降谷の行動に、彼の顔は真っ赤だった。
 耳から煙を噴いて怒鳴り、今度こそ降谷の手を払い落とす。ようやく解放された右手を頭上高く掲げて、栄純は荒い息を吐いた。
 今の一瞬で、残っていた気力を根こそぎ奪い取られた気分だった。
「消しゴム……ああ、なんだ」
「普通気付くだろ」
「だって、言われなかったし」
「…………」
 降谷も自慢の右腕を肩の位置まで下げ、つまらなさそうに呟いた。
 まだ指先に残る感覚を振り返りつつ拳を作り、続けてまた広げ、いけしゃあしゃあと言い放つ。手首を気にしながら軽く捩じり、彼は怒りを堪えている栄純に眉目を顰めた。
 元から細い目を一層細め、話題の消しゴムを摘み取る。ゆっくり持ち上げた彼の動きを受けて、栄純は無理矢理溜飲を下げた。
 悔しいが、今は彼の好意に甘える他に術がない。本当は借りなど作りたくないのだが、練習を人質に取られているのだから、やむを得ない処置だった。
 その葛藤は顔に丸々現れて、真正面から目撃した降谷はぽかんとなった。
「……なにしてんの、お前」
 話しかけられて、やっと我に返る。あ、と思って手元を見れば、消しゴムを受け取ろうとした栄純の手を、彼はまたも握りしめていた。
 今度は掌を重ねるのではなく、指の付け根を掴んでいた。親指を除く四本をひとまとめに、渡した消しゴムと一緒に握ったのは、完全に無意識だった。
 今度は栄純も、大人しく掴まれていた。振り払うのも面倒だと言わんばかりの表情で、奇妙な行動ばかり取るチームメイトを訝しげに見やる。
 真っ直ぐ突き刺さる眼差しを受け、降谷は改めて己の手に意識を向けた。
 触れた肌は矢張りやや乾燥気味で、少しかさついていた。短く切った爪の間にはグラウンドの土が深くまで潜り込み、茶色い線を成していた。
 指先は丸みを帯びて、全体的に皮膚は硬い。長さは降谷の方が上だが、太さに関しては栄純の方が僅かに勝っていた。
 これまで他人の手など、深く気にした事がなかった。自分意外の投手の手とはこんな感じなのかと考えていたら、黙って弄られていた栄純が痺れを切らして肩を震わせた。
「お前、真面目にやる気あんの?」
 剣呑な目つきと共に告げられて、降谷は嗚呼、と緩慢に頷いた。
 ふたりが勉強を中断し、何やら話し込んでいるのは遠くからでも窺えた。監督役の金丸が苛々して睨んでいるのに気づき、彼は栄純の薬指を捏ねた。
「マニキュア、剥がれてる」
「へ? え、マジで? って、マジだ!」
 そしてぼそりと言って、平たくて大きい爪を小突いた。
 瞬間、栄純は素っ頓狂な声を上げた。ガタガタと椅子を揺らして大袈裟に驚き、降谷から右手を取り戻して指摘された場所を食い入るように見つめる。消しゴムを受け取り損ねた事など、最早欠片も頭に残っていなかった。
 投手にとって、指先のケアも仕事のうちだ。爪が割れてボールをしっかり握れないようでは、お話にもならない。
 その大事な仕事道具の手入れを、栄純は怠っていた。言われなければ気付かなかったのにもムスっとして、彼は続けて顔色を悪くした。
「やっべ。俺、もう残ってねえ」
 そういえば先週、殆ど使い切ってしまったのだった。
 まだ残っている、と安心して、予備を買い足すのを忘れていた。空に近い小瓶を思い出して、栄純がひとり焦って冷や汗を流す。絶賛百面相中の彼を静かに見守って、降谷は手元に残る消しゴムを差し出した。
「僕の、いる?」
 まるでそれがマニキュアの小瓶であるかのように揺らして、尋ねる。途端に俯いていた栄純は顔を上げ、翳っていた表情をぱあっと輝かせた。
 非常に分かり易い反応に、降谷はけれど首を傾げた。
 無言で返事を待つ彼に深く頷いて、栄純は消しゴムを大事そうに受け取った。いつものように締まりのない笑みを浮かべて、ほんの少し鼻息を荒くして上機嫌に目を細める。
「沢村?」
「後で借りに行くな」
「おーい。お前ら、ソレ終わんねーと、風呂も入れねえの忘れてねえだろうな」
「げっ、そうだった」
 嬉しそうにする彼が分からなくて困惑していた降谷の耳に、焦れた金丸の怒号が轟いた。慌てたのは栄純ひとりで、椅子から腰を浮かせた彼は頬を引き攣らせて目を泳がせた。
 ブルペンでも、ベンチでも、グラウンドでも、マウンドでも。
 栄純はいつだって元気で、五月蠅くて、時にその声が耳障りに響く事もあるけれど。
「……なんか、いいな」
 指先の熱といい、今は不思議と心地よかった。
 すっかり薄れつつある微熱を取り戻そうと、降谷は中指と親指を擦り合わせた。少し長い指と細い爪をいっしょくたに見つめて、爪の内側で茶色く浮き上がった筋にはっと息を呑む。
 直後、どっかり椅子に座り直した栄純が怒り心頭に目を吊り上げた。
「くっそ。さっさと終わらせんぞ」
「うん」
「なんで嬉しそうなんだよ」
「……」
 自分自身に苛立って悪態をつく彼に首肯し、降谷は鉛筆を利き手に構えた。先ほどに比べて随分とパワーをもらった気がする指先を動かして、黙々と問題に取り組む。
 返事をしないチームメイトにも小さく舌打ちをして、栄純もまた、借りたばかりの消しゴムをプリントに押し当てた。
「くそっ。速攻で終わらせて、御幸のヤロー捕まえて、んで風呂入って」
「御幸先輩には僕の球、受けてもらうから」
「ンだと!」
「だって僕、エースだし」
「ふざけんな。そのうちぜってー、俺が奪い取ってやんだからな」
「お前ら、いい加減にしろよ?」
「ハイ!」
 会話が繋がった途端口論が始まったふたりを叱り、金丸がこめかみに青筋を立てる。怒りを堪えて拳を震わすチームメイトに行儀よく返事して、栄純は素早く立ち上がって敬礼のポーズをとった。
 一瞬だが彼に意識を余所に奪われ、降谷は視線を上げた。周囲からからかわれて赤くなる栄純をじっと見つめ、彼が椅子に戻る動きを見せたところでぱっと逸らす。
 寡黙に筆を動かしていたら、視界に何かが紛れ込んだ。
 意識をかき乱され、つい瞳が泳いだ。驚いて背筋を伸ばした彼の前で、栄純もまた不思議そうに目を丸くした。
「どした?」
「……別に」
 消しゴムを返却しただけで大袈裟に反応されて、戸惑いが否めない。小首を傾げた彼に少し気まずくなって、降谷はシャツの上から脇腹を掻き回した。
 さっきからこの辺りが妙にそわそわして、落ち着かなかった。けれど実際に触れてみても異常は見つからなくて、もやもやした物はあっさり霧散して消えてしまった。
 掴み所のない感覚に首を捻り、降谷は目線を持ち上げた
「あ」
 視線が交錯した。丁度栄純も顔を上げたところで、向き合う形で座っていたのだから、目が合うのも必然だった。
 思わず声が漏れた。唖然としている降谷を見て、栄純は一呼吸挟み、ニッと白い歯を見せて笑った。
「負けねーからな」
 補習代わりのプリントを終わらせるのも、チームの正捕手に自主練習を付き合ってもらうのも。
 勿論エースナンバーだって負けないし、風呂に入る順番だって。
 なにひとつ譲るつもりはない。
 意気込む栄純の宣戦布告は、何も今回が初ではない。だのに妙に新鮮な気持ちになって、降谷はすとんとあるべき場所に落ち着いた感覚に頬を緩めた。
「……知ってる」
「あ? なんだって?」
「ねえ、これ分かる?」
「聞けよ人の話!」
 これまで、真正面から受け止めてくれる人はいなかった。
 真っ向勝負で挑んでくる人も、いなかった。
 悪くない。楽しい。面白い。嬉しい。
 深い場所に沈んでいた感情が、いろんな場所で跳ねて、弾んで、飛び交っていた。
 小さな声にも耳を傾け、相槌を打ち、応えてくれる人がいる。喧しい怒号さえも心地よく響いて、降谷は当分終わりそうにない課題に相好を崩した。

2014/03/21 脱稿