東雲

 春は曙、と言うらしい。
 高校に入り、授業の幅は一気に広がった。以前もどこかで耳にした事のある言葉が、遠い昔に生きた女性が記した文章に由来しているというのも、古典の担当教諭の話で初めて知った。
 なんだか難しそう、という先入観から苦手にする生徒も多いとかで、教師は少しでも親近感を持ってもらおうと必死だった。だが影山にとってその言葉さえも眠りに誘う呪文でしかなく、気を抜けばすぐに欠伸が零れた。
 滑り込みセーフで合格した烏野高校には、正直あまり期待していなかった。とにかく、試合に出られればいい。弱いなら、自分が勝てるチームに仕上げてやればいいと、そんな傲慢な事さえ考えていた。
 有能な監督が復帰するという噂話に踊らされて選んだ学校だから、どういう選手が居るのか、深く気に留めもしなかった。昨年の春高予選は一次リーグを突破こそしたが、本選で早々に敗退という結果からも、勝ち切れないイメージが先行していた。
 だからまさか、初っ端で部長からダメ出しを食らう事になろうとは、夢にも思っていなかった。
 自分は優秀なセッターで、技術面に何の不足もないという自負があっただけに、余計にショックだった。入部を拒否られるのは想定外で、これでは何の為に烏野高校に来たのか分からなくなるところだった。
 青葉城西高校だけは行きたくなくて、目指した白鳥沢高校は不合格だった。バレーボールをする為だけに進学先を決めたようなものだから、排球部に所属できないのは本末転倒甚だしかった。
 だから仕方なく妥協して、頭を下げた。部に要らない、と体育館から一緒に放り出された、そもそもの騒動の発端である馬鹿と、嫌だったが協力して、入れてくれるよう頼み込んだ。
 排球はチーム戦だから、個々の技術がいかに優れていようとも、連携が上手く機能しなければ勝利は得られない。部長の弁は痛いくらい胸に突き刺さり、古傷を容赦なく抉った。
 彼は、知っていたのだろう。有名な話だから致し方ないとはいえ、冷静な評論は湯気を噴く頭を冷やすのに十分だった。
 ところが、知らない奴がいた。
 王様のあだ名の由来を聞いても尚、だからどうしたと一蹴した奴がいた。
 どうしようもなく下手クソで、背も低くて、ただ諦めだけは馬鹿みたいに悪い奴だった。向上心は十二分、根性は百点満点。口は悪いしすぐ怒鳴り返してくるが、驚くほど純粋で、真っ直ぐだった。
 彼に「昔のことなど関係ない」と言われた時ほど、驚いたことはない。呆気に取られて頭の中が真っ白になって、直後、目の前がふっと、明るくなった感じがした。
 現実の目の前も、明るい光が満ちていた。
 窓から注ぐ陽光は大半がカーテンに遮られていたが、開け放たれた窓から吹く風に煽られて、白い布は頻繁に膨らんではひらひら踊っていた。床や手元に落ちては消える緩い陽射しは、生徒たちの集中を阻害して微睡を誘うのに申し分なかった。
 特に今日は、気温が高い。暖かな空気が心地よくて、影山のみならず、数人のクラスメイトが舟を漕いでいた。
 熱弁をふるう教諭は既に諦め顔だ。しかしここで授業を止めるわけにもいかず、半数に満たない真顔の生徒の為に、必死の講義を続けていた。
「ふぁ……」
 長閑すぎる光景を眺め、影山は口元を右手で覆った。我慢できなかった欠伸を零して瞬きを繰り返し、軽く首を振って眠気を散らす。
 だが完全に取り除くのは難しく、最初の欠伸が契機になったのか、余計に眠くなってしまった。
「つまんねーな」
 授業など、本当なら受けたくなかった。
 許されるなら一日中体育館に張り付き、ボールを追いかけていたかった。ジャンプサーブの精度はまだまだ未熟で、コントロール力を身に付けるのが目下の課題だった。
 その為にも、もっと練習したかった。今も朝早くから体育館に押しかけ、夕方も遅くまで残って励んでいるが、とても足りているとは思えない。
 顧問は選手経験がなく、コーチはいない。正直このままでは頭打ちで、成長が止まってしまう気がしてならなかった。
 焦りはあった。かつてのチームメイトには、次も勝つと大それた宣言をしてしまっただけに、足踏みしている時間が惜しかった。
 上手くなりたい。
 強くなりたい。
 勝ちたい。
 負けたくない。
 トスには絶対の自信があった。県で一番優秀なセッターの後を継いだのだから、自分がコートの中に居さえすれば、勝利は揺るがないと信じていた。
 どこで間違えたのか。
 思い出そうとしても思い当たる節があり過ぎて、逆に全く思いつかなかった。
 勝てるはずだった。
 勝てた試合だった。
 今でもたまに、夢に見る。転々と弾むボールの先にあるのは、真っ暗な闇だけだ。
 このままだと、ボールが失われてしまう。あれがなくなったら、二度とコートに立てなくなってしまう。
 恐怖に負けて、走り出した。追いかけて、必死に取り戻そうと足掻いて、それでもボールは暗がりを転がり続けた。
 誰も追いかけてこなかった。あれはとても大事なものなのに、チームメイトは見向きもしない。声を上げて名前を呼ぶのに返事はなく、振り向く奴もいなかった。
 悔しさに息が詰まり、鼻の奥がツンと来た。けれどそれはすぐ怒りに変わり、腹の奥底で燃え上がった。
 あいつらは勝利を放棄した、惨めな敗北者だ。そんな連中にいつまでも固執していたら、自分までダメになってしまう。
 なら、捨てて行こう。彼らの態度は願ったり叶ったりだ。最早なんとも思わない。頼まれなくとも、こちらから縁を切ってやる。
 強がりで気弱になる心を騙し、凹みそうになる己を懸命に鼓舞し続ける。自分はなにも間違っていない。真剣勝負なのだから勝ちにこだわるのは当たり前で、勝てる術があるならそれを有効に使うべきだ。
 あいつらはそれが出来なかった。駒にすらなれない屑は、さっさとコートから出て行けばいい。必要ない。チームメイトなど居なくていい。
 ボールは転がり続けた。勢いは弱まらず、逆に速度を増していた。
 必死に走っているのに、何故追い付けないのだろう。疑問が生まれ、彼はふと背後を振り返る。だが明るかったコートはもう見えず、ぽっかり穴が開いたような深淵が広がるばかりだった。
 ここにきて初めて、影山は畏怖を覚えた。
 もしこのまま、ボールを捕まえられなかったら。
 いや、無事ボールを確保出来たとしても。この深くて暗い場所から出られるのか、何の保証もなかった。
 背筋がぞわっと来た。冷たい汗が流れた。瞳孔が開き、息が止まった。
 全身の産毛が逆立つ。恐怖に足が竦んだ。ペースは一気に落ちて、ボールとの距離が広がった。
 見失ったら、一巻の終わりだ。ぽーん、ぽーんとリズムを刻む球体に手を伸ばして、影山は必死に空を掻いた。
 早く、早くしなければ。
 それなのに、足が動かない。身体の自由が利かない。
 あと少しなのに、届かない。指の間から砂が零れ落ちるように、じわじわと、けれど着実に、気持ちが全身から抜け落ちていった。
 どうしてと、呟こうとした唇さえ動かなかった。
 目の前が真っ暗になる。世界が閉ざされる。二度と開かれることはない。すべてが今、終わってしまった。
 否。
 ボールの弾む音が止んだ。
 はっとして、影山は顔を上げた。背筋を伸ばし、目を凝らした。
 耳の奥にこびりつく残響を振り払い、歯を食いしばって前を見る。射抜くような鋭い眼差しの先に、小柄な男子が立っていた。
 中学生かと見紛う体格と、強気で勝気などんぐり眼。口元に不遜な笑みを浮かべ、真正面から見つめ返す眼差しに迷いはない。
 その彼が胸に抱くものこそ、影山がずっと追い求めて来たボールだった。
 拾ったのは、高校に入って新しく得た仲間だった。
 日向翔陽。その名の通り太陽のように眩しく、暖かく、胸の裡に燃え盛る炎は傍に居る者をも焦がすほどだ。
 バレーボールが好きだと全身で訴えて、ひたむきに努力を惜しまない。負けん気の強さは影山と並ぶかそれ以上で、成長の速さは目を見張るほどだった。
 それでも下手な事に変わりはないが、少なくとも、入学直後よりは幾分マシになっていた。
 昨日出来なかったことが、今日は出来るようになっている、その吸収力の高さには脱帽させられた。どれだけ罵られようともへこたれず、果敢に挑みかかってくるギラギラした双眸は、さながら餓えた獣だった。
 軽く見て油断していたら、逆に襲われて喉仏を食いちぎられかねない。そう考えるとゾクリとして、内臓が沸き立つ錯覚に陥った。
 久しく得られていなかった興奮に四肢が戦き、鼓動は耳元で喧しかった。どくん、どくんと脈打つ心臓に汗が滲み、言い表し難い衝動が体躯を貫いた。
 早くそのボールを投げ返して来い。抑えきれない高揚感に打ち震え、影山は自然と構えを取った。
 投げられたボールをレシーブで返し、同じく返されたボールで今度はトスを上げる。先に投げて来た者はダッシュして、セッターが上げたトスを思い切りスパイクする。
 練習でも良くやる流れだ。すっかり身体に染みついた動きを頭の中で再確認して、影山は乾いた唇を舐めた。
 お前の大好きなトスを上げてやる。
 だから早く、ボールを。
 そのボールを、俺に。
 言葉にならない感情を立ち上らせて、動かない日向を促す。けれどどれだけ待っても、彼は一向にボールを投げようとしなかった。
 それだけではなかった。
 怪訝に思い、名前を呼ぼうとした瞬間だった。
 それまでまるで変化がなかった周囲がざわつき、暗がりが突然波打った。ぐにゃりと奇妙な形に世界が歪んで、渦巻いたそれが千切れたと思えば、伸びたり縮んだりを繰り返し、やがてひとつの形を作り上げた。
 人だ。
 しかも、影山も良く知る人物だった。
 部長の澤村に、副部長の菅原。ウィングスパイカーの田中に、ミドルブロッカーで同じ一年の月島、そして山口。
 顧問の武田の姿もあった。マネージャーの清水らしき影もあった。
 彼らは影山の後方から現れ、そして彼の両側をすり抜けていった。
 真っ直ぐ前を――前だけを見て、そこに佇む影山を一顧だにしない。澱みない足取りで、ぶれることなく、きびきびと交互に腕を振り続ける。
 それはまるで、軍隊の行進のようだった。
 驚き、焦り、右往左往しているうちに、影山は置き去りにされた。慌てて後に続こうにも、矢張り足は動かなかった。
 待って、と叫ぼうとした。だが声が出ない。喉の奥が痺れ、呼吸さえままならなかった。
 自然と涙が溢れた。嗚咽が漏れた。苦しくて、怖くて、嫌なのに勝手に足が震えて止まらなかった。
 膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪え、遠ざかる背中を食い入るように見つめる。その中でふとあることに気付き、彼は最後の力を振り絞って唇を噛み締めた。
 ぶつかり合った奥歯がガリッと音を立て、鈍い感触が口の中に広がった。切れて血が出ている可能性も顧みず、影山はその場に留まり続けた人物に手を伸ばした。
 日向だけが、そこに居た。
 最初と変わらず、彼は佇んでいた。涼しげな顔をして、ボールを胸に抱き、物言うことなく影山を見ていた。
 名前を呼ぼうと口を開くが、上手く音にならなかった。空洞を空気がひゅう、と流れていくばかりで、舌は凍り付いたかのように動かなかった。
 理由は分からない。それでも影山は足掻き続けた。見苦しいと笑われようとも構わない。なにもせず、棒立ちのまま枯れていく方がよっぽど恐ろしかった。
 空を掻き、声にならない声で日向を呼び続ける。最早彼だけが影山に残された希望であり、救いだった。
 だのに。
 ふっと、日向が笑った気がした。
 力の抜けた、しどけない微笑みだった。嬉しそうで、照れ臭そうで、それでいて哀しげで、寂しそうで。
 彼は何かを口ずさんだ。紅色の唇が上下に震えた。
 影山には何も聞こえなかった。目を剥き、懸命に耳を澄ませて音を掻き集めるが、荒い呼吸と鼓動が邪魔をして、なにひとつ拾い上げられなかった。
 ひと通り話し終えて、日向はまた黙った。そして切なげに目を細め、くるりと、体を反転させた。
 彼もまた、影山を置いて歩き出した。ボールを大事に抱きかかえて、振り向くことなく去っていく。
 暗がりが広がった。歪んでいたものが元に戻り始めていた。いや、そうではない。飛び出て行ってしまったものを求めるかのように、闇が触手を伸ばしていた。
 絡め取られた。四肢を拘束され、影山は悲鳴を上げた。
 両手両足をばたつかせ、振り払おうと躍起になる。だがたったひとりで、いったい何が出来るだろう。一本断ち切れたところで、三本伸びてこられては抗いきれない。
 日向にまで置いて行かれたら、どこへ行けばいい。縋る藁も見つからず、ただ堕ちていくばかりだ。
 これもすべて、己が招いた事か。裸の王様から脱し切れずにいる、自分自身の業の深さ故か。
 こんなに辛いのなら、いっそすべてを投げ出してしまおうか。潔く諦めて、身を引いて、そして。
 そしてどうなる――
 空虚さが胸を埋めた。がらんどうになった自分には、最早生きている価値などありはしないのに。
 誰にも求められない。
 誰にも気付いてもらえない。
 気にかけてももらえない。
 呼び声さえ届かない。
 そんな世界に居続けて、何か得られるものがあるというのか。今よりもっと惨めで、哀れで、物悲しい日々が待っているだけではないのか。
 いやだ。
 そんなのは絶対に。
 嫌だ。
 一瞬でも投げやりになった自分を悔やみ、影山は歯を食いしばった。腹の底に力を込めて、全身全霊を込めて雄々しく咆哮を上げた。
 挫けてなどやらない。折れてなどいられない。
 負けられない。負けたくない。負けたままでいたくない。
 何度だって立ち上がってやる。何度だって這い上がってみせる。この程度で諦めてしまえるほど、軽い人生は送っていない。
 なにがなんでも取り戻す。誓いを胸に、拳を作る。深く息を吸い込んで、思い切り、吐き出す。
 体中が燃えるように熱かった。蘇る衝動に頬を紅潮させ、影山は己を縛る影を振り払って駆け出した。
 方角など気にしなかった。どこに居ても捕まえられる予感がした。必ず探し当ててみせる。決意を秘めて、彼は走った。
 失くしたくないものを持っているのが誰か、考えるまでもない。明るい茶色の髪と、好奇心旺盛な子供のままの眼を思い浮かべ、影山は決死の覚悟で腕を伸ばした。
 掴む。引き寄せる。抱きしめる。
 その華奢な体躯を胸に閉じ込めて、驚き見開かれた双眸に己の姿を曝け出す。
 瞬間、彼は花開くように笑った。
 あどけない無邪気な笑顔で、嬉しそうに。弾けんばかりの表情で、大声で影山の名前を、呼んで。
 抱きしめ返された。甘えて頬を寄せられて、自分も負けじと売れに力を込めて。
 しどけなく濡れた淡い紅色に、唇を重ねようと――
 直後。
「っ!」
 巨大なハンマーで後頭部を殴られた、ような衝撃を受けた。
 ビクッと全身を撓らせ、影山は勢いつけて身体を起こした。
 座っていた椅子がガタガタ言って、後ろの席にいた女子が怯えて息を呑んだのが分かった。動揺は周囲にも伝播して、ざわついていた教室内が一層騒々しくなった。
「……あ、え?」
 前後左右に陣取っていた生徒の多くが振り返り、彼の動向を見守っていた。勿論教卓に居た教諭も同様で、一斉に寄せられた眼差しに影山はハッとして青くなった。
 もしかしなくても、もしかして、だろう。自分が今どういう状況に置かれているかを理解して、脂汗が止まらなかった。
 目を白黒させて、頬を引き攣らせる。強張って怖い表情に古典の教師は深々とため息をつき、それを合図にあちこちから笑い声が響いた。
「起立」
 そこにクラス委員の号令が紛れ、影山も一歩遅れて立ち上がった。行儀よく頭を下げて額の汗を拭い、未だ五月蠅い心臓を制服の上からなぞる。
 人を束縛した暗闇も、バレーボールも、なにより日向の姿も、彼の前には存在していなかった。
 どうやら夢を見ていたらしい。退屈な授業に飽きて、知らぬ間に寝入ってしまったのだ。
 そしてチャイムの音で叩き起こされた。
 呆れるより他にない。素晴らしいコンボだったとため息を積み重ね、影山は椅子に戻ると涎の跡が残る教科書を閉じた。
 時計を見れば、午後零時を過ぎていた。気の早い人間は既に弁当箱を広げており、外に買いに行く生徒もいて廊下は賑やかだった。
「てか、なんつー……」
 目覚めた直後だからか、夢の内容は妙にはっきり覚えていた。時間が過ぎれば薄れていくだろうが、鮮烈過ぎて当分忘れられそうにない。
 特に後半、更に言うなら最後の方。
 あそこでチャイムが鳴らなかったらどうなっていたか、想像するだけで吐きそうだった。
「冗談じゃねえ」
 たまらず愚痴を零し、頭を抱え込む。いったいどういう理屈であんな展開になったのか、神様がいるのなら是非とも聞いてみたかった。
 最近忙しくて処理する暇がないから、溜まっているのだろうか。だがだからといって、よりによって、相手があの男とは。
 残念ながら、影山にはそういう趣味はない。えり好みをするつもりはないが、どうせなら小柄で華奢で、可愛い子が良かった。
 そんなことをぼやいていたら、頭の片隅に例のチームメイトがひょっこり顔を出した。
「いや、だから待て」
 確かに影山より随分背が低く、細身で、しかも軽い。顔立ちは幼くて、精悍とは正反対のところに位置した。
 ぴったり条件が合致するのにも愕然とし、慌てて否定に走るが逃げ切れない。有り得ないと何度も自分に言い聞かせて、彼は苦虫を噛み潰したような顔をした。
 右手で顔半分を覆い隠し、じわじわと迫ってくる得体のしれないものを押し返す。だが粘性で、しかも定まった形を持たない為に、それは隙間から簡単に侵入し、影山の心に張り付いた。
 そうなると完全に取り除くのは難しくて、彼は益々顔色を悪くして温い唾を飲み込んだ。
「ふざけんじゃねーぞ」
 ひとりごち、首を振る。吐き気が強まって、彼は額にあった手を口元に移動させた。
 とてもではないが、食欲が沸かなかった。古典の授業が始まる前は早く弁当を食べたくて仕方がなかったのに、今は到底そんな気分になれなかった。
 目を瞑れば日向の顔が思い浮かび、耳を澄ませば声が聞こえて来た。屈託なく笑ってトスを強請る姿が眩しくて、現実を直視するのも難しかった。
「なー、おいってば!」
 だから、気づくのが遅れた。
 ドンッ、と力任せに机を叩かれて、間近で響いた騒音に影山は危うく心臓が止まるところだった。
 吃驚して目を丸くし、絶句して頬をヒクつかせる。いったいいつの間に現れたのか、影山の前には怒り心頭な少年が立っていた。
 机を殴って赤くなった手を腰に据え、日向は拗ねているのか、頬を膨らませた。
「呼ばれてんだから、ちゃんと返事くらいしろよ」
「あ、ああ……あ?」
 上から目線で説教されて、反射的に頷いてしまった。それから一秒半後に我に返って、影山は左にずれた視線を真正面に戻した。
 ゆっくり上へ移動させ、身長百六十センチ少々のチームメイトを凝視する。その、穴が開きそうな眼差しに、日向は怪訝に眉を顰めた。
「影山?」
「あ、いや。別に」
 ちょっとだけ声を高くして、名前を呼ばれた。ボーイソプラノというのだろうか、下手をすると少女が発したものと勘違いしそうなトーンにドギマギさせられて、彼は慌てて顔を伏した。
 頼んでもないのに頬が赤くなり、眩暈がした。動悸が止まらず、息苦しくて仕方がなかった。
 あんな夢を見たばかりなので、言葉を交わすのさえ妙に気まずかった。何も悪い事をしていないのに申し訳なさが芽生えて、影山は整理がつかない感情を奥歯で磨り潰した。
 大体、日向は一組だ。三組の影山の前に、何故彼は居るのか。
 間違っても、呼んでいない。会う約束もしていない。もしあったとしても、今だったら絶対断って避けていたはずだ。
 一番会いたくなかった存在に押しかけられて、目が回りそうだった。
 気を抜くと後ろへ倒れそうで、それだけは回避しようと右足首を椅子の脚に絡ませる。ガンガンするこめかみを指で押さえていたら、何を気取ったのか、不意に日向の表情が翳った。
 いつもの元気の良さが鳴りを潜めて、今度は影山が戸惑う番だった。
「日向?」
「お前、調子悪い?」
「は?」
「だって、全然返事しねーし。良く見たら顔色も、なんか、変だし」
 小首を傾げて見つめ返せば、彼は早口に捲し立てた。途中でずい、と身を乗り出して来て、吐息が鼻先を掠めた。
 目線は自然と一ヶ所に集い、柔らかそうな紅色に心が引き寄せられた。少し乾燥してかさついた唇から目が離せなくて、一気に高まった鼓動に、影山は喉を引き攣らせた。
「な、なんもねーよ!」
 ひっ、と悲鳴にも似た声を上げ、直後に教室中に響く大声で彼を押し返す。我ながららしくない反応に自分でも驚いて、影山は慌ただしく立ち上がった。
 蹴倒す勢いで椅子を引き、視線の高さを逆転させる。日向はきょとんとして大きな目を丸く見開き、二秒の間を置いて白い歯を覗かせた。
「なんだ、元気そーじゃん」
 ホッとした様子で言って、屈託なく笑う。花丸が貰えそうな満面の笑顔で何度か頷いて、彼は背筋を伸ばして胸を張った。
 その肩には、鞄がぶら下がっていた。
 中身がなんであるかの問いは、無意味だ。彼がここに居る理由が読み解けて、影山は脱力して背中を丸めた。
「部室行くか」
「おうっ」
 わざわざ呼びに来た、ということは、この後自主練習に付き合わせる気でいる、ということだ。
 もうひとりいるセッターは三年生だから、教室まで頼みに行き辛かったのだろう。同学年の他の部員とは微妙な距離感があるので、消去法で影山を選ばざるを得なかった、という裏事情も窺えた。
 だとしても、だ。
「やりぃ。影山のトスー」
 謳うように呟く、嬉しそうな横顔は本物だ。ならば構わないと許してしまえる自分が確かに存在して、影山は鞄から出した弁当箱の包みを強く握りしめた。
 夢の中で体感した、冷たく陰鬱とした物は着実に薄れつつあった。入れ替わるように穏やかで暖かな日差しが流れ込んできて、その心地よさに彼はほう、と息を吐いた。
 全身に行き渡っていた緊張を手放し、肩の力を抜く。先を行く小さな背中を追いかけて教室を出れば、日向が元気よく振り返った。
「はーやくー」
 待ちきれないのか、うずうずしているのが窺えた。楽しくて仕方がないと全身で語るチームメイトに相好を崩し、影山は今、ごく自然と笑っていた事に気が付いた。
 ずっと自分を追い込んでばかりで、知らぬうちに笑い方を忘れてしまっていた。
 連携が上手くいかないと苛々して、思い通りに動かないスパイカーに腹が立った。眉間の皺はいつしか癖になり、常に不機嫌なオーラを漂わせて女子からは怖がられた。
 お蔭で犬猫も寄ってこない。ひとりで居る事に慣れるのは、存外に早かった。
 けれど今は、違う。
 なかなか追いついてこない影山に焦れて、日向が右手を振り回した。通行人に当てないよう注意しつつ、何度も名前を呼んで急かしてくる。
 他者から見れば他愛無い、どこにでもありそうな日常風景かもしれなかった。世界中のあちこちで連日繰り返される、当たり障りのない出来事だったかもしれない。
 しかし影山ははっとして、息を呑んだ。再びこみあげて来た感情を今度は素直に受け入れて、彼はゆっくり、新しい一歩を世界に刻み付けた。
「やっと来たー」
 速度を上げ、歩幅を大きくすれば追い付くのは容易かった。横に並んだチームメイトを見上げ、日向は嬉しそうに声を高く響かせた。
 この後は、ペースを揃えて行くのが妥当なところだ。だが影山は、歩みを緩めなかった。
 代わりに、
「俺、お前のこと、好きかも」
「――は?」
「いくぞ」
 追い越しざまに囁き、前を向く。日向はきょとんと目を丸くしたが、影山は振り返らなかった。
 爆弾を投げた自覚はあった。だからこそ、後ろを見て確認する勇気がない。出来る事といえば、何もなかった風を装って誤魔化すくらいだ。
 確証などない。勘違いである確率も高い。
 気の迷い、思い違い、自意識過剰。色々な可能性を考えてみるが、どれも決定打に欠けた。それ故に語尾を曖昧に濁して逃げ道を作り、あまつさえ発言自体の隠ぺい工作も忘れない。
 解釈などいくらでも出来る。日向ならきっと深く考えず、受け流してくれるものという期待もあった。
 狡いと思う。臆病だと笑いたくなった。あまりにらしくなくて、行動を起こしてから急に恥ずかしくなった。
 お蔭で余計に振り向けない。日向の顔が見られない。
 部室に着くまでに、どうやって平常心を取り戻そうか。そればかりを考えて、影山は人知れず深呼吸を繰り返した。
 そんないっぱいいっぱいの男の後方で。
 足を止めた日向が真っ赤になっていたのを、彼は、知らない。

2014/3/14 脱稿