薄桜

 その日、いつもより少しだけ早く目が覚めた。
 まだ肌寒い中を布団から抜け出し、手早く寝間着を脱いでジャージに着替える。高校に進学してから新調したトレーナーはサイズが大きくて、全体的にだぼっとした感じだった。
 黒の学生服は折り畳んで小さくまとめ、鞄の中へと詰め込んだ。勉強道具は大半が学校のロッカーの中で、後はここに弁当を入れれば準備完了だ。
「うー、さぶさぶ」
 もっと早くから起きていた母の用意した朝食に舌鼓を打ち、温かい湯気が嬉しい味噌汁を一気に飲み干す。軽く歯を磨いてトイレも済ませて、外に出れば空は仄明るかった。
 夜の気配は僅かに残るものの、東に目を転じれば、稜線を照らす太陽が見えた。眩い輝きが網膜を焦がして、日向は咄嗟に腕を掲げた。
 肘を曲げて庇の代わりにし、明るさを増していく天を仰ぐ。上空を流れる雲の動きは速く、昼頃にはきっと快晴が拝めるだろう。
 幸い、地表はさほど風が出ていない。まだ冷たい空気を胸いっぱい吸い込んで、彼は急ぎ自転車に跨った。
 荷物、といっても制服と弁当しか入っていない鞄を肩から提げ、胸元から背中側へと移動させる。ペダルを漕ぐ際に邪魔にならない位置に安定させて、後ろ足で思い切りスタンドを蹴り飛ばす。
「行ってきまーす」
 母が見送りに出てくるのは、玄関までだ。それにも構わず、日向は自分が閉めた戸に向かって叫んだ。
 返事はなかったが、磨りガラス越しに何かが動くのが見えた。だから概ね満足だと頷いて、彼はペダルに置いた右足に力を込めた。
 ぐっと踏み込み、タイミングを合わせて残る足も地面から引き剥がす。ふっと風が流れ、前髪が額を撫でた。
 目の前が一気に広がって、奥行きがぶわっと深まった。
 閉ざされていた世界の扉が開かれ、新たな一ページが幕を切った。迷わず真っ直ぐ駆け出して、日向は風を切って自転車を走らせた。
 砂利道の小石を弾き飛ばし、悪路も構わず突き進む。サドルに据えていた腰は速度が上がるにつれて浮き上がり、上半身もハンドルに胸が付くくらい、前のめりになっていった。
 空気抵抗を極力減らし、巧みにブレーキを操作しながら道を行く。ただ走り慣れた場所、という油断があったのだろう。猛スピードでカーブに突っ込んできた彼を見て、犬と共に散歩中だった老人が吃驚して目を丸くした。
「こりゃ、日向んとこの坊主が。危ないじゃろ!」
「げっ。ごめーん!」
 両者には相応の距離があったが、勢いに気圧されて心臓が縮んだに違いない。後方から雷が飛んできて、日向は咄嗟に首を竦めて謝った。
 雪ヶ丘町は広いけれど、住んでいる人は大体が顔見知りだ。この失態も、今日中に方々に広まるのは確実だった。
 近所付き合いが密な地域だから、悪戯がバレるのも早い。噂話に尾ひれがつく前に、母には弁解しておいた方が良さそうだ。
「轢き殺されそうになった、とか、言われたくないもんなー」
 事実とは異なる伝聞が広まるのは、遠慮したかった。あの老人はそんなに嫌な性格をしていないが、たとえ真実が語られたとしても、受け取る側がどう感じるかはまた別の話だ。
 朝から少し憂鬱になって、日向は自転車を漕ぎながらため息を吐いた。
 気を取り直し、開店前で静かな商店街の道もするりと通り抜ける。左右を確認して人通りがないのを確認して、今度は慎重に速度を上げた。
「よっし」
 嫌なことは、さっさと忘れるに限る。気合いを入れ直して唇を舐め、日向はハンドルを握りしめた。
 目の前に現れたのは、緑濃い山。
 そしてその側面を縫うように伸びる、舗装された道だった。
 一瞬だけ視線を上に流せば、四角い看板が見えた。三方向に伸びた矢印の先に、それぞれ地名が記されている。素早く前方に向き直ると、道路も三手に分岐していた。
 分かれ道の手前でブレーキを握り、接近する車がないかを調べてから信号のない道を横断する。進んでいくうちにペダルは静かに重くなり、タイヤを一回転させるのにも時間が必要になっていった。
 それもその筈で、自転車は坂道に突入していた。
 きちんと整備された道なので、走り難くはない。だが傾斜は鋭く、山頂までの距離もかなりのものだ。
「ふん、ぬっ……ぬぅ!」
 それを根性で、歯を食いしばりながら、日向はペースを落とさないよう登っていった。
 目指すのは、この山道を越えた先の町。
 その高台にある、学校。
 日向がこの四月から通い始めた、烏野高校だ。
 この高校に通うのは、昔からの夢だった。
 まだ小学生だった頃、電気屋のテレビで偶然見かけた映像に心を奪われた。以来黒とオレンジのユニフォームに袖を通すのを目標に、今日まで生きて来た。
 烏野高校、男子排球部。
 かつて一度だけ全国大会に勝ち上がったチームの一員になり、あのコートで戦う事が、日向の願いだった。
 その目標は、既に半分、達成された。
 厳しかった受験戦争を勝ち抜き、見事合格切符を手にして、イザコザはあったもののバレーボール部に無事入部出来た。チームメイトに多少文句はあるものの、毎日が充実して、とてつもなく楽しかった。。
 後はレギュラー入りを確固たるものにして、大会に出て、勝ち進むだけ。道のりは果てしなく遠いが、わくわくが止まらなかった。
「ふぐ、っぬう……とーう!」
 そうこうしているうちに、左側を小型トラックが走り過ぎていった。すれ違う瞬間に風が起こり、煽られた彼は崩れたバランスを立て直して雄々しく叫んだ。
 誰も聞いていないから、大声も出し放題だった。
 出来るものなら歌でも歌いたいところだが、そんな余裕はなかった。雪ヶ丘と烏野を隔てているこの県道は、自転車で急いでも四十分はかかる距離があった。
 だが日向は、これを十分短縮した。それどころか、まだ縮めるつもりでいる。急峻な坂道を自転車で往復するのは、脚力と体力アップにも有効な手段だからだ。
 通常はバス通学を選ぶところを、二輪車で通学する道を選んだのだって、すべてはバレーボールの為だ。
 中学時代、指導者もない中で排球を続けて来た彼にとって、技術不足は否めない。その点ではどうやったってチームメイトには勝てないのだから、別の部分で勝負する以外に術がなかった。
 小柄故の俊敏さと、強靭なバネによる跳躍力。最後まで食らいつく諦めの悪さ、そして見た目を裏切るタフネスさ。
 背が低いから、という理由だけでコートの隅に追いやられかねない状況で、日向はミドルブロッカーに抜擢された。それもひとえに、驚異的なジャンプ力を期待されての事だった。
 努力を認められたら、純粋に、嬉しい。
 だから認めてくれた仲間に報いる為にも、もっと頑張りたかった。
 この坂道を駆け登る訓練だって、長い目で見ればいつか役に立つ日がくる。そう信じて、日向は腹の底に力を込めた。
「うおぉぉぉぉぉ!」
 雄叫びを上げ、強くペダルを踏みしめる。サドルから完全に立ち上がり、吠えながら次のカーブへ突っ込む。
 直後だった。
「だわっ」
 突然前輪がガクンと弾み、変な風に傾いた。
 振動は腕から全身に伝わって、日向は目を剥いた。咄嗟に体勢を立て直そうと身体を揺らし、走行を妨害した原因に視線を走らせる。
 石だ。
「うお、ひょわ、っと、お、おほぉ!」
 拳大の大き目の石、或いは壁面を覆うコンクリートが剥落したのか。ともかく其処にあるべきでない物が、道端に転がっていた。
 それに気付かず、思い切り踏んで、乗り上げてしまったのだ。
 速度が出ていたというのもあり、前輪は完全にコントロールを失っていた。必死に立て直しを図るけれど、後輪までもが同じ石に蹴躓いてあらぬ方角に跳ねた。
 転倒は回避出来ても、自転車は勝手に進み続ける。軽く避けられるはずだったガードレールが目前に迫って、日向は真っ青になった。
 顔を引き攣らせ、彼は必死になってブレーキを握りしめた。
 左右両方、同時に、壊れるくらいに。キキキー、と金属とゴムが擦れあう甲高い音が響き、日向は反射的に右足を蹴り上げた。
 ペダルを開放し、靴底を真正面に向けて膝を伸ばす。
「うっ――」
 ドスンという衝撃の後に身体が左に傾いで、背負っていた鞄が地面に向かって垂れ下がった。
 倒れる寸前で左足をつっかえ棒にして、膝に生じた痺れは無言でやり過ごす。全身からどっと汗が噴き出して、心臓が口から飛び出て来そうだった。
 耳鳴りのように轟く鼓動に瞬きを繰り返し、一呼吸置いてから左膝を伸ばせば、自転車のスタンドがアスファルトを削って音を立てた。
 右を上にして横倒しになった二輪車の上で、日向はしばらく動けなかった。
 ガードレールに右足を押し当て、クッション替わりにしていなければ、崖下に転落していた可能性が高い。たまたま運良く上手くいったので事なきを得たが、もし一寸でもタイミングがずれていたらどうなっていたか、分かったものではなかった。
 藪と木々が茂る眼下を盗み見て、日向は生唾を呑んで足を下ろした。
 両足でしっかり大地を踏みしめ、完全に倒れた自転車をゆっくり起こす。カーブで立ち止まっている高校生を見つけて、通りがかった乗用車がプッ、とクラクションを鳴らした。
 転んで怪我でもしたかと心配してくれたらしい。減速しながら近づいてくる車にぺこりと頭を下げ、日向は前に回り込んでいた鞄を撫でた。
 車の運転者も、特に問題ないと判断したようだ。カーブを曲がった軽自動車はアクセルをいっぱいに踏み込み、速度を上げて去って行った。
 排気ガスの突風から目を逸らし、日向は落ち着きつつある鼓動にホッと息を吐いた。
「あっぶな……」
 今になって恐怖が沸き起こって来た。怪我ひとつしなかった幸運に感謝して、彼は災いの源である大きな石を振り返った。
「あれ、危ないな」
 アスファルトに引かれた白いライン、その外側にそれはあった。
 昨日の帰り道にはなかったから、夜のうちに誰かが置いたか、崖を転がって来たか、トラックから落ちたか、のどれかだろう。ともあれ、あのまま放置しておくのは不味い。
 身を以てその危険性を確かめたのだ、捨て置けるわけがなかった。
「いよー、っと」
 仕方なく自転車をその場に残し、日向は石に駆け寄った。そして靴の側面でゆっくり路上を移動させ、灰色に汚れたガードレールを潜らせた。
 斜面に飛び出した石は己の重みで勝手に転がり、藪の中に消えていった。
「これで良し」
 坂の下にも道はあるが、ここより遥か下方だ。石はどこかの木の根にでも引っ掛かり、市街地に到達する事はないだろう。
 両手を腰に当て、日向は満足げに頷いた。突発的なアクシデントで噴き出た汗もほぼ止まって、残ったのは妙な清々しさだった。
 今日は朝から色々と、トラブルが多い。星占いでも確認してくれば良かったと悔やみつつ、彼は自転車に戻ると利き足でスタンドを蹴り上げた。
 上り坂はまだ残っていたが、もうあんな風に力いっぱい漕ぐ気になれなかった。
 二度あることは三度ある、と言う。事故に繋がりかねない失態は犯したくなくて、彼は急ぐのを諦めてゆっくりペダルを回転させた。
「いっか。今日は余裕あるし」
 家を出たのは、いつもより十五分ほど早かった。その分体育館に早く着けて、誰より先に練習が始められると息巻いていたのだが、良く考えたら日向は鍵を持っていなかった。
 扉が閉まったままの体育館で待ちぼうけるくらいなら、ちょっと臆病になって、安全運転で道を行くのも悪くない。なにより、健康第一。不注意の怪我ほど馬鹿らしく、救えないものはなかった。
 折角念願の烏野高校に進学を果たしたのに、こんなところで躓きたくなかった。
 試合経験豊富なチームメイトと比較して、己の技術不足を痛いほど思い知った直後でもある。彼らに負けない為にも、常に万全の態勢を維持するのは必須だった。
 初めてこの道を駆け抜けた日よりもずっと緩やかな速度で、日向は自転車を走らせた。少しずつ温み始めた風は穏やかで、たまには回り道も良いと囁いているようだった。
「そういえば……」
 ふと思い立ち、視線を左右に流す。障害物を踏んで転ばないよう配慮しつつ景色を眺め、彼は相好を崩した。
 ここの所三十分の壁を破るのに必死で、道の両側に広がる世界など、全く気にかけていなかった。
 冬が過ぎ、雪は完全に溶けてなくなった。新緑は眩しく、庭先に咲く花も日毎に色を増やしていた。
「うー、良い風~」
 最後の上り坂を終え、道は下りに突入した。速度が出過ぎないようブレーキを調整しつつ進み、日向は前髪を煽る風に声を高くした。
 山をひとつ越えたからか、見える景色は雪ヶ丘と少し違っていた。
 まず、住宅の屋根が増えた。遠くに工場も見える。霞む空の向こうに聳えるのは、高層マンションだろうか。
 市街地は烏野からも遠いが、電車やバスを乗り継げば十分通学圏内だ。ただ市内にはもっと有名な学校が多いから、わざわざこちらの学校を選ぶ生徒は稀だと聞いている。
 一度練習試合をした青葉城西高校も、あの辺りにあったはずだ。ここからだと遠すぎて分からないが、手を伸ばせばぎりぎり届きそうな錯覚を抱く。
 無論右手をハンドルから解放しても、掴めるのは空気だけ。思い込みと現実の差をこんなところで自覚して、日向は頬を紅潮させた。
「大王様になんか負けるかあ!」
 練習試合には勝ったが、相手チームは盤石ではなかった。最終局面で、ピンチサーバーとして出て来た正セッターが最初から出場していたら、結果はまるで違っていたはずだ。
 実際、大王様こと及川徹のサーブは凄まじかった。威力があり、コントロールの精度も高い。今の自分では、まともに打ち返すなど不可能だ。
 しかし、だからといって甘んじて負けを認めるつもりはなかった。今日がダメでも、明日がある。明日がダメなら、明後日に賭ける。
 諦めさえしなければ、世の中、案外何とかなるものだ。日向はそうやって、バレーボールを続けて来た。
 ここ一ヶ月足らずの日々を思い返すだけで胸が高鳴り、興奮が止まらなかった。自然と鼻息が荒くなり、自転車を漕ぐ速度も次第に上がっていった。
 のんびり行くと決めた傍から、すぐこれだ。抑えきれない衝動に苦笑して、日向は古めかしい橋を駆け抜けた。
 背の低い欄干が両側に続き、薄い影が斜めに伸びていた。川の水深は浅く、流れは決して早くなかった。
 小魚でも泳いでいるのか、水の跳ねる音がした。つられてそちらに視線を投げて、日向は交差点の手前で突如ブレーキを引いた。
「うぐっ」
 本日二度目の急ブレーキに、体がガクンと揺れた。しかし今回は、路肩に乗り上げただとか、そういう理由ではなかった。
 ここは昨日も、一昨日も通った道だ。
 それなのに、全く気付かなかった。
「すげ……」
 感嘆の息を漏らし、日向は目を瞬いた。
 眼前に広がっていたのは、河川敷を埋めるように咲く無数の桜だった。
 入学当初はまだ蕾だったので、完全に意識の外だった。それに登校時間だって今よりもっと早かったので、日が昇っていなかったのもあり、暗すぎて分からなかった。
 帰りの時間も遅いし、何より日向は川沿いには進まない。いつも橋を渡るとそのまま真っ直ぐ、市街地を突き抜けていくので、河原の桜並木が見られるのは一瞬だけだった。
 咲いているのは知っていた。けれどこんな風に、川沿いに桜の木が連なっているなど、思いもしなかった。
「キレーだな」
 学校と家の間に、こんな光景が広がっていたなど知らなかった。
 満開の時期を少し過ぎており、水面にはたくさんの花びらが浮かんでいた。風が吹けば都度枝が揺れて、淡い紅色が一斉に空に舞い上がった。
 それは少し離れた、橋の袂に佇んでいた日向にも届いて、彼は誘われるままに手を差し出した。
 同年代の男子よりも些か小さ目の掌に、涙型をした花びらが一枚、促されて滑り込んだ。
 ひらりと泳ぎ、肌を舐めるように走って、やがて動きを止める。ゆっくり窪みに沈んでいく様を眺め、日向は顔を上げた。
 明け始めた空にも負けない鮮やかさで、桜の花びらが舞っていた。一瞬のきらめきに思いを託し、くるくると軽やかに踊っていた。
 ざああ、と風が鳴いた。川面が細波立ち、橋脚にぶつかった大気が渦を巻いて天へ昇って行った。
「うおっ」
 直撃を食らった日向は咄嗟に目を瞑り、両手を交差させて顔を庇った。地面に据えた爪先だけで二輪車のバランスを保ち、吹き抜けて行った桜吹雪を追って彼方を仰ぐ。
 あの花弁たちは、この後どこへ行くのだろう。知れず高揚した心を深呼吸で鎮め、彼は視界に紛れ込んだピンク色に目を丸くした。
「ありゃ」
 今の風で飛んできた分なのか。逃げ遅れた一枚が髪の毛に引っかかっていた。
 寝癖の残る茶髪を抓み、間に挟まっていた花びらを引き抜く。掌に残っていた分もセットにして息を吹きかけ飛ばすが、良く見れば身体のあちこちに、同じように桜が張り付いていた。
 排水溝の中も、欄干の根本にも、大量の桜が積もっていた。見える範囲だけで十本以上植えられているので、その分、散る花の数も半端なかった。
 学校にも桜の木が植えられているが、ここまで立派ではない。町の人たちはさぞや手塩にかけて、丹精込めて木々を手入れしてきたに違いなかった。
 努力を重ねれば、その分だけ綺麗な花が咲く。自分を信じて進めば良いと背中を押された気分で、日向は笑みを零した。
「すげえなー」
 そして改めて眼前の光景に見入り、目を細めた。
 出来るものなら妹や両親にも、この景色を見せてやりたかった。
 だが写真では、到底この素晴らしさは伝わらない。勿体ないと眉間に皺を寄せ、少しでも共有できやしないかと彼は頭を捻った。
 妙案を探し、ついでに視線も彷徨わせる。
「あっ」
 瞬間、日向はぽんと手を叩き合わせた。
 自転車を道端に留めて、土手を回り込んで斜面を下る。毛虫が居ないか警戒しつつ太い幹に近づいて、彼は両手を広げて背伸びした。

 寝起きは、いつも通りだった。
 目覚ましが鳴る五分前にきっちりベッドを抜け出して、身支度を整えてから部屋を出た。朝食の前に軽くランニングを済ませて汗を拭き、腹ごなしの後に家を出る。学校までの道のりも、ジョギング程度の速度で駆けた。
 目的地に着く頃には身体も温まり、簡単なストレッチで準備完了だ。少しでも無駄な時間を短縮出来るよう計算して、影山は正門へ続く坂道を走り抜けた。
 荒い息を吐き、首筋を伝った汗を嫌ってかぶりを振る。乱れた呼吸を整えて、彼はふと気になって周囲を見回した。
 携帯電話の時計を見れば、針は朝練が始まる三十分近く前を指していた。
 つまり、かなり早い登校だ。体育館の鍵当番が来ていないようなら、扉の前で待ちぼうけを食らう確率は非常に高かった。
 烏野高校男子排球部の部員数は、さほど多くない。ただ色々なタイプの人がいて、時間ぎりぎりに来る部員もいれば、もっと早く来て、扉が開くのを待つ部員もいた。
 そして影山は、断トツの後者だった。
 更に部内にはもうひとり、影山と似たタイプの生徒が在籍していた。
 同じ一年生で、名前は日向。パーマかかった茶色い髪が特徴で、バレーボーラ―としてはかなり低身長の部類だ。
 技術は全く身についておらず、レシーブもまともに返せない。サーブも下手くそで、初心者に毛が生えた程度でしかなかった。
 ただ、負けん気だけは誰よりも強かった。
 やる気は十分、体力は十二分。向こう見ずな性格と、体格に見合わぬ驚異的な跳躍力は、高さに拘る排球界に風穴を空ける一打に匹敵した。
 中学時代にチームメイトに背を向けられた影山にとっては、真正面から信じる、と言ってくれた初めての相手でもあった。
「いねえのか」
 その日向が、近くに見当たらない。大体影山と同じような時間に学校に現れるのに、今日に限って遅れているようだった。
 それとも、あちらの方が早いのか。もう一度時計に目を遣って眉目を顰めて、ハッと我に返った彼はあたふたと首を振った。
「いや、ちげえし。別にあいつのことなんか、気にしてねえし。どうでも良いっていうか、ちょっと思い出しただけだし」
 誰に向かってか言い訳がましく言葉を並べ立て、右手も慌ただしく振り回す。汗で湿った前髪を左手でくしゃくしゃに掻き回し、物音が聞こえた気がしてビクッと背を戦慄かせる。
 大袈裟に身じろいだ彼の斜め後ろで、日向は不思議そうに首を傾げた。
「なにやってんだ?」
「ゲッ」
 挙動不審なチームメイトを見つめ、挨拶もなしに尋ねる。よもやそこに当人がいるとは、夢にも思っていなかった影山だ。大仰に戦き、彼は飛び上がって後ずさった。
 砂煙を上げて距離を取られ、日向は怪訝に眉を寄せた。
 制服で丸く膨らんだ鞄を肩から斜めに提げて、少年は大きな目を横長に細めた。首は右に僅かに角度を持たせ、小ぶりの鼻をヒクヒク震わせる。
 穴が開きそうなくらいに真剣に見つめられて、影山は居心地の悪さに脚をもぞもぞさせた。
「いや、別に……なんもねーよ」
「ふーん?」
 落ち着きなく身をよじり、微かに朱を帯びた頬を利き腕で隠す。若干口籠りながら吐き捨てた彼に、日向は表情を変えぬまま相槌を打った。
 身長差がある所為で、立って話をする時、日向は影山を斜め下から覗き込まねばならなかった。お蔭で彼は常に上目遣いで、それも心臓に宜しくなかった。
 もし日向の目つきが凶悪だったら、睨んでいる風に見えただろうに。真ん丸いどんぐり眼が恨めしいと心の中で悪態をついて、影山はさりげなく距離を詰めた日向から、更に二歩分後退した。
 一定の間隔を維持したがる姿勢は、面白くない。だが追及の声を上げようとした矢先、影山が先手を打って逃げに入った。
「おら、行くぞ」
 言い捨て、くるりと身体を反転させる。排球部が根城にしている第二体育館へ向かうべく歩き出した彼に、日向ははっとして瞬時に口元を引き締めた。
 そして口角を歪め、不敵な笑みを作る。
 瞳も細められ、悪戯を企んでいる顔になる。だが影山は気付かず、両手はポケットにねじ込んだ。
 無防備に背を向けられたところで担いだ鞄に手を入れて、日向は弁当を包んでいた布を一気に引き抜いた。
「それーいっ!」
「――は?」
 直後、影山は唖然と目を見開いた。
 ひらり、と何かが落ちてきた。雪ではない。ついでに言えば、ひと切れどころの話ではなかった。
 桜だ。
 味気ない学校の敷地内で、突如、桜吹雪が彼に襲い掛かった。
「なんだ、これ……」
「にっししー」
 ひらひらと舞い落ちてくる花弁に意識を奪われ、一秒後に息を呑んで振り返る。そこに佇む少年は、縛った跡が残るハンカチを手に、したり顔で笑っていた。
 白い歯を見せて満足そうにしている日向を見て、影山は何故か膝から崩れ落ちそうになった。
 蓋を全開にした鞄からは、裸の弁当箱が覗いていた。折り畳まれた黒い学生服にもピンク色の花弁が張り付いていて、彼がこれらをどうやって運んで来たかは、聞くまでもなかった。
「何考えてんだ、テメーは」
 通学路のどこかで、桜並木を見かけたのだろう。満開の時期だというのは影山も知っていて、今朝のジョギングでも、咲いている公園をコースに取り入れたくらいだ。
 しかしまさかこんな場所で、本日二度目の花吹雪に見舞われるとは、思ってもいなかった。
 額に手を添え、呻くように吐き捨てる。整理がつかない感情を必死に押し殺す影山に、日向はふと、悲しそうな顔をした。
「えっと、まあ、……お裾分け?」
「はあ?」
「だって、すっげー綺麗だったんだもん!」
 そして自分を励ますように、背筋を伸ばして声高に叫んだ。
 自転車で学校の向かう途中、見事に咲き誇る桜並木を見つけた。その素晴らしさに思わず見惚れて、この光景を誰かと共有したくなった。
 これから会う相手の中で、真っ先に思い浮かんだのが、影山だった。
 不思議だ。最初はあんなにそりが合わなかったのに、今では彼の存在が、自分の人生にとって欠かせないものになっていた。
 逆ギレを起こした日向に唖然として、影山は言葉に詰まって顔を顰めた。困った表情で余所を見て、前髪に引っかかっている花弁を短い爪ではじき落とす。
 気が付けば肩にも、腕にも、無数の桜が張り付いていた。
「ボケが」
「うぐぐ」
「テメーもついてんぞ、ここ」
「えっ」
 それらを払い落としつつ、照れくささを誤魔化して呟く。耳ざとく音を拾った日向は途端に唸り、指摘されて赤くなった。
「ちなみに、ウソな」
「むっきー!」
 自分の鼻を小突いた影山につられ、その肌が益々赤くなった。両手で顔の中心を覆った少年は、あっさり騙された悔しさに金切り声をあげた。
 コロコロと表情が変わって、実に面白い。ここまで見ていて飽きない人間は他になくて、影山は堪え切れずに噴き出した。
 口元を手で覆って前屈みになった隙に、不意を突いて風が吹いた。
 足元に沈んだ花びらが何枚か掬われて、ひゅぅ、と嘶きを残して去っていく。まるで悪戯な妖精が気を利かせたかのようで、タイミングの良さに影山は頬を緩めた。
 花びらとて、ひとりぼっちは寂しかろう。大勢の仲間に囲まれる場所の方が、彼らもきらきらと輝けるはずだ。
 そんな、日向が綺麗だと言った場所を、自分も見てみたかった。
「どこ寄って来たんだか」
「河川敷の、あそこ」
「いや、分かんねーよ。俺だって地元じゃねーんだから」
 思いを馳せ、影山は何もない腕を叩いた。明後日の方角を指さした日向にはつっけんどんに返し、ただ大体の方角だけは見当つけて首肯する。
 何かを決意した凛々しい横顔に、日向は不思議そうに目を丸くした。
「影山?」
「んじゃ、明日はその河原に集合な」
 体育館までの競争は、明日に限ってその場所がスタートライン。
 事もなげに言った影山にきょとんとして、三秒後。
 赤い顔を隠して歩き出した背中に向かい、日向は両手を広げて飛びかかった。

2014/04/05 脱稿