若葉

 新しいものは、なんだってわくわくした。
「翔陽、いるー?」
「はーい?」
 四月に入り、心持ち気候は穏やかさを増していた。日が沈むのは真冬時に比べると格段に遅くなり、陽光が残って明るい時間が長くなるのは純粋に嬉しかった。
 庭に植えられた梅も、ぽつぽつと蕾が綻び始めていた。
 あと一週間もすれば満開になるだろう、というのは祖父の弁だ。だが残念かな、桜はまだ当分先の話だ。
 昔読んだ漫画で、主人公の入学式に桜が咲き乱れているシーンがあった。しかしこの地方では、ああいう光景は一生拝めそうにない。
 窓から覗く東北の長閑な景色にクスリと笑みを零して、日向翔陽は急ぎ部屋を横断した。
 襖を開けて廊下を覗き込むが、当然母の姿はそこにない。階段下から呼びかけて来たのだろう、と声の具合から想像して、彼は駆け足で狭い通路を進んだ。
 まだ肌寒さが残る季節なのに素足で、板張りの古い廊下を踏みしめる。昼間だというのにかなり暗い階段を抜けて一階へ降りたところで、ようやく目当ての人物が見つかった。
「なに?」
「届いたわよ」
 目が合って、右に首を倒して尋ねる。途端に彼女は待ってましたと顔を綻ばせ、何故か得意げに胸を張った。
 白い歯を見せて不遜に笑いながら指差した先には、四角い、厚み十センチほどの箱が置かれていた。
 綺麗に梱包されて、送り状が上に貼りつけられていた。そういえば先ほど、トラックのエンジン音を聞いた。思い出して、日向は嗚呼、と頷いた。
 直後、箱の中身に思い当たった彼の頬はみるみる赤く染まって行った。
「制服?」
 この時期に、自分宛ての荷物など、他にない。想像を巡らせ、彼は声高に叫んだ。
 広い家中に響きそうな大声に、母はぐっと親指を立てた。不慣れなウィンクもおまけして正解だと拍手を送り、早く運ぶよう息子を指示した。
 先ほど届いたばかりだからか、彼女の手には印鑑が握られていた。
「やったー。やっとだ」
「はあ……。あんた、本当に烏野に受かったのね」
「当たり前じゃん!」
 先月寸法を測りに行って、うっかり忘れそうになっていた。入学式まであと一週間もないのを思い出して、日向は母の失礼な発言に目を吊り上げた。
 だが実際、合格出来たのは奇跡に等しかった。
 偏差値はとても足りず、内申点も危うかった。志望校を提出したその翌日に職員室に呼ばれて、諦めろと肩を叩かれた事もあった。
 それでも目標を変えず、知恵熱が出るまで努力し続けたのが功を奏した。教員や友人も多数巻き込んで大変だったが、合格通知を見た時にすべて報われた気がして、嬉しかった。
 あの日の興奮を蘇らせて、日向は鼻から息を吐いた。
 顔が自然と緩み、口元が笑みを形作った。ニヤついている息子の横顔に目を細め、母は早くしろとハンコの蓋で彼を叩いた。
 いつまでも玄関先に荷物を置いておくわけにいかない。そう言われたら従わざるを得ず、一部が凹んだ茶色い髪を掻き回して、彼は玄関に置かれていた大きな箱を持ち上げた。
「よいしょ、っと」
「気をつけなさいよ」
「そんなに重くないからヘーキ」
 両腕を広げ、端を掴んで真っ直ぐ上へと。途中ふらついてしまったが、転ぶような醜態は晒さなかった。
 中身が布なので、見た目ほど重くないのは本当だ。厚みはさほどでもないが、幅広で大きな箱を縦に担ぎ上げて、日向は左右を見回した。
 母はまだそこに居て、なにかを期待して目を輝かせていた。
「……座敷ね」
 何かを訴える熱心な眼差しに肩を落とし、日向は渋々座敷へ爪先を向けた。
 本当は二階の自室に運びたかったのだが、この様子だと母はついてきそうだった。そうなるとちゃんと片付けろだとか、休み中も勉強しろだとか口煩く言われるのは目に見えていた。
 そんな事になろうものなら、折角制服が届いたというのに、楽しい気持ちが半減してしまう。ならば大人しく、一階の座敷で広げるより他になかった。
 角が生えた母に説教されるくらいなら、そちらの方が数段マシだ。潔く決断して、日向はこの家で最も広い部屋に向かった。
 二間続きの座敷は真ん中の襖が開け放たれており、庭に面する縁側の障子戸も全開だった。
 中は南から射す光が集まって、吃驚するほど暖かかった。
 畳の縁を跨げば、線香の残り香が鼻腔を掠めた。深い意図はなかったものの、視線は自ずと発生源へ向かった。
「御先祖様にも見せる?」
「そうね。翔陽を無事合格させてくだすったものね」
「なんでそうなるのさ。おれの実力だってば」
「はいはい。そうですね」
「……むぅ」
 座敷の奥、掛け軸が飾られた床の間の隣には大きな仏壇があった。その上に視線を転じれば、この地で日向家を盛り立ててきた人たちの遺影が、黒い額に飾られていた。
 モノクロ写真の列は幼少期こそ恐ろしく感じられたが、今はそんなことはない。むしろ彼らがいたからこそ自分がいると、感謝の気持ちでいっぱいだった。
 ただ母の言葉は少し持ち上げすぎで、面白くなかった。文句を言ったが相手にされなかったのも不満で、日向は頬を膨らませると奥座敷へと足を進めた。
 縁側に近い場所を摺り足気味に進み、照明の要らない陽だまりの真ん中へ箱を下ろす。母もウキウキ顔で傍に座り、息子の手元を注視した。
「あっちいけよ」
「なに言ってるの。お金払ったのは母さんよ」
「むぐぐぐ」
 あまりじっと見つめられると、却って落ち着かない。だからと追い払う仕草を執るが、あっさり拒否されてしまった。
 おまけに財布の件を持ち出されて、反論出来ない。自分には見る権利があると主張されては、逆らえなかった。
 日向家の金庫番には、一生頭が上がらなさそうだ。勝てるのは身長だけ、と同年代でも小柄な部類に入るのを棚に上げ、日向は背の低い母にがっくり肩を落とした。
 ついでに深い溜息もつき、運んできた箱の包装紙に手を掛ける。だが破る直前、母が唐突に手を叩き合わせた。
「そういえば校章のバッジとかは? 前に買って来たんでしょ?」
「そんなの後でいいって」
「ダメよ。そんな事言ってたら、入学式の日に忘れていくでしょ、アンタは」
「はいはい、わーかりました!」
「なんですか、その言い方は!」
 神聖な儀式に横から茶々を入れ、中断に追い込んだ母が鬱陶しくてならない。我慢ならなくて声を荒らげれば、眦を裂いた母がそれを上回る声量で怒鳴った。
 間近に落ちた雷に思わずびくっとして、日向は一瞬後、渋い顔でそっぽを向いた。
 彼女の言う事は一理あり、まさに正論だった。痛いところを的確に指摘されてグサッと来て、つい反発してしまった。
 ただ負けると分かっていても、分かりましたごめんなさい、と素直に認めるのはプライドが許さない。だから日向は顔を背けたまま、渋々立ち上がって畳の縁を跨いだ。
 ドスドスと荒っぽい足取りで廊下に出て、急ぎ足で階段へ向かう。二段飛ばしに駆け上って、開けっ放しの襖から部屋に入る。
「なんだってんだよ、もう」
 人が楽しい気分でいたのに、全部台無しにされた。どうして母親というやつは子供の邪魔ばかりするのかと腹を立て、彼は机の引き出しを荒っぽく引っ張り出した。
「おわっ」
 瞬間、手元で四角い何かがひっくり返った。
 開ける際、勢いが良すぎたらしい。角に引っかかっていたものが弾みで飛び出して、空中で三回転して畳に転がり落ちた。
 着地に失敗したそれは、必勝、と書かれた消しゴムだった。
 高校受験の際、幼馴染がお守りだとプレゼントしてくれたものだ。彼らは別の高校に進学するのだが、日向の合格を心から喜んでくれていた。
 彼らとは、一緒にバレーボールの大会にも出た。急造チームではあったけれど、あの一戦は日向にとって忘れられない試合になった。
 初の公式戦、そして初の敗北。
 完膚なきまでに叩きのめされた。力の差を見せつけられて、井の中の蛙だったと思い知らされた。
 ジャンプ力には自信があった。けれそそれだけでは背の低さをカバー出来ず、またチーム全体の力量もまるで足りていなかった。
 完敗だった。悔しかった。哀しかったし、切なかった。
 けれど心だけは、折れなかった。
 逆に燃えた。お前は前向きすぎる、と幼馴染に言われた事があるけれど、後ろ向きでうじうじしているのは性に合わないのだ。仕方がないではないか。
 バレーボールは奥が深いと改めて思った。もっと上手くなりたくなった。その為にも、憧れの学校を目指す気持ちは更に大きく膨らんだ。
 もうじき念願が叶う。待ちに待った入学式は、あと数日後に迫っていた。
 この日を迎えられたのも、皆が応援してくれたからだ。試験中、何度も挫けそうになったけれど、この消しゴムに勇気づけられて腹痛も乗り越えられた。
 友の笑顔を思い浮かべ、日向はしどけなく笑った。
「ふへへ……っと、そうだった」
 照れ臭さを覚え、頬を緩める。最中に本来の用事を思い出して、彼は握った消しゴムを机に戻した。
 文房具や古いバッジなどが詰め込まれた引き出しを漁り、目的の物をようやく取り出す。透明な袋にまとめられていたのは、きらきら眩しい真新しいピンバッジだった。
 採寸の日に買った、学生服の襟に取り付ける学年章だ。他にも校章や、替えのボタンも一緒に放り込まれていた。
「キレーだなー」
 どういう素材が使われているのか、記章は光を受けて色味を強めていた。表面はつるつるしており、ローマ数字で学年が記されている。裏は金色で、ピン部分を覆うパーツが付属していた。
 日向は袋からそれを取り出すと、掌に転がした末に右手に抓み上げた。
 片目を閉じて光に透かしたところで、その向こうが見えるわけがない。だが古びた天井の先に、輝ける日々が待っている気がした。
 バラ色、もといバレーボール一色の生活がいよいよ始まるのだ。期待に胸が膨らんで、頬は興奮で紅潮した。
 興奮気味に息を吐き、自然と緩んだ口元を引き締める。小さな学年章をしっかり握りしめて、日向は袋も掴んで踵を返した。
 ドタバタと騒々しく階段を駆け下り、再度座敷へと向かう。今度は奥側の障子戸を潜って敷居を跨いで、見えた光景に唖然と目を見開く。
 吃驚し過ぎて歩みが止まった息子の前で、母は朗らかに微笑んだ。
「遅かったわね」
 座ったまま腰を捻って振り返った彼女の膝には、新品の、真っ黒い学生服が寝かされていた。
 袖を広げてだらしなく横になり、大いびきをかいていた。艶々した裏地が隙間からちらりと覗いて、一番下のボタンなどは布ごとひっくり返っていた。
 傍にはくしゃくしゃに丸められた包装紙が転がり、天地を逆にした箱の蓋が放置されていた。冬用の長ズボンも片足分が外にはみ出し、みっともない姿を晒していた。
「……っな」
 あまりの惨状に、言葉が出なかった。
 敷居を跨いだところで硬直している息子を見て、母は不思議そうに首を傾げた。何も悪いことをしたと思っていない顔で眉目を顰め、早くこちらに来るよう手招きもする。
 日向が絶句した原因をまるで理解していない彼女に、そろそろ我慢の限界だった。
「なんで勝手に開けてんのさー!」
「えええ?」
 両手を強く握りしめ、肩を怒らせ声を張り上げた息子に、母は仰天して素っ頓狂な声を上げた。大粒の目を真ん丸に見開いて唖然とし、彼女は何度も瞬きを繰り返した。
 どうして怒鳴られたのか、まるで見当がついていない様子だった。
 こんなにも物分りが悪い人だったのかと日向は呆れ、怒りを通り越して悲しくなった。自分の頭の悪さは彼女の遺伝に違いないと八つ当たりもして、楽しみを奪われた悔しさに奥歯を噛み締める。
 ドスドスと荒っぽい足音を立てて歩み寄り、彼は母の膝から学生服を奪い取った。
「翔陽」
「勝手に触んなよ。おれのなのに」
「あなたがさっさと降りてこないのが悪いんでしょう」
「だからって、先に開けるとかマジでありえねーし」
 母としては気を利かせたつもりだったのかもしれない。けれど新調したての高校の制服だから、日向は自分で開封したかったし、最初に触れるのも自分自身でありたかった。
 ところが蓋を開けたのも、取り出したのも母が先だった。
 余計なお節介ほど、鬱陶しいものはない。こんなことになるのだったら、最初の段階で二階の自室に運んでおくのだった。
 後悔に打ちひしがれて、日向は奪い取った学生服の襟を広げた。
 肩を竦めている母に背を向けて座り、少しざらざらした表面を撫でる。縫製は丁寧で、裏地に余分な弛みもなかった。
 袖口には飾りボタンが三つ並び、それよりも大きなボタンが前身頃に縦に縫い付けられていた。ボタンホールも綺麗に縁が整えられて、試しに指を通せばすんなり広がった。
 一点の曇りもない、純粋な黒がそこにあった。
 畳に広げていたものを持ち上げ、高く掲げ持つ。まだ誰も袖を通していない学生服は眩しくて、芸術作品の如く美しかった。
「うぉぉぉ……かっこいい……」
「そお? 前と変わり映えしないじゃない」
「そんなことないし!」
 軽く感動して、日向は目を輝かせた。だのに母に茶々を入れられて、折角の興奮も台無しだった。
 もう余計なことは言わないで、黙っていて欲しかった。いちいち水を差してくる彼女を犬猫のように追い払って、日向は新品の匂いがする制服を強く抱きしめた。
「そうだ。バッジ」
 頬擦りすれば愛しさが募った。ざらざついた感触をしばし堪能して、彼は部屋から持ってきたものを足元に広げた。
 学年章以外も袋から出し、一列に並べる。その上で学生服を眺めて、烏野高校一年生、日向翔陽は眉を顰めた。
「これ……どこに留めんの?」
 校章と学年章は、詰襟部分に留めるのが決まりだ。中学の時もそうだったから、恐らく間違いない。
 問題は、どちらを右に、どちらを左に留めるかだ。
 もしくはふたつまとめて、片方に集めるのかもしれない。ならばその際、どれくらいの間隔で留めるべきなのか。
 入学試験の時、手伝いで在校生が何人か来ていた。彼らが制服をどう着こなしていたか、確かにこの目にしているはずなのに、さっぱり思い出せなかった。
「えええ~……?」
 雪ヶ丘中学時代と同じで良いのか、それとも逆なのか。はたまたまるで違うのかとあれこれ考え出したらきりがなく、混乱に陥った日向は呻き声をあげて畳に突っ伏した。
 背中を丸めて芋虫になった息子に嘆息し、母はゆるゆる首を振った。
「違ってたら、学校で直せば良いでしょ」
「でも、おれだけひとり違ってたら」
「そんな心配はしなくてよろしい」
 たかだか校章の位置ひとつに、いったい何を思い悩む必要があるのか。そんな事でぐじぐじしているのは男らしくないと叱られて、日向は渋々、ピンバッジを拾い上げた。
 裏の留め具を外し、学生服の襟を膝に引き寄せる。だがいざ先端を突き刺そうとした瞬間、彼は思い直して両者を引き離した。
「翔陽?」
「こっちだったっけ?」
「なにが?」
「だから、中学ン時!」
 挙動不審な息子に怪訝な声を上げた母は、質問されて深くため息を吐いた。
 中学時代と同じ配置にしようと決めたが、寸前で左右が不安になったらしい。先ほどまであんなに不機嫌だったのが嘘のような息子に肩を落とし、彼女はこめかみに指を置いて眉間に皺を寄せた。
「反抗期なのか違うのか、はっきりして欲しいわ」
「ええ?」
「こっちの事よ。うん、そっちで合ってる」
 ひとりごちれば、聞こえなかった息子が眉を顰めた。不審の目で見つめられて急ぎ否定して、彼女は自信満々に深く頷いた。
 母のお墨付きを貰い、日向は手元に目を戻した。
 ピンの鋭さに小さく身震いして、何度も位置を確認しては微調整を加えていく。見ている方が苛々して来た頃、彼はやっと覚悟を決めて、えいや、と新品の学生服へ針を突き刺した。
 手応えは軽かった。意外にあっさり突き刺さって、もっと抵抗されると思っていた日向は目を点にした。
 肩透かしを食らって、逆にがっかりだ。
「あー……」
 こんなものだっただろうかと過去の記憶を軽く振り返り、彼は天地が逆になっているピンを弾いた。
 向きを正しくしてから裏に金具を添え、凶器にも成り得る棘を覆い隠す。続けて校章を取り付ければ、前準備はすべて完了だ。
 いや、もうひとつ。
 大事な作業が残っていた。
「着ないの?」
「え?」
 むしろ真っ先にそうしなかったのが不思議だと言われて、日向は呆気にとられて母を見つめた。
 そういえばそうだった。
 肝心の試着が、まだだった。
「先に言ってよ、もう」
「知らないわよ、そんな事」
 記章に意識が集約されて、そちらまで気が回らなかった。指摘されて初めて気づいた日向は顔を赤くし、悪態をついて口を尖らせた。
 恥ずかしさを誤魔化して、呆れ混じりに見守る母の前で立ち上がる。そしていざ着よう、としたところで、彼はまたもや動きを止めた。
 肩に羽織ろうとして直前で凍り付いた息子に、母は疲れた様子で肩を落とした。
「下、着替えた方が良い?」
「脱ぎたいなら脱ぎなさいな」
 今の日向は、普段着の白色のパーカーを身に着けていた。これを脱いだ方が良いだろうかと質問した彼に嘆息を重ね、彼女は好きにしろと手を振った。
 烏野高校の制服は校則で明確に規定されており、男子はこの黒詰襟の学生服だ。だが記載があるのはそこまでで、中に何を着るか、靴や靴下、それに鞄については、細かい決まりはなかった。
 ベストを着るも良し、白の開襟シャツを着るもよし。余程派手で奇抜な格好でない限り自由だと、入学説明会の時にもそう教えられた。
 だから別段着替えずとも良いのは、本人も、その母親も知っていた。
 勝手にすればいい。そんな風に投げやりに、冷たく言われた息子は拗ねたのか頬を膨らませ、イー、と白い歯を見せて学生服に向き直った。
「ただいまー。あれ、兄ちゃんなにしてんの?」
「あら、おかえり、夏。兄ちゃんは、今から制服に着替えるの」
「えー。あたしも見るー」
 そこへ通路から声がして、座敷に小さな女の子が顔を出した。
 兄と瓜二つの娘に手短に答え、母は夏を手招いた。途端に兄が渋い顔を作ったが、女ふたりはのほほんとこれを無視した。
「ああ、もう。面倒なのが来た」
 母に駆け寄って抱きついた妹を横目に睨み、日向はひとり愚痴を零した。誰にも聞こえない音量で呟いて、心の中でもうだうだ言いながら学生服に今度こそ袖を通す。
 裏地がつるりと滑り、右腕は一直線に出口へ走っていった。
 途中、肘のところで一度引っかかりはしたが、それ以外特に問題はなかった。反対側の袖も通して背中を覆い隠せば、ずっしりと重いものを背負わされた感覚に内臓が震えた。
 これまで軽く考えていた、高校生としての責任がまとめて押し寄せて来た感じだった。
「おおー」
 けれど恐怖を覚えたのは一瞬だけで、背筋を伸ばせば途端に霧散した。興奮と期待で胸を満たして、日向は感嘆の声を上げた妹に顔を綻ばせた。
「どうだ?」
 まだ上を羽織っただけだが、気分は既に烏野の生徒だ。肘を曲げたり、肩を浮かせたりとサイズが合っているかも調べながら尋ねれば、夏は真ん丸い目をキラキラさせて、直後に「んー?」と首を傾げた。
「兄ちゃん、何がちがうの?」
「ゲーン!」
 そして頬に指を添えながら可愛らしく聞かれ、彼はショックのあまり仰け反った。
 そのまま膝を折ってしおしお小さくなり、落ち込んで畳に円を描く。涙ぐみながら鼻を啜る兄を前に、妹は不思議そうに母を見つめた。
 愛娘を膝に抱いた女性は思わぬ展開に苦笑して、絶賛落胆中の息子に肩を竦めた。
「サイズは大丈夫そう? 直してもらわなくて平気?」
「うん。へいき……」
 さりげなく話題を変えて質問してみるが、返事には覇気がなかった。
 感情の起伏が激しい息子と真面目に向き合うのは、母であっても疲れる。そのうち回復するだろうと一区切りつけて、彼女は夏を抱えて立ち上がった。
「きゃー」
 一気に視線が高くなった少女は歓声を上げ、兄の興味を引いた。動き出したふたりを横目で窺って、少年はまだ馴染まない制服を撫でた。
 卸したてだから当然と言えば当然だが、全体的に布は硬い。だが三年後の卒業式の頃には、草臥れてボロボロになっているに違いなかった。
 充実した中学三年間を一瞬で振り返って、日向はほんの少し長い袖を上下に振り回した。
 ラジオ体操第一を音楽なしで開始して、どこにも不自由ないのを確認していく。なんとも落ち着きが足りない息子に苦笑して、母も身体を揺らしてリズムを取った。
「ズボンの裾上げしちゃうから、早くなさい」
 娘を落とさないようバランスを保ちつつ、手厳しくぴしゃりと言う。叱られた少年は瞬時に動きを止め、箱の中に残されたままの黒いスラックスに首肯した。
 そしておもむろに、その場で現在履いているズボンをずり下ろした。
「……もう」
 膝丈のショートパンツの下には勿論下着を履いているが、動作には一切恥じらいも躊躇もなかった。両手で目を覆った妹の方が、まだ可愛げがあるというものだ。
 どうしてこんなガサツな子になったのだろう。育て方を間違えたかと内心反省して、母はがっくり肩を落としてため息を吐いた。
「ん?」
「待ち針持ってくるから、少し待ってて」
「は~い」
 その暗い気配に日向は小首を傾げたが、目が合った母は既にいつもの調子を取り戻していた。
 娘を抱いたまま歩き出した彼女に間延びした返事をして、彼はいそいそと新品ズボンへと手を伸ばした。こちらもごわごわした感触で、持ち上げればずっしり重かった。
 雪ヶ丘中学校で着潰したズボンは、尻の部分がツルツルのテカテカになっていた。
 あちらも黒の詰襟だったし、校章などのバッジを交換すればまだ着られると親に言われた。しかし無理を通して新品を購入してもらってよかったと、心の底から思えた。
「ちょっと長めにしてよ。すぐ背、伸びるから」
「本当に?」
「だって、バレー部だし。絶対伸びるって」
 身長百六十センチ少々なのを気にしている息子の弁に肩を竦め、母は軽い調子で相槌を打った。
 切実な願いであるが、残念ながらその夢は叶いそうにない。日向家も、母の実家の家系からも、身長が突出して大きい人はひとりも輩出されていないからだ。
 彼がその前例を覆す可能性は無きにしも非ずだが、今のところ絵に描いた餅でしかない。ただ思っても敢えて口にはせず、母は期待に胸膨らませている息子を置いて座敷を出た。
 裁縫道具はどこに片付けてあるだろう。前に使ったのはいつだったかも思い返しながら、彼女は急ぎ足で廊下を進んだ。
 その最中、すっかり重くなった娘が笑顔で白い歯を見せた。
「どうしたの?」
「あのね。兄ちゃん、かっこいいね」
 問えば、耳元でこしょこしょと囁かれた。女同士の秘密の話だと照れ臭そうな娘に目を丸くして、彼女は直後、嬉しそうに相好を崩した。
 いい加減腕が疲れたと夏を床に下ろして、代わりに手を繋ぐ。並んで歩き出す直前、彼女は座敷を何気なく振り返った。
 いったいなにをやっているのか、元気のよい雄叫びが響いていた。
「そうね。でも、これからもっと格好よくなるわよ?」
 そそっかしくて落ち着きがなくて、頭が悪いし単純だけれど、良いところは沢山ある。背が低いのがちょっぴり残念ではあるものの、それを差し引いても余りある魅力が、あの子にはある。
 親の贔屓目と言われそうだが、それでも構わなかった。
「ほんとに?」
「ええ、本当よ」
 若干疑ってかかっている娘に頷いて、そして彼女は人差し指を立てた。唇へそっと押し当てて片目を瞑れば、幼い夏も仕草を真似て笑った。
 乳歯の抜けた前歯が愛嬌たっぷりで、これも可愛らしかった。
 この子たちは自分の誇りであり、自慢だ。素敵な家族に恵まれたのを喜び、彼女は裁縫箱を取りに寝室へ急いだ。

2014/2/27 脱稿