露草

 憂鬱な気持ちを抱え、ドアを押し開ける。銀色のドアノブから視線を持ち上げれば、既に着替え終わっていたチームメイトと目が合った。
「遅かったんだな」
「ああ、ちょっとな」
 そして開口一番言われて、岩泉は緩慢に頷いた。
 曖昧な言葉でやり過ごし、花巻の隣を通り抜ける。あちらはさほど興味を惹かれなかったのか、突っ込んで話しかけてくる事はなかった。
 その無関心さにホッとして、岩泉は肩に担いだ鞄を下ろした。
 右手にぶら下げて前後に揺らし、自分に宛がわれたロッカーを目指す。前にそこを使っていた人は几帳面だったらしく、他のロッカーとは違い、中も外も綺麗だった。
 対する隣は、と一瞬そちらに目を向けて、彼は小さくため息を吐いた。
「ム」
 それが聞こえたのだろう。今まさにワイシャツを脱ごうとしていた男が顰め面で口を尖らせた。
「ちょっと、岩ちゃん。失礼過ぎじゃない? 人の顔を見るなり溜息って」
「ああ?」
 わざわざ着替えを中断させて抗議して来たのは、岩泉の幼馴染の男だった。
 いや、その言い方はあまりにも綺麗過ぎて鳥肌が立つ。実際はただの腐れ縁でしかなく、本当ならとっくに縁を切ってもおかしくない相手だった。
 たまたま家が近所で、小学校が同じクラスだったというだけで懐かれた。遠い親戚より近くの他人というが、まさしくそれを地で行く間柄で、ふたりの付き合いはもう十年を超えていた。
 派手な外観と百八十センチオーバーの上背で、女子からの人気はすこぶる高い。そんな他校にもファンがいる自称青葉城西高校一の美男子は、不満も露わに頬を膨らませていた。
 シャツのボタンを全て外しているので、分厚い腹筋や胸筋は丸見えだった。しかし眺めたところで楽しいものでもなくて、岩泉はさっさと目を逸らすと再度、深々とため息を吐いた。
 誰が見てもはっきりそうだと分かる態度に、青葉城西高校男子排球部部長こと及川徹はキー、と金切声をあげた。
 聞き苦しい高音を発して地団太を踏み、およそ高校三年生らしからぬ仕草で身を捩る。一気に部室内は五月蠅くなって、居合わせた部員の大半が疲れた顔で項垂れた。
「ねえ、ちょっと。今の、いくらなんでも酷くない? ねえ?」
「うっせーぞ、及川」
「別にいつものことなんだから、気にしなくていいんじゃないですか?」
「ちょっと!」
 味方を求めて及川は声を荒らげたが、居合わせた全員が見事に意見を一致させた。揃って巻き込まれるのを拒否したチームメイトに愕然として、人望の薄い部長は真っ赤になって煙を噴いた。
 思い切り床を蹴り飛ばして憤りを露わにするが、皆の注意は既に別に移っていた。誰一人として彼に構おうとせず、徹底的に無視を決め込んで各々好きに行動を開始する。
「……ったく」
 完全に独り相撲で空回っている幼馴染には、呆れるしかない。何かにつけてテンションが高い及川は、一緒に居ると無駄に疲れる存在だった。
 だというのに、未だ腐れ縁を断ち切れずにいる。自ら離れようとした時期も少なからずあったが、なんだかんだで結局隣に戻る繰り返しだった。
 それもひとえに、同じスポーツに興じ、ひとつの目標を掲げてまい進している所為だ。
 バレーボール。ネットを挟んで敵チームと向き合い、ひとつのボールを落とさぬよう打ち合う競技。一見すると単純で簡単に思えるが、戦略性に富み、技術のみならず精神力も試されるスポーツだ。
 岩泉はもう長い間、及川と一緒にプレイを続けていた。
 及川には才能があった。天性のポジティブさや、冷静な判断力、徹底的にこだわって追及する諦めの悪さなど、見習うべき点も多い。
 ただ少々、性格に難がある。彼は基本我儘で、自己主張が激しく、思い込みも一級品だった。
「いいから、さっさと着替えろ」
 そろそろ仕切ってやらないと、いつまで経っても彼は拗ねたままだ。言って高い位置にある及川の頭を一発殴って、岩泉は開けたばかりのロッカーに鞄を押し込んだ。
 人を急かすだけでなく、自分も急がなければならない。既に何人か部室を出て体育館に向かっており、室内は最初に比べて人の数が減っていた。
 ちらりと後方を窺って、彼はブレザーのボタンに指を掛けた。
 いつも最後に現れる国見も、面倒臭そうに練習着に袖を通していた。どうやら今日ばかりは、自分が最後だったらしい。そんなことを考えていた矢先、ちょんちょん、と隣から肩を突つかれた。
「そういえばさ、岩ちゃん」
「ああ?」
 振り向くまでもなく、犯人が誰かは分かっている。首を回して確認するのも面倒で、岩泉は正面のロッカーを見つめたまま相槌を打った。
 手早く上着を脱ぎ、続けてネクタイを緩める。結び目に指を入れて隙間を広げた彼に、及川はスッと、左手を差し出した。
 掌を上にして手を伸ばされて、岩泉はようやく怪訝な顔で彼を見た。
「なんだ?」
 仕草からして、何かを求められているのは想像がついた。しかし何を求められているのかについては、皆目見当がつかなかった。
 彼に借りたものはないし、貸す約束もしていない。及川に渡さなければならない荷物も、今日は預かっていなかった。
 だのに彼はニコニコして、早く寄越せと手を揺らした。
 上下に波を打つ大きな手を見下ろし、岩泉は顰め面を強めて眉間に皺を寄せた。
 そしておもむろに、彼の手を叩き落した。
「いったぁ!」
 思い切り、平手を叩きこむ。バチィン、とかなり良い音がして、欠伸をしていた国見がその瞬間、ビクッと背を戦慄かせた。金田一も前のめりになり、ロッカーの角に頭をぶつけそうになって冷や汗を流した。
 一年生二名が目を丸くする中、岩泉はほんのり赤くなった右手に息を吹きかけた。前方では及川が膝を折って蹲り、唐突の痛みに耐えて身悶えていた。
 なかなかに良い光景だった。跪く彼を見下ろして満面の笑みを浮かべ、岩泉は得意げに胸を張った。
 してやったりといった顔だ。不遜に笑う幼馴染をねめつけて、及川は口惜しげに唇を噛み締めた。
「ちょっと、岩ちゃんん!?」
「だから、さっきからななんんだ」
「俺に渡すもの、あるでしょーが」
 床の上から抗議の声を張り上げた部長に、岩泉は辟易した様子で問うた。しかし得られた返答は予想の範囲内に留まって、彼は苛々した調子で髪を掻き回した。
 スポーツマンらしく短く刈り上げた頭を引っ掻いて、盛大に舌打ちする。不機嫌を隠しもしない彼を見上げ、及川も顎を引いて身構えた。
 拗ねた顔で無言のまま睨まれて、先に根負けしたのは岩泉だった。
「なんもねーだろ」
 貸し借りの約束はしていない、それは確かだ。この一週間ほどのやり取りを簡単に振り返って、彼は右手を広げて肩を竦めた。
 先生からプリントは頼まれていないし、ファンだという女子からプレゼントを託されてもいない。そこまで言って、彼はふと、引っ掛かりを覚えて目を寄せた。
 岩泉の反応に、及川も何かを気取ったらしい。屈伸しながら立ち上がり、またしても利き腕を伸ばして指を丸めた。
「ね?」
「……いや、あれはお前宛てじゃねーし」
「え?」
「つーか、見てたのかよテメー!」
「ぎゃっ」
 だが岩泉はぼそりと言うと、瞬時に曇っていた表情を入れ替えて声を荒らげた。
 唾を飛ばして怒鳴られた及川は、その冷たさに堪らず悲鳴を上げた。慌てて後ろに避けるが間に合わず、濡れた頬を袖で拭って口を尖らせる。
 お世辞にも可愛いとは言えない仕草に首を振って、岩泉は左手で顔の左半分を覆い隠した。
 気が付けばまたため息が零れていた。陰鬱な気持ちが蘇って、部室内の空気まで一気に重くなった。
「岩泉さん?」
 そんな、微妙に話しかけづらい雰囲気をあっさり破ったのは、背高のミドルブロッカー、金田一だった。
 若干天然混じりの性格で、空気を読まない発言が多い事でも知られている一年生だ。毛先を逆立てた髪型も相俟って余計縦長に見える若者は、純粋な眼差しで岩泉を見つめていた。
 何も考えていないと分かる表情に、隣で着替えていた国見が面倒臭そうに肩を落とした。松川は興味深そうに事の行く末を見守り、花巻も傍観の体勢に入った。
 一年生ひとりに被害の全てを押し付ける気満々でいるチームメイトにも嘆息して、岩泉はなんでもない、と言いたげに首を振った。
 だが、それで諦める及川ではない。
「見てたっていうか、見せてたくせに。どーせ俺宛ての、預かってたんでしょ。意地張らなくて良いから、さっさと出しなって」
「……お前、いい加減殴んぞ」
「べー。もう殴ってまーす」
 まだほんのり赤い掌を見せびらかすように揺らし、及川は子供じみた表情で舌を出した。
 両手を耳の横に掲げて指先をひらひらさせもして、完全に人を馬鹿にしていた。その傲慢で独善的な態度に苛立ちを深め、岩泉は爪が食い込むまで強く拳を握りしめた。
 だが、それだけだった。
 怒らせた肩は深呼吸で下ろして、憤りも自分の中で消化させる。意外に辛抱強い彼に驚き、及川も目を丸くした。
 間抜けなポーズで凍り付いている幼馴染を冷めた目で見つめて、岩泉は今までで一番深いため息を吐いた。
 呆れ果てて脱力している姿に、何か感じ入るものがあったらしい。及川はゆっくり腕を下ろして背筋を伸ばすと、真ん丸い目をぱちぱちさせた。
「えっと。ちょっと待って」
 噛み合わない話の根本を辿って、ようやく自分の思い違いという可能性に到達する。唖然としながら立ち尽くす部長を遠くから眺め、花巻が呵々と笑った。
「つってーと、……へえ、すげえじゃん。もしかして初じゃね?」
「ついに岩泉にも春か。しまった、先越された」
 両者のやり取りを横で聞いていた方が、客観的に物事を観察出来た。話の内容を整理して結論付けた彼の言葉に、松川も同意して悔しそうに顎を撫でた。
 分かっていないのは金田一で、助けを求めて国見を見た。しかし縋られた方は無視を決め込み、ロッカーのドアを音立てて閉めた。
 そして。
「可愛かったですか?」
 おもむろに、岩泉に問うた。
 突然飛んできた質問は、何故か及川に突き刺さった。ショックを受けて勝手に打ちひしがれている男を一瞥して、岩泉は困った顔で頬を掻いた。
「あ、いや……どうだろうな。俺はそういうの、あんまり興味ねえし」
 青春はすべてバレーボールに注ぎ込む勢いなので、色恋沙汰とはとんと無縁だった。芸能人にも疎く、人気のアイドルグループの話にも全くついていけない。
 そんな彼が視線を泳がせて告げた内容を噛み砕き、花巻は鷹揚に頷いた。
「なるほど。つまり可愛いのか」
「おい。なんでそうなる」
 今の台詞の、どこにそんな情報が含まれていたのか。慌てる岩泉を余所に、彼は隣に来た松川と顔を見合わせた。
「だってお前、ブスだったらはっきりそう言うだろ」
「ああ、成る程。それで及川さんも勘違いしたんですね」
「でもでも、でも~~。まだ岩ちゃんが告られたって決まったわけじゃないし!」
 松川の発言に国見が相槌を打ち、やっと立ち直った及川が見苦しく声を荒らげた。
 両手を振り回して、まるで駄々を捏ねる子供のように叫ぶ。その悪あがきも良いところの言動に、岩泉は疲れた様子で肩を竦めた。
 そしてロッカーに入れた鞄のファスナーを抓み、一気に引き下ろした。
「まあ、な」
「――え?」
 皆が及川に呆れて笑う中、彼だけがその発言を肯定した。
 部室に来るのが遅れた理由は、とある女子に呼び止められた所為だ。
 岩泉も最初は、幼馴染への伝言役を任されたのだと思っていた。だが実際は違って、渡したいのは貴男だと、はっきり断言された。
 驚いた。
 自分にも、彼女にも失礼だと思いつつ、予想外の展開に二度も確認してしまった。
 それでも尚彼女は首肯して、読んでほしい、と一通の手紙を差し出した。シンプルながら品の良い封筒は、四葉のクローバーのシールで封がされていた。
 その現品を取り出した彼を前に、及川の顎は今にも外れんばかりだった。
 ファンが見たら幻滅しそうな顔芸を披露した幼馴染に苦笑して、岩泉は初めてもらったラブレターらしき手紙を裏返した。
「今時手紙たぁ、古風だな」
 そこへ松川が近付いて、肩越しに覗き込んできた。背中に寄り掛かられた岩泉はずっしり来る重みに耐え、封緘しているシールを爪で削った。
 表には岩泉一様とだけ書かれ、裏には何も記されていなかった。字は丸みを帯びており、いかにも女性が書いたもの、という雰囲気が漂っていた。
「綺麗な字だな」
「ああ。誰かと違って読みやすい」
「ぶーぶー」
 率直な感想を述べた松川に同意し、比較された青年は不満げに抗議の声を上げた。
 国語が苦手で、部員の苗字さえ書き間違える及川は盛大に頬を膨らませると、まだ認めたくないのか床を踏み鳴らして喧しく吠えた。
「でも、ラブレターじゃないかもしれないしー。実はその子は俺のファンで、いつも一緒の岩ちゃんに嫉妬して、岩ちゃんに呪いの手紙を送って来たのかもしれないしー」
「何気に酷い事言いますね、及川さん」
「ふーんだ」
 女子は全員自分に惚れるもの、と根拠のない自信に満ち溢れている及川だ。それがよもや、無骨ですぐ暴力に訴える幼馴染に攫って行かれたのだ。余程悔しいらしかった。
 国見に悪態をついて、彼はぷいっとそっぽを向いた。完全に拗ねてしまった部長にチームメイトは乾いた笑みを浮かべ、続けて岩泉の手元へ視線を向けた。
 興味津々に見つめられた方は何度目か知れないため息を零し、背中を丸めて床に「の」の字を書いている幼馴染に口角を歪めた。
 部室への道中に話しかけて来た女子は、確かに可愛らしかった。清楚な感じで、大人しそうで、背も低く、どこぞの誰かとは正反対も良いところだった。
 恐る恐る封筒を差し出され、また及川宛てかと思って深く考えもしないまま受け取った。そして初めて宛名を見て、書き間違いではないかとしつこく確認してしまった。
 それが彼女にどう影響したかは、分からない。ただ戸惑わせたのは確かだ。少女は「返事は要らない、渡したかっただけだから」と言い、逃げるように走り去っていった。
 追いかける真似はしなかった。今し方自分の身に起きたことが現実なのか夢なのかの区別もつかなくて、岩泉はその場からしばらく動けなかった。
 そういうわけで、部室に来るのが遅くなってしまった。まさかあれを及川に、一瞬だったとしても見られていたとは思わなかった。
「しっかし、その女子、見る目あんな」
「は?」
「知ってるか? 女バレの方じゃ、及川よりテメーのが評判良いんだぜ」
「……及川の評価が低すぎるだけだろ」
「そこ。聞こえてるんですけど」
 テレビを賑わすアイドルにも劣らないルックスが自慢の及川だが、その自信過剰すぎる性格がかなりマイナス要素になっていた。
 試合中の彼しか知らない女子は騙せても、普段から交流がある相手からは嫌われる。それが及川徹という男だった。
 我儘で、傲慢で、横暴で、身勝手。たとえ外見が一流だとしても、中身が三流以下では女子だけでなく、男子もついてこない。幸いバレーボールの技術は天下一品であり、努力を惜しまぬ姿勢が認められて部長を任されはしたが、正直言ってその役目を全うしているとは言えなかった。
 どちらかといえば、岩泉の方がよほど主将らしい。後輩に弛まぬ愛情を注ぎ、練習中も一番声を出していた。
 ふたりを足して二で割れば、丁度良い塩梅になるだろう。岩泉は個性が強すぎる及川のストッパーであり、同時にアクセルでもあった。
「んで、どーすんの?」
 あの女子の態度や、手紙から漂う清潔感からも、封筒の中に収められているものが呪詛の言葉とは思えない。花巻に改めて質問されて、岩泉は肩を竦めた。
 ちらりと後ろを振り向けば、床にしゃがみ込んだ及川も丁度彼を見ていた。
 目が合った瞬間、及川の方が仰け反った。びくりと大袈裟に反応して、泣きそうな顔で不安げに唇を噛み締める。
 百八十四センチの大男がする表情ではない。いったい何を怖がり、怯えているのか。想像を巡らせ、岩泉は堪らず噴き出した。
「どした?」
「え?」
 この状況で、何を笑うところがあっただろう。突然腹を抱えた彼に驚き、松川や金田一は目を丸くした。
 一瞬の視線のやり取りを気取った国見だけが溜息をつき、シューズを手に歩き出した。花巻は座ったまま首を傾げ、同じく戸惑っている部長と共に眉を顰めた。
「岩ちゃん?」
「つーか、テメーはさっさと着替えろ」
「イターっ」
 怪訝にしつつ、及川が岩泉を呼ぶ。直後蹴りが飛んできて、咄嗟に避けた彼は尻餅をついて悲鳴を上げた。
 わざと狙いを外して空振りしてやったのに、結局及川は自分で転んでダメージを受けた。何をやっているのかと呆れて言葉も出ず、岩泉は肩を竦めると、靴の縁で太い腿を叩いた。
 さっさと退くよう無言で促し、手にした手紙は鞄へ戻す。この場で広げる気がない彼を見て、松川と花巻は揃って苦笑した。
「もったいねー」
「今はインハイ予選のが大事だろ」
「二度とないかもしれねーのに?」
「うるせえ」
 この調子だと、本当に断ってしまいかねない。女子から思いを告げられるなど滅多にない事なのに、あっさりし過ぎだと彼らは岩泉をからかった。
 それでも意志を曲げる様子がない副部長に手を振って、松川はまだ戸惑っている金田一の襟首を捕まえた。
「お前らもさっさと来いよ」
「わーってる」
「先行ってんぞー」
「おー」
 将来有望な後輩を引きずり、チームメイトが部室を出ていく。扉が閉じられるまで見送って、岩泉は依然蹲ったままの及川をもう一発蹴り飛ばした。
 勢いを殺した一撃では、チームを支える大黒柱は動かない。妙にしょぼくれている幼馴染に首を振って、岩泉は仕方なく自分の都合を優先させた。
 畳んで入れてあった練習着を広げ、すぐに袖を通せる場所に置く。ロッカーをごそごそ掻き回す物音に、ようやく、及川は寄せた膝から顔を上げた。
 視線は絡まない。岩泉は振り返りもしなかった。
 横を見れば、もう部室内にはふたりしか残っていなかった。
「岩ちゃんってば、モテるんだ」
「どうだかな」
「まあ、ねえ。俺の幼馴染君は確かにカッコいいし。あ、勿論俺の方が数万倍男前だけど」
「喧嘩売ってんのかテメエ」
 ずっと黙り込んでいたと思えば、嫌味ばかり口にする。いけしゃあしゃあと言い放った男に青筋を立て、岩泉は怒り心頭で足を踏み鳴らした。
 ネクタイを緩めた制服姿で振り向き、目を吊り上げて及川を睨みつける。だが遠心力で浮いたタイが胸元に戻る頃には、彼の感情はあっさり凪を取り戻していた。
「……ンな顔してんじゃねえよ」
「う?」
「言ったろ。今はインハイのが大事だって」
 年に一度の大会は目前に迫っていた。今年こそは分厚い壁を打ち抜き、全国への道を切り開く。その為の準備はずっとして来たし、これからも気を抜いている暇はなかった。
 告白されたと浮ついている場合でない。それに返事は不要だと、先に言われている。
 少女の言葉を額面通りに受け取っている男に唖然として、及川はくしゃりと前髪を握り潰した。
「そんなわけないでしょ」
 一世一代の勇気を振り絞った告白で、返事が欲しくない女子が何処にいる。たとえ望み薄だとしても、曖昧に濁されて流されたら、想いを断ち切る決断だって下せない。
 ちくりと痛んだ胸も掻き毟って、及川は掠れる小声で囁いた。
 今にも消え入りそうな音量だったが、部室内は静かだ。思いの外大きく響いた呟きにため息を被せ、岩泉はネクタイの結び目を一気に解いた。
 そしてしゅるりと引き抜いたそれを、思い切り振り抜いた。
「っテ」
 細長い布が空を走った。獲物を狙う蛇と化したそれは、狙い通りに座り込む大男の頭に覆いかぶさった。
 ただ物が物なので、あまり痛くない。勢いに負けて悲鳴を上げてから恥ずかしくなり、及川は子供じみた悪戯に頬を膨らませた。
 退けようとネクタイを掴めば、持ち主である岩泉の方が先に手を離した。
「岩ちゃん」
「わーったよ。ンな言うなら、今度ちゃんと断っておくさ」
 手紙をもらったのだ、返事をするのが礼儀だと言われたら納得せざるを得ない。第一、あちらの言葉に甘えて有耶無耶にするのは男らしくなかった。
 急に口調が優しくなった彼に眉を顰め、及川は握ったネクタイに爪を立てた。
「別にいいんじゃない、付き合っちゃえば」
 遠くから一瞬見えただけだが、岩泉と喋っていた女子は可愛かった。たまに試合を見に来る集団に、同じ髪型の子がいたので、きっと同一人物だろう。
 自惚れが酷くて恥ずかしい。気付く人間は気づくのだと教えられて、及川は奥歯を噛み締めた。
 気難しい表情で拗ねる幼馴染を見下ろし、岩泉は両手を腰に当てて笑った。
「わりーけど、俺の好みじゃねえんだ」
「――え?」
 呵々と声を高く響かせ、告げる。その内容に驚き、及川は目を丸くした。
 反射的に身を乗り出して、片膝立ちになってから反応し過ぎだと赤面する。案の定釣られた男に目を眇め、岩泉は床に落ちたネクタイを回収した。
 軽く汚れを払い、ぽかんとしている排球部部長を眺め、彼は意地悪く口角を歪めた。
 少女は楚々として、いかにも守ってやりたくなるタイプだった。可憐で、弱々しくて、もし強風が吹けば簡単に折れてしまうような雰囲気だった。
 だが生憎と、岩泉はそういう人間に興味がなかった。
 関心を抱くとするなら、少女とは真逆のタイプ。凛々しく、時に傲慢で、全てを欲しがる強欲な人間だろうか。
 放っておけばずんずん前を行き、油断すればあっという間に走り去ってしまう。しかもどちらに進むか分からないので、常に手綱を握っておかなければ落ち着かない。
 闇雲に突っ走るから、時に悪路を選んで穴に落ちる事もあった。しかも尚悪い事に、落ちたら落ちたで地面を掘ってより深くへ沈もうとする。
 まったくもって、目が離せない。これほど傍に居て面白い奴が、他に居るだろうか。
「それに、俺はテメーの面倒で手一杯なんだよ」
「ひど!」
 可愛い女子を隣に置いて街中を散策するのも悪くない。けれど岩泉が一番見たいのは、流行の映画でも、お洒落な店でもなかった。
 汗臭いコートから見上げる、眩しい天井。
 それよりももっと高い、頂の景色。
 凍り付いている男の脛に蹴りを食らわせ、尊大に言い放つ。途端に及川は叫び、立ち上がった。
 視線の高さが逆転した、そこだけが面白くない。思ったことが顔に出たのか、直後、落ち込んでいた部長がにんまり笑った。
「岩ちゃんは、あと五センチ伸びたらもっと人気者になれると思うよ」
「死ね、クソ川」
 わざとらしく前屈みになって言われ、岩泉は反射的に怒鳴った。近付いてきた及川の鼻先に噛み付く勢いで声を荒らげ、心の中ではいつも通りに戻った彼に安堵する。
 相反する感情を器用に操り、岩泉は生意気で腹立たしい男を振り切って背を向けた。素早くシャツのボタンを外して着替えを強行し、及川は意識の外へ追い払う。
 荒々しい手つきで着替える幼馴染を見つめ、及川はふっと、声を出さずに笑った。
「ふ~んふふ~ん」
 そして調子よく鼻歌を刻み、体育館へ向かうべく準備を再開させた。
 

2014/3/6 脱稿