カレンダーは三月に突入し、一応は『春』と言ってよい時期になった。しかし日中であっても日陰に入ればまだ十分寒く、明け方や夜半の冷え込みも半端なかった。
半袖で動き回れるようになるのは、相当先の話だ。短い夏を思い返して身震いし、日向は垂れそうになった鼻を啜った。
「はー……」
直後に口を開いて息を吐くが、白く煙る事はなかった。それだけでも進歩かと足元に伸びる影を踏み、彼は急ぎ足で廊下を駆け抜けた。
昇降口で靴を履き替えて、向かうのは部室棟だ。
校舎を出た瞬間の冷風に首を竦め、砂埃を撒き散らしながら道を行く。目を瞑っていても辿りつけそうな感覚に、足取りは次第に軽くなっていった。
けれどそれも、部室棟が見え始める前までだった。
外階段が真っ先に目に入って、日向は思わず立ち止まった。ブレーキを踏んで踵を地面に擦りつけ、人の出入りが少なくなった建物を遠巻きに眺める。
冬景色から完全に抜け出せていない空間は、実に寒々しかった。
半年ほど前ならまだ賑わいが残っていたが、今はそれも遠くなった。この場所に足を向ける人はひとり、またひとりと減っていき、今や三年生は誰もこちらに足を向けない。そもそも最上級生の教室はどこもがらんとして静まり返り、まるで葬式会場かと言わんばかりだった。
そうなったのには、ちゃんとした理由がある。
数日前に卒業式が執り行われたからだ。
式に参加したのは卒業生たる三年生と、在校生は二年生だけ。一年生である日向達は、会場内に入りきらないから、という理由で第一体育館での式典に参列できなかった。
本当は飛び入り参加する予定だったのだが、直前で取りやめになった。以前、壮行会で派手なパフォーマンスをしたのがまだ尾を引いており、男子バレーボール部員には要注意、という通達が早い段階から出されていた所為だ。
それに卒業式は、一般生徒の保護者もやって来る。一部の生徒を見送る為だけに、一部の生徒が好き勝手暴走するのは許されなかった。
先輩たちに感謝を示したい気持ちは分かる。だが外部の人も招かれている大事な行事を台無しにして、学校名に泥を塗ってもいいのか。それが田中や西谷を説得した、武田の言葉だった。
晴れ晴れしい気持ちで学校を去るべき先輩たちに赤っ恥をかかせ、俯いて正門を潜らせることが、後輩としてやるべき事なのか。そうではないだろう、と淡々と説教をされて、何一つ反論出来なかった。
そういうわけで、一週間程前に行われた卒業式は粛々と進み、無事終わった。澤村、菅原、東峰、そして清水の四名は、弾けんばかりの笑顔だった。
真っ先に泣いたのは意外にも西谷で、続けて山口が嗚咽を漏らし、彼らに引きずられる格好で東峰が雄々しい涙を流した。すると残りの三年生が泣けなくなってしまって、澤村には最後まで困った顔をさせてしまった。
日向も涙を止めることが出来なかった。影山も薄ら涙ぐんでいた。月島だけが冷静で、部の代表として卒業生に花束を進呈していた。
瞼を下ろせば、その日の光景が色鮮やかに蘇った。
泣きすぎて記憶が若干飛んでいるものの、素晴らしい卒業式に出来たと思う。派手なところはなにひとつなかったけれど、厳かで、とても心に響く一日だった。
思い返すだけで鼻の奥がつんと来て、目頭がじんと熱くなった。別の理由で垂れそうになった鼻水を思い切り吸い上げて、日向はゆっくり、外階段を登った。
「ちーっす」
小さな声で挨拶して、鍵のかかっていない扉を開ける。返事はなく、僅かに黴臭い空気が鼻先を掠めた。
下向けていた視線を真っ直ぐ前に戻せば、男子排球部の部室は蛻の殻だった。
「……なんだ」
誰も来ていない。その事実に肩を落とし、日向は左手でドアを閉めた。
挨拶して、損をした気分だった。
勿体なかったと数秒前の自分を振り返って苦笑して、古畳が敷き詰められた空間へと足を運ぶ。脱いだ靴を揃えもせず放置して、彼は薄暗い空間を見回した。
昼間というのもあり、電気を点けなくてもなんとかなりそうだった。もっとも読書をしたり、何か作業をしたりするのであれば、蛍光灯に光を宿す方が良いに決まっていた。
どうするか逡巡して、彼は結局、そのまま前に進んだ。
窓辺には誰が持ち込んだのか、教室にあるのと同じ机と椅子が置かれていた。左右の壁にはフレームだけのシンプルな棚が並び、バレーボール部の備品等がみっちり押し込められていた。
それ以外にも、色々なものが狭い空間に満ち溢れていた。
壁のカレンダーは去年の十二月で止まっていた。二つある時計も片方が電池切れを起こしており、紛らわしくて仕方がなかった。
以前ならしっかり者の澤村や、菅原が真っ先に気付き、交換したり、調整したりしてくれていた。だが彼らは先日烏野高校を巣立ち、新しい道に進み始めていた。
だからこれは、彼らが提示した最後の試練なのだ。
気付いた者が率先して行動を起こし、規律が乱れないよう気を配ること。それが、卒業生が在校生に与えた課題なわけだが、新年に入ってかれこれ三ヶ月が過ぎているというのに、未だ新品が壁に吊るされる気配はなかった。
日向が気付いているように、部員もみんな分かっていた。早く時計の電池を交換し、針を合わせなければいけないことくらい、全員きちんと弁えていた。
それでも放置し続けて、誰も動こうとしない。澤村たちが居た時間がゼロになってしまいそうで怖いから、臆病風に吹かれて身動きが取れないのだ。
反面、早く新入生を迎え入れる準備を整えなければ、と思う気持ちも確かにあった。
「ちぇ」
相反する感情を持て余し、日向は空を蹴って悪態をついた。
そのついでに身体を反転させ、壁に背中を預けて力を抜く。重みを受けて膝が曲がり、重力に引かれた身体は徐々に沈んでいった。
畳に尻を押し当てれば、ひんやりとした感触が心地よかった。
窓から指す光は明るく、長方形が床の一角に浮き上がっていた。室内の埃が宝石のように輝き、輪になって踊っているのが見えた。
後頭部を壁に押し当てて視線を斜め上に投げ、日向は腿の上にあった右手を脇に転がした。
「なんか、なー……」
ぼんやりしている暇はない。あと一ヶ月すれば四月になり、新一年生がやってくる。日向は二年生に進級して、先輩になるのだ。
だというのに、力が入らなかった。
現二年生も似たような感じらしく、日頃から喧しい西谷も最近は静かだった。田中も大人しく、言動に覇気がなかった。
月島だけが淡々として、日常生活を送っていた。西谷はそれを冷たいと評したが、本人に言わせると、そこまで落ち込む貴方たちの方が可笑しいのだそうだ。
話し合いは平行線を辿り、決着がつかなかった。最後には険悪なムードが漂って、一触即発の事態に練習は急きょそこで終了となった。
昨日の放課後を振り返っていたら、自然とため息が零れた。これではいけないと頭では分かっている。だのに四肢を砕かれたかのような喪失感が全身を覆い、暗い水底から抜け出すのは容易ではなかった。
「あー、そっか。おれ、……初めてなんだった」
澤村たちはとても良い先輩だった。頼もしくて、信頼出来て、大好きだった。
そんな上級生を見送るのは、今回が人生で初。その事に、今頃になって気がついた。
日向は中学時代、後輩こそ居たが、先輩は居たことがなかった。だから高校に進学した直後は、澤村達を「先輩」と呼べるのがとても嬉しかった。
その頼れる先輩方が卒業した途端、こんなにも虚無感を覚えるとは、夢にも思わなかった。
それだけ三年生に依存して、心を委ねていた証拠だ。そして裏を返せば、まるで独り立ち出来ていない証拠でもあった。
重くなる瞼を懸命に持ち上げて、日向はゆるゆる首を振った。景気づけようと頬を叩いてみるが音が響くばかりで、気合いの注入には痛みが足りなかった。
三年生が引退してから、もう相当な時間が経っていた。一年生、二年生だけの新人戦もとっくに終わっている。だというのに、卒業式が終わった途端にこの有様で、もはや笑うしかなかった。
たとえ引退したとしても、澤村たちはすぐ近くにいてくれた。味噌汁が冷めない距離、ではないけれど、悩みがあればその日のうちに相談に行けた。
今後は、そうはいかない。壁にぶつかっても、自分たちだけで解決していかなければいけなかった。
不安だった。本当に大丈夫なのかと、心配でたまらなかった。
「遊びに来るって、言ってたけど」
寄り掛かっていた壁から背中を引き剥がし、日向は呟いた。白く色が抜けた畳をぼうっと眺め、時を刻むのを止めた置時計に首を向ける。
その時だった。
「あれ、お前だけか」
ガチャリと音がして、外からドアが開かれた。
開口一番言われて、油断していた日向は目を丸くした。吃驚し過ぎて息が止まり、座ったままの身体が前につんのめった。
やってきたのは同じ一年の影山だった。
黒の学生服を行儀良く着こなした彼は、両手が空っぽだった。鞄は教室に置いてきたらしい。弁当も、恐らくはそちらで食べて来たのだろう。
昼休みは後半戦に入り、耳を澄ませばグラウンドで走り回る誰かの声が聞こえた。ヤキイモを売るトラックののんびりした音楽も、風に乗って通り過ぎていった。
素早くドアを閉めた影山は、改めて室内を見回してから肩を竦めた。
「先輩たちは?」
「おれだけだった」
様式美のような質問をされて、日向は居住まいを正しながら答えた。投げ出していた脚を引き寄せて座り直し、靴を脱ぐのにもたついている男を遠くからじっと観察する。
見られているのが分かったのか、片足分をそこに置いた影山が剣呑な顔で睨んできた。
「なんだ?」
「なんでも」
ない、の一言は言わずに飲み込んで、日向はわざとらしく顔を背けた。
緩く胡坐を作って、足首が交差する場所に左手を置く。右手は脇に残して意味もなく畳の縁を弄っていたら、ようやく靴を脱ぎ終えた影山がズボンのポケットをまさぐった。
中に入っている何かを取り出そうとして、黒い布を不自然に膨らませる。凹凸激しく動き回る様を興味深げに眺めて、日向は小首を傾げた。
影山は普段からあまり鞄を持ち歩かない。財布も使わず、小銭を裸のままポケットに入れるのは日常茶飯事だった。
そんなだから、着替えの時によく零した。一度、五百円玉を棚の裏側に転がしてしまい、大騒ぎになったこともあった。
懐かしい事件を不意に思い出して、日向は現場となった空間に目を向けた。その間に影山は目当てのものを引き抜いて、透明な包装フィルムに爪を立てた。
「日向、今何時」
「ほえ?」
そして不躾に聞いて、日向を戸惑わせた。
時計なら、そこにある。わざわざ人に訊かなくても見れば分かるし、昼休み中だから現在時刻も大体想像がつくだろうに。
何を言い出すのかと呆気にとられ、日向は眉を顰めた。
一方の影山は返答がないのにムッとして、入口に近い棚に腕を伸ばした。
背が高い彼は、背伸びをすれば最上段にも楽々手が届いた。今回もさほど労することなく、目当てのものを瞬時に掴み取った。
「影山?」
その彼の動きに、日向は腰を浮かせた。
前のめりになって胡坐を解き、膝立ちから背筋を伸ばす。だが影山は振り返らず、掴んだものを胸元に引き寄せた。
そして厚みのある機械を裏返し、背面のでっぱりに爪を立てた。
「お前、それ」
「なんだ?」
短く切り揃えた爪を器用に操り、プラスチック製の蓋を外す。最中の問いかけにようやく振り返って、影山は唖然とする日向に目を眇めた。
怪訝げに見つめられて、日向は伸ばした人差し指を震わせた。
「それ、電池」
戦慄く唇でやっとそれだけを呟けば、彼は得心が行った顔で鷹揚に頷いた。
「ああ。買ってきた」
手短に告げて、長い指を操り時計の中から電池を取り出す。赤色のラインが入った乾電池はデザインからして古めかしく、年代物だというものがすぐに分かった。
部室内のどこからでも見渡せるよう、高い場所に長く陣取っていた時計だ。目覚まし用のアラーム機能もあるのだけれど、それが使われたところを、日向は一度も見たことがなかった。
誰が持ち込んだものなのかは、澤村でさえ分からないと言っていた。自分が入部した時からあそこにあると教えられて、ならば部の守り神だと言ったら笑われた。
それを影山が、安物を扱うかのように握っていた。
彼は古い電池を取り出すと、フィルムから取り出したそれと入れ替えた。プラスとマイナスを確認して押し込み、外したばかりの蓋をその上に重ねる。そして軽く押せば、カチリと固い音が響いた。
空気を震わす微かな音色を聞き、日向の全身に鳥肌が立った。
「――っ!」
ぞわっと来た悪寒に総毛立ち、反射的に奥歯を噛み締める。顎が砕けんばかりに力を込めて息を呑み、彼は零れ落ちんばかりに目を見開いた。
騒然となっている日向を知らず、影山は淡々と時計の針を回転させ、時刻を合わせた。
不要になった使い古しの電池をポケットに押し込み、代わりに携帯電話を引き抜いて二つ折りのそれを広げる。現在時刻を確かめて針の位置を微妙に調整していく彼も、澤村の話を日向と一緒に聞いていた。
この時計は烏野高校男子排球部を陰ながら支え、見守ってくれていた存在だ。電池切れを起こして止まっていたが、それでもずっと、日向たちを暖かい目で見つめてくれていた。
久方ぶりに時を刻み始めた時計に頷き、影山は再び踵を浮かせた。腕を目いっぱい伸ばして元の場所に置き、見えやすいよう角度を調整する。
だが矢張り、前と同じにはならなかった。
卒業生たちと過ごした時間が、一瞬で遠くへ流れ過ぎていった。コチコチと針が動く音が耳朶を打ち、日向の心を容赦なく抉った。
大切にして守りたかったものを、蔑ろにされた。思い入れのある品を簡単に打ち崩されて、はらわたが煮えくり返るようだった。
「なんで!」
気が付けば、大声で怒鳴っていた。
数歩後退して見え具合を確かめていた影山は、その音量に吃驚して反射的に首を竦めた。それから姿勢を正して振り返り、剣呑な目つきで眉を顰めた。
「あ?」
「なんで……だって、それ」
「ずっと止まったままじゃ困んだろ」
「でも!」
感情が波打ち、上手く言葉が出てこない。しどろもどろに捲し立てて腕を振り回す日向に、影山は淡々と切り返した。
彼は日向が何故こうまでしつこく突っかかってくるのか、分かっていない様子だった。
卒業生が引退して暫くしてから、時計は力尽きるかのように動きを止めた。そのタイミングが、丁度部員たちが虚無感を覚えていたタイミングに重なったものだから、無機物とも思いを共有できた気がして、不思議と嬉しかった。
しかしそんな風に感じていたのは、日向だけだった。
影山は何の思い入れもないらしく、必死の形相のチームメイトに口を尖らせた。
「動いてねーのに、紛らわしいだろ」
部室内にはもう一台、壁に吊るすタイプの時計があった。そちらは変わりなく時を刻み続け、暢気に欠伸をしていた。
両者を見比べて、針の指し示す角度が異なっていたら混乱する。それが彼の言い分だった。
事実、日向も何度か勘違いしそうになった。止まっている方の時計が正しいと思い込んで、危うく授業に遅れそうになったことも数回あった。
今はまだギリギリ遅刻を回避出来ているが、今後もそうだとは限らない。ほかの部員にも少なからず影響が出ており、練習後の着替えの度に、誰かが『電池を交換しないと』と口にする機会は増えていた。
ただ今日まで、誰も行動を起こそうとしなかった。
まさか影山が真っ先に手を挙げるとは。予想もしなかった展開に唖然として、日向は伸ばしていた人差し指をくたりと垂らした。
関節を曲げて丸め、握りしめる。こみあげてくる諸々の感情をその中に閉じ込めた彼に、影山は小さく肩を竦めた。
「ほかの学校はとっくに新体制に入ってんだ。取り残されるわけにはいかねーだろ」
そしてやおら口を開き、尊大に言い放った。
時間は進んでいく、待ってはくれない。ぼさっとしていても季節は巡るし、過ぎ去った日は戻らない。
三年生と過ごした一年間はきらきら輝いていたかもしれないが、輝いたまま留め置くなど最初から不可能だ。
思い出はいずれ色褪せる。けれど忘れさえしなければ、いつでも鮮やかに蘇る。
「それとも、なにか。テメーはここでリタイアか」
「っ!」
どれだけバレーボールが上手くなろうとも、そこで終わりではない。大会に出場し、試合に勝っても、それがゴールではない。
今日と同じ明日が来ないように、大会に臨む選手が前と同じままなわけがない。皆それぞれに努力し、上達した上で挑んでくる。
日向だってそうだ。
負けたままは悔しいから、勝ちたくて、勝てるようになりたくて、何度躓きながらも立ち上がった。道に迷い、その度に選択してきた。決断を下した。その所為で影山と喧嘩になり、一時期険悪になりもした。
全国の、いや、世界中のあちこちに、あの日の日向がいる。影山が居る。迷い、悩み、選び、進むことを決めたプレイヤーが溢れている。
歩みを止めれば途端に追い付かれ、追い抜かれ、置いて行かれてしまう。足踏みしている暇はない。後ろばかりを振り返り、進むのを躊躇している場合ではない。
真っ直ぐ、迷いのない瞳で問われ、日向は背筋を戦慄かせた。心臓を穿たれたような衝撃が走り、指先がびりびり震えて止まらなかった。
薄く開いた唇を閉ざす、たったそれだけの事に恐ろしく時間が必要だった。
「そんな、わけ」
「ねーよな」
口籠り、呟く。語尾を補い、影山は嘆息した。
両手を腰に当てて肩を竦め、苦悩の表情を浮かべる日向を高い位置から見下ろす。どん底に突き落とされたとしても根性で這い上がり、諦めようとしなかった彼だから、心配は不要と思いたかった。
放っておいても、日向なら自力でなんとか出来ただろう。けれど何かしたくなった。言いたくなった。俯いて気落ちしている姿は、出来るなら見たくなかった。
お節介が過ぎると自分を笑い、影山はポケットの中で主張する乾電池を叩いた。
「さて、と」
話はひと段落ついた。日向からこれ以上の反論が来ないのを確認して、彼は左足を軸に身体を反転させた。
細波立つ心を抱えたままの日向も顔を上げ、同じ方向に目を向けた。
壁にぶら下がるカレンダーは、季節外れのクリスマス柄だった。
緑と赤を主体にした可愛らしいイラストが上半分を埋め、イベントなどの日にちには大きな赤丸が書き込まれていた。大晦日には『大地さんの誕生日』という文字が踊り、その右隣には控えめに『旭さんの誕生日』と記されていた。
誰が書いたか一目瞭然の悪筆に相好を崩して、影山はそちらに一歩踏み出した。
「あ……」
迷いのない足取りにはっとして、日向は両手で口を覆った。
寸前に漏れ出た吐息を慌てて掻き集めるが、とっくに手遅れだった。影山はちらりと視線を流して溜息を零し、額に掛かる前髪を掻き上げた。
「こっちも、いい加減新しいのにしねーとダメだろ」
「でも。でも、新しいやつ、ないし」
「ンなの、どうとでもなるだろ」
去年のカレンダーを吊るしたままの部室を見て、新一年生はどう思うだろう。今年の分がないのなら、せめて外して壁を空にしておくべきではなかろうか。
まだ三月なのに先輩面を発揮した影山の物言いに、日向は唖然となった。
在校生にとっては思い出深いものだとしても、新入生にとってこれはただの紙切れでしかない。物が散乱して汚らしい、古く役に立たないものに埋もれている部室に進んで入りたいか、と訊かれたら、答えはノーだ。
きっぱり言われて、返す言葉もなかった。日向は押し黙り、握った拳を腹に押し当てた。
「それに、先輩たちだって……いやだろ」
「え?」
「俺らが低迷したら、責任感じるとか、そういうの」
「……うん」
上級生が居なくなった途端に弱くなるチームは多い。逆に、居なくなって強くなるチームもある。
どちらがより、卒業生を悲しませるか。情けないと肩を落とさせるか、頼もしいと胸を張らせるか。
考えるように諭され、日向は逡巡の末に頷いた。
そして意を決し、立ち上がった。
「おれがめくる」
「勝手にしろ」
言うが早いか駆け出し、壁へと近づく。影山は呆れて肩を竦め、邪魔にならぬところまで後退した。
見守る体勢を作った彼にはにかんで、日向は思い出が沢山詰まったカレンダーに目を細めた。
深呼吸して心を鎮め、唇を舐める。緊張に頬を強張らせ、恐る恐る両手を前に伸ばす。
一枚きりになっているカレンダーの上部には金具があり、落ちないようテープで固定されていた。色褪せて黄ばんでいるそれも一緒に剥がそうと、日向は右手を上に滑らせた。
左手はカレンダーの左端を握り、壁から浮かせる形で数センチめくり上げる。それを後方から眺めていた影山は、軽い違和感を覚えて眉を寄せた。
「ン?」
何か違うものが見えた気がして身を乗り出し、目を凝らす。だが確かめる前に日向が左腕を下げて、紙に隠れてしまった。
「おい」
「んん?」
「それ、ちょっとめくってみろ」
「はい?」
一瞬だったが、見間違いではない。自分の視力を信じ、影山はテープを綺麗に剥がそうと悪戦苦闘する日向に指示を出した。
手を止めて振り返った少年は、チームメイトの突然の命令に首をひねった。不思議そうな顔をして沈黙し、外すのではなかったのかと何重にもなっているテープを小突く。
だが影山は首を横に振り、上に捲り上げるよう繰り返した。
「えー、なんでー?」
「いいから。さっさとしろ」
「ちぇ。王様なんだから」
偉そうに言うばかりで、自分から動こうとしない。先ほどの時計の件を棚に上げた日向に、影山はこめかみを引き攣らせた。
彼がそのあだ名を嫌っているのは、部員全員が知っていることだ。瞬時に立ち上った黒いオーラにびくっとして、日向は慌ててカレンダーの裾を持ち上げた。
首を竦めて言われた通りにして、三秒待ってから恐る恐る目を開く。
同時に背筋を伸ばし、彼はぽかんと口を開いた。
「これ……」
「ああ」
ぽつりと呟けば、影山も深く頷いた。
カレンダーに隠れる格好で、紙が一枚、壁に貼られていた。
正確には色紙だ。正方形の厚紙の四隅はテープで固定されて、簡単には落ちないよう細工されていた。
そこに踊る、四人分の文字。
去って行く者たちから、残る者たちに贈られた、ささやかだが力強く、とても大きな声援。
彼らは知っていた、十二月から進もうとしないカレンダーのことを。だからこっそりと、こんな悪戯を最後に仕込んでいったのだ。
前に進む決意を下さない限り見つけられない場所に、彼らは後輩達の背中を押す言葉を隠した。
もう大丈夫だな、と。
これからも頑張れよ、と。
応援しているからな、と。
期待している、と。
後輩たちの活躍が、自分たちの誇りになるように。
進学先、就職先で自慢できるチームであるように。
暖かく、優しく、そして真っ直ぐな言葉が、色紙いっぱいに溢れていた。
「なんか、悔しいな」
「だな」
こんなことを言い残されたら、我武者羅にやるしかないではないか。ぐだぐだ落ち込んでいないで、全力で走るしかないではないか。
見透かされていたのが恥ずかしくて、今もこうして気遣われているのが嬉しくて、日向は頬を紅潮させた。急ぎカレンダーを壁から引き剥がして、もう惜しくないと丸めてゴミ箱へ放り投げる。
縁に当たって跳ね返ったのを避けて、影山も興奮意味に鼻息を荒くした。
「おれ、みんな呼んでくる」
「そうだな」
血気盛んに叫んだ日向に応じ、深く頷く。
顔を上げると目が合った。バチっと火花が散った後、日向はしどけなく笑って頬を緩めた。
彼が居なければ、気付かなかった。彼が率先して動かなければ、気付けないままだった。
彼が居てくれて良かった。彼はいつだって、迷って立ち止まる日向の手を引き、背中を押し、同じ道を歩いてくれる。
「お前って、やっぱ、すげーな」
満面の笑みと共に告げられた最大の賛辞に、影山は息を止めて目を逸らした。
2014/03/09 脱稿