鶏冠石

 その日は、朝から違和感が拭えなかった。
「んう~……?」
 なにかがしっくり来なくて、胸の中がもやもやして落ち着かなかった。鼻がむずむずするのにくしゃみが出ない、そういう時に似た苛々が募って、癪に障ってならなかった。
 気難しげに眉を顰め、斜め上に視線を投げる。下から睨みつけられた方は面倒臭そうに肩を竦め、分かり易いため息を吐いた。
「なに、さっきから」
「ふおっ」
 言いながら額を小突かれた。思わず後ろにふらついて、日向は浮いた右足を床に叩き付けた。
 肩幅以上に足を広げて踏ん張り、空中に残された長い指を恨めし気にねめつける。だが月島は飄々として、利き腕をぶらぶら揺らした。
 嫌味たらしい表情を浮かべて、彼は憤る日向からあっさり目を逸らした。
「ぼさっとしてる暇があったら、さっさと柔軟、終わらせなよ」
 そして人に背を向けて呟き、くい、と眼鏡を押し上げる。半ば癖になっているらしい仕草はとても自然で、長身の月島にとても良く似合っていた。
 一瞬格好いいと思いかけたのを慌てて防ぎ、日向は頬を膨らませた。
「ぶぅー」
 子供のように不満の声を上げるものの、月島はもう相手にしてくれなかった。最後にひらりと手を振られ、彼は悔しさにひとり地団太を踏んだ。
 ドスドスと乱暴に体育館の床を蹴り、ひと通り感情を発散させてから茶色い髪を掻き回す。暴れる日向を遠巻きに見ていた面々は、相変わらずの騒々しさに肩を竦めて苦笑した。
 そして騒ぎの元凶ともいえる月島に目をやって、日向同様の違和感に小首を傾げた。
「なんか、いつもと違くね?」
「そうか? 同じじゃね?」
 田中の疑問を西谷が呆気なく叩き落し、短いやり取りを聞いた縁下が肩を揺らした。視線の先にいる一年生は上級生の反応など意に介さず、ひとり準備運動を開始していた。
 いつも一緒の山口の姿は、第二体育館には見当たらなかった。
 寝坊でもしたのか、まだ登校していない。もっともだからといって、遅刻と決まったわけでもなかった。
 部で決まっている朝練開始時間には、もう少し余裕があった。
 時計の針は午前六時五十分過ぎを示しており、あと十分弱の猶予が残されていた。長針が真上に至るまでに扉を潜って挨拶が出来れば、ギリギリではあるけれど、セーフの判定が下される。
 しかし今のところ、そばかす顔の一年生が飛び込んでくる気配はなかった。
 お陰で月島は登校早々日向に絡まれ、練習前の準備運動もひとりで済まさなければならなかった。
「日向、こっち来い」
「えー」
「ンだその顔。トス上げてやんねえぞ」
「ぎゃー。影山のけちー」
 その絡んできた少年は、横暴で横柄な王様に偉そうに指示されて反発し、早々に喧嘩を開始した。
 とはいえ、本格的な殴り合いにはならない。どちらかといえば小型犬と大型犬がじゃれあっているような、そんな感じだ。
 朝早くから実に元気で、騒がしい。昨日も夜遅くまで練習があったというのに、たった一晩であっさり回復してしまっている。
 一方の月島は、眠るのが遅かったのもあり、全体的に気だるさが残っていた。
 それでも目覚まし時計より早く起床し、時間に間に合うよう家を出た。直前に少々焦る事があったけれど、小さなトラブルは日常茶飯事だ。
 問題事項の内容については、人に話して聞かせるほどでもない。家での出来事を振り返って肩を落とし、彼は眼鏡のフレームに指を添えた。
「おっと」
 無意識に触っていたと気づき、慌てて腕を下ろす。けれど彼の他愛無い仕草を咎める声は、どれだけ待っても響かなかった。
 勝手に赤くなった頬を軽く叩き、月島は四肢の力を抜いてため息を零した。
 日向と影山の口論は、まだ続いていた。
 話の中身は、あってないようなものばかりだ。小学生にも劣る罵詈雑言の応酬に、痺れを切らした影山が暴力に訴え、日向がサッと躱して逃げる。そういう展開が、大体のパターンだった。
 時間の長短はあれど、気が付けば自然と終息するのがふたりの喧嘩だ。最近では上級生もじゃれあいと本気の違いが分かって来て、前者の場合は仲裁に入らなくなっていた。
 二年生はすっかり傍観の体で、各々練習準備に取り掛かっていた。
 月島もストレッチを続行し、そのついでに壁の時計を仰ぎ見た。
 山口はまだ現れない。遅れる旨の連絡が入っているかどうか、携帯電話を確認した方が良さそうだった。
 これが終わったら鞄を取りに行こう。そう決めて、月島は曲げた右肘を左手で持ち、後ろに向けて引っ張った。
 肩の関節を解すのに合わせて腰も捻り、四肢を構築する筋肉を温めていく。向こうの方からはぎゃあぎゃあと騒ぐ声が続いていたが、聞こえないふりをして、徹底的に無視を決め込む。
 だが完全に意識の外に追いやるのは不可能で、月島は嫌そうに舌打ちし、ズレた眼鏡を押し上げた。
 先ほどからレンズの位置を直す頻度が高いのも、不機嫌の度合いを強める役目を果たしていた。
 誰からも指摘を受けないのはありがたいが、ひとりとして気付いてもらえないのも、それはそれでショックだった。
 皆は普段、自分のどこを見ているのだろう。そんなことをふと考えて、月島は開かないドアを気にして後ろを振り返った。
「月島ぁ!」
「うっ」
 その直後だった。
 いきなり名前を呼ばれ、ほぼ同時に背面からタックルを受けた。
 ドスン、と背骨を貫通した衝撃に息が詰まり、胃の中身が口から飛び出しそうになった。とはいえ朝食は果物だけで軽く済ませているので、本当に吐いたとしても、被害はさほど大きくならなかっただろう。
 喉の辺りに広がった胃液の苦さの方がよほど迷惑だ。内側から焼かれる痛みを堪え、彼は腰にしがみつく腕をぞんざいに振り回した。
「ちょっと。放れなよ」
 床を踏みしめて身体を左右に捻れば、抱きついてきている方も一緒に揺れた。けれど臍の真下で結ばれた両手は存外に固く、なかなか解けてくれなかった。
 月島に合わせて身体を泳がせて、日向は必死の形相で唇を引き結んだ。
「日向ってば」
「影山がいじめるからヤダ」
「僕は関係ないでしょ」
「や~だ~~」
 肉の薄い背中に頭を押し当て、嫌がる月島に向かって駄々を捏ねる。早く退けとばかりに肩を掴んで押されても、絶対に離れるものかと歯を食いしばった。
 梃子でも動かないチームメイトに絶句して、月島は遠くで唸っているコート上の王様にも肩を落とした。
 影山は目を吊り上げて怒り心頭の様相で、まるで獣か何かのようだった。
 両脇に垂れた腕は一見すると自然体だけれど、良く見れば爪の先まで神経が研ぎ澄まされていた。薄く開いた唇からは牙の如き犬歯が覗き、いつ襲い掛かってくるか、分かったものではなかった。
 大丈夫な方だった喧嘩が、いつの間にかそうでなくなっていた。ただそうなった原因については、直前の口論内容を聞いていないので不明だ。
 完全に部外者だったのに、一方的に巻き込まれてしまった。こういうトラブルは当事者だけで解決してくれと、以前から何度となく頼んでいるというのに。
 一向に話を聞いてくれない同級生に嘆息して、月島は骨を抉る日向の頭を鷲掴みにした。
「ぎゃ」
「痛いんだけど」
 影山がいつもやっているのを真似て、指を広げて茶色い髪ごと引っ掴む。そのまま斜め上へと吊り上げてやれば、華奢な少年はクレーンゲームの景品宜しく、縦に長く伸ばされた。
 引き剥がされた上に引っ張られて、日向の顔は苦悶に歪んでいた。何を思い出しているのか嫌そうに顰め面を作って、鼻をぐずつかせたところで月島は指の力を弱めた。
 限界一歩手前だった手をひっこめれば、仔烏もとい小さなミドルブロッカーは軽く膝を折って後ろによろめいた。
 表情は痛いのと、悔しいのとで、大いに不満げだった。
 対する月島は仕返しが出来たと喜び、おおむね満足そうだった。
 口角を持ち上げて不敵に笑い、先ほどと少し趣が異なる顔の王様を見つけてふっ、と鼻を鳴らす。他人を見下して馬鹿にした態度をわざと選び、両手で頭を抱え込んでいるチームメイトにも嘲笑を送りつける。
 両手を腰に据えた背高のミドルブロッカーを眺め、遠くに居た縁下が苦笑した。
「そろそろ始めるよー」
 まだ七時になっていないが、あと数分でタイムリミットだ。始業時間まで一秒でも無駄に出来ないと叫び、彼は気を引き締めるよう後輩を促した。
 しかし声に応じたのは月島だけで、影山も、日向も、人の話に耳を傾ける余裕がなかった。
「月島、かくまって」
 相変わらず影山は野獣の形相で日向を睨んでおり、獲物と認定された方は身を隠そうと必死だった。
 ここに居るメンバーの中で最も上背のあるのが月島だから、壁代わりに選ばれてしまった。そんな事をしても影山から逃げ切れるわけがないというのに、頭の悪い日向は五回に一回、似たようなことを繰り返した。
 万が一上手く隠れられたとしても、横からはみ出てしまう現実を、いい加減理解して欲しい。それに日向がこちらに助けを求めてくる事により、影山から要らぬ嫉妬をもらうのも御免だった。
 痴話喧嘩は外でしろと、声を大にして言いたかった。
「嫌に決まってるでしょ」
「そこをにゃんほひゃー」
 けれど意識して口を噤み、心に蓋をする。素早く仮面を装着して繕って、月島はつれない態度で日向の頬を抓った。
 口が閉まりきらない所為で彼の発音はおかしかったが、笑う気も起こらなかった。
 両手を合わせて真剣に祈られて、うっかり絆されそうになる。仕方がないね、と言いかけた自分を律して、月島は柔らかくて温かな頬を両側から挟み込んだ。
 抓った場所を撫でもせず、力任せに押し潰してやれば、タコもどきの表情で日向が目を吊り上げた。
「いひゃい」
「自分で撒いた種なんだから、自分で刈り取りなよ」
 憤慨して怒鳴られても平然と受け流し、人の気も知らずにいるチームメイトを手厳しく叱る。けれど日向は諦めず、離れ行こうとする手を追いかけて袖を掴んだ。
 練習着を引っ張られ、月島は出しかけた足を慌てて引っ込めた。
「つきしまー、山口からなんか聞いてるかー?」
 そこへ上級生の声が響き、時計の針が無情に上を向いたと知らされた。日向も指の力を僅かに緩め、メンバーが足りていないと気付いて目を丸くした。
「あれ。山口休み?」
「聞いてないです。ちょっと待ってください」
 不思議そうにあたりを見回す彼の隙を狙い、腕を奪い返した月島は背筋を伸ばして口を開いた。遠くにいる先輩たちに断りを入れて、早足に床を蹴って荷物目指して歩き出す。
 出入り口傍に出来た鞄や上着の山に近づく彼を追い、何故か日向まで駆け足になった。
 もれなく影山の怒気も後ろについてきて、月島は天井に向かってため息を吐いた。
「なんなの、さっきから」
「山口、遅刻? 風邪?」
「さあね」
 近くをちょろちょろされるのは鬱陶しく、落ち着かない。だが払っても、払っても付きまとってくる彼を真面目に相手にするのも疲れるだけだ。
 どうするのが心の平安に一番近づけるかを考えて、月島は素っ気なく言い捨てた。
 適当な相槌で誤魔化し、上着を退けて隠れていた鞄を取り出す。その間も日向はすぐ傍に陣取り、軽く曲げた膝に両手を添えた。
 横から覗き込んで来られて、スマートフォンを引き抜いた月島は面倒臭そうに舌打ちした。
「ちょっと」
 画面を盗み見られるのは、あまりいい気分がしない。ロック解除用のパスワードを一瞬で記憶出来るとも思えないが、背後に付かれるのは純粋に嬉しくなかった。
 だから距離を詰めようとする日向を牽制すべく、月島は声を荒らげた。
 けれどそれを無視し、彼は大粒の目を真ん丸に見開いた。
「なあ。お前さ、やっぱ」
「――っ!」
 零れ落ちんばかりの大きな眼で凝視されて、月島は反射的に息を呑んだ。
 身を乗り出して来た日向の呼気が耳に掛かり、微熱を浴びた場所が変に疼いた。ぞわりと内側から何かが沸き起こって、足元から電流が駆け抜けた。
 後を追う形で鳥肌が立って、全身が毛羽立った。四肢を繋ぐ関節部が引き攣って、ゾクゾク来る悪寒が背筋を貫いた。
 腿の内側に力が入り、大腿四頭筋が勝手に動いた。内股になろうとする下半身を慌てて堰き止めて、月島は至近距離から注がれる眼差しに冷や汗を流した。
 見つめ返した日向は怪訝げに眉を寄せ、口をヘの字に曲げていた。
「……なに」
 ただ彼の疑問は、月島の挙動不審ぶりについてではなさそうだった。
 その点に一旦安堵して、声を潜めて尋ねる。いったい何をそんなに気にしているのか問いただした彼に、日向は眉間の皺を一層深めた。
 スマートフォンのランプが点灯しているというのに、画面を操作する気が起こらない。幼馴染よりも目の前の少年を優先させて、月島は首を右に倒した。
 緩い仕草に、烏野最強の囮は口を尖らせた。
「なーんか、違うんだよなあ」
「……は?」
「いつもの月島じゃないっつーか。でも影山は、一緒だって言うし」
 小声でぼそりと言って、彼は最後に後ろを見た。その視線の先には荒々しくボールを操り、先輩方に苦笑いされている王様が居た。
 独占欲の塊のような男が、何に固執しているのかは皆知っている。だけれど肝心の、影山が独占したがっている存在だけが、その願いに気付いていなかった。
 哀れな話だ。影山も、自分も。
 これほどに鈍感な人間を、どうして好きになったりしたのか。光を追い求める羽虫になった気分で肩を落とし、月島はくい、と眼鏡を押し上げた。
 馴染みの薄いフレームの感触に唇を舐め、興味深そうに人を観察する少年を横目で窺う。だが日向は顰め面を継続して、腕組みまでしてうんうん唸った。
 朝練に参加すべく体育館に入った直後、彼にまとわりつかれたのを思い出した。
「まだ分かんないの」
「あ、やっぱ違う?」
「ほんと、君たちって、僕をなんだと思ってるの」
 あれが未だ尾を引いていると教えられ、いい加減うんざりだった。
 どこまで愚鈍なのかと腹を立てる気も起こらず、月島は声を高くした日向の額を弾いた。
 嬉しそうに乗り出して来た彼を追い払い、もう一度、わざとらしく眼鏡の位置を正してやる。それでも日向は眉目を顰め、ぶすっと頬を膨らませた。
 遅刻が決定した幼馴染であれば、顔を合わせた途端に気付くだろうに。これだけヒントを与えられておきながら分からないという事は、彼は普段から、月島にさほど注意を払っていないのだ。
 知りたくなかった現実に到達して、心が砕け散ってしまいそうだった。
 分かっていた事とはいえ、ショックだ。見込みがないと弁えていたつもりでも、哀しみは拭えなかった。
 一瞬泣きそうになって、我慢して堪え、平然を装う。日向が思い込んでいる嫌味で淡泊な人間の仮面を被り直して、いつもより細い眼鏡のフレームに指を置く。
「あ!」
「っ」
 それを狙ったかのように真横から鋭い声が飛んで、ビクついた月島は首を竦めて仰け反った。
 大仰な反応を見せたと後悔するが、もう遅い。ただ声の主である日向は構わず、丸い目をぱちぱちさせて、あんぐり開いた口をゆっくり閉じた。
 咥内の空気を飲み込んで、喉仏が上下に揺れた。妙に艶めかしい仕草を間近で眺め、月島は日向の一挙手一投足を瞼に焼き付けた。
 背筋を伸ばしたかと思えば丸くなり、右に傾いたかと思えば真っ直ぐに戻して、彼はやがてふん、と鼻から息を吐いた。
 紅潮した頬は艶々しており、表情豊かな口元は綻んで嬉しげだった。
「そっか。メガネ」
 やっと得心が行った。そう呟いて胸を撫で下ろした日向に、月島は疲れた顔で肩を竦めた。
「今頃……」
 他に言葉が出てこなかった。それだけをどうにか口にして、彼は目をキラキラさせるチームメイトに首を振った。
 短い前髪を掻き上げ、いつもと異なる眼鏡を光の下に晒す。飴色のフレームは金属製で細く、パーツを繋ぐ留め具には何かに擦った痕があった。
「変えたのか?」
「まさか」
 ひとつ疑問が片付けば、次の疑問が沸き起こる。興味津々に質問を繰り出して来た日向にぴしゃりと言って、月島は使い込まれている古い眼鏡を顔から外した。
 それは一年ほど前まで、毎日のように着用していた眼鏡だった。
 高校進学を機に新調して、最近はそちらを愛用していた。古い方は何かあった時のためにとケースに入れて、机の引き出しに入れていた。
 今朝慌てて引っ張り出した時は、あまりの懐かしさに苦笑してしまった。と同時に、自分の失態に肩を落とさざるを得なかった。
 今また、一連の経緯を説明せねばならない事態に軽く落ち込んでいる。腹を抱えて笑い飛ばされるのは確実で、それが周囲に伝播すると考えると余計に憂鬱だった。
 自然とため息が漏れて、聞こえた日向が小首を傾げた。
「月島?」
「……踏んだんだよ」
「ほえ?」
 絞り出すような小声に目をぱちくりさせ、不思議そうに口をぽかんとさせた。その間抜け顔は可愛かったが、やがて現れる表情を思うと複雑な気分だった。
 相変わらずの物分りの悪さに嘆息を積み重ね、苛々を押しとどめて眼鏡を戻す。レンズ越しに日向を睨むが、効果はなかった。
 彼は無邪気に微笑んで、何度も瞬きを繰り返した。
 いっそ言わずにやり過ごしてやろうか。そんなことを頭の片隅で考えて、月島は自分に向かって首を振った。
「だから。朝起きて、かけようとして。掴み損ねて、落として。拾おうとして、ベッドから降りたら」
 広げた指を順繰りに折りたたみ、子供でも分かるように箇条書きにして並べていく。遠くを見据えたまま淡々と言葉を紡ぐ月島に、最初はふんふん頷いていた日向も次第に動きを弱めていった。
 頬をヒクリと痙攣させた彼を見て、月島は最後に深く息を吐いた。
「えー……、と」
「フレームが、曲がっただけで済んだけどね」
「お、おう」
 説明の仕方が良かったのだろうか。予想に反し、日向は笑わなかった。
 顔の筋肉が突っ張ったぎこちない表情を作り、飴色のフレームをまじまじと見つめる。それを遮る形で月島は手を動かし、微妙な角度のズレを調整した。
 間違って踏まれた眼鏡も、レンズは無事だった。修理に出せば、数日で戻ってくることだろう。
 寝起きで、完全に覚醒していない中での行動だったが、迂闊だった。毎日問題なく出来ているからと、今日も明日も大丈夫だと勝手に思い込んでいた。
 もっと注意深くなるべきだった。ミスをきっかけに自分を戒め、月島はいい加減練習に入るよう、日向を促した。
 右手はスマートフォンを操作し、メールの受信画面を引っ張り出す。だが傍らの気配は消えず、注がれる視線も薄れなかった。
「……なに」
 眼鏡がいつもと違う理由は、これで全部だ。日向の疑問はすべて解決し、話は終了したはずだ。
 だというのに、立ち去ろうとしない。そろそろ上級生も我慢の限界で、田中などはふたりを怒鳴りたくてうずうずしているというのに。
 浴びせられる殺気が増えてげんなりしていたら、踵で床を叩いた日向が緩慢に頷いた。
「なあ。前の眼鏡って、直るんだよな?」
「そりゃ、修理に出せば」
「そっか。んじゃいいや」
 両手は背中に回し、緩く握り合わせて腰をとんとん叩く。リズムを取りながらの質問に淡々と答えれば、彼は満面の笑みを浮かべて目を細めた。
 白い歯を見せて言って、くるりと身体を反転させて。
 そして走り出す直前、首から上だけで振り返り。
「おれ、あっちの眼鏡のが好き」
 大声で、無邪気に。
 それだけを告げて。
 絶句する月島を残し、彼は。
「え――」
「あ、山口来た!」
 その時、ガラリと体育館の戸が開いた。息せき切らした山口がぜいぜい言いながら飛び込んできて、真っ先に気付いた日向は仲間を助けるべく、一目散に駆け出した。
 置いてけぼりを食らい、月島はぽかんとなった。眼鏡の奥の瞳を真ん丸に見開いて、力の抜けた指先からはスマートフォンが滑り落ちた。
 床に置いた上着の海に沈んだそれに目もくれず、絶えず動き回る小さな背中を追いかける。コクリと喉を鳴らして唇を引き結び、遅れて訪れた感情を誤魔化すべく、口元を左手で覆い隠す。
「……馬鹿じゃない」
 なんと安直で、易い男なのだろう。
 これしきの言葉で喜んでいる自分を意識して、彼は騒がしさを増した空間に肩を竦めた。

2014/2/14 脱稿