『手作り』というのには、特別な力があると無条件に信じていた。
それが常識だと思い込んでいただけに、彼がそう告げた時はとてもショックで、返す言葉もなく立ち尽くしてしまった。
「冗談じゃないね。気持ち悪い」
月島はそう吐き捨てると、あり得ないとばかりに顔の横で手を振った。
受け取りを拒まれた少女がまだそこに居るというのに、視野に入っていないのか、まるで構おうともしない。それも衝撃的すぎて、関係のない日向まで色を欠いた唇を戦慄かせた。
「気持ち悪いって、お前。そんなのあんまりだろ」
「じゃあ、君が貰ってあげなよ。僕はお断りだけど。あんな、何が入ってるか分からない物なんか」
はっと我に返り、立ち去ろうとしていたチームメイトの腕を掴む。だが月島は瞬時にはね除け、忌々しげに顔を歪めた。
軽く腰を捻った体勢から、後方に佇む少女を一瞥したのは間違い無かった。
同じ学校の、同じ学年の。クラスは違うかもしれないが、ともあれ廊下のどこかですれ違った事ならあるかも知れない彼女は、月島に睨まれてビクリと肩を跳ね上げた。
受け取りを拒否されただけでなく、トドメの一撃まで食らったのだ。血の気の引いた表情で弱々しくかぶりを振ると、彼女はセミロングの髪をはためかせて走っていった。
上履きで床を蹴る、可愛らしい足音はすぐに聞こえなくなった。入れ替わるように周囲の雑踏が戻って来て、日向は冷血漢も真っ青な男に拳を作った。
「ちょっと、山口。今の、酷くねえ? なあ?」
「え、えーっと……どうだろう、ね?」
だが怒りをぶつけた相手は、月島ではなかった。
いきなり水を向けられた山口は慌てふためき、言葉を探して視線を泳がせた。天井を見上げて指を蠢かせ、彼は最後、助けを求めて傍らの幼馴染みを覗き込んだ。
背中を丸めて窺い見て、目が合いそうになった瞬間にさっと逸らす。垣間見た眼鏡の奥の眼光は鋭く、冷徹で、触れればスパッと斬れそうだった。
二方向から趣が異なる眼差しを投げられて、間に立たされた月島は深くて長い息を吐いた。
至極嫌そうな顔をして、長い指で眼鏡を押し上げる。僅かなズレを修正して、彼は日向に焦点を定めた。
納得がいかないと告げる双眸をじっと見詰め返して、
「生理的に、無理」
たったそれだけを、きっぱり言った。
「でも……」
「とにかく、無理なものは無理。分かった?」
尚も食い下がろうとする日向をすげなくあしらい、嫌だから嫌なのだと、子供の言い訳のように繰り返す。珍しく語気を荒くして言い切られて、とりつく島もなかった。
この調子では、いくら言って聞かせたところで主張を変えないだろう。口ではどうやっても勝てない相手に頬を膨らませ、日向はぶすっとしながら空を蹴り飛ばした。
当事者でもないのに不満を隠さない彼に肩を竦め、月島はやれやれと短い髪を掻き回した。
口論のきっかけは、先ほどの女生徒が月島にチョコレートを差し出した事だった。
今日は二月十四日、つまりバレンタイン。今となっては形骸化した趣があるけれど、形式上は、女性が思いを寄せる男性にチョコレートを贈る日、だった。
流石に食べ物を下駄箱に入れるのはどうかということで、学内では手渡しが主流だった。後はこっそり机の上に置いておくだとか、仲介者を使って思い人の手元へ運んで貰う、等々。
そして先ほど、なけなしの勇気を振り絞った女子生徒が、廊下を行く月島を呼び止めた。
傍には山口と、偶々教室を出るタイミングが被った日向が居た。彼女はふたりをちらりと見てから、鞄に手を入れて、丁寧に梱包された小さな箱を取り出した。
それがチョコレートだということくらい、いくら鈍感な日向でも分かる。自分宛でないとしても、身近な人間が告白される場に居合わせるのは緊張させられて、興奮に胸が震えた。
だというのに、月島はひと言、ふた言彼女に質問すると、要らない、と冷たく言い放った。
いったい何が気に入らなかったのか。折角真心込めて頑張って来た子に対する態度がなっていないと、日向は大いに腹を立てた。
結果、彼の余計な仲裁により、彼女は余分に心に負う事になった。
もっとも月島には、見ず知らずの相手がどうなろうと知ったことではない。とても食べられたものではないチョコレートも無事返品処分出来たので、この展開は許容範囲内だった。
唯一残った難点と言えば、まだそこでぷりぷり拗ねているチームメイトだろう。
どうして他人事にここまで深く関心を寄せられるのか。余計なお世話過ぎると嘆息し、月島は冷えた窓に手を伸ばした。
触れればひやっとした感触が肌を刺した。行き場のない熱を余所へ逃がして、彼は朝方よりも幾分重くなった鞄を揺らした。
「別に、既製品だったら、受け取っても良かったんだけどね」
「はあ?」
「何個か貰ったよ。見る?」
「嫌みかよ!」
わざわざファスナーを開ける素振りをみせて、表面の凹凸を暗に示す。明らかに文房具やテキスト類とは異なる形状をそこに見出して、日向は更に口を尖らせた。
「まあまあ、日向。でもツッキー、毎年凄いよね」
激昂する彼を山口がなんとか宥めようとするが、あまり効果はない。ぷんすかしているチームメイトに困り切った顔をして、先日目出度く百八十センチ越えを達成したミドルブロッカーは唐突に話題を入れ替えた。
本日の授業は全て終了し、ホームルームも終わった。この後は部室に行って着替えて、第二体育館で部活が待っていた。
帰宅部の生徒は早々に帰路に就き、教室は既に大半が空だった。視線を下に向ければ、校門を出て坂を下っていく後ろ姿が窓の向こうに沢山見えた。
自分たちも早く部室棟に行かなければならない。練習前のストレッチは大事だし、ボールなどの準備も一年生の仕事だった。
それが分かっていながら、日向の足はなかなか前に進まなかった。
「いっぱい貰ってんだったら、さっきの子のも、ちゃんと受け取ってやりゃいいじゃん」
月島は、認めたくないが、女子からの人気は高かった。
眉目秀麗、しかも高身長で、挙げ句成績は学年でも上位。これで性格さえ良ければ、非の打ち所がない人間だった。
そんな彼の、唯一の欠点とも言えるのが、この淡泊な態度だった。
何をするにも冷静ということは、裏を返せば何に対しても一歩引いている、という事だ。真剣に物事と向き合う回数は少なく、大抵の場合、軽く受け流して見向きもしない。
現に今も、バレンタインに背中を押された少女を冷たくあしらった。
いい加減、その話題に固執するのは止めて欲しい。しつこく引きずって来る日向に辟易して、月島は壁役にもなれなかった山口を軽く睨んだ。
鋭い視線を向けられて、彼は首を竦めて苦笑した。
「あのさ、日向。ツッキーは、要するに」
「言ったでしょ。何が入ってるか分からないものなんか、食べる気にもなれないって」
代わりに説明するよう指示を受けた山口だが、本題になかなか入ろうとしない。回りくどい説明を開始した彼に、月島はあっさりキレた。
物わかりの悪い奴にはストレートに言うしかないと嘆息を重ねて、心持ち早口に吐き捨てる。
身体を揺らして鞄を担ぎ直した彼を仰ぎ、それでも日向は分からないといった風に首を傾げた。
「なにがって、……だって、チョコレートだろ?」
「チョコレートじゃないものが入ってるかもしれない、って話なんだけど」
「あー……え?」
甘い菓子の中に入っている、なにか。普通に考えれば、砂糖や小麦粉といった食材が思い当たった。
だが嫌そうに顔を歪めた月島の表情からは、そういった類ではないと簡単に想像出来た。
それではいったい、何が入っているというのだろう。余計に分からなくなったと目を点にしたチームメイトを見下ろし、月島は面倒そうに首の後ろを掻いた。
「あんまり言いたくないけど、血とか、そういうの。聞いた事ない?」
そして声を潜め、周囲を窺いながら呟いた。
その辺に配慮する気持ちは、一応持ち合わせているらしい。だが彼の後を継いだ山口が、全て台無しにしてしまった。
「なんかねー、おまじないであるらしいよ。チョコレートに自分の血を混ぜたら、両思いになれる、とかっていう」
「うぎゃあ!」
大柄な幼馴染みの横からひょこっと顔を出し、深く考えもせずに大きな声で言う。それを聞いた日向が驚いて悲鳴を上げたものだから、一瞬の騒ぎに周囲は何事かとざわついた。
中には盛大に振り向いた生徒もいて、集まった注目に月島は舌打ちした。
「山口、黙れよ」
「ゴメン、ツッキー」
素早くチームメイトを叱り、少しだけ早足になって廊下を突き進む。階段が目の前に迫り、雑踏は遠くなった。
吃驚した所為で遅れを取った日向も慌てて後を追い、見上げなければならない背中を見詰めて顰め面を作った。
「そんなの、あるんだ」
「さあね。本当かどうかは知らないけど、確かめる方法なんてないでしょ」
月島が見たのは、ネットに流布する噂話だ。
そういうものは大体、悪意のある人間が面白半分に作った話を流しているだけに過ぎない。けれど中には、真に受ける女子がいるかもしれない。
僅かな望みを繋ぐ為に、彼女たちは必死だ。両思いになれる魔法があると聞けば、非常識だとしても実行に移す可能性は否定出来なかった。
「中には、自分の経血を混ぜるってのもあるらしいし」
「まるで黒魔法だよね、ツッキー」
想像するだけで恐ろしく、背筋が凍えた。寒気を覚えて身震いした月島の弁に、日向は緩慢に頷いた。
そして眉を顰め、首を右に倒した。
「ケーケツ、って?」
聞き慣れない単語の意味が分からず、率直に訊き返す。途端に眼鏡の青年はぎょっとして、痛むこめかみに指を置いた。
「君さ、保健の授業もちゃんと受けなよ」
「なんの関係があんのさ」
「山口、パス」
「えええっ」
まさかそこを追求されるとは、流石の彼も予想していなかった。あまりの頭の悪さに練習前から疲れを覚え、月島は隣を行く同級生の肩をぽん、と叩いた。
その山口としても、よもや此処でボールを託されるとは夢にも思っていなかった。日向からは期待の眼差しを向けられて、彼は真っ赤になって首をぶんぶん振り回した。
そんな言葉、とても此処では説明出来ない。近くにはスカートを履いた女子も大勢居る。もし彼女らに聞かれでもしたら、変態の烙印を押されるのは間違い無かった。
「ヤダって。ツッキーってば、酷いよ」
だから絶対に言わないと態度で示し、頬を膨らませて水を向けて来た月島に怒りを露わにする。握り拳を振り回す彼に、置いてけぼりを食らった日向はきょとんと目を丸くした。
待っていても返答は得られそうになかった。ただ彼らの口ぶりから、およそ食べ物には分類されない物、というのだけはなんとなく想像が付いた。
ふたりの態度からして、あまり大っぴらに話題に出せるものでもなさそうだ。深い追求は諦めて、彼は改めて月島の鞄を見た。
歪に膨らんでいる外見からも、結構な量を貰ったのが分かった。
翻って、自分はどうか。今日一日を振り返り、彼はトホホと肩を落とした。
クラスの女子から義理だと宣告された上で、十円程度で売られている小さなものをいくつか貰いはした。あとは昨日のうちに、母と妹の共同名義という形でチョコレートケーキを貰った。
それらはとっくに胃袋の中だ。ほかに貰えそうな宛といえば、排球部のマネージャーくらいだ。
月島に比べて格段に薄い鞄を揺らし、溜息を吐いて天井を仰ぐ。階段の踊り場を抜けて一階の昇降口へ向かう足取りは、いつにも増して重かった。
「つーか、そういうの……入ってなくても、ダメなのか?」
「なに。まだ続き?」
今にも消え入りそうな弱々しい声に、月島は立ち止まって柳眉を顰めた。
その話はもう終わったとばかり思っていた。だのにまだ引っ張られて、彼は迷惑そうに眼鏡を押し上げた。
冷たい眼差しが突き刺さり、上手く言葉が出て来ない。訊き返されて口籠もり、日向は顔を背けて鞄を握り締めた。
柔らかい布製の底を掴めば、内側に隠した袋の感触が肌に伝わって来た。
教科書とも、ノートとも、ましてや弁当箱や筆入れとも違う。今日だけ特別に潜ませて来たそれを潰さないよう抱え持っていたら、何かを気取り、月島が嗚呼、と頷いた。
気のせいか、その口元は意地悪く歪んで見えた。
「そういうことね」
「ツッキー?」
突然訳知り顔で首肯して、右手を腰に据える。いきなり雰囲気が変わった彼に驚き、山口は怪訝に首を傾げた。
けれど彼は向けられた視線を無視し、一段上に取り残されていたチームメイトに不遜に微笑みかけた。
「作って来たんだ?」
「うっ」
「で、まだ渡してない、と」
「なな、なっ、なんで分か……うぎゃ!」
少々上がり気味のトーンで質問を繰り返され、返事をするうちに日向は突然伸び上がった。まるで猫のように全身の毛を逆立てて、熟した林檎よりも顔を赤く染めて口をぱくぱくさせる。
顔から火が出る勢いの彼に堪えきれず噴き出して、月島は左手で口元を覆い隠した。
山口は何がなんだかさっぱり分からず、チームメイトふたりの顔を交互に見比べた。頭の上には大量のクエスチョンマークが生えて、跳ねている髪ひと房をなぎ倒した。
「ツッキー……?」
自分も仲間に入れて欲しいと強請るが、相手にして貰えない。それでも食い下がって袖を引っ張っていたら、気付いた月島が呆れ混じりに嘆息した。
冷たい眼差しと共に肩を竦められ、彼はしょんぼり頭を垂れた。
また、真っ赤になっていた日向もやり場のない羞恥を爆発させ、哀しそうに目を伏した。
「そーゆーの、やっぱ、イヤ、なのかな」
感情の波が激しい彼の、気落ちした言葉は聞くに堪えない。項垂れてしょぼくれている日向翔陽など、月島もあまり見たくなかった。
そういう顔は似合わない。後で事情を知った誰かさんに怒鳴り込まれるのも面倒だと苦笑して、彼は右足をひとつ下の段に運んだ。
「さあね」
最中に視線も外し、背中を向けて囁く。投げやりとも取れるひと言に、けれど日向は大いに反応した。
ぱっと顔を上げ、少年は真意を探って目を見開いた。
「月島」
「僕はイヤだけど、全員がそうとは限らないでしょ」
先ほどの話は、あくまでも自分の主観。それに異物を混ぜ込む件だって、百人に一人あるか、無いかの確率だ。
世の中の大半の人は、常識あるものと信じたい。手作りの品を毛嫌いする人もいるが、そうでない人間だって、勿論大勢居る。
悪い方にばかり考えて、物事を捉えようとするのは勿体ない。第一日向は楽観論者であり、常に前向き、前のめりだ。
そして月島が思い浮かべる人物も、細かい事を気にしないタイプだ。
この後の展開を予測して、彼はふっ、と笑った。
誰にも見られていないところで顔を綻ばせ、随分お人好しになったものだと自分に愚痴をこぼす。だが意外にも、そんな己の変化があまり不快ではなかった。
「ぐだぐだ悩むより、本人に聞いてみれば?」
最後の一段を下り終えて振り返り、告げる。踊り場から殆ど動いていなかった少年は途端にはっと息を呑み、雷に打たれたかのように全身を戦慄かせた。
鞄からずり落ちた両手を強く握り締め、彼はぶるりと震えた後、鼻息荒く、力強く頷いた。
「そうする!」
言うが早いか駆け出して、小柄な体躯はあっという間に階段から走り去ってしまった。
突風をその場に残していなくなった日向を呆然と見送って、完全に蚊帳の外だった山口は慌てた足取りで月島を追いかけた。
横に滑り込み、もう見えない背中を探して目を凝らす。背伸びまでしている幼馴染みに苦笑して、月島は昇降口へ向かうべく、義務的に足を動かした。
「日向、なんだったの?」
「アレでしょ。どうせ、王様に渡そうと思って作って来てたんじゃない?」
「ああ、なんだ。そういう事か~」
憶測でしかないけれど、それしか考えつかなかった。
山口も瞬時に納得し、同意して深く頷く。そしてこれから部室で起きるだろう騒動に思いを巡らし、楽しそうに微笑んだ。
烏野高校男子排球部のセッターと、小さなミドルブロッカーが懇意にしているというのは、部内では最早知らぬ者など居ない事実だった。
本人達も、最近では隠そうとしなくなっていた。大っぴらに体育館でいちゃついて、新部長やコーチから怒鳴られるのも日常茶飯事だった。
「影山だったら、日向が作った奴なら血入りでも大喜びで食べそうだよね」
「本気であり得そうだからやめてくれる?」
「ゴメン」
特に影山の方は日向への独占欲が酷く、そして依存度も高かった。病的に彼を好いており、山口が冗談めかして言った内容も、本気で遣りかねない面があった。
そんな性格に一部難ありな男だけれど、セッターとしては非常に優秀で、プレイヤーとしては一流だ。コートの中に立った時と外に居るときの落差を思い出してげんなりし、月島は事の顛末を観察すべく、早足に廊下を突き進んだ。
「塩入り、とかが一番楽しいんだけど」
「あはは。ありそ~」
おっちょこちょいで慌て者の日向だから、何かをチョコレートに混ぜるとしたら、その辺が妥当だろう。そしてそういう展開が、見る側も笑えて幸せになれるというものだ。
影山には悪いが、練習中に惚気られるのはとても鬱陶しい。ここはひとつ、日向お手製激マズチョコレートを期待して、ふたりは急ぎ、部室へ向かった。
2014/02/09 脱稿