思遣

「はあ……」
 口を開けば、溜息が勝手に零れ落ちた。
 カレンダーを見て憂鬱な気分になるなど、夢にも思わなかった。いや、現実には過去に数え切れないくらい、気落ちしては深く項垂れて、泣きたくなるのを懸命に堪えて過ごして来のだが。
 ともあれ、悩ましくてならない。再度壁に吊した大判のカレンダーを眺め、沢田綱吉は力なく肩を落とした。
 他よりも日数が圧倒的に少ない今月の、ほぼ真ん中に位置するその日を思うと、胃がきりきりと痛んだ。考えるだけで足がふらふらして、ベッドに突っ伏して眠ってしまいたくなるくらいだった。
「どうしよう」
 これまでにどれくらい、この日の為に思い悩み、苦悶し、妙案を求めて奔走したか分からない。慣れない読書に励み、インターネットを駆使して情報を集め、一年でたった一日の為だけに、無駄とも思える努力を多々積み重ねて来た。
 去年も頑張った。一昨年も、必死にやり遂げた。その前の年も、その前も同様だ。
 そうやって繰り返して来た、バレンタイン。元々は女性が意中の男性にチョコレートを贈るイベントだったものが、同性を含め贈る相手を選ばなくなったのはつい最近の事だ。
 もっとも感謝と愛情を込めて贈る、という本質は変わっていない。愛しい恋人を喜ばせたくて、少ない時間を使って懸命に取り組む姿は好感に値した。
 伝わっていると思っていた。喜んで貰えると信じて、毎年、毎年、綱吉は真心を込めて頑張って来た。
 だのに最近、どうにも反応が鈍い。
 綱吉が費やした時間に対し、相手から寄越される感謝の度合いが年々、下がっている気がした。
 そしてふと、思ってしまった。
 これって、遣る意味があるんだろうか、と。
「そりゃさー、俺も調子に乗ってたけどさー」
 年に一度きりのイベント、という煽り文句に踊らされていた傾向は確かにあった。周囲に流されやすい自覚はあるし、みんながやっているのだから自分も、という風に安易に思い込んでいたのは否定しない。
 そしていつの間にか、やって当たり前、という風潮になっていた。
「どうしよ」
 二十一世紀に入って既に四半世紀が過ぎようとしているこのご時世であっても、二月に入れば商店はバレンタイン一色だった。
 他に無いのか、と笑いたくなるくらいに街は赤色、もしくはピンク一色に染まり、甘ったるいラブソングがスピーカーで花を咲かせていた。女性は滅多に手に入らない高級チョコレートを買い漁り、男性は昔ほど、十四日に貰えるチョコレートの数を気にしなくなった。
 それでも貰えれば嬉しいし、当日になるまでそわそわする気持ちは抑えきれない。
 綱吉も、一応貰える宛てはあった。そして渡す相手も、ちゃんと存在した。
 問題なのは、その渡す相手だ。
「ヒバリさん、リアクション薄いんだもんなあ」
 声に出すと余計に強く意識させられて、綱吉は益々落ち込んで背中を丸めた。
 そのまま前のめりになり、頭を壁に押しつける。目を瞑れば今し方名を口にした男が、偉そうにふんぞり返って現れた。
 黒髪は艶やかで、切れ長の瞳もまた漆黒。端正な顔立ちは年を経る事に凛々しさを増し、無駄な肉が削ぎ落とされた肉体はギリシャ彫刻を思わせた。
 荒々しかった性格は洗練され、落ち着いた分、却って鋭さを増した。観察眼は相変わらず素晴らしく、自分にも、他人にも一切の妥協を許さない。
 誰よりも強く、誰よりも孤高。
 簡単に触れられない高みに佇み、天辺から人々を見下ろしている。そんな彼の視線に並びたくて、綱吉はきっと、背伸びをし過ぎたのだ。
 目出度く恋人同士になった後も、緊張感は常にあった。大事にされているとは感じるけれど、一寸でも手を抜けば簡単に切り捨てられてしまう、そんな雰囲気があった。
 ちらりと横を見れば、まだ厚みのあるカレンダーが、人の気も知らないで暢気にぶら下がっていた。
 いつもならこの時期、当日に向けて準備に忙しくしていた。仕事の合間を縫って試作に精を出し、時に周囲を巻き込んで、大騒ぎを繰り広げていたのに。
 今年はそんな事もなく、綱吉の執務室はとても静かだった。
 余所事に時間を費やしたりもしないので、仕事の進みは非常にスムーズだった。それが逆に側近の不安を招き、今年はどんな事をするのかと、気を利かせた部下達から何度も聞かれた。
 関わり合いの薄い人たちには笑って誤魔化したが、右腕である獄寺には嘘をつけない。正直に困っているのだと告白したら、人の心を深読みし、彼は任せろと胸を叩いて走っていった。
 恐らく今頃、書庫の文献を必死に漁っているに違い無い。以前の、中学時代の彼ならば、アイツの為に十代目がそこまでしなくても、と言っただろうに。
 年月は良くも悪くも人を変える。昔ほど荒々しさが無くなった右腕に肩を竦め、綱吉はのっそり身を起こした。
 壁に寄りかかっていた分だけ、前髪が変に凹んでいた。それを手櫛で簡単に直し、彼は右足を引いて身体を反転させた。
 反対側の壁には暖炉、右側には横幅が広い執務机。左には豪奢な応接セットが置かれ、天井からはシャンデリアがぶら下がっていた。
 こんなに豪勢な調度品で揃えなくても良いと思うのだが、マフィアのボスは貫禄が大事だ。安物ばかりを使っていると足下を見られてしまうと言ったのは、極悪無比の家庭教師だったか。
 彼が現れたお陰で、人生の設計図が大幅に書き換えられてしまった。だが振り返って総括してみれば、案外悪いものではなかったと思えるから不思議だ。
 どんな生き方であれ、辛いことや哀しい事、嫌な事は相応に起きる。そういったマイナスな面ばかりを顧みるくらいなら、困難を克服する際に手を差し伸べてくれる仲間が大勢出来た、その事実に目を向けたかった。
「うーん」
 その中でも最たる男の袖を脳内で引っ張って、綱吉は半眼して唸った。
「なんでバレンタインなんて、あるんだろ」
 二月十四日のそのイベントが、十代の頃は楽しみで仕方がなかった。
 ところが成人し、それなりに年数を重ねた今、気がつけばバレンタインが苦痛になっていた。
 貰えないから云々ではない。逆だ。渡さなければいけないから、困っていた。
 お金がなかった学生時代は、安い既製品を四苦八苦の末にプレゼントしていた。雲雀があまり甘い物を好きでないと分かってからは、あれこれ思案して、母の力も借りて、甘くないチョコレート菓子の作成に取り組んだ。
 それ以外にも、ホットドリンクにしてみたり、ホワイトチョコを使ってみたり。
 大人になってからは、単なる菓子ではなく、料理のアクセントに加える方法を模索した。
 お陰で変な方向に料理が上手くなった。中学時代は包丁を持つだけで手が震え、林檎ひとつ綺麗に切り分けられなかったというのに。
 愛の力は偉大だが、時に恐ろしい。リボーンにぞっこんだったビアンキの気持ちが、今なら少し理解出来た。
 兎に角、綱吉は去年まで、とても頑張っていた。雲雀に喜んで欲しいという一心で、寝る間を惜しみ、試行錯誤しながら当日に備えた。
 しかし今年は、違っていた。
「ヒバリさん、怒るかな」
 ぽつりと呟き、綱吉はよろよろ歩き出した。
 執務室の机ではなく、三人は楽に並べるソファにどっかり腰を下ろし、両足を伸ばす。柔らかなクッションに体重を預けると、優しい感触が全身を包み込んだ。
 まるで誰かに抱きしめられているようで、それだけで幸せな気分になった。高い品も時に悪くないと相好を崩して、彼はスイッチを入れなくても充分明るいシャンデリアを仰いだ。
 雲雀は、バレンタインを楽しみにしているだろうか。それが分からないのも、綱吉の心を不安定にさせる要因だった。
 現在綱吉はイタリアに、そして雲雀は日本に拠点を構えていた。部屋の窓を出入り口にしていた、あの頃にはもう戻れなかった。
 遠距離恋愛になってからは電話やメールのやり取りが主体になり、直接会って話をする機会は一気に減った。だから久しぶりに会う彼をもてなしたくて、必要以上に気合いを入れて頑張ってしまった。
 その結果が、これだ。
 要するに、ネタが尽きてしまったのだ。
 世界中のバレンタインエピソードを調べ、この時期に相応しい料理を探した。年を重ねる毎に手の込んだモノを作るようになって、そしてついに、これといったものが見つからなくなってしまった。
 既製品のチョコレートをリボンで不器用に飾り、それをプレゼントしていた頃が懐かしくてならない。ただ今更あの時代までランクを落とすのは、プライドが許さなかった。
 去年より印象に残り、且つ雲雀を喜ばせられるものはなにか。
 必死になって考えるけれど、どれだけ頭を捻っても、妙案は落ちてこなかった。
 いっそのこと、バレンタイン自体が無くなってしまえばいいのに。投げやりになって、綱吉は両手で顔を覆った。
「あと一週間しかないのに~」
 こうしてあれこれ憂いでいる間も、どんどん時間は過ぎていく。悩んでいる暇があるのなら仕事をしろ、とリボーンに見つかったら言われそうだが、綱吉にとって、これはマフィア業より遙かに大事な案件だった。
 それにこんな不安定な状態では、まともに職務がこなせるとは思えない。ミスすると分かっているのにやるくらいなら、落ち着くまで手を出さないのも一案だった。
 言い訳を脳内で繰り返して、綱吉はソファに預けた身体を傾けた。左に角度を持たせ、重力に従ってゆっくり身を沈める。横になって、後は目を閉じさえすれば簡単に眠れてしまえそうだった。
 夜中までうんうん唸って考え込んでいたものだから、睡眠時間が足りていなかった。獄寺が戻ってきた時に怒られる可能性は高いが、身体が休息を求めているのだから仕方がない。
 自堕落だった中学時代を振り返って苦笑して、綱吉は身体を丸めた。
「抹茶とホワイトチョコのケーキは前にやったし、カレーの隠し味ってのは捻りがないし。そもそもあの人、カレーなんか食べるの? チーズと一緒にハンバーグに入れたら殺されるかなあ……」
 思いつく限りのアイデアを声に出してみるものの、どれもピンと来なかった。最終的に雲雀の好物に縋ってみるが、出て来たのは人を選びそうな食べ物だった。
 そもそも雲雀は、味に敏感で、舌が肥えていた。綱吉が作ったものなら多少は妥協してくれるものの、彼は基本的に、不味いものには手を付けない。
 だからこそ、困っている。
 せめて食べ物に限定されていなければ、まだ策はあったのに。クリスマスのように品物も候補に加えられていたら、ここまで悩まされる事もなかった。
 いったい誰が、こんなイベントを計画し、実行し、流行らせたのだろう。お菓子会社の陰謀にまんまと嵌っている自分たちを、立案者は滑稽だと笑っているに違い無かった。
 チョコレートは綱吉も好きだが、このままでは見るのも嫌いになりそうだった。
 たかが菓子ひとつに踊らされ、七転八倒している。そんな自分が、どうしようもなく惨めだった。
 いや、そうではない。
 これしきの事で雲雀から見限られてしまうのではと、不安になってしまう自分が嫌だった。
 離れていても、会話は出来る。テレビ電話を使えば、映像だってリアルタイムで送れる。タイムラグは殆どなく、まるで目の前に彼が居る錯覚に陥る自然さだった。
 しかし触れる事は出来ない。熱を確かめる事も、匂いを感じる事も、息遣いを肌に浴びる事も叶わない。
 遠く海を隔てた、物理的な距離が恨めしかった。イタリアに渡ると決めた時、彼も一緒にと誘ったのに、速攻で断られたのが未だに尾を引いていた。
 あれからかもしれない。毎年やたらとイベントに力を入れて、大騒ぎするようになったのは。
 それで彼の愛情を確かめ、関係性を再確認していると言われたら、否定出来ない。まったくもって、その通りだった。
 まだ好きでいてくれているか。まだ愛してくれているか。
 飽きられていないか、忘れられていないか。求められているか、支えられているか。
 些細なことにさえビクビクして、距離を作っていたのは自分の方かもしれない。直接的な言葉でダメージを受けたくないから、遠回しに愛情を計っている。
 いつからこんなに、人に対して臆病になったのか。
「ちがう。ずっとだ」
 閉ざしていた瞼を持ち上げ、琥珀の眼を光に晒す。ぼそりと呟いて、綱吉は一気に身を起こした。
 眠るのは諦めた。どうやったって頭はぐるぐるするばかりで、とてもではないが落ち着いて寝ていられなかった。
 それに、眠気も綺麗さっぱり消え去ってしまった。
 綱吉は元々、とても臆病な性格だった。
 人に嫌われるのを嫌い、好かれたとしても裏があるのではと疑った。好意を寄せるに当たっても、自信が持てなくてなかなか口に出せなかった。雲雀に対する感情も、羨望なのか思慕なのか、長い間区別がつかなかったくらいだ。
 自慢出来る特技がひとつもなく、何を遣らせても失敗ばかりのダメ男。ダメダメの、ダメツナ。それが中学時代の沢田綱吉だった。
 卑屈さは、昔からだ。回り道したがるのも、なかなか結論に至れないのも、答えを探すのが下手なのも、生まれつきの性分だ。
 イベントに拘るのは、こんなにも貴方の為に尽くしていますよ、という意思表示。
 そしてここまでする程に、自分は貴方を愛していると。
 己の中に宿る感情を説明し、整理し、名前を与え、納得する為。
 形あるもの、或いは大袈裟過ぎる行動を伴わなければ、目に見えない、触れる事も容易では無い感情を保持し続けられない。生きるのにエネルギーが必要なように、思いを一定のレベルで維持するのにも、栄養分を注ぎ込んで情熱を傾け続けてやらなければならない。
 クリスマスの準備期間が短すぎて、本番が予想より簡素になってしまったのが、思えばずっと引っかかっていた。
 別れ際、見送りに出た空港で、雲雀は笑顔だったけれど、どこか物憂げだった。思い悩むところがあるのか、少しだけ注意力散漫だった。
 あれが魚の小骨のように喉に刺さり、隙を突いてちくちく痛んだ。忘れかけた時に限って必ず蘇って、悶々とした空気を振りまいて去っていった。
 楽しかった。二月も期待していると、そう言ってくれたなら、良かったのに。
 そうすれば綱吉はここまで煩悶とする事もなく、暢気に鼻歌を歌いながらキッチンに立てたのだ。
「なんか……全部めんどくさくなってきちゃった」
 頬を抓り、小さく愚痴を零す。自嘲気味に笑って呟き、綱吉は赤くなった肌を撫でた。
 最後にペちりと軽く叩いて、彼はシャツの上から胸に円を描いた。
 ぐるぐる回る、終わりのない渦を心臓の上に刻みつける。答えは出ない。だが今までと同じペースで走り続けるのは、きっともう、無理だ。
 雲雀の事は好きだ。この先、彼ほどに心を焦がす相手と巡り会えるとは到底思えなかった。
 しかし彼を昔のように好きで居続けられるかについては、疑問符を呈さなければならなかった。
「人を好きになるって、大変だなあ」
 小さな事に一喜一憂して、笑ったり、泣いたり、怒ったり。そうやって感情を爆発させる機会は、大人になるに連れてどんどん減っていった。
 ましてや今は、思いをぶつける相手と対峙するのさえ難しい。仕事に没頭していたら考えずに済んだので先延ばしにしていたが、誤魔化し続けるのも限界だった。
 一度、ちゃんと会って話をして、整理しなければいけない。
 その時期に来ているのだと痛感して、綱吉は天を仰いだ。
 両手で顔を覆い、ゆっくり下ろしながら一緒に姿勢を正す。背筋を伸ばして腕を脇に垂らす頃には、怠惰に溺れていた表情は消え、決意を秘めたボスの顔になっていた。
「日本って、何時だろ」
 イタリアとの時差を計算して、綱吉は時計を見た。
 壁に取り付けられた柱時計は年代物で、アンティークショップに持ち込んだら、さぞや素敵な値段が付く事だろう。もっともそうするには壁を壊さなければならないので、永遠にその日はやってこないのだが。
 歴代のボンゴレを見守り続けて来た物言わぬ貝の彫刻が、静かに綱吉の動向を見守っていた。
 すっかり慣れてしまった計算を終えて、大丈夫だろうと予測を付けてパソコンを立ち上げる。ボタンひとつで簡単に世界が繋がる世の中になったのだから、科学の進化というのは本当に不可解で、恐ろしかった。
 一分としないうちに、モニターに色鮮やかな景色が浮かび上がった。それはイタリアのとある田舎町の教会で、隣の墓地には朽ち果てる寸前の十字架が多数突き立てられていた。
 美しくも残酷な光景は、傲慢にならぬ為の戒めの意味を持つ。そして今は誰も訪れる事がない場所に、祈りを届ける為でもあった。
 歴史に埋没した哀しい事件を改めて胸に刻み、綱吉は画面に指を添えた。
 最近ではモニターですら、確固たる形を持たない。空中に投影された映像は、彼の指の動きを正確に捉えて反応を示した。
 ぱっと画面が明るくなったかと思えば、瞬時に映像が入れ替わった。まるでマジックだと笑って、綱吉は起動したソフトを爪で弾いた。
 ぽん、と空中を押しただけで、画面がまた変わった。本来なにも無い筈の場所を踊るように操作して、出現したアドレスから目当ての人物の名前を選び出す。
 一緒に表示される写真は酷く無愛想で、目は据わって怖いくらいだった。
「起きてるかな」
 出足からいきなり挫けそうになって、綱吉は頬を引き攣らせた。
 物言わぬ写真睨まれただけで心が折れそうになるなど、どれだけ怖がっているのか。負けるものかと笑い飛ばそうと試みるが、足は震えて、思うようにはいかなかった。
 仕方なく胸に手を添えて深呼吸して、彼は覚悟を決めてコールボタンを押した。
 これは音声のみでも、映像付きでも会話が可能なソフトだ。普段から自動的に映像も送るよう設定してあったのを修正して、綱吉はアナログな呼び出し音に息を呑んだ。
 これで繋がらなかったら、携帯電話の方を鳴らしてみよう。そちらもパソコンの操作で可能だと腹に力を込め、彼は長いようで短い時間をひたすら耐えた。
 心臓がバクバク言って、頭の中に引っ越して来たようだった。耳鳴りがして、無性に喉が渇いた。
 身体の中から水分が蒸発して、内側から乾いていく感じだった。このまま行けば、獄寺が調べ物を終えて戻って来る頃には、沢田綱吉という干物が完成しているに違い無い。
「……出ないな」
 早く応答して欲しい気持ちと、このまま一生繋がらなければ良いのにという気持ちが鬩ぎ合い、激しい鍔迫り合いを繰り広げていた。
 結論を先延ばしにして、自分を騙し続けるか。
 それともここですっぱり決着を付けるか。
 後回しにしたところで、バレンタインには雲雀がこちらに来る。到着時間の連絡はまだ来ていないが、毎年恒例になっているので、あちらも直前で良いと思っているのだろう。
 そんな風に何事も適当に、なあなあで済ませるようになってしまったのも、ショックだった。
 恋人同士とはいえ相手を尊重し、敬う気持ちは大事にしたかった。だのにいつの間にか馴れ合いが始まって、気遣いを忘れていた。
「ヒバリさん」
 十コールを過ぎたら諦めようと決めて、回数を数える。ズボンの襞を掻きながら指を折って、それが一周しようとした直前だった。
 悲痛な声が届いたのだろうか。
『つなよし?』
 それまで真っ暗だった画面が急に明るくなり、同時に耳慣れた声が耳朶を打った。
 掠れ気味の低いトーンにどきりとして、それだけで鼓動が跳ね上がった。知れず顔が赤くなり、火照った肌が妙にむず痒かった。
「あ、あの。もしかして、寝てましたか?」
 綱吉の手元の時計は、午後四時半を回った辺りを示していた。そして、イタリアと日本の時差は八時間。となれば並盛町にある時計は、夜の零時半過ぎを指している筈だ。
 雲雀は綱吉と違い、昔から睡眠時間が短くても平気だった。いつも夜遅くまで仕事に励み、朝早くから町内の見回りを欠かさなかった。
 その熱意は凄まじく、リボーンも度々彼を見習うよう言っていた。だが怠け癖が根付いていた綱吉に真似出来る訳が無く、そういう点も、彼に惹かれた一因になっていた。
 黒髪に寝癖は無かったが、声の調子でそう思った。肌色も悪く、疲れている様子が窺えた。
 けれど雲雀は質問にふっと笑って、首を横に振った。
『いいや?』
 予想は外れ、あっさり否定された。しかし笑いながら告げられたのが引っかかって、綱吉は違和感に眉を顰めた。
 具体的に何がどう、とは言えないのだが、気になった。隠し事をされているような気がして、次の言葉が上手く出て来なかった。
 話があったから電話をしたのに、なかなか切り出せない。至って普段通りの雲雀から立ち上る不自然さが不愉快で、本題を忘れそうになった。
『綱吉?』
 あちらも、喋り出さない彼を変に思ったようだ。音声オンリーで通話を求めて来たのにも、不信感を抱いている様子だった。
 名前を呼ばれても返事が出来なくて、綱吉はぐっと奥歯を噛み締めた。咥内にあった唾液を一気に飲み干して、胸に生じたモヤモヤしたものを懸命に抑え込む。
 こんな時に限って、超直感が仕事をした。いつも大して役に立たないくせに、必要無い時にばかり能力が発動して扱いに困る。
 嫌な感じだった。ここで彼に嘘を吐かれるのは、致命的な傷になりかねなかった。
 続けるべき言葉に迷い、唇を噛み締めて呻く。苦闘しているのが雰囲気だけで伝わったのか、黙り込んでいた雲雀が不意に口を開いた。
『もしかして、怒ってる?』
「え?」
『勝手なことしたって』
 そして控えめな音量で告げられて、綱吉は面食らった。
 怒るとしたら、彼の方ではないだろうか。夜中も良い時間帯に突然電話をかけてこられて、仕事かどうかは分からないが、作業を中断させられたのだから。
 そう思ってよくよく画面を見てみたら、雲雀の様子はいつもとかなり違っていた。
 普段着として着物を愛用し、仕事では黒のスーツが中心の彼が、珍しくラフな格好をしていた。下半身はカメラの範囲外なので分からないが、藤色のトレーナーを着て、長袖は肘のところまで捲り上げていた。
 しかもトレーナーは埃でも浴びたのか、白く汚れていた。
 掃除の最中だったのかもしれない。だがそういった細々としたことは、部下の草壁に任せる場合が殆どの彼だ。
 綱吉が知る雲雀と、電話越しの男がどうにも一致しない。不可解な齟齬に悩んでいたら、モニターの中の雲雀が口元を手で隠した。
 目線は逸らし、わざとらしく咳払いをする。頬は薄く紅を差し、表情は気まずげだった。
「ヒバリさん?」
『その、……やっぱり、難しいかい?』
 どうしてそんな顔をするのか、事情がさっぱり分からない。彼の発言も完全に意味不明で、綱吉は眉間に皺を寄せて画面に近付いた。
 もっとよく見ようと目を凝らして、半透明の男を視界の真ん中に置く。雲雀は姿が見えぬ綱吉をちらちら気にしながら、コホン、と彼らしくない咳をした。
 喉をなぞる指がいやに性的で、どきりとさせられた。数回の逡巡の末に開かれた唇はうっすら濡れて、ぞくぞくするくらいに卑猥だった。
「うわあ……」
 彼の姿を目にする事自体、随分久しぶりだった。
 クリスマス休暇が終わった後は、溜まっていた仕事を片付けるのに躍起だった。そうしているうちに二月が足音忍ばせ近付いて来て、ネタが尽きた現状にのたうち回っていた。
 準備がなにも出来ていないとは流石に言い出せず、うっかり口を滑らせるのを避けようと、連絡は控えていた。結果、思った以上に雲雀に飢えていたらしい。
 あれこれ難しく考えていたのが、まるで馬鹿みたいだ。もっとシンプルに生きるべきだと、綱吉は改めて強く実感した。
 矢張り自分は、彼が好きだ。一秒でも早く会いたい。直接会って、触れて、その熱を確かめたかった。
 こうなってくると電子処理された映像でしかない彼が逆に憎らしく、離れているのがもどかしくてならなかった。気持ち内股になって身を捩って、綱吉は内臓カメラを起動させるべく手を伸ばした。
 けれど指がそのボタンに触れるより先に、モニター上の雲雀が口火を切った。
『驚くかな、とは思ってたんだけどね。そうだね、君だって忙しいのは分かってたんだけど。もっとちゃんと確認してから、送れば良かったね』
 やや興奮気味に、早口に捲し立てられた。だがそれが何を意味しているのか、綱吉には依然不明なままだった。
 申し訳なさそうに告げられても、内容が全く理解出来ない。別人と会話しているのを横で聞いている気分に陥って、綱吉ははっと我に返り、瞬きを繰り返した。
「え、……えっと。ヒバリさん?」
『すまなかったね。チケットは、好きに処分してくれて構わないよ』
「いえ。あの……さっきから、その。なんの話、でしょう」
『え?』
 一方的に話を続け、ひとり勝手に納得してしまっている彼を慌てて引き留める。カメラの起動も忘れてぽかんとする綱吉に、雲雀も呆気にとられて目を丸くした。
 小さな画面の中で、雲雀が惚けた顔をした。何度も目をパチパチさせる彼がいっそ哀れで、綱吉は言わない方が良かったかと軽く後悔した。
 分からないなりに、話を合わせておけばよかったか。向こうからはこちらの顔が見えないので、表情で嘘がばれる事は無かったというのに。
 迂闊だった。ついつい先走ってしまった自分を頭の中で殴り飛ばして、彼はようやく、テレビ電話のボタンを押した。
 緑色のランプが別で点り、それまで沈黙していたレンズが収縮を開始した。自動的に焦点を合わせる機械を一瞥した彼を見て、雲雀は顔を覆っていた手を下ろした。
 そしてコトン、と首を右に傾がせた。
『来週の話じゃないの?』
「……すみません。なんのことだか」
 不思議そうに訊かれ、最早隠す義理もないと正直に告白する。両手を挙げて白旗を振った綱吉に、黒髪の青年は瞠目して息を呑んだ。
 またもや赤い顔をして、目を逸らされた。先ほどよりもずっと鮮やかな紅色を見せられて、綱吉までもが何故か赤面させられた。
「ご、ごめんなさい」
 昔の気持ちが蘇ったのか、反射的に身を竦ませる。弾みで飛び出た謝罪にかぶりを振って、雲雀は顔を覆ったまま苦笑した。
『もしかして、……そう。届いてない?』
 話が噛み合っていない理由を探り、訊かれた。綱吉は顔を顰めながら頷き、心当たりを探して視線を逸らした。
 日本からの荷物があるとは、特に知らされていない。もし雲雀から郵便物があったなら、獄寺がその日のうちに届けてくれているはずだ。
 今のところ、その様子は無かった。沈黙するドアを一瞥した綱吉をじっと見詰め、雲雀はやがて、長く深い溜息を吐いた。
 自分の早とちりだったと知らされて、表情は恥ずかしげだった。
『そう。なんだ、違うの』
 どこかほっとしたような、寂しそうな声で呟かれて、心に引っかかった。最初に感じた違和感が不意に戻って来て、綱吉は机に身を乗り出し、モニターに迫った。
 カメラが動き、近付いた彼をクローズアップしたのだろう。どアップを見せられた青年は相好を崩した。
 照れ笑いを浮かべられ、綱吉は逸る気持ちを堪えて口を開いた。
「ヒバリさん。あの、その荷物って、中身、聞いちゃダメですか」
 予感がした。きっと届くのを楽しみにすべきなのだろうが、待てそうになかった。
 クイズを聞く前に答えを強請るようなものだが、気持ちを抑えきれなかった。興奮気味に声を荒らげた恋人を見詰めて、雲雀は数秒の沈黙の末、仕方がないなと肩を竦めた。
『チケットだよ』
 正確には飛行機の、だ。
 イタリア発、日本行き。
 搭乗日は二月十三日だ。
 その片道切符と一緒に、手紙を添えたと彼は言った。封筒に入れて住所を書いて、切手を貼って国際便で出したのが一週間ほど前の事。
 だからそろそろ、綱吉の手元に着いている頃だ。
 昔は郵便事情が最悪だったが、最近は改善されつつあった。もっともメールを使えば一瞬で届くので、手間暇掛けて送る人は着実に減っていたが。
 どこかで迷子になっていなければ、そのうち城のポストに投函されるだろう。雲雀が電話に出たのも、郵便物が届いたから綱吉が連絡してきたと、そう思ったからだった。
 噛み合わなかった歯車がようやく綺麗に動き出した。それでか、と最初の違和感を振り返り、綱吉は鷹揚に頷いた。
「え、でも。なんで」
 そして疑問が一つ解決したところで、次の疑問が沸いて現れた。
 日本への搭乗券を雲雀が送って来たのは、何故か。まだ手元に来ていないチケットを想像し、綱吉は指で四角形を作った。
 横に長い長方形を空中に描いた彼に、雲雀は言い難そうに肩を竦めた。
『この前、ね。思ったんだ』
 クリスマス、綱吉は盛大に雲雀をもてなした。
 沢山の料理、シャンパンに、ワイン。甘くないプティングや、見事に飾り付けられたツリーと、立派なプレセピオ。そして選び抜かれたプレゼント。
 欠けるところがひとつとしてない、完璧なクリスマスパーティーだった。ファミリーも大勢集まって、朝方まで賑やかな時間が過ぎていった。
 本来は主賓であるべき綱吉は、来てくれた人たちを前に懸命に走り回っていた。必死に皆をもてなして、飽きさせないよう努力を忘れなかった。
 そうやって必死に働く綱吉を見て思ったのだと、彼は言った。
『最近、君に甘えてばかりだったし。だから今回は、僕が君をもてなそうと思ってね』
 バレンタインも年々豪勢になり、綱吉の苦労は増加の一途を辿っていた。
 だがそれでは、いつか疲れてしまう。燃え尽きて、力尽きて、身動きが取れなくなってしまう。
 それは嫌だと、雲雀ははっきり言った。
『……帰って来られそうかい?』
 その上で、彼は確かめるように静かに告げた。
 モニター越しに、目を覗き込まれた。心の奥深くを探られて、綱吉は全身に電流を走らせた。
 痙攣を起こした指を握り、彼は唇を引き結んだ。奥歯を噛み締めて息を止め、顎を引いて背筋を伸ばす。
 仰々しく畏まった上で首を縦に降った綱吉を見て、雲雀は一呼吸置いて目尻を下げた。
「絶対。帰ります」
『あまり期待しないで欲しいな。僕は君ほど、料理は得意じゃないからね』
「そんなことないですよ」
 着慣れないトレーナー姿なのも、白い粉まみれなのも、全てはそういう裏事情があったから。恐らく彼は電話が鳴るまで、風紀財団の台所を占領していたに違い無い。
 いったいどんなものが出て来るのか、今からワクワクが止まらなかった。
 本当に、難しく考える事などなかった。雲雀も雲雀で、ちゃんと綱吉の事を見て、感じて、動いてくれていた。
 勝手な思い込みだけで突っ走らなくて良かった。心底そう思えて、涙が出そうだった。
『綱吉?』
「いえ、違います。ちょっと埃が、入っちゃって」
 目頭が熱くなり、溢れ出そうになったのを寸前で押し戻す。目元を拭った彼を見て、雲雀が僅かに声を高くした。
 これくらいの嘘なら、許されても良い筈だ。心の中で言い訳をして、綱吉は照れ臭そうにはにかんだ。
「ヒバリさん」
『うん?』
「ありがとうございます」
 彼が好きで本当に良かった。
 心から呟かれた言葉に、雲雀は一瞬眉を顰めた後、力を抜いて微笑んだ。
『どういたしまして』

2014/02/02 脱稿