白藍

 それは一時間目の授業が終わり、二時間目が始まるまでの短い休み時間のことだった。
 三組の教室に、日向が姿を現した。
「かげやまー!」
 前方のドアから身を乗り出し、中に居るかどうかも確かめぬまま声を張り上げる。口元に右手を添えた小柄な少年に、居合わせた多くの学生が驚き、顔を上げた。
 呼ばれた当人もはっとして背筋を伸ばし、広げていた教科書を慌てて閉じた。
 数分前に終わったばかりの授業を振り返り、軽く復習していたところだった。それは別段おかしい事ではなく、疚しいことでもないというのに、何故だか人に知られるのが妙に気恥ずかしかった。
 しかもそれが、良く知る相手ならば尚更に。
 見咎められる前にテキストを机の引き出しに隠して、影山はゆっくり椅子を引いた。
 けれど立ち上がるより早く、日向の方が近付いて来た。
 呼びかけに返事はなかったが、反応があったのは向こうから見ていても分かる。慌ただしく動いているコート上の王様に目を眇め、彼は教室に散らばる生徒や、机を巧みに避けて足を進めた。
 余所のクラスだというのに、遠慮の欠片もない。集まる奇異の眼差しにも臆することなく、日向はあっさり影山の前に移動した。
 立とうと中腰になっていた彼は仕方なく肩を落とし、同時に力を抜いて椅子に座り直した。
 四本の脚が床を擦り、ガリガリ音を立てた。しかし周囲が騒がしい所為か、それはあまり響かなかった。
 振動を尻で受け止めて、影山は意気揚々と現れたチームメイトを怪訝に見上げた。
 身長百八十センチ少々の彼からすれば、そこから十センチ以上も背が低い日向は見下ろすべき存在だった。けれど今は座っているので、立場は逆転していた。
 慣れない状況もあって、眉間の皺が深くなった。子供が泣き出しそうな顰め面を作るが、日向は飄々と受け流し、屈託なく笑った。
「なー、影山」
「ンだよ」
 ようやく訪ねてきた要件に入った彼に、影山はつっけんどんに返した。
 長い脚を組もうにも、机が邪魔になって上手くいかない。仕方なく前方に投げ出して、頬杖をつく。
 そんな失礼な態度も意に介さず、日向は綿帽子のような髪の毛を左右に揺らした。
 小さな手を胸の前で結びあわせて、彼は可愛らしく、少女のように小首を傾がせた。
「消しゴム、貸して?」
 絶妙な角度を披露し、甘えた声で強請る。本当に十六歳かと疑いたくなるボーイソプラノで告げられて、影山はうっかり、分かった、と頷きそうになった。
 深く考えもせず、反射的に首を縦に振ろうとした。それを本能がギリギリのところで押し留めて、火花散る鍔迫り合いに彼はハッ、と荒い息を吐いた。
 大量の汗が噴き出して、爆音を奏でた心臓に眩暈がした。
 内臓を鷲掴みされた錯覚に瞠目し、茶目っ気たっぷりに返事を待つ少年を仰ぎ見る。屈託なく笑いかけるその姿は、汗臭さとは無縁のところにあった。
 自分というものをよく理解し、有効な使い方を熟知している顔だった。
 体育館で一心不乱にボールを追いかけて、凄まじい集中力を発揮している貌とはまるで違う。別人のようだと正直に認め、影山はどっと押し寄せて来た疲れに肩を竦めた。
「ちょっと待て」
 危うく引っかかるところだった。嘆息し、彼は黒髪を掻き上げた。
 無条件に承諾して、後で痛い目を見るのは御免だ。熟考する時間を要求して、影山は指を解いた日向を睨みつけた。
 強い眼光を受け止めて、小柄な少年は両手を後ろに回した。
「貸してくんねーの?」
「貸すもなにも……テメーは、いつ返しに来るつもりだ?」
「おぉう」
 軽く身を捩り、爪先で床を蹴る。鋭い質問にさっと目を逸らし、日向は意味不明な呻き声を上げた。
 よもやそこに突っ込まれるとは、思ってもいなかった様子だった。
 仰け反り気味に横向いた彼にため息を追加して、影山は椅子の背凭れに寄り掛かった。ただでさえ邪魔な脚を思い切り前方に投げ出して、滑り落ちない程度にバランスを確保して爪先をぶらぶら揺らす。
 指先をズボンのポケットに押し込んだ彼を盗み見て、日向は観念したかのように肩を落とした。
「だってさー。筆箱忘れて来たんだもん」
「知るか」
「いいだろー、一個くらい。ケチ」
「誰がケチだ、誰が」
 上手く切り抜けられると思っていたのに、影山は意外に聡かった。がっかりしながら詰られて、影山はかっとなって声を荒らげた。
 椅子をがたごと言わせて背筋を伸ばし、勝手なことを口にしたチームメイトを叱り飛ばす。それでも日向は不満そうで、タコのように唇を尖らせた。
 人を騙そうとしていたのに、反省の色が全く見えない。イライラした影山は拳を作り、頭上高くに掲げた。
 殴られそうになってやっと自分の罪を把握したか、日向はさっと後退すると、無人の机に浅く腰かけた。
 この数か月で少し太くなった腿に両手を転がして、彼は面白くなさそうに身体を揺らした。
「ぶー」
「忘れる方が悪い」
「けちー」
「つか、俺だって消しゴム一個しか持ってねえっての」
 ハリセンボンを真似て頬を膨らませて抗議するが、影山の態度は冷たかった。
 すげなくあしらわれ、あまつさえまた怒鳴られた。日向はムスっとしたまま足を交互に蹴り出し、床に飛び降りて影山に歩み寄った。
 両手を机の端に置き、その上に顎を乗せて膝を折る。屈まれて、目線の高さが逆転した。
 近い距離から見上げられて、影山はうっ、と息を呑んだ。
 拗ね顔で睨んでくる、その表情が実にあざとい。膨れ面を向けられて、今度は影山がサッと目を逸らした。
「とにかく、消しゴムは貸せねえ。俺だって、なくなったら困んだよ」
「どーせ、ノートなんか取ってないくせに」
「最近は真面目に聞いてるわ!」
 鉛筆、もというシャープペンシルは、クラスの友人から借りれたのだろう。だが消しゴムまでは、誰も譲ってくれなかったようだ。
 ぼそぼそと小声で非難されて、沸点が低い影山は怒号を上げた。一緒に机の天板を殴りつけて、ドンッ、と大きな音が教室に轟いた。
 日向の顎も一ミリ弱、浮いた。思わずびくっとなって、彼は大きな目を丸く見開いた。
 凝視されて、影山はバツが悪そうに唇を噛んだ。
 期末試験が目前に迫り、部内の危機感は日増しに高まっていた。
 烏野高校ではテストで赤点を取ると、補習授業に参加しなければならなくなる決まりだった。その日程が、夏休みに敢行される合宿と、見事にかぶっているのだ。
 もし期末考査で赤点を連発しようものなら、当然の如く、東京遠征に参加出来ない。そしてその危険ライン上にいる日向と影山は、烏野高校男子排球部の主力メンバーだった。
 彼らがいると居ないとでは、チームの戦力は大違いだ。
 だから是が非でも、赤点を回避するよう言われていた。授業中は決して寝ないように通達されており、これを破ろうものなら後で何をされるか分かったものではない。
 鬼のように恐ろしい主将を思い浮かべ、影山は深くため息をついた。
「購買行きゃいいだろ」
 学内には、文房具を中心に、学生生活に必要なものを売る店があった。そこへ行けば、日向が望むものは楽に手に入る。勿論、相応の対価が必要ではあるが。
 とはいっても、それほど高くない。品質に拘らなければ、一個百円もしないだろう。
 しかしこの提案は、あっさり却下された。
「えー」
 至極嫌そうな顔をされ、影山は眉を顰めた。
 もしや消しゴム一個を買う金すらないのかと勘繰るが、雰囲気から違うと判断する。では何故、と怪訝にしていたら、しゃがんだまま腰を捩った日向が不服そうに呟いた。
「だって、おれ、消しゴム二個もいらねーもん」
「ざけんな」
「アダッ」
 ぽつりと零れ落ちた我儘に、我慢も限界だった。
 反射的に手が出ていた。影山は迷うことなく手刀を繰り出し、日向の脳天をかち割った。
 上からの一撃に、彼はくぐもった悲鳴を上げた。顎がガチッ、と痛い音を響かせて、間に挟まれた舌が真っ赤に腫れ上がった。
 もう少しで噛み千切るところだった。前歯が深く食い込んだ肉を空気に晒して、大口を開けた日向は涙目で鼻を愚図らせた。
 文句を言いたいが、痛みが酷過ぎて声すら出なかった。ひりひりする舌を伸ばして表面を冷やし、目尻に溜まった涙を一滴、頬に垂らす。
 ちょっと可愛そうだったかと一瞬だけ後悔して、影山は半泣きのチームメイトに舌打ちした。
 使用頻度にもよるが、消しゴム一個を使い切るのは結構な労力だ。下手をすれば一年間、買い直さずに済む。だから家で筆箱ごと忘れてきたのであれば、買い足すのを躊躇するのも頷けた。
 たかが百円、されど百円。少ない小遣いで遣り繰りする苦労は、影山も身に染みていた。
 バレーボール部の部費に、シャープペンシルの芯やノートといった文房具。母が持たせてくれる弁当だけではとても足りず、部活動の前後で毎日菓子等を貪り食ってもいる。
 練習着はすぐダメになるし、靴も摩耗すれば買い替えが必要だ。相談すれば親が援助してくれる部分もあるが、買い食いに関しては、小遣いから捻出するしかなかった。
 貰った直後の月初は大盤振る舞いだが、日が進むにつれて財布は萎んでいった。菓子のレベルも徐々にグレードダウンして、最終日などは十円で買えるチョコレートが数個、という状況だ。
 それでもまだ、自力で買えるだけマシな方だ。
 下手をすれば財布の中はスッカラカン。誰かに頭を下げて奢って貰うか、恵んでもらうしかない部員も中には存在した。
 目の前にいる日向が、その典型だった。
 小遣い帳など、勿論つけているわけがない。現在の所持金をきちんと把握もしないで、あればあるだけ使ってしまうのが、彼の常だ。
「いひゃひ……」
「一日くらい、我慢しろ」
「や~ら~」
 鼻声で呻く日向を一瞥し、影山は低い声で言った。その台詞を正しく理解しているのか否か、彼は駄々を捏ねて首を振った。
 歯形が薄ら残る舌も左右に揺らめかせて、耐え難い痛みをひっきりなしに訴える。もっともそんな場所に絆創膏を貼れるわけがなく、塗る薬も存在しないので、波が通り過ぎるのをじっと待つしかなかった。
 いっそ抓んで引っこ抜いてやろうかと、生意気盛りの唇を眺めていた影山は思った。
 実際、手が出る直前だった。ひりひりしている患部を空気に晒し続ける彼に利き手を伸ばそうとして、彼はすんでのところで我に返って赤面した。
 挙動不審な王様に眉間の皺を深め、日向はずび、と鼻を啜った。
 影山は右手を握ったり、広げたりして身を捩り、意味もなく腰を浮かせて居住まいを正した。夏服の襟を弄って、外していた第一ボタンを留め、息苦しさを感じてすぐに外しもする。
 落ち着きがない彼に日向は小首を傾げ、少しだけ痛みが引いた舌を戻して膝をついた。
 脱力して机にしな垂れかかり、深い溜息を連発させては人の気を誘う。良心に訴えて罪悪感を植え付けようという態度には騙されず、影山はもう一発、きちんと加減した拳を彼に叩きつけた。
「って」
 髪の毛が凹む程度の軽い一撃に、それでも日向は悲鳴を上げた。大袈裟に身体を上下に動かして、睨んでくるチームメイトに小さく舌を出す。
 まるで悪びれる様子がない彼に鈍痛を覚え、影山はこめかみに指を添えた。
「別になくても、ンな困んねーだろ」
「それがさー。意外と必要だったりするんだって」
 ここまで図々しいと、いっそ清々しい。一周回って開き直っている弁解には、笑うしかなかった。
 消しゴムで消さずとも、二重線なり、バツ印なりでマークしておけば、後から見た時も書き間違いだと分かる。ただノートが若干汚くなり、見辛くなるのは避けられない。
 新米マネージャーの谷地を見習い、少しでも綺麗な紙面を作ろうとしているようだが、やるだけ無駄だ。日向の字の汚さは、どんなにレイアウトを整えたところで誤魔化しきれない。
 ただ影山も、その点については人のことが言えなかった。筆圧が強くて太い自分の字を思い浮かべ、彼は出かかった言葉を飲み込んでため息にすり替えた。
 これで合計何回目の嘆息か、本人にも分からない。気難しい表情で俯くチームメイトを眺め、日向は窄めた口から息を吐いた。
 膨らんでいた頬を凹ませて、彼はスッと立ち上がった。
 噛んだ舌の痛みは、もうかなり薄れていた。休憩時間も残り僅かとなった今、決断は早いに越したことはなかった。
「日向?」
「いーや。山口に頼も」
 再び、見下ろされる格好になった。視線を浮かせた影山の前で、彼は明後日の方向を見ながら囁いた。
 同じ部に所属するミドルブロッカーの名に、影山の目が見開かれた。
「ちょ、おい」
「また後でな~」
 慌てて止めに入るが、日向は聞きもしない。ひらりと手を振られ、足を繰り出した彼に咄嗟に手を伸ばす。
 半袖シャツの裾を引っ掴んで、影山は椅子を蹴倒し立ち上がった。
 机に圧し掛かる形で前のめりになり、長い手足を存分に生かして引き留める。制服を引っ張られた方は吃驚し、後ろ向きにたたらを踏んだ。
 片足立ちで飛び跳ねて、日向は息が荒いチームメイトに眉を寄せた。
 制服を縫い合わせている糸が千切れる、そんな音がした。
 実際には破れても、穴が開いてもいなかったが、何度か繰り返していたらきっとボロボロになってしまう。噴き出た冷や汗を拭い、日向はホッと胸を撫で下ろした。
 影山が指を解いた。白いシャツが解放されて、ゆっくり皺を伸ばして沈んでいった。
 行く末を途中まで見送って、乱れた呼吸を整え後方に向き直る。影山は中腰のまま机の引き出しに手を入れ、何かを取り出していた。
 机の上に、乱暴に放り出されたそれ。天地を逆にして転がったのは、布製のペンケースだった。
 あまり量が入るサイズではなく、必要最低限、ペンが数本と消しゴム程度が入ればいっぱいになるデザインだ。実際、縦に長いファスナーが開かれると、出てきたのはシャープペンシル一本に赤色のペン、そして角がすり減った消しゴムだけだった。
 蛍光ペンもなければ、黒のボールペンもない。余分なものを持ち歩きたくない心の表れか、内容は非常にシンプルだった。
 あまりの潔さに閉口する日向を余所に、影山は黒ずみが目立つ消しゴムを拾い、右手の中でくるくる回転させた。
 専用のケースは既に取り払われ、影も形もなかった。角はいずれも丸みを帯びて、尖っている部分は残されていなかった。
 最も長い部分で、三センチ少々あるだろうか。新品時の形状を辛うじてそこに残した消しゴムを握り直して、彼は何かを探し、親指を立てた。
「影山?」
 いきなり引き留められて面食らったが、どうやら貸してくれるわけではないらしい。あれだけ渋っていたのだから当然と言えば当然なのだが、自慢げに見せびらかすだけなら、さっさと開放して欲しかった。
 タイムリミットは刻々と迫っていた。
 このままでは四組を覗く前に、チャイムが鳴ってしまう。次の時間も消しゴム抜きで、写し間違えないよう気を配しながら授業を受けるのは、出来るなら避けたかった。
 ミスを恐れて逆に手間取り、そちらに集中し過ぎて教師の言葉を聞きそびれるなど、本末転倒も良いところだ。けれど現実問題、先ほどはそういう憂き目に遭わされた。
 たかが消しゴム、されど消しゴム。
 有るか無いか、たったこれだけで気もそぞろになってしまうなど、考えもしなかった。
「おれ、行くな」
「待てって」
 やきもきして足踏みしながら言うが、また止められた。影山は顔を上げもせず、手元に意識を集めていた。
 注意深く消しゴムの表面をなぞり、やがて短い爪を丸い角に衝き立てた。細長い物体の、真ん中よりやや右寄りの位置に狙いを定め、思い切りよくぐっと力を込める。
 途端に一ミリとなかった割れ目が広がって、白いゴムが三分の一まで裂けた。
「えっ」
 予期せぬ展開に日向は目を見張り、息を止めた。影山は気にせず親指を引っ込めると、残る手も使って柔らかい消しゴムを『く』の字に折り曲げた。
 ぱっくり開いた裂け目が一層広がって、ギザギザの断面が真ん中を通り越した。
 ひとつだったものが二つに別れるのに、ものの十秒とかからなかった。
 大きいのと、小さいのと。机の上に転がして、影山は満足げに頷いた。
「おら」
「え、あ。……おう」
 そのうち、小指大の方を差し出された。床に転がしたら一瞬で見失ってしまえそうなサイズの、歪な断面を持つ消しゴムを渡されて、日向は釈然としないまま手を広げた。
 受け取り、落とさないよう握りしめる。こんなに小さなものなのに、妙にずっしり重かった。
「えっと。サンキュ」
「次はねえぞ」
「分かってる」
 指の隙間から覗く白を見つめ、顔を上げて礼を言う。影山は目を合わせぬままぶっきらぼうに言い、やっと実感が沸いてきた日向は白い歯を見せて笑った。
 嬉しそうにはにかむ姿に、渦巻いていたもやっとした感情が消えていった。不思議と晴れやかな気分にドギマギしつつ、影山は机に残る細かい滓を払い除けた。
「へへ」
「ンだよ」
「もーらいっ」
 役目を終え、少しだけ背が縮んだ消しゴムを筆入れへ戻す。最中に聞こえた笑い声に反応すれば、日向が嬉しそうに首を竦め、踊るように飛び跳ねた。
 丁度、頭上でチャイムが鳴った。彼は空中で反転すると、ざわつく人ごみを躱して駆け出した。
「じゃーな!」
 扉を潜る直前、振り返って大きく手を振られた。相変わらず声が大きくて騒がしいチームメイトを呆然と見送って、影山は手元に残された、断面が生々しい消しゴムに苦笑した。
 無理矢理引き千切った所為で、凹凸が激しい。だがもう片方を重ねれば、驚くほどぴったり嵌るに違いなかった。
「まあ、いいか」
 なんだか自分たちのようだ。そんなことをふと考えて、影山はあまりのくすぐったさに顔を伏した。

2013/12/19 脱稿