Gomphocarpus physocarpusVII

 凛と透き通った空気を切り裂き、なるべく音を立てぬよう通路を突き抜ける。もう夜も遅い時間だけれど、等間隔で設置された照明のお陰もあり、道に迷うこともなかった。
 向かう先はフロアの最奥にある自宅だ。マンションの入り口でも使った鍵を手に、シンドバッドは息を弾ませた。
 あと少しで七月になるが、夜半ともあって少し肌寒い。上着を持って出て正解だったと、昼間は一切袖を通さなかった薄手のジャケットを撫で、彼は見えて来た扉に顔を綻ばせた。
「アリババ君はもう寝たかな」
 腕時計をちらりと見れば、午前一時を過ぎたところだった。
 通り過ぎた扉の向こうからも、物音は殆ど聞こえなかった。
 防音設備が整っているから、という理由もあろう。もっとも人が生活を送る気配というものは、どうやったところで外に漏れるものだ。けれど今はそういったものを、まるで感じなかった。
 人々は寝静まり、起きているのは獲物を狙う獣たちだけ。そんな想像を巡らせて、シンドバッドは肩を竦めた。
 コンクリートジャングルと化した都市部では、野生の肉食獣を探す方が難しかろう。世知辛いものだと苦笑して、彼は右手に持った鍵をくるりと回した。
 ロックを外し、ドアノブを掴んでそうっと回す。扉は力を加えた分だけ、彼の方に歩み寄った。
 チェーンは掛かっていなかった。道が開かれ、シンドバッドは安堵の息を漏らした。
「……えー、オホン」
 玄関の照明は、人の気配を感じて自動的にライトが灯る仕組みだった。
 ぱっと明るくなった頭上に頬を緩め、一畳ほどある靴脱ぎ場へいそいそと移動する。その上でわざとらしく咳払いをして、彼はしっくりこない喉を撫でた。
 微妙に緊張気味の表情で顔を上げ、薄暗い廊下の奥に目を凝らす。
「ただいま」
 呟きは低く、小さく、掠れていた。
 返事はなかった。待っても響いてこない。それは最初から分かっていたことだが、少し寂しかった。
 流石に、こんな遅くまで待ってはいまい。むしろまだ起きていたら、早く寝ろと叱らなければならない。
 嬉しさと切なさが混じりあった笑みを浮かべ、彼は手早く鍵を閉め、靴を脱いだ。
 右隅には少々草臥れ気味のスニーカーが、行儀よく揃えて置かれていた。その隣には通学用のローファーが、光を受けて艶を放っていた。
「そうか、月曜日だったな」
 早朝、家を出る時にはなかったものがあった。思い出して呟き、シンドバッドは靴下のまま廊下を歩き出した。
 鍵は靴入れの上に放置して、持っていた小振りの鞄は書斎兼寝室の前に転がす。道中に上着だけ脱いで、行き着いた先はキッチンだ。
 そこは廊下と違い、明るかった。
「あれ?」
 台所の照明は消えていたが、リビングの方はライトが煌々と照っていた。カーテンも半分開いたままで、光を受けたガラス窓が室内の景色を映し出していた。
 鏡の中の自分を見つめ、シンドバッドは呆然と立ち尽くした。
 力を失った腕が垂れ下がり、引っ掛けていた上着が床に落ちた。ふわりと空気を受けた綿ジャケットが爪先に覆いかぶさって、軽い衝撃にはっとした彼は慌ててそれを拾い上げた。
 後ろ襟を持ち、遠くを見る。無駄に広いリビングの奥には、これもまた不必要に大きなテレビが置かれていた。
 真っ黒い液晶画面は沈黙していた。冷え切った表面が光を反射し、その手前に設置された応接セットを見守っていた。
 三人掛けのソファを前に、少年が一人、座っていた。
 床に敷いたラグに直接腰を下ろし、脚の低いテーブルに寄り掛かっていた。右腕をまっすぐ伸ばし、左手を枕代わりに使っている。やや右に傾いだ体勢で、足は無防備に投げ出されていた。
 風呂上がりのままなのか、肩にはタオルが引っかかっていた。寝間着として使っている半袖のシャツに、膝丈のショートパンツを履いて、素足という格好はあまりにも薄着だった。
「アリババ君」
 つい先日まで、ひとりで暮していた広すぎるマンション。
 その一室に間借りする形で同居に至った少年に、シンドバッドは騒然となった。
 艶やかな金髪と、琥珀にも負けない輝きの瞳。同年代と比較するとやや小柄な体格ながら、幼少期から剣道をたしなんで、部でもレギュラーとして活躍している。
 シンドバッドの人生の師に当たるラシッド・サルージャが、老いらくの恋の末にこの世に迎え入れた子。
 その名を、アリババ・サルージャ。
 ラシッドが入院した為に、その間だけシンドバッドが預かることになった少年は、こんな夜更けにひとり、ベッドではなくリビングで寝こけていた。
 テーブルの上にはノートに辞書、それに筆記用具が転がっていた。どうやら勉強の途中で睡魔に負けて、眠ってしまったらしかった。
「おいおい」
 なにもこんな苦しい体勢で寝なくても良いのにと思うが、シンドバッド自身もこういう経験は、それこそ数えきれないくらい繰り返していた。
 論文執筆途中で眠ってしまい、気が付けば朝で焦った回数は、両手でも足りない。小説の締め切りを破ってしまって、真後ろから編集者に睨まれながらペンを走らせたことも、何度かあった。
 起きた時に辛いのに、ベッドに移動する手間を惜しんでしまう。アリババも放っておけば、体中の関節や筋肉が悲鳴を上げることになろう。
 それはあまりにも可愛そうで、シンドバッドは肩を竦めて苦笑した。
「アリババ君」
 キッチンの端から呼びかけるが、小声過ぎたのもあり、反応はなかった。
 寝るのには不向きな体勢ながら、熟睡して夢の中だ。涎まで垂らして、だらしない寝顔を晒していた。
 その無邪気な姿にクスリと笑みを零し、シンドバッドは足音を忍ばせてフローリングを進んだ。
 途中、何気なく見たキッチンカウンターには、ラップで覆われた皿がひとつ置かれていた。
 中身はサンドイッチだった。昼間に貰ったメールの件も思い出して首肯して、彼は手にした上着を左右に広げた。
 肩の部分を持って掲げ、忍び寄ったアリババの背中にそうっと被せてやる。本当は寝床に運んでやるのが一番良いのだろうが、動かすと起きてしまいそうで躊躇した。
 眠りの深さを測る意味合いも込めて、これ以上冷やさないよう、布団替わりにジャケットを羽織らせる。指先を離れた布はするりとアリババにすり寄って、長い袖がだらりと沈んだ。
「ん、ぅ……」
 なるべく眠りを邪魔しないように心掛けたつもりだが、完全ではなかったらしい。シンドバッドが息を殺して見守る中、アリババは身動ぎ、むずがって鼻を鳴らした。
 ただ、瞼は依然閉ざされたまま、動かなかった。
 ヒクヒク痙攣はしたが、それだけだった。宝石よりも眩い瞳が見られないのは残念だが、この状況では贅沢な望みだった。
「やれやれ」
 矢張り後で、ベッドに連れて行ってやろう。そう決めて、シンドバッドは冷や汗を拭った。
 無邪気に眠っている子供の頭をそうっと撫でて、彼はテーブルに放置されていたテキストを手に取った。
 どうやら英語の勉強中だったらしい。床に落ちていた消しゴムも拾って、シンドバッドはふむ、と頷いた。
「大変だな、学生ってやつも」
 アリババくらいの年齢の頃、自分はいったい、何をやっていただろう。
 不意に懐かしい記憶が蘇って、彼は初々しすぎる自身に苦笑した。
 当時は勉強が大嫌いで、学校もサボって毎日遊び惚けていた。粋がって、法に触れるギリギリのことにまで手を出していた。
 契機となったのは、ラシッドとの出会いだった。
 たまたま、その頃住んでいた場所の近くで遺跡が発掘された。現地説明会が開催されて、そこにやって来たのが彼だった。
 ラシッドは経済学が専門だが、その一方で考古学にも精通していた。彼の説明はとても分かり易く、理知に富み、教科書に書かれていることしか教えない学校の授業より、何十倍も面白かった。
 元々シンドバッドは、古いものが好きだった。小学生の頃は化石を発掘するのだと言って山に入り、迷子になって大人を振り回すような子供だった。
 以来アルバイトをして小金を稼いでは、あちこちを探検するようになった。発見済みの遺跡を掘るよりも、誰も知らない場所を探索して、埋もれてしまった文明を再び光の下に明らかにすることを夢見た。
 長期休暇には必ず海外に出向き、様々な国籍の、色々な研究者と交流を重ねた。飛び込みでやってくる若者に、偉大な先駆者たちは時に厳しく、時に優しく接してくれた。
 押しかけ弟子同然だったシンドバッドを、ラシッドも快く受け入れてくれた。
 彼が居なければ、シンドバッドは今頃どうなっていたか、分かったものではない。おそらくは大学にも進学せず、自堕落でつまらない一生を過ごしていたに違いなかった。
 奇しくも人を教え、導く立場に置かれた自分に苦笑し、閉じたテキストをアリババの傍に戻す。ついでに身を屈め、彼は気持ちよく寝入っている少年に顔を寄せた。
「ただいま、アリババ君」
 安眠を妨害しない音量で囁いて、そっと、唇で毛先に触れる。そのキスとも呼べない愛撫にひとり照れて、彼は慌てて身を引いた。
 これくらい、昔はよくやったものなのに、何故だか妙に気恥ずかしかった。
 アリババはまだ小学校に上がるかどうか、という年頃で、シンドバッドはまだ学生だった。
 ひとりで眠るのが怖いという彼の為に、寝物語を作った。それがベストセラーにもなった、冒険書の原型だ。
 アリババはこの創作話をとても気に入ってくれて、ラシッドの耳にも当然のように入った。そこから彼の知り合いだった出版関係の人間に伝わり、紆余曲折を経て出版に至った。
 シンドバッドとしては、学者として未熟だったうちに、作家として名前が世に広まってしまったのが少々不満だった。まだ駆け出しの研究者だったのに周囲からは『先生』と呼ばれ、サイン会やら続刊の原稿やらで、本来の仕事が疎かになってしまったのも気に食わなかった。
 今はやっと落ち着いて、静かな生活が戻ってきていた。そこに来て、ラシッドが倒れたという知らせが飛び込んできた。
 ようやく恩返しが出来ると思っていた矢先だっただけに、ショックだった。
 けれどアリババに不安な顔は見せられない。
 母と死に別れた直後の彼はとても儚げで、簡単に壊れてしまいそうな脆さを呈していた。時間をかけて古傷を癒して来たのに、またあの頃と同じに戻ってしまうのではと危惧して、とても心配だった。
 今のところ、それは杞憂に終わっている。ただ隠しているだけかもしれないと考えると、気が抜けなかった。
 ラシッドから、くれぐれもアリババをよろしく、と頼まれている。闘病中の彼を安心させる為にも、今まで以上に注意を払う必要があった。
 とはいえ、シンドバッドにも仕事がある。今週はずっとアリババを優先させて来たが、明日からはそうもいかない。
 現に日曜は終日、大学にカンヅメだった。
 折角アリババが訪ねてきてくれたというのに、ジャーファルは鬼だ。ちょっとくらい休憩がてら、会いに行かせてくれたって良いだろうに。
 朝に比べて本数が減った気がする髪を撫で、シンドバッドは嘆息した。
 静かにアリババの傍から離れ、カーテンを閉めた後にカウンターへ向かう。流し台で手を洗って、彼は昨日追加されたばかりの水切り棚からコップを引き抜いた。
 網の上で逆さを向いていたものを取り、振り返って冷蔵庫のドアを開ける。ややオレンジがかった光の中には、大量の食材が並べられていた。
 いずれも、先週までなら考えられなかった光景だった。
 扉側のポケットから縦長のボトルを取り、肩を竦める。見たこともない調味料を揺らしてドアを閉めて、シンドバッドは冷えた水で喉を潤した。
 本当はビールで一杯やりたいところだが、今飲むと目が冴えて、朝まで眠れなくなりそうだった。
 空にしたばかりのコップに再度水を注ぎ、ちびちび唇を湿らせながらキッチンカウンターへ手を伸ばす。皿を掴んで引き寄せたら、下になにか挟まっていた。
 ひらりと宙を舞った紙切れに眉を顰め、彼は飛んでいきそうになったそれを空中で捕まえた。
「なになに。お……」
 手のひらサイズのメモ用紙は、手帳の切れ端だった。定規を当てて切ったのか、一部がギザギザのその表面には、丸みを帯びた字が躍っていた。
 目にした瞬間読み終えてしまえる文章を前に、シンドバッドは声に出して読み上げるのをやめた。自然と赤くなる顔を持て余し、カーッと内側からあふれ出した熱に頬を染めて口をもごもごさせる。
 紙面には男子高校生にしては少々可愛らしすぎる字体で、短く。
 おかえりなさい、と。
 それだけが書かれていた。
 見た途端、アリババの声で再生された。頭の中で繰り返される言葉に何とも言えない顔をして、男は左手で目元を覆い隠した。
 もうずっと長い間、ひとりだった。
 ただいま、も、おかえりなさい、も、全部他人事だった。自分で言うこともなければ、言われることもない。どれもこれも、シンドバッドにとっては壁の向こう側のことばだった。
「まいったな」
 危うく涙ぐむところだった。三十路前にもなって、と自嘲気味に笑って、彼は鼻を啜るとメモ用紙を半分に折りたたんだ。
 大事に胸ポケットに入れて、改めてサンドイッチの皿を手に取る。作ってから結構な時間が経っているのか、パンは乾燥してパサパサしていた。
 中のレタスも水分が抜けて、元気がなかった。それでも小腹が空いた身にはありがたく、彼は遠慮なくそれらを口に運んだ。
 立ったままでは行儀が悪いと、途中から四人掛けのテーブルへ移動する。水を口に含みつつ全部平らげると、胃袋はかなり大きく膨らんだ。
「ごちそうさま」
 空っぽの皿を前に手を合わせ、シンドバッドはベルトの上から腹を撫でた。
 こんな時間に何かを食べるのも随分と久しぶりだった。
 料理はやろうと思えば出来るのだが、面倒で、この家に引っ越してきてからは殆どやってこなかった。そういう話をすると何人かの女性が押しかけてきたが、いずれも丁寧にお引き取り願った。
 学生を泊めたことはあっても、男子ばかりだ。女子生徒はタクシーに押し込めて、家に帰らせるようにしていた。ジャーファルは立場上頻繁に顔を出すが、そういえば彼が泊まっていったことは一度もない。
 自分のテリトリーに他人が入り込むのを、無意識に避けていた。だがアリババだけは平気だった。おそらくラシッドも、大丈夫だろう。
 それは昔からの知り合いで、気心が知れた仲だという点が大きかった。
「家族、か」
 学生時代、シンドバッドはサルージャ邸の夕食に、頻繁に招かれた。
 思えばラシッドは、家族らしいものを持たなかったシンドバッドに、家族の温かみを教えようとしていたのかもしれない。
 彼自身、長年連れ添った妻と最後まで心を通わせられなかった。だから余計に、アリババの為にも、たとえ疑似的だとしても、家族らしいものをなんとか作り上げようとしていたのだろう。
 不器用な人の、不器用なりの心遣いが嬉しかった。
 口の端に残ったマヨネーズを舐め、シンドバッドはゆっくり立ち上がった。
 椅子を引き、空の皿とコップをひとまとめに持つ。その際床を擦った音が大きく響いたが、彼は気に留めなかった。
 流し台に使い終えた食器を移し、上から水を注いで軽く洗う際も、それほど物音に意識を払わなかった。
「……んぁ、れ……」
「うん?」
 どこからか声が聞こえた気がして水道を止め、顔を上げる。見ればカウンターの向こう、食事用のテーブルを越えたその先で、金髪の少年が寝ぼけ眼を擦っていた。
 半分夢の中に居る顔で、きょろきょろと左右を見回していた。今自分がどこにいるのか分からないらしく、挙動不審な動きにシンドバッドも不安になった。
 肩から背中を覆っていた上着も、身を起こした所為でずり落ちてしまっていた。タオルと一緒になり、ソファとの挟まったジャケットに苦笑して、彼は濡れた手を振り回した。
 水滴を散らし、こちらもアリババが新調したタオル掛けにあったタオルで残りを拭う。指の間まできちんと乾かして、シンドバッドはカウンターを回り込んだ。
 その頃にはアリババもはっきり目を覚まし、赤い顔でテーブルを片づけ始めた。
「うわ、ウソ。って、もうこんな時間」
「勉強熱心なのは良い事だけど、寝るならちゃんとベッドで、ね」
 散らばったテキストや文房具を集め、涎の痕が残るノートも閉じる。恥ずかしそうに口元を撫でた彼に呵々と笑って、シンドバッドは自分を棚に上げてウィンクした。
 覚えのない、いつ掛けられたのかも覚えていない上着にも気付いて、アリババの顔は一層真っ赤になった。
「え、うあ、ちょ……どど、どうし、ってか。えっと、あの。お」
 激しくうろたえ、彼はしどろもどろに捲し立てた。
 寝起きなのもあって、頭があまり働いていないのだろう。たどたどしく口籠った後、アリババは不意に背筋を伸ばして床上で畏まった。
 正座まではいかないながら、放り出していた足を引き寄せて居住まいを正して、ひと言。
「おかえりなさい!」
 部屋中に響く大声で叫ばれて、シンドバッドは面食らった。
 先ほど頭の中だけで奏でられた言葉が、脳髄を貫いた。鼓膜を震わせ、全身に衝撃が走った。
 びくっとなって、息が止まった。呼吸を忘れて瞠目し、彼は肩を上下させている少年に見入った。
「あ、……」
 返事がないのを訝しみ、アリババの顔色が少し悪くなった。拙かっただろうかと、動かない頭を捻ってあれこれ悩む様子が窺えて、我に返ったシンドバッドは長く留めていた息を吐き、四肢の力を抜いた。
 気取らない笑顔を向けられて、アリババも初めてほっとした表情を作った。
「うん。……うん。ただいま、アリババ君」
 これまでにも何度となくやり取りしている挨拶なのに、時間が遅いのもあるのか、滑稽なくらい照れ臭かった。
 胸の奥底がほっこり温かくなった。たったこれだけのことで嬉しくてならず、天にも昇る気持ちになれたのが不思議で仕方がなかった。
 微笑み、シンドバッドは肩を揺らした。アリババはベージュ色のジャケットを膝に移すと、落とさないよう抱きかかえて立ち上がろうとした。
「あの」
「ああ、着てなさい。まだ冷えるだろう」
 礼を言って返そうとした彼を制し、シンドバッドは手を振った。人差し指でアリババの胸元を指し示し、視線は窓の方に向けて目尻を下げる。
 壁のカレンダーをちらりと見て、アリババは緩慢に頷いた。
 昼間はもうかなり暖かいが、本格的な夏が始まるのはまだ当分先だ。そんな季節に半袖半ズボンで居たら、体温が持っていかれてしまう。
 試験前の大事な時期に風邪をひいて寝込みでもしたら、大変だ。優しい口調で諭されて、アリババは遠慮がちにシンドバッドの上着を広げた。
「じゃあ、ちょっとだけ。お借りします」
「汚してくれても構わないからね。そうそう。サンドイッチ、ごちそうさま。おいしかったよ」
 右腕から袖を通し始めた彼に目を眇め、シンドバッドは少し膨らんでいる腹を撫でた。最後にポン、と叩かれて、狸を連想したアリババはカラカラと楽しそうに笑った。
 口元に持って行った利き手は袖の中に隠れ、楕円に広がった袖口が当て所なく揺れていた。
 裾も長く、膝のあたりまで覆っていた。ハーフパンツの裾がほんの少しだけはみ出ているだけで、後ろを向かれると、なんだかとてもいけないことをしている気分になった。
 ほんのり日焼けした健康的な脚に目を奪われて、シンドバッドは慌てて首を振った。
「アリババ君は男の子。アリババ君は、先生の息子さん。アリババ君は……」
「はい?」
「いやっ。なんでもないよ!」
 ちょっとでも不穏なものを抱いてしまった自分を恥じ、魔法の呪文を繰り返し口ずさむ。その少々不気味な姿に小首を傾げ、アリババは大きすぎるジャケットに相好を崩した。
 二重に折り返さないと出てこない自分の手を笑って、ぶかぶかだとポーズを決めて身体を揺らす。
「ガキん頃も、親父の服とかでもよくこうやって、遊びました」
「そうかい。それは……見たかった」
「え?」
「すまん、間違えた。気にしないでくれたまえ」
 大学から帰って来た父のスーツを受け取って、試しに来たら裾が床を擦った。そんな思い出話を口にした彼に、シンドバッドはずーんと落ち込んで頭を抱え込んだ。
 ラシッドも、シンドバッドほどでないが上背があるので、その上着ならさぞや大きかろう。それにアリババは今よりずっと小さかったはずだから、恐ろしく可愛らしかったに違いなかった。
 思わず零れた本音に真っ赤になり、シンドバッドは深いため息をついた。想像以上に疲れていると判断して、今の台詞は忘れてくれるよう頼んでかぶりを振る。
 正直よく聞こえなかったアリババはきょとんとしながら首肯し、時計を見上げた。
 動く度に袖を通した上着の布が擦れ合い、繊維に染み込んだ香りが鼻腔を擽った。
 その大半は、煙草の脂臭さだった。
 喫煙者のシンドバッド本人は、きっと意にも介さない匂いだ。嫌煙者には辛いだろう上着に鼻先を近づけて、アリババは誰にも気づかれないようにクスリと笑った。
「そうだ。昼間はすまなかったね。折角来てくれたのに」
「ああ」
 そこへ不意に話しかけられて、アリババは腕を下ろして肩を竦めた。
「仕方ないですよ。俺が、先に確認しなかったのが悪いんです」
 シンドバッドの勤務先である大学に出向いた彼は、結局目的の人に会えなかった。代わりに奇妙な出会いを経験し、懐かしい顔と邂逅した。
 けれどその辺りの事情を、シンドバッドは何も知らされていなかった。さぞや落胆していると思いきや、そうでもなかったアリババに怪訝にしていたら、少年は思い出し笑いで頬を緩めた。
「それに、もし会えたとしても、サンドイッチ、シンドバッドさんは食べられなかっただろうから」
「ええ?」
「アラジン、って。知ってます? 実はあいつに全部、食べられちゃって」
 今思っても、あれは不思議な巡り合わせだった。
 アリババは結局、行く建物を間違えていた。文学部方面に向かったつもりが、理工学部の敷地に迷い込んで、しかもそれに長い間気付かなかった。
 小学生の格好をした、実際は大学院生のアラジンは、良く分からない子供だった。
 見た目によらず大食漢で、初対面の相手にも物怖じしなかった。遠慮を知らず、人懐こく、無邪気で、アリババの幼少期とは全然違っていた。
 仔細を省いて簡単に説明した彼に、シンドバッドは嗚呼、と息を吐いた。
「勿論、知っているよ」
 深く首を縦に振り、彼は眩しくもないのに目を細めた。
 頬は興奮に上気して朱に染まり、紅色の唇からは堰を切ったかのように言葉が溢れた。
「なんといったって彼は、うちの大学の、期待の少年だからね。いやあ、彼はすごいね。あの若さでもう世界的権威の雑誌に、何本も論文が掲載されている。俺も話を聞いた時に、一本だけ目を通した事があるんだけれど、とても有意義な時間だったよ。なんといっても発想が素敵だね。大人が誰も思いつかなかったような自由な想像力で、これまでの常識を次々に覆している。先日も、素晴らしい発見があったみたいで、大学は大騒ぎしていたね。俺も、少しは見習わないと」
 聞いてもないことをぺらぺら喋る、その語り口は澱みなかった。
 立て板に水とはよく言ったものだ。言葉を紡ぐうちに気持ちが高揚し、抑えきれなくなったのだろう。夜中だというのに、声は段々と大きくなっていった。
 自分のことのように誇らしげに告げて、すごいだろう、とキラキラ目を輝かせる。その表情は赤子の純粋さそのままで、アリババに褒めて欲しくて堪らない様子だった。
 けれど彼は苦虫を噛み潰したような顔をして、何故か悔しそうに唇を引き結んだ。
「アリババ君?」
 雰囲気がおかしいのに気づき、シンドバッドは広げていた腕を下ろした。脇に垂らして小首を傾げ、一瞬泣いている風にも映ったアリババの表情に眉目を顰める。
 彼は何も言わずに首を振り、羽織っていた上着の襟を引っ掻いた。
「俺、もう寝ますね」
「あ? ああ。そうだね」
 荒っぽく脱ぎ、雑に畳んだそれを押し付けられた。大股で近づいてきた彼の不機嫌さに戸惑い、シンドバッドは怪訝にしつつも同意した。
 もう丑三つ時に近い。子供は寝る時間だ。
「明日……もう今日だけど。先生のお見舞い、どうする?」
「帰りに寄ってきます。ひとりで大丈夫ですから」
 放課後の予定を尋ねたら、そう切り返された。先週は車で迎えに行ったのだが、その必要はないとの意味だろう。
 日曜日に朝早くから遅くまで多忙で不在にしていたので、遠慮されてしまったか。それはそれで切ないと肩を竦め、シンドバッドは分かった、と頷いた。
 実際問題、明日からも暫く忙しい。アリババのことは気がかりだが、シンドバッドも予定が詰まっており、ゆっくりしている時間はなかった。
 申し訳ないが、助かった。それは言わなかったが、顔に出てしまったらしい。間近から見つめていたアリババが、直後にしゅんとして俯いてしまった。
「明日も遅いですか」
「どうだろうね。夕方に一度、連絡を入れるよ。遅くなる時は待ってなくていいから」
「分かりました」
 今日のようなことが続けば、アリババも大変だ。先にベッドにもぐりこんでくれて構わないと言えば、彼は掠れる小声で返事した。
 その間、一切顔を上げてくれなかった。あの宝石よりも眩しい双眸が見られないのを残念に感じつつ、シンドバッドは受け取った上着を抱え直した。
 衣擦れの音を聞き、アリババは半歩下がった。スリッパで床を削り、言われた通り部屋で寝ようと歩き出す。
「おっと。待った」
 それを引き留め、シンドバッドが声を高くした。
 一歩踏み出す、大きな足音がこだました。ドスン、と大柄の男が距離を詰め、無防備に振り返った少年にニコリと笑いかけた。
 屈託ない表情は、十代の子供のようだった。幾つになっても純真なままの笑顔で目を細め、手を伸ばし、艶のある金紗の髪をクシャリと掻き回す。
 触れられて、アリババは咄嗟に仰け反った。逃げるように首を後ろに倒し、振り払おうと頭を振る。
 それにも構わず、シンドバッドは身を乗り出して目を閉じた。
 掻き上げた前髪の、その下から現れた絹よりも白い肌。少し広めの額、真ん中よりもやや左側にそっと、くちづけて。
 ちゅ、と愛らしい音をひとつ残し、
「おやすみ、アリババ君」
 良い夢が見られるよう、まじないを施して。
 満面の笑みを浮かべた男を前に、アリババは絶句した。
 それは幼き日、眠れないと駄々を捏ねる彼の為に、男が編み出した魔法のひとつに他ならず。
 ただこの歳になってやられるとは、夢にも思っていなかった。
「あ、うぁ、あ……」
 小さいころは平気だったのに、大人になったらダメになったものは多々あった。あの時分は深く考えもせず、むしろされて嬉しかったことが、今はこんなにも恥ずかしい。
 狼狽して赤くなるアリババに、シンドバッドも三秒してからはっとなった。
 ぱちん、と目の前で風船が弾けた。透明なシャボン玉の爆風に煽られて、彼はきょとんとした。
「あれ?」
「おやすみなさい!」
 瞬きを連発させて、裏返った変な声を出す。それを掻き消し、アリババは怒鳴った。
 握り拳を作って空を殴り、言うが早いか踵を返した。ドスドスと、階下から苦情が来そうな足音で廊下を突っ走り、蝶番が壊れる勢いでドアを閉める。
 取り残されて、シンドバッドは唖然となった。
 白磁の肌は鮮やかな朱に染まり、琥珀色の眼は真ん丸だった。小刻みに震える唇も艶やかな紅色で、しっとり濡れて、とても柔らかそうだった。
 たとえ一瞬だけだとしても、そこに齧り付きたいと思ったのは嘘ではない。
「……待て。待つんだ。シンドバッド」
 右手で顔を覆い、彼は呻いた。自分で自分に語り掛け、弱々しく首を振る。
 しかしどれだけ考えても、時間が過ぎるのを待っても。
 頭上に灯った黄信号は明滅を続け、いつまで経っても消えてくれなかった。

2013/12/08 脱稿