孺子

 ドスドスと荒々しい足音が響き、雲雀は顔を上げた。読みふけっていた文書から視線を外し、最近使い始めた眼鏡のズレを直して小首を傾げる。
 そこから待つこと三秒。
「あー、もう!」
 そう叫び、足音の主は苛立ちを隠しもせずに襖をスライドさせた。
 これが木の扉だったなら、蝶番が悲鳴を上げていたに違いない。もしくは襖を蹴り倒し、埃を巻き散らかすかのどちらかだ。
 だが幸いにも、そこまで理性を失ってはいなかった。憤懣やるかたなしの表情を遠くに見て、雲雀は途中で失速した襖に憐みの目を向けた。
 滑りが悪いらしく、引き戸は戸袋の真ん中を過ぎた辺りで停止していた。お蔭で嫌な音も轟かず、想定に反して彼の登場は静かだった。
 向こうもそれは理解しているらしい。ほんのり朱を帯びた頬を確かめて、雲雀は手にしていたものを下ろした。
 持ち運びも楽な四角い座卓に書類を並べ、袖を押さえながら膝を起こす。ゆっくり立ち上がった着流しの男を見つめ、洋装の青年はやがてぷいっ、と気まずそうに顔を背けた。
 拗ねているのか、照れているのか、この距離では判別がつかない。あまり役に立たない眼鏡も外して、雲雀は不遜に笑った。
「おかえり」
 腹筋に力を込め、感情を押し殺して囁く。声は良く響き、広い和室を満たした。
 戸口に立っていた青年は、嘲笑を裏に隠した挨拶にむすっと小鼻を膨らませた。不満の上に不満を積み重ねて、先ほどは恥をかかせてくれたとばかりに襖を思い切り閉じる。
 物言わぬものに八つ当たりする青年にゆるゆる首を振り、雲雀は短い黒髪を掻き回した。
「ただいま、は?」
「ただいま帰りました」
 挨拶ひとつ出来ない人間が、どうして人を導く立場に立てるだろう。呆れ混じりに催促した彼に、青年は憤然としたままぼそりと言った。
 口調は丁寧ながら、機嫌の悪さが露骨に表れていた。いつも以上の低音に眉目を顰め、雲雀は思案気味に顎を撫でた。
 今朝剃ってから、既に半日が経過している。あまり濃く出てはいないが、ゆっくり触れば生えかけの髭の存在が感じられた。
 三日と放置していたら、見るに堪えない貌になる。ところがそこに佇む青年はといえば、二十歳を軽く通り越しておきながら、髭に苦慮する気配が全くなかった。
 本人は産毛の薄さを気に病んでいたが、今は手入れの必要がないと開き直った感があった。もっともそう思えるようになるのには、かなりの年数が必要だったのだが。
 古い記憶をぼんやり振り返って、雲雀はこめかみに青筋を立てている恋人に嘆息した。
「どうしたの」
 先に事情を聞いておけば、ここまで機嫌を損ねることはなかったかもしれない。礼儀を優先させたのを一瞬だけ悔いた男を前に、青年は不意に泣きそうに顔を歪めた。
 上唇を噛み締めてうっ、と嗚咽を漏らされて、流石の雲雀も慌てた。
「ちょっと」
 怒っていたはずなのに、いきなり泣き出されたら誰だって驚く。赤子ならまだしも、彼はとっくに成人済みなのだ。
 届かぬと知りつつ右手を伸ばし、雲雀は座卓の前から飛び出した。
「つなよし」
「もー、聞いてくださいよ!」
 早口に彼の名を紡ぎ、喜怒哀楽の波が激しい彼に近づく。だが三歩も行かぬうちに、耳を劈く大声が轟いた。
 地団太を踏みながら喚かれて、雲雀は目を丸くして凍り付いた。
 歴史あるマフィア、ボンゴレ・ファミリーの十代目ボスこと沢田綱吉は、恋人が呆気にとられる中、ひとり憤慨して両手両足を振り回した。
 傍目には滑稽なダンスを踊っているようでもあるが、本人は至って真剣だった。
 そのうち転ぶのではないか。そう危惧していた矢先、雲雀の想像通り彼はつるりと畳で滑った。
「いダ!」
 盛大に尻餅をつき、聞き苦しい悲鳴を上げてのた打ち回る。倒れたところで暴れるのは変わりないのかと肩を竦め、雲雀は騒々しい同居人にため息を重ねた。
 放っておきたいところだが、見捨てたと言いがかりをつけられ、恨まれるのも厄介だ。仕方なく助け起こしてやろうとにじり寄り、右手をスッと差し出してやる。
 綱吉はぶすっと頬を膨らませ、真っ赤な顔で睨みつけて来た。
「要らない?」
「抱き起してください」
「はいはい」
 行き場のない右手をひらひら揺らしていたら、生意気にも注文を付けられた。いっそ蹴り飛ばしてやろうかという思いは封印して、雲雀は仕方なく、寝そべる大きな子供を抱きかかえた。
 脇から背に向けて腕を差し入れ、片膝着いた状態で引きずり上げる。途端に蛇のような両腕が首に絡まり、正面から抱きしめられた。
「うへへ」
 締まりのない声で笑う彼に、雲雀はやれやれと首を振った。
 どうやら、少しは機嫌が直ったらしい。しどけなく笑う横顔を盗み見てそう判断するが、一安心するのは、残念ながら早かった。
 トントン、と子供をあやす仕草で背を叩いてから離れようとした雲雀だが、
「いつまでそうしてる気?」
 予想に反し、綱吉は抱きついたまま、束縛を緩めようとしなかった。
 爪先立ちで体重を預けてくる恋人の温もりは、正直、悪い気はしない。けれど胸の内が読めない以上、歓迎は出来かねた。
 上から降ってきた質問に、綱吉は沈黙で応じた。
 人の胸に寄り掛かり、顔も伏してだんまりを決め込んでしまう。これでは埒が明かないと、力ずくでの強制排除も視野に入り始めた頃。
 後ろ衿を握り潰した綱吉の指が、雲雀のうなじを引っ掻いた。
「黙ってたら分からないよ」
 爪で抉られたわけではないので、痛くはなかった。ただ、ぞわっと来た。
 産毛が逆立ち、背中を電流が走った。神経が密集する場所を人質にとられている状況に、背筋が粟立った。
 動揺をひた隠し、囁く。再度赤子を宥める覚悟で背を撫でてやれば、ずっと俯いていた青年がふるふる首を振った。
 背伸びをし続けるのに、些か疲れたらしい。踵が降りると同時に、首に回っていた腕もするりと零れ落ちて行った。
 左右に別れて逃げていく指先を追い、雲雀は手を伸ばした。遠ざかるそれを片方だけ捕まえて握りしめ、蜂蜜色の髪に隠れた瞳を覗き込む。
 鮮やかな琥珀の瞳は深い哀しみに彩られ、艶を帯びて妙になまめかしかった。
「つなよし」
「また、です」
「うん?」
「俺は、絶対に嫌だって。ずっと言ってるのに」
「……ああ」
 吸い付きたくなったのを寸前で堪えた雲雀の耳に、くぐもった声が届けられた。
 たどたどしい口調は、大事な部分がことごとく欠けていた。いったい何を言っているのか、これではさっぱり分からない。
 しかし雲雀は理解を示し、成る程、と緩慢に頷いた。
「お見合い?」
「…………」
 そして、直感が導き出した結論を口に出す。綱吉は答えず、ふいっ、とそっぽを向いた。
 なんとも分かり易い態度に、苦笑を禁じ得なかった。
「笑いごとじゃないですよ!」
 それが気に障ったらしい。またも頭の火山を噴火させ、綱吉は腹立たしくてならないといった顔で足を踏み鳴らした。
 どすどすと畳を蹴り飛ばし、金切声をあげたと思えば力尽きて再度寄り掛かって来た。ぼすっ、と空気を押し潰して抱きつく彼を受け止めて、雲雀は困ったものだと目を細めた。
 綱吉は成人を機に、正式にボンゴレのボスの座に就いた。
 紆余曲折はあったが、収まるところに落ち着いた感じだ。彼の守護者も各々その役を引き受け、表と裏の世界を器用に渡り歩いていた。
 けれど最近、雲行きが怪しい。
「やめちゃおっかなあ」
「こんなことで?」
 当事者の片割れであるというのに、危機感が足りない。叫んだ綱吉に肩を殴られ、雲雀は明後日の方向を見てため息をついた。
 呆れ混じりで放たれたひと言にも憤慨し、綱吉は親指の爪を噛むと苛立たしげに膝を折った。
「それくらいのことなんですってば」
 どすん、と音を響かせてその場で胡坐を作り、上目遣いにねめつける。正直言って迫力は乏しいが、胸に渦巻く感情がいかなるものかは、十分過ぎるほどに伝わってきた。
 吐き捨てられた言葉を丁寧に拾い上げて、雲雀は彼に合わせて身を屈めた。
 綱吉は十代目を継承する際、自分の代でボンゴレを終わりにする、と宣言した。
 それは彼が提示したボスを継ぐ絶対条件のひとつであり、九代目も了承していた。しかし寝耳に水だった面々は一様に反発し、あの手この手で綱吉を籠絡に掛かった。
 その手段のひとつが、珠玉の娘を彼に与え、裏から糸引こうという作戦だった。
 もっともその手は通用しない。中学時代から身も心も雲雀恭弥に捧げると誓った彼にとって、ただ綺麗に着飾っただけの女など、何の魅力も感じなかった。
 それでも男たちは諦めない。どうにか宣言を撤回させるべく、あれこれ文句をつけては綱吉を攻撃した。
 ただこの点も、優秀な守護者のお陰でなんとか切り抜けられていた。
 頭脳系では獄寺が頭一つ抜いており、武闘系では山本と笹川兄がいれば大抵どうとでもなった。財務系では風紀財団を率いる雲雀に敵う者はおらず、優秀な霧の術師は裏工作にうってつけだった。
 まさに非の打ちどころがない。十代目の失態を攻撃材料にしようと画策していた連中は、悉く思惑が外れて逆に痛い目に遭っていた。
 だというのに、古い利権に固執する連中は後を絶たなかった。
 十代目を引きずりおろすのが難しいなら、やはり内側から攻めるしかない。そこで原点に戻り、最近はまたもや女を宛がおうとする輩が増加していた。
 雲雀と綱吉の関係は、今や誰もが知っていることだった。だというのに、彼らはそれを認めようとしない。十代目の懐に入ろうと目論む者たちには、異国の法が保証する権利など、鼻息で吹き飛ばせるほどに軽いモノなのだろう。
 あんな男より、うちが用意する女たちの方がよほど具合が良い。そう下品な笑いを浮かべ、揉み手で縋ってくる奴らを何度振り払ったことか。
 思い出すだけでも腹が立つ。怒り心頭で捲し立てた彼を宥め、雲雀はどうしたものかと天を仰いだ。
「俺とヒバリさんは、正式に結婚してるって言ってるのに、聞きもしないんだから」
「そういう連中は、もう相手にしなくていいんじゃない?」
「そうしたいのは山々ですよ」
 綱吉も困った顔で肩を落とし、右手で額を覆った。
 切り捨てられるものなら、とっくにそうしている。相手側も必死だから、簡単には諦めなかった。
 ただでさえストレスがたまる仕事をしているのに、別方面で面倒を抱えるのは遠慮したい。だが向こうは綱吉の都合など考慮せず、隙あらば話しかけ、関係強化を迫った。
「なんとかなりませんか、ヒバリさんの力で」
「殺して良いなら」
「それはダメです」
 いい加減鬱陶しいので、強制排除したいところだがそうもいかない。世の中とは面倒に出来ており、気苦労は絶えなかった。
 物騒な解決方法を提示されて瞬時に断り、綱吉は頭を抱えてため息をついた。
「ほかにあるでしょう。財界を掌握して同性婚を正式に認可させたヒバリさんなら」
「そんなことはしてないよ」
「まーたしらばっくれる」
 数年前、彼らの出身国は同性婚を法制化し、この権利を認めた。勿論世論の反発は多々あったが、財布を取り上げられた政府は採決を強行した。
 法案の素地が作られてから、施行に至るまで、僅か三ヶ月という素早さだった。この裏でどれだけの資金が動いたか、想像は容易い。
 まったくもって、末恐ろしい男だ。率直な感想を述べて、綱吉は妙案を欲して雲雀の膝を叩いた。
 急かされ、男は思案気味に眉を寄せた。
「要は君に後継者があれば、向こうも安心する、ってことだろう?」
「だから俺は、ボンゴレは……」
「それに納得しない連中がいるから、こうなってるんじゃないの」
「うぅ」
 こめかみに指を置き、雲雀が低い声で囁く。途端に綱吉は反論したが、途中で遮られて唸った。
 あれこれ手を回している連中は、ボンゴレがこれまで通りにマフィアの頂点に君臨し、その傘の下で安寧を得ることを願っている。つまるところ、奴らはボンゴレの威を借る狐だ。
 敵対勢力が現れないのは、彼らの上にボンゴレが居るからだ。ところがこの防御壁が消滅しようとしていた。掌中にある利権を維持するには、是が非でも防波堤を存続させなければならない。
 だから綱吉が十一代目候補を立てれば、彼らは安心し、十代目に言い寄る機会も減るだろう。
「それは、分かりますけど」
「候補は、あくまで候補だ。ボンゴレはこれまで通り、君がボスであり、すべての決定権は君が持つ。君がボンゴレの解散を宣言すれば、目的は達せられる」
「むぬぅ」
 雲雀の言い分は理解出来た。確かに彼の言う通りであり、綱吉が渋る理由はない。この案が実行に至れば、外野の五月蠅い野次も消えて、穏やかな日々が過ごせるはずだ。
 けれど難題があった。
「ていうか、後継者なんて」
「養子をもらえばいいんじゃない?」
 綱吉は子供を産めない、無論雲雀もだ。つまり綱吉が雲雀と別れて妻を娶らない限り、実子は望めなかった。
 だからその方向はないという前提で話を進めるなら、養子をもらうしかほかにない。そちらは、九代目とザンザスという先例があるので、反対の声は起きても小さかろう。
 問題は、誰を養子にするか、だ。
「俺、こんな血腥い世界に、孤児を巻き込むのは嫌ですよ」
 何の罪もない子供を、裏社会に引き込むのは認め難い。中学時代、闘いに明け暮れた日々を思い返してか、綱吉の表情は険しかった。
 凄味のある声で告げられて、雲雀は相好を崩した。
「知ってるよ」
 その点は承知済みだと笑い、蜂蜜色の頭を撫でる。俯いていた綱吉は顔を上げるタイミングを逸し、渋面を作った。
 ぐしゃぐしゃに髪を掻き回されるのは、久しぶりの気がした。
「おいで」
「おぶっ」
 ほだされていたら、引き寄せられた――頭を。
 招かれ、首がもげ落ちそうだった。踏ん張って耐えるが叶わず、綱吉はあっさり横に引き倒された。
 固い男の膝に転がり込む羽目になり、あまり寝心地が良いとは言えない環境に顔を顰める。真下から睨まれても意に介さず、雲雀は楽しげに笑った。
「隈が出来てる」
「労わってください」
「あとでね」
 その上で頬に触れ、鼻筋を辿って目の下をそっとなぞった。
 囁きに呼応して甘えた声で強請られ、彼は小さく肩を竦めると、話を戻すべく小鼻を軽く突いた。
 綱吉は首を振り、悪戯を仕掛けてくる手を払った。憤然とした面持ちで眼力を強めて三秒後、不意に息を吐いて力みを解く。
 長持ちしなかった怒りを全て追い出して、彼は身じろぎつつ安らげる体勢を作った。
 雲雀の膝枕で仰向けに寝そべって、続きを目で訴える。彼は柔らかくて暖かい頬に掌を添え、残る手で綱吉の視界を覆った。
「いいんじゃないの、雷のあの子で」
「……嫌です」
「どうして」
 そうして紡がれた言葉を、綱吉は間髪入れずに跳ね除けた。
 雷の守護者であるランボは、もともとはボヴィーノ・ファミリーの子だ。すったもんだの騒動の末にボンゴレの一員になってしまったが、籍は未だ、あちらにあった。
 その彼が守護者のひとりに任じられたのは、年端もいかない頃のこと。十年バズーカを使えば未来の彼を呼び出せるから、という理屈であったにせよ、あんな幼い子を戦場に駆り立てるのは非常識極まりなかった。
 傷つき、痛めつけられた彼を介護する奈々の辛そうな顔も、二度と見たくない。あれから十年以上が経過した今でも、あの事件は綱吉のトラウマのひとつだった。
 雲雀はその場にいなかったから、彼の悔恨を正しく理解出来ない。軽い調子で問うたのを心の片隅で反省し、風紀財団当主は柔らかな髪を丁寧に梳いた。
 肌を流れる指先の感触に意識を委ね、綱吉は追及を諦めた雲雀に愁眉を開いた。
「いっておきますけど、フゥ太もダメですからね」
「誰だっけ」
「……ならいいです」
 ごろんと寝返りを打ち、細く見えて意外にがっしりしている腰にしがみついて言う。背を反らして顔を上げた彼は、しかし予想外の反応に一瞬息を呑み、すぐに笑って突っ伏した。
 どすん、ばたんと足で交互に畳を叩く子供に小首を傾げ、雲雀は綱吉の近辺にいた子供の顔を順に思い浮かべた。
 雷の守護者を除けば、あとふたり。うち片方は辮髪の少女だから、もうひとりいた栗毛色の髪の少年のことだろう。
 彼も成長し、もうそろそろ成人する頃合いだ。何年か前には、背を追い越されたと悔しそうに教えられた気がする。
 一致していなかった顔と名前が、今更ながら重なった。嗚呼、と緩慢に頷いて、雲雀は指に絡まった毛を静かに解いた。
 戦闘能力がない人間は、候補に入れていなかった。雲雀が見落としていたのに綱吉は安堵して、ホッと息を吐いてから苦虫を噛み潰したような顔をした。
「やっぱりダメじゃないですか」
「困ったね」
 妙案だと思ったのだが、机上の空論で終わりそうだ。雲雀もため息を零し、餅のように柔らかな耳朶をふにふにと揉みしだいた。
 弄り回されるのは、最初は楽しいが、あまり長く続くと鬱陶しい。嫌がって身をよじり、綱吉は膝を寄せて丸くなった。
 胎児のポーズを作った青年を見つめ、雲雀はゆっくり背を撓らせた。
 倒れない程度に仰け反って、右腕はつっかえ棒代わりに畳へ衝き立てる。この国の政治や経済を裏で牛耳る男をちらりと盗み見て、綱吉は皺が増えた左手を広げた。
「第一、いますか? そんな都合の良い子が」
 条件はかなり厳しい。普通に考えて、彼らが求めるすべてを兼ね備えた子供は、この世に存在し得なかった。
 まず、マフィアの後継者として血腥い世界に耐えられること。他者からの攻撃をやり過ごし、或いは遣り込めるだけの強さも求められた。
 人を導き、率いる能力も必須だ。ボンゴレは、間違った道に進むわけにはいかない。権力にしがみつき、欲望のままに悪しき方向へ堕ちていくのだけは絶対に避けなければならない。
 つまるところ、綱吉の意見に賛同してもらう必要があった。十一代目候補となりながら、ボンゴレが十代で解散するのに同意し、翻意しないと約束できる相手でなければいけなかった。
 孤児院で赤子を引き取るのとは訳が違う。既にこの世界に身を置きながら、悪事に一切手を染めず、綱吉に忠誠を誓えるような人間が、果たしてどこにいるだろう。
 強さは絶対条件だ。死ぬ気の炎を自在に操れるだけの力量がなければ、この任は務まらない。
「難しいねえ」
「分かってたなら、無茶言わないでください」
「そうだね」
 ランボ以外に候補者がいないくせに、無謀な策を執らないで欲しかった。愚痴を零されて、雲雀はざらつく顎を軽く撫でた。
 その口調が、心持ち軽い。笑っている雰囲気を嗅ぎ取って、綱吉は顔を上げた。
 指折り数えていた手を握り、ゆっくり身を起こす。足は投げ出したまま、上半身を斜めに傾がせた恋人を静かに見つめ、男は悠然と微笑んだ。
 その表情に、綱吉は四肢を戦慄かせた。
「まさか、いるんですか」
「思いつかない?」
「え、ちょ。うそ」
 意味深に告げられて、気が急いた。うっかり身体を支えていた腕を浮かせてしまい、バランスを崩した綱吉は敢え無くうつ伏せに倒れこんだ。
 畳の縁にキスをして、直後に我に返って身を起こした彼を笑い、雲雀は口元を押さえて顔を綻ばせた。
 その口ぶりからは、候補者が他に居るという気配がにじみ出ていた。しかも綱吉が知っている相手、という空気がひしひし伝わって来た。
 いったい誰なのか。全く想像がつかなくて目を白黒させる綱吉の鼻を小突き、雲雀は悪戯っぽく目を眇めた。
「当ててご覧」
「もしかして、もう手配済み……とか?」
「了解はこれからとるよ。まあ、嫌がられるだろうけど」
「って、誰なんですか」
「君もよく知ってる子だと思うけど」
 思わせぶりな言い方に、背筋が粟立った。なんでも準備万端な雲雀だからと期待した綱吉は、一瞬だけ遠くを見た彼に小首を傾げた。
 その雲雀は音もなく立ち上がり、長着の皺を叩いて身なりを整えた。
 視線は柱時計を経て、綱吉が蹴破り損ねた戸口へ向かった。
 これから、と言っていたのは、もしや今から、なのだろうか。誰かが訪ねて来る雰囲気を察し、綱吉は慌てて畳に正座した。
 行儀よく畏まった彼を鼻で笑って、雲雀はこれからやって来る相手が嫌そうに顔を歪める様を想像した。
 果たして、その予想が当たるか、否か。
「おい、雲雀。俺様に用ってのは、なんだ?」
「――え?」
 襖を横に滑らせ、偉そうに踏ん反り返って入って来たのは。
「やあ、赤ん坊」
「その呼び方、いい加減失礼だから止めやがれ。ん? なんだ、ツナも一緒か」
「え、ちょ……ちょ、ちょう。ちょう!」
 あまりにも想定外の事態に驚き、頭が回らない。気が動転して捲し立てる彼を怪訝に見つめ、現れた十代半ばの少年はどうしたのかと雲雀に向き直った。
 出会ったばかりの頃は赤ん坊だった彼は、呪いが解けて以降、着実に成長を遂げていた。
 今や綱吉の身長を軽く追い越し、呪いを受ける以前の姿を取り戻しつつある存在に、雲雀は軽やかに笑いかけた。
「なに、ちょっとね。赤ん坊、物は相談なんだけど、僕たちの子供になってみないかい?」
「はあ?」
「ちょちょちょちょ、ちょっと待って。ヒバリさん、本気ですか。よりによって、り、りり、リ……リボーンって!」
「ああ? 失礼な奴だな。つか、何の話だ、雲雀」
 前置きの一切を省いた雲雀に、当然意味が分からなかったリボーンが突っかかっていく。綱吉は完全にパニックに陥って、目をぐるぐる回しながら雲雀にしがみついた。
 裏社会に通じており、ボンゴレ十代目にも勝る強さで、人心掌握能力に優れ、綱吉と意見を同じくしている子供。
 居た。
 まさに非の打ちどころがない。これほど条件に完全に合致する人間が、ほかに居るだろうか。
 けれど、まさか、よりにもよって。
 今にも泡を吹いて倒れそうな元教え子を見て、元家庭教師は眉を顰めた。雲雀はそんな彼らに目を細め、愉快な未来を想像して楽しそうに微笑んだ。

2014/1/7 脱稿