狡獪

 ぱたぱたと、小気味の良い足音が響いた。
 他に動くものがないからだろう、音はいつになく大きい。邪魔なノイズが無い空間に佇んで、雲雀は楽しげに口元を緩めた。
「ふん」
 喉を撫でながら息を吐くと、鼻が詰まっていたのか、変な声が漏れた。それにひとり赤くなって、彼は誰が見ているわけでもないのに、何度も喉仏をなぞった。
 短い間隔で深呼吸を繰り返し、若干緊張気味だった心を懸命に落ち着かせる。その間も足音は続き、徐々に大きくなっていった。
 床を叩く音がいつもと違うのは、上履きを持ち帰ってしまっている為、来客用のスリッパを使っているからだ。
 長期休暇中はそうするように、前に言いつけておいたのを覚えていたらしい。そういう所だけは記憶力が良いのだと笑って、雲雀は磨かれてぴかぴかの室内を見回した。
 年末の大掃除の結果がこれだ。もっとも、やったのは彼ではない。きめ細かくマメな性格をしている草壁が、雑巾片手に割烹着姿で孤軍奮闘したのだ。
 いかめしい外見に似合わず、針仕事まで得意なあの男は、産まれる性別を間違えたに違い無い。ただそのお陰で、雲雀は随分と楽をさせてもらっていた。
 良い部下を持つというのは、なんと幸せな事だろう。新年早々しみじみ呟いて、彼は新品のように艶を取り戻したソファを撫でた。
 間もなくやってくるあの子を、ここでどう料理してやろう。考えるだけで心が弾み、顔が綻んだ。
 元日を外したのは、家族と過ごす時間を優先したがるあの子への配慮だ。この数年ですっかり大所帯になった沢田家の様子を思い浮かべ、雲雀はつい、と革張りの表面をなぞった。
 振り向けば、空は明るい。カーテンを全開にした窓からは、陽光がたっぷりと注がれていた。
 時計を見上げると、約束をした時間まであと五分あった。
 年賀状、という形の呼び出し状に気付いてくれたのは、素直に嬉しかった。互いにしか分からないメッセージがきちんと伝わったというのは、目に見えない心、または想いといったものが、両者の間でしっかり繋がっているという証だった。
 あの子の事を考えると、胸の辺りがふわりと軽くなった。同時に身体が微熱を発し、心臓をきゅっと締め上げた。
 舞い戻ってきた緊張に表情を引き締めて、雲雀は先ほどより弱まった足音に眉目を顰めた。
 速度を落とし、一歩に時間を掛けている様子が窺えた。いっそドアを開けて出迎えてやろうかと考え始めた矢先、どこからともなく話し声が聞こえてきた。
「ン?」
 怪訝に小首を傾げ、彼は耳を欹てた。
 今は冬休みの真っ只中で、当然ながら学校には誰も居ない筈だった。
 教員も休みで、出勤していない。居るのは仕事熱心だと揶揄される風紀委員長の雲雀と、彼に招かれた客人だけだ。
 だというのに、人の声がする。あの子が喋っているのかと疑ったが、声の種類が明らかに異なっていた。
 低い、男の声だった。
「珍しいな。な~にやってんだ?」
「あ、れ。そっちこそ」
 若干の嘲りを含んだ口調に、戸惑い気味の高いトーンが返された。思わずドアに躙り寄って、雲雀はぴったり、木の板に耳を貼り付けた。
 これでは盗み聞き同然だが、気になるのだから仕方がない。堂々と廊下に出て行けば良いとも分かっているのだけれど、それではあちらの会話が途切れてしまう。
 今年初めての逢瀬を邪魔してくれた男は、雲雀の動向などお構いなしに言葉を重ねた。
「俺は仕事だよ、シ・ゴ・ト。つってもあっちの方だけどな」
「ああ。……また変なの、逃がしたりしないでよ?」
 正月早々から学校にいる理由を訊かれ、男は隠しもせずに答えた。だが大事な部分は代名詞で誤魔化し、濁す。それでもあの子は理解出来たのか、納得だと嘆息すると至極嫌そうに呟いた。
 親しげなやり取りから、面識がある相手なのだと分かった。けれどあの子と仲がよい大人など、この学校に居ただろうか。不穏な空気を感じて渋面を作っていたら、可愛らしい悲鳴が聞こえた。
「うぎゃっ」
「心配ねーって。大体、逃がすかよ。大事な仕事道具だぜ」
「ちょ、やめって。ンな事言ったって信じられるわけないだろー」
 頭を撫でられたのか、背中を叩かれたのか。ともあれ嫌がる素振りを示し、あの子は不満げに文句を吐き捨てた。
 あと少しで応接室だというのに、足踏みが長い。予想外の障害物の登場に、若干苛々している様子が窺えた。
 雲雀としても、腹立たしくてならない。もうドアを開けてしまおう、と決意を固めてノブに手を伸ばしかけた矢先、男が急に偉ぶって声を高くした。
「お、いいのか? 俺様にそんな事言っちゃって」
「なんだよ」
「ふっふっふ。ボンゴレ坊主、これ、なーんだ?」
「ああ!」
 人を見下しながら上手に操って、失われつつあった興味を瞬時に取り戻す。頭の天辺から抜ける甲高い声を発し、あの子はいったい何を見せられたのか、息を呑んだ。
 会話が一旦途絶えて、出て行くタイミングを逸した雲雀は空振りした手を握り締めた。
 拳を震わせ、改めて聞き耳を立てる。負けじと息を潜めていたら、男の不愉快な笑みが鼓膜を震わせた。
「どうした。要らねーのか?」
 くくく、と声を押し殺しての囁きが聞こえ、雲雀の背中がぞわっときた。それは間近に居るあの子も同じだったらしく、口惜しげな呻き声が足下に沈んでいった。
「く、ぬぅ……てか、卑怯!」
「ほ~お? この俺様が、わざわざテメーらと同じ舞台に立ってやってんのに、そういう事言っちゃうか?」
 要らないんだな、と結論づけられて、衣擦れの音が重なった。恐らくは出したものを、ポケットにでも片付けたのだろう。途端に焦燥感たっぷりの、慌てた声が轟いた。
「ご、ごめんって。シャマル。いる。いる……ってか、欲しい。ください」
 唐突にへりくだり、畏まる姿が瞼の裏に浮かんだ。行儀良く背筋を伸ばし、両手を揃えて差し出すところまで、想像は容易だった。
 愕然としていたら、廊下に愉快そうな笑い声が広がった。
「最初から大人しくそうしてりゃいいんだよ。ほら。大事に使えよ?」
「うん。分かってる。やった、ラッキー。ありがと、シャマル」
 それに呼応して、一時は沈みかけていたあの子の声も高く弾んだ。嬉しそうにはしゃぎ回り、スリッパでペコペコ床を叩きもする。
 そこまで喜ぶとは、いったいなにを貰ったのか。好奇心が疼き、と同時に劣等感が雲雀の胸に満ちた。
 あの子を楽しませるのは、自分の仕事だと信じていた。だのに目の前で横から攫って行かれて、悔しくて仕方がなかった。
「……なにしてるのさ」
 余所の男など無視して、さっさと応接室に来ればいいのに。あの子に対しても憤りを強め、雲雀は握り拳でドアを殴った。
 ゴッ、という音は廊下側にも響いた。それではっと我に返ったのか、ボーイソプラノが慌ただしく言葉を並べ立てた。
「っと、と。シャマル、じゃ、ありがと。仕事、恨み買わない程度にしなよ」
「ああ、応接室か。新年から学校をイカ臭くさせんじゃねーぞ?」
「なっ。し、しないよ、バカ!」
 早口に捲し立て、茶化されて声を上擦らせる。真っ赤になっている姿が思い浮かんで、雲雀は思わず顔面を覆った。
 関係無い男にまで見透かされている事実に恥じ入り、苦虫を噛み潰したような顔をする。唇に爪を立てて顰め面を作っていたら、控えめにドアがノックされた。
 寄りかかる形で立っていたので、振動がダイレクトに来た。額を叩かれ、雲雀は深呼吸と共に頬を叩いた。
「どうぞ」
 右足から後退し、表情を作り直す。遠慮がちに扉が開かれるのには、どうにか間に合った。
 もっとも向こうは、意外に近い場所にいた雲雀に驚いたようだった。
「うお」
 予想していなかった展開に目を丸くし、変なところから声を響かせた。仰け反るように身体を傾けた彼の右手には、先ほど譲り受けたのであろう、小ぶりの紙袋が握られていた。
 俗に言うポチ袋、つまりはお年玉だ。
「遅かったね」
「いや、えっと……えへへ」
 時計の針は、指定した時間を一分弱、回ったところだった。
 それで遅いと言われるのは不本意極まりないが、不平を言ったところで聞き入れては貰えまい。相手の性格をよく理解した上で、沢田綱吉は笑って誤魔化した。
 奪われぬよう派手なポチ袋をしっかり持ち、ドアノブから手を離すと同時にズボンのポケットへ押し込む。中に入っているのは紙幣か、感触はあまり硬くなかった。
 額を確かめる暇は無かったが、たとえ千円札一枚でも嬉しい。貰えると思っていなかった相手からの贈り物は、浮き足立つくらいの喜びだった。
 締まり無く頬を緩め、綱吉は嘆息した雲雀に小さく頭を下げた。
「えっと、あけましておめでとうございます」
 年が変わってから会うのは、これが初めてだ。だから年始の決まり文句を口にして、爛々と目を輝かせる。
 後ろ手にドアを閉めた少年を上から下に眺め、雲雀は溜息を追加して黒髪を掻いた。
「おめでとう」
 言わなければ先に進まない。諦めて言葉を紡いで、雲雀は道を作ろうと更に後退した。
 奥へ促され、綱吉が照れ臭そうに微笑んだ。無邪気な笑顔は紅に染まっていたが、その原因が雲雀以外にもあるのは明白だった。
 中学生は、小遣いが少ない。勿論家によって違うが、綱吉の毎月の小遣いは雀の涙だった。
 友人と遊びに行くと、それだけでひと月分が尽きてしまう。だから臨時収入はとても貴重なのだ。
 想定外のお年玉が転がり込んできて、懐が潤って嬉しそうだ。喜びを隠しもしない恋人にひっそり嘆息を重ね、雲雀はソファを指差した。
 草壁が丹念に磨いたテーブルには、来客をもてなそうと菓子が盛られていた。
 白い皿に綺麗に盛られたクッキーを見て、綱吉の目が見開かれた。元から大きな眼を真ん丸にして、それから食べて良いか聞こうと雲雀を振り返る。
 琥珀色の瞳に問いかけられて、雲雀は鷹揚に頷いた。
「食べ過ぎないようにね」
「やった。ありがとうございます」
 小さくガッツポーズを作った綱吉に、雲雀は目を細めた。
 これで挽回出来たかと内心ほっとして、自分も向かいに座ろうと足を運ぶ。その影でこっそりポケットの携帯電話を操作すれば、十秒と経たないうちに、閉まったばかりのドアがノックされた。
「ぬ?」
 早速クッキーを抓んでいた綱吉が、誰か来たかと背筋を伸ばした。
 ハムスターのように頬をもごもごさせながら振り返った彼を笑って、雲雀は外に居るだろう男に相好を崩した。
「いいよ」
「失礼します」
 了解を得て入って来たのは、リーゼントの大男だった。
 裾が床に着きそうな黒い学生服を翻し、草壁が入って来た。手に持っているのは、小さく見える盆だった。
 上には茶器がふたつ、行儀良く並んでいた。片方はたっぷり砂糖が入った紅茶が、もう片方にはコーヒーが注がれて、細い湯気を立てていた。
 中身を零さないよう慎重に進み、膝を折った草壁がそれをテーブルに置いた。なるべく音を立てないようにそっと差し出されて、食事の手を休めた綱吉は膝を揃えると申し訳なさそうに頭を下げた。
「あ、っと。すみません」
「いいえ。どうぞごゆっくり」
 いったいどこで湯を沸かし、茶を用意していたのか。タイミングもばっちりだった登場に戸惑いつつ礼を言った彼に、草壁は朗らかに微笑み返した。
 雲雀に傅き、遣えるのが彼の喜びなのだろう。相変わらず凄い人だと感心して、綱吉は出て行く直前の草壁に、再度お辞儀した。
「冷めるよ」
「冷ましてるんです」
 ぱたりとドアが閉められるのを待ち、居住まいを正す。爽やかな香りを放つ紅茶を前にしながらも、彼の手はクッキーへと伸びた。それを雲雀が茶化して、綱吉は頬を膨らませて口を尖らせた。
 可愛らしい拗ね顔を披露して、ドライフルーツが練り込まれた菓子を口へと放り込む。途端に険しかった目元は緩み、だらしない表情が現れた。
「おいしい?」
「はい!」
 今日の為に取り寄せた菓子だから、美味しくなくては困る。即答に満足げに頷いて、雲雀はまだ熱いコーヒーを口に含んだ。
 深みのある香りをまず楽しみ、火傷しないよう気を払いつつ呑み込む。程よい苦みの後に微かな甘みが広がって、良い具合だと彼は目尻を下げた。
 何をやらせても器用にこなす男だ。後でお年玉を奮発してやろう、とひっそり決めて、雲雀は一瞬で中身が減った皿に苦笑した。
 食べ過ぎないよう言ってあるのに、クッキーは既に半分になっていた。
「そんなに美味しい?」
「ふぁい!」
 気に入って貰えたのなら、選んだだけの甲斐がある。満面の笑みを向けられて雲雀ははにかみ、ならば、と咳払いした。
「じゃあ、僕も一枚貰おうかな」
 囁き、コーヒーカップを置く。入れ替わりに腰を浮かせた彼に、綱吉は気を利かせて皿を押した。
 取りやすいように差し出したのだが、雲雀はそちらを無視した。中腰になって右手はテーブルに突き立てて、身を乗り出したかと思えば首を傾け、口を開く。
 向かうのは、綱吉が左手に持っている、食べかけのクッキーだ。
「あっ」
「ン」
 直前に気付き、綱吉は咄嗟に腕を引こうとした。それを寸前で思いとどまって、最初の位置から二ミリずれた場所で指を固定した。
 雲雀はそのまま瞼を閉じ、目測付けていた場所にかぶりついた。
 ぱくりと口に含み、肉の薄い指先を軽く食んで、甘いクッキーだけを奪い取る。
 ついでとばかりに濡れてしまった場所を、詫びとしてぺろりと舐めてやれば、真上からくぐもった呻き声が聞こえた。
 身を引きながら瞳だけを上向けて、雲雀はほくそ笑んだ。
「お、俺の指は、クッキーじゃないです」
「知ってる」
 耳の先まで真っ赤になった少年が、空になった左手を震わせて怒鳴った。けれど雲雀は易々と受け流し、不遜に笑んで口元を拭った。
 親指で唇を削り、最後に舌を絡ませる。意味深な仕草を間近で見せつけられて、口の端にクッキー滓を残した少年はうっ、と息を詰まらせた。
 熟した林檎よりも赤い顔を見せられて、雲雀は堪えきれずに腹を抱えた。
「でも、こっちのが美味しそうだったし」
「うぐ……」
 笑いながら言い足され、綱吉は口をぱくぱくさせた後に黙り込んだ。
 言うつもりでいた文句が行方不明にでもなったのか、リスを真似て頬を膨らませ、上目遣いに睨まれた。けれど怖いどころか可愛くて仕方が無くて、雲雀は手を伸ばすと茶色い髪をそっと梳ってやった。
 シャマルに掻き回された余波で、ツンツン跳ね放題の頭はいつもより酷かった。それを心持ち整えてやって、柔らかな頬を左右から挟み込む。
 至近距離から見詰められ、少年は照れ臭そうに目を逸らした。
 そういう仕草さえも、逐一可愛いから困る。ぷい、と横を向きながらも時折様子を窺って来られて、雲雀は堪らず柔らかな頬を揉み、小ぶりの鼻先に触れるだけのキスをした。
 ちゅ、と音を残されて、途端に綱吉の顔が紅色に染まった。
「……っ!」
 声にならない悲鳴を上げて、なんとか逃げようと暴れ出す。だが既に遅い。彼の腕力で、雲雀の束縛を振り解けるわけがなかった。
 じたばた足を動かす彼をテーブル越しに捕まえて、雲雀は観念するように目で告げた。
 真っ直ぐ見詰められて、その眼力に屈しないわけがない。正面から人と向き合うのが昔から苦手だった綱吉は即座に押し黙り、怯えと羞恥がない交ぜになった表情で唇を戦慄かせた。
 愛らしい子犬の口元を先に拭ってやって、雲雀はふっ、と息を吐いた。
「ダメ?」
 零れ落ちた懇願が、決定打だった。
 そんな寂しそうに訊かれたら、嫌だなど、とても言えない。分かってやっているのか天然なのか、判断に苦慮しながら綱吉は降参だと白旗を振った。
 力が抜けた身体をソファに預け、お返しだとじっと綺麗な顔を見詰め返す。雲雀は逸らすことなく微笑み、嬉しそうに口元を緩めた。
 前後して目を瞑り、首を前に倒す。先手を打たれた綱吉は慌てて瞼を下ろし、かあっと熱くなった心臓を握り締めて背筋を伸ばした。
 顎を上向かせ、ドキドキしながらその一瞬を待つ。
 そして。
「恭弥、ツナ! Buon anno!」
 まさに唇と唇が触れ合おうとした瞬間、だった。
 誰が招いたのか、金髪に瑪瑙色の瞳の男がクラッカーと共にドアを蹴破り、現れた。
 パァン! と火薬が破裂する音が部屋中に轟き、紙吹雪が宙を舞った。細い紙テープもひらひらと踊りながら降ってきて、テーブルに片膝着いていた雲雀の頭上にまとめて落ちて行った。
 黒髪が、マーブルカラーに早変わりだ。綱吉も、馬鹿にされた青年も惚けたままなにも言えず、ただ目をぱちぱちさせるしかなかった。
「え、……へ?」
 戸口に立つ男には、見覚えがあった。いつものジャンパーを羽織り、古ぼけたスニーカーを履いて、後ろには髭面の男を控えさせている。何がそんなに楽しいのか、得意満面の表情を浮かべているのは、間違い無く、キャバッローネ・ファミリーのボス、ディーノに他ならなかった。
 無論、雲雀は招いていない。綱吉も、一切聞いていなかった。
「え? ええ?」
「いやー、おめでと、ツナ」
「は、はい。おめでとうございます」
 何が起きているのか咄嗟に理解出来ず、頭も暫く働かなかった。鸚鵡返しに言葉を綴って、綱吉はにこやかに手を振った男に愛想良くお辞儀を返した。
 一方、綱吉の肩に手を置いていた男はといえば。
「なに……これ。貴方、いったいどういうつもりなの!」
 頭に被さった紙テープの山を千切って放り投げ、声の限り怒鳴った。折角綺麗にしたばかりのソファを蹴って靴跡を作り、家主に断り無く入って来た男を遠慮無く指差す。
 けれどディーノは臆しもせず、きょとんとしながら首を傾げた。
「ん? いや、ツナん家行ったら学校行ったって聞いたから。丁度良いと思って」
 雲雀の怒りを飄々と後ろへ流し、何故喚かれているのかも理解出来ぬ顔で告げる。頭上で繰り広げられる会話を黙って聞いて、綱吉は頬を引き攣らせた。
 このままだと、雲雀の我慢が限界を超えてしまう。新年早々学校が壊れるような真似は避けて欲しいのだが、もしここで自分がしゃしゃり出ていっても、きっと事態は好転しないだろう。
 大体、何を指して都合が良いのか。いや、それよりも、家に寄ったのであればリボーンにだって会っただろうに。
 あの極悪家庭教師は、どうしてディーノを止めてくれなかったのか。目の前で膨らんでいく怒気からさっと目を逸らして、綱吉は痛い頭を抱え込んだ。
「なんだって、こんなことに……」
「出て行きなよ。今すぐ、早く! 貴方を呼んだ覚えは無いよ」
「えー、なんだよ。つれねーなあ。良いじゃねーか、新年なんだからケチな事言うなよ。あ、そうそう。こっちの国だと、新年にはオトシダマっつーのがあるんだってな。それ、やろうと思ってさ。持って来たんだ」
 ひとり愚痴っている横で、雲雀が勢いよく捲し立てた。だがディーノは耳を貸さず、自分の都合を前面に押し出してにっこり無邪気に微笑んだ。
 がさごそポケットを探って取り出したのは、シャマルが綱吉に渡したものとよく似たポチ袋だった。
 ちゃんとふたつあった。聞いた一瞬だけ綱吉はビクッとなったが、先ほどのように無条件に喜ぶ事は出来なかった。
 雲雀は、絶句していた。
 そちらをちらりと窺って、綱吉はそろり、ソファから顔を出した。ディーノはにこにこしており、悪気があるようには見えなかった。
 日本の風習を教えられて、遣りたくて仕方がない、という様子だった。新年にイタリアから遊びに来たのだって、クリスマス休暇の最後を飾る為に寄った、ただそれだけだろう。
 無碍にするのは憚られた。それに、くれるというのであれば欲しい。今年一年間の懐具合にも関わるものだけに、雲雀さえ許すのなら、手を伸ばしてしまいたかった。
 正反対の表情の両名を見比べて、綱吉は下唇を浅く噛んだ。
「ん? どした、恭弥。ツナも。ほら、要らないのか?」
 ふたりが揃って動かないのに焦れて、ディーノがポチ袋を上下に揺らした。中には一体どれだけ入っているのか、袋は両方ともかなり厚みがあった。
 一度見てしまうと、もう目が逸らせないレベルだった。うっかり前に出ようとした綱吉を端に見て、雲雀は口惜しさにギリギリ歯軋りした。
 顎が軋むくらいに奥歯を噛み締めて、手を背中に回す。次の瞬間、どこから出したのか、その手には銀光りするトンファーが握られていた。
「そんなの、要らないに決まってるよ!」
 開口一番叫び、テーブルを一足飛びに飛び越える。突然上から降ってきた一撃に戦き、ディーノは慌てて左に逃げた。
 初手を躱され、雲雀のプライドに傷が入った。着地と同時に右腕を振り抜き、立ち上がるそのバネを利用して飛びかかった彼から更に逃げて、ディーノは目を丸くしながらロマーリオの方へ駆け出した。
「ボス、危ない!」
「ちょ、ちょっと待った。恭弥、どうしたんだ急に」
「うるさい。僕の邪魔をした報いだよ!」
 人の逢瀬をぶち壊しておいて、全く悪びれようとしない。その態度が気に入らないのだと、昨年からつもりに積もっていた鬱憤を爆発させる彼に、ディーノは甲高い悲鳴を上げた。
 矢張り始まったドタバタに、綱吉は深い溜息を吐いた。
 こうなったら、雲雀が落ち着くまで待つしかない。下手に介入したら痛い目を見るのはこちらだと弁えて、彼はゆるゆる首を振った。
 再びソファに身を沈め、冷めてすっかり温くなった紅茶を一期に飲み干す。ついでにクッキーも一枚頬張っていたら、胸元から軽い振動を感じた。
「あれ、電話だ」
 所持していた携帯電話が鳴っていた。
 ポケットから取り出して広げると、発信者の名前がモニターに大きく表示された。但し、人名ではなかった。
「家から……?」
 自宅を表す『家』の文字が見えて、眉を顰める。固定電話から掛かってくる理由が分からなくて戸惑いつつ、出ないわけにもいかないので応答すべくボタンを押す。
「もしもし?」
 右耳に押し当てて瞳を浮かせた彼の視界に、逃げ回るディーノと、追い回す雲雀が順に現れ、消えていった。
 そう広くない部屋を飛んだり、跳ねたり、転がったりと大騒ぎで、ドスンバタンと騒動は凄まじい。お陰で通話の内容がなかなか聞き取れず、綱吉は仕方なく左耳に人差し指を突っ込んだ。
 ノイズを極力カットして、神経を電話に注ぎ込む。聞こえて来たのは、母のおっとりした声だった。
「え? え、うん。って、嘘。それホント?」
 のんびり語られる話に逐一驚き、目を丸くして、綱吉は息を呑んだ。慌てて伸び上がって部屋の様子を窺えば、ついに部屋から逃げたディーノを追って、雲雀が応接室から駆け出すところだった。
 ロマーリオも主人を追いかけ、慌てて走っていった。室内には綱吉ひとりが取り残されて、騒動を聞きつけた草壁が慌てた様子で顔を出した。
 電話口の向こうから、奈々がどうしたのか聞いて来た。しかしそれに答えず、綱吉は一瞬迷ってから分かった、と頷いた。
 通話を切り、草壁に事情を大雑把に説明して、綱吉も部屋を出た。玄関で靴を履き替える直前、グラウンドの方を覗いてみたら、新年から楽しい鬼ごっこが続いていた。
 心の中で誤り倒し、急ぎ正門を潜る。鬼の形相だった雲雀がはっと我に返ったのは、それからたっぷり十分が経過した後だった。
「あ、あれ。つな……よし?」
「ツナなら帰ったぞー」
 年末年始の暴飲暴食で動きが鈍ったディーノを仕留め、撃沈させてから自分の状況を思い出す。呆気にとられて眼をぱちくりさせていたら、低い位置から唐突に話しかけられた。
 あると思っていなかった返答に驚き、慌てて足を跳ね上げて後方へ下がる。トンファーを素早く構えた彼の前で、いつの間にセッティングしたのか、屋外でティーパーティーを楽しむ赤ん坊が不遜に笑った。
 隣では草壁が、困った顔で笑っていた。
「え……?」
 今し方聞いた話が本当かどうか、それすらも分からない。ただ言った相手が相手だけに、嘘と談ずるには勇気が要った。
 冷えた汗に体温が持って行かれ、すーっと熱が下がっていく。寒気を覚えてぶるりと震え、彼は惚けたまま赤子を凝視した。
 黄色いおしゃぶりを首にぶら下げ、リボーンは不敵に口角を歪めた。
「今、ツナの家には九代目が来てるからな。そっちに飛びつくに決まってんだろ」
「……ちょっと。なにそれ」
「他にも、ザンザスのヤローが夜に顔を出すって話だしな。ツナの奴、当分忙しいぞ」
「どういうこと」
 息を整えているうちに、頭の方もさーっと熱が引いていくのが分かった。みるみる青ざめていく青年を仰ぎ見て、底意地の悪い元アルコバレーノは楽しげに笑った。
「決まってんだろ。ガキにゃオトシダマ、ってな」
 あの子の笑顔を見たければ、この時期そうするのが一番良いか。
 まだ轟沈したままのディーノをぱっと振り返って、雲雀は総毛立った。
 手っ取り早い方法を、正月とは無縁のイタリア男に囁いたのが誰なのか。現金すぎる恋人を持った青年はようやく理解して、がっくり肩を落として天を仰いだ。

2014/01/03 脱稿