竜胆

 慣れない布団、慣れない枕。
 聞き慣れないイビキ、歯軋り。悪夢にうなされているらしき誰かの呻き声と、静かな虫の声。
 過敏になった神経は昼の疲れを押し切り、訪ねて来るべき睡魔を追い払ってしまった。身体は休息を求めているというのに眼が冴えて、日頃の寝つきの良さが嘘のようだった。
「むにゃ、きよこしゃぁん……」
「う~」
 近くで眠っている田中の寝言に合わせて呻き、日向は額をぺちりと叩いた。
 そんなことをしても眠気はやってこない。分かっていてもやらずにはいられなくて、彼は鼻を啜りあげると辛そうに息を吐いた。
 寝返りを打てば、同じく薄い枕が波打った。少々黴臭いそれに頭の右半分を埋め、彼はなんとか眠ろうと目を瞑った。
 しかし五秒待っても、一分が過ぎても、ささくれ立った心が和ぐことはなかった。
 用意された寝床に入って、既に一時間は経っていた。川の字になって並んでいるほかの部員はとっくに夢の中で、誰ひとりとして彼の苦悩を理解していなかった。
「どうしよ」
 天井に向き直り、ぼそりと呟く。照明は消されていたが、カーテンがないからか、室内は仄かに明るかった。
 月でも出ているらしい。耳を澄ませばフクロウだろうか、鳥の声もした。
 夜行性の獣にとっては、これからが活動時間だ。合宿地として選ばれた学校はすぐ裏手が林になっており、急峻な坂を駆け上がるペナルティはかなり厳しかった。
 昼間の出来事をひと通り振り返って、日向は深々とため息をついた。
「ちぇー」
 影山と会話をしなくなって、三週間近く。同じチームなのだから毎日顔を合わせてはいたものの、合宿に入るまで、碌に目も合わさなかった。
 試合ともなれば一緒にコートに立たねばならないが、連携は正直、上手く行っていなかった。
 今日の練習で、これまでと違うものを感じた。けれど、やはり思い切りよくトスを打てなかった。
 空振りなどのミスが連発して、思うように点数が取れない。焦りはサーブミスにも直結し、失点に失点を重ねる悪循環に陥った。
 一セットも取れないまま全敗するのは、かなり堪えた。
 合宿に参加している学校で、自分たちが一番レベルが低くて弱いと分かっている。だから強くなりたくて挑んでいるのに、目の前の壁にあっさり跳ね返されて、心が挫けそうだった。
 このままでいいのか、少し不安になった。
「……トイレいこ」
 天井に浮き上がる染みから目を逸らし、日向は呟いた。のっそり起き上がり、冷えた畳に足を置く。
 宿泊所として開放されている柔道場は、布団で埋め尽くされていた。
 遠くを見れば、ほかの学校の生徒も健やかな眠りに就いていた。もしここで転びでもして、大きな音を立てようものなら、棘ある視線の集中砲火に晒されるのは間違いなかった。
 そうならないよう注意して、日向はそろり、足を踏み出した。
 夜になり、気温は幾ばくが下がっていた。それでもまだ昼の名残が所々に残り、空気が肌に張り付く感覚が不快だった。
 皆が密集していた柔道場を出ると、少しだけ快適さが戻ってきた。シンと静まり返った通路に出て、彼はシャツの襟を引っ張った。
 首元を広げ、同時に裾も抓んで空気の通り道を作ってやる。そのまましばらくパタパタと布を揺らしていたが、生まれ育った地元の涼しさは微塵も感じられなかった。
「東京って、こんなあっちーの」
 愚痴を零し、日向はうんざりした顔でかぶりを振った。
 この蒸し暑さも、眠れない原因のひとつだった。
 まだマシな方だと言われたし、これからもっと酷くなるとも聞いているが、とても信じられない。早く夏涼しくて冬寒い、住み慣れた雪ヶ丘に帰りたかった。
「や。ダメだろ」
 そこまで思って、日向は自分に首を振った。
 折角母に頭を下げ、合宿の費用を出してもらったのだ。寄付してくれた人たちの為にも、なんとかしてこの一週間で、現状からの突破口を見つけなければいけない。
 準々決勝で敗退した悔しさは、今も胸の中で燻っていた。これが燃え尽きてしまわぬうちに、厚い壁を乗り越える策を練り出すのだ。
 とはいえ、意気込みだけでは空回るだけだ。
「う~ん……」
 考える作業は苦手なのに、頭を捻らずにいられない。期末試験対策で使ってこなかった脳細胞を活性化させたので、それがまだ疼いているらしかった。
 眉間に皺を寄せ、素足で廊下をぺたぺた進む。非常灯の明かりを頼りに進んでいたら、どこからともなく、獣の声が聞こえて来た。
 近い。
 猫だ。
「あー」
 どこか哀愁を誘う、にゃおん、と甘えた声だった。誰に対してか媚を売っている様子が窺えて、発情期だろうかと彼は首を傾げた。
 雑木林が広がる一帯だから、野良猫が住みついていてもおかしくない。好奇心を擽られ、日向はその場で背伸びをした。
 爪先立ちで方向転換して、進路を変更する。向かう先はトイレではなく、屋外に通じるドアだ。
 玄関では大きな下駄箱が壁を占拠し、入りきらなかった靴が一帯に散乱していた。記憶を頼りに自分の靴を探し出して、日向はいそいそと扉を押し開けた。
 施錠はされていなかった。常夜灯の白っぽい明かりが頭上を照らし、足元に影を作り出す。光に誘われたらしき蛾が数匹、汚れが目立つガラスに張り付いていた。
 虫が飛び回る羽音を手で追い払って、日向は息を潜めた。
 猫の声は、どちらから聞こえただろう。注意深く周囲を探っていたら、比較的近い場所でガサッ、と物音がした。
 不自然さに誘われて、反射的にそちらを向く。
 見えたのは、ぼやっとした青白い光だった。
「へ?」
 てっきり、子猫だと思っていた。愛くるしい毛玉が近づいてくるのを想像していただけに、予想を裏切る展開に日向は仰け反り、総毛立った。
「ヒィ!」
 しかも裏返った声で悲鳴を上げた彼の前で、その光がふっ、と消えた。
 火の玉、という単語が脳裏を過ぎった。怪談話につきものの、墓場などに出没するというアレだ。
 言われてみれば前方に広がる森林が、いかにも何か潜んでいそうな雰囲気だ。ここもかつては戦場だったに違いない。傷を負った武士が行き倒れ、その無念さが大地に染みついて怨霊と化していても、なんら不思議ではなかった。
 素晴らしいスピードで妄想を巡らせて、真っ青になった日向はその場でたたらを踏んだ。
「ひゃ、わ、ひょっ、ふお、ほ!」
 後ろにふらつき、よろめいてバランスが崩れた。靴の踵を踏んでいたのも災いして、コキッ、と足首が変な風に折れ曲がった。
 立っていられない。奇声を上げ、日向は万歳しながら尻餅をついた。
 ドスン、と結構な音がした。当然、痛みも酷い。見る間に涙目になり、日向は何故出てきてしまったのかと数分前の自身を恨んだ。
 猫の声に誘われたばかりに、幽霊を目撃するなんて。大人しく布団にくるまっておけばよかったと後悔に苛まれていたら、その元凶ともいえる猫がするり、と暗がりから顔を出した。
 獣は、怪談とは無縁らしい。尻尾を悠然と揺らす姿に、日向は鼻を愚図らせた。
「いってぇ……」
「翔陽?」
「ふえぇ?」
 早く逃げなければと思うのに、金縛りに遭ったかのように体が動かない。それでも足掻いて悶えていたら、不意に聞き覚えのある声が飛んできた。
 予想外過ぎて、変なところから声が出た。慌てて口を塞ぐが遅く、猫に続けて現れた少年が、吃驚した顔で瞬きを繰り返した。
 頭頂部が黒く、毛先に向かうにつれて金色のプリン頭に、赤色のジャージ。利き手にスマートフォンを握り、足元には数匹の猫を従えていた。
「けんま?」
 その少年を仰ぎ見て、日向もまた、目を点にした。
 やや舌足らずに名前を呼ばれ、彼はコクリと頷いた。常夜灯が照らす空間に足を踏み込んで、手にしたスマートフォンをちらりと見る。
 電源を入れたらしく、その周辺が更に明るくなった。どこかで見た気がする輝きに唖然として、日向は座り込んだまま息を呑んだ。
「じゃあ、今の」
「どうしたの、翔陽。眠れない?」
 先ほど見た火の玉と、そこに佇む少年と。
 因果関係を整理して狼狽える彼を知らず、孤爪研磨は小首を傾げた。
 半袖シャツにショートパンツ姿の日向とは対照的に、彼は長ズボンだった。シャツも薄手とはいえ長袖で、見ているだけで汗ばみそうな格好だった。
 ボタンを押して電気を消し、研磨はスマートフォンを下ろした。ポケットには入れずに握ったまま腕を垂らし、惚けて何も言えずにいる友人に眉を顰める。
 返事が得られないのを怪訝に思っていたら、何度か喘ぐように息継ぎした日向が、すり寄ってきた猫にも悲鳴を上げた。
「うひょぉ」
「噛まないよ。人に慣れてるみたい」
 まだ心臓がバクバク言っており、恐怖は完全に払拭出来ずにいた。その所為で必要以上に怯えてしまっただけなのだが、研磨にはそれが通じていなかった。
 猫が苦手なのかと勘繰って、撫でて欲しそうにしている猫の頭をぽん、と叩く。茶色い毛並みに猫は途端にみゃあ、と鳴いて彼の方に進路を変えた。
 膝に乗ろうとする子を制して、彼は呼吸が荒い日向を覗き込んだ。
 屈まれて、距離が詰まった。間近から見つめてくる研磨の瞳も、猫のように細かった。
「なんだ。びっくりした」
 お化けでも、幽霊でもなかった。それを実感してホッとする日向に、彼は不思議そうに眉を顰めた。
「翔陽?」
「もー、驚かせんなよ、研磨」
「え? なにが?」
「もういい。なんでもない。それより研磨、なにしてたの?」
 様子がおかしいと訝しむ研磨をじっと見つめ返し、日向ははっ、と短く息を吐いた。それでやっと心が落ち着いて、いつもの調子が戻ってきた。
 いきなり口数が増えた彼に戸惑い、研磨は頻りに首を捻った。けれどさっきまでの調子に戻られるよりはいいと切り替え、自分の疑問には蓋をした。
 居住まいを正して、彼はコンクリートが作る段差に腰を下ろした。
 すかさず数匹の猫が周囲に集い、甘えて身体を摺り寄せた。ゴロゴロと喉を鳴らし、此処を撫でろ、とばかりに頭を突き出しもする。
 懐かれている様子に苦笑して、日向は揺れている黒い尻尾を小突いた。
 途端に嫌がられ、振り払われた。睨んできた黒猫相手に腹を抱える彼に嘆息し、研磨は今一度、スマートフォンの電源を入れた。
 スリープモードを解除して、現在時刻を表示させる。日付はとっくに変わっていた。
「寝ないの?」
「あとちょっとしたら」
「ふーん」
「いつもは、寝るのもっと遅いから。合宿だと早過ぎるし、人いっぱいで落ち着かない」
「ふーん……?」
 液晶画面に見入る横顔を眺め、日向が緩慢に相槌を打つ。研磨は目を合わさないまま訥々と語り、サビ猫を撫でた。
 彼らは研磨の弁の通り、かなり人に慣れていた。怯える様子もなければ、警戒心を抱きもしない。餌を与えてくれる存在として、完全に心を許していた。
 食べ物には困っていないようで、いずれも毛艶が良かった。痩せている猫はおらず、逆に太り過ぎではないか、という体格の子もいた。
 その一番大きな子を捕まえて、日向はすくっと立ち上がった。
「うお、結構重い」
 抱き上げると、ずっしり来た。小学校二年生の妹よりは軽いが、猫と油断していたら落としそうになるくらいだった。
 ずるっと手の中で毛が滑って、持ち上げられた猫が抵抗してじたばた暴れ出した。シャツを爪で引っ掻かれ、ミャーミャーと喧しい悲鳴がこだました。
 日向が腰を屈めて指を広げた途端、特大の黒猫は身を翻した。地面まで三十センチ近くあったのに苦も無く着地して、風を切って走っていく。
 瞬く間に暗がりに紛れてしまって、日向は肩を竦めた。
「あちゃー」
「翔陽、猫、好きなの?」
 失敗した。警戒されてしまったと苦笑していたら、相変わらず猫に囲まれた研磨がぽつりと呟いた。
 それがあまりにも小声だったから、独り言かと聞き流しそうになった。後から質問だと理解した日向は嗚呼、と頷き、白い歯を見せて朗らかに笑った。
「おれ、犬のが好き」
「……へえ」
「でも猫も嫌いじゃない。動物はみんな好き」
 予想していたのとは若干異なる回答にがっかりする暇もなく、言葉が補われた。トラ猫にちょっかいを出す日向に言い足され、研磨は緩慢に頷いた。
 彼の中で猫がどのランクに位置しているのか、判断に困る返答だ。少なくとも犬よりは下らしいが、真下なのか、間に他の生き物が紛れているのかについては、結論を保留するしかなかった。
 なんとなく同じ部の犬岡に負けた気分になり、研磨はジャージを引っ掻く猫の額を小突いた。
 そのいじけた態度に目を細め、日向がトラ猫の喉を擽った。
「そーいや、猫のお化けっていったら」
「お化け?」
「昔さ、おれん家に野良が何匹か遊びに来てたことあってさ」
 研磨が握ったまま手放そうとしないスマートフォンを盗み見て、呟く。急な話の飛躍に驚く彼を余所に、日向は蘇った過去の記憶に顔を綻ばせた。
 決まった住処を持たず、餌を分けてくれる家を彷徨う野良猫が何匹か、雪ヶ丘町に居た。日向家もそのルートのひとつに数えられており、頻繁に顔を出す猫も多かった。
 そのうちの一匹が、まだ小学生だった日向によく懐いていた。かなりの老猫で、陽当たりのよい縁側が彼女のお気に入りの場所だった。
 撫でても、抱き上げても怒らない猫だった。けれどある時を境にぱったり姿を見せなくなって、心配して母に相談すれば、寿命だろうと言われてしまった。
 それがどういう意味なのか、上手く理解出来ないまま過ごしていた冬のある日。日向は風邪を引いて熱を出した。
 咳も酷く、学校を三日も休んだ。それでもなかなか良くならなくて、だるさと息苦しさで、泣きながら布団に包まっていた時だ。
 冬場だから、当然のように窓は閉めてあった。入口も同じだったはずだ。ストーブの上のヤカンがしゅわしゅわ音を立てて、部屋は薄暗かった。
 母はいなかった。日向はひとり、眠っていた。何かの気配を感じて目が覚めて、辺りを見回したら。
「枕んトコに、あの猫がいてさ」
 日向が存在に気付くと、猫は嬉しそうにみゃあ、と鳴いた。そしていつものように尻尾をゆらゆら揺らめかせ、ざらついた舌で汗ばんだ額を優しく舐めてくれた。
 熱の所為で意識は朦朧としており、それが現実か、夢だったのかは分からない。次に目を開けばもう夕方で、猫が部屋に潜り込んだ形跡はどこにも見出せなかった。
 驚くべきことはほかにもある。
 あれほど梃子摺らされた熱が、あっさり下がったのだ。
 喉の調子も良くなって、朝までゲホゴホ言っていたのが嘘のような治りようだった。看病していた母も、いったい何が起きたのかと不思議そうだった。
 祖母にその話をしたら、猫が持って行ってくれたのだろう、と言われた。
「持っていった……」
「うん。ホントかどうかなんて、分かんないけど」
 ドアも窓も閉め切られた密室を、猫が自由に出入り出来るのも奇妙な話だ。だからあれは夢だったのだと、今の日向は理解している。
 それでも少しだけ、思う。苦しんでいるところを見かねた猫が、こっそり助けに来てくれたのではないだろうか、と。
 足元でゴロンと横になった猫を撫でながら、日向は目を眇めた。懐かしくもある感触に相好を崩し、ふと、研磨が正面から見つめてきているのに気付いて奥歯を噛み鳴らす。
 不意にこみあげて来た嗚咽を押し殺して、下を向いて誤魔化す。力なく頭を垂れたら、額が研磨の肩にぶつかった。
 なで肩の華奢な身体に寄り掛かって、彼は深く息を吸い、時間をかけて吐き出した。
「翔陽」
「ねー、研磨。研磨は、もしさ。チームの誰かと上手くいかなくなったら、どーする?」
 体重を預けられ、研磨の身体が前後に揺れた。押し倒されないよう腹に力を込めた彼は、続けて紡がれた言葉に一瞬目を見開き、項垂れる茶色い頭に視線を流した。
 朝、バスで着いたばかりの彼らを出迎えた時に抱いた微かな違和感。部外者だからと飲み込んでしまった疑問がここに来て首を擡げ、出口を探して迷走を開始した。
 コートの中に居る彼らは前回とはまるで別人で、動きがてんでちぐはぐだった。試行錯誤のど真ん中にいるのは明白で、堅固に見えた鎖は絡み、千切れ、砕ける寸前だった。
 常に前向きで、勝気で、ポジティブで、未来志向。そんな日向が葛藤を口にした。底なし沼に囚われて、もがきながら沈んでいく彼が見えるようだった。
「おれは、……」
「うん」
「わかんない、かも」
「エ゛ッ」
 そんな幻を自分に置き換えて、研磨は目を逸らした。雲間に浮かぶ月を仰ぎ、即答は難しいと切り返す。
 日向はばっと身を起こし、想定外だと絶句した。
 変なところから響いた声に噴き出して、研磨はサビ猫の背を叩くように撫でた。
 柔らかな毛を梳いて、耳の後ろを擽って、手を離す。もっとと強請って来た肉球を押し退けて、彼は立てた膝に身体を押し付けた。
 背中を丸めて小さくなった研磨に、日向は不思議そうに首を傾げた。
 小さい頃から、人との接触を極力避けて来た。友人は自慢出来るほどに少ない。関係が険悪になれば、それとなく距離を取ってフェードアウトするのが常だった。
 けれどそれは、日向が聞きたがっている答えではない。
 だから口に出せないし、出したくなかった。言葉を濁し、はぐらかして、しょんぼりしている友人を目の当たりにして唇を噛む。
 チリッと来た痛みに歯を食いしばり、研磨は手を伸ばした。
「う」
 ぽすん、と茶色い頭を撫でれば、首を竦めた日向が間を置いて目を丸くした。
「研磨」
「でも、もし、おれが……クロが、新しい事やろうとして、上手くいかなくてイライラしてても。クロなら絶対出来るようになるって、知ってるし、思うから。だから、その。……えっと、つまり――」
 驚いた風に見つめられて、研磨はさっと目を逸らした。但し手は引っ込め損ねてしまって、仕方なく日向を撫で続けた。
 残る手でスマートフォンを握りしめて、案の定上手くまとめられなかったと言ってから後悔する。
 だが日向は違った。元気がなかった頬はみるみる赤みを取り戻し、双眸は輝きに満たされた。
 身を乗り出し、彼は嬉しそうに息まいた。
「じゃあさ、じゃあさ。研磨は、おれも、出来るよーになるって思う?」
 伸びあがって頭上にあった手を弾き飛ばし、落ちてきた指先を空中で捕まえて叫ぶ。突然の大声に猫が数匹鳴いたが、構いもしなかった。
 手を握られて、予想外の熱に研磨は息を呑んだ。
「しょ、う」
「思う?」
 中途半端なところで声が切れてしまった。そこに被さる形で再度訊かれて、面食らった彼は瞬きを連発させた。
 頭の中が真っ白になった。空っぽになって、直前の会話がどこかへすっ飛んでしまった。それが急降下して戻ってきて、ハッとなった研磨は全力疾走した後並みに胸を高鳴らせた。
 バクバク言う心臓を懸命に宥め、噴き出た汗もそのままに、正面に向き直る。
 答えを待つ友人をそこに見つけ、研磨は頬を緩めた。
「なれると思うよ」
 しどけなく笑い、告げる。直後、日向の表情が一気に綻んだ。
 笑顔とは、こんな風に形作られるのだ。それを初めて目の当たりにして、研磨もつられて相好を崩した。
「よっしゃー!」
 力強く拳を突き上げ、日向が夜というのも忘れて意気込んだ。気合いも十分な雄叫びに目尻を下げて、研磨は戻って来た黒猫を手招いた。
「でもその前に、もっと練習しないとだけど。サーブも、レシーブも、翔陽、前の時とそんな変わってなかったし。へたくそだったし。そんなんじゃ、リエーフにも負けるだろーし」
「げ、ええっ」
「全敗して落ち込んでる暇なんてないと思うし」
「うぇぇ、そうだけど。そうなんだけどー。もー、なんでそんな事言うのさ。研磨がいじめるー」
「いじめてないよ。全部、ホントのこと」
 上機嫌に喉を鳴らす黒猫を撫で、ぼそぼそと呟く。途端に意気込んでいた少年は落胆し、誰に向かってか不満を投げかけた。
 こんなに饒舌な自分が存在すると知ったのは、最近だ。
 幼馴染相手でさえ、こんな風には喋れない。奇妙なものだと笑っていたら、ひと通り発奮した日向がストンと腰を落とした。
「翔陽?」
「やっぱ研磨って、ネコだ」
「うん?」
 コンクリートに座り込み、またも肩に寄り掛かってきた。顔を向け合わさぬまま囁かれて、聞き取り辛かった研磨は首を傾げた。
 返事はなかった。一瞬で静かになったのに嫌な予感を覚え、そうっと身体を抱きしめる。
 覗き込んだ顔は幸せそうに微笑み、瞼は閉ざされていた。
 力みの抜けた表情で、日向はぐっすり眠っていた。
「……うそ」
 ホッとして、緊張が解けたのだろう。それにしては寝入るのが早すぎる。しかも場所が場所だ。こんなところで眠ったらどうなるか、ちょっと考えれば分かりそうなものなのに。
 唖然とし、研磨は柔らかな頬を軽く叩いた。
 折角眠ったところ申し訳ないが、起きてもらわないととても困る。だのに願いに反し、日向はむずがっただけで一向に目覚めようとしなかった。
 どの学校よりも多くペナルティを食らっていたから、疲れも溜まっていたのだろう。バス中泊で宮城から移動して来た際も、ぐっすり熟睡できなかったに違いない。
「どうしよう」
 もうちょっと頑張って、叩き起こすか。それともスマートフォンで幼馴染を呼び出して、手伝ってもらうか。
 悩み、研磨は肩を落とした。あどけない寝顔を正面から見つめ、恐る恐る、その背に腕を回してみる。
 起きている時では絶対に出来そうにない真似をして、とくとくと刻まれる鼓動に耳を傾ける。耳を澄ませば安らかな寝息が、心地よいリズムを奏でていた。
 これを邪魔するのは忍びない。一瞬で寝つけるくらいに心許してくれているのだとしたら、それはきっと、喜ぶべきことだ。
 逡巡を終え、研磨は意を決して腹に力を込めた。
 集まっていた猫が鳴いた。応援ついでに雨風凌げる場所を求め、のろのろ運転で進む背中を追いかける。
 翌朝、柔道場。
 メンバーが足りないと騒ぐ某高校を余所に、音駒の生徒らは携帯電話のフラッシュを光らせた。
 猫と共に寝入るふたりの写真が、一部のメンバー間で高額で取引されたというのは、また別の話だ。

2013/12/17 脱稿