Canary

 ホームルームが終わり、大急ぎで駆け込んだ部室での事だった。
「いたっ」
 突然甲高い悲鳴が上がり、着替えに勤しんでいた男子部員は何事かと目を丸くした。
 女子か、と勘繰りそうになった声に騒然となり、その発生源を探って視線を彷徨わせる。総勢六名の眼差しを一身に集めた少年は、悲痛な顔をして己の右手を見つめていた。
 身長百六十センチ少々の小柄な体躯に、タンポポの綿毛を思わせるふわふわの髪。大粒の瞳は哀しげに歪められ、小振りの鼻がヒクヒク震えていた。
 口を窄ませ痛みに耐える彼を見て、一瞬でも胸を時めかせた男たちは揃ってがっくり肩を落とした。
「なんだ、日向かよ」
「はい?」
 勝手に期待して、勝手に落胆した二年生部員がしょんぼりしながら愚痴を零す。急に名前を呼ばれた一年生は驚き、顔を上げた。
 先日高校生になったばかりの少年は、背の低さに母譲りの童顔も手伝って、実年齢より少々幼く見えた。
 外を歩けば中学生か、下手をすれば小学生に間違えられる。本人もそれを苦々しく思っており、毎日欠かさず牛乳を愛飲していた。
 もっとも今のところ、努力が実を結んでいるとは言い辛い。一年前と二センチも違わない背丈で小首を傾げた彼に、坊主頭の田中は何でもない、とひらひら手を振った。
 犬猫を追い払う仕草に、日向はむすっと眉間の皺を深めた。
「田中さん?」
「なんでもねーよ。お前が、紛らわしい声あげんのが悪い」
「はい?」
 年長者とはいえ、失礼な態度を取られて腹立たしい。苛立ちの感情を正直に顔に出せば、田中がぼりぼりと形良い頭を掻いて吐き捨てた。
 意味が分からなくてきょとんとして、日向は不満げに頬を膨らませた。
 先ほどの彼の悲鳴を、女子が叫んだものと勘違いしたのが恥ずかしいだけだ。わざわざ声に出して説明するまでもないと田中は無視を決め込み、練習着に袖を通した。
 着替えを再開させた彼をしばらく睨み続けた日向だが、待っていても無駄だと五秒後には諦めた。いったいなんだったのかと頻りに首を傾げながら、注意を手元に戻して浅く唇を噛む。
 ほんのり朱を帯びた頬に理由があると気づき、田中の左隣に立っていた菅原がひょっこり身を乗り出した。
「日向、指、どうかした?」
 彼はずっと、自身の右手を気にしていた。
 田中が紛らわしいと言った悲鳴は、「痛い」だった。五本の指を広げて顔を顰めている彼の身に何が起きているのかは、それだけで大雑把に理解出来た。
 嫌な予感を覚え、シャツの裾を整えた菅原は急ぎ畳の縁を跨いだ。
 反対側の壁際に居た後輩の元へ駆け寄り、上から小さな手を覗き込む。日向も遠慮せずに掌を広げ、じんじん痛む場所を示した。
 真ん丸い瞳には薄ら涙が浮かび、ほんのり潤んで妙な艶を放っていた。
「菅原さん」
 田中に冷たくされた分、構ってもらえたのが嬉しいらしい。ずび、と鼻を啜った彼に見つめられて、菅原は肩を竦めて苦笑した。
 痛みにじっと耐えている後輩の頭をぽんぽん撫でて、烏野高校男子排球部副部長は困った顔で顎を撫でた。
 彼の右手人差し指が、見事にぱっくり裂けていた。
「紙、かな」
「うぅぅ」
 鋭利な刃物でさっくり斬られており、その長さは五ミリを超えていた。
 傷自体はさほど深くはなかった。ただ第一関節の傍、腹側という場所にあり、指を曲げると必然的に傷口が広がる状況だった。
 血管まで至っていないので、血は殆ど出ていない。けれど見た目からして痛そうで、日向も気になる様子だった。
 関節を曲げ伸ばしすると、動きに合わせて裂傷部分がパクパク開閉した。それを面白がる余裕もなく、日向は助けを求めて菅原に縋りついた。
 こうしている間も指先がズキズキして、痺れが右手全体に広がっていった。皮膚の内側に隠れている肉が顔を覗かせていて、それも恐ろしくてならなかった。
 破天荒な野生児のくせに、こんな小さな傷ひとつにびくびくしている。意外だと驚いていたら、二人のやり取りを眺めていた縁下も話に加わって来た。
「日向、どうかした? 怪我?」
 学生服を脱ぎながら聞かれ、一年生は即座に首肯した。
 いつ、どこでこんな傷を作ったのか、全く記憶がなかった。
 ナイフなど持ち歩いていないし、刃を誰かに向けられた覚えもない。とすれば菅原が言ったように紙でサクッとやってしまったのだろうが、教室から部室に移動するまでの間、気づかないものいかがなものか。
 着替えようとして、荷物を棚に置いたところで痛み出した。ただ状況的に、今出来た傷と思えなかった。
 どんなに鈍感なのかと鼻を愚図らせ、奥歯を噛み締める。血は出ていないのに心臓よりも高い位置に右手を掲げた彼を笑い、月島が皮肉を口にした。
「唾でもつけてれば、治るんじゃない?」
「こーら。誰か絆創膏、持ってないか?」
 昔から言われている迷信を揶揄した背高の後輩を叱り、菅原が部室内を見回した。居合わせた排球部のメンバーに一斉に問いかけるが、誰も彼も互いに顔を見合わせるばかりで、色よい返事は得られなかった。
 ここにいる男子生徒の大半が、擦り傷程度なら水で洗って済ませるタイプだった。それこそ唾をつけて終わらせる粗忽者揃いなのを思い出して、菅原は小さくため息をついた。
 マネージャーを務めている清水なら、一枚くらい持っているだろう。けれど彼女は別の場所で着替えており、この場には居なかった。
 万が一に備えている男子部員が皆無の状況にかぶりを振り、彼は鼻をすぴすぴ言わせている未来のエースに苦笑した。
 暫く耐えていたら、そのうち痛みも薄れるだろう。しかしそれがいつになるのかは、日向にも分からない。
 それに、傷の場所も気がかりだった。
 よりにもよって、ダメージを負ったのは一番使う指だった。
 セッターほど指先を酷使しないけれど、日々の生活でも何かと出番が多いのが、利き手の人差し指だ。
「日向は……」
「ないです」
「だよなあ」
 万が一に賭けて本人に尋ねるが、返答まで一秒もかからなかった。
 誰よりも動き回るから、誰よりも怪我が多いのに、絆創膏の一枚も持ち歩いていないのはどうかと思う。それで今までよく平気だったな、と感心していたら、鞄をごそごそさせた縁下が嬉しそうに声を弾ませた。
「あ、あった」
「お?」
 菅原の問いかけに反応し、自分の荷物を探っていたらしい。足元に置いた鞄から手を引き抜き、彼は取り出した一枚を誇らしげに掲げた。
 いったいいつからポケットに押し込められていたのか、絆創膏の包装紙は端が黄ばみ、皺だらけだった。
「これしかないですけど」
「うーん。まあ、大丈夫じゃないかな」
 見た目は古いが、未開封なので使えないことはないだろう。心配そうな縁下から受け取って、菅原は緩慢に笑った。
 痛みが引くまで、患部を覆っていられたらそれでいい。過去の経験を振り返りながら呟いて、彼は渡されたばかりの絆創膏をそのまま左へ流した。
「はい、日向。良かったな」
「ありがとうございます」
 所望したのは菅原だが、本当に必要なのは日向だ。受け取るよう促され、彼は改まって礼を述べた。
 ぺこりとふたりに頭を下げ、いそいそと包装を破く。製造されてからかなり歳月が経っているらしく、ちょっと力を加えただけで紙はふたつに分解されてしまった。
 間から零れ落ちた絆創膏を受け止めて、日向は不要なゴミを握り潰した。
 これで一件落着だ。菅原と縁下は揃ってホッとした顔をして、着替えを再開すべく所定の場所へ戻ろうとした。
 しかし菅原がベルトに手を伸ばす前に、後ろから切実な声で呼び止められた。
「すがわらさあ~~ん……」
 非常に間延びした情けない声に肩を叩かれ、彼は吃驚して振り返った。見れば未だ学生服姿の日向が、傷を負った右手に左手を重ねた状態で涙ぐんでいた。
 今しがた渡した絆創膏は何処へ行ったのか、右手人差し指は裸だった。
「ひなた?」
 てっきり、もう終わったものと思っていた。鼻の頭を赤くして喘いでいる後輩に小首を傾げ、菅原は再度着替えを中断し、踵を返した。
 白のトレーナーに学生ズボン姿で歩み寄り、広げられた掌ごと、日向を見下ろす。部内で二番目に背の低い一年生は、非常に申し訳そうな顔で俯いていた。
 唇を引き結び、縁下も気にしてちらちら脇を盗み見もする。視線を感じた二年生が不思議そうにする中、菅原は日向が落ちこんでいる理由を察して苦笑した。
「おいおい」
「……すみません」
 小さな手の上で、絆創膏がくしゃくしゃに丸まっていた。
 指に巻こうとして、失敗したらしい。古びた絆創膏は接着面同士が張り付き、目当ての場所を庇うことなく痴態を晒していた。
 剥離紙を一度に両方剥がしたのが、良くなかったようだ。焦って無理に剥がそうとして余計に絡まり、手も足も出なくなって助けを呼んだと、そういうことだろう。
 貴重な一枚をダメにしてしまった。しょんぼりしながら謝罪した彼に、縁下も苦笑いを浮かべた。
「いいよ。けど、どうしよう。まだあったかな」
「もういいです。あんまり痛くなくなってきたし」
「でもなあ。指先だし、ちょっと気を付けた方が良いしなー」
 練習中に抉って悪化させるわけにはいかないし、普段から何かと世話になる人差し指だ。大事にするに越したことはなくて、菅原は困った顔で頭を掻いた。
 縁下がもう一度鞄を探ったが、一分としないうちに肩を竦めて首を振った。あれが最初で最後の一枚だったと無言で教えられて、日向は余計に落ち込んで上唇を噛んだ。
 申し訳なさそうに項垂れる一年生に目を眇め、菅原ははっと息を呑んだ。
 首の後ろを掻く手もそのままに、惚けた様子で固まってから慌てて自分の鞄へと駆け寄る。いきなり動き出した彼に驚き、日向も、部室に居残っていた月島も首を傾げた。
「菅原さん?」
「ちょっと待ってな。そういえば、前に……確か、ここに入れたような」
 振り返りもせず言って、棚の足元でしゃがみ込む。独り言を呟きながら荷物を漁る彼は、傍から見ていたらちょっと不気味だった。
 チームメイトが怪訝に見守る中、床にしゃがみ込んでいた菅原は。
「あった!」
「わっ」
 唐突に奇声を発し、皆を驚かせた。
 部屋の外にまで響く大声に、日向は心臓が飛び出そうになった。
 バクバク言う鼓動を左手で抑え込んで、首筋を撫でた冷や汗に背筋を粟立てる。
 ぶるりと身震いした彼を知らず、菅原は意気揚々と立ち上がった。
 嬉しそうな顔で振り返って、肩の高さで何かをひらひらさせる。
 それは先ほど縁下が出して来たものと、良く似た形状をしていた。
 違うのは、表面にカラフルな模様が印刷されていることくらい。汗臭い排球部の部室にそぐわぬ愛らしいキャラクターに微笑まれ、日向はヒク、と頬を引き攣らせた。
 怪我の痛みは、もうかなり薄れていた。先ほどまであんなに痺れていたのが嘘のように、手を開閉させてもなんともない。
 確かにこれ以上悪化しないように、予防の意味で絆創膏を貼る、という提案は一理あった。しかし菅原に提示されたものを装着するくらいなら、素手で動き回る方が何十倍もマシに思えた。
「えっと、あの。それって」
 薄ら寒いものを覚えて声を震わせた日向に、排球部副部長はにこやかに告げた。
「前にさ、クラスの女子が沢山あるから、って、一枚くれたんだ。すっかり忘れてたよ」
 満面の笑みで言われても、あまり嬉しくなかった。
 三年四組の女子は、なんていうことをしてくれたのだろう。会ったこともない相手に心の中で恨み言を言って、日向は愛くるしい絆創膏を手に迫る男から後退した。
 摺り足で畳の上を滑るが、背後は壁だ。荷物置き場になっている棚にすぐに行き当ってしまい、逃げ場はなかった。
 茶色いクマと、黄色いトリのイラストが目に眩しかった。包装紙だけが飾り立てられて、中はシンプルなものだったらまだ救いがあったのだが、残念ながらガーゼの裏のみならず、テープ自体もきっちりイラストでデコレーションされていた。
 小学生の妹だったら、大喜びしそうな柄だった。許されるならここで使わず、持って帰ってやりたい。しかし菅原はあっさりダメだと断言し、取り出した絆創膏の剥離紙を引っ掻いた。
 外向きに折り返されている部分を抓み持ち、片方だけ剥ぎ取る。粘着面を露出させ、彼はその状態で、日向に手を出すよう言った。
 上級生の折角の気遣いを、無碍にすることも出来ない。繰り返し促された日向はついに観念し、おずおずと右手を差し出した。
 傷ついた側が天を向くようにして、邪魔にならないよう指も広げて花咲かせる。小さくて柔らかいその手を下からそっと支え持ち、菅原は右手にぶら下げた絆創膏をゆっくり患部に近づけた。
 粘着面が傷に触れぬようタイミングを計り、位置を合わせてからガーゼを静かに被せる。片側を固定してから残っていた剥離紙も外して、くるりと回して全体を貼り付ける。
 隙間が出来ないよう、少し窮屈なくらいに引っ張ってしっかり密着させて、菅原はやっと満足したのか鷹揚に頷いた。
「よし。出来た」
 役目を終えた剥離紙はひとまとめに握りしめ、得意げに胸を張りもする。たかが絆創膏で何を偉そうに、と周囲が呆れるのも構わず、彼はしょぼくれて元気がない一年生の肩を二度、叩いた。
「いいじゃん。可愛いぞ」
「うれしくないです」
「そんな事言うなよ。似合ってるって」
「…………」
 お似合いだと褒められても、少しも喜べなかった。
 だがこれしかなかったのだから、贅沢は言えない。悪いのは、怪我をして騒いだ日向の方だ。
 哀しさに耐え、切なげに顔を歪めていたら、横から覗き込んできた月島がプッスー、と噴き出した。
 口元を手で覆っていても目つきで笑っているのはバレバレだ。日向は顔を真っ赤に染めて、憤慨して煙を噴いた。
「わらうなよ!」
「君らしくていいじゃない」
「どういう意味だよ、それ」
 怒鳴りつけるが、まるで相手にされない。逆に煽られて、日向はムキになって声を荒らげた。
 患部を優しく包むガーゼの背中には、可愛らしい黄色の鳥が描かれていた。テープ部分には小さなクマが飛んだり、跳ねたりしており、汗臭い運動部の男子の指にはあまりにも似つかわしくなかった。
 だというのに、山口までもが可愛いと言い出した。そんな感想は要らないと日向は地団太を踏み、口を尖らせて右手を握りしめた。
 いっそ剥がしてしまおうかと葛藤するが、菅原がいる前でそれはあまりにも失礼だ。彼の心遣いを思うと爪を立てるのさえ憚られ、日向はニコニコしている上級生に恨みがましい眼差しを送った。
「ほーら。早くしないと、時間ないぞ?」
「ふわぁ~い……」
「すみません、遅れました」
 しかし彼は意に介さず、両手を叩き合わせた。着替えの手が止まっているメンバーを急かし、自分も途中だったズボンを今度こそ脱ぎにかかる。
 月島たちが出て行った扉からは、用事で合流が遅れた影山が飛び込んできた。
 息を切らした彼は、部室内が微妙な空気に包まれているのに気付いて首を捻った。
「なんかあったんですか?」
 今さっき、そこですれ違った月島たちは笑いをこらえていた。縁下は問いかけになんとも言えない顔をして、日向は元から赤かった顔をもっと真っ赤にした。
 八つ当たりに床を蹴った彼の行動の意味が分からず当惑していたら、ショートパンツに履き替えた菅原が、実に楽しそうに微笑んだ。
 悪戯っぽく人差し指を唇に当て、片目を瞑って。
「可愛い子を、可愛くしてみただけ」
「菅原さん!」
 茶目っ気たっぷりに告げた彼に憤慨し、日向が声を張り上げた。
 そうして突如始まったじゃれあいに、
「……はい?」
 全くついていけなかった影山は、頭上にクエスチョンマークを乱立させた。

2013/12/5脱稿