Gomphocarpus physocarpusVI

 目が覚めた時にはもう、彼の姿はなかった。
 寝室兼書斎は蛻の空で、扉は開けっ放しになっていた。中を覗き込めば深く染み付いた煙草の匂いが鼻を擽り、大量の書籍や発掘品に埋もれる格好で、脱ぎ捨てられた寝間着が床に転がっていた。
 いつ出て行ったのか、まるで気づかなかった。
「大変なんだな、大学の先生って」
 時計を見上げながら呟いて、アリババは肩を竦めた。
 文字盤はまだ午前七時を回ったところだった。
 なお、カレンダーは赤文字を示している。つまり今日は、日曜日だ。
 無人の部屋に断りの声を投げて、彼はそろり、室内に入った。整理整頓とは無縁の空間を忍び足で進んで、高く積み上げられた書籍の塔を崩さぬよう、天辺に引っかかっていたパジャマのズボンを手繰り寄せる。
 上着の方も拾い上げて、アリババは最後に広いベッドに目をやった。
 試しに触れた寝床はすっかり冷えて、ここで誰かが眠っていた形跡は見出せなかった。
「シンドバッドさん、忙しかったんだな」
 だというのに昨日、無理を言って買い物に付き合わせてしまった。大量の荷物を運ばせて、力仕事もほとんど任せてしまった。
 言ってくれれば、ジャーファルとふたりで行ったのに。もっとも彼は車を所持していないので、大きい荷物はすべて宅配にしなければならなくなっていただろうが。
 ともあれ、申し訳ないことをした。自分が世話になっている身だというのを、危うく忘れるところだった。
「シーツ、洗濯しちゃおっか」
 洗濯機の洗濯漕は昨晩のうちにクリーニングしておいたので、ぴかぴかになっているはずだ。浴室もシンドバッドに磨いてもらったので、数日前に比べれば格段にキレイになっていた。
 ただ気になるのは、今後の天気だ。
 雨が降る気配はないけれど、日差しが機能に比べるとかなり弱い。薄雲が空を覆って、太陽は霞んでいた。
 これでは干しても、夜までに乾かないかもしれない。だがそれだと困るのだ。
 シンドバッドのことだから、どうせこのシーツも長く敷きっ放しなのだろう。ベッドに辿り着けず、机でそのまま寝て朝を迎えることが多いとも聞いているが、それは別の話だ。
 たまにはお日様の匂いがする布団で寝かせてやりたい。しかしここが仮の住処であるアリババには、替えのシーツがあるのかどうかさえ、分からなかった。
 家主に聞こうにも、肝心の本人が家に居ないのでは手の打ちようがない。最悪電話で問い合わせるしかないが、こんなくだらない悩みを相談するのは気が引けた。
 結局三十秒迷って諦めて、アリババは特大サイズの寝間着を抱え、シンドバッドの私室を出た。
「どうしよっかなあ」
 その、少々汗臭い上下を適量の洗剤と共に洗濯機に放り込んで、彼はぐわんぐわん動く機械に寄り掛かりながらぽつりと呟いた。
 今日の予定は、完全に白紙だった。
 ショッピングモールで配達を依頼した荷物が、今日届く予定ではあった。しかし万が一の事を考えて午後の遅い時間を指定したので、それまでやる事がなかった。
 まだ学生の身分だし、期末試験も迫っている。勉強をするのが一番なのだろうが、この家にいるとどうにも集中出来なかった。
 シンドバッドの住環境が悪いわけではない。専用の机がなく、リビングで絨毯に座りながら、という状況にも文句を言うつもりはなかった。
 アリババはあくまで、この家で一時的に厄介になっているだけだ。これ以上我儘を言って、シンドバッドに余計な出費を強いるわけにはいかなかった。
 風雨をしのげる場所を提供して貰っているだけでも、感謝しなければならない。もっともアリババにはちゃんと家があり、いつでも帰れる状況ではあるのだが。
 今回の件は、高校生の息子をひとり家に置いておくのは忍びない、という父の配慮だった。
 自宅で倒れたアリババの父、ラシードは、検査入院の為もうしばらく病院から出られない。今あの屋敷に戻ったところで、彼の退院が早まるわけではなかった。
 父に余計な心配をかけるくらいなら、面倒を引き受けてくれたシンドバッドの家で大人しくしているのが親孝行だ。五月蠅い洗濯機から身体を引き剥がし、アリババは気だるげに洗面所を出た。
「しっかし、広いなあ」
 ほかに誰も居ない為か、独り言はやけに大きく響いた。
 アリババの家も大概だが、シンドバッドのマンションも相当だ。本来は家族向けの間取りのものを、一人暮らしで使っているのだから、日頃使っていないスペースも大量だった。
 その、ゲストルームという名の物置が、目下アリババが寝起きしている部屋だった。
 昨日買ったカーテンは、今日届く予定だ。この時期は日の出が早いので、遮るもののない窓から注がれる陽光は、効率の良い目覚まし時計代わりだった。
 ここ数日はすっかり習慣づけられているので、明日からは充分気を付けておかないと、遅刻しかねない。弛んだ気持ちを引き締めて、彼は勢いづけるべく両頬を思い切り叩いた。
「って~~」
 べちん、と素晴らしい音がした。頬よりも掌の方が痛くて呻いて、アリババはスリッパでフローリングを蹴った。
 向かう先は、リビングだ。
 こちらも、かなり広い。但し備え付けのシステムキッチンは最近まで殆ど使用されず、タンスの肥やし状態だった。
 折角の上等なものも、使わなければ意味がない。宝の持ち腐れという言葉を噛み締めて、アリババは冷蔵庫の扉を開けた。
 父が倒れた翌日、シンドバッドに連れられて初めてここへ来た時、この中はほぼ空だった。
 ビールと酒のつまみ程度しか入っていなかった頃が、まるで嘘のようだ。今やどの棚も男二人分の食材で溢れ、調味料の瓶が我が物顔で胸を張っていた。
 ひんやりした空気を顔面に浴びながら、アリババは上から下へ視線を巡らせた。更にもう一巡させてから扉を閉じて、彼は難しい顔で眉間に皺を寄せた。
 炊飯器は空っぽで、電源が入っていないのを証明するかのように、上部の蓋が開いていた。そうしたのは他ならぬアリババで、昨日の夜に片づけた時のまま、器具は何一つ動かされていなかった。
 他もひと通り見て回ったが、キッチン内部で今日の朝に誰かが何かをした、という証拠は欠片もなかった。
 それが何を意味しているのか。
「シンドバッドさん、ちゃんとご飯食べてるのかな」
 食パンの一枚も抓んでいく余裕がないくらいに、急いでいた、ということだろう。あの男は集中すると二食くらい平気で抜くのも、心配だった。
 時計を見たら、針はあまり進んでいなかった。思案気味に顔を顰め、アリババは雲が多い空をカーテン越しに睨んだ。
 一度気になってしまうと、悶々として落ち着かなかった。
「あ、そうだ」
 このままでは、とても勉強に集中出来そうにない。部屋を掃除するにしたって、夕方まで暇を潰すのには物足りなかった。
 暇を持て余して思案に耽り、彼は浮かんだアイデアに両手を叩き合わせた。
 ぴこーん、と頭上の電球を明るく光らせ、同時に琥珀色の目も輝かせる。その手があったと顔を綻ばせ、アリババは昨日買っておいた食パンに手を伸ばした。
 続けて再度冷蔵庫を覗き込み、材料はばっちりだと自分に頷く。後は入れ物だけ、と台所でくるりと回って、彼は先日、カレーを詰めるのに使ったタッパーを棚から取り出した。
 きちんと洗浄したので、匂いも残っていない。嗅いで確かめて、アリババは嬉しそうに顔を綻ばせた。
「よーっし、やるぞー」
 久しぶりに腕の見せ所だ。少し前、学校の後輩である白龍が用意してくれた弁当を思い返しつつ、彼は腕まくりのフリをして力こぶを作った。
 決断してしまえば、後は行動するだけ。細かい事は考えず、アリババは愛用のエプロンに袖を通した。
 時間を気にしつつ手早く作業を進め、複数の工程を同時にこなしながらキッチン中を駆け回る。最中に洗濯機にも呼ばれて、その機敏さは主婦顔負けだった。
 洗濯物は真新しい物干し竿に吊るし、叩いて皺を伸ばす。空の籠を手に戻った台所では、粗熱を取ったジャガイモを手際よく押し潰していく。レタスは千切って水に浸し、茹で卵も皮を剥いて粉々に砕く。
 テキパキと作業を終わらせて、片づけもすべて完了する頃には、太陽もすっかり高い位置に移動していた。
「でっきたー」
 半透明のタッパーの蓋を閉め、ほくほく顔で高く掲げ持つ。自信作だと鼻息を荒くして、アリババは喜びのあまりその場で飛び上がった。
 危うく落としそうになったのを慌てて抱きかかえ、思った以上に量が出来たのには舌を出す。もっとも余っても夜食べれば良いだけだし、折角なのでジャーファルにおすそ分けするのも悪くなかった。
 シンドバッドとは腐れ縁だというあの青年にも、昨日はとても世話になった。
 その礼も兼ねていると言えば、きっと受け取ってくれるはずだ。味見もちゃんとしてあるので、腹を下すことはないだろう。
「あとはこれを、なんか包むもの……ハンカチでいっか」
 日頃から自分の弁当を包んでいる布なら、何枚か洗濯済みのものがあった。それを使うことにして、言うが早いか、彼は仮住まいの自室へ向かった。
 タンス替わりの衣装ケースを引っ掻き回し、目当てのものを見つけて即座に踵を返す。動き回っているうちに気分は高揚し、楽しくて仕方がなかった。
「外は、……大丈夫だな」
 雨が降る気配は依然見えないので、洗濯物は干したままでも問題なかろう。念のためテレビの天気予報もチェックして、傘マークがないのを確かめてから、彼は玄関を飛び出した。
 ジャーファルから引き取った鍵を大事にポケットに忍ばせて、荷物で満載の鞄を肩に、エレベーターに乗り込む。お気に入りのパーカーに膝丈のハーフパンツ姿で、アリババは契約したばかりの駐輪場に飛び込んだ。
 鞄を前籠に押し込んで、ロックを外して愛車に跨る。昨日乗ったシンドバッドの車には劣るけれど、これだって大事な、アリババの足だった。
「よーっし。いっくぞー」
 気合いを入れ、ペダルを強く踏み込む。
 目指すはシンドリア大学、即ちシンドバッドの職場だ。
 それは、彼が通う高校の母体でもあった。
 シンドリア大学内の学部は多岐に渡り、文系から理系、体育会系まで幅広くカバーしていた。各地に研究所があり、様々な分野で、先頭に立って活躍する才人を多く輩出していた。
 その大学の、メインであるキャンパスがあるのが、この街の郊外だった。
 言い換えれば、この街自体が大学の門前町だ。住民の多くが大学の関係者だったり、学生だったりして、道を行けば大勢の若者とすれ違えた。
 シンドバッドも、だからあのマンションの一室を購入したのだろう。そう考えれば、立地的にもかなり便利な場所だった。
 赤信号で停車して、アリババは周囲の景色を物珍しげに眺めた。
 彼が住む町は古い建物が多く、平屋の一軒家が幅を利かせていた。しかしこの辺りは背の高いマンションが多く、いかにも若者向けな、お洒落な外装の店舗が目立った。
「やっぱ違うんだな~」
 シンドバッドの家に世話になって、既に一週間近く。けれどこうして自転車で道を走るのは、これが初めてだった。
 平日は学校とマンションの往復ばかりで、寄り道するとしても食材選びにスーパーに行くくらい。ルートは固定されており、駅の反対方向へ出向く機会はなかった。
 きょろきょろしているうちに、信号が変わった。並んで待っていた車が発進する音を聞き、アリババも下ろしていた足をペダルに戻した。
 シンドリア大学のキャンパスは、緑深い山の麓に広がっていた。
 この山全体が、大学の敷地だという。学部別に建物が分散しており、たとえば体育学部は、山を越えた反対側の麓にある、という具合だ。
 アリババが向かおうとしているのは、文学部のある区画だった。
 もっとも彼も初めて足を踏み入れる場所だから、迷わず辿り着ける保証はなかった。時々携帯電話で地図を確認し、道路脇に設置されている案内板も頼りに進んでいけば、やがて巨大な建築物群が眼前に迫ってきた。
 その圧倒的な存在感に、彼は息を呑んだ。
「でけえ……」
 知識として知っていたが、間近で見ると迫力が段違いだった。
 アリババが通っている高等部も、かなり立派な建物だった。敷地はそう広くないものの、最新設備を整えており、制服の可愛さもあって近隣では人気が高い学校のひとつだった。
 アリババのような内部進学者も多く、シンドリア大学に行きたいから高等部を受験した、という人も学年に何人かいた。
 大学はレンガ造りの時計台が空に向かって聳え立ち、その周囲を固める形で建物が配置されていた。敷地を囲む壁は高く、不審者の侵入を防ぐ為か、所々に防犯カメラが設置されていた。
 今見えているのが大学の一部分だけ、というのだから、その規模は想像を絶するものがある。全容を一度に目にするのは、それこそ鳥になって上空から見下ろすしか術がなかった。
「シンドバットさんって、すごかったんだな」
 アリババが知っている彼はお調子者で、笑顔が素敵な二枚目半だ。だからこんな立派な大学で教鞭を執る姿は、普段の彼からは想像がつかなかった。
 学生の前では日頃のぐうたらぶりとは別人の様相を呈しているのかと考えると、ちょっと面白かった。
「さて、と」
 大学の門の近くにはバス停があって、数人がベンチに座って到着を待っていた。門の入り口には守衛室が設けられ、紺色の制服を着込んだ男性が傍に立って目を光らせていた。
 アリババは自転車から降り、深呼吸で息を整えた。
 規模に見合った立派な門構えだった。十人くらいなら横並びになっても楽に通り抜けられる幅があり、古風めいた字体で掘られた大学名が堂々と掲げられていた。
 同じ系列の高校に通っているものの、雰囲気はまったく違っていた。日曜日だというのに人の流れは途絶えることを知らず、雑多な賑わいが広がっていた。
 それらをぽかんとしたまま眺め、アリババは困った顔で頬を掻いた。
「どうしよう」
 勇んでここまで来たものの、この後のことを何も考えていなかった。
 そもそもここの学生でもないアリババが、勝手に敷地内に入ってよいものなのか。それに、シンドバッドの居場所も分からないままだ。
 目覚めた時、リビングのテーブルには『大学に行ってきます』と走り書きのメモが残されていた。ノートを引き千切ったと思しき紙切れ一枚が頼りで、ほかに情報はなかった。
 帰りが遅くなるのか、早いのかも不明だ。最悪、行き違いになっているかもしれない。確認したいところだけれど、もし大事な会議中だったらと考えると、携帯電話を鳴らすのも憚られた。
 メールの一本でも入れておこうか。悩み、アリババは正門と手元とを交互に見比べた。
 自転車を脇に置き、きょろきょろしている少年の姿は周囲にも奇異な存在に映った。同じ場所に長く留まり、挙動不審に辺りを窺う様は、守衛室からも当然見えていた。
 見張り番として表に立っていた男も気づき、警戒する視線を彼に投げた。もっともアリババは気取ることもなく、この先どうするか決めあぐねて顰め面を作った。
 ぼすん、と前籠の荷物を叩き、苛々した様子で頭を掻き毟りもする。歩道の片隅を占領する彼は通行の邪魔であり、停車したバスから降りた数人も怪訝な顔をした。
 迷惑そうな視線を送られているとも知らず、少年は地団太を踏み、はっとして目を丸くした。
「そうだ、ジャーファルさんなら」
「お兄さん、どうかしたのかい?」
 シンドバッドの行方なら、あの人が詳しい。微笑みを欠かさない青年を思い出して膝を打っていたら、不意にどこからか声をかけられた。
「え?」
 予期していなかった可愛らしいトーンに、アリババはびくっとなった。
 ぽかんとしてから息を吐き、首を巡らせて左右を窺う。しかし声の主を見いだせずにいたら、ハーフパンツの裾をくいっと引っ張られた。
 脱げそうになったズボンを慌てて掴んだ彼の目に、真夏の海の色が飛び込んできた。
 鮮やかな青色の髪の子供が、いつの間にかアリババの隣に立っていた。
 地面に届きそうな長い三つ編みを背に垂らし、楕円形の鍔のない帽子を被っていた。膝小僧が覗く半ズボンにサスペンダーをして、折り目正しい白シャツには黒いネクタイを上品に合わせていた。
 白いハイソックスに、磨き抜かれた靴は黒。背負う鞄はランドセルではなく、幅広なスクールバッグだった。
 服装には見覚えがあった。それはアリババも通っていた、シンドリア大学付属小学校の制服そのものだった。
「……誰?」
 けれど、話しかけてきたのは知らない子だ。三年生か、四年生だろうか。見た目から十歳前後と判断して、アリババは初めて見る顔に小首を傾げた。
 この年代の知り合いは、ひとりもいない。父と暮らす屋敷のご近所さんをまず想像したが、最初に聞いた台詞も加味すると、初対面と考えるのが妥当だろう。
 眉を顰めていたら、人好きのする笑みを浮かべた男の子がさりげなく守衛室を指さした。
「お兄さん、さっきからきょろきょろしてただろう。もしかして、大学に用事かい?」
「えっ」
 まさか人に見られていたとは思いもよらず、アリババは指摘に目を丸くした。今更ながら数分前の自分が恥ずかしくなってきて、彼は頬を赤らめて苦笑いを浮かべた。
 まったくもってこの子の言う通りなのだが、年下相手にそれを認めるのはどうにも照れ臭い。曖昧に笑って誤魔化そうと画策していたら、見抜いた少年がふっ、と笑った。
「気を付けた方がいいよ。あっちのおじさんが、さっきから怖い顔で、お兄さんのこと、睨んでたから」
「え……」
 守衛側に向けていた手を下ろし、青髪の少年が鞄の肩紐を両手で掴んだ。全身を揺らしてバランスを取り直して、屈託なく笑うその表情は妙に大人びていた。
 思わず振り返ったアリババは、目が合う直前に守衛がさっと顔を背けたのを確かめて慄然となった。
 大学の門前で不自然な動きをしていたのだから、不審に思われるのは、当然といえば当然だった。
 学生なら迷わず門を潜るし、外部の人で中に用事があるのなら、守衛にその旨を申し出て許可をもらえばそれで済む話だ。だのにうだうだ迷っていたから、変に思われてしまった。
 肝心のところで二の足を踏んだ所為で、犯罪者扱いを受けていた。向こうも仕事なのだから仕方がないとはいえ、恥ずかしいやら悔しいやらで、アリババは複雑な気分になった。
「や、えっと……そう、だけど」
 こんな小さな子に指摘されて、正直情けない。正当な理由があっての訪問なのに疑われてしまい、がっくり項垂れていたら、男の子が無邪気に笑った。
「そうなんだ。じゃあ、一緒に行こうよ。僕も、学校に用があるんだ」
「はい? え、あ、おい」
 左手で自転車のハンドルを握って支えていたアリババの、空いていた方の手を取った少年が明るく言った。いきなり斜め下から引っ張られた方は面食らい、驚いて転びそうになった。
 自転車のペダルに足が引っかかり、脛を削られた。細い足首に白い筋が数本走って、彼は進むことも出来ずにその場で飛び跳ねた。
 手を引っ張った少年もアリババの反応に目を丸くして、性急過ぎた行動を恥じた。
「ごめんよ。大丈夫かい、お兄さん」
「ああ、ってて~」
 ぱっと右手を離されて、アリババはすかさず傷ついた足を掴んだ。表面を優しく撫でて慰めて、弱り顔でおろおろしている小学生に苦笑する。
 大丈夫だと表情で告げた彼に、男の子もぱあっ、と嬉しそうな顔をした。
「良かった~。じゃ、行こう」
 もう平気そうだと判断して、青髪の少年が再度アリババを誘った。促され、ひとりよりふたりの方が心強いとアリババは首肯した。
 休日なのに制服姿のこの子は、学校の職員の息子なのだろうか。
 こんな年端のいかない子供が大学にどんな用事があるのか、さっぱり見当がつかない。親の職場体験かとも勘ぐるが、付き添いの教員の姿はどこにも見当たらなかった。
 変な感じだと自転車を押して歩いていたら、駆け出した少年が守衛室の男性に大きく手を振った。
「こんにちは、おじさん。来たよー」
「ああ、アラジン君。こんにちは。そちらは?」
「んとね、僕の、従兄のお兄さんだよ。この学校がどんなところか、見学したいんだって」
 アリババを睨んでいたという男の脇をすり抜け、中に居た男性に親しげに話しかける。外側に飛び出た台に両手をちょこんと添えて、頑張って背伸びをする姿はなんとも微笑ましかった。
 どうやらふたりは顔見知りらしい。従兄、と紹介されたアリババは最初驚いたが、否定する間もなく一斉に視線を向けられては、頷くしかなかった。
「ど、どうも……」
 左手を後頭部にやり、遠慮がちにお辞儀をする。不躾な視線を向けられたのは、そこの少年とあまり似ていないからだろう。
 まだ若干疑われていた。肩身の狭さにおどおどしていたら、外に居た守衛が一歩、アリババの方へ近づいた。
「念のため、手荷物検査を」
「うわ、あ、はいっ」
 両手を前に差し出しながら言われて、大仰に声を張り上げてしまう。これでは不審がってくださいと言っているようなもので、アリババは臆病者な自分に涙ぐんだ。
 自転車を停め、前籠の鞄を広げて差し出す。男がそれを覗き込んで、大きな包みを解くように言った。
 逆らう理由もなくて、アリババは大人しく従った。結び目を解いた先で現れたのは、シンドバッドの為に作った弁当だった。
 タッパーに詰め込まれたサンドイッチが、早く食べて欲しそうな顔をしていた。
 それこそ隙間がないくらいにぎっしり詰め込まれた料理に、守衛室にいた男性も、アラジンと呼ばれた少年も、丁度昼飯時というのもあってか、揃って感嘆の息を漏らした。
「なんていうか……その。弁当、です」
「分かった。ありがとう」
 それ以外に何がある、という回答を舌に転がしたアリババに、守衛は緩慢に頷いた。
 疑いは完全に晴れたらしい。返却されたタッパーをハンカチで包んだアリババは、もう一度深く頭を下げてからサンドイッチを鞄へ戻した。
「来客用の駐輪場はあっちだよ」
「はい。ありがとうございます」
 荷造りをしていたら、男性に左手を指示された。鞄の蓋を閉めたアリババは丁寧に礼を告げ、自転車のスタンドを蹴り飛ばした。
「じゃ、行こう」
「ああ」
 その隣につき、アラジンがごく自然に言った。アリババもつられて首肯して、仲の良い兄弟にも見える後ろ姿は教えられた方角へ真っ直ぐ進んでいった。
 もっともそれは、守衛室から見えなくなるまでのことだったが。
「……で、誰がイトコのお兄さんだって?」
「えへへへ~」
 建物の陰に入ったところでしれっと嘘をついた子供を捕まえて、お仕置きが必要かと凄みかける。しかしアラジンは茶目っ気たっぷりに笑って、小さな手を左右に振った。
「だって、あのままだったら、お兄さん、きっと守衛のおじさんにつまみ出されていたよ?」
 怪しい奴判定されて、弁解も聞かずに牢屋に放り込まれていたかもしれない。勿論実際には別室に連れて行かれ、事情を説明させられる程度だろうが、アラジンの指摘はもっともすぎて反論が出来なかった。
 ぐうの音も出ないでいたら、少年は得意げに胸を張った。
「だから、感謝してよね」
「……わかったよ。わーった。ありがとさん」
「ぶー。もうちょっと、心を籠めておくれよ」
 偉そうに両手を腰にやったアラジンに嘆息し、半ば投げやりに感謝を述べる。けれど満足してもらえなくて、抗議されてしまった。
 ぷんすかと煙を噴かれ、アリババは困った顔で歯軋りした。
 この年頃の子供相手に、どう対応して良いのかが分からなかった。
 ご近所さんのモルジアナは女の子だし、年齢もアリババとふたつしか違わない。第一彼女はとても無口で、何を考えているのかまるで読み取れない子だった。
 対するアラジンは感情の起伏が激しく、赤ん坊をそのまま大きくしたような感じだった。
 彼のお陰で無事大学構内に入れたのは認めるが、この後彼をどうすればいいのかも、全く想像がつかなかった。
 ジュースの一本でも奢ってやれば、気が済むのか。見返りを求められている気がして様子を窺っていたら、小学生の視線は自転車の前籠に固定されていた。
「ああ」
 そういうことかと納得して、アリババは首肯した。
 振り返った先にあった時計は、正午過ぎを示していた。
 長時間自転車を漕いでいたので、アリババも少々腹が心許なかった。シンドバッドの為に用意したものだが、作り過ぎて絶対余る量があるので、少しくらいは構わないだろう。
 残ってしまって、捨てなければならなくなるよりは良い。好意的に考えて、アリババは肩を竦めた。
「この辺に、座って飯食える場所ってあるか?」
「あるよ!」
 無事守衛前を突破出来たとはいえ、中は迷宮のように広い大学だ。どこに何があるか分からない以上、知識を有する存在を頼るのは必然だった。
 アラジンは何度か学内に入ったことがあるらしく、自信満々に返事をして元気よく右手を掲げた。
 守衛に言われた場所に自転車を停めて、アリババは鞄を担ぐと、早速彼の先導に従って広い道を歩き始めた。
 構内は随所に緑が溢れ、休憩できるスペースが多数用意されていた。
 敷地が広大なので、学生たちは移動手段に自転車を、当たり前のように使っていた。道もそれ用と歩行者専用に分けられており、街中を歩いている錯覚に陥りそうになった。
「ここが、本屋さん。今日はお休みだけど、専門書がいっぱい売ってるよ。あと綺麗なお姉さんの本もおいてあるんだ」
「へえ~……って、オイ」
「だってホントのことだもん。それでねえ、あれが、第三食堂」
 建物も洗練されており、先端技術が集められている雰囲気だった。あまりの物珍しさにきょろきょろしていたら、気づいたアラジンが面白がって説明してくれた。
 示された方角には、半円形をした不思議な建物があった。
 前方の庭はテラス席になっており、お洒落なテーブルが並んでいた。だが日曜日という事情もあるのか、そのすべてが空席だった。
 よく見れば、食堂の電気も消えていた。どうやら休業日らしく、ならばこの閑散ぶりも納得だった。
「使っていいのか?」
「平気だよ。僕、ここがいいな~」
 アスファルトで舗装されていた道から逸れ、柔らかな芝が生い茂る空間へ足を踏み入れる。歓声を上げながら走っていくアラジンを目で追って、アリババはすっかり狂った予定に苦笑した。
 シンドバッドを訪ねるつもりが、成り行きで子供の面倒を見る羽目になった。
「ま、いっか」
 時間はまだある。シンドバッドにはメールで連絡を入れて、返事が来るのを待ってから行動しても遅くなかろう。
 それよりもアラジンの方は良いのかと、今更ながら彼の存在が気になった。
 親を訪ねて来たのだとしたら、その親が心配しないだろうか。今のところ、彼が誰かに連絡を入れた様子はない。それとも、テーブルに着いたところでするつもりなのか。
 アリババ相手に油を売っていて、後から怒られたりしないといいのだけれど。あれこれ思索を巡らせて、彼はちょっぴり重い鞄を下ろした。
 待ち構えていたアラジンが、目をキラキラさせた。テーブルに身を乗り出して、アリババが丹精込めて作ったサンドイッチに歓声を上げた。
「うわあ、すごーい」
「どうだ、うまそうだろ」
「うん。本当だよ。これ、お兄さんが作ったのかい?」
 褒められて、悪い気はしなかった。調子に乗って鷹揚に頷いて、アリババは続けて臙脂色の水筒を引き抜いた。
 揺らせばちゃぷちゃぷ音がした。保温機能がついたマグを手にした彼に、アラジンは不思議そうな顔をした。
 きょとんと見つめられて、彼は悪戯っぽく微笑んだ。
「ほらよ」
 蓋を外して逆さにし、コップになったそこに中身を注いでいく。暖かな湯気を放つそれは、琥珀色をした液体だった。
 麦茶などではない。仄かに香る匂いに鼻をひくつかせ、アラジンはおぉ、と驚きの声を上げた。
「スープだね」
「おうよ。熱いから気をつけろよ」
 コップは別で用意していないので、アリババの分はない。けれど別にいいやと笑って、彼は温かなコンソメスープを差し出した。
 受け取り、アラジンは眩しそうに目を細めた。
「いただきます」
 小学生の少年は行儀よく頭を下げ、帽子を脱ぐと鞄の上に置いた。
 余った席を占領しているスクールバッグはまだ真新しく、汚れは殆どなかった。
 自分も昔使っていたと過去を懐かしみ、アリババはどれから食べるか迷っているアラジンに相好を崩した。
「これとか、自信作」
「じゃあ、これ、貰うね」
「おう。いっぱい食え」
 タッパー三つ分のサンドイッチは、中身の具が全部で五種類あった。
 卵、ポテトサラダといった定番から、ハムとチーズに、ツナマヨや、生野菜を中心にしたものまで。なるべく配色にも拘って、見た目も美味しそうに見せようと頑張ったら、大量にあった食材を一度に減らしてしまった。
 帰りにまたスーパーに寄らないと、夕食に事欠いてしまう。シンドバッドに会ったら帰宅時間も聞いておこうと心に決めて、アリババも自信作だと自分で言ったポテトサラダに手を伸ばした。
「ん、うまい」
「ほんとだねー。すごいね、お兄さん」
 一口頬張り、予想した通りの味に大いに満足する。すかさず向かいの席のアラジンも頷いて、手にしていた分を口の中に放り込んだ。
 意外に食べるのが早い。そんなに腹が空いていたのかと失笑し、アリババは残りも頬張ると、続けて手元のタッパーに手を伸ばした。
 ゆで卵を挟んだオーソドックスなひと品を抓み取り、半分咬み千切る。黄身の硬さは丁度良くて、我ながら上手く出来たと嬉しくなった。
 前を見れば、アラジンがリズムよくサンドイッチを頬張っていた。
「ちょっとは遠慮しろよなー」
「だって、すっごくおいしくって」
「よし、飲め」
 今日が初対面だというのに、なんと図々しいのだろう。けれど手放しの賞賛は滅多にあるものではなくて、気をよくしたアリババはス空になっていたコップにスープを縁ぎりぎりまで注いだ。
 後のことは考えず、調子に乗って心を弾ませる。アラジンは嬉しそうに笑って、ふーふー湯気を吹き飛ばした。
 こんなにも広い庭なのに、ふたりだけしかいないのが変な感じだった。
 背の低い木々が生い茂り、見える範囲は大半が緑に覆われていた。それが丁度無骨な建物を隠す壁代わりになっており、ここが大学の中というのを忘れそうになった。
 アラジンは第三食堂と言っていたが、ということは第一食堂や、第二食堂も探せばどこかにあるのだろう。こんな広い場所でシンドバッドを探し出すのは、かなり大変そうだった。
「そういえば、お兄さん、お名前は?」
 連絡を入れていないのを思い出し、携帯電話を取り出す。しかしメール画面を開く前に質問されて、彼は嗚呼、と頬を緩めた。
 すっかり馴染んでいるふたりだが、お互いにちゃんと名乗りあっていなかった。
「俺は、アリババ。お前は、えっと」
「アラジンだよ」
 携帯電話を下ろし、アリババが先に告げる。呼応する形でアラジンが微笑み、握手を求めて手を伸ばして来た。
 彼には些か、小学生離れしたところがあった。今回もそのひとつで、アリババは面食らってしまい、反応が一瞬遅れた。
「ああ、うん。よろしくな、アラジン」
「こちらこそ、アリババ君」
 珍妙な縁で、不思議な友人が出来てしまった。もっともこの先会うことはないだろうと高を括り、アリババは今度こそ携帯電話に視線を戻した。
 新規作成ボタンを押してメール画面を呼び出し、親指でキーを操作して履歴からシンドバッドのアドレスを探し出す。彼がせっせと手を動かしている間も、アラジンはテーブルに置かれたサンドイッチに舌鼓を打ち続けた。
 美味しい、美味しい、という声がたまに聞こえて、照れ臭かった。
 アリババは、料理自体は嫌いではなかった。けれど手の込んだものを作るのは苦手だ。後輩の白龍のように凝ったものは到底真似出来ないし、見た目よく飾り付けるのもあまり得意ではなかった。
 シンドバッドも美味しいと褒めてくれるが、ここまでではなかった。ラシッドに至っては、味付けが濃いと文句を言われる場合が多かった。
 もっとも彼は年齢が年齢なので、塩分の摂り過ぎは命取りになりかねない。アリババ好みの味付けは、七十代のラシッドには厳しいものがあった。
 最近はシンドバッドが好む味を探すうちに、油濃いものばかり作っている気がする。注意しようと気持ちを引き締めて、彼は打ち込んだメールを電波に飛ばした。
 送信完了の文字が出たところで携帯電話を閉じて、前に向き直る。
「……あれ?」
 そして目に飛び込んできた光景に、ぽかんとなった。
 呆然とする彼の正面で、アラジンがハムスター並に膨らんだ頬をもごもごさせていた。
「あ、あれ? ちょっと、待って」
「んー、んぐんぐ、むっはー」
「ちょい、タンマ。あれ、ちょっと……おかしいな。どこ行った?」
 絶句するアリババをよそに、アラジンは両手で口を押さえ、顎を上下させて最後に気持ち良さげに息を吐いた。唇の端にはマヨネーズがこびりついて、その指先はトマトの汁でべとべとだった。
 それらも丁寧に舌で舐めとって、少年は満足げに腹を叩いた。
 とても良い音がした。タヌキよりも立派に育った下腹にアリババは頬を引き攣らせ、見事にスッカラカンのタッパーに鼻を愚図らせた。
 大き目の容器にみっちり、詰め込んであったのだ。それが三個もあったのに、どれもこれも綺麗さっぱり、中身が消失していた。
 自信作のサンドイッチが、どこへ行ってしまったのか。答えは一つしかなくて、彼は唖然としたままアラジンに見入った。
 少年は横にも丸く膨らんだ身体を撫で、椅子の上で満面の笑みを浮かべていた。
「って、おい。スープもかよ!」
「いや~、とってもおいしかったよ」
 はっとして、アリババは立ち上がった。もしやと冷や汗を流して確かめれば、案の定水筒の中は空っぽで、逆さにしても雫が一滴垂れただけだった。
 大人でもひとりで食べきれるかどうか分からない数あったので、油断していた。アラジンは細身だったので、まさかこんなに食べる子だったとは考えもしなかった。
 もっと意識を傾けていたら、全部平らげられてしまう前に回収出来た。メールの文面に悩んでいたのは五分にも満たない時間だったというのに、なんたる早業なのか。
「お、おま……お前なあ!」
「ん? どうしたんだい?」
 アリババ自身、ふた切れくらいしか食べていない。どこまで遠慮を知らない奴なのかと声を荒らげた彼に、しかしアラジンは臆面もなく聞き返して来た。
 己の行動に非があると、これっぽっちも思っていない貌だった。
「どーすんだよ。全部食って良いなんて、俺はひとっことも言ってないぞ」
「え? だって」
「これはな、俺が、シンドバッドさんに食べてもらおうと思って――」
 アラジンとしては、出されたものを全部食べるのが礼儀だと思っていたのかもしれない。その点、説明不足だったのはアリババの落ち度だ。乗せられて調子に乗って、自慢したくてテーブルに料理を広げたのも良くなかった。
 自らにも責任があると分かっているからこそ、余計にふがいなさを感じて悔しかった。声を張り上げているうちに段々悲しくなってきて、アリババは途中で息を詰まらせ、鼻を愚図らせた。
 唇を噛み締めて堪えるが、涙が溢れるのは止められなかった。
 思い切り強くテーブルを叩き、小学生相手に本気で怒って涙ぐむ。高校生にもなって情けないと顔を伏して、アリババは力なく椅子に戻った。
 罵倒を途中で止めて黙り込んだ彼に、アラジンは青い顔でおろおろし始めた。
「ご、ごめんよ、アリババ君。僕はてっきり、全部食べて良いんだとばっかり。君が大事な人に、一生懸命作ったものだったなんて、知らなかったんだ」
「ああ、そうだな」
「アリババ君……」
 先に言えばよかった。後悔に打ちひしがれて落ち込む彼に、アラジンは続ける言葉が見つからなかった。
 どう慰めたところで、食べてしまったものは戻ってこない。空のタッパーを前に、少年は制服のネクタイを握りしめた。
「あ、あのさ。アリババ君。お詫びをするよ。僕は君みたいに美味しい料理は作れないけど、美味しいお店は沢山知ってるんだ。綺麗なお姉さんがいっぱいなお店もあるし、どうだい?」
「いいよ、別に。無理しなくて」
 苦し紛れの打開策を提示されても、アリババは頷けなかった。
 第一、相手は小学生だ。そんな子供の財布を当てにするほど、落ちぶれたつもりはなかった。
 シンドバッドにも連絡を入れたのに、こんなことになってしまった。あの人もがっかりさせてしまうことが、アリババは一番悲しかった。
 メールの返事はまだ来ない。今のうちに、さっきのは冗談だったと送り直そうか考えていたら、膝の上に転がした両手をぎゅっと握られた。
 触れて来たのは、アラジンだった。
 顔を上げ、アリババは不思議そうに小首を傾げた。気力に欠けた眼差しを真正面から跳ね返して、少年は力強く宣言した。
「大丈夫だよ、アリババ君。僕、お金はいっぱい持ってるから」
「……は?」
「あっれー? お前、ひょっとしてアリババ?」
 得意げに胸を張られ、一瞬意味が分からなかった。ぽかんとしていたら別の場所からも声が飛んできて、いきなり名前を言い当てられた彼は目を丸くした。
 背筋を伸ばしたアリババの遥か向こう側で、褐色の肌の青年がこちらを窺っていた。
 少し長めの銀髪を肩から胸元へ垂らして、反応があったのを嬉しがってひらひら手を振りもする。背は高い。まだ少し肌寒いというのに露出の多い服を着て、誰かを連想させる派手なアクセサリーを大量に身に着けていた。
 首に巻いた金のチェーンが陽光を反射し、この距離でも眩しかった。
「あれ……」
 見覚えのある顔に、アリババは騒然となった。
 ふたりきりの時間を邪魔されたアラジンも、機嫌を損ねた顔で振り返った。
 男はローライズジーンズのポケットに両手を入れ、長い脚を自慢するかのように歩いてきた。ザッ、ザッ、と風を切るように進んで、瞬く間にふたりの傍へと迫る。
 しかもその後ろにはもうひとり、大柄の男がいた。
 そちらも、アリババの知っている顔だった。
「あー」
「…………」
 まさか彼までいるとは思っていなくて、驚いてしまった。口をあんぐり開けて呆然としていたら、向こうは無愛想に小さく会釈を返した。
 目の覚めるような赤い髪の男は、アリババの家の近所に住む、モルジアナの兄だった。
「マスルールさん、なんでここに」
「あれ、お前ら知り合い?」
 あまり喋ったことはないが、目立つ体格なので存在は知っていた。妹と同じで口数が少なく、表情も乏しいけれど、力仕事が必要な時は黙って手伝ってくれる、親切な人だ。
 そのマスルールとアリババが知人だとは思っていなかったらしく、銀髪の青年は垂れ下がり気味の目を丸くしてふたりを見比べた。
「ッス」
「マスルールさんは、ご近所さんです。ああ、この前はモルジアナに、大変お世話になりました」
「その後、大事ないか」
「おかげさまで」
 マスルールは先に男に返事し、簡単に関係を説明したアリババに尋ねた。事情を知っている彼に照れ臭そうに笑って、アリババは頭を掻きながら頷いた。
 ラシッドが倒れた直後はドタバタしていて、家のことがあまり出来なかった。彼女が気を利かせてくれたお蔭で助かったことは沢山あるし、モルジアナがいなければ、きっとカシムとも再会出来なかっただろう。
 偶然が引きあわせてくれた幼馴染の顔を思い浮かべ、アリババは改めてマスルールに頭を下げた。
「へ~、世間って狭いんだな」
 そのやり取りを横で眺め、銀髪の青年は物珍しげな顔をした。
「んで、お前って、いつからウチの学生になったわけ? それとも見物?」
 そして少々癖のある髪を指先に絡めて引っ張り、変な場所にいるアリババに問うた。
 彼はまだ高校生で、受験も来年の話だ。だというのに大学の構内に当たり前のようにいて、テラス席に座って寛いでいる。テーブルには空の弁当箱が並んでいるところも、違和感を増大させていた。
 しかも子供も一緒、と警戒気味のアラジンを見下ろして、男は何かに気付いたか、眉を顰めた。
「あれ。お前って、確か……」
「アリババ君、この人たちは?」
 微かな記憶を手繰り寄せ、目を眇める。僅かに顔を近づけて来た男に身を捩り、嫌そうにしたアラジンは取ってつけたようにアリババの膝を叩いた。
 少年ははっとして、椅子の後ろに回り込んだアラジンに苦笑した。
「えっと、この人は俺の師匠……つか、道場の先輩。剣道の」
「シャルルカンだ。よろしくな、おチビちゃん」
「むっ」
 手短な紹介を受け、シャルルカンが気障っぽくウィンクする。アラジンは呼ばれ方が馬鹿にされたようで気に食わなかったらしく、口を尖らせ頬を膨らませた。
 拗ねた顔で睨まれても、ちっとも怖くない。シャルルカンは呵々と笑い、タッパーの片づけに入ったアリババに改めて訊ねた。
「そんで、お前、何してんだ?」
「いえ、その。知り合いの人を探してて」
 流石に答えないわけにはいかない。ただシンドバッドの名前を出して良いものか、正直分からなかった。
 彼は大学の助教授であり、作家の顔も持っていた。変な噂を立てられて、名誉を傷つけられる真似は避けたかった。
 マスルールやシャルルカンを疑うつもりはないが、そもそもどういう事情で同居に至ったか、説明するのも面倒だ。そんな理由で言葉を濁した彼に、シャルルカンは深く考えないまま緩慢に頷いた。
「へー。待ち合わせてんの?」
「連絡は入れてあるんですけど。返事待ちです」
 相手が誰なのかは追及されなかった。それに安堵して胸を撫で下ろし、アリババは空のタッパーを縦に重ねた。
 もうハンカチで包む必要もなかろう。水筒も片づけて鞄に突っ込んだ彼を見て、アラジンは複雑そうに目を伏した。
「師匠とマスルールさんも、知り合いだったんですね」
「まあな。同じ体育会系だしな」
「ああ、そうなんだ」
 話に入れなくて疎外感を覚えている彼に気づかず、アリババは小学校時代から通う剣術道場の先輩であるシャルルカンに、逆に聞き返した。
 シンドリア大学は、総合大学だ。様々な学部が用意されて、学生間の交流も盛んだった。
 シャルルカンがシンドリア大学に進んだのは知っていたが、マスルールもそうだったとは知らなかった。素直に驚いて、アリババは途中でおや、と首を傾げた。
 目指していたのはシンドバッドの居る文学部なのに、どうして体育学部のふたりがここに居るのか。ただの偶然かと想像を巡らせていたら、不意に空気が震えた。
 直後だった。
 突如彼らの近くで、巨大な爆発音が轟いた。
「うっ」
「わひゃ!」
 ズドォォォォン、と腹に来る凄まじい轟音に、鼓膜がびりびり震えた。爆風が吹き荒れて、煽られた木々が一斉に同じ方向に枝を撓らせた。
 大気が渦を巻き、熱を孕んで地表を駆け抜けた。大地が撓り、地底から突き上げられて身体が浮き上がった。
 この中で一番軽いアラジンが吹き飛ばされそうになって、咄嗟にアリババにしがみついた。そのアリババも顔を庇って腕を出し、荒れ狂う暴風に懸命に立ち向かった。
 地面が叩き割られ、大地がひっくり返ったようだった。耳鳴りがキーンと長時間残り、風が落ち着いた後も頭が揺れて、視界が歪んで見えた。
 息も出来ない時間が、一分近く続いた。吹き飛ばされた木の葉が足元に散乱して、誰もいないテーブルがいくつかひっくり返っていた。
「な、なんだ……?」
 唐突過ぎる出来事にぜいぜいと息を切らし、アリババは温い唾を飲み込んだ。
 なにが起こったのか、咄嗟に理解できなかった。
 どこかで爆発が起こったのだと思う。テレビドラマや映画で見聞きしたことある光景が脳裏を過ぎって、彼は騒然となった。
「ちょ、え。え?」
 テロでも起きたのか。ニュースで流れていた、真っ黒い煙を吐くビルの姿が瞼に浮かび、そのあまりにも非現実的な世界に絶句する。
 まさか平々凡々と生きてきた自分が、こんな状況に遭遇するなど思いもしなかった。人よりは波瀾万丈な人生を送って来たと自覚しているものの、父が倒れてから先、一度に色々な出来事に遭遇しすぎだ。
 ここ一週間の記憶が、まるで走馬灯のように流れて行った。早く救急車か、消防車か。それよりもパトカーを呼ぶべきではないかと、早鐘を打つ心臓に震えながら必死に頭を巡らせる。
 耳鳴りはやまず、嫌な汗が首筋を流れた。
 そこへ。
「ぶはっ」
 突然、真横から盛大な笑い声が響いた。
「今日は一段と凄いっすね」
「ホントだ。ギャラリーも多いし、奮発したのかね?」
「――へ?」
 呆気にとられて振り返り見れば、シャルルカンが腹を抱えて爆笑していた。マスルールも平然として、斜め上の空を眺めていた。
 周囲に注意を向けてみれば、通行人も皆、足を止めて同じ方向を見ていた。しかも誰ひとり慌てておらず、笑っている人が大半だった。
「え? え?」
 慌てているのは、アリババひとりだけだ。
 どうしてそんな顔が出来るのか、意味が分からない。挙動不審に左右を見回して、少年は和やかな雰囲気のキャンパスに目を点にした。
 椅子の上で戸惑っていたら、腰にしがみついていたアラジンが嫌そうに顔を顰めた。
「ヤムお姉さん、また僕に黙って実験したんだ」
 ぽつりと呟き、唇を噛み締める。聞こえたアリババが首を傾げたところで、ようやく笑い止んだシャルルカンが嗚呼、と手を叩いた。
「そうか。お前、ヤムライハんトコの」
「みんな笑ってるけど。でも、ヤムお姉さんは、ホントはホントにすごいんだからね!」
 合点がいったと目尻を下げた男に怒鳴り、アラジンが怒りを爆発させた。無防備だったシャルルカンの足を思い切り蹴り飛ばすと、彼は地面に転がり落ちていた鞄と帽子を取り、駆け出した。
 走りながら鞄を背負い、帽子は手に持ったまま去っていく。だが途中で思い出したらしく、速度を落として振り返った。
「アリババ君、またね。今度、ちゃんとお礼するから!」
「ええ? あ、ああ……」
 一体全体、何がどうなっているのかさっぱりだ。先ほどの爆発の正体も不明のままで当惑していたら、蹴られた場所を庇い、シャルルカンが起こした椅子に腰かけた。
 痛い場所を撫でて慰め、小さな背中が見えなくなってから渋い顔でアリババに向き直る。
「知り合いなのか?」
「さっき、ちょっと」
 友達かどうか聞かれたら、正直微妙だ。たまたま門の前で出会い、助けられて、昼を奢ってやっただけだと手短に告げれば、嗚呼、と妙に納得されてしまった。
 要領を得ない反応に困っていたら、見かねたマスルールが珍しく口を挟んできた。
「今の子は、たぶん、飛び級でうちに入学してきた子ですよね」
「そうそう。天才少年登場って、ニュースにもなったろ」
 シャルルカンも同意して、横柄に頷いた。
「はい?」
 けれどアリババは、初耳だった。そんなニュース見た覚えもなければ、新聞で読んだ記憶もない。第一、外見は至って普通の、どこにでも居そうな子供だった。
 それが実はアリババよりも学歴が上で、複数の特許を取得した才児だと言われても、にわかには信じられなかった。
 しかしシャルルカンならまだしも、マスルールが嘘や冗談を言うとは思えない。彼の弁を信じるなら、アラジンは既に海外の大学を卒業し、現在はシンドリア大学の博士課程に籍を置いて、研究に没頭しているのだとか。
 ヤムライハというのは彼と同じゼミに所属する大学院生で、実験室に引き籠っている、こちらも学校の有名人だという。
 先ほどの爆発は、彼女がなにかの実験に失敗した音、ということらしい。
 爆音や爆風が凄まじい割に、建物への被害は殆どないそうだ。それはそれでとても不思議だが、その不思議さを面白がって、本人の意図に反し、この失敗劇を見物に理工学部を訪れる人もいる、という話だった。
 シャルルカンも、そのひとりだった。
 なお、マスルールはただの付き添いというか、暇だから付き合え、と無理矢理引っ張ってこられただけらしい。
「師匠、まさか俺を騙そうだとか」
「ないない。全部マジの、本物だっての」
 ふたりでグルになっていたいけな高校生を惑わそうとしている、と勘繰ったが、即座に否定された。大袈裟に手を横に振られて、アリババは黙って頷いたマスルールにも唖然となった。
 あんな風にサンドイッチを頬張る子供が、どうして大学院生だと思えるだろう。てっきり職員の息子だとばかり思っていたのに、すっかり騙された。
 いや、アリババが勝手に勘違いしただけで、アラジンは自分からそう語ったわけではないのだが。
 正門の警備員と顔見知りだったのも、そういう理由からだろう。今更ながら納得だと頭を垂れて、彼は鈍痛を訴えるこめかみを押さえこんだ。
「なんだってんだよ、もう……」
 シンドバッドへ差し入れを持ってきただけのつもりが、変なことになってしまった。状況が理解の範疇を軽く飛び越えており、しばらく何も考えられそうになかった。
 椅子の上で歯軋りしていたら、ヴヴ、ヴヴ、とどこかで羽虫のような音がした。
「アリババ、ケータイ鳴ってんじゃね?」
「え? あ、本当だ」
 鞄の中で小刻みに震える機械に、シャルルカンが先に気が付いた。耳障りな音に顎をしゃくった彼に頷き、アリババは急ぎそれを取り出した。
 二つ折りの機械を広げると、着信を告げる画面がぱっと表示された。
「あ」
 発信元の名前を目にして、アリババはすっかり忘れていたと慌ててボタンを押した。
「もしも――」
『アリババ君?』
 応答して、定型句を舌に転がす。しかし最後まで言う前に、妙に切羽詰まった声が受話器から飛び出して来た。
 全力疾走した後かのような息切れ具合だった。ぜいはあと荒い息継ぎが合間に挟まって、いったいどういう状況なのか気になった。
「もしもし、シンドバッドさん?」
『ああ、すまない。返事が遅くなって。さっきメールに気が付いてね』
「いえ、それは別にいいんですけど。……大丈夫ですか?」
 苦しそうに低い声で喘がれて、正直、耳がくすぐったい。掠れ気味のテノールに若干照れながら問いかければ、シンドバッドは途端に息を顰め、黙り込んでしまった。
 近くに居る誰かを警戒しているようにも感じられて、アリババは携帯電話を手に小首を傾げた。
 シャルルカンたちも興味深そうな顔をして、会話に耳を欹てていた。
 個人的なことだからあまり聞かれたくないのだが、追い払うのも失礼かと躊躇してしまう。この場合、気を利かせて向こうが自発的に立ち去るのが道理なのだが、好奇心旺盛で悪戯好きのシャルルカンだから、期待するだけ無駄だろう。
 マスルールはといえば、シャルルカンが動かないので、自分だけ離れるのもどうかと躊躇している雰囲気だった。
「シンドバッドさん?」
 電話口からは何も聞こえてこなかった。仕方なくアリババは遠慮がちに、なるべく響かないよう気を払いながら相手に呼びかけた。
 息遣いは聞こえるので、シンドバッドがそこにいるのは間違いない。注意深く耳を澄ませていたら、唾を呑み、唇を舐める音が妙に生々しく聞こえてきた。
 真横で吐息を零される錯覚に、アリババは騒然となった。
『アリババ君』
「ひぃゃ、ふぁい!」
 ぞくりと来て、背筋が粟立った。直後に呼びかけられて、返事する声は見事にひっくり返った。
 空中で一回転した甲高いトーンに、シャルルカンたちも驚いて目を丸くした。それで余計に顔を赤くして、アリババはいたたまれない気持ちで唇を噛み締めた。
 頬に触れると、火照っていて熱かった。もしこれが電話越しでなかったら、どうなっていたか分からない。まだ機械を通してよかったとほっとして、彼はバクバク五月蠅い心臓を服の上から掻き毟った。
『アリババ君?』
「いや、えと……なんでもありません。それで、あの」
『ああ、そうだね。昼食なんだけど、残念ながら一緒出来そうにないんだ。ちょっと仕事が立て込んでいてね、すぐには解放されそうになくて。本当は抜け出したいんだけど、もの凄くこわ~い奴がそこで見張って……いだっ、いだだ、痛い。こら、やめなさい。あイダッ。何をするんだジャーファル!』
 緊張を押し殺し、言葉を紡ごうとしたら先手を打たれた。しかしシンドバッドも途中から声を高くし、何と戦っているのか、悲壮な声で絶叫した。
 マンションのテーブルに残されていた走り書きのメモを思い出して、アリババは脱力してため息をついた。
「そうですか。だったら仕方がないですね。夜も遅いんですか?」
『あ、ちょっと。待って! アリババ君、いだっ、ぎゃあ。やめ、やめなさいジャーファル、ホントに……千切れる、千切れるから』
「お仕事頑張ってください。お風呂は沸かしておきますので。それじゃ」
 受話器の向こうからは、ドスン、バタンと大きなものが倒れたり、なにかにぶつかったりする音がひっきりなしに響いていた。その光景を出来るだけ想像しないよう目を瞑り、彼は制止も聞かずに通話を切った。
 直前にシンドバッドの慟哭が聞こえたが、敢えて無視する。心を鬼にして、アリババは携帯電話の電源も落とした。
 どうせ大切な書類か、論文の提出期日を忘れていたとか、そういう理由だろう。
 ここ一週間はサルージャ家の騒動があった所為で、彼は特に多忙だった。しかし締め切りを守らないのは、大人としてどうかと思う。
 言ってくれれば昨日の買い物だって、アリババひとりで行ったのだ。放課後に学校に車で迎えに来る暇があるのなら、書室に籠って論文の一枚でも書き上げればいいものを。
 ジャーファルの苦労が垣間見えた気がした。今日は大いに反省してもらうことにして、アリババは惚けているシャルルカンたちを振り返った。
「すみませんでした」
「いや、別にいーけど。つかお前、シンドバッドさんとも知り合い?」
「話せば長いんですけどね」
「マジか。うちの学校の有名人と、どんなけ知り合いなんだよ、お前」
「というか、先輩。アリババは、サルージャ教授のご子息……」
「あー、そーいやそうか。あれ、教授って確か、この前」
「あはははは」
「よし、アリババ。奢ってやるから飯に付き合え」
 笑って流そうとして、失敗した。面白そうな匂いを嗅ぎ取った男に肩をがっしり固定されて、アリババはしたり顔で笑うシャルルカンに冷や汗を流した。
 もっともこれで、夕方までの時間は余裕で潰せそうだ。寂しい懐具合も心配不要と太鼓判をもらって、アリババは絡んでくる太い腕を押し返し、満面の笑みで頷いた。
 遠く、どこからかオオカミのような遠吠えが響いたけれど、彼の耳には届かなかった。
 

2013/12/02 脱稿