籌策

 沢田綱吉は困っていた。
「ええと、あの、お……」
 クッションも十分なソファの上で正座して、視線だけを左へ流す。握った両手を膝に並べた彼に、呼びかけられた青年はピタリと手を止めた。
 書き物を中断させて、男が顔を上げた。動きに合わせて長めの前髪が揺れて、黒く冴えた瞳が鋭い光を放った。
 突き刺さりそうな眼差しに息を呑み、綱吉は戦慄く唇をきゅっと引き結んだ。
 床に置いた上履きに目をやってから、続けて高い位置の壁時計を見る。窓の外は夕焼けに染まり、斜めに伸びる影は色濃かった。
 あと一時間もすれば、空は闇に包まれるだろう。すっかり日が暮れるのが早くなったと心の中で呟いて、彼は緊張に頬を引き攣らせた。
「なに?」
「うぐっ」
 話しかけておきながら、続きを言おうとしない。落ち着きなく身じろぐばかりの綱吉に焦れて、書類仕事中だった男が小首を傾げた。
 頬杖ついて見つめられて、綱吉は大袈裟に肩を強張らせた。全身を震わせて汗を流し、十数秒前の自分の行動を軽く悔いながら顔を伏す。
 背中を丸めて小さくなった彼に嘆息し、応接室の主は深いため息をついた。
 ボールペンの尻で額を削り、雲雀恭弥は背筋を伸ばした。
 深く腰掛けていた椅子上で肩を回し、凝っていた身体を軽く解してからペンを手放す。机上で転がったそれは書類の壁にぶつかり、跳ね返ることなく停止した。
 その微かな物音にも反応して、綱吉はソファの上で小刻みに跳ねた。
 乱暴に扱えば砕けそうなくらい、ガチガチになっている。そこまで緊張されるいわれはなくて、雲雀は嘆息を追加し、立ち上がった。
 椅子を引き、身を起こす。途端に綱吉の顔色が悪くなり、奥歯を噛み鳴らす音がこの距離でも聞こえてきた。
「沢田綱吉」
「ひゃっ、ひゃい!」
 名前を呼べば、裏返った声が響いた。中学生男子にしては高いトーンに苦笑を漏らし、雲雀は緩く握った手で机を叩いた。
「君、なんでここに呼ばれたか分かってる?」
 コンコンとリズムよく音を響かせ、静かに問いかける。首を傾げながら問われた少年は目を剥き、ギギギ、とぎこちない動きで雲雀に向き直った。
 油の切れたブリキの玩具のようだ。軋んだ音が聞こえそうな動きに苦笑して、並盛中学校風紀委員長は肩を竦めた。
 大判の机を回り込み、応接セットの方へ一歩踏み出す。鳴り渡った足音にも大仰にびくついて、綱吉は頬をヒクヒク痙攣させた。
 顔色は真っ青で、唇は青紫だった。ここまで血の気が引いた表情は珍しくて、雲雀は興味深そうに座る少年を眺めた。
 やがて男は椅子と反対側に立ち、執務机に浅く腰を預けた。
 一定の距離が保たれて、綱吉は露骨にホッとした。命の危機は一旦回避されたと胸を撫で下ろし、すぐに気を抜いている場合でないと思い出して鼻を愚図らせる。
 トンファーが出てこなかったのを幸いに感じながら、彼はバクバク言う胸を宥めて唇を舐めた。
「あの、えっと。俺、ヒバリさん」
「ん?」
「なにか……しました、っけ」
「ああ」
 呼び出された理由について、思い当たる節は全くなかった。
 つまるところ、質問にも答えられない。分からないと正直に告げた彼に緩慢に頷いて、雲雀は左手を後ろに滑らせた。
 仕事関係とは分けておいた一枚の紙を探り当てて、彼は掴んだそれを顔の前に持って行った。
 それは薄いわら半紙だった。
 サイズはA4で、片面だけ黒インクで文字が印刷されている。学校で配布されるプリントなどに使われる、ごく一般的な代物だった。
 ただ唯一違うところがあるとすれば、印字面に赤ペンのチェックが入り、色が染みて裏にまで滲んでしまっていることくらい。
 そしてそのチェックの仕方には、とある特徴があった。
「……まさか」
 嫌な予感を覚え、綱吉は総毛立った。
 声が掠れた。ソファの上で伸びあがった彼に笑みを零し、雲雀は上辺を抓んだ書類をぴらっ、と裏返した。
 綱吉に見えるように掲げ、目を細める。瞬間、綱吉は絶叫した。
「ぎゃああああ!」
「すごいね、君。自転車を『tyarinko』って書く子、初めて見たよ」
 部屋中に轟く大声も意に介さず、雲雀が呵々と笑って感想を呟く。綱吉は咄嗟に紙切れに手を伸ばしたが、当然届くわけがなかった。
 それどころかバランスを崩し、あっけなくソファに倒れこんだ。
 正座していたのをすっかり忘れていた彼に苦笑いを浮かべ、雲雀は手にした紙をひらひら揺らした。
 綱吉の名前が記されたその紙は、他ならぬ、昨日の小テストの答案用紙だった。
 汚い字で書き込まれた解答欄には、悉くチェックマークが入っていた。正解を示す丸印は皆無で、それを証拠に、名前の右隣には丸がひとつ書き込まれていた。
 零点を取るのも驚きだが、それ以上に驚愕なのが、回答内容だった。
「なっ、なんでヒバリさんが」
「風紀委員だからね」
「職権乱用です!」
 今日は英語の授業がなかったので、小テストの結果が返ってくるのは明日の予定だった。しかし何故かそれが、雲雀の手元にある。しれっと言い放った男に真っ赤になって、綱吉は怒鳴り声をあげた。
 握り拳を作って上下に振るが、何の効果もなかった。雲雀は面白そうに口角を歪めるばかりで、激昂し、また羞恥に喘ぐ少年に見向きもしなかった。
 彼は並盛中学校で数ある委員会のひとつ、風紀委員の委員長だ。しかし実際のところ、その権限ははるかに大きい。
 学校の応接室を不法に占拠し、執務室代わりに使用しているところからして、その専横ぶりは想像出来よう。ほかにも弱者が群れているのを見ると問答無用で武器を手にし、これを駆逐して回っていた。
 綱吉も過去に何度か殴られたことがある。彼が愛用するトンファーには改造が加えられており、その破壊力は並のものではなかった。
 敵に回すと非常に恐ろしい存在だ。ただ裏を返せば、味方に引き込んでしまえばこれほど心強い相手は居ない。
 雲のボンゴレリングを継承する男を涙目で睨み、綱吉は崩した足の上で鼻息荒く喘いだ。
「なんで。どして、それ、俺の……っ」
「ひどい点だったからね。見過ごせないだろう、風紀委員として」
「意味が分かりません!」
 本来は英語教師が持っているべきものを、所詮は一生徒である雲雀が所持しているのか。プライバシーの侵害も甚だしく、一般常識からも大きく逸脱していた。
 だのに雲雀は少しも悪びれず、再度赤いゼロに目をやって、困った顔で頷いた。
「どうして? 学校の平均点が下がったら、その時点で風紀が乱れてるってことじゃないか」
「そうかもしれないけど、でもヒバリさんは極端すぎます」
 真面目に勉強している生徒が多ければ、平均点は上がっていきそうなものだ。しかし現実は、その逆だった。
 一部の生徒が足を引っ張っている事実を伏せ、暴論に出た雲雀に綱吉は噛み付いた。もっともその主張は胸を張れたものではなく、彼は言ってから恥ずかしそうに俯いた。
 自分の意見で傷ついた少年に苦笑して、雲雀は正解にかすりもしていない回答に肩を竦めた。
「英語のテストなのに、日本語書いてどうするの」
「え、だって」
 真っ先に目についた設問に眉を顰め、誤答を指ではじく。しかし綱吉は納得がいかないのか、言い訳を高いトーンで捲し立てた。
 曰く、カタカナではないか、と。
 問題の内容は、自転車を英語で書け、というものだった。正解は、『bicycle』。それが二輪車を表す英単語だ。
 けれど綱吉は、全く違う回答を答案に書き込んでいた。
 不正解になった理由が分からないとでも言いたげに、彼は頬を膨らませた。
 長く踏み続けていた足が痺れたのを受け、正座を崩して両足を床へ垂らす。ソファの上で居住まいを正した彼に深々と嘆息し、雲雀は間違いだらけの答案用紙を背の低いテーブルに置いた。
 英語教師も激しく落胆したのだろう。その一問のバツ印は、ほかのものよりちょっとだけ大きかった。
「違うよ。君の回答は、日本語」
「でも、自転車のこと、そう言いますよね」
「言うけどね。あれはただの俗称であって、英語じゃないよ」
「ええー?」
 それでも尚食いついてきた彼に、雲雀は若干イラッとしながら答えた。誤回答を指で小突き、不満そうな綱吉を横目で鋭く睨みつける。
 こんなところから解説しなければならないのかと頭を抱え、風紀委員長は肩を落とした。
「自転車の、ベルの音があるだろう。その『チャリン』という音が訛って出来た言葉だとも、言われてる」
 疲れた口調で告げた彼に、綱吉はそれでも納得出来ないと小鼻を膨らませた。
「こじつけっぽいです」
「俗説だからね。本当のところなんて、誰にもわからないよ」
 屁理屈だと抗議するが、雲雀は軽く受け流した。淡々と言葉を操り、真実は闇の中とこの話題を終わらせる。
 だが綱吉は口を尖らせ、面白くなさそうに身体を揺らした。
 雲雀の説明が正しいのか、違うのか。調べたければタイムマシンが必要だ。望めば某天才科学者が作ってくれそうだが、調査内容を知ったら、きっとヴェルデは怒るだろう。
 くだらないことで私の研究を使うな、という声が聞こえてきそうだ。思わず首を竦め、綱吉は窄めた口から息を吐いた。
「違うんだ……」
「確実に、海外じゃ通用しないね」
「ちぇ」
 心底呆れられて、しゅん、と小さくなる。両手で答案を取り上げて、綱吉は深く長い溜息をついた。
 英単語の書き取りは、それなりに自信があったのに、全滅だった。
「赤ん坊は君に何を教えてるの」
「少なくとも、英語は教わってないです」
 沢田家には非常に有能な家庭教師がいた。
 世界最強のヒットマンを自称する赤子の名は、リボーン。彼は綱吉をイタリアンマフィア、ボンゴレの十代目ボスにするために遥々やってきた殺し屋だった。
 綱吉にとって、マフィアの血縁者だというのは寝耳に水の話だった。勿論ボスなんて物騒な真似は御免で、絶対に嫌だと言っているのだが、周囲はまるで耳を貸してくれなかった。
 気が付けば騒ぎに巻き込まれ、闘争に明け暮れていた。最近になってようやくひと段落ついて、穏やかで平和な日々が過ごせるようになってきたというのに。
 今になって学生としての苦難に見舞われて、綱吉は悔し涙を流した。
「トホホ」
「で、どうするの、君。このままだと、留年になるよ」
「えええっ」
「出席日数も足りてないし」
「うげ」
 がっくりしていたら、追い打ちをかけられた。泣きっ面に蜂とはまさにこのことで、淡々と事実を告げられた彼は顔面蒼白になった。
 リングの継承権を争いあったり、突然未来へ飛ばされたり。はたまた孤島に乗り込んで野宿をしたり、挙句数百年を生きている強敵相手に張り合って、世界の真相を垣間見たり。
 怒涛の勢いで流れて行った日々は、その代償として、綱吉から勉強する時間を奪っていった。
 学校に長期間顔を出さなかった分、試験で高得点を狙わないと進級出来ない。しかし元から頭が悪かった綱吉だから、平均点以上を獲得するのは至難の業だった。
 自分一人で学校全体のレベルを落としているのは、身に染みて痛感していた。改めて指摘されてぐうの音も出ず、彼はしょぼくれて丸くなった。
 激しく落ち込んでいる後頭部を見下ろし、雲雀はやれやれと首を振った。
「別にいいんじゃない? いつまでも、ここにいれば」
「――ヤですよ!」
 暮れなずむ窓の外を見やり、呟く。途端に綱吉は伸びあがり、悲痛な声で叫んだ。
 間髪入れずに拒否されて、雲雀は目を見張った。切れ長の眼を真ん丸にして、握り拳を作った後輩を前に呆然とする。
 呆気にとられている彼に気づいて、綱吉もはっと我に返った。
 ソファから浮かせた腰を落として、彼は身体を弾ませながら指を蠢かせた。
 もぞもぞ身を捩る少年を見詰め、雲雀は力なく頷いた。
「そう。そんなに、僕と一緒は嫌」
「ち、ちがいますってば」
「違わないだろう」
 低い声で囁き、綱吉を叩きのめす。慌てて弁解しようとした彼を制して、雲雀は黒髪を掻き上げた。
 冴え冴えとした瞳で睥睨されて、綱吉はぶすっと口を尖らせ目を逸らした。膝の上で両手の指を互い違いに絡めて握り、親指を小突き合わせながらまとまらぬ頭を懸命に整理する。
 雲雀はいつでも好きな学年だと言い切るくらい、この学校を愛している。きっと二年先も、五年先も、変わらず並盛中学校に居座り続けるのだろう。
 それはそれで、構わないと綱吉は思う。雲雀の人生は雲雀のものだから、どうこう言うつもりはなかった。
 しかし彼の隣に自分が居続けるとなると、話は別だ。
「俺は、えっと。なんていうか、やっぱりみんなと一緒に卒業して、高校行って、いろんなところでいろいろやりたい、っていうか」
「その学力で?」
「たとえばの話ですよ!」
 しどろもどろに語り始めれば、冷たいツッコミが横から入った。それを反射的に跳ね返して、綱吉は憤然としながらソファに座り直した。
 背筋をぴんと伸ばし、雲雀を仰ぐ。
 琥珀色の眼差しを受け、彼は少々緊張気味に口元を引き結んだ。
 その顔にふわりと笑いかけて、
「ヒバリさんだって、俺がいつまでも同じ場所でうじうじしてるより、前に向かって進んでる方が良いでしょう?」
 停滞ではなく、前進を。
 滞留よりも、進化を。
 長く一ヶ所に留まっているのは確かに安泰かもしれないけれど、同時に視野が狭くなる。固定化された思考は内向きになり易く、歩みを止めた足は急速に衰えていく。
 だから綱吉は、明日を目指す。不明瞭な未来に臆することなく、選択し続ける。
 きっぱり、はっきり告げた彼に、雲雀は一瞬面食らい、そして気の抜けた笑みで応じた。
「それもそうだね」
 どうやら、精神面では綱吉の方が上手だったらしい。一時期とは比べものにならない成長ぶりを見せられて、雲雀は緩慢に頷いた。
 そこまで言われたら、折れるしかない。甘い誘いに乗ってこなかった恋人に苦笑して、彼は改めて綱吉を指さした。
 正確には彼の膝にある、答案用紙を示した。
「でも、だからってその点数はないと思うな」
「……ぐ」
「無事卒業出来ても、拾ってくれる高校なんてないんじゃない?」
「そんなこと、は。今からもっと頑張れば、きっと」
 話が一周して、スタートに戻ってしまった。ぐさりと突き刺さった現実から目を逸らし、綱吉は頬をヒクつかせた。
 言いはしたが、世の中そんなに甘くないのは身に染みている。このままではリボーンの画策通り、ボンゴレ十代目を正式に継承するしかなくなってしまう。
 一番望んでいない将来が、最も現実味を帯びていた。それは嫌だと鼻を愚図らせていたら、ため息ついた雲雀が目じりを下げた。
「ならいっそ、うちに永久就職する?」
「ああ、それもいいですね……え?」
 抑揚なく淡々と言われて、深く考えないまま綱吉は同意した。半笑いで相槌を打ってから、今しがた雲雀が口にした台詞を大慌てで引っ張り返す。
 通り過ぎるところだった言葉を噛み締めて、彼は目を丸くして振り返った。
 雲雀は夕日を背景に、意味深な微笑みを浮かべていた。
 背筋がぞわっと寒くなり、全身の毛が逆立った。歯の根が合わない奥歯をカチカチ言わせ、綱吉は吹き飛んでいきそうな勢いで首を横に振った。
「ちょっ、ちが。今のは、冗談で」
「へえ?」
 話を真面目に聞いていなかったのだと弁解するが、時すでに遅い。この男に冗談は通用しないと今更思い出して、綱吉は両手も振り回してソファ上を後退した。
 けれど狭い部屋の中だ、追い詰められるのにそう時間はかからなかった。
 ソファの角に辿り着き、肘掛けに腰が乗り上げた。ぶつかった衝撃にびくっとなった直後、隙を狙って雲雀が一気に距離を詰めた。
 ぐい、と顔を近づけられて、吐息が鼻先を掠めた。
「あの、えと、あの」
「ねえ、君は男だろう?」
「そうですね!」
「なら、男に二言は?」
 緊張でガタガタ震えた。恐怖に目が泳ぎ、声が裏返った。
 今更な質問に背筋を粟立て、綱吉は不敵に笑う男に顔を引き攣らせた。
 人の話はもっとまじめに聞くべきだ。己の迂闊さを呪って、彼は一瞬で決定された未来に涙を呑んだ。
「……ありません」
 がっくりしながら呟けば、雲雀は満足げに目を細めた。

2013/11/25 脱稿