「ちーっす」
「おぉ、影山。今日は遅かったんだな」
俯いたまま気の抜けた挨拶をして、ドアを開ける。自然光から人工的な光が照らす空間へと場所を移し替えた彼に、早速中に居た人物から声がかかった。
瞬きを二つ重ね、影山は丸めていた背中を伸ばした。
敷居を跨ぎ、後ろ手に扉を閉める。途端に屋外の賑わいが少しだけ薄くなり、室内の雑音が大きく響くようになった。
入口傍に置かれた古い目覚まし時計は、練習開始の約十分前を指し示していた。
それは、いつもならとっくに着替えを済ませ、体育館に駆け込んでいる時間だった。
「今日、日直だったんで」
「ああ、なーる」
数分だけ実際よりも早く進んでいる時計から視線を外し、影山は靴を脱ぎにかかった。前方から飛んできた質問に淡々と切り替えし、先に鞄を下ろして右の踵へと手を伸ばす。
その頃になって、ようやく彼は部室内に目を向けた。
時間帯の所為か、人口密度は低かった。
居たのは、二年生の田中と縁下、そして一年生の日向だけだった。
ほかの部員はまだなのか、それとも先に行ったのか。嫌味な眼鏡男や騒がしい天才リベロが見当たらないのに首を傾げ、影山は左足も靴から解放した。
裏を上にして落ちたスニーカーを蹴って天地正しくし、床で怠けていた黒い鞄を肩に担ぐ。移動を開始した彼を目で追って、輪を作っていた三人組は笑みをこぼした。
「で、えーっと。なんだったっけ」
「ノヤが、泣きながら走ってったってところかな」
「あー、そうそう。それです」
影山の登場で一旦停止状態だった会話を再開させ、日向が両手を叩き合わせた。どこまで喋ったのかを思い出して、縁下を前にケラケラと声を響かせる。
高校一年生の男子としては少々高めのトーンに小首を傾げ、影山は彼らを気にして腰を捻った。
壁際に並んだ不揃いの棚の前に立ち、荷物を押し込んで眉を顰める。途中から話を聞いても、前半部分が不明の所為でさっぱり分からなかった。
三人はすでに制服から練習着に着替え、準備は完了していた。いつでも体育館に向かえるように、黒いジャージの近くにはシューズも用意されていた。
だというのに、畳の上に座り込んで動こうとしない。特に練習大好きの日向の腰が重いことが、影山には些か信じられなかった。
そんなに面白い話なのかと気になって、つい聞き耳を立ててしまう。表面上は興味のない素振りで練習着を取り出して、彼は急ぎ制服を脱ぎにかかった。
衣擦れの音が邪魔にならぬよう配慮しつつ、ゆっくり、慎重に学生服から袖を引き抜き、折りたたむ。体温を残して仄かに温かいそれを撫でていたら、坊主頭の田中がぶっ、と噴き出した。
「マジでか。ノヤの奴、よっぽど悔しかったんだな」
「でも田中だって、同じことされたら泣くんじゃない?」
「お、おれは、大丈夫だ。潔子さんを信じてる!」
日向の言葉がツボにはまったのか、腹を抱えて笑い転げる。そこへ縁下が冷たいツッコミを入れて、彼は即座に起き上がった。
色の抜けた畳を荒々しく踏みつけて、握り拳を作って宣言する姿だけは格好いい。しかし発言内容が若干情けなくて、物音にびくっとなった影山は遅れてため息をついた。
深く沈んだ彼の肩を見過ごせなかったのか、田中は激昂して声を荒らげた。
「テメー、影山。バカにしてんじゃねーぞ」
「してませんけど」
「ウソつけ」
反射的に緊張してしまったが、必要がなかったとホッとしただけだ。だというのに噛み付かれて、不条理に絡まれた彼は迷惑そうに眉目を顰めた。
眉間に皺を寄せた彼に息巻いて、田中は荒々しく吐き捨ててそっぽを向いた。
一方的に怒鳴って拗ねた先輩を前に、影山は困惑しながら目を泳がせた。
着替えを中断し、談笑中のメンバーを順に見る。助けを求める眼差しを受け、縁下が困った顔で微笑んだ。
「いや、ね。今日の昼休みに、ちょっとね」
「はあ」
自分は現場に居なかったのだが、日向が目撃した光景が面白かったと言う。水を向けられた少年はコクリと頷いて、怪訝にしているチームメイトに白い歯を見せた。
その彼の手には、見覚えのある菓子箱が握られていた。
遠くからでも目立つ赤色に目を眇め、影山は首を右に倒した。
月島や山口が駆け込んでくる様子がないので、彼らは既に、第二体育館へ向かったのだろう。ネットを張ってボールを出し、準備に取り掛かっている彼らの姿は楽に想像できた。
急がなければいけない。日直で手間取らされたのも思い出して、彼は着替えを再開させた。
その斜め後ろで、幾分機嫌を取り戻した田中が身体を前後に揺らした。
足の裏をぴったり張り合わせ、左右に脚を広げた状態で背中を丸める。髪型の影響もあってその姿はダルマのようで、見ていたら横から押してやりたくなった。
もっとも実行に移せば、田中は真っ赤になって怒るだろう。後々面倒なことになると諦めて、影山はショートパンツの上から腰を叩いた。
「あー、けど見たかったなー、俺も」
「泣くくせに」
「だから、俺は大丈夫だって言ってんだろ。潔子さんは、きっと、俺になら……」
「ないない」
一方で田中と縁下は会話を続け、日向が言ったであろう面白い光景に思いを馳せていた。
最も重要な部分を聞き損じた影山は、彼らのやり取りに少しだけ苛立ち、誤魔化すように黒いジャージに袖を通した。
烏野高校の名前が入った上着を羽織れば、これで準備完了だ。残りはシューズだけとなった影山は、未だ畳から起き上がろうとしない三人を振り返って肩を竦めた。
「いくぞ、日向」
「ああ、ちょっと待って」
早くしなければ、先に行って支度していた月島たちに文句を言われかねない。いつもは影山や日向がやっていることなので、仕事を横取りされたのも不満だった。
寛いでいるチームメイトを急かし、影山が軽くその腰を蹴った。後ろから押された少年ははっとして背筋を伸ばし、握っていた菓子箱を抱え直した。
坂ノ下商店で買ったものなのか、それは超有名菓子メーカーの定番商品だった。
影山も何度か食べたことがある。そう頻繁に口にするものではないが、たまに頬張ると美味しくて手が止まらなくなった。
味のバリエーションは多いが、やはり一番シンプルなものの人気が高いらしい。そういえば今日は、教室や廊下でも何度かそのパッケージを目にした。
一日一度見かければ良い方なのに、今日は十人近く手にしていた気がする。しかも甘いものが好きな女子だけでなく、影山並みに身体が大きい男子まで。
なにかイベントでもあったのか。
奇妙な偶然に気が付いて、彼は眉間の皺を増やした。
高校生にして癖がついてしまっている彼にふっ、と気の抜けた笑みを浮かべ、日向は顔の横で箱を揺らした。
「コレの日、なんだってさ」
「……は?」
「今日は十一月十一日だろ。一がいっぱいだから、だって」
確かに箱にデザインされている菓子は、真っ直ぐな棒状だった。
細く伸ばしたクッキー生地に、チョコレートがコーティングされている。但し手に持ちやすいように、片側の一部分だけは省かれていた。
クッキー部分は歯ごたえがあり、折ればポキッ、と小気味の良い音がした。
言われてみれば、数字の一に見えなくもない。しかしこじつけ過ぎるのではないかと言えば、洒落が分からない奴だと田中に呆れられた。
彼に馬鹿にされると、妙に腹立たしい。思わずムッとなり、影山は箱の中を漁った日向に視線を戻した。
その菓子と、今日が関連付けられているのは分かった。学校のあちこちで見かけた理由も、一応納得出来た。
しかしそれと、彼らが腹を抱えて笑っていた昼休みの出来事とがまだ繋がらない。
不貞腐れていたら、見かねた日向が菓子を一本口に含んで笑った。
「お前、昼いなかったもんなー」
「日直だったからな」
前歯で挟んだまま器用に喋る彼に嘆息し、田中に言ったのと同じ答えを口にする。不機嫌そうに呟いた王様に肩を揺らし、日向は人好きのする笑みを浮かべて菓子を折った。
細かい欠片を宙に散らし、チョコレートで覆われた先端を噛み砕く。右手に半分残った菓子を揺らして、彼は茶目っ気たっぷりにウィンクした。
「だからさ、今日の昼休みな。清水先輩と、谷地さんが部室来たんだよ」
「ああ……」
なにが『だから』なのかは分からないが、機嫌よく語り出した日向に影山は相槌を打った。下手に茶々を入れて脱線されるのも時間の無駄と弁え、おとなしく耳を傾ける。
すでに聞いた内容だというのに、田中や縁下も、どことなくわくわくしていた。
奇妙な雰囲気に眉を顰め、影山は続きを促して首肯した。
「坂ノ下で偶然会ったんだって。そんで、今日はなんか記念日じゃん? せっかくだからみんなで食べようって、持ってきてくれて」
清楚な雰囲気を醸し出す清水だが、中身は菓子好きの普通の女子高生だ。谷地も勿論甘いものに目がなくて、意見が一致したふたりは男臭い部室に揃って姿を現した。
その時部屋にいたのは、日向、西谷、そして成田の三人だった。
突然現れた女子に、成田は驚いて目を丸くした。鼻息を荒くしたのは西谷で、日向は弁当に夢中だった。
むしゃむしゃ食べているところにやってきたふたりは、興奮する西谷に来訪の理由を告げた。そして買ってきたばかりの――現在日向が手にしているチョコレート菓子を手渡した。
そこまで聞いて、影山は半眼した。
「……で?」
「焦んなって。おもしれーの、こっからだから」
どこに笑いどころがあったのか、さっぱりわからない。むしろつまらなくて欠伸が出ると言えば、日向が合いの手を挟んで頬を緩めた。
ちらりと傍らを見れば、縁下も頷いた。
お調子者ですぐ大袈裟に話す日向よりも、実直な彼の方がまだ信用出来た。ならばもうしばらく聞いてやると思い直して、影山は気色ばむチームメイトに視線を戻した。
日向は残っていた菓子を口に挿し、少しずつ噛み砕いて短くしていった。
「んでさー、ノヤさんがな。清水先輩に、でっけー声でお礼言ったわけよ」
「ああ」
「おれもさ、弁当の途中だったけど、差し入れはすっげー嬉しいから、頭下げて。そしたらさ、ノヤさんが」
「うん」
サクサクと小気味よく音を響かせ、全部飲み込んだ日向が両手を広げた。身振りも交えて当時の興奮を呼び覚まして、彼は堪え切れず噴き出した。
田中まで腹筋を痙攣させて、転げ回る準備に入っていた。
縁下は苦笑して、目尻を下げた。
そういえば先ほども、西谷がどうと言っていた。喧しいリベロと、彼が憧れるマドンナたる清水の組み合わせならば、確かになにか騒動が起きても仕方がないと思えた。
なんとなく展開の想像がついて、頬をヒクつかせた直後だ。
「ノヤさんがさ、清水先輩に、じゃあ、ゲームしませんか、つって」
「ぶほぉっ」
日向の言葉を遮る形で、先走った田中が盛大に噴いた。
この後の展開を知っているからこその反応に、影山は乾いた笑みを浮かべた。縁下も呆れて肩を落とし、暴れ回る友人の頭を拳で叩いた。
一気に騒がしくなった部室内で、影山は弱々しくかぶりを振った。
お祭り好きのあの男なら、いかにも言いそうだ。この後の流れとしては、清水に冷たく断られた西谷が、泣きながら部室を飛び出していった、というところか。
残念ながら、田中ほど笑えなかった。その場に居合わせていたらさぞや滑稽だったかもしれないが、影山はそこまで面白く感じなかった。
西谷が提案したゲームとは、この細長い菓子を使ってのものだろう。
ふたり一組になり、一本の菓子の両端をそれぞれ咥え持つ。そして双方同時に食べ始めて、どちらが先に口を離すか、を競うゲームだ。
菓子は一本だけなので、両方食べ進めていけばいずれぶつかってしまう。つまりは、キスすることになる。だがこれを避ける為に菓子を折るか、口を離せば、その時点で負けだ。
ギリギリのところで相手を出し抜く、チキンレースの一種ともいえた。
何かの折に集まって騒ぐ際の、定番のゲームのひとつと聞いている。ある意味罰ゲームだが、それで盛り上がる輩がいるのも確かだ。
もっとも影山は、そういった場に参加したこともなければ、ゲームに挑戦したこともないのだけれど。
知識として持っている内容を頭の中に並べ立て、意気揚々と一本咥えた西谷を連想する。そこに清水の冷徹なひと言が下されて、純情な青少年はショックのあまりに逃げ出した、と。
そこまでの流れを紙芝居で頭上に展開した影山に、日向はしたり顔で笑った。
「ちっちっちー。甘いな、影山は」
人差し指を揺らしながら舌打ちされて、無性に腹が立った。思わず手が出そうになり、さっと避けた日向が偉そうにふんぞり返った。
そして田中同様、思い出し笑いでぶふっ、と噴き出した。
「……先行っていーか」
「ぬあっ」
身内だけで盛り上がられて、外野は完全に置いてけぼりだった。
そもそもさほど興味ない話題だったので、相手をしてやるのも疲れてきた。影山はげんなりしながら呟き、履き慣れたシューズを手に入口を目指そうとした。
それに慌て、日向は素早く彼の前を塞いだ。
「こっからが本番なのにー」
「だったらさっさと言えよ」
「しょうがねえなあ……アダッ」
無視しようとしたら怒られて、仕方なく付き合ってやれば呆れられた。いい加減にしろと我慢ならなくなった影山が手を出して、脳天をチョップされた少年は一気に小さくなった。
赤い菓子箱を両手で抱きかかえ、彼は不満そうに口を尖らせた。
「暴力はんたーい」
「はんたーい」
「田中さんは黙っててください」
文句を言った彼に調子付き、後ろから田中が合流した。右腕を振り回しながら同調されて、鬱陶しさに負けた影山は声を荒らげた。
縁下が深々とため息をつき、時計を一瞥した。まだ少し余裕があると頷いて、完全に横道に逸れた話題に肩を竦める。
「まあまあ、影山も、その辺にしときなよ。あと、それから。清水先輩、良いよ、って言ったらしいんだ」
「あー、バラしちゃ駄目ですよ!」
このままでは本題に入らないまま、タイムリミットが来てしまう。練習に遅刻して怒られるのは避けたくて、彼はてっとり早く終わらせようと、にこやかに笑った。
途端に日向が叫んだが、後の祭りだ。盛大にネタばらしされた少年は不満げに頬を膨らませ、縁下をねめつけた。
迫力のない怒り顔に相好を崩し、彼は惚けている影山にも苦笑した。
「めずらしいですね」
「うん。そうだね」
あの清水が西谷の誘いに乗るなど、初めてではないだろうか。
田中同様彼女が大好きな二年生は、事あるごとに騒いでは彼女に叱られて、喜んでいた。
構ってもらえるだけでも嬉しいらしく、その反応は過剰だ。もしキスさえ可能なゲームに参加すると頷いてもらえたら、それこそ泣いて喜び、部室を飛び出してしまうかもしれない。
先ほどの想像とはちょっと違う展開を脳内に描き、影山は緩慢に頷いた。
だがそれも、縁下によって否定された。
「それでねー。ああ、僕も現場にはいなかったんだけど、日向が言うには、ね。むせび泣くノヤの前で、清水先輩がその、封を開けてさ」
言いながら、彼は日向の胸元を指さした。そこには開封済みの菓子箱が、大事に握られていた。
中身はかなり減っていた。記憶が正しければ二袋、横並びに入っているはずが、今はひとつしか残っていなかった。
雑談しつつ、三人で食べていたのだろう。日向がひとりで食べ尽くしてしまわなかったのも、清水がみんなに、と言って持ってきたものだからだ。
上級生の命令には従順なチームメイトを盗み見て、影山は続きを促し、縁下に向き直った。
彼は気の抜けた笑みをこぼし、悪戯っぽく目を細めた。
内緒だと言わんばかりに唇に人差し指を当てて、
「で、清水先輩はね。待ち構えてるノヤじゃなくて。なんていうか、その……要するに、一緒にいた谷地さんに、突っ込んだらしいんだよね」
「はあ……えっ?」
「プッハー!」
告げられて影山は目を剥き、田中と日向は揃って天を仰いだ。
うっかり相槌を打つところだった。それもこれも、縁下の語り口が淡々としているのが悪い。呆気にとられてぽかんとしていたら、頬を掻いた二年生が困った顔で肩を竦めた。
騒々しいコンビは腹を抱えて転がっていた。ドタン、バタンと部室中を動き回り、埃が巻き起こって迷惑甚だしい。
この時期なので当然窓は開けておらず、閉め切った空間で彼らの行動は厄介だった。けれど影山も茫然自失としており、止めようという気持ちさえ起らなかった。
惚けた顔で二度瞬きをして、縁下を見る。彼は無言で頷き、後ろからぶつかってきた田中をさりげなく蹴り返した。
「は、あ……」
「まあ、ね」
「そうっすね」
日向たちの所為で笑い損ねてしまい、脱力した影山は遠い彼方に視線を向けた。
抑揚に乏しい縁下の説明でも、破壊力はそこそこあった。西谷が泣いて逃げ出したというのも、十分頷けた。
清水の行動は、確かに間違っていない。彼女はゲームをしませんか、と誘われ同意した。けれど、西谷とやる、とは一度も言っていないのだ。
谷地も大いに戸惑ったに違いない。傍観者のつもりで立っていたら、いきなり当事者として巻き込まれたのだから、相当焦ったはずだ。
あの内気で被害妄想過多の少女も加わって、昼休みの部室は想像を絶する状況に追い込まれたことだろう。たまたま場に居合わせてしまった成田が、少し哀れに思えた。
脳内に描き出していた一連の流れを修正し終え、影山は深く長い息を吐いた。
「つか、日向。いい加減体育館行くぞ」
「うぎゅ」
まだごろごろ転がっているチームメイトに足を向け、接近してきたところを狙って振り下ろす。直前で危機を察した少年は寸前で避けたが、代わりに傍にあった椅子の脚にぶつかって止まった。
後頭部を痛打して悶える相棒に嘆息を追加し、影山は空振りした踵を畳に擦りつけた。いつでも次の攻撃を繰り出せると脅して、反応の鈍い日向を急がせる。
田中もひーひー言いながら起き上がり、縁下に促されてシューズケースに手を伸ばした。
「影山がおもしろくない」
「テメーを笑わせる為にバレーやってんじゃねーからな」
「ぶぅ」
一方日向はまだ床に転がり、仰向けになって頬を膨らませた。
洒落が通じない奴だと心の中で呟いて、辛うじて無事だった菓子箱と一緒に身を起こす。白いシャツには細かい畳のカスが大量に付着して、動くたびにぱらぱらと剥がれ落ちて行った。
それもまた迷惑だと眉を顰め、影山はようやく解放されたと肩を回した。
練習前だというのに、疲れた。溜息を繰り返して身体を解す彼を見上げ、日向はむすっとしたまま手にした菓子箱に指を差し込んだ。
残りはかなり少なくなっていたはずだ。練習が始まる前に食べ尽くしてしまおうと考え、細長い袋の口を漁ってガサゴソ言わせる。
その最中に、
「ちぇ、つまんねーの。どーせお前、こうゆーのやったことないんだろうしー」
中学時代は仲間内から王様と呼ばれて蔑まれ、忌避されてきた彼だ。チームメイトから遊びに誘われることもなければ、こういったゲームをやって盛り上がることもなかったのだろう。
だから楽しさが分からないのだと吐き捨てて、最後の一本だった菓子を袋から引き抜く。
そして大きく口を開き、
「あム」
鼻から息を吐くと同時に、ぱくりと唇で挟み込んだ。
チョコレートでコーティングされた方を咥え、顎の力で支えると手は放す。役目を終えた空の菓子箱は左右から押し潰し、口角を歪めて挑発的な笑みを浮かべる。
不遜な態度にムッとして、影山は僅かに目を吊り上げた。
確かに彼の言う通り、実際に試したことはない。けれどそれがどうというのだ。
一生体験しないまま、人生を終える人だって大勢いる。経験があるからといって偉いものでもなく、何かで優位になれるというわけでもないのに。
馬鹿にされ、見下されたのに腹を立てて、ならば、と彼は息巻いた。
「ふざけンな!」
開口一番怒鳴り、先端を齧ってサクサク音を立てていた日向へ近づく。突如間近で凄まれて、ここまで怒られると思っていなかった少年はびくっと肩を強張らせた。
一緒に両目も真ん丸に見開いて、緩んだ口元からは少し短くなった菓子がぽろりと落ちそうになって。
それを、大口開いた影山が。
斜め下から。
「――……っって~~~~!!」
がぶりとやられ、日向は直後、絶叫した。
「ケッ」
対する影山は居丈高に胸を張り、奪い取ったチョコレート菓子を口の中で粉々に噛み砕いた。
噛まれ、挙句削られた唇を両手で庇った日向は涙目で、必死に痛みをこらえていた。鼻をぐずぐず言わせて掠め取られた菓子にも未練を示し、空の菓子箱をぐちゃぐちゃにして嗚咽を漏らした。
「ひっで。ひでえ、影山。ひでえ!」
「うっせえ。いい加減行くぞ、おら」
「返せよ。おれの、返せってば」
「マネが持ってきたんなら、テメーひとりのじゃねえだろ」
「アダッ」
喧しく騒ぎ立てて文句を並べ立てるが、影山は立て板に水の如くすらすらと反論並べ、隙を見せなかった。苦情がことごとく跳ね除けられた少年は憤慨して煙を吐き、真っ赤になって空気を殴り倒した。
その間に影山は菓子を完食し、満足そうに唇を舐めた。履き慣れたシューズを片手に戸口へ向かい、練習場である第二体育館を目指してさっさと行動を開始する。
完璧に無視された日向は益々憤り、先に出て行った彼を追って騒々しく部室を飛び出して行った。
まるで嵐が過ぎ去ったかのようだった。
突然起こった旋風に荒らされて、部室の中は惨憺たる有様だった。
そのただ中に取り残されて、田中は呆然としたまま瞬きを繰り返した。
「なあ、今さ」
「……深く考えない方が幸せなことも、世の中にはあると思うよ」
ドアを開けっ放しにして出て行った一年生を指さし、ギギギ、とぎこちない動きでチームメイトを振り返る。
縁下は遠くを達観した表情で呟き、深いため息をついた。
2013/11/21 脱稿