紅藤

 空は澄み、雲は疎ら。日差しは温く、風は穏やかだった。
 見事な秋晴れ、と言わざるを得ない。これであと少し気温が高ければ、屋外での昼寝もさぞや心地よかろうに。
 ただ残念ながら、それは叶わない。本日の最高気温は、十五度の予報が出ていた。縁側の窓辺ならばまだしも、野外で寝転がるのは翌日を犠牲にする覚悟が必要だった。
 一時的な甘い誘惑に乗っかり、風邪をひくのはあまりに馬鹿らしい。ガラス窓越しに照る太陽を眺め、影山は小さく肩を竦めた。
 次に生まれ変わる先を選べるとしたら、猫が良かった。もしくは、犬か。ただし鎖に繋がれ、一生檻の中で過ごさなければならないのなら、サバンナを命がけで駆け回る獣の方が百倍マシに思えた。
 右から左に流れていく雲を目で追って、視線を戻す。人が行き交う廊下は雑多に賑わい、あちこちからけたたましい笑い声が聞こえてきた。
 教室のドアはどこも前後ともに全開で、出入りは激しかった。呑気に歩いていたら飛び出してきた男子生徒とぶつかりそうになり、彼は慌てて左に避けた。
 あちらも驚き、後ろにたたらを踏んでから右に回り込んで去って行った。慌ただしい動きに嘆息して、影山は手にしたパック牛乳を揺らした。
 昼食後、教室を出て食堂まで行って買ってきたものだ。ストローには噛み痕が薄く残り、細い筒の内側には飲み残しの水滴が薄くこびりついていた。
 容器の中身がちゃぷちゃぷ言うのを聞いて、影山は満足げに頷いた。まだ半分ほど残っているのを確かめて相好を崩し、遠くに見え始めた三組の教室にも目を細める。
 自席に戻ったらこれを一気に飲み干して、後の時間は昼寝に使うつもりだった。
 定期考査後の補習地獄に陥らない為に、所属するバレーボール部では授業中の居眠りが厳禁されていた。
 しかし腹を満たした後では、どうやっても眠気に襲われてしまう。だからそれを少しでも軽減すべく、長めの昼休みはじっくり惰眠を貪ることに決めていた。
 けれど予定というものは、往々にして崩れるものだ。
「あっ」
 やっと辿り着いた三組に入ろうとしたところで、左手から大きな声が飛んできた。
 聞き覚えがあるどころの騒ぎではない、よく知ったトーンに思わずびくりとなる。反射的に身構えて、影山は咥えるつもりでいたストローを下ろした。
 パックを握り潰しでもしたら、中身が噴き出してしまう。そうならないよう注意しながら角を持ち、彼は駆け足で近づいてくる人影に深いため息をついた。
「影山、みーっけ」
「日向……」
 落胆する彼を余所に、近付いてきた少年は呵々と笑って両手を叩いた。
 日向翔陽は嬉しそうな顔をして、げんなりしているチームメイトを背伸びして仰ぎ見た。
 この数か月で、ふたりの身長差はほんの少し広がっていた。
 成長期継続中の影山に対して、彼はすでに終息していた。その背丈は、入学当初からほとんど変わっていなかった。
 だが日向には、背の低さを補って余りあるジャンプ力があった。
 身体が大きくなれば、その分重くなる。これまでのような身軽さを利用したプレイが出来なくなるくらいなら、彼は今のままで良いと胸を張って断言した。
 いつだったかの出来事を振り返り、影山は改めて牛乳パックに口をつけた。
 息を吸い、少し温くなった液体を飲み込む。生臭さが咥内を満たし、喉をすり抜けて行った。
「なんか用か」
「トス。トス上げて!」
「またかよ」
 じゅる、と勢い良く音を響かせ、口の中を空にしてから問いかける。答えは分かり切っていたのだけれども確認しないわけにはいかず、案の定の回答に、彼はがっくり肩を落とした。
 黒い学生服の下に白いパーカーを着込んだ同級生は、げっそりして首を振ったチームメイトに構わず鼻息を荒くした。
「早く。時間なくなっちまう」
 言って、脇に垂らされていた左腕を両手で攫う。突然肘を掴まれて、影山の身体がビクッと硬直した。
 振り払われ、日向は眉を顰めた。
「かげやまー?」
「つーか、昨日も付き合ってやっただろ。今日くらい休ませろよ」
「でも、『継続は力なり』だろ?」
「…………」
 どこで覚えてきたのか、生意気にも反論された。真っ直ぐな眼差しと共に言い包められた青年は言葉に詰まり、苦々しい表情で目を逸らした。
 口で勝てたのが嬉しいのか、日向はとても楽しそうだった。
「んじゃ、行こうぜ」
「おい。引っ張んじゃねーよ」
 善は急げ、とも言う。突っぱねるのを諦めた影山の腕を再度捕まえて、彼は抵抗も押し退けて巨体を引きずり歩き出した。
 重心を低い位置に持って行かれて、影山はつんのめった。危うく転びそうになったのをすんでのところで堪え、おっとっと、と横に数回飛び跳ねてからようやくバランスを取り戻して立つ。
 だが攫われたままの左腕は取り戻そうとせず、日向の好きにさせた。
「……チッ」
「裏庭、空いてっかなー」
 こうなると、日向は梃子でも動かない。同じ部でほかの誰よりも長く一緒の時間を過ごしている分、彼の性格は影山も熟知していた。
 舌打ちで苛立ちを誤魔化して、影山はのんびり呟いた相棒に肩を落とした。
「いい加減、放せって」
「逃げない?」
「逃げねーから」
 肘から先を抱えられたままでは、とても歩き難い。片側に引き寄せられたままなので、この状態で階段を下りるのは難しかった。
 身体を不自然に傾けている彼の弁に、日向は訝しげに眉を寄せた。けれど確かに自分も歩き辛いと判断して、彼はするりと拘束を解いた。
 途端に身体が軽くなった。左腕を包んでいた体温も一瞬で霧散して、影山は物足りなくなった左手を何度か開閉させた。
 空気を握り潰す彼に苦笑して、日向は一足先に階段を駆け下りた。
「はーやーくー」
「分かってるっての」
 もう十六歳だというのに、行動がどこまでも子供だ。小学生を相手にしている気分になり、影山は面倒くさそうに返事した。
 踊り場で手を振っている彼にため息を重ね、裏庭に着く前に飲み干してしまおうと牛乳を喉に流し込む。じわじわ凹んでいく容器を興味深そうに眺め、日向はぽん、と手を打った。
「そうだ」
 何かを思い出したのか、頭上の電球がぴこーんと灯った。目をキラキラ輝かせ、彼は制服のポケットに手を押し込んだ。
 引き抜かれたのは、小ぶりの棒付きキャンディーだった。
 坂ノ下商店でも売っている、安価な菓子だ。派手な配色の包装紙が球体を覆い、白くて細い棒が中心に向かって突き刺さっていた。
 自分で購入したのか、はたまた誰かに貰ったのかまでは分からない。ともかく日向はそれを得意げに見せびらかし、ぺり、と包装紙を引き剥がした。
 そして影山が踊り場に到着する前に、大きめの球体を口に押し込んだ。
「ん~」
 唾液に触れて、表面が少しだけ溶けた。舌に広がった甘みに顔を綻ばせ、日向は幸せそうに頬を緩めた。
 飴玉は直径三センチほどあり、それひとつを含んだだけで口の中はいっぱいになった。左右に転ばせば押された頬が丸く膨らみ、現在地を影山に教えた。
 美味しそうに頬張り、日向は外にはみ出る棒を上下に揺らした。
「おい」
 飲み終えた牛乳パックを潰し、影山は最後の一段を下りた。
 呼びかけられ、日向がそちらに目線を投げた。
 妙に険しい表情の天才セッターをその場に見出して、不思議そうに小首を傾げる。愛らしいポーズで見上げられ、影山の眉が益々吊り上った。
「なに食ってんだ、テメーは」
「ふえ?」
 苛立ちをそのまま声に出した彼に、日向はきょとんと目を丸くした。
 包み紙を丸めてポケットへ押し込み、口の外にはみ出していた棒をつまみ持つ。口を閉じたままゆっくり引っ張り出せば、押し広げられた唇が上下共に外側へ捲れあがった。
 生々しい赤をさらけ出し、彼は一気に引き抜いた。ちゅぽん、と小さな音が響き、影山は総毛立った。
「知らない?」
 日向は重い先端部分が沈まないよう棒を持ち直し、唾液を浴びて濡れている球体を突き出した。
 彼が棒付きキャンディーの存在を知らないとは、意外だった。バレーボール一辺倒の馬鹿だとは承知していたが、こういった菓子にまで興味がないのは驚きだった。
 少し感心し、少し呆れていたら、苦虫を噛み潰したような顔で影山が首を振った。
「そうじゃなくて」
「じゃ、なに」
「あぶねーだろ」
 頬を朱に染めて、明後日の方角を見ながら呟く。渋い表情で見つめられて、日向は意味が分からずきょとんとなった。
 雫が垂れそうな飴玉を再び咥内へ招き入れて、彼は眉間に皺を寄せた。怪訝そうに見上げてくる姿は棒を手に持ったままというのもあり、上目遣いは妙に色っぽかった。
 細めた眼を向けられて、影山は乱暴に黒髪を掻き回した。上手く言葉が出てこないと舌打ちを繰り返し、喉も引っ掻いて遠くへ目を向ける。
 なかなか続かない会話に焦れて、日向は待っていられなくて階段へ爪先を向けた。
 裏庭へは、まだ距離があった。
 のんびりしていたら、ボールと触れ合う前にチャイムが鳴ってしまう。時間が惜しく、日向は飴を咥えたまま先を急いだ。
 その背中に歯軋りして、影山は物分りの悪いチームメイトに眦を裂いた。
「だから」
「うほっ」
 語気を荒らげ、怒鳴りつけようとする。直後日向が最初の一段を下ろうとして、躓いてバランスを崩した。
 道を急ぐあまり、何もない場所で転びそうになった。
 しかも目の前は、十数段ある階段だ。
 このまま落ちたら、大怪我間違いない。しかも口の中には、まだ塊も大きい飴玉が含まれていた。
 外に突き出ている棒も、十分過ぎる凶器だ。ひやっとしたものを背中に感じ、影山は慌てて床を蹴った。
「ひなた!」
 叫び、利き腕を思い切り伸ばす。この程度で日向が落下するとは思えなかったが、体は勝手に動いていた。
 ふらついている彼の、小さな体に少し大き目の制服を掴み、パーカーのフードごと力任せに引っ張る。前に傾ぎかけていたところを突然後ろに引っ張られ、首が絞まった少年はぐぇ、と潰れたカエルのような悲鳴を上げた。
 咄嗟に吐き出しそうになった飴玉を根性で食い止めて、たたらを踏んで踊り場の中央付近まで跳んで戻る。ぜいぜいと息を乱したのは、奇妙なことに影山の方だった。
 真っ青になっている彼を呆然と見上げ、日向は胸元を撫でて着衣を整えた。
 あのまま放置されていても、手すりに掴まって事なきを得たはずだ。階段を転げ落ちるような愚鈍な真似はしない。日向の運動神経の良さは折り紙つきだった。
 それでも手を差し伸べずにいられなかった影山に、彼は照れ臭そうに笑った。
「おい」
「ひゃー、びっくりした」
 肩を上下させた影山の前で、真ん丸にした目をゆっくり細める。制服の上から弾む胸を撫でた日向に、彼はバツが悪い顔で舌打ちした。
 緩く握った拳をぶつけられて、小柄なミドルブロッカーは悲鳴をあげて首を竦めた。
「うひゃ」
「だから言ってんだろーが。ンな飴舐めてっと、落ちた時に喉に刺さんだろ」
 それでも飴玉を舐め続ける彼にここぞとばかりに畳み掛け、影山は手を広げた。柔らかな薄茶色の髪を鷲掴みにして掻き回し、危機管理がなっていないチームメイトを頭ごなしに叱る。
 階段の真っただ中で説教されて、日向は嫌がって首を振った。
 なんとか乱暴な王様から逃げ出して、彼は咥えていた飴を棒と一緒に引っ張り出した。表面に残る雫は舌で舐めて掬い取り、窄めた唇で挟んで軽く扱く。
 誰に対してか見せつけるように動かして、彼は赤くなっている青年ににっこり微笑んだ。
「だいじょーぶだって。だって、影山が助けてくれんだろ?」
 そして堂々と言い切って、一目散に駆け出した。
 裏庭へ向かうべく残り五段となった階段を飛び降りて、元気いっぱいに走っていく。おいて行かれて唖然となり、影山は視界から消えた存在に四肢を戦慄かせた。
 言った傍から危険な行動に出て、ボディガード代わりだと言った相手も置き去りにした。言動不一致が際立っている日向に煙を吐いて、彼は奥歯を強く噛み締めた。
「だったら、勝手にひとりで行くんじゃねー!」
 もう居ない相手に怒鳴り、追いかけるべく階段を駆けていく。一時騒然となった通路は瞬く間に静かになり、乾いた空気が地表を撫でた。
 ようやく立ち去った迷惑な二人組に嘆息して、月島は長く降りるのを躊躇していた階段に一歩を踏み出した。
「あれ、日向って絶対分かってやってるよね」
「王様、尻に敷かれるタイプだったんだ」
 隣で聞いていた山口が何気なく呟いて、応じて月島は頷いた。
 

2013/11/12 脱稿