どこからか漂ってきた匂いに、影山は鼻をスン、と鳴らした。
「……ン?」
同時に首を右に倒し、怪訝に眉を顰める。視線は宙を彷徨い、左右に流れた。
変なところで着替えの手を休めた彼に気づき、隣にいた日向が首を傾げた。
脱ぎたてのシャツを畳みもせず足元に落として、入れ替わりに乾いた一枚を手に取って裾を広げて構え持つ。
「どうかした?」
その最中に尋ねれば、影山は一瞬間をおいてから遠慮がちに首を振った。
「いや」
気にしないよう言いながらも、彼の瞳は相変わらず東奔西走していた。落ち着きなく部室内を見回しており、無視するのは難しかった。
影山は服を脱ごうとし、肩まで裾を捲り上げたところで停止していた。実に中途半端な体勢で固まっており、外向きに突き出た肘が日向には若干邪魔だった。
腕くらい下ろせばいいのに、疲れるポーズを維持し続けている。青年は隣人などお構いなしに鼻をヒクつかせ、飽きることなく室内を見回した。
急がなければ、一時間目の授業に遅刻してしまう。学生の本分は勉強であり、これを疎かにするわけにはいかなかった。
少し前に終わったばかりの中間試験、その結果はあまり芳しいものではなかった。一学期の期末試験ほどの騒ぎにはならなかったものの、烏野高校男子排球部の主戦力は一部補習地獄に落ち、涙を呑む羽目に陥っていた。
この調子では、二学期の期末試験も惨憺たるものになりかねない。授業中に居眠りしない、という澤村との約束は、情けなくも今も健在だった。
「お前ら、急げよー」
一足先に着替え終えた田中が声高に言い、部室内を見回した。残っていた面々は総じて威勢だけ良い返事をして、散らかした荷物の片づけに取り掛かった。
その中でも影山だけは動きが鈍く、ようやく汗を吸ったシャツを脱いだ。
上半身裸になって、案の定寒さに身震いする。何をやっているのかと呆れ半分に見上げ、日向は畳んだジャージを棚に並べた。
入れ替わりに黒い学生服を引き抜いて、白いパーカーの上から羽織るべく襟を広げた。
布製の鞄を広げた彼の隣で、影山の鼻がピクン、と震えた。
「なんか臭う」
「はい?」
いきなり言われ、日向は面食らった。
独り言だったのだろうが、声が若干大きかった。思わず反応した彼は目を丸くし、吃驚したと傍らに視線を向けた。
一方の影山も予期せぬ相槌に騒然となり、半裸のまま身構えた。
お互い呆然と見詰め合い、珍妙な空気が流れた。その向こうでは西谷が欠伸をこぼし、手を振りながら部室を出て行った。
扉が開き、パタンと閉ざされた。乾いた音の後にはっと息継ぎして、日向は右腕を高く掲げた。
学生服を抱えたまま、自分の腋を鼻に近付ける。途端に苦い顔をした彼に肩を落とし、影山は違う、と首を振った。
いつまでも裸では寒いと真新しい長袖シャツを取り、素早く被って体温を封じ込める。その上から白いワイシャツに袖を通して、彼は眉間に皺寄せたチームメイトに苦笑した。
「ちげーって。なんか、そうじゃなくて……旨そうな匂い」
「は?」
「ソースが焦げたみたいな。なんだろうな、これ」
汗臭いのはお互い様なので、今更どうこう言うつもりはなかった。長く中断させていた着替えを手早く済ませて、彼は微かに残る鼻腔の記憶を掘り返した。
一瞬だったけれど、ほんのり甘くて香ばしい匂いがした。食欲をそそる刺激的な芳香に、否応なしに腹が反応した。
早朝練習で流したのは、なにも汗だけではない。胃の中の朝食はあっという間に消化され、エネルギーとして使い尽くされてしまっていた。
まだ一時間目も始まっていないのに、既に空腹だった。凹んだ腹部を撫でた彼に、日向は緩慢に頷いた。
「ああ。じゃ、それおれだ」
「――は?」
そして事もなげに言って、影山を驚愕させた。
何を言われたかすぐに理解出来なくて、彼は切れ長の目を真ん丸に見開いた。同じように口もぽかんと開いて、低い位置にあるチームメイトの顔を呆然と見つめる。
まじまじと視線を向けられた少年は少し不満そうに頬を膨らませ、窄めた口から息を吐いた。
「ンだよ」
「いや、つか……お前の今日の昼飯って」
焦げたソースの匂いは、注意深く探さないと見つからない微かなものだった。もし弁当箱に詰めているのだとしたら、もっと痛烈に臭って然るべきだろう。
そのことにも気付かず渋面を作った影山に、日向は憤然としたまま首を横に振った。
「ちげーよ。おれん家の近所、昨日、秋祭りだったの」
「……で?」
「だーかーらー」
いくらなんでも、昼ごはんの弁当にお好み焼きや焼きそばは詰めない。学校には電子レンジがないので、もし持ち込んだとしても温める術がないからだ。
冷えて固くなったソバなど、ゴムにも等しい。そんな美味しくないものを頬張るのは、痩せの大食いである日向でも御免だった。
そうではないと言い張って、彼は物分かりの悪い天才セッターに舌打ちした。
「昨日、祭りだったし、帰りに寄ったんだよ」
「ああ」
先ほどとほぼ同じ内容を、少しだけ言葉を入れ替えて呟く。それでようやく理解した影山が、成る程と目を瞬いた。
その上でクエスチョンマークを頭上に生やし、首を傾げた。
どうやら全部説明しないといけないらしい。バレーボール以外はとことん疎い男に肩を落とし、日向は疲れた顔で前髪を掻き上げた。
「神社行ったら、知り合いの兄ちゃんが店出しててさ。ヤキソバな。奢って貰う代わりに、ちょっとだけ手伝ってきたの」
ソースの匂いは、きっとその時に染み付いたのだ。
学校からの帰り道、峠を越えた先で賑やかな祭囃子に心を奪われた。そういえば地元の秋祭りだったと、道端に飾られた無数の幟を見て思い出した。
真っ直ぐ帰るつもりだったが、進路を変えるのに迷いはなかった。懐かしい顔ぶれとも巡り合えて、近況報告に花が咲いた。
小学校や中学校の同級生と会って、昔から世話になっている的屋の主人とも再会した。高校でバレーボール部に入ったと言うと、その人も学生の頃にやっていたとかで、思いがけず話が盛り上がった。
小さい社だが、大勢の人で賑わっていた。祖父の手に引かれた妹まで現れて、母には何を寄り道しているのかと怒られた。
提灯の明かりが優しかった。太鼓と鐘のリズムは身体に染みついており、聞いているだけで魂が震えた。
目を閉じれば、昨夜の出来事が次々に浮かんで消えて行った。楽しかったと相好を崩して、日向は影山が嗅ぎ取った匂いに鼻を近づけた。
学生服は鞄に入れっぱなしだった。練習着は洗濯済みのものを持ってきたので、鼻を近づけても柔軟剤の香りしかしなかった。
「ほんとだ。ちょっとだけ残ってる」
言われなければ気付かなかったに違いない。犬並みの嗅覚を発揮した影山に苦笑して、日向は広げた制服を急ぎ羽織った。
昨日の出来事を思い出し、嬉しそうに顔を綻ばせる。だが隣で見守っていた男は、何故か面白くなさそうだった。
「このボケが」
「あだっ」
頭ごなしに怒鳴られ、拳骨まで落ちてきた。唐突に殴られた日向は目から星を散らし、首を竦めて口を尖らせた。
「あにすんだよ」
前触れもなく、いきなり攻撃されて納得がいかない。叩かれなければならない理由がひとつも思いつかなくて牙を剥けば、影山も負けるものかと唸り声をあげた。
「つーか、なに考えてんだ、テメーは。ンな時間まで遊び回ってんじゃねーよ」
「なんだよ、急に。別にいいだろ。おれがどこで何してたって」
「よくねえよ!」
年に一度の秋祭りに遭遇したのだ、行かないわけにはいかなかった。だというのに影山は日向の行動を非常識だと詰り、糾弾した。
声を荒らげた彼に、部室に残っていたメンバーが一斉に振り返った。
見た先で睨み合ういつもの二人組を見つけて肩を竦め、またやっていると声を潜めて笑う。誰も注意しないのは、どうせすぐに仲直りすると知っているからだ。
生温い目で見守られているとも知らず、彼らは火花を散らし、小鼻を膨らませた。
「なんでだよ、いーじゃんか別に」
「冗談じゃねえ。遊んでる場合じゃねえだろ。ただでさえテメーは、他の連中より倍動いてんだ。道草食ってねえで、さっさと帰って、飯食って、風呂入って寝ろつってんだよ」
反抗的な日向に詰め寄り、影山は両手を上下に振り回した。
練習は、いつものように午後七時過ぎに終わった。それからミーティングに片づけを済ませ、学校を出たのは半を回った辺り。自転車通学の日向は、そこから更に三十分間の運動を強いられた。
疲れているはずだ。最近は体力がついてきたとはいえ、練習は苛烈を極める。翌日に引きずらない為にも、早めの就寝が推奨された。
それなのに、彼は家に帰りもせず、呑気に祭りを楽しんでいた。
信じられない。どこまで愚かなのかと唾を散らして怒鳴りつけ、影山は膨れ面を前にふんっ、と鼻を鳴らした。
言いたいことを一頻りまくし立て、荒い息を吐く。一方的に責められた日向は不満たらたらな顔をして、力いっぱい奥歯を噛み締めた。
確かに影山の言うことには一理あった。しかし日向は高校に入学するまで、毎年のように神社の神輿を担いでいたのだ。
今年は都合がつかず、参加できなかった。残念でならなかったけれど、昨日会った友人らは皆、逞しくなったと褒めてくれた。
悪いことばかりではなかった。それなのに影山は、心の充足を認めようとしない。
腹が立って、苛々した。
「じゃあお前は、近場で祭りやってても、行かないんだ」
「ああ。あんなモン、何が楽しいんだか」
「つまんねー奴」
「ンだと!」
あの祭り太鼓を聴いて、心弾まない奴がいた。夜道を照らす提灯に、参道の両側を埋める屋台を眺めても浮足立たない奴がいた。
折角楽しい気分でいたのに、萎えてしまった。横向いてぼそっと嫌味を呟けば、聞こえた影山が握り拳を作った。
青筋立てて怒鳴られたが、怖くもなんともなかった。いっそ哀れに思えてきて、日向は深々とため息を零した。
「だよなー。お前って友達いないもんなー」
一緒に行ってくれる友人がいなければ、祭りも空虚なものになりかねない。ひとりで行っても楽しめないのを思い出して、日向は同情気味に呟いた。
それがどうやら、彼の逆鱗に触れたらしい。影山は沸騰するヤカンと化して真っ赤になった。
「うっ、うっせえな!」
声を高くして叫ぶが、完全にトーンはひっくり返って上滑りしていた。
図星を指摘され、逆ギレしている。最後に面白いものが見られて、日向の表情は少し和らいだ。影山もこれ以上墓穴を掘りたくなかったようで、会話はそこで自然と終わった。
予鈴が鳴るまでもう少ししか残っていない。状況を思い出して荷物の整理に入った彼らに、遠くで騒ぎを聞いていた山口が人好きのする笑みを浮かべた。
「日向んとこ、昨日だったんだ?」
「え? あー、うん。そう」
神輿を担ぐのは日曜日だが、神楽を奉納するのは曜日に関係なく、毎年同じ日だ。
この日どりも、地域によって微妙に違う。山ひとつ越えるだけで一週間遅かったり、早かったりと色々だ。
訊かれ、日向は頷いた。
学生服のボタンを上から嵌めて、中に潜り込んでいたフードを引っ張り出して背に垂らす。身なりを整える彼に首肯して、山口は鞄を担いで目を細めた。
「そうなんだ。俺と、ツッキーんトコは明日なんだ」
「へー。どこ?」
「この辺じゃ、ちょっと大きいよ。確か今年は、田中先輩のお姉さんも太鼓叩くって」
「へええええ」
喋っている途中で首を左に向け、彼はもうひとりの一年生に視線を流した。日向も一瞬だけ月島を窺って、教えられた情報に感嘆の声を上げた。
田中の姉といえば、夏休み前、東京まで車で送ってくれた人だ。言葉遣いと運転は少々乱暴だったけれど、親切で面倒見の良い人だった。
彼女が和太鼓をやっているという話は、弟の口を通して部内でも知られていた。秋祭りが続くこの季節は特に多忙らしく、毎晩うるさいと田中が愚痴をこぼしていた。
ただ残念なことに、日向の地元にまで、彼女は出張していなかった。一度近くで聞いてみたいとずっと思っていただけに、山口の言葉には心そそるものがあった。
思わず前のめりになり、日向は唾を飲んだ。
「……なんだよ」
「べつに」
真横から、突き刺さる視線を感じた。声を低くして不満げに呟けば、影山は即座に顔を逸らしてつっけんどんに言った。
感じが悪い彼にムッとしていたら、準備を済ませた月島がヘッドホンを揺らして目を細めた。
「なに。来たいの?」
「え!」
「っ」
まさか彼に誘われるとは思っていなくて、日向は素っ頓狂な声を上げ、影山はびくっと肩を跳ね上げた。
大仰な反応ぶりを視界の端に見て、月島は不遜に微笑んだ。口角を持ち上げて胸を反らし、高い位置から影山、そして日向を順に眺める。
片方は目をキラキラさせて、もう片方は暗く澱んだ眼差しだった。
「いいの? いくいく。行きたい」
「テメ……俺が言ったこと聞いてたのか」
「別にいいじゃない、お祭りくらい。今日だって日向、別に遅刻したわけじゃないんだしさ」
「だよね、ツッキー。影山は、日向にだけ過保護過ぎ」
釣り針に速攻食いついた日向に、影山が慌てて手を伸ばした。しかし月島に淡々と言い包められ、山口にも指摘されて反論出来なかった。
確かに日向は、今朝も誰よりも早く学校に登校していた。少々寝不足気味ではあったが、練習が始まった途端に眠気もどこかへ吹き飛ばしていた。
今は思う存分身体を動かした後というのもあって、元気いっぱいだ。血色の良い肌は程よく赤らみ、頬は甘そうなリンゴ色だった。
お節介が過ぎると言われて、否定出来なかった。影山は言葉を飲み込んで呻き、上目遣いに睨みつけてきたチームメイトに臍を噛んだ。
「そ、そうかもしんねーけどよ」
「じゃあ、王様は、行かないってことで。ひとりで寂しくご飯食べて、ひとり寂しく枕を濡らすと良いよ」
「テっ……!」
「はい、決まり。日向、明日は遅くなるって言っておきなよ」
「わーってる。よその地区の祭りって、おれ、初めて。楽しみー」
声に詰まり、それ以上なにも言えない。青くなった唇を戦慄かせていたら、一方的に話を切り上げた月島が両手を叩きあわせた。
珍しく積極的に音頭を取り、眼鏡のミドルブロッカーが意地悪く笑った。勝ち誇った表情で影山を盗み見たのにも気づかず、日向は呑気に頬を緩めた。
三人で祭りを楽しむ算段が整えられて、影山ひとりが蚊帳の外に捨て置かれた。そのまま横並びで部室を出て行こうとするチームメイトに、彼はもがき苦しみ、呻き声をあげた。
激しい葛藤に見舞われて、荒い鼻息を吐き出して。
突き出した手は、ソース臭い日向の鞄を掻き毟った。
後ろから引っ張られ、畳で滑りそうになった少年がたたらを踏んだ。ドタバタと埃と騒音をまき散らした彼に、靴を履こうとしていた残るふたりが揃って振り返った。
影山は俯き、全身を小刻みに震わせていた。
「お、……」
垂れ下がった黒髪から辛うじて見える唇が、喉の奥に蓄積された言葉を懸命に絞り出した。
「お?」
「俺も、……い」
細切れ過ぎる音に眉を顰め、日向が小首を傾げた。しかし影山は体勢を変えず、行かせまいと握る手に力を込めて歯を食いしばった。
顔面どころか全身を赤く染めて、憤怒と恥辱に寂しさと悔しさが入り混じった表情で。
「俺も、行く」
たったそれだけを、随分な時間を使ってようやく告げた。
息をひそめて見守っていた面々はぽかんとなり、三秒遅れて乾いた笑みを浮かべた。
月島などは口を覆って必死に声を殺していた。山口は馬鹿な奴だと肩を竦め、日向はぽかんとしてからぷっ、と小さく噴き出した。
「なーんだ。影山も、やっぱ祭、楽しみにしてたんじゃねーか」
「いや、違うと思うよ、日向」
「ふえ?」
今になって言い出した彼を呵々と笑い、両手を腰に据える。屈託ない表情で無邪気に言い放った彼に、影山は押し黙り、山口が反射的にツッコミを入れた。
しかし何が違うのか分からなかった少年は小首を傾げ、影山は余計なひと言を口にしたチームメイトを思い切り睨んだ。
射殺されそうな視線を受け、そばかすのミドルブロッカーが慌てて月島の背中に隠れた。壁にされた青年は迷惑そうに眉を顰め、未だ日向の鞄を掴んだままの王様に失笑した。
「素直じゃないね」
「うっせえ!」
「ん? なに?」
嘲り言われ、即座に影山が噛み付いた。後ろでは山口が肩を震わせ笑い、日向だけが不思議そうに目を丸くした。
2013/11/6 脱稿