部屋全体を震わせる低音に、研磨ははっと顔を上げた。
一瞬地震かと思ったが、違う。耳を擽る振動音は足下からではなく、部屋の一角から響いていた。
手にしていたゲーム機から視線を外し、注意深く辺りを探る。揺れの発生源はすぐ見つかって、研磨はほっと胸を撫で下ろした。
と同時に大きな疑問が湧き起こり、彼はゆるりと首を傾げた。
動きに合わせ、長めの髪が空を撫でた。斜めに傾いだそれを真っ直ぐに戻して、研磨はゲームを中断させてベッドから起き上がった。
軽快なリズムを奏でる本体を閉じ、右足から床へ降りる。そろそろ止むかと思われた振動はまだ続いており、ヴヴ、ヴヴ、と不快な音色をまき散らしていた。
「こんな時間に」
思わず文句が口に出て、彼は小さく首を振った。ついでに視線を持ち上げて、日付変更間近の文字盤を確かめる。
壁時計が示す時間は、真夜中と言っても過言ではない頃合いだった。
いい加減寝なければ、明日起きられなくなる。早朝から予定されている練習は、本当は参加したくないのだけれど、出ないとレギュラーから外すと脅されているので従うしかなかった。
後輩は順調に育ちつつある。ただ、正セッターの地位を譲る気はない。遠く、東北の地で頑張っている友人との約束もある。大舞台での再戦を果たすまでは、バレーボールを止められそうになかった。
左足も冷えたフローリングに置いて、研磨はふっ、と微笑んだ。自然と浮かんだ笑みを口元に残して、彼は未だ鳴り止まない携帯電話へと急いだ。
金属製の棚の上にまで散らばる、大量のゲーム雑誌。その一角に半ば埋もれる形で置かれているのは、スマートフォンの充電器だ。
白いコードは蛇のように壁際を這い、コンセントに繋がっていた。横長の本体では、帰宅と同時に差し込んだスマートフォンが自己主張激しく騒ぎ立てていた。
着信中の文字が大きな画面で踊り、早く応答しろ、と五月蠅い。マナーモードにしたままだったのを今思い出して、研磨は嗚呼、と緩慢に頷いた。
その間も、電話は騒々しく震え続けた。
着信があってから、既に三十秒近くが経過している。そろそろ諦めても良い頃なのに、電話の主はなかなかにしつこかった。
時間帯を考えろと思いつつ、研磨はぼんやりしたままスマートフォンに手を伸ばした。
これで間違い電話だったら、怒っても良いだろうか。そんな事を考えながら画面を見た瞬間、掴み取る直前だった指が震えた。
どうして先に気付かなかったと己を罵り、慌てて端末を握り締める。充電中だったのもあってほんのり熱を持つそれを捕まえて、研磨は急ぎアイコンをスライドさせた。
緑色の受話器ボタンを親指でなぞり、右の耳へと押し当てる。最中にボリュームも最大まで上昇させて、一気に高まった鼓動に息を切らす。
心臓が限界まで膨らんで、緊張の所為か耳鳴りがした。
「もしもし!」
勢い余って声が大きくなった。何故もっと早く出なかったのかと悔いながら、研磨は電話口の向こうへ呼びかけた。
もしかしたら待つのに飽きて、通話を諦めてしまったかもしれない。どうか切らないで、と願って叫べば、小さな機械を通し、息を呑む音が聞こえた。
刹那、研磨の脳裏に色鮮やかな夏の景色が蘇った。
体育館で弾むボール、流れ落ちる汗、昂ぶる熱、言いしれぬ緊張感
空を切り裂く痛烈なスパイク、掌が痺れる心地よい痛み。興奮に沸き立つ心、バレーボールが好きだと改めて思い知った日々。
辛いけれど楽しかった時間をつぶさに思い出す。研磨は遙か宮城の地に届くよう、詰まり駆けた声を振り絞った。
「翔陽」
微かに震えた呼びかけに、しかし応える声はなかった。
耳を澄ませても、電話口に人の気配を感じない。詳しく言えば、呼吸音が聞き取れない。もしやボタンを押し間違えただけかと疑って、研磨は眉を顰めた。
たまに、そういう事がある。本人は操作したつもりがないのに、何かに当たって機械が勝手にダイヤルしてしまう事が。
そうであって欲しくない。しかしこの反応のなさを思うと、その可能性が非情に高い。
咥内に溜まった唾を飲み、研磨は肌に密着させていたスマートフォンを引き剥がした。
音が聞こえたらすぐ反応出来るよう構えつつ、恐る恐る画面の文字を確かめる。そこに表示されていたのは、先ほど必死に呼びかけた相手の名前で間違いなかった。
日向翔陽。研磨よりひとつ年下の、バレーボールが好きで、好きで仕方がない元気いっぱいの少年だ。
彼との出会いは偶然であり、必然だった。
突然親しげに話しかけて来た相手に驚き、お世辞にもちゃんと受け答えが出来たとは言えなかった。けれど彼は機嫌を損ねもせず、呆れもしなかった。
いつも下ばかり見ている面倒臭い奴、という評価ばかり貰っていただけに、彼との初接触は強烈だった。大抵の人間は繋がらない会話に先に焦れ、諦めてしまう。けれど翔陽は嫌がらなかった。たとえ話が途切れたとしても、自分からあれこれと話題を探して来ては、細切れの会話を楽しもうとした。
だから、誰よりも印象に残っている。彼と喋る時は気を遣わなくて良いし、遠慮も不要だからとても楽しかった。
それなのに、折角繋がった電話は今にも切れてしまいそうだった。
「……翔陽?」
相変わらず返事のないのを不審に思い、研磨は心細げに呟いた。
『っ、け――』
それが聞こえたのかどうかは分からない。しかし直後、確かに待ち望んだ人の声が鼓膜を震わせた。
但し音は中途半端なところで途切れ、後に続かなかった。
いったい、どうして。愕然としていたら、研磨の名を紡ぐ筈だったアルトが高らかと響き渡った。
『ま、まちがえました!』
脳天を貫く大音響に、ツー、ツー、という通話終了を告げる電子音が重なった。現実とは程遠いけれど、受話器を荒々しく叩き付けて切られた感覚に陥って、研磨は呆然と目を丸くした。
何が起きたのか、咄嗟に理解出来ない。瞬きを五回ほど繰り返して、彼はようやく呼吸を取り戻した。
「は? え、え?」
素っ頓狂な声を上げ、研磨は通話終了を伝える画面を前に立ち尽くした。
聞き間違いでなければ、翔陽は「間違えた」と言った。しかし携帯電話からの通話では、その言い訳はなんとも信頼性が薄い。
研磨のアドレス帳には、翔陽の名前と番号、そしてメールアドレスが登録されている。あちらの携帯電話も、それは同じ筈だ。
便利な機能があるのに、いちいちダイヤルプッシュで通話しようというのはナンセンスが過ぎる。万が一そうだとしても、翔陽の友人に、研磨の電話番号と良く似た並びの数字を持つ存在がある、という可能性はとても低くないだろうか。
では、いったい、彼は何を間違えたのだろう。
別人に電話をしようとして、アドレス帳の選択先を誤った。それが一番起こりえそうなミスだけれど、ならばそう言ってくれれば済む話の気がした。
わざわざ他人行儀に否定しなくても、いつもの彼のように、「あれ、研磨? なんで? あ、ごめん。かける先間違えてた」とでも明るく言ってくれたなら、この悶々としたものを抱えずに済んだのだ。
「翔陽、なんで」
一定時間が過ぎ、真っ暗になったスマートフォンを見ながら呟く。そもそも彼に、こんな夜更けに電話をする相手が居た事自体が、研磨は些かショックだった。
烏野高校のセッターと彼は、とても仲が良さそうだった。知らぬ間に、チームにマネージャーが増えてもいた。リエーフとは初対面時から意気投合していたし、天真爛漫な性格から、友人もさぞや多かろう。人付き合いが苦手な研磨には翔陽しかいないけれど、あちらはそうではないのだ。
なんとも中途半端な間違い電話に、もやっとしたものが段々膨らんでいく。苛立ちが募り、研磨は下唇を浅く噛んだ。
きっと相手が翔陽だったなら、無視してさっさと寝床に潜り込んでいた。思いの外彼に固執しているのを痛感して、研磨は沈黙するスマートフォンを握り直した。
親指でボタンを押し、画面を呼び出す。通話終了状態で停止していた画面を一旦クリアにして、待ち受け画面を表示させる。
足はふらつき、自然とベッドに戻っていた。膝から崩れる形で縁に腰掛けて、研磨は視線を浮かせて時計を見た。
あと三分少々で今日が終わる。続けてカレンダーにも目を遣って、最後にスマートフォンの画面へと。
刻々と動くデジタル時計を追いかけて、彼は着信履歴を呼び出した。
最上段に陣取る名前を空でなぞり、思い切って人差し指で押す。画面は瞬時に入れ替わり、黒い背景に白い文字が浮かび上がった。
指先を下に向ければ、発信のボタンがあった。一瞬の躊躇を経てそれを押して、研磨はゴクリと喉を鳴らした。
電話の相手が彼だったとしても、今でなかったら、リダイヤルは翌朝に回していたかもしれない。もしくはメールで質問し、返事を待ちながらゲームを再開させるかのどちらかで。
こんな風に自分から電話を掛けるなど、去年までなら考えられなかった。
息を潜め、待つ。愛想のない呼び出し音が繰り返されて、内臓はじりじりと焦げそうに痛んだ。
たかが十秒、されど十秒。死にそうなくらいに長く感じられた時間は、不意に終わりを告げた。
九コール目を前にして、唐突に音が途切れた。入れ替わりに微かな呼気が耳朶を震わせ、研磨を痺れさせた。
『……けんま?』
心許なげな音色が胸に突き刺さり、心臓を震わせる。猫背の背を撓らせて、研磨は目を見張った。
「翔陽」
今度は切られないよう、気がつけば叫んでいた。珍しく大きな声を上げた彼に吃驚したのか、電話口から息を呑む気配が伝わって来た。
流れて来た微かな吐息に我に返り、研磨は後に続ける言葉に迷って目を泳がせた。
ここに来て、話し下手な自分がむくりと首を擡げた。
「え、えっと。その」
面と向かって喋るのも苦手なのに、ましてや表情が窺えない通話で、どうやって相手を探ればいいのか。もっと色々経験を重ねておけばよかったと後悔していたら、戸惑いを読み取った翔陽が先に口火を切った。
『ごめん、研磨。おれ、さっき』
いつもの彼らしさが薄れた遠慮がちの声に、研磨はコクリと頷いた。見えていないと分かっていても首は勝手に動いて、相槌を挟めない代わりにしようとした。
気配は伝わったのだろう。緊張していると分かる口調がほんのり柔らかくなった。
『あの、……ホントは、かけるつもりなかったんだけど』
「翔陽」
けれど流れて来た言葉は研磨の予想を裏切るもので、心は密かに痛んだ。
ちくりと刺さった棘をなぞり、彼は顔を伏した。もやもやしたものは薄れるどころか逆に膨らんで、そのうち限界を超えて破裂してしまいそうだった。
この棘を抜けば、出来た穴から嫌な気持ちは逃げていく。それは分かっているのに、掴み取るのさえ容易でなかった。
放っておけばどんどん深くなり、もっと取り除き難くなる。気ばかりが急いて、思うように動けなかった。
壁時計の針が動いた。コチ、コチ、と一定のリズムを刻んで時を告げる。後ろから目に見えぬ何かに追い立てられているようで、研磨は苦くて不味い唾を飲んだ。
『研磨?』
名を呼んだ後に黙られて、待っていた翔陽が訝しんだ。
小首を傾げている姿が見える。目を閉じれば簡単に浮かんでくる幻に微笑んで、研磨はゆるゆる首を振った。
時間も遅い。手間取らせてしまったのを詫びて、彼は口を開いた。
「うぅん。そっか。……じゃあいいや。おやすみ」
『あ。待って!』
最初から用など無かったのだ。それが分かっただけでも救いだと己を慰め、通話を終えようとする。しかし指が画面を滑るより早く、翔陽の悲鳴じみた声が轟いた。
思わずビクッとして、研磨は肩を跳ね上げた。
一緒になって、何故か右足も持ち上がった。数ミリ浮いた爪先を床に戻して、彼は獣のような唸り声に眉を顰めた。
あ、だともう、だともつかない音を発して、翔陽は衣擦れの音も量産した。
部屋中を歩き回っているのか、色々な物音がした。足音、床に敷いた布団を蹴る音、机の角に膝をぶつけた音。犬のような痛がる悲鳴、鼻を啜る音。更には何かを動かしたのか、金属が軋む音もした。
ようやく居心地の良い場所を見つけたのか、足音は止んだ。研磨は意識せず深呼吸を繰り返し、乾いた唇を舐めた。
ずっと持ち上げていた所為で疲れ始めた右腕を宥め、試しにスマートフォンを持ち変える。左耳に押し当てると最初は違和感を覚えたが、言葉を待つうちに身体に馴染んでいった。
何気なく伸ばした右手は布団の上を這い、硬いものにぶつかって止まった。
「あ、忘れてた」
思わず声に出して呟いて、研磨は絶賛放置中のゲーム機を引き寄せた。
セーブすらしていないのを思い出して、蓋を開く。周囲がぱっと明るくなって、軽快なメロディがまた流れ始めた。
『研磨?』
「うぅん、なんでもないよ。それより、翔陽。どうしたの?」
『う……』
突然鳴り響いた音楽は、遠く宮城まで届いたらしい。沈黙を破って不思議そうに呼びかけられて、研磨は逆に訊き返した。
途端に翔陽は押し黙り、硬い金属音を響かせた。
どうやら彼は、椅子に座ったようだ。覚えのある軋み音に頬を緩め、研磨は片手でゲーム機を操作した。
無事セーブを完了させて、こちらも充電すべく腰を浮かせる。
両足を床に着け、腹に力を込める。ケーブルの保管場所を先に見て、コンセントの空きも確認してそちらへ行くべく膝を伸ばす。
それを遮り、
『けっ……けんま!』
不意を衝かれ、左耳が弾けた。
スマートフォンから飛び出して来た大声が、見事脳天を貫いた。反対側の耳から突き抜けた声は壁に当たって跳ね返り、ぐわん、ぐわんと反響した。
いつまでも消えない残響に、心臓は萎縮して小さくなった。突然の出来事に研磨は目を見張り、視線を宙にさまよわせた。
緩んだ指先からゲーム機が滑った。柔らかなクッションに沈んだそれを追いもせず、彼はトクンと鳴った鼓動に息を呑んだ。
一瞬、翔陽が見えた。勿論幻であり、錯覚なのは分かっている。けれど確かに、誰よりも近い場所に彼を感じた。
『誕生日、おめでとう』
最初ほどの勢いは無い囁きに、訳知らず涙が溢れそうだった。
目覚まし時計の針は、二本揃って真上を向いていた。壁時計も同様だった。スマートフォンを確認する余裕は無かった。代わりに閉じたばかりのゲーム機を開いて、ゼロが三つ並んでいるのを確認する。
最後に見たカレンダーでは、何も無い平日がやけに輝いていた。
十月十六日。忘れずにいてくれたのだと、それだけで胸がいっぱいだった。
『研磨、けんまー? あれ、切れちゃった?』
「聞こえてるよ、翔陽」
先ほどまでの無口さが嘘のように、翔陽の声は明るかった。普段の彼をやっと取り戻した感があって、研磨も嬉しそうに返事した。
矢張り彼は、これくらい元気な方がいい。ほっと胸を撫で下ろして、研磨は聞いたばかりの祝賀の言葉を脳裏に蘇らせた。
彼は恐らく、それを言う為だけに待っていたのだ。
それを証拠に、これで思い切り喋れると、堰を切ったようにひとりで捲し立て始めた。
『えっと、あの……さっき、ごめんな。変な電話しちゃって』
「いいよ、別に。なんだったの?」
そもそも研磨がかけ直したのも、最初の電話の意味を知る為。あそこで間違い電話を装われなかったら、自分からリアクションを起こす事も無かった筈だ。
日頃からなにかと面倒くさがる癖に、翔陽に拘わる事だと意外なくらい積極的になれる。不思議だと胸を撫で、研磨は静かに返事を待った。
翔陽は数秒間迷い、何度か呻き声を上げてから急に静かになった。
そして。
『笑わない?』
「内容による、かな」
『……研磨、誕生日でしょ』
「うん。忘れてた」
『忘れるなよー。自分の誕生日だろー』
「そうだね。でも、翔陽が思い出させてくれたから」
秘めやかに問われて、研磨はベッドに両足を引っ張り上げた。
ぼふん、と横になれば天井光が遠くなった。舞い上がった埃を避けて目を瞑り、再びスマートフォンを右耳に戻す。最中に囁けば、照れ臭くなったのか、翔陽は声をくぐもらせた。
呻かれて、笑うしかない。温かい気持ちを抱えて丸くなっていたら、再びぼそぼそと、電話口から声が届いた。
『研磨、うれしい?』
「え?」
『誕生日。おめでとう』
「うん。ありがとう。翔陽がお祝いしてくれて、凄く嬉しいよ」
繰り返された祝福の言葉。何度聞いても飽きない台詞に頬を緩め、研磨は顔を綻ばせた。
正直な気持ちを、飾ること無く告げる。いつもは喋る一歩手前で逡巡し、結局呑み込んでしまう思いも、彼相手だとすんなり音になって零れ落ちた。
誕生日を特別な日と思うのは稀だった。
ケーキがあったのは小学生の頃までだ。親からのプレゼントも、ここ数年は貰っていない。夕飯のメニューがちょっぴり豪華になる程度で、後は幼馴染みがアップルパイを奢ってくれるくらい。
高校に入ってからは、そのアップルパイが一切れでなく、ホールになった。勿論ひとりでは食べられないので、買ってきてくれたバレー部のメンバー全員で食べた。今年もやるのかについては、誰からも聞いていない。
元々友達が少ないので、祝ってくれる人の数も当然少なかった。こんな風に、日付が変わる直前から電話を掛けて来たのは、翔陽が初めてだった。
そこに言及したら、何故か渋い顔で唸られてしまった。
見えないけれど、彼がどんな表情をしているかは想像が付く。苦々しい面持ちで舌打ちして、翔陽は違う、と嘯いた。
「しょうよう?」
『ホントはね、研磨。おれ、零時になったら電話するつもりだった』
どうしてそんな声を出すのか、理由が知りたかった。けれど問うよりも先に喋り出されて、研磨は仕方なく黙った。
耳を傾け、音ひとつ逃すまいと意識を研ぎ澄ます。夜半というのもあり、外から邪魔してくる騒音は無かった。
翔陽は深呼吸を二度繰り返して、最初の失礼な電話をまた詫びた。
『おれ、研磨に。一番に。最初に……おめでとうって、言いたくて』
「うん」
『そんで、でも、もしかしたら誰かと喋ってたりしたらヤだなって思ったから』
「……うん」
頭の中で整理が出来ていないのだろう、彼の説明は要領を得なかった。しどろもどろに言葉を並べ立て、時に既に告げた内容に戻ったりして、脈絡がない。
あちこちに話題が飛び跳ねてしまうのは、なんとも彼らしかった。理路整然としておらず、どこに行くかまるで分からない。そういう所が面白くて、だから研磨は彼が好きだった。
細切れの説明を掻い摘んでまとめると、つまり最初の電話は、研磨が誰かと通話中でないかを確かめる為だったらしい。
時間通りに電話を鳴らして、おめでとうと祝福する。その計画を思い立った時、翔陽は妙案だと跳び上がった。
しかしいざ直前になると緊張して、不安が増した。完璧に思われた計画が、実は穴だらけの欠陥品だというのに気が付いて、慌てて軌道修正を試みた。
まずは通話中か否かを確かめるべく、一コールだけ鳴らして切る作戦を実行した。しかし無事鳴ったのを確認した途端、既に寝入った後という可能性に思い至った。
午前零時前に就寝するのが早いか、遅いかは人それぞれだ。けれどバレーボール部は基本、朝が早い。睡眠時間確保の為にも、翔陽だって日付か変わる前に寝床に入るよう心がけていた。
もし、研磨が眠った後だったら。
そう考えると、すぐに切るのが憚られた。反応があるかどうか調べたくて、五コール目まで待つことにした。そして五を過ぎて、十までなら、と決意をぐだぐだにねじ曲げて。
研磨が応答に出て、頭が真っ白になった。
気付いて貰えたのが嬉しかった。寝ていたところを起こしたのなら、とても申し訳ないと思った。
喋りたい気持ちが溢れて、口から飛び出しそうになった。誕生日まであと数分残っているのを思い出して、迂闊な真似は出来ないと戒めた。
結果、あんな風にしか言えなかった。
『だからその……ごめん』
「ふふ」
殊勝に謝られて、研磨はつい喉を震わせた。堪えたものの隠しきれなくて、笑ったのがバレて翔陽に臍を曲げられた。
電話口で文句を言われた。腕を振り回し、ぷんすか煙を吐いている姿が見えた気がした。
感情の起伏が激しくて、思った事がすぐ顔に出る。いつも元気で明るくて、バレーボールにひたむきで。
一緒にいると、笑顔になれた。元気を貰えた。声はこうして聞けるけれど、やはり直接会って触れたかった。
なにもない空間に手を伸ばして、研磨は空気を握り潰した。
「うれしい、翔陽。ありがとう」
彼がこんなにもあれこれ考えてくれていたことが、何よりのプレゼントだ。正直に思いを告げれば、翔陽は面食らったのか暫く黙り込んだ。
それから照れ臭そうに笑って、最後に声を潜めた。
『おれも、ありがと』
今にも消え入りそうな、耳を澄ませていなければ拾えなかった音量で囁く。聞こえた瞬間はっとして、研磨はベッドで飛び跳ねた。
起き上がり、身を乗り出す。それでも翔陽には届かない。物理的な距離を痛感して、胸が張り裂けそうだった。
「翔陽」
『じゃあ、おやすみ。研磨、またね』
急ぎ呼びかけるけれど、言うだけ言って通話は切れた。ひらひらと手を振って見送られた気分で、一気に遠ざかった声に研磨は瞠目した。
息をするのも忘れて凍り付き、十秒近く経ってからベッドにすとんと腰を沈める。そのまま大の字になって、彼は沈黙するスマートフォンに顔を向けた。
真っ黒い画面を握り締めて、表面に残る汚れを拭い取る。そして胸に引き寄せ、目を瞑る。
瞼に浮かぶ笑顔が次第に霞んでいく。薄れつつある記憶を手繰り寄せて、研磨は寝返りを打った。
部屋の電気を消さなければ。ゲーム機やスマートフォンも充電しなければ、明日の朝慌てる事になるのは目に見えていた。
けれど起き上がる気力は沸かず、他になにもしたくなかった――思い出を抱きしめて、悔しさに唇を噛み、届かない手の虚しさに心を奮い立たせる以外は。
「翔陽」
囁きを枕に沈め、彼は引き結んだ唇を解いた。意識して微笑みを浮かべ、愛しくてならないその名前を胸に刻みつける。
「来年は、きっと」
会いに行けない寂しさを忘れず、この一年を過ごそう。そして次の誕生日には、必ず。
揺るぎない誓いを立てて、研磨は布団を引き寄せた。
2013/10/15 脱稿