査収

 枕元の時計を見やり、綱吉は寝返りを打った。
 ごろん、とうつ伏せから仰向けに体勢を変えて、なにもない天井を見つめる。けれどそれもさほど長い時間続かず、視線はすぐに手元へと戻った。
 右手に握りしめている携帯電話の画面は暗く、そこに浮き上がるべき画像や数字は見えない。彼は軽く頭を振ると、ゆっくり身を起こした。
 ベッドの真ん中に座り、膝に寄せた右手を見下ろす。のそり動いた親指が、角が削れ気味のボタンを押した。
 途端に画面が明るくなり、部屋の中まで明るさを増した。
 いきなり現れたに等しい数字に目をやって、ひとつため息を。折角起きあがったというのにまた横になって、綱吉は飽きもせず携帯画面に見入った。
「ンなことしたって、早送りにはなんねーぞ」
「うわっ」
 先ほどから繰り返される行動に、いい加減焦れたのか。ハンモックの上から声がかかり、綱吉は大げさに仰け反った。
 驚きを露わにして目を見開いた彼に、眠った筈の赤子が笑った。不遜な表情で口元を歪め、落ち着きが足りない教え子に肩を竦める。
 やれやれと首を振られて、見られていたと知った綱吉はかーっと赤くなった。
「な、なんだよ。赤ん坊はさっさと寝ろよ」
 寝床であるハンモックに上がってからずっと静かだったので、油断していた。てっきり寝ているものとばかり思いこんでいたので、恥ずかしさもひとしおだった。
 声を上擦らせた綱吉に、リボーンは苦笑を禁じえない。ニヒルな表情でため息をつき、彼は寝所で横になった。
 薄手の布団を被るが、目は閉じていないに違いなかった。
「……くそう」
「テメーこそ、早く寝ろ」
 それを証拠に、悪態をついていたら叱られた。上から降ってきた声に眉を顰め、綱吉は口を尖らせた。
 これだから、同じ部屋で寝起きするのが嫌なのだ。
 しかし母に抗議しようにも、部屋はもう余っていない。隣室は奈々とフゥ太、それにランボやイーピンたちが使っており、空きスペースはなかった。
 第一、リボーンが拒むのだ。ランボと一緒の部屋だと落ち着かないという理由で、彼は依然として綱吉の部屋の一画を占領している。
 さっさと一人暮らしでもして、この状況を変えたい。けれど以前、リボーンが一週間ほど不在にした時は、部屋の静かさに慣れなくて変な感じだった。
 定まらない心を持て余して、綱吉は肩を落とした。
「ちぇ」
 舌打ちして寝返りを打って、彼は改めて携帯電話に視線を戻した。
 刻々と動くデジタル時計は、まもなく午前零時を告げようとしていた。
 数字の表示だけだとなんだか物足りなくて、差異はないというのに目覚まし時計まで見てしまう。リボーンの言うとおり早く進む事も、遅くなることもないのに、気ばかりが急いてならなかった。
「あとちょっと」
 ぼそりと呟いてから傍らを気にするが、リボーンはもう茶々を入れてこなかった。本当に寝入ったのか、耳を澄ませば微かな寝息も聞こえた。
 それを確かめてほっとして、彼はのそのそ起きあがった。
 今度はベッドの縁に腰掛け、正面にある壁掛けタイプのカレンダーを見る。上には数字の「10」が踊り、月の真ん中では三連休が、赤文字で存在を強調していた。
 その最終日に視点を定め、綱吉は壁時計に視線をずらした。
 秒針の動きを目で追って、薄明かりを放つ蛍光灯にも顔をやる。部屋をぐるりと見回してから再度時計に臨むが、針はほとんど動いていなかった。
 たった一分が異常に長く感じられた。この部屋だけ空間が捻れ、おかしくなってしまったのではと思えるくらいだった。
 マンガの読み過ぎだと笑われそうな想像で胸を満たして、綱吉は少し湿っている髪をかき回した。
 風呂に入ってから、もう数時間が経過していた。あと数分足らずで日付は変わる。新しい一日が始まる予定だった。
 それは昨日や今日となにも違わない、平凡な一日かもしれない。けれどほかの日に比べればずっと特別で、楽しいものになる筈だ。
 そうなって欲しかった。
 希望に目を輝かせて、綱吉は沈黙を保つ携帯電話を握りしめた。
「あと、……三分」
 ようやくそこまできて、万感の思いで呟く。カップラーメンが出来上がるまでの時間を心待ちにして、乾いた唇を舐める。
 無意識に奥歯を噛み締めていた。力が入りすぎだと緊張に強ばる頬を緩め、綱吉は意識して笑顔を作った。
 まもなく、三連休の最終日がやってこようとしていた。
 だが緊張の原因は、そこではない。去年や一昨年には無かった「もの」を期待して、彼は深呼吸を繰り返した。
 この一年足らずの間に、友人がたくさんできた。心から分かりあえる仲間が出来た。
 彼らはきっと知っている――明日が何の日であるかを。
 なにがあった日なのかを。
 知ってくれている、と信じたかった。
 これでなにもなかったら、ショックで寝込むかもしれない。最悪の展開を想像して青くなり、綱吉は頭をぐるぐるさせた。
「いや、せめて獄寺君くらいは……」
 最近出来た友人ならばまだしも、右腕を自称する彼ならきっと、送ってきてくれるに違いない。時に鬱陶しいが頼りになる嵐の守護者を思い出していたら、その隣に雨の守護者が割り込んできた。
 山本もまた、綱吉にとって大事な存在のひとりだった。
 ほかにも次々と、親しい友人の顔が浮かんでは消えていった。
 それは、ちょっと前までだったら考えられないことだ。
 そこで高いびき中の凶悪な家庭教師がやってきて、綱吉の運命は大きく変わった。いきなりマフィアのボスになるよう強要されて、嫌だと言っているのに聞いて貰えなかった。
 マフィアのファミリーを作る、という理由から、リボーンは色々な方面から人を引っ張ってきた。山本も、その最中に親しくなった。
 あまり嬉しくない輩までつれてきてくれたが、リボーンのおかげで、綱吉の周囲は実に騒がしくなった。少しも気の休まるところがない。昨日や一昨日の休日も、息つく暇がないくらいだった。
 大変だったが、終日笑いで溢れていた。新しくやってくる十四日も、是非そうであって欲しかった。
 そのためにも、時報と同時にメールが来るのを期待せずにはいられない。
 明日は、綱吉の誕生日なのだから。
「くるかな」
 さっきまで自信満々だったのに、直前になった途端に気持ちが折れそうだった。
 終日ベッドでふて寝する未来が見えた。幻と分かっていても心が萎えて、座ってもいられなくなった。
「だーっ」
 息を吐いてベッドに大の字になり、綱吉は目を閉じた。
 あと一分。目をつぶっていたら、様々な記憶が一気に蘇った。
 痛かった事、嬉しかったこと、恥ずかしかったこと。
 辛かったこと、苦しかったこと、楽しかったこと、寂しかったこと。
 この一年、沢山笑った。怒った。傷ついた。勇気づけられた。
 皆がいなかったら、きっとここまで歩いてこられなかった。感謝を胸に刻みつけて、綱吉は目を開いた。
 ぶるっ、と携帯電話が震えた。
 握りしめていた手をほどき、小型端末を解放する。シーツの上に転がしたその画面には、メールの着信を告げる文字が踊っていた。
 深夜というのもあり、電話は避けたのだろう。点滅するオレンジのランプをみやり、綱吉は目を輝かせた。
「きた!」
 思わずリボーンの事も忘れて叫び、彼は万歳しながらベッドで飛び上がった。大量の埃を巻き上げて、いそいそと携帯電話を拾い上げる。
 まだ日付変更から一分と経っていないのに、新着メールの数は、ゆうに五件を越えていた。その先頭を切ったのは、やはり獄寺だった。
 画面を移動させ、本文を開く。
「わっ」
 瞬間、モニターの中でプレゼント包装された箱が爆発した。
 もちろんそれは画面のだけでの事だ。実際に携帯電話がおかしくなったわけではない。
 豪華なデコレーションメールを送って、今頃獄寺はご満悦だろう。びっくりしたと聞けば、大成功だと大喜びするはずだ。
 こういう事も出来るのだと知って、綱吉は弾んだ胸を撫でた。
 こうしている間にも、次々にお祝いのメールが届いた。
 山本からも、ハルからもきていた。残念ながら京子からはなかったが、意外なことに了平から暑苦しい文章が届いていた。
 時差があるというのに、ディーノからも時間ぴったりに来ていた。おそらくは部下のロマーリオ辺りが設定してくれたのだろう。歯の浮くような文面は、イタリア男らしさ全開だった。
 炎真からも来ていた。不慣れな文面が、彼の性格をよく表していて微笑ましかった。
 意外なところでは、バジルから。しかも綱吉の実の父である家光の代筆として送って来たのだから、これには笑うしかなかった。
 そういえば綱吉は、あの男の連絡先を知らない。だから苦肉の策でバジルを使ったのだろうと判断して、彼は緩慢に頷いた。
「ありがとう。父さんに、よろしく……っと。出来た」
 十月十四日になると同時にお祝いをくれた皆に、丁寧にメールを返していく。明日が休みというのもあり、夜更かしにも余裕があった。
 最後の一通にも返事をして、綱吉は満足そうに頷いた。
 願いは叶った。神様に感謝して、彼は電池残量の減った携帯電話を閉じた。
 ずっとキーを操作していたので、親指が痛い。手首をぐるりと回して凝りを解して、綱吉は満面の笑みで枕を抱きしめた。
 あれだけ見つめていた時計を久しぶりに見ると、既に零時半を回っていた。
「うひゃあ、もう?」
 集中していたら、この時間だ。そわそわ待っていた頃が既に懐かしくて、綱吉は楽しそうにけらけら笑った。
 メールは、さすがにもう来ないだろう。後は日が昇ってからと頷いて、いい加減ベッドに入ろうかと悩んでいた時だ。
 コン、と窓が鳴った。
 最初は風の音かと思ったが、違う。以前にも数回聞いた覚えがあるそれは、ガラスを叩く音に他ならなかった。
 鳥が戯れるにしては、時間からしておかしい。丑三つ時まであとわずかという頃合いに、窓を打つ存在などそう多くなかった。
 不審者を想像して、彼は首を振った。
 もしやと思い、冷や汗を拭う。覚悟を決めて立ち上がって、綱吉はおそるおそる窓に向かった。
 これから寝るというのもあって、カーテンは閉めていた。遮断された視界の向こうにいるのが誰か、思いつくのはひとりしかいない。
 生唾を飲む音が大きく響いた。心臓がうるさい。息さえ止めて、綱吉は意を決して布をめくった。
 外は、当然だが暗かった。光は遠い。空は曇っており、月明かりは望めなかった。
 そんな中にぼんやり浮き上がるのは、人の影。
 思わず悲鳴を上げそうになって、綱吉は腹に力を込めて堪えた。
 掴んだ布を落としそうになった。外に漏れる光が細くなり、抗議の意味を込めてまた窓を叩かれた。
 まるでドアをノックするかのように繰り返されて、そのうち割れてしまいそうだ。
 こんな夜半に風通しが良くなられても困る。回避すべく、綱吉は残っていたカーテンを全開にした。
 肩で息を整え、思い切って斜め上を向く。
 そこに立っていたのは、並盛中学校風紀委員長にして雲の守護者こと雲雀恭弥、その人だった。
 予想していた通り過ぎて、びっくりする気にもなれない。これまでにも何度か、矢張り窓からやってきたことのある男は、ため息をついている綱吉をみて憤然とした面持ちを作った。
 驚かせるつもりだったのが、呆れられて臍を曲げている。拗ねられる筋合いはないのだが無視する訳にもいかなくて、綱吉は仕方なく窓の鍵も外した。
 戸を開けると、冷たい風が吹き込んできた。
「やあ」
「どうも」
 まるで朝の挨拶でもするかのように、軽やかに言われた。だが、時と場所を考えて欲しい。下手をすれば綱吉は、とっくに夢の中にいたかもしれないのだ。
 タイミングがよすぎる。狙っていたとしか思えなくて、もやもやしていた気持ちは次第に形を変えていった。
 睨むように見上げていた彼の変化を感じ取り、雲雀も小首を傾げた。
「小動物?」
「あの、ヒバリさん。もう遅いんですけど」
 怪訝にされて、綱吉はおずおず問いかけた。
 まさか、彼に限ってあり得ない。しかし十月十四日という今日のこの時間に訪ねて来る理由が、他にひとつも思い浮かばなかった。
 単なる偶然か、否か。
 可能性を計算して、温い汗を流す。上唇を嘗めた綱吉から目を逸らし、雲雀は素早く室内を見回した。
 わざとらしくハンモックを確かめて、ひとつ小さなため息を。
 まるで、目的は綱吉ではなくてリボーンでした、とさも言いたげな顔をして。
「こんな時間まで起きているなんて、風紀違反だよ」
 いつ、誰が定めたかも分からない理屈を口にする。
 軽すぎる叱責に、綱吉は首を竦めた。
「言われなくても、これから寝ようって思ってました」
 胸に抱いた期待は、一瞬で霧散した。雲雀は結局雲雀だったとがっかりして、身を引いた男をねめつける。
 生意気な反応を鼻で笑って、雲雀は狭い空間で後退した。
 室外機置き場の策に片足を置いて、黒い学制服を翻す。颯爽と立ち去ろうとしている男を見守り、綱吉は両手を握りしめた。
 いったい彼は、本当に、ここへなにをしに来たのか。
 まったくもって訳が分からないと当惑しつつ、左手に持った携帯電話を何気なく見る。そういえば、とふと父の顔が浮かんで、綱吉は雲雀がまだそこにいるのに画面を開いた。
 メールはひと段落しており、ランプは点滅していなかった。しかしとあるフォルダに収納されたメールだけは、届いても本体が反応しない設定になっていた。
 大量に届くスパムメール避けとして、アドレス帳に登録していな分はすべてこちらに隔離される。日頃は見ない場所だけれど、もしかしたら家光も、こっそり送ってきているのではと唐突に思った。
 指は自然と動いていた。まるで吸い寄せられるように、そのフォルダを開いていた。
 最新のメールには、件名が入っていなかった。
 本文は簡潔に。
 おめでとう、とだけ。
「……ヒバリさん」
 見た瞬間、綱吉は口を開いていた。今まさに立ち去ろうとしていた男を引き留めて、胸元にあった携帯電話を持ち上げる。
 顔の横まで掲げ持って、綱吉は午前零時ぴったりに届いたメールを彼に見せた。
 もしかしたら、獄寺よりも早かったかもしれない。けれど綱吉は気づかなかった。
 気づけなかった。
「これ」
 あやうく見過ごすところだったものを示し、興奮に胸を高鳴らせる。頬を上気させた綱吉を見て、雲雀は途端、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「早く寝なよ」
 素っ気なく吐き捨てて、今度こそ本当に柵を乗り越えた。男の姿を追いかけて、綱吉は窓から身を乗り出した。
 この飾らないメールの送り主は誰だろう。アドレスを見れば、それは一目瞭然だった。
 なんて分かりやすいのか。苦笑して、綱吉は口元に手をやった。
 時と場所も考えず、近所迷惑顧みない大声で叫ぶ。
「このアドレス、登録しちゃっていいですかあ!」
 並盛、の名前が入ったメールアドレスを使う人など、綱吉が知っている中でひとりしかいない。
 きっと彼は、返答がないのを気にして、様子を見に来たのだろう。部屋の電気が消えていたら、素通りするくらいの気持ちで。
 だけれど、照明はついていた。リボーンを言い訳に窓を叩くくらい、彼は綱吉を気にしていた。
 おかしい。嬉しい。笑いがとまらない。
 腹を抱える綱吉に、返事はない。代わりに迷惑メールフォルダに一通、簡潔極まりない文章が届けられた。

2013/10/12 脱稿