睦物語

 物音が聞こえた気がして、綱吉は寝返りを打った。
 水面をゆらゆらと漂っていた意識が、ほんの少しだけ水中から首を出した。新鮮な空気をいっぱいに吸い込んで、覚醒が促される。
 喉を襲った冷えた夜気にふるりと身を震わせて、彼は肩からずり落ちていた上掛け布団を無意識に手繰り寄せた。項まですっぽりと覆い被せてホッと息を吐いて、役目を終えた右手をシーツへと投げ出す。
 そうして硬くもなく、柔らかくも無い敷布団に落ちた掌をぼんやり見詰め、綱吉は何度か瞬きを繰り返した。
 闇が彼を包んでいた。瞼を開いていても、閉じていても、見える景色にさほど変化はみられない。
 だがこれが夢の中の曖昧な世界ではないというくらいは、流石の彼にも理解出来た。
「あ、……れ」
 掠れた小声で呟いて、大粒の眼を怪訝に歪ませる。一緒に唇もヘの字に曲げて、枕に頭を置いたまま首を捻った。
 ひとり寝をするには広すぎる敷布団の空きスペースを軽く叩き、さしたる手応えも得られないのに拗ねて爪を立てる。真っ白いシーツに無数の皺を刻みつけて、彼はゆるゆる首を振った。
 うつ伏せになって肘をつっかえ棒に身を起こし、己が作った影を食い入るように睨みつけて溜息をひとつ。被り直したばかりの布団を背中に滑らせて座ると、深夜に相応しい静寂が落ちてきた。
 物音が聞こえたのは、錯覚ではあるまい。布団と一緒に肩からずり下がった寝間着を引き上げて、綱吉は急ぎ、解けかけていた腰紐を外して身なりを整えた。
 肌蹴ていた胸元を合わせ、帯をしっかりと二重に巻きつける。蝶々結びなどすれば後で見咎められるのは確実だが、己の手元すら覚束ない暗さの中で、兵児帯を結ぶなど、綱吉には無理だ。
 簡単に見繕ったところで立ち上がり、捲れ上がっていた裾を叩いて形を作る。
 五月の頭とはいえこんな夜更けだ、空気は冷え込んで肌寒い。本当は上にもう一枚羽織るなりしたかったのだが、流石に上掛け布団を被って引きずっていくのは憚られた。
 きっと、十年前の自分だったらやっただろうが。
 行動も、思考も幼かった自分を思い出してクスリと笑い、綱吉は両肩をさすって熱を起こした。そろりと畳に爪先を下ろせば、身構えていたほどには冷たくなかった。
 フローリングとは違う優しい感触に胸を撫で下ろし、彼は闇に飲まれた空間を見回した。
「何処行ったんだろう」
 夢の中で聞いた物音の主の姿は、さほど広くも無い寝所にはなかった。
 半畳ほどの床の間には首の長い花瓶が置かれ、菖蒲の花が一輪活けられていた。違い棚には何も飾られず、枕元には火の消えた行灯が、遠慮がちに控えていた。
 まだ油の残っているそれを倒さないよう気をつけて、綱吉は床の間の左手にある障子戸に目を向けた。外は曇っているらしく、月明かりは殆ど感じられなかった。
 一分の隙間もないくらいにぴしゃりと閉ざされた戸にそっと手を伸ばし、なるべく音を立てぬよう注意しながら右に引く。鍵が掛かっているわけでもなし、薄い紙が上半分に張られた戸は呆気なく彼に道を譲った。
 軒先に出れば、もっと空気は冷えていた。しかし寝所に比べれば、幾らかは明るかった。
「ん……」
 ちょっと迷い、綱吉は右に進路を取った。外廊下の先は和風の庭園が広がり、何処からともなく虫の声が聞こえてきた。
 歩くたびにキシキシ言う床を踏みしめ、素足のまま幾らか進む。彼が足を止めたのは、寝所の傍の角を曲がった先、同じく障子紙が張られた薄い戸の手前だった。
 細い明かりが室内から廊下を照らしていた。
 人工的な煌々と照る光とは違い、どこか儚く、おぼろげな輝きだ。淡いオレンジ色の灯りにホッと息を吐き、綱吉は心持ち足取りを速めた。
「ヒバリさん」
 戸を開ける前に呼びかけるが、障子に映る影から既に存在は知られていよう。間を置かず、内側から声が掛かった。
「どうぞ」
 立ち入りを許されて、綱吉はほんのりと頬を紅に染めた。夜気で冷えた身体にサッと熱が入って、なんだかくすぐったかった。
 膝を折り、遠慮がちに戸に手を掛ける。滑りの良さに感嘆の息を漏らして、彼は開かれた空間に見入った。
 畳が敷かれた六畳ばかりの室内に、こげ茶色の座卓がひとつ。使い込まれた飴色の箪笥と、背の低い書棚がひとつずつ。
 その卓の前に座布団が敷かれて、黒髪の青年がゆったりと胡坐を組んで座っていた。
 視線は手元に向けられて、綱吉を見ない。だが意識は傾けてもらえていると、長年の経験が告げていた。
 壁に吊るされた縦に長い年代ものの時計が、夜の二時半手前を指し示していた。まさしく草木も眠る時間帯ではあるが、雲雀も、綱吉も、すっかり目が冴えてしまっていた。
 僅かにけだるさを訴える身体を抱え、綱吉は急ぎ敷居を跨いだ。中に入って再び膝を折り、開けたばかりの戸を閉める。隙間風が入らぬようしっかりと力を込める彼に、初めて視線を上げた雲雀が笑った。
「寝ていればいいのに」
「でも」
 こんな時間に起きていても、なにも良いことなどない。前日の疲れを癒せず、翌日に響かせるくらいなら、大人しく布団に引き篭もっていた方が得策だろう。
 短いひと言に沢山の苦言を込めた雲雀を軽く睨み付け、綱吉は膝立ちで傍らへ進み出た。
 ずりずりと寝間着代わりの肌襦袢を引きずって、真っ白い太腿を惜しげもなく晒してみせる。揺れる腰紐の先端をちらりと見てから、雲雀は肩を竦めて嘆息した。
 座布団の上で居住まいを正し、綱吉に向き直る。座卓に置かれたファイルを一瞥し、綱吉は膝がぶつかり合う距離まで近付いて腰を落とした。
 寝入る前の戯れの痕も生々しい素肌を隠そうともしない彼に苦笑を浮かべ、雲雀が寝癖のついた髪に手を伸ばした。蜂蜜色の柔らかな毛足を擽るが、綱吉は不満なのか嫌そうに首を振った。
「居ないから」
 尖らせた唇から恨み言を零し、上目遣いに雲雀を見詰める。探るような眼差しを受け、黒濡れた瞳の青年は肩を揺らした。
 あまり悪いと思っていない様子に余計腹を立てて、綱吉は寝床のシーツにしたように、彼の膝に爪を立てた。
「痛いよ」
 格子柄の寝間着姿の雲雀が、真偽不明な台詞を吐いて身をよじった。
 顔が、というよりは目が笑っていた。逃げられて追い縋ろうとした綱吉だったが、ふと見えた己の素足にハッとして、慌てて退いた。横に広がった襦袢の裾を急ぎ掻き集め、露わになっていた太腿を布で覆い隠す。
 恥じらいを含む横顔に相好を崩し、雲雀はなんとも艶めかしい綱吉の容姿を上から下までゆっくりと眺めた。
 その最中に胡坐を崩し、右膝を立ててそこに肘を置いた。頬杖をついた彼の男らしいポーズに綱吉は益々恥じ入り、顔を赤くして俯いた。
 雲雀も綱吉も、共に和装だった。それも長着を着て帯を締めたものではなく、一枚脱げば素肌も露わな肌襦袢姿だった。
 更に言えば、下帯もつけていない。だから大きく足を開けば、本来は秘すべき男の証が見えてしまう。
 雲雀もそれが分かっているのだろう。敢えて見せ付けるように、けれど実際は見えないように角度を調整して、一眠りしただけでは取り払えない荒々しくも熱い夜の名残を否応なしに思い出させる。
 頬を紅に染めて、綱吉はぐっと奥歯を噛み締めた。
 雲雀のこの行動は、挑発というよりは人をからかっているのだ。
 いつまでも純真無垢な子供と思われているのは悔しくて、彼は握り締めていた肌襦袢を手放すと、負けじと目尻を吊り上げた。
「ふふ」
 挑戦的な視線を笑い、雲雀が頬杖を解いた。
 胡坐を組み直した彼に胸の内で安堵の息を吐き、綱吉は自分が緊張していたことに気がついた。
 火照った肌と脈打つ心臓をどうにか宥め、乾いた唇をひと舐めする。赤く色付く唇から漏れ出た吐息を聞いて、雲雀は頬を緩めた。
 裾の乱れを座ったまま直し、改めて机に向き直る。右肘を卓上に置いた彼に、綱吉はそうと悟られぬ程度に目を眇めた。
 仕事中はスーツを着用する彼も、私邸に戻れば洋装を解き、和服を愛用していた。お陰で綱吉も、この屋敷を訪ねる度に和装を強いられる。昔はひとりでは着られなくて手を借りたが、今ではなんとか、兵児帯くらいなら自分で結べるようになった。
 洋装もそうだが、和服にだって色、柄は多種多様存在する。だが雲雀は常日頃から、黒無地の着流しを愛用していた。
 黒にも幾種類かあるのだよ、と教えられたのはかなり前のこと。その微妙な差が昔は判別つかなかった綱吉だけれど、最近はなんとなく、使い分けが分かってきた。
 そうして今の雲雀は、普段の黒無地とは違い、白地に紺の格子柄を身に纏っていた。
 襦袢だから、というのもあろうが、普段見る彼とはまた違う雰囲気に、綱吉はほんのり肌を色付かせた。
 少しでも気を緩めれば、日付が変わる直前までの濃密な時間がありありと思い起こされた。あの手で、あの肌で、あの唇でどのように触れられたのかまではっきりと蘇って来て、どうにも落ち着かない。
 急にもぞもぞと身を捩り始めた彼の内心を知ってか知らずか、雲雀はうっすら笑みを浮かべて卓上のファイルを捲った。
「お仕事、ですか?」
 無視されるのはつまらないが、構われ過ぎるのも辛い。どうにも身の置きようが定まらない中、綱吉は恐る恐る小声で問うた。
 雲雀は手を休めずにページを捲り、くっ、と喉を鳴らした。
 なにか面白い事を言ったかと、綱吉は自分の台詞を振り返って首を傾げた。きょとんと目を丸くしている彼を振り返って、雲雀はまたも、さも可笑しげに目元を綻ばせた。
 そんな風に無邪気に笑う彼は珍しい。
 いいものが見られたと思うと共に、なんだか余計に落ち着かなくなってしまって、綱吉は頬を膨らませた。
「忙しいのなら、言ってくれれば」
「誘ったのは僕なんだから、君は気にしなくていいんだよ」
 お互い多忙極める仲だから、前もって周囲に予定有りと言い回っていても、急な案件が入ることはしばしばあった。本当に申し訳無さそうにドアをノックする草壁の顔も、もう見慣れたものだ。
 フランスパンを思わせる長いリーゼントの男を思い出して肩を竦め、綱吉は興味を惹かれて身を乗り出した。
 そうすると雲雀は、もったいぶるかのようにファイルを腕で隠してしまった。
 筒袖を広げて覆い被せ、見せようとしない。仕事上の重要なものならば、綱吉の目に触れさせられないものも中にはあるだろう。だが、ならば最初にそうひと言告げれば済む問題ではないか。
 いやらしい雲雀の態度に腹を立て、綱吉は苛立たしげに膝を叩いた。
「見たいの?」
 乱暴な手を咎めて肩を竦め、雲雀が意味ありげに笑う。不敵に眇められた黒い眼にどきりとして、綱吉は真意を推し量ろうと息を飲んだ。
 探るような眼差しを飄々と受け流し、雲雀は頷かれてもないのにファイルの上から利き腕を退けた。端を掬い上げて持ち、綱吉の方へそっと押し出す。
 それはどうやら、アルバムのようだった。
「?」
 一ページに四枚ずつ、理路整然と並べられていた。写っているのは風景や人物ではなく、物。それもさほど価値があるようには思えない、とても安価な大量生産品の写真まで含まれていた。
 しかも一種類につき一枚ではなく、何枚も、角度を変えて撮影されている。
「なんですか、これ」
「覚えてない?」
 怪訝に思って問えば、逆に聞き返されてしまった。
 言われてみれば確かに、どの品も微妙に見覚えがある。渡されたアルバムを膝に抱いて首を捻る綱吉に、雲雀は少しばかり傷ついた顔をした。
 哀しそうに眉を寄せた彼に自分まで悲しくなって、綱吉は引っ掛かりを覚える一品に指を押し当てた。
 桜色の湯飲みなど、おおよそ雲雀の趣味ではなかろうに。
「そう。忘れちゃったんだ」
「なん……、ですっけ」
 抑揚なく呟かれて、綱吉は胸を痛めながら訊ねた。喉元まで出掛かっているのに、最後の関を越えられずにいる。もどかしく、もやもやするものを抱えて唇を噛んだ彼を見詰め、雲雀は溜息をつきながらアルバムを奪い返した。
 宙を泳いだ綱吉の手が、虚空を掴んだ。
「あ、っと」
 危うく前のめりに倒れるところだったのを堪え、苦虫を噛み潰したような顔をする。一方で雲雀は寂しげに目を伏して、アルバムを音立てて閉じた。
 どうやら綱吉は、自覚ないままに彼を傷つけてしまったらしい。
 悲しい顔をさせたくなどないのに、綱吉にはその原因が分からない。写真に残された数々の品に、雲雀はどうやらかなりの思い入れがあるようなのだが。
 口を真一文字に引き結んだ彼を盗み見て、雲雀は控えめに微笑んだ。
「君って、意外に薄情だったんだね」
「なんでっ!」
 失礼千万な事を言われ、綱吉はつい伸び上がって叫んだ。
 顔を違う意味で赤くして、拳を戦慄かせる。奥歯を噛み締める彼を座ったまま見上げて、雲雀は脇の和卓へしなだれかかった。
 頬杖をついて身体を斜めにした彼が、残る手で机の下から何かを引っ張りだした。そちらに意識を向けた綱吉の耳に、幾許か打ちひしがれた感のする冷たい声が響く。
「そんなに冷たい子とは思わなかった」
「……だから」
 どうしてそうなるのかと、声を荒げた綱吉の前で、雲雀は出したばかりの箱を開いた。
 蓋に透かし彫りが施された工芸品で、螺鈿が細い灯りを受けてきらきらと輝いていた。
 火を灯した行灯の影が、ちろり、ちろりと蛇の舌のように伸びては縮んだ。闇を切り裂くには心許ないけれど、手作業をする程度には充分明るい。街を彩るネオンが眩しすぎるのだと、綱吉はこの屋敷に来る度に思った。
 必要最低限、手元を照らすだけの優しい灯りに包まれる中、雲雀は箱の中から古びた封筒を何通か取り出した。
「それは?」
「……ふぅん」
 随分と年季が入った品々に、綱吉は声を高くした。浮かせていた腰を下ろして居住まいを正した彼を一瞥し、雲雀は面白く無さそうに鼻を鳴らした。
 封筒の多くには宛名が入っていなかった。差出人も大半が無記入で、つまるところ切手も貼られていない。
 色柄にしても、白一色の縦長のものから、花柄の可愛らしいものまで千差万別。それらを愛おしげに、心なしか嬉しそうに見詰める雲雀に、綱吉はムッとした。
 まるで昔の恋人からの手紙を愛でているようではないか。
「……ン?」
 そこまで考えて、綱吉は変な声を出した。
 雲雀と知り合って約十年を数えるが、その間に彼が女性と関係を持った、という話は聞かない。
 勇気ある少女が数名告白してきたという話ならば耳にした経験があるけれども、一線を越えたというような、浮ついた話は一切無かった。
 それもそのはずで、彼はその間たったひとりの人物を愛し、今も愛し続けているからだ。
「ええ、っと」
「寂しいね。僕は全部覚えているのに」
 声を上擦らせ、綱吉は雲雀を正面から見た。彼は胡坐を崩して楽な体勢を取り、過ぎ去りし日を懐かしんで淡く微笑んでみせた。
 ひらりと捲られた封筒の表書きには、雲雀恭弥様と畏まった、けれど下手糞な字がしっかり記されていた。
 瞬間、綱吉の背筋にビリリと電流が駆け抜けた。
「んな!」
 どうして今の今まで忘れていたのかと、後悔がなにより先に生まれた。続けて恥ずかしい、出来るならば忘れてしまいたい情けない記憶が呼び覚まされて、最後に後生大事に残していた男への恨みとでも言おうか、詰まるところ怒りがこみ上げてきた。
 裏返った声で悲鳴を上げた青年に目を細め、雲雀はクツクツ笑った。
「これは、君が中学二年生の春だったかな。卒業式の日に、後で読んでくれって言って」
「う、わ、わ。わー!」
「痛いよ」
 瞼を閉じた彼がうっとりと、夢見るように語り始める。だが聞かずとも、その日の記憶は綱吉にだってちゃんと残っていた。
 今更穿り返されるのも恥ずかしい限りの出来事に頬を染め、大声をあげて邪魔をする。ついでに振り翳した拳で襦袢からはみ出ていた逞しい脛を殴りつけた。
 弁慶の泣き所を攻撃されて、さしもの雲雀も黙った。
 一方、黙っていられないのは綱吉だ。
「ひっ、ひ、ひど、ひっ……」
 感極まった、というよりは羞恥に負けた顔をして、呂律も回らなくなっている。噛み締めた前歯の隙間から息を吸っては吐き出して、目尻にはうっすら涙さえ浮かべて鼻を愚図らせる。
 潤む琥珀と柔らかそうな紅色の頬が、本人の思いとは裏腹に、行灯の仄かな光を受けて酷く淫猥な色を放っていた。
「酷い?」
 聞き捨てならない台詞に眉をピクリとさせて、雲雀が声を低くした。凄みかけてくる彼に、けれど臆する事無く、綱吉は首をぶんぶん縦に振った。
「だって、そんなの。まさか全部?」
「そうだよ」
 思ってもいなかった事に素っ頓狂な声をあげれば、雲雀が即座に認めた。口を尖らせて、不満を隠そうともしない。
 対する綱吉は彼の即答ぶりに衝撃を受け、眩暈を覚えて身体を前後させた。
「嘘だ……」
 信じたくないが、雲雀が嘘を言うなど一年に一度あるか、ないかだ。
 あまりのショックに打ちひしがれて畳に横向きに突っ伏すと、雲雀が苛立たしげに口を開いた。
「君こそ、なんなの」
 よもやこんなにも嘆かれることになろうとは、思っていなかったらしい。目を吊り上げる青年を指の間から見上げ、綱吉は下唇をきつく噛んだ。
 恥ずかしすぎて、まともに顔が見られない。にじり寄る雲雀から後退して逃げて、彼は卓上にあったアルバムを掴んだ。
「だって、残してあるなんて思ってなかったんだもん!」
 行儀良く並べられた写真に写っていたもの、あれらも見覚えがあって当然だ。どれもこれも他ならぬ綱吉が、雲雀の為に贈った品々だからだ。
 明らかに安物と分かるものだって、贈った当時の綱吉が未成年だった事を思えば、仕方が無い。少ない小遣いからなんとかひねり出した、精一杯の見栄が垣間見えた。
 湯飲みは確か、お揃いで贈ったのだ。
 子供みたいに捲し立てて、綱吉は思い切り雲雀を叩いた。
 アルバムの角で攻撃されては、流石の雲雀もまともに喰らったら怪我をする。彼は仕方無く大人しく退いて距離をとり、涙目の綱吉を怪訝に見詰めた。
 なにがそんなに気に入らないのか、本気で分からないでいる顔だ。喜び、照れこそすれ、怒られるとは夢にも思っていなかったに違いない。
 第一、綱吉だって何故こんなにも腹立たしいのかが、良く分からないのだ。
 何年も前の、思い出す度に甘酸っぱい気持ちになる出来事の数々が、明確な形を持って目の前に現れて、心の置き場が見付からない。
「は、恥ずかしい」
「なにが」
「ヒバリさんが!」
 こんな風に写真にまで撮って残しておくなど、なんと女々しいのだろう。
 声を大にして怒鳴った綱吉に、雲雀は目を吊り上げた。
「じゃあ捨ててよかったっていうの」
「それもヤだ!」
 売り言葉に買い言葉で怒鳴り返すと、綱吉は大きく首を横に振った。目をカッと見開いて、唾まで飛ばされて、雲雀は濡れてしまった頬を拭って小さく舌打ちした。
 綱吉も一寸だけ冷静さが戻って来て、肩で息を整え、ドクドク言う心臓を撫でた。
 あれだけピタリと戸を閉めたはずなのに、どこからともなく冷たい風が吹き、ふたりの火照った肌を舐めるように通り過ぎて行った。
 は、と吐き出した息が白く濁って見えた。それをスクリーンにして、十年分の雲雀との思い出が走馬灯の如く駆け抜けていった。
 楽しかった記憶もあれば、哀しかったこと、辛かったこと、そして出来るなら忘れたままでいたい恥ずかしいことだってある。痛い思いだって何度もしたし、頭を撫でられてくすぐったい思いをした事も数え切れない。
 綱吉だって、雲雀から贈られたものの大半は大切に残してある。だがそれを誰かに見られるのは嫌だ。たとえ相手が、雲雀だとしても。
 そういうものは胸の奥深くの、他人に覗かれない部分に大事に隠しておきたかった。
「じゃあ、どうすればいいの」
「それは、……その」
 否、雲雀だって最初はそのつもりだったのかもしれない。
 ただ綱吉が夜更けにいなくなった彼を探し、訪ねて来てしまったが為に  
 言い澱み、綱吉は視線を泳がせた。雲雀が辛抱強く返事を待ってくれる時間は、平均で一分十秒。知り合った当初は分からなかったことも、手探りで距離を狭めるにしたがって明るみになって、それがとても嬉しくて、楽しかった。
 雲雀は、どうだったのだろう。
 急に不安になって、綱吉は畳に座り直し、握り締めていたアルバムを手放した。
「湯飲み」
 膝を滑り落ちていく分厚いファイルを見送って、ぽつり言う。
 雲雀が眉を顰めた。何のことかと怪訝にする前で、綱吉は肩を竦めて笑った。
「俺が割っちゃったんですよね」
「ああ」
 桜色の湯飲みは二個ワンセットで、並盛中学校の応接室に置かれていた。だがある日、綱吉が茶を淹れようとして、手を滑らせて片方を落として割ってしまった。
 そうしたら雲雀までもが、恐らくはわざとだろう、無事だった自分の分をも落として砕いた。
 その日は心無い彼の行動にいたく傷つき、綱吉は気丈に振舞いつつ心の中で泣いた。箒と塵取りを使って片付けながら、雲雀は本当は、こんな色の湯飲みは好きでなかったのだと心の中で恨み言を沢山言った。
 その翌日、呼ばれて訪ねて行った応接室で、綱吉は真新しい茶器を渡された。
 前のものと同じ色の、けれど柄が違うものを。ウサギと鳥が描かれた湯飲みは、雲雀が学校を去るまで応接室で大事に使用された。
「そういえばあれ、どうしたんだっけ?」
 卒業と同時に応接室を学校に明け渡したものだから、部屋にあった備品も何処へ行ったか、雲雀は知らない。
 不意に思い出して首を傾げた彼に、綱吉はムスッと頬を膨らませた。
「ヒバリさんって薄情」
「どうしてそうなるの」
「だって、忘れてるなんて、酷い」
 誰かの台詞をそっくりそのまま繰り返して揚げ足を取り、綱吉はそっぽを向いた。
 つーんと取り澄ました顔をする彼に慌てて、雲雀は短く切った黒髪を掻き回した。思い出そうと躍起になって遠い目をするが、まるで覚えにないらしく、反応は芳しくなかった。
 渋面を作る彼にふっと微笑みかけて、綱吉は両手も使って座ったまま彼に近付いた。
「じゃあ今度、それでお茶、淹れてあげます」
「残ってるの?」
「当たり前です」
 正座をして両手を膝に揃え、胸を張って断言する。
 黒い眼を瞬かせて、雲雀は一瞬息を詰まらせた。
 言葉も出ないでいる彼を盗み見て、綱吉はふふん、と鼻を鳴らした。勝ち誇った顔をして、得意げにほくそ笑む。
 だが。
「……へえ」
 感極まった声を零した雲雀が、たまらなく眩しい笑顔を浮かべるのを目の当たりにして、彼は面映さに胸を疼かせた。
 それこそ一年に一度どころか、十年に一度あるかないかの満面の笑みに、自然と頬が赤くなる。真正面から見詰めるにはあまりにも恥ずかしくて、けれど目を逸らすのは勿体無さ過ぎて、綱吉は居心地の悪さに喘ぎ、もじもじと身を捩った。
 奥歯を擂り合わせ、意味もなく腰を浮かせては沈めて裾を乱す。何気なく見た箱の中には、大量の手紙が溢れかえっていた。
 そのひとつひとつに、雲雀を好きだという過去の自分の気持ちが詰まっている。
 きちんと残しておいてくれたのは、本当は、凄く嬉しかった。
 照れ臭いし、恥ずかしいし、出来れば直視したくないけれども、雲雀が本当に自分を大切に思ってくれていたのが分かって、嫌な気になるわけがない。
 ただ、少しだけ。
 本当に、爪の先ほど、一寸だけ。
 嫉妬した。
 一緒に寝床に入ったのに、目覚めれば姿が無くて。
 探してみればこんなところで、昔の自分が贈った品に  過去の自分との記憶に思いを馳せていて。
「意外だな」
「失礼ですね。俺だって、ちゃんと残してあります」
 感嘆と共に告げられて、綱吉は下唇を突き出した。二十歳も過ぎているというのに可愛らしく拗ねた彼に目を細め、雲雀が悪戯な指を伸ばして頬を小突いてきた。
 それを鬱陶しげに払い除けて、綱吉はアルバムも、広げられた手紙もまとめて脇へ追いやった。
 ずい、と距離を詰めて、逞しい胸板に手を伸ばす。遠慮がちに衿から忍び込んだ指先に目を見開き、雲雀は苦笑した。
「足りないの?」
「だって……」
 寝入る前のやり取りを暗に揶揄して問うた彼に、綱吉は口篭もった。目はあわせず、けれど指は止めず、雲雀の肩から襦袢を滑り落とし、現れた鍛え抜かれた体躯に頬を寄せる。
 温かな温もりに包まれて、彼はうっとりと目を細めた。
「俺は、此処に居るのに」
 過去の自分ではなく、今の自分を見て欲しい。目の前にいる沢田綱吉だけを想い、触れて、愛して欲しい。
 全身全霊で訴える恋人の背に腕を回し、雲雀はうっとりと目を閉じた。照れたようにはにかんで、まるで赤子のように艶やかな絹の素肌にスッと指を這わせる。
 ひくりと喉を震わせて、綱吉が顔を上げた。
 琥珀の瞳を恋情に潤ませて、くちづけを強請るのか唇を薄く開閉させる
「ヒバリさん」
「うん」
 掠れる小声で名を呼ばれ、雲雀は幸せそうに微笑んだ。
 綱吉の手を取り、硬いだとか冷たいだとかも忘れて畳敷きの床へと引き倒す。
 蝶々に結ばれた帯をしゅるりと解いて、
「最高の、誕生日プレゼントだ」
「馬鹿!」
 からかうような言葉に慌てて裸体を隠し、綱吉は真っ赤になって怒鳴った。

2011/4/27 脱稿