MidnightBlue

「ふたりって、仲良いんだね」
 その言葉に、言われた方は揃って目を丸くした。
 ざわついていた空気が一瞬で静まり返った気がして、谷地仁花は内心びくりと震え上がった。なるべく感情が表に出ないよう心がけながら、何気なく告げた言葉に自分自身で首を捻る。
 てっきり肯定のことばが返ってくるとばかり思っていただけに、これは予想外だ。凍り付いてしまっているふたりを前にして、谷地も後から焦って冷や汗を流した。
 もしや、この質問は禁句だったのか。触れてはいけない、秘密のことばだったのか。
 禁忌を犯した以上は、決して許されない。最果ての地まで追いかけられて、この首を斧で叩ききられてしまうに違いない。
 おおよそ有り得ない想像を巡らせて青くなっていたら、質問からたっぷり十秒以上が経過して、日向が久しぶりに瞬きした。
 五組の教室は、雑多な賑わいに包まれていた。
 昼休みも後半に入り、殆どの生徒が食事を終えていた。半数以上が席を外しており、居残った人々も思い思いに時間を過ごしていた。
 そんなリラックスした雰囲気の中、谷地ひとりだけが過度の緊張が原因か、腹痛を堪えていた。
「うぅ……」
 顔を顰めて呻く彼女を先ず見て、一組の日向が半眼した。暫く考え込む素振りを見せた後、隣の椅子に座る男子を斜め下から窺い見る。
 彼らは人様の椅子をこの時間だけ拝借して、谷地の前に横並びで陣取っていた。
 片方は小柄で、片方はかなり大柄だ。人懐っこい笑みを浮かべる日向とは対照的に、三組の影山はずっと顰め面だった。
 身長差の所為で、常に睨まれている気分になる。谷地もちらりと彼を盗み見て、目が合いそうになった瞬間にぱっと顔を背けた。
 返事は未だない。こんなことなら訊くのではなかったと、彼女は取り返しのつかない過去を激しく後悔した。
 胃の痛みが一段と増して、温い汗が背中を伝った。食べたばかりの弁当が腹の中で大暴れしていて、そのうち食道を逆流してきそうだった。
 教室で嘔吐する未来の自分を想像し、そこから始まる最低な高校生活に泣きそうになる。臭い、汚いと散々罵られて皆から嫌われて、そのうち便所で水をかけられて――と、どこかにあった漫画のようなシーンを繰り広げていたら。
 長く沈黙を保っていた日向が、徐に口を開いた。
「そう?」
 あの溜めの時間はなんだったのか。そう言いたくなる呆気ない返答に、谷地は唖然となった。
 しかし彼は気にする様子もなく、手にしたシャープペンシルを回転させた。指の上で器用に操り、隣にも顔を向けて何故か渋い顔をする。
「え、……?」
「別におれ、影山と仲良くないけど。な?」
「ああ」
 惚けていたら続けて言われた。同意を求められた影山も首肯し、椅子の上で居住まいを正した。
 彼の背では小さいらしい椅子を少し引き、座りを浅くして脚は左右に大きく開く。窮屈だったのを我慢していたと分かる行動に、自分が悪いわけでもないのに、谷地は恐怖を覚えて背筋を伸ばした。
 青白い顔で畏まった彼女に笑いかけて、日向は書いている途中だった英文を、急ぎ最後まで完成させた。
 汚い字がノートの一部を埋めた。前にアドバイスした、後から書き込む為の空白はちゃんと作られていた。
 自分の助言が役に立ったのが嬉しくて、つい顔が綻ぶ。身を乗り出して綴り間違いを指摘してやりながら、谷地は先ほどの返答に眉目を顰めた。
「でも、日向と、えっと。影山君って。いつも一緒にいるよね?」
「そんなことないよー」
 今度は瞬時に返答が来た。しかも、またしても否定された。
 あっけらかんと笑って言われて、谷地は自分の思い違いなのかと難しい顔をした。
 急に険しい表情になった彼女に、影山も視線を浮かせた。忙しく動かしていた手を休め、日向の言葉を肯定すべく首を縦に振る。
 けれど谷地の知る限り、彼らは大体いつも一緒に行動していた。
 日向は一組で、影山は三組に在籍している。所属する部だけが共通しており、男子バレーボール部で活躍中だ。
 外見からしてまるで違う彼らに、共通点は少ない。片方はお喋りで、もう片方は度を越えて寡黙。喜怒哀楽が激しい日向に対し、影山は感情の起伏が少なく、何を考えているのかさっぱり読めなかった。
 もし小学校や中学校から一緒だったというのなら、或いは納得出来たかもしれない。けれど聞いた話、それもないという。
 息の合ったコンビネーションは、部活動以外でも健在だ。だというのに、彼らはそれを認めようとしない。
 日向も影山も否定したが、谷地の目には、どうしてもふたりは仲が良いようにしか見えなかった。
「そう、……かな?」
 だから珍しく食い下がってしまった。
 呵々と笑った日向に向かって問い、影山には視線を送るだけに済ませる。気付いた彼が怪訝に目を眇めるが、谷地は露骨な動きでそれを避けた。
 自分からあれこれ喋ってくれる日向ならまだしも、影山はまだ苦手だった。なにせ、顔が怖い。一対一で勉強を教えるなど、とても出来そうになかった。
 悪い人でないのは知っているのに、とっつきにくさが災いして、上手く距離感が測れない。間に日向が入って、ようやく落ち着けるレベルだった。
 恐る恐るの質問に、日向は意味が分からないのか、瞳を真ん中に寄せた。
「えー? だって、おれらって、家、全然違うトコだし」
「ああ」
「クラスも違うもんな?」
「だな」
 さっきから日向ばかりが喋り、影山は短い相槌を打つだけだ。しかし一応、会話は成立している。ふたりも、このやり取りになんら疑問を抱いていないようだった。
 それこそ、仲の良い証拠だというのに。男と女では感性がかなり異なっていると聞くが、これがそうなのかと、谷地は緩慢に頷いた。
「そうなんだ。あれ、でも、それじゃ、家にいる時と、授業中以外は一緒ってこと?」
 その途中でふと気になる点を見つけ、揚げ足取りの台詞を呟く。半分自問自答だった疑問をぶつけられて、日向はきょとんとなった。
 これは流石に、即答で否定しなかった。彼は右隣に陣取るチームメイトを仰ぎ見て、渋い顔で呻き声を上げた。
 表情を見るに、本人は否定したいのだけれど、事実を突きつけられると上手く説明できなくて悩んでいる、といったところか。そうしているうちに両手で頭を抱え込まれて、そこまで苦悶するのかと谷地は笑った。
 とはいえ、彼女も上手く言葉を選べない。こういう時は何と言ってやるべきなのかで迷っていたら、それまで無言に近かった影山が溜息混じりに呟いた。
「便所は一緒じゃねえだろ」
「あ、そう! それ!」
 ボソッと紡がれた低音に、日向が即座に飛びついた。手を叩き合せて甲高い声をあげ、椅子の上でぴょん、と飛び跳ねもする。
 彼にとって、それは素晴らしい発見だったようだ。まるで宝箱を見つけたかのようにはしゃいで、顔を綻ばせる。しかし向かいに座る谷地は、引き攣った笑顔を浮かべるのがやっとだった。
「え、えー……?」
 そこを数に入れて良いのだろうか。論点が若干脇にズレた気がするのだが、男子高校生二名はまるでお構いなしだった。
 女子が割り込む隙を与えず、彼らは顔を見合わせると、それまでずっと抱えていた疑問に眉を顰めた。
「つーかさ、女子ってなんで、みんなでトイレ行くの?」
 代表して日向が呟き、影山も腕組みしたままうんうん頷く。急に話を振られて谷地は面くらい、上手く答えられずに右往左往した。
「え。えっ。え?」
「それにさ、休憩時間のたんびにいってない? おれも、試合の前とかなるとすんげー便所行きたくなるけど。谷地さんもトイレ近いの?」
「てか、テメーは腹下し過ぎだ。試合の日は胃薬飲んでから来い」
「ぶっぶー。最近は下痢ったりしてませーん」
「あの、え。ちょっと待って」
 放っておいたら、どんどん話が横道に逸れていく。このままだと本筋に戻れなくなってしまいそうで、谷地はどこで制止するか迷って声を上擦らせた。
 蚊の鳴くような小声は、教室の喧騒や喧しい男子の声に掻き消されて響かない。おろおろしている彼女も知らず、日向と影山は好き勝手なことを言い合って、話題をぽんぽん入れ替えた。
 谷地に質問していたなど、日向はもう覚えていないらしかった。
 ただかなり失礼なことを聞かれたので、それは別に構わない。これ幸いとホッとしつつ、彼女はすっかり置き去りにされた気分で青くなった。
 目の間にいるのに、彼らの視界に入っている自信がない。完璧に、蚊帳の外だった。
「嘘つけ。この前の練習試合、出発前にトイレ駆け込んでたくせに」
「だっ、あ……なんで知って!」
「気付かねーわけねえだろ。テメーが来ないせいで、バスの出発が遅れたんじゃねえか」
「うがっ。だ、だって、武田先生、何も言わなかったし……」
「つーか、お前、帰る時に俺に寄っかかんの、やめろ。ジャージに涎垂らすんじゃねえ」
「えー、ンなことしてねーし。それを言うならお前だろー。おれの髪の毛、べったべたにしやがって」
「俺じゃねえ」
「んなわけあるかー。おれの隣に座んの、お前しかいねえのに」
 いつも一緒に居るのを否定していたはずが、トイレの話を経て、気付けば出発地点に戻っていた。しかも自分で反論したはずの内容を、自ら肯定してしまっている。
 聞いているだけで疲れてきて、谷地は乾いた笑みを浮かべて肩を落とした。
「仲良しさんだよねえ?」
 どこをどう見ても、そうとしか思えない。だというのに、耳聡く音を拾った日向が瞬時にぐぃん、と首を回し、彼女に向かって身を乗り出した。
「ちがうって!」
 椅子から勢い良く立ち上がり、両手は机に叩きつけて叫ぶ。ノートに転がっていたシャープペンシルが数ミリ浮き上がって、物音にも驚いた谷地は悲鳴を上げた。
 きゃっ、と竦みあがった彼女を見て、影山が深い溜息をついた。日向も行動してからやり過ぎたと反省し、しおらしく項垂れて席に戻った。
 椅子に座り直した彼を、影山が咎めるかのように小突いた。着席とほぼ同時に伸びて来た腕に、日向は拗ねた様子で頬を膨らませた。
 こめかみの辺りを指の背で触れて、最後は飴色の髪を擽って離れていく。長い指には躊躇といったものがなくて、仕草はとても自然だった。
「……ごめん」
「うっ、ううん。大丈夫」
 横からの催促もあって、日向は驚かせたのを詫びて頭を下げた。谷地も慌てて首を振り、気にしないでくれるように頼んだ。
 振り回した両手を胸に添えれば、小さな膨らみの下で心臓が跳ねていた。
 いつもより音が大きく、動きも速い。その最たる原因は日向の大声だが、それ以外の要素も過分に含まれていた。
 勝手に赤みを増す頬と熱を持て余し、谷地はまた騒いでいるふたりをちらちらと盗み見た。
 影山の手の動きからは、慣れが感じられた。
 それを受け止める日向も、格別嫌がる様子が見られなかった。
 これを見せられて、どうして両者の関係が悪いと言い切れるだろう。とても信じがたく、むしろ普通の友人関係よりも余程親しいように見えた。
 ただのチームメイトとは思えない。今のやり取りは、中学時代にクラスに居た、ラブラブのバカップルに通じるものがあった。
「仲、悪いんだ……?」
 人の目などお構いなしに、教室でイチャつく男女を思い出してしまった。
 あのふたりは、そういえばどうなっただろう。ふと考えて、彼女は目の前の男子二名に視線を戻した。
 ようやく同意を得られたと、日向は気色ばんで鼻息を荒くした。
「そっ。そーなの。聞いてよ、谷地さん。影山ってばひどいんだから」
「テメーが俺のから揚げ盗るからだろ」
「玉子焼き。楽しみにしてたのに!」
「お前ん家の、甘すぎだろ」
「だったら毎回食おうとすんな」
「……あれ?」
 息巻く日向を制し、影山が淡々と言い返す。再び横道に逸れた会話の端々からは、なにかにつけて行動を共にする彼らが垣間見えた。
 本気で酷いと思うなら、二度と一緒に弁当を食べなければ良い。だのにそうする考えは、日向にはこれっぽっちもないようだった。
 影山も影山で、何故人の弁当を抓んでしまうのか、分かっていないようだった。
 当人らは仲の悪さを主張したいのに、語れば語るほど、逆の結果になっていく。もう相槌を打つのさえ面倒くさくなって、谷地は頬を引き攣らせた。
 熱々カップルと相席させられた気分だ。ハートが飛び交う幻も見えて、彼女はタイミング良く鳴り始めたチャイムに、これ幸いと心の中で涙を流した。
「っと、ヤベ。影山、戻んぞ」
「おぅ」
「谷地さん、ありがと。また放課後ね!」
「じゃあな」
「うん。またね」
 ふたりも熱の篭った会話を中断し、慌しく立ち上がった。広げていたノートを閉じて素早く片付け、椅子を元の場所に押し込んだ。
 日向に手を振られ、影山にも素っ気無かったが別れの挨拶をされた。谷地も右手を顔の横に掲げ、蝶のように左右に躍らせた。
 足音五月蝿く出て行く背中は、敷居を跨ぐ直前、いきなり低くなった。
 転びかけた日向を寸前で抱きとめて、影山は何事もなかったかのように彼を解放した。庇われた少年は吃驚した、と目を丸くして、助けてくれた相手ににこやかに笑いかけた。
 それにまんざらでもない顔をして、影山が先に教室を出て行った。日向も一歩半遅れて続き、入れ替わりに五組の生徒が中に入ってきた。
 最後まで騒々しかった彼らに、谷地は今頃、はーっと深い息を吐いた。
「大変そうだねー。ここんとこ毎日じゃない?」
 椅子の上で脱力していたら、クラスメイトが話しかけてきた。あまり会話したことがない相手をぼんやり眺め、彼女は姿勢を正し、苦笑した。
「世の中にはいろんな人がいるなー、って思うよ」
「……うん?」
 これまで知らなかった世界を目の当たりにしてしまった。そう嘯いて顔を扇いだ彼女に、意味が分からなかった女生徒は不思議そうに目を丸くした。

2013/09/15 脱稿