僻戻

 午前十時を知らせる鐘が、厳かに響き渡った。
 この音色を奏でる教会へ行くには、車で急いでも三十分はゆうにかかる。だというのにこの荘厳なる音色は、そう時を経ることなく山の上に聳える古めかしい城に届けられた。
 曲がりくねった山道を思い出すと、それだけで吐き気がした。思わず口元に手をやって、綱吉は若干色を悪くした唇を前歯で軽く噛んだ。
 喉の手前まで迫り上がっていた嘔吐感を唾と一緒に飲み干してやり過ごし、首を振って額の汗を拭う。彼の不穏な気配を察知したのか、ソファで居眠りしていた小さな獣が顔を上げた。
 黄金色の鬣に、ボンゴレの紋章が入ったサンバイザー。その下で揺れる眼は、まだ少し眠そうだった。
「ガウ?」
 短い前脚を持ち上げて顔を擦り、肉球をぺろりと舐めた天空ライオンことナッツに笑みを浮かべ、綱吉はなんでもない、と首を横に振った。
「寝てて良いよ、ナッツ」
「ガウ、ウ、ガウゥ~」
 穏やかに告げれば、子猫ほどの大きさしかないライオンは嬉しそうに吼え、四肢を伸ばしてソファに顔を伏した。
 そうこうしないうちに静かな寝息が聞こえ始めて、あまりの寝付きの良さに、綱吉は肩を竦めた。
「誰に似たのかな……」
 自分だとは思いたくないのだけれど、とひとり呟いて、彼は物音を立てぬよう、そっと椅子を引いて立ち上がった。
 麓の村の教会を思い浮かべながら、窓辺へと歩み寄る。サッとカーテンを引けば、目映いばかりの光が視界を白く染めあげた。
 咄嗟に瞼を閉ざし、顔を背けて眩しさをやり過ごす。そのままゆっくり十まで数えてそろりと目を開けば、フランス窓の格子の影が、額から頬にかかる一帯を横切っていた。
 少しは目が慣れたものの、視界はまだ微妙にぼやけている。額に手を翳して陽光を遮った彼は、ゆるりと首を右に巡らせて、ベランダの先に続く森の小道に視線を向けた。
 濃い緑に覆われた大地に、細い筋が一本走っていた。ともすれば景色に埋もれてしまって、簡単に見失ってしまえる。先に教えられていなければ、あれがこの城に続く唯一の山道だと気付けなかったかもしれない。
 彼の立っている場所から見える範囲で、砂埃が巻き上がっている箇所は見当たらなかった。
 こんもりとした深緑の森は、山の形状に合わせて緩やかに傾斜していた。遠くの平地を横断する街道ははっきりと見えるのに、城に近い道はなんとも見え辛い。
「まだ、か」
 動くものは遙か彼方を走る鉄道と、村を行き交う車くらい。
 カーテンの端を掴み、綱吉は溜息と同時に呟いた。
 肩を落とし、真っ白い布を左に引く。日光が遮断されて、無駄に広い室内は一気に暗くなった。
「ガッ、ガウ、ゥ……」
「ナッツ?」
「ガウ……」
 不意に後ろから変な声が聞こえて、俯いていた彼はハッと顔を上げた。
 急いで振り返り、背筋を伸ばしてソファを窺う。だが特に不審なところはなく、匣兵器の子ライオンも、涎を垂らして気持ちよさそうに眠っていた。
 あまりにもだらしない姿に絶句して、綱吉は蜂蜜色の髪の毛をくしゃりと握り潰した。
「なんだ。寝言か」
 見目幼い獣がどんな夢を見ているのかまでは分からないが、表情からして楽しい夢なのだろう。微笑んでいるようにも見えるナッツに相好を崩し、綱吉は気持ちを切り替えようと両手で頬を叩いた。
 乾いた音をひとつ立てて、握り拳を胸に押し当てる。
「ちょっと遅れてるだけかもしれないし。そうだよ、いつもの事じゃんか」
 あの人が時間通りにやって来た試しなんて、一度もないではないか。
 かれこれ十年近いつきあいのある人物を脳裏に描き出し、綱吉は自分に向かってうんうん、と何度も頷いた。
 気もそぞろに待ち侘びていると知れたら、何を言われるか分かったものではない。ここはひとつ深呼吸でもして落ち着いて、冷静さを取り戻そうではないか。
 己に言い聞かせ、広げた手を心臓の上に添える。口から深く吸った息を一旦止めて、長い時間を掛けて鼻から吐き出す。格子模様が浮き上がるカーテンの前で仁王立ちするその姿は、一寸どころではなく、かなり異様だった。
 だがそれを指摘してやる人は、生憎とこの場には存在しなかった。
 トントン、とまだ気ぜわしくしている心臓を宥めるように叩いて、綱吉は温い唾を飲み、半端なところで停止していた椅子を前に押し出した。
 横に広い机の真ん中にはノートパソコンが一台置かれ、その両脇には書類作成の資料と思しき紙の束が無造作に積み上げられていた。風で飛んでいかないように、どちらにもペーパーウェイトが乗せられている。ふたつとも硝子製で、右は小鳥、左は兎を模していた。
 僅かに青みがかった硝子細工は、パソコンから漏れる光を受けて、やや鈍い、不自然な輝きを放っていた。
 彼はそのうち、小鳥のペーパーウェイトの頭を指で弾いた。
「ちぇ」
 机のほぼ正面にある壁に据えられた柱時計は、先ほど教会が知らせてくれた時間の、その五分後を指し示していた。
 椅子を机の下に押し込み、ノートパソコンを閉じる。もれなくモニターの明かりも消えて、硝子の置物も大人しくなった。
 気のせいか、部屋全体も妙に重苦しく、暗い。
 いきなり夜が来た気分になって、綱吉はこめかみに指を添えた。
「遅刻だ、遅刻。俺が遅れたら怒るくせに」
 本当ならとっくに到着していなければならない人物に愚痴を零し、文句を言って、やりかけの仕事を放り出して歩き出す。トントンと眉間を叩きながら部屋を横断した彼は、壁に行き着いてターンを決めて、再び辿り着いた窓辺でカーテンをばっ、と左右に引き裂いた。
 容赦なく瞳を焼く日射しを全身に浴びて、霞んでしまった視界で懸命に目を凝らす。だが緑の森も、その間を走る細い道も、相変わらず沈黙してこれといった変化は無かった。
「ガウ、ウゥゥ」
「あ、ごめん。起こしちゃったな」
 ぼんやりと外を眺めていた綱吉の背後で、呻くような低い声がした。唸っているナッツに顔を向けて、綱吉はカーテンをそのままに、応接セットへと歩み寄った。
 眠そうに目元を擦っている子ライオンを抱え上げ、ふっくらとして温かい鬣をそっと撫でてやる。手触りが心地よいのか、それとも人肌の体温が嬉しいのか、ナッツはごろごろと喉を鳴らし、綱吉の胸に顔を擦りつけた。
 だが、どうやら間に挟まったネクタイが気に入らないらしい。金属製のタイピンを、短い爪で引っ掻かれた。
「ああ、こら」
 カリカリという硬い音に下を向いて、綱吉は慌ててナッツを自分から引き剥がした。
「ガウ!」
「いたっ」
 途端に幼い獣はじたばた暴れ出して、嫌がって身を捩った。首根っこを掴んでいる綱吉の手首まで引っ掻いて、小さな痛みに彼が怯んだ隙に自由を取り戻す。
 子猫の巧みさで難なく床に着地した獣は、綱吉が咎める声をあげるより先に、一目散に駆け出した。
 廊下に通じる扉は閉ざされており、ナッツの短い脚ではドアノブにも届かない。ジャンプしても頭から壁に激突するのが関の山であるのに、お構いなしに出口目指して猛進していく。
 何をやっているのかと肩を竦めて、綱吉は掻かれて赤くなった手を撫でた。
「っ!」
 刹那。
 頭の奥の、本当に奥の方で何か奇妙な音がした。
 ハッとして目を見開き、ナッツが駆け寄ろうとしている扉を見る。瞬きさえ忘れて凝視する彼を知らず、幼き獣は高らかに、心持ち嬉しそうに、元気よく吼えた。
「ガウッ!」
 ぴょん、と跳び上がって、全身で喜びを表現する。
 綱吉は瞠目し、顔を引き攣らせた。
 それまで沈黙を保っていたドアノブが右に回り、内側へと押し出された。
 鍵など最初から掛かっていない。ノックは、聞こえなかった。
「ん?」
 ドアの隙間から、陽光とはまた違う光が差し込む。鼓膜を震わせる微かな声に、綱吉は呆然として立ち尽くした。
 村から城に至る道を走る車の影は、見えなかった。
 それなのに、どうして。
「やあ。少し遅れ……  どうしたの?」
 朗々と響く、低い声。耳に心地よく、聞いているだけで心が騒ぎ、そして穏やかにもなる不思議な声。
 十年前と変わっていないようで、ほんの少し荒々しさが削ぎ落とされた緩やかなリズムに目を丸くして、綱吉は首を傾げている青年に見入った。
 黒い髪は短く切り揃えられて、以前は隠れがちだった額までもが露わになっていた。
 眇められた双眸は闇よりもなお深い黒。濃紺とも思える黒いスーツに、シャツは淡い藤色。ネクタイはそれよりももっと濃い、紫。
 アクセントとして肩に黄色いボール、と思いかけて、綱吉は思考を中断させた。
「いいえ、別に」
 素っ気なく言ってふいっと顔を背け、右足を大きく前に蹴り出す。
 そっぽを向かれてしまって、主の許可無く部屋に入ってきた青年  雲雀恭弥は怪訝に眉を顰めた。
「ふぅん?」
 相槌をひとつ打ち、肩に乗せていた小鳥には首を傾げてみせる。嘴が横に長い、ずんぐりとした体型の小鳥は、つぶらな目をぱちぱちさせてピィ、と鳴いた。
 おもむろに翼を広げ、風を起こして宙に舞い上がる。
「ガウ、ガウウッ」
「やあ、ナッツ」
 雲雀の肩を飛び立った小鳥を目で追い、ナッツがライオンとしての本能を擽られて吼えた。今にも飛びかかっていきそうな小さな百獣の王に笑みを浮かべ、雲雀は後ろ手に扉を閉めて膝を折った。
 屈んで、喉の奥で唸り声をあげている子ライオンの頭をそっと撫でる。
「……ガウ」
「良い子だね、ありがとう」
 最初は警戒していた小動物も、優しく触れられているうちに顔を綻ばせた。ふにゃりと気の抜けた笑みを浮かべ、ごろごろと喉を鳴らして自ら擦り寄っていく。
 雲雀はそれが嬉しいようで、滅多に人前では披露しない満面の笑顔を浮かべ、全長二十センチ程度しかないナッツを軽々と抱き上げた。
 左腕を胸の前で横に倒し、その隙間に抱え込んで歩き出す。揺らさないように極力注意しているのが、鈍い足取りからも十分感じられた。
「む、う」
 仲睦まじい青年と獣の姿を視界の真ん中に置いて、綱吉はむすっと頬を膨らませた。
 ぱさぱさと風を叩く音がした。顔を上げれば黄色い羽を広げた小鳥が、天井すれすれのところを旋回していた。
 シャンデリアにぶつからないか心配になったが、心得ているようで器用にすり抜けていく。そうして背の高い柱時計の天辺に着地して、いきなり懐かしい歌を歌い始めた。
「ミ~ドリタナ~ビク~」
「うはあ」
 綱吉達が昔、通っていた中学校の校歌だ。
 若干音が外れているものの、リズム感は良い。聞いているうちに自然とメロディーが頭の中に蘇って、綱吉はつい口遊みそうになった。
 三音目でハッと我に返り、赤く染まった頬ごと口元を覆い隠して歩き出す。
 雲雀は早速ソファに腰を下ろし、ナッツを膝に乗せて寛いでいた。
「青汁と、白湯と、パイナップルジュースと。どれが良いですか」
「なに怒ってるの?」
 部屋の奥に設置された、一見そうとは分からない小型の冷蔵庫に向かいつつ、綱吉が問い掛ける。なんとも荒々しい足取りに雲雀は怪訝に聞き返したが、返事は無かった。
 黒い塊にも見える保冷庫のドアを開けた彼は、中に入っている品を一通り眺め、結局何も取り出さずに閉じた。
 そのまま無言でポットの湯の残量を確かめて、ガラス戸の棚に収納していた小ぶりのカップをふたつ、取り出す。
 食器をカチャカチャ言わせ始めた背中をしばらくぼんやり眺め、雲雀はナッツを下ろして右を上に脚を組んだ。
「ガウッ」
 だがナッツは彼の膝が思いの外気に入ったようで、ソファの上で嫌々と首を振り、太股に前脚を伸ばした。
 短い爪でスラックスの上から引っ掻かれて、雲雀は困ったように眉を顰め、飼い主の青年を窺い見た。綱吉は慣れた手つきで豆を専用の機械にセットし、圧力を掛けてコーヒーを抽出しようとしていた。
 まだ当分、時間が掛かりそうだ。
 綱吉は日本に居た頃からリボーンに散々鍛えられており、エスプレッソマシンの扱い方だけは巧かった。彼が淹れてくれるコーヒーは苦いが、コクがあり、香りが良い。
 洗浄が面倒だからとなかなか味わえないのが、惜しい話だ。
「怒ってたんじゃないのか」
 先ほどとても不機嫌そうに見えたのは、目の錯覚だったのだろうか。彼が手ずからエスプレッソを淹れてくれるなど、十回に一度あるか、無いかの頻度だ。
 機嫌を損ねていたら、どれだけ頼んでも絶対に断られる。
 不思議な気分で様子を眺め、雲雀はじゃれついてくるナッツの頭を無造作に撫でた。
「おっと」
 そのうちにふと思い出した事があって、彼はポケットをまさぐった。綱吉も何かを気取ったのか、肩越しに振り返った。
 ちりりん、と小さな鈴が鳴った。
「ほら」
「ガウ? ガッ、ガウ、ガウウウ!」
 取り出したものを人差し指と親指で摘み、揺らす。彼の動きに合わせ、ピンポン球よりも少し大きいくらいのボールが右に、左に移動した。
 鈴の音は、そのボールから響いていた。
 即座に興味を示したナッツが、目をキラキラ輝かせた。短い脚を懸命に伸ばし、捕まえようとソファの上で飛び跳ねる。
 雲雀は愛らしい小動物に相好を崩すと、ボールをぽいっと投げ放った。
 絨毯が敷き詰められているので、あまり弾まない。深い毛足に絡めとられて、そう遠くない場所に埋もれてしまった。
「ガウゥー!」
 ぴょん、とソファから飛び降りて、ナッツは一直線に転がったボール目掛けて突進していった。鼻からぶつかって、跳ね上がったそれの行方を追ってまたジャンプする。
 彼が動くたびに、ちりん、ちりりん、と軽やかな鈴の音が部屋に鳴り響いた。
「ふふ」
 思った通りの動きをするナッツを見下ろして、雲雀は上機嫌に微笑んだ。
 そこに、ふっと影が落ちた。
「どうぞ!」
 瞬きひとつで視線の向きを入れ替えた途端、彼の前に鎮座するテーブルに、どん、とデミタスカップが叩き付けられた。
 中の液体が激しく波打ち、一部が縁を越えて零れてしまった。真っ白い陶器製の食器に垂れた黒い筋に顔を顰め、雲雀は湯気の先で目を吊り上げている青年に小首を傾げた。
「どうしたの」
「どうもしません」
 訊けば、吐き捨てるように言い返されてしまった。
 向かい側のソファに腰を下ろした綱吉は、自分のカップを口元にやって、荒れ狂う水面にそっと息を吹きかけた。表面温度を下げて、静かに口をつける。
 雲雀は濡れた縁を指で擦り、彼に倣って淹れたてのエスプレッソを喉に流し込んだ。
 深い香りが口の中いっぱいに広がって、それだけで幸せな気分になれた。
 見れば綱吉も、温かな飲み物にホッとした顔をしていた。両手で小さなカップを大事に支え持ち、はふはふ言いながらまだ熱い液体で渇きを癒していく。
 暫くじっと見詰めていたら、視線に気付いた綱吉が気まずげに目を逸らした。
「バイクだったんですか?」
「うん」
 あらぬ方向を見たまま、彼が訊ねる。雲雀は間髪入れずに頷いて、どことなく綱吉の匂いが混じるコーヒーを口に含んだ。
 その苦みも、微かな甘みも全部まとめて飲み込んで、唇をちろりと舐める。
 顔を上げると、綱吉が慌てて居住まいを正すところだった。人の顔を盗み見ていたのだと判断して、雲雀は声を殺して笑った。
「な、なんですか」
「ううん、別に」
 バイクは車よりずっと小さいので、遠目からでは見え辛い。緑の木々が生い茂る森も、二輪が巻き起こす砂煙を簡単に隠してしまう。
 日射しが眩しいというのに開けっ放しのカーテンを一瞥して、雲雀はこみ上げる笑みを隠してカップを傾けた。
 元々一杯の量が少ないので、あっという間に飲み干してしまった。底に残った滓が描く奇妙な紋様に目を細め、雲雀は唇の跡を指でなぞった。
 いつしか綱吉の視線は、床でボールにじゃれつく子猫、もといナッツに向けられていた。
 中に入った鈴が鳴るのがそんなに楽しいのか、さっきから突っついたり、噛み付いたり、上に乗ったりと、実に忙しない。
 ちっともジッとしていない小さな獣は、幼かった頃の綱吉を彷彿とさせた。
 古い記憶を掘り返していたら、何を思ったか、その綱吉がぷっくり紅色の頬を膨らませた。
「ふんっ」
 いきなり鼻息荒くそっぽを向かれて、雲雀は面食らい、ややして肩を竦めて苦笑した。
「どうしたの、今日は」
「別に。ヒバリさんが遅れただとか、そんなこと、ぜんっぜん、気にしてませんから」
 カップをテーブルに戻しながら訊けば、明らかに根に持っていると分かる台詞を告げられた。目一杯力が入っている彼を呵々と笑い、雲雀は柱時計に顔をやった。
 呼ばれたと思った黄色い鳥が、羽を広げて優雅に宙に舞い上がった。
「途中の店で、それを見つけてね」
 十時きっかりの約束だったのが、十分ばかり遅れてしまった。その理由を手短に語り聞かせてやった途端、綱吉の右の眉がピクリと跳ね上がった。
 引き結ばれた唇が、いよいよ不機嫌に歪んだ。
 鮮やかに色付いた頬を風船のように膨らませて、愚痴を言いたいのを必死に我慢している。睨み付ける琥珀の瞳はまるで迫力が無くて、そのうち泣き出すのではないかという懸念を抱かせた。
 本人も同じように感じたのだろう。
「ご馳走様でした!」
 唐突に怒鳴り、綱吉は立ち上がった。空になった自分のカップだけを持ち、部屋を出て行こうとする。
 脇をすり抜けようとした華奢な腕を、雲雀は難なく捕まえた。
 脚を解き、立ち上がる。ナッツが転がしたボールが、ちりり、と可愛らしい音を立てた。
「わっ」
 驚くほど素早い動きを披露した雲雀が、行き過ぎようとした綱吉の身体を引き寄せた。斜め後ろから、まるで壊れ物を扱うかのように大事に、丁寧に抱き締める。
 弾みで綱吉の指先から白いカップが転げ落ちた。弾みもせず、割れもせずに絨毯の上で横倒しになったその傍らを、ナッツがボールと共に駆け抜けていった。
 着地場所を失った黄色い小鳥が、仕方無くテーブルの、雲雀が使っていたカップで羽を畳んだ。
「なに、そんなに怒ってる?」
「お、怒ってなんか、いません」
 耳元で囁かれ、浴びせられた熱風に竦んだ綱吉が声を上擦らせた。首どころか身体全部を揺すって雲雀の手を振り解こうとするけれど、掴む力が思いの外強く、叶わない。
 骨が軋む音が聞こえて、彼は観念したのか抵抗を弱め、下唇を噛んで嗚咽を漏らした。
「嘘。怒ってる」
「怒ってませんってば」
 繰り返されて、綱吉は鼻を啜った。ムキになって言い返し、奥歯をギリギリ噛み締めて涙を堪える。
 自分でも、自分の感情がよく分からなかった。
 久方ぶりに訪ねて来てくれたのが嬉しいのに、それを正直に言葉に出せない。構って貰えないのが寂しいのに、それを素直に伝えられない。
 彼は自分なんかより、見目愛らしい小動物の方が何倍も好きなのだ。
 そんな事を考えて腹を立てて、同時に深く傷ついた。
「沢田綱吉」
 耳に心地よい低音が、ゆっくりと凍てついた綱吉の心に染み渡って行く。まるで寒い日に照る太陽だ。悴んだ指先さえも溶かして、錆び付いていた感情を穏やかにしてくれる。
 空っぽになった手を握って、彼はゆるりと首を振った。
「……馬鹿」
「怒ってる?」
「怒ってません」
 ぼそりと言えば、もう何回訊かれたか分からない質問をまた投げられた。
 膨れ面のまま言い返し、振り返る。左手首を掴んでいる、彼の左手に右手を重ねる。
 冴え冴えとした黒水晶の瞳の中に、ほんのりと甘い色を見出して、綱吉は知れず頬を染めた。
「怒ってない?」
「だから」
「なら、笑ってよ」
 ソファの影に隠れて、ナッツがボールとじゃれついている。楽しそうな笑い声が聞こえて来て、綱吉はそちらにちょっと気を取られてから肩を竦めた。
 照れ臭そうに目を細め、強張っていた頬を緩める。
 陽光にも負けない眩しい笑顔を見詰め、雲雀は彼の頬をゆっくりと撫でた。
「君にも、お土産」
 囁いて、油断している唇にちゅ、とくちづける。
 目の前を黒い影が横切って、一瞬何が起きたか分からなかった綱吉は目を点にした。
 呆気に取られて口をぱくぱくさせて、直ぐに我に返って温かな感触を微かに残す唇を手で覆い隠す。雲雀は呵々と笑い、自分自身を指差した。
「要らない?」
 小さな獣は遊びに夢中で、ふたりの会話が耳に入っている様子もない。
 小首を傾げた雲雀をねめつけて、綱吉は空気をいっぱい含んだ頬を、子リスのように膨らませた。
 

2011/1/28 脱稿