Rosemary

 チチチ、と鳥が囀っていた。
 緑が鮮やかな芝が大地を覆い、木陰には休憩用のベンチが置かれていた。女人像の掲げる水瓶から噴水へ水が注がれ、強い日差しにささやかな涼を提供していた。
 風の音が合間を駆け抜け、笑い声がこだまする。羽根を広げた小鳥が一斉に羽ばたいて、高い空へと消えていった。
 直後だった。
「あぶなーい!」
 甲高い少年の声が、黒秤塔一帯に轟いた。
 続けてざばあっ、と巨大な波が押し寄せてきたような水音が砕け、七色の虹が太陽の中に現れた。散る水滴はまるで水晶の欠片で、居合わせた人々は光が爆ぜる類稀な光景に目を見張り、あまりの美しさに息を飲んだ。
 もっとも騒ぎの中心部にいて、地上にありながら溺れる憂き目に遭った人物にとって、それは災難以外のなにものでもなかったが。
「うげえ……」
 突然の出来事に、アリババ自身も何が起こったの分からない。だが気付けば全身ずぶ濡れで、下着までぐしょぐしょなのだけは肌で体感できた。
 指を垂らせば、そこからも水が滴り落ちる。ぐっしょり濡れた髪の毛もそのままに立ち尽くしていたら、古びた杖を手にした少年が息せき切らして走ってきた。
「アリババ君、ごめんよ。大丈夫かい?」
 頭にターバンを巻き、長い髪を編んで背中に垂らした幼子が、今にも泣きそうな顔をして駆けながら捲し立てた。心底申し訳なく感じているのか、蒼色の瞳はうっすら涙で濁り、小ぶりの鼻はぴくぴく震えていた。
 杖を握る手を頻りに上下させる彼に、アリババはようやく呼吸を再開させて湿った前髪を梳き上げた。
「いや、まあ……」
 大丈夫かと訊かれたが、あまり大丈夫ではない。しかし正直に言えばアラジンが責任を感じるのは明白で、答えを渋っていたら、真横から別の声が発せられた。
「あの……これはいったい、どういうことでしょう」
「白龍お兄さんも、ごめんよ」
 そこには現在のアリババとほぼ同じ状況に陥っている人物が、もうひとり。高い位置で黒髪を結んだ若者が、飛沫を散らして事情の説明を求めた。
 まさか彼も居るとは思っていなかったのだろう、運が悪いとしか言い表しようがないふたりに首を竦め、アラジンは両手で杖を握り直した。
 素足の踵を擦り合わせ、言い難いのかもじもじと身を揺らす。いつまで経っても口を開かない彼に呆れて、アリババは深く長い息を吐いた。
「まぁた、俺で実験か」
 額に張り付く前髪を後ろへ流し、指先の湿り気を払って呟く。途端にアラジンは頬を引き攣らせ、摺り足で後退を開始した。
「ちゃ、ちゃんと手加減はしたんだよ」
 ヤムライハに教わった魔法を自分なりに工夫して、新しい術式を作り出そうとしていたのだが、巧くいかなかった。水を扱うのはなかなか難しいと早口に弁解する間も、彼の後退は止まらなかった。
 徐々に、されど着実に開いていく距離にこめかみを引き攣らせ、アリババは湿気て皺が出来ている右手を握り締めた。
「だからって、俺で遊んでんじゃねー!」
「ごめんよぉぉぉぉ!」
 そして力いっぱい怒鳴りつければ、アラジンはぴょん、と飛び跳ねて脱兎の如く駆け出した。
 繰り返し謝罪をされても、ずぶ濡れ状態は回復しない。ぜいぜいと肩で息を整えながら拳を解いて、アリババは横で惚けている白龍に首を振った。
「悪い。巻き込んだな」
「いえ。今のは不可抗力ですし」
 アラジンは目下、水魔法の特訓中だった。以前迷宮で使ったような魔法を、もっと自在に扱えるようになろうと頑張っている。
 だがまだ上手にコントロール出来ないようで、水の塊を作ったのはいいものの、それを霧状にして、均等に拡散させるところがスムーズに出来ずにいた。
 そうしているうちに空中に生み出した水の塊はどんどん大きくなっていき、蒸発が追い付かなくなってしまう。このままだと御しきれなくなる為、仕方がないので空中で破裂させて処分するのだが、問題なのが、その破裂場所だった。
 噴水の上でやれば周囲に水が飛び散り、近くで涼んでいた人に迷惑をかけてしまう。ここはシンドリア王国の王城の中なので、建物にぶちまけて大事な書簡を濡らすわけにもいかなかった。
 出来るだけ被害を少なく、且つ安全に水球を処理するには、結局目標を見定めてそこで破裂させるしかなかった。
 その標的に頻繁に選ばれているのが、アラジンの戦友たるアリババだ。
 旧知の間柄にある彼ならば、滅多なことをしても本気で怒ることはない。そんな狡い考えもあって、アリババはここ数日、アラジンの傍を通る度に予期せぬ水浴びをさせられていた。
 最初の数回は、まだ良かった。暑い最中だったので一気に涼しくなって、悪い気はしなかった。
 けれどそうやって許してやっているうちに、アラジンは調子に乗り始めた。特に今回は白龍まで巻き込んでしまったので、そろそろ本気で叱った方が良いだろう。
 逃げ足の速い友人に嘆息して、アリババは足元に出来ていた水溜りから脱出した。
 裾を結んだ上着から雫が散って、重くなった布の塊が足首にぶつかった。思いの外痛かった一撃に眉を顰め、彼は濡れ鼠のまま立ち尽くしている白龍に苦笑した。
「どっかで乾かさないとなー」
「そうですね……」
 本当は着替えたいところだが、連日の水浴び攻撃で予備の服も全て洗濯中だ。だから今着ているものを脱いで干す以外、ほかに術はなかった。
 幸い、天候は良い。雲は少なく風も湿っていないので、雨が降る心配はなさそうだ。
 同意した白龍ににこりと微笑み、アリババはならば、と虹が消えた方角を指差した。
「んじゃさ、いい場所あるんだ。いこうぜ」
「え? 緑射塔に戻るのでは」
 シンドリア王国は熱帯の島国だけあって露出の高い服装を好む人が多いが、流石に城内の、人目につく場所で裸になるわけにはいかない。だが屋内で干したら、乾くのに時間が掛かる。だから屋外で、しかも人が殆ど来ないポイントがあると誘えば、てっきり着替えに部屋へ行くものと思い込んでいた白龍が声を高くした。
 食客である彼らに与えられている部屋は、アリババが示した位置とは反対にある。目を丸くしての指摘に嗚呼、と頷いて、彼は説明が足りなかったと舌を出した。
「俺さ、もう着替え、ないから。でも白龍なら、そっちのがいいな」
「アリババ殿」
 両手をぱっと広げて苦笑して、早々に歩き出す。慌てて後を追い、白龍が水滴を散らした。
 ついてきた彼を振り返って、アリババは小首を傾げた。
「別に、俺に付き合わなくてもいいんだけど」
「いえ。お話の途中でしたし」
「相変わらず真面目だな、お前」
 濡れたものを交換するのでなく、アリババと同じように脱いで乾かすつもりらしい。付き合いが良いのか、融通が利かないだけなのか微妙だと苦笑して、彼は歩調を緩めて足並みを揃えた。
 芝の上から白く磨かれた敷石の上に移動して、足跡を薄く残しながら少し行く。更に二つほど中庭を抜けて辿り着いたのは、緑に覆われた小さな空間だった。
 中心部に井戸があるが、使われていないのか蓋がされていた。円形に繋がれた木の板は風雨に晒され続けた影響で黒ずみ、触れれば真ん中で折れてしまいそうだった。
 周囲は背の高い木々が多く、木漏れ日がまぶしかった。直射日光の影響は緩和されていたが、濡れた服をこの井戸の上に並べておけば、小一時間としないうちに水分は蒸発してなくなるだろう。
 通ってきた道を振り返れば、まるで緑のトンネルだ。こんなところがあるとは知らなくて、白龍は物珍しげに左右を見回した。
「へえ……」
「前に、アラジンと探検した時に見つけたんだ」
 感嘆の息を漏らした彼に、アリババが得意げに胸を張った。だがそういうのはあまり褒められた行為ではなくて、白龍はノーコメントだと首を振った。
 年齢だけで言えばアリババの方が上なのに、彼のやる事は時折とても幼稚だ。偶に年下を相手にしている気分になると嘯いた白龍に、アリババは面白くないと口を尖らせた。
「別に、いいけどー?」
 年少者に馬鹿にされるのは、アラジンで慣れている。拗ねてなどいないと頬を膨らませて言い返して、彼はおもむろに、羽織っていた白い上着を脱ぎ払った。
 首に巻いた赤い紐を弾ませ、袖のない藍色のチュニック姿になる。いきなり日に焼けない白い肌が現れて、飛んできた雫にも驚いた白龍が目を丸くした。
 アリババは絞れそうな上着を上下に揺らすと、裾が地面に擦らないように井戸の蓋に被せた。続けて丈の短いチュニックにも手を伸ばし、湿って色が変わっている布を引っ張り上げて首から引き抜いた。
「あ、アリババ殿」
「んー?」
 何の迷いもなく、躊躇もなしに一気に脱ぎ捨てる。右手に掴んだ着衣を盛大に振り回した彼に、白龍は唖然としたまま唇を開閉させた。
 アリババの肌はこの南洋の島国にあっても、陶器のような白さを奇跡的に維持していた。
 金紗の髪を持ち、瞳も艶やかな琥珀色だ。白龍が生まれ育った地域では滅多に見る機会もなかった肌色は、まるで精巧に作られた人形のようだった。
 けれどアリババは血の通う確かな人間であり、笑いもすれば怒りもする。今は顔の赤い白龍を不思議そうに見詰めて、宝石よりも眩しい目を細めていた。
「お前も脱げば?」
 上半身裸になった彼と違い、白龍はまだ濡れ鼠のままだった。至極当たり前のように訊かれて、ようやく状況が理解出来た煌帝国第四皇子は途端に竦みあがった。
 なんとなく離れがたくて一緒に来てしまったが、そもそも此処へ来た目的は何だったか。今頃になってアリババの言葉を正しく理解して、彼は背筋を震わせた。
 チュニックを広げて上着の隣に並べたアリババは、続けて腰に巻いた帯を解きにかかった。二本重なり合う緋色をまとめて外そうとして、濡れている所為で巧くいかないのか焦れったそうに舌打ちする。
 騒然となって全身を毛羽立てた白龍は、ハッと我に返って急ぎ両手を伸ばした。
「アリババ殿、待ってください」
 よもや彼は、下も全部脱ぐつもりなのか。
 想像して背筋を粟立て、白龍は必死になってアリババを止めた。いきなり横から掴みかかってこられて、覆い被さった影に驚いた彼は目を見開いて小鼻を膨らませた。
「なんだよ、白龍」
「なにって、それは俺の台詞です。まさかこんな場所で、全裸になるおつもりですか」
「だけど?」
「…………」
 上擦った声で捲し立てるが、アリババは怒鳴られている理由が分からないようで、きょとんとしていた。平然と言い返されて絶句して、白龍は恥じらいのない彼に頭を抱え込んだ。
 育つ環境が異なると、こうも価値観が違ってくるものなのか。アリババは旧バルバッド王国の第三王子という立場なのに、人前で素肌を曝け出すことをなんら恥と思っていないようだった。
 痛むこめかみを指で押さえ、白龍は長々と溜息をついて戸惑うアリババに首を振った。
「せめて、……下穿きはそのままで、お願いします」
「お、おう?」
 がっくり頭を垂れている彼が何を考えているのか、当のアリババはさっぱり分からなかった。
 懇願されて首を捻りつつ頷き、改めて帯を解く。調べて分かった事だが、内側の帯はあまり濡れていなかった。彼は数秒悩み、泥を被っているズボンの裾を抓んで引っ張った。
「んー」
 更にもう数秒間眉間に皺を寄せて、アリババは上に巻いていた帯だけを井戸の蓋へ放り投げた。残った方は腰に巻き直して、汚れているズボンはそのままにする。
 赤色が黒ずんだ板のほぼ真ん中を横切って、空間が二分された。アリババが着ていた服はその右側に集中しており、どうやら空いている部分が、白龍のために残されたスペースらしかった。
「いいんですか」
「ン、いいさ。どうせ洗えないしな」
 自分から頼んだくせに、了承されて白龍は戸惑った。屈託無く笑うアリババを怪訝に見詰めていたら、金紗を揺らした少年がズボンの染みを指差した。
 汚れた物を脱いで、乾かして、また着るのは一寸嫌だった。どうせなら洗ってからにしたいと喉を鳴らして、アリババはどこかホッとした様子の友人に目を細めた。
 上半身は裸で、首に緋色の紐を垂らした少年が淡く微笑む。その眼差しは何かを訴えかけているようで、たっぷり五秒近く見つめ合った末に、白龍はハッと息を飲んだ。
 お前は良いのかと、声ならぬ声で訊ねられた。幾分マシになってはいるものの、まだ過分に湿っている己の着衣に手を遣って、彼は曖昧な微笑を浮かべて肩を竦めた。
「えっと」
 着替えなど、信頼を置く部下の前でしかしたことがなかった。
 裸身を晒すのは、無防備になるのと同義だ。いつ命を狙われてもおかしくない状況で、武器や防具を手放すなどあってはならないことだった。
 けれどここは、帝国ではない。母も、義父も、黒い組織の者もこの島の中にはいない。
 それは安心して良いことなのだと、今頃になって気づく。瞬きして前に向き直れば、アリババが無邪気にはにかんだ。
「気持ち悪くねえの?」
「いえ、そんなことは。……失礼します」
 重ねて問われて、白龍は首を横に振った。目を瞑り、長年積み重ねた緊張で凝ってしまった心をゆっくり紐解いていく。傷つかぬよう、壊れぬよう細心の注意を払って、彼は静かに息を吐いた。
 ぺこりと頭を下げて、まずは黒髪をまとめている髪留めに手を伸ばした。手探りで止め具を外して引き抜くと、伸ばした髪が一斉に下を向いて流れていった。
「うおぉ」
 略式の冠でもある髪飾りを揃えて置き、続けて腰帯を掛かる。遠くからアリババの、何に驚いたかは分からないが感嘆詞が聞こえてきたが、敢えて無視した。
 身に着けるときは人の手が必要なものも、脱ぐ時は楽だ。手馴れた動きで解いた帯をまとめ上げて、彼は胸元から腰一帯を覆う胴衣を引き剥がした。
「ふぅ」
「へえ。こんな風になってたんだ」
 締め付けが緩んで、心まで自由になった気分だった。思わず深呼吸をしていたら、目を閉じている間に近付いたアリババがぬっ、と身を乗り出してきた。
 興味津々な眼で覗き込まれて、白龍は咄嗟に脱いだばかりの胴衣を抱きしめた。
「うあっ」
「白龍」
 そのまま仰け反って逃げた彼が、段差に躓いて転びそうになった。反射的に片足を退いて持ち堪えたが、目の前で激しく揺れ動いた彼に驚き、アリババは若干申し訳なさそうに頬を掻いた。
 けれど双眸は好奇心旺盛に輝き、胴衣の下から現れた肩衣や帆前掛に釘付けだった。
 これらは煌帝国では一般的なものだが、アリババが育った地域や、シンドリアではあまり見かけないものだった。だから珍しいのだろう、興奮気味に見詰められて、白龍は眼差しから逃げるように顔を逸らした。
 それが不服だったらしく、アリババは途端に口を尖らせた。
「なあ、これってどうなってんだ?」
「引っ張らないでください」
 相手をしてもらえないのに拗ねて、手を伸ばしてくる。衿を掴まれた白龍は咄嗟に払いのけようとして、相手がアリババなのを思い出して奥歯を噛んだ。
 乱暴にするわけにもいかず、仕方なく手首を掴んで押し返すだけに留める。ぐっと力を込めて握り締めていたら、痛かったのか、アリババの顔が歪んだ。
「……すみません」
 それを見て、白龍はそっと指を解いた。反対の手で細い肩をトン、と押せば、陶磁器よりも白い肌の少年は素直に応じて身を引いた。
 指の跡はうっすら赤く染まり、痣の一歩手前になっていた。骨が軋む痛みを堪えて唇を噛む彼をそっと窺って、白龍は柔肌に刻まれた痕を瞼に焼き付けた。
 閉ざした咥内で舌を繰り、口蓋を舐める。呑み込んだ唾は妙に苦く、ざらりとした後味悪いものだった。
「大丈夫ですか」
「ああ、うん。俺も急に、悪かったな」
「いいえ。それより、興味があるのでしたら、今度、アリババ殿のために一着誂えましょうか」
 突然掴みかかられたら、誰だって怒るに決まっている。白龍の場合は少々過剰反応だったが深く考えず、アリババも自分が悪かったと謝罪した。
 俯いて落ち込む彼に目を眇め、乱れた衿を直した白龍が緩く首を振る。沈んでしまった空気を持ち上げるべく話題を変えてみれば、食いついたアリババが顔を綻ばせた。
「いいよ。それに、俺が着たら似合わねーって」
「試してみなければ分かりませんよ」
 癖のない髪を背中に垂らし、ぶっきらぼうに言った彼に囁く。だが実際のところ、似合うかどうかは未知数だった。
 身動きしやすい軽装を主とするアリババには、あれこれと装飾が多い帝国の伝統衣装は重かろう。特に女性は、何枚も重ね着する。だから走るのだって一苦労だ。
「……ン?」
 そこまで想像を巡らせたところで、白龍はおかしなことになっていると自分に目を丸くした。
「白龍?」
 唖然としていたらアリババと目が合って、その彼の姿に紅玉の首から下が重なった。白い肌に朱や紅の衣装が良く映えて、意外に違和感がないのにも驚いて頭から煙が出た。
 ぼふん、と真っ赤になって爆発した彼に眉を顰め、アリババが右手を左右に振った。人差し指を立てて、何本に見えるか訊かれても答えられなかった。
「すみません。大丈夫です」
「そうか? ならいいけど」
 熱でも出たのかと心配になったが、本人がそう言うのだから信じるしかない。アラジンの水魔法で風邪を引いたかと危惧したアリババは、出しかけた手を引っ込めて緩く握り締めた。
 そしてそのまま、脇へ引っ込めるかと思いきや。
「うわっ」
 唐突に後ろ衿を引っ張られ、白龍は転びそうになってたたらを踏んだ。両手を振り回して暴れ、肩からずり落ちた胴着を咄嗟に握り締める。
 踏ん張りを利かせて持ちこたえた彼に、悪戯を仕掛けた少年はつまらないと小鼻を膨らませた。
 膨れ面を見せ付けられて、戸惑いが隠せない。何を拗ねるところがあるのかと目で訴えれば、同じような険しい眼差しが真正面から突き返された。
「アリババ殿……?」
「つーか。俺だけハダカって。不公平だろ」
 けれど視線が交錯した途端に彼はそっぽを向き、言い辛そうにぼそぼそと小声で捲し立てた。
 吐き捨てられた言葉に一瞬目を見張り、白龍はすぐさま驚きを内に隠して苦笑した。
「確かに、アリババ殿は些か貧相ですしね」
「お前に言われたかねえ!」
 歳の割に線が細く、色白さが華奢さを際立たせている。着飾らせればスレンダーな女性でも通用しそうな体格を揶揄してやれば、気にしていたのか、アリババは激昂して声を荒らげた。
 怒鳴ると同時に腕を伸ばし、鼻息を荒くして再度白龍に掴みかかる。衿を取られて、投げ飛ばされるかと警戒して身構えた矢先。
 予想に反し、白い腕はばっと左右に開かれた。
「え」
「あ」
 受身を取るべく準備していた白龍の前で、肌蹴た胸元を目の当たりにしたアリババが絶句した。
 人の胴着を鷲掴みにして、現れたやや浅黒い肌にかあっと顔を赤くする。一応羞恥心はあると分かる反応に、白龍は肩を竦めて目を細めた。
 飾り襟ごと肩衣を掴んでいる手に手を重ね、上から軽く押してやる。アリババは今度も抗わず、沈んでいく腕と一緒に顔を伏した。
「……ごめん」
「いえ」
 同時に放たれた沈痛な声に、白龍は優しく微笑んだ。
 幼い頃から己に厳しくあり、鍛錬に鍛練を重ねた体躯はアリババ以上に引き締まっていた。節制を心がけて無駄な肉は持たず、細身ながらも柄の長い偃月刀を自在に操るだけの筋力を蓄えて、今現在も精進を欠かさない。
 だがアリババが真っ先に目を奪われたのは、そこではなかった。
 顔を見れば分かるように、白龍はその昔、大火に襲われていた。顔の傷も、左右で色の異なる瞳も、その時の火傷が原因だった。
「ごめん。ほんと、俺」
 少し考えれば分かることなのに、デリカシーのない真似をした。己に猛省を強いて項垂れたアリババに困った顔をして、白龍は身内の前でも滅多に晒さぬ素肌を隠した。
 胴着の下にあったのは、火傷の名残だ。胸元から左上腕部に向かって薄い痣が広がっており、無事な部分との境界線は痛々しい限りだった。
 とはいえ、傷自体はもう癒えている。偶に引き攣るような痛みを発することはあるけれど、それ以外で生活に支障を来たすことはなかった。
 毎日目にしているものだから、白龍自身は傷跡についてあまり思いつめたりはしていない。これが女性だったら話は別だろうが、無理をして消そうと考えたこともなかった。
 本人が気に病んでいないのだから、アリババが落ち込む必要などどこにもない。それなのに、この心優しき若者は自分の犯した過ちを深く悔い、こみ上げる感情を押し殺して奥歯を噛み締めていた。
 堰を越えて溢れ出しそうな思いを必死に食い止めて、細い肩を小刻みに震わせている。事情を一切知らない上で、いや、知らないからこそ人の口の端にも上らない出来事に思いを馳せ、自分まで傷ついている。
 馬鹿な人だと、少し前までなら鼻で笑い飛ばしていた。
 けれど、今は。
「大丈夫ですよ、アリババ殿」
「けど……」
「もう治っています。痛みもありません。むしろ俺の方が、驚かせてしまってすみませんでした」
「そんな風に言うなよ」
 沈痛な面持ちの彼に囁き、顔を上げさせる。琥珀色の瞳が僅かに潤んでいるのを確認して、白龍は拗ねた友人に頬を緩めた。
 アリババの身体は、綺麗だった。
 勿論シャルルカンとの鍛練で出来た傷跡や、シンドリアに至るまでの冒険の数々で負った手傷が皆無なわけではない。けれど人目を引くほど大きなものや、癒えた後も色が変わったままの場所はひとつもなかった。
 しかし何よりも綺麗なのは、その心だ。
 この国にやって来て暫くした頃、彼と会って話をした。故国が失われる原因となった敵国の皇子たる自分を指して、憎くはないのかと正面切って訊ねた。
 彼の答えは明確だった。ことばは真っ直ぐで澱みなく、森の奥深くに眠る泉の如く、清らかに澄んでいた。
 彼ならきっと、傷つけられたとしても傷つけた相手を恨まない。憎しみの連鎖を容易く断ち切って、血を流す傷ごと相手を抱きしめてしまうのだろう。
 だとしたら。
 彼ならば、この身に植えつけられた憎悪の種も受け止めてくれるかもしれない。二度と手に入らぬと諦めていた、居心地が良くて温かい場所を。
 心の底から休まれる場を。
 アリババならば――
「白龍?」
「えっ」
 不意に名前を呼ばれ、ハッと息を飲む。瞬きをして意識を浮上させれば、アリババが不思議そうな顔をして覗き込んでいた。
 急に押し黙ったのを怪訝に思い、心配してくれたようだ。純粋で濁りのない眼差しに汗を流し、白龍は我に返ると首筋に張り付く髪をわざとらしく払いのけた。
 今し方自分が考えていた内容がすぐに思い出せなくて焦り、思い出してからもちりちりと焦げ付く熱に苦い唾を飲む。口元を押さえ込んで乱れた鼓動を整えていたら、地面に浅い穴を掘ったアリババが上目遣いに様子を窺ってきた。
 物言いたげな視線を読み取り、白龍は簡単に整えただけの衿を抓んだ。
「良いですよ」
「えっ」
「触ってみたいんでしょう?」
「……ぐ」
 憶測を巡らせて問い、躊躇無く胸元を広げる。火傷跡を光の下に曝け出した彼に、アリババは図星だったのか、顎を引いて背中を丸めた。
 脇に垂らした両手を握り締めて、金紗の髪の少年は音に聞こえるくらいに歯軋りした。
「べつに、俺は」
「そうですか。それは失礼しました。俺には、触りたそうに見えたもので」
 くぐもった声で反論した彼に苦笑し、白龍は淡々と切り返した。身なりを整えるべく生乾きの衿を合わせ、半眼して前方を盗み見る。
 子供っぽい好奇心を刺激された少年は引っ切り無しに口をパクパクさせて、長い葛藤の末に小鼻を膨らませた。
 荒い呼気を感じ取り、白龍は破顔一笑した。途中まで整えた胴衣を惜しげもなく乱し、素早く袖から引き抜いて上半身を露わにする。それまでの嫌がり具合が嘘のような潔い脱ぎっぷりに、流石のアリババも驚いたか目を丸くした。
 ぽかんとしている彼を鼻で笑って、白龍は湿った胴衣類を井戸の蓋へと放り投げた。さっと抜けていく風に裸身を晒して開放感に頬を緩め、誰に見られても恥ずかしくない体躯に堂々と胸を張る。
 勝ったと言わんばかりの態度に唖然となり、アリババはまだ肉が抓めてしまう脇腹を無意識に撫でた。
「はっ」
 行動してから気がついて、慌てて前を見れば白龍が笑っていた。目を細めて口角を歪め、なんとも人を馬鹿にした表情を浮かべていた彼に赤くなり、アリババは誤魔化しに息巻いて腕を振った。
「そ……そこまで言うなら、触ってやる」
 分かりやすい照れ隠しを宣言して、右手を広げる。勢いつけて振りかざした利き腕は、しかし目標に触れる直前でブレーキを踏み、急激に減速した。
 ぺちりと軽い音をひとつ残し、微熱を抱く肌に掌が重ねられた。
「あ、……」
 叩かれるのを覚悟していた白龍よりも、触れたアリババの方が驚いて声を零した。真ん丸い目を見開いて、緋色の唇を痙攣させて人差し指を左右に揺らめかせる。
 微細だが、段差があった。火傷を負ったと思われる場所が、ほかに比べるとほんの僅かに隆起している。だがそこ以外は感触も同じで、一寸ばかり色を持っている他に違いは見つけられなかった。
 物珍しさに負けて逸った彼は、命を脅かす大火傷からここまで回復するのに要した時間を想い、『大丈夫』と言えるようになった白龍の強さに騒然となった。
 顔を上げる。白龍は左に小首を傾げ、目で感想を問うてきた。
 視線を外し、アリババは再度鍛えられた体躯を見た。ひたすら苛め抜かれた逞しい身体を眺め、知れず上気する頬に騒然となる。
 火傷跡に触れるのに夢中ですっかり忘れていた。
 そっと右手を横にずらしていけば、年下とは到底思えない男の肉体が現れた。
 指先から鼓動が伝わってくる。指紋に引っかかる湿り気はアラジンの魔法の余波か、それとも白龍が流した汗か。
「……ぅ、あ」
 意識した途端に体温が急上昇を開始して、アリババは呻くように口を開閉させた。全身からどっと汗が噴き出して、顔面も火がついたように赤く、甘く染まっていく。
「アリババ殿」
「うわあぁあハイ!」
 突然真っ赤になった彼に首を捻り、白龍が名を紡いだ。一緒に吹きかけられた呼気にも背筋を粟立てて、アリババは大袈裟な反応で声を上擦らせた。
 手を引っ込めようとしたら、寸前で手首を拘束された。逃げようとしたら残る手を腰に回され、引き寄せられた。
 心臓の音が五月蝿い。肌が重なり合う場所が熱い。汗が止まらず、足が震えた。
「ひとつ、言い忘れていたことがあります」
 吐息が鼻先を掠めた。視線を逸らすのも許されぬ距離で覗き込まれ、アリババは四肢を強張らせた。
 唾を飲む音が聞こえた。緊張してがちがちになっている彼を笑って、白龍は綺麗で、綺麗過ぎて壊してしまいたくなる人の胸に手を添えた。
 傷つけぬようにすっとなぞっただけで、白い肌が過剰に震えたのが分かる。鼓動が爆発しそうなくらいに速まっているのを確かめて、煌帝国の皇子は無邪気に、悪戯っぽく微笑んだ。
「俺の国には、肉親と配偶者以外には肌を晒してはいけないという決まりがあるんです」
「――はい?」
 突発的に思いついた嘘をさらっと並べ立てれば、初耳だった少年は案の定素っ頓狂な声を上げた。嫌な予感を覚えたアリババは、汗でぐっしょり背中を湿らせ、凍りついた笑顔で白龍を仰ぎ見た。
 怯え、萎縮している彼はとても面白い。だからもっと虐めたくなってしまって、白龍は調子に乗ってにこやかに付け加えた。
「責任、取ってくださいね?」
 直後に響いた甲高い悲鳴は、場所柄誰の耳にも届くことなく、快晴の空へと消えていった。

2013/08/25 脱稿