Gomphocarpus physocarpusV

 週末のショッピングモールは、大勢の人で賑わっていた。
「こんなところが出来てたのか……」
 市街地に近い場所にありながら、規模は郊外型のそれと比べても遜色ない。駐車場も広く、店の種類は多岐に及んでいた。
 正面入ったところのホールは三階までの抜き抜けで、開放感は抜群だった。高い天井からは色とりどりの垂れ幕がぶら下がり、店内で開催中のフェアなどを宣伝していた。
 それらをぽかんと眺めていたシンドバッドの言葉に、即座にジャーファルが突っかかった。
「オープンして、もう三年は経ってますよ。いったい貴方の頭の中は、何年前で停止しているんですか」
「仕方ないだろー。誰かさんが毎日、毎日、やれ論文だの、資料だのを提出しろって五月蝿かったからさー」
「それは自業自得でしょう」
 この大型商業施設が開業した時、テレビや雑誌はこぞって取材に走り、特集を組んでいた。だというのにこの男はこんな目立つ建物が出来ていること自体、知らずにいた。お陰で買い物に行くならここがいい、というアリババの説明にも最初ぽかんとしており、話が噛みあわなくてなかなかに大変だった。
 中にある店舗は食料品をメインにしたスーパーを中心に、衣料品や生活雑貨と、軒を構える店舗は数え切れなかった。他にも歯科や眼科にマッサージ店まで揃っており、この建物自体が小さな街と言っても過言ではなかった。
 物見遊山気分できょろきょろしているシンドバッドに肩を竦め、ジャーファルはずり落ちそうになった眼鏡を軽く押し上げた。そしてふと視線を感じ、斜め後ろに立っている少年を振り返った。
「……アリババ君?」
 怪訝に名前を呼べば、男ふたりの後方に佇んでいたアリババがハッとした様子で目を見開いた。
「あ、いえ。なんでもありません」
 気づかれたと知るや慌てた様子で首を振り、否定の文言を口走って恥ずかしそうに頬を掻く。仄かに朱を帯びた肌色に小首を傾げ、ジャーファルはふらふらとどこかへ行ってしまいそうな男に嘆息した。
「シン。迷子になっても知りませんよ」
「ンなわけあるかぁ!」
 もうじき三十路に突入する男の背中に向かって言い放てば、彼は即座に振り返って怒鳴り返した。大声は高い天井に浪々と響き、突然のことに驚いた数人が何事かと辺りを見回した。
 突き刺さる複数の視線に、シンドバッドはばつが悪い顔で小さくした打ちした。
「ったく。だいたい、どうしてお前がここにいるんだ。俺は誘ってないし、言ってもないぞ」
 いきなり失礼なことを言い捨てた男に悪態をつき、腕を組んで背筋を伸ばす。元々背が高い彼は胸を張ることで余計に大きく見えて、その立ち姿の優美さに複数の女性が足を止めた。
 腰まである紫紺の髪は首の後ろでひと括りにし、長めの前髪は中央で左右に分けて額を一部晒している。日頃穏やかな目つきも今は鋭く尖っており、迫力のある顔立ちはその辺の安いモデルよりずっと男前だった。
 頭の天辺で跳ねたひと房を感情に任せて左右に揺らす彼に、不満をぶつけられたジャーファルは人を馬鹿にしたような態度ではっ、と息を吐いた。
 以前、シンドバッドの家を訪ねてきた時の彼はスーツ姿だったが、今日はネクタイを締めず、淡いピンクのシャツにグレーのカーディガンを合わせていた。足元は麻のスニーカーで、全体的に大人しめだが、左手首に巻かれた太めの腕時計が男臭さのバランスを取るのに一役買っていた。
 一方のシンドバッドは年齢を感じさせない派手な髑髏柄のTシャツを羽織り、細身のジーンズで足の長さを強調していた。首にはこれまた派手な色合いのネックレスをぶら下げて、手首に巻くのも時計ではなく、宝石がちりばめられたブレスレットだった。
 おおよそ学術系の職業に就いている人間とは思えない出で立ちだ。どちらかといえばギターを担いで音楽活動に勤しんでいる男のようで、この場で学長などと遭遇しようものなら、卒倒されること間違いなかった。
 そんな、一見すると共通点があるように思えない大人ふたりに挟まれて、アリババはまた始まった口論に深く肩を落とした。
 ちなみに彼の今日の服装はといえば、いかにも良いところの高校生、という感じだった。
 ベージュのズボンは裾を二重に折り返してチェック柄の裏地を見せ、ローカットのスニーカーを会わせている。靴下は縁だけが覗いており、薄水色のタンクトップに七分袖のシャツを羽織って、前のボタンは全て外していた。
 細めのベルトを腰に締め、銀色のチェーンを垂らしてアクセントにしている。後ろのポケットが膨らんでいるのは、そこに携帯電話が入っているからだ。
 頭が飛び出しかけているそれを上から押さえつけ、彼は人目も気にせず言い合いを始めた二名にゆるく首を振った。
「確かに誘われてはいません。しかし生活能力皆無の貴方に、アリババ君のアシストが務まるとはとても思えませんでしたので」
「まるでお前が生活能力豊かだと言いたげだな」
「少なくとも、シン、貴方よりは」
 シンドバッドは家で洗濯機を回すのが面倒だからと、スーツのみならずワイシャツまでクリーニングに出すような男だった。片付けが手間だから料理はせず、食器も碌に揃えていない。掃除は数ヶ月に一度のハウスクリーニング任せで、私室の床には整理されない書籍や資料が山積み状態だ。
 足の踏み場もない惨状を思い返し、アリババは話を聞いてお節介を買って出たジャーファルに苦笑した。
「俺が頼んだんです。シンドバッドさんひとりじゃ持ちきれないと思ったし」
 今日の買い物は、当初アリババとシンドバッドのふたりだけの予定だった。しかし昨晩、ジャーファルから携帯電話に着信があって、結果、このような事態になっていた。
 アリババは現在、諸般の事情によりシンドバッドのマンションで暮らしていた。だが男やもめの彼の邸宅は、おおよそ人が快適に生活出来る空間ではなかった。
 部屋数は多いのに、実際に使用されている場所は限られていた。キッチンにある調理器具は電子レンジくらいで、調味料の類も塩くらいしかなかった。炊飯器どころかフライパンすらなく、小ぶりのフルーツナイフはあってもまな板は見当たらなかった。
 風呂場の排水溝には抜けた髪が絡まっていて、浴槽は長く洗っていないのかぬるっと滑っていた。壁にはカビが生えており、折角の広い浴室もリラックス出来る雰囲気ではなかった。
 急な事態というのもあり、最初の数日は我慢した。しかし日が経つにつれて、胸に押し留めておくのは難しくなっていった。
 そして昨晩、アリババは思い切ってシンドバッドに進言した。この家には色々なものが足りていない、と。
 一人暮らしから、期間限定とはいえ二人暮しになったシンドバッドも、アリババが徐々にストレスを溜め込んでいるのは感じていたらしい。ならば必要なものを買いに行こうと、翌日が土曜日というのもあって、話はとんとん拍子に進んだ。
 ただしこの段階で、ジャーファルが同行するとは、シンドバッドは夢にも思っていなかった。
「だからって、アリババ君。よりにもよって、どうしてコイツなんだ」
「ほんと、何からなにまで失礼ですね、貴方は」
 頼るならばもっとほかに良い人材がいるのではないか。そう早口に訴えたシンドバッドに割り込んで、眼鏡姿の青年は苛立たしげに吐き捨てた。
 このままでは、いつまで経っても買い物を始められない。なかなか終わる気配の見えない口喧嘩に肩を落とし、アリババはどうしたものかと天を仰いだ。
「……ン?」
 高い位置にある照明を反射して、三階のフロアで何かが光った。眩しい輝きに眉を顰め、彼は心惹きつけられた何かを探して目を凝らした。
 だが残念なことに、瞬きで焦点を定めているうちに、光を放ったものは失われてしまった。次に目を向けた時にはもうそこにはなにもなく、ただ転落防止の柵が静かに佇んでいるだけだった。
 人が居た気がしたが、錯覚かもしれない。判然としなくて首を捻り、アリババは状況を思い出してこめかみに指を置いた。
 大人気ない論争は、ものの十秒の間に一段と悪化していた。
「だいたい、ジャーファル。貴様、アリババ君となにをこっそり電話番号交換してるんだ。俺はそんなこと、一度も許してないぞ」
「貴方に許可を求める必要なんて、どこにもないでしょう。過保護が過ぎます」
「ふざけるな。俺は、先生にアリババ君を頼まれてるんだ。それなのにお前、俺の知らないところで、アリババ君に何をしようとしてたんだ」
「プライバシーの侵害も甚だしいですよ、シン。第一、逐一貴方に報告する義務など、私にも、アリババ君にもありません」
「口答えするな!」
「お断りします」
 ここが公共の場だというのも忘れて、いい年をした大人が喧々囂々の騒ぎを引き起こしていた。そろそろ見かねた警備員が呼び止めに来る頃合いで、アリババは頬を引き攣らせると、他人のフリをするかしないか逡巡した。
 父の急な入院により、アリババは自宅にひとりになってしまった。それを見かねた大人の配慮によって、彼はラシッドの教え子であるシンドバッドの家で暫く厄介になることが決まった。
 パンクロッカー風の外見をしているが、シンドバッドはこれで一人前の学者だった。シンドリア大学で考古学の教鞭をとっており、他にも子供向けの冒険小説の作者、という一面があった。
 一方、ジャーファルはシンドバッドが勤める大学に通う大学院生で、経済学を専攻していた。
 本来なら自分の研究に没頭すべき立場であるのだが、自分の好きなこと以外はとにかくダメな男、シンドバッドと知り合いになったのが運の尽き。もれなく関係ない学会準備やらなにやらに巻き込まれ、現在に至っていた。
 アリババは古くからシンドバッドと知り合いだが、此処最近は交流の機会に乏しかった。ラシッドを訪ねてきて、父と酒を酌み交わしつつ論議を重ねる姿は知っていても、大学でどんな風に学生と接しているのかについては、まだ高校生のアリババは知るよしも無かった。
 今日はその辺の話を、ジャーファルに聞きたいと思っていた。シンドバッドも倍近く年齢が離れた子供とふたりきりより、気心の知れた友人が一緒の方が緊張しないと考えたのだが――
「仲悪いのかな……」
 初対面の時の騒動を振り返り、アリババは自分の思い違いかと眉を顰めた。
 年齢差や立場の違いを無視した遠慮の無い間柄だから、私生活ではさぞや親しくしていると予想したのに、違っていた。大学での仕事から離れたところでも火花を散らしあっているふたりに嘆息を重ね、アリババは携帯電話を引き抜き、現在時刻を確かめた。
 ジャーファルと待ち合わせた時間から、既に十分近くが過ぎ去っていた。ここまではシンドバッドの車で来たのだが、帰りの道が混むのを考えると、余裕はあまり残されていなかった。
 二つ折りの携帯電話を閉じ、眉間に皺を寄せる。数秒思案して腹をくくって、アリババは長く留めていた足を前に繰り出した。
「シンドバッドさんも、ジャーファルさんも。置いていきますよー?」
 ひとりで買い物、という案もあったのだが、念の為に声をかける。歩きながら呼びかければ、取っ組み合いの喧嘩一歩手前だった男たちが揃って背筋を伸ばした。
 慌てた様子で左右を見回した後、いつの間にか移動していたアリババに驚いて駆け出す。口論は中断され、遠巻きに見守っていた人たちもホッと胸を撫で下ろした。
 小走りについてきているふたりを確認して、アリババもやっと本来の目的が果たせると安堵した。
「アリババ君の頼みだから、今回だけは特別に許してやる」
「それはどうも。アリババ君、まずはどこから行きますか?」
 もっとも、当人らは依然目に見えぬ火花を散らし、鞘当てを継続させていた。
 上から目線のシンドバッドをあっさり受け流し、ジャーファルがこの隙に、と少年の隣に進み出る。手は近くの案内板に伸びて、大量に用意されている店内ガイドブックを引き抜いた。
 蛇腹折りのそれをさっと広げた彼に、アリババは誘われるままに身を乗り出した。
「えっと、そうですね。食料品は最後にするとして」
「重いものや大きな物も後回しにしましょうか。そういえばアリババ君が今寝起きしているあの部屋、カーテンが無かったですよね?」
「うぐ」
 紙面の上半分はフロアの地図になっており、下半分に店の名前と扱っている主な品物が紹介されていた。一階のメインは入り口に近い方が被服で、奥側が大型スーパーという構図だった。
 三階は飲食店が三分の二を占めて、残りを書店とゲームセンターが分け合っている形だ。二階も服飾品が半分近くになり、合間に雑貨やインテリアを扱う店が並んでいた。
 全体的に縦長で、奥行きが深い。隅から隅までくまなく巡っていたら、あっという間に日が暮れてしまいそうだった。
「着替えを入れる衣装ケースも必要でしょう。ずっと使わないにしても、整理する箱かなにかがあると便利でしょうし。あと、タオルも数、足りてないんじゃないですか?」
 だから買うものを先に決めて、目的地を選別してから行動した方が良い。そう言ってとある店舗を指で示したジャーファルに、アリババは感心したように頷いた。
 シンドバッドは完全に出遅れて、後ろでふたりの会話を黙って聞くしかなかった。
「洗剤も欲しいんですけど」
「だったら此処じゃなくて、ホームセンターの方が安いですね。荷物も大きくなりそうですし、一度買ったものを置きに帰った方がいいかもしれません。あと、すぐに必要そうなものは、台所の水切りラックと、包丁関係ですか」
 左手に地図を持ったジャーファルが、右手を顎に添えて呟いた。
 眼鏡の奥の瞳を細く眇め、真剣に考えながら言葉を紡いでいく。端正な顔立ちもあってその姿は格好よくて、アリババは感心しながら何度も頷き、時折彼を盗み見て頬を赤らめた。
 ちらちら向けられる視線が気になるのか、話の合間にジャーファルが顔を上げた。
「なにか、ついてますか?」
「あ、いえ。すみません」
 先ほども、似たようなことがあった。食い入るように見詰められると流石に気恥ずかしくて、彼は地図を折り畳みながら小首を傾げた。
 訊ねられ、アリババもハッと我に返って首を振った。両手も一緒に揺らして、照れ臭そうに金紗の髪を掻き回す。それを後方から眺め、シンドバッドは悔しげに奥歯を噛み締めた。
 先ほどからひとりで百面相している彼を知らず、アリババが言葉を捜して目を泳がせた。頭部に回した手を頚まで滑らせて軽く爪を立て、若干言い難そうに口を開く。
「ジャーファルさんって、眼鏡……なんですね」
「え?」
「いえ、深い意味はないんです。気にしないでください」
 先日、シンドバッドのマンションを訪ねてきた時、彼は眼鏡をかけていなかった。だからだろうか、どうにも見慣れなくて気になってしまった。
 気を悪くさせたなら謝ると頭を下げられて、ジャーファルは緩慢に頷いて微笑んだ。
「似合いますか?」
「ひえっ、ええっと」
「アリババ君、騙されるな。コイツは視力が左右とも2.0だ」
「えええ!」
「チッ」
 ずい、と顔を近づけて問いかけられて、この展開は予想していなかった少年が慌てた。それを見かねてシンドバッドが割り込んで、知り合ったばかりでは到底知りえない情報を早口に捲し立てた。
 電子機器が隆盛を誇る昨今、裸眼でそれだけの視力を維持するのは相当難しい。どちらかといえばそちらに驚かされて、アリババは伊達眼鏡の青年にぽかんと目を丸くした。
「余計な事を言わないでください」
「本当のことだろうが」
 一方で真実を暴露された青年は小声で悪態をつき、開き直っている男の脇腹を肘で突こうとした。しかし見越していたシンドバッドは易々と避けて、したり顔で口角を持ち上げた。
 嫌みたらしい笑顔にムッとしたのもつかの間、ジャーファルは素早く頭を切り替えた。
「それじゃあ、アリババ君。時間も勿体無いですし、行きましょうか」
「あ、はい」
 さりげなく少年の腰に手を回し、とんとん、と腰骨の辺りを数回撫でる。背中を押されたアリババは特に気にする様子もなく頷き、ジャーファルから預かった店内の地図に目を落とした。
 格別警戒心を抱くことなく、あっさりジャーファルのスキンシップを受け入れている。シンドバッドも昔から彼に会う度に抱きしめたり、頬擦りしたりしてきたけれど、その役目を目の前で他人に奪われるのはかなり癪だった。
 ジャーファルさえいなければ、アリババの隣は自分のものだった。仲良く買い物をして、一緒に外食もして、同じ家に帰る――家族同然の一日が過ごせたはずなのに。
「……うん?」
 先ほどから胸に蓄積されつつあるもやもやしたものが、不意に外に飛び出そうとした。
 分厚い殻を破って中身が溢れそうになって、けれど寸前で怯んで自分から引っ込んで行ってしまう。一瞬だけ脳裏を過ぎった感情の正体が見えなくて、シンドバッドは悶々として重い腹部を服の上から撫でた。
 触れればざらりとして皮膚に引っかかり、形を崩してどろっと溶けてしまう。粘性のある液体は絡みつくとなかなか剥がれず、いつまでもそこに留まって彼の足取りを鈍らせた。
 ふと前を向けば、仲良さげに談笑するふたりの背中が見えた。
 話の内容は聞こえないけれど、アリババは楽しそうだった。十七歳の少年は無邪気に笑顔を振りまいて、ジャーファルも日頃の厳しい態度からは信じられないくらいに優しげな表情をしていた。
 身長も、年齢もシンドバッドより近い所為か、アリババの横顔からは緊張が感じられなかった。
 ファッショングラスの話でもしているのか、ジャーファルが眼鏡を外した。アリババが試しにかけて、感心した様子で左右を見回している。その瞳が一瞬だけシンドバッドに向けられて、広がった距離に気づいた少年が数回瞬きを繰り返した。
「シンドバッドさん?」
「なにしてるんですか、シン。迷子になりたいんですか?」
 振り返ったアリババにつられ、ジャーファルも声を高くした。馬鹿にしたような台詞を吐かれて、シンドバッドはハッと我に返って首を振った。
 視界にも入れてもらえずにいる、と拗ねていた心が一気に霧散した。ひとり勝手に感じていた疎外感も、呆気なく打ち砕かれた。
 暗い場所に沈もうとしていた気持ちをひと息のうちに浮上させ、彼は白い歯を見せて笑った。
「もしはぐれたら、店内放送を頼むことにするよ」
「やめてください。いい大人が、みっともない」
 にっと悪戯っぽく笑えば、途端にジャーファルが噛み付いた。素っ気無く言われるのは予想の範疇で、シンドバッドは冗談が通じない彼にやれやれと肩を竦めた。
 そのやり取りを見て、アリババがまたケラケラと笑い始めた。腹を抱え、何がツボに入ったのか目尻に涙まで浮かべている。
 緊張感など皆無のやり取りにひとり苦笑して、シンドバッドはひっそり安堵の息を吐いた。ままならない自分の事は一旦外に置いて、開いていた距離を詰めてすれ違い様にアリババの肩を軽く叩く。
「さて、どこから行くんだ? 財布については、心配は要らないぞ」
「というか、今日の買い物は全部貴方の家に必要な物でしょう」
「ははは。そうだったな」
 アリババの手元を覗き込んだ彼に、ジャーファルがすかさず切り替えした。それを易々と受け流して、シンドバッドは一本取られたと額を打った。
 飄々としてつかみ所のない態度に、青年は口惜しげに爪を噛んだ。それを横目で盗み見て、シンドバッドはジャーファルの眼鏡をかけたままの少年にウィンクした。
 今は、アリババが笑っていられる環境を作るのが最優先だ。唯一の肉親である父親が無事退院してくるまで、彼を守るのがシンドバッドに課せられた仕事だった。
 だというのに、それを忘れそうになった。ジャーファルと仲良くしているアリババを見て面白くないと思うなど、本来あってはならないこと。
 そう。今のシンドバッドは、アリババの父親代わり――保護者なのだから。
「……シンドバッドさん、大丈夫ですか?」
「うん?」
 もっと大人の余裕を持つべきだろう。そんな風に考えて意識を切り替えた矢先だ。ジャーファルの伊達眼鏡を外したアリババが、髪の乱れを直そうと首を振った。
 小声で呼ばれ、袖を引かれた。下を見れば琥珀色の瞳が光を浴び、きらきらと輝いていた。
「大丈夫って、なにがだい」
 眼鏡を返却されたジャーファルも、彼の突然の発言に戸惑いが否めなかった。
 元々必要なかったそれは折り畳んで胸ポケットに収め、身を案じられた男を不審げに見上げる。双方から視線を受けて、シンドバッドは困惑して首を傾げた。
 動きにあわせ、長い髪がさらさらと流れた。未だ一軒目の店にも立ち寄れずにいる彼らの傍を、夫婦らしき男女が足早に通り過ぎていった。
「俺の気のせいならいいんですけど。なんだか、シンドバッドさん。さっきから具合悪そうだったから」
 そちらの動きに一瞬目を奪われてから、アリババが慎重に、言葉を選びながら告げる。自信がないらしく右足でしきりに床を蹴って身じろぐ彼を呆然と見詰め、シンドバッドは緩みそうになった口元を急いで引き締めた。
 その上で左手を重ねて完全に人の目から隠し、こみ上げてくる諸々の感情を元の場所へ押し戻す。だが小刻みに震える肩や、大きく見開かれた瞳まではどうすることも出来なかった。
 感動に打ち震えているとは気づかず、アリババは急に顔を覆った彼に右往左往した。
「シンドバッドさん?」
「年甲斐もなく徹夜なんかするからでしょう。どうせ運転手くらいにしか役に立たないんですから、車で待っていても良いんですよ?」
「人に徹夜を強要したのはお前だろう」
 心配そうにしている少年の横で、気遣いなど皆無の男が淡々と提案を口にする。あまりの容赦ない攻撃に、ついカチンと来たシンドバッドは両手を振り上げ声を荒らげた。
 大声は周囲に轟き、吹き抜けを通って上の階にいた人の耳にまで届く。何かあったのかと下を覗き込む人まで居て、遅れて気づいたシンドバッドは恥ずかしそうに顔を赤くした。
 振り上げた拳を渋々下ろし、してやったりとほくそえんでいるジャーファルを睨む。だが彼はまるで意に介さず、ホッとしているアリババの肩を叩いた。
「シンは大丈夫ですよ。この程度で倒れたりしませんから」
「でも、迷子にはなりそうですね」
「それも大丈夫でしょう。なにせ七つの海を股に駆けて渡り歩いてきた人ですから。これしきの商業施設で道にはぐれるなど。ねえ?」
 意外に元気そうなシンドバッドに安堵して、少年は軽口で応じて目尻を下げた。すかさずジャーファルが洒落に応じて、指を横に振りながら息を切らしている男を振り返った。
 急に水を向けられて、意表を衝かれたのもあってすぐに答えられない。巧く話に乗れなくて喘ぐように口を開閉させていたら、見ていたジャーファルがふっ、と鼻で笑った。
 なんとも腹立たしいが、口が達者なこの男と正面から遣り合っても勝ち目はない。ここは年長者の余裕を見せてやることにして、シンドバッドは深呼吸の末に前髪を掻き上げた。
 無理をして平静を装うとしているのが丸分かりだったが、アリババたちは敢えて突っ込まなかった。ふたり顔を見合わせてくすくす笑って、昼飯前に買い物をひと段落つけてしまうべく歩き出す。
 そこから一歩半遅れて、穏やかに笑んだシンドバッドが長い足を繰り出した。
 

 買い物には、思っていた以上に梃子摺らされた。
 まずカーテンを選びに行ったのだが、吊るす場所は、元々はシンドバッドの家の一室だ。彼の趣味に合い、且つアリババも文句を言わないデザインというものはなかなか見つからず、ああだこうだと論議を重ねている間に、時間はどんどん無駄に過ぎて行った。
 もっとも、実際に口論を展開していたのはシンドバッドとジャーファルのふたりだったのだが。
 アリババは使えるのなら何だって良い立場だったが、ジャーファルはその判断を、無理をして我慢していると言い張って譲らなかった。一方のシンドバッドも、微妙に世間からズレた色彩感覚を発揮して、派手な色柄のものを指して絶対にこれが良い、と言って聞かなかった。
 大人気ない言い争いに店員も苦笑いを浮かべるしかなく、別の店も見て決める、ということで落ち着くのに一時間以上も必要だった。
 他にも途中で見かけた店に飾られていた服に手を伸ばしたり、アリババをマネキン代わりにして着せ替えを楽しんだり。この時も大人二人が熱い火花を散らして、なんだかんだで今すぐ必要でないものばかり荷物が増えていった。
 気がつけば正午もとっくに過ぎており、今日買う予定に入っていなかった品を大量に胸に抱えたシンドバッドも盛大に腹の虫を鳴かせた。実に健康的で、笑いを誘う音色にジャーファルも些か疲れたと同意して、買い物は全会一致で一旦休憩と相成った。
「ご馳走様でした」
 昼食は、ショッピングモールの三階にある飲食店街で、比較的空いていた店を選んだ。
 揚げ物の専門店は、昼間から油濃いものは嫌だという女性に敬遠されがちなのだろう。お陰でさほど待つことなくテーブルに通されて、空腹を自覚していた三人は黙々と分厚いトンカツを掻きこんだ。
 一番先に大盛りの定食を食べ終えたのは、この中で最も歳若いアリババだった。
 シンドバッドは昨晩眠るのが遅かったのが影響しているのか、あまり箸が進んでいない様子だった。ジャーファルも元々あまり食べない方らしく、肉は良いとして、丼飯がかなり残っていた。
「ちょっと、すみません」
「うん? どうしたんだい、アリババ君」
 ふたりの進行具合を確かめて、満腹だと腹を撫でた少年が立ち上がった。椅子を引いて身を起こした彼を目で追って、シンドバッドは怪訝に目を眇めた。
 四人掛けのテーブルのうち、余った一席は大量に買い込んだ荷物で埋まっていた。足元にも、店のロゴが入った袋が複数転がっている。それを爪先立ちで避けて、アリババはシンドバッドの後ろをすり抜ける形で通路に出た。
 料理を運ぶ途中の店員に気をつけて立ち、彼は食事の手を休めた保護者二名に苦笑した。
「ちょっと、お手洗いに」
 照明を絞り気味の店内で、際立って明るく見える入り口付近を指差しながら囁く。言いながら照れ臭そうに頬を赤らめた男子高校生に、既に成人して久しい男たちは瞬時に理解して嗚呼、と頷いた。
 言われてみればショッピングモールに到着してから、昼食をとるべくこの店に入るまで、ずっと立ちっ放しの歩きっ放しだった。ようやく休憩が取れて胃袋も満たされたとなれば、生理現象が発動されてもなんら不思議ではない。
 その辺はわきまえている大人だ、ふたりは微笑でアリババを見送った。そして少年が足早に店を出て、ショッピングモール内に設置されているトイレに向かうや否や、大急ぎで皿の上のものを口の中に放り込んだ。
 アリババを退屈させないためにも、さっさと食事を終わらせなければならない。そんな無駄な義務感に足掻いている年長者の動向など露知らず、彼は行列が出来ている広い廊下をすり抜け、トイレを探して視線を彷徨わせた。
 巨大な建物の中にテナントが身を寄せ合っている構造なので、各店舗内にそういった設備は用意されていない。用があるなら自分からそちらに出向く必要があって、アリババは天井にぶら下がる案内板を頼りに、身軽な身体を走らせた。
 小さな子も多いのでぶつからないよう注意しつつ進み、やっと見つけた男子トイレの看板にホッと安堵の息を吐く。意外に遠くまで来てしまったと来た道を振り返って、彼は殊の外空いている空間に足を踏み入れた。
 女子の方はといえば数人が列を作っていたが、男子は手間が掛からないお陰か人の出入りはスムーズだった。
 入った時に並んでいた人が、出て来た時にもまだそこに立っているのを見ると若干申し訳なく思ってしまう。だがあちらはそれで納得しているのだから気に病む必要はないと自分を諌め、アリババはまだ湿っている手をひらひら振った。
 水滴は機械で概ね吹き飛ばしてきたが、爪の先に残っている感じがして少し気になる。かといってズボンやシャツにこすり付ける気も起こらなくて、結局は自然に乾くのを辛抱強く待つしかなかった。
「そろそろ切らなきゃな」
 手を裏返して指先を見れば、白い部分がかなり伸びていた。
 このままではシャープペンシルも握り辛くなるし、割れでもしたら大変だ。最近は多忙だったのですっかり忘れていたと肩を竦め、アリババはふと思い悩んで眉を顰めた。
「シンドバッドさんの家に、爪切りってあるのかな」
 必要最低限のものしか取り揃えられていないあのマンションに、そんな小道具が用意されているだろうか。無いと不便なので持っているとは思うのだが、シンドバッドという男は並大抵の常識では測れないところがある。もしかしたら鋏で、という恐ろしい可能性も否定できなかった。
 想像を巡らせてさっと青くなり、アリババは急ぎ首を振った。
 念の為本人に確認して、非所持ならば今日買って帰ろう。そう高いものではないので、自分の財布から出しても構わない。そこまで考えてポケットの財布に手を伸ばし、同時に彼は顔を上げた。
 ふたりが待つトンカツ屋へ戻ろうと身体を反転させようとして、中途半端なところで動きが止まった。
 通り過ぎた視界に懐かしい存在が紛れていた気がして、意識がそちらに引っ張られる。腰を左に捻った体勢で瞳だけを右に戻して、変わらずそこに佇む人影に息を飲む。
 幻ではなかったと二度、三度と瞬きを繰り返して、アリババは目つきの悪いドレッドヘアの男に瞠目した。
 色鮮やかな世界に、掠れて薄くなった記憶が重なり合う。到底一致しない光景に、それでも共通するところを多々見出して、彼は唇を戦慄かせて総毛立った。
「……ぁ、あ」
「よう。その様子じゃ、まだ忘れられてねーみたいだな」
「カシム!」
 けれど俄かには信じ難くて、話しかけられるまで身動きひとつ取れなかった。
 軽く右手を掲げて笑いかけられて、初めて金縛りが解けた。堪らず大声を響かせたアリババに、浅黒い肌の青年――カシムも嬉しそうに顔を綻ばせた。
 彼は白のポロシャツに、青色のエプロンをしていた。その格好が強面な顔つきと全くマッチしていなくて、あまりのちぐはぐさに、一周回って逆に似合っているように錯覚させられた。
 笑って良いのか、泣けば良いのかも分からなくて、アリババは万感の思いで口を噤んだ。鼻の奥がツンと来て、胸の鼓動が激しく嘶く。膨らんだ頬をぷるぷる痙攣させて、元から大きい瞳をまん丸にしてこみ上げる涙を押し留める。
 今にも堰を切って溢れ出しそうな表情を笑って、近付いたカシムが金紗の頭をぽん、と叩いた。
「似てる奴がいると思ってたけど、やっぱアリババか。ひさしぶり、だな」
 細い髪が太い指に絡みつき、くしゃくしゃにかき回されて四方八方に跳ねた。髪型を乱された少年は首を竦めて唇を舐め、上目遣いに男をにらみ付けた。
 目が合った途端、十年以上の空白が一気に埋まった気がした。
「カシム、お前……なんで!」
 何故彼がここにいるのか。別れの日の記憶を昨日のことのように蘇らせて、アリババは急く心に軽く噎せて叫んだ。
 頭上の手を押しのけて唾を散らした彼に、カシムは僅かに表情を曇らせた。しかしそれも一瞬で、恐らくは辛いことも沢山あったであろう時間を脇へ置き、すぐに相好を崩して白い歯を見せた。
「なんでって、バイトだよ、バイト。見て分かれよ」
 言いながら、彼は身に着けたエプロンを指し示した。後方には喧しい音楽を流す店があり、明るい空間に笑い声がこだましていた。
 トイレがあったのは飲食店街の終着点で、そこから先はゲームセンターになっていた。カシムのエプロンにあったロゴは、そのゲームコーナーの店名そのままだった。
「え? え、あー……ぁあ……」
 言われて初めて気付き、背伸びをしつつ横から店を窺ったアリババは緩慢に頷いた。
 通路沿いにクレーンゲームが置かれ、プリクラを撮る機械も一角を占領していた。奥に行けばコインゲームが幅を利かせており、対戦型の格闘ゲームやリズムゲームも多々取り揃えられていた。
 ゲームはあまり得意ではないのだが、賑やかな空気が好きでたまに顔を出したりもする。だがまさかこんな近くで、昔馴染みが働いているとは夢にも思わなかった。
 口をぽかんと開いたままの幼馴染に苦笑して、カシムは角のように跳ねているアリババの髪を小突いた。
 記憶の中にいる彼はとても幼く、それでいながら大人相手にも怯まない勇敢な心の持ち主だった。反面妹やアリババにはとても優しく、ふたりの為にあれこれ手を尽くしてくれる、頼りになる兄貴だった。
 その彼が、大きく成長して目の前に現れた。背が伸びて、骨格もぐっと太くなった。肩幅は広く、髪型は特徴的で見た目はかなり厳しい。しかし笑うとえくぼが出来て、人を惹き付けて止まなかった。
「って、そうじゃねーだろ。なんでこっちにいるんだ、って。そういう」
 カシムは、アリババが母と暮らしていた古アパートの隣人だった。
 彼には母親が居ない。父親はアルコール中毒で犯罪歴もあり、碌に働こうとしなかった。少ない稼ぎは父親の博打ですぐに消えてしまい、幼い兄妹は日々食べるものにも困る有様だった。
 見かねたアリババの母であるアニスが手を差し伸べるようになって、カシムとその妹のマリアムは、アリババを交えてまるで三人兄弟のように育った。血の繋がりはなかろうとも、あの時、アリババにとってカシムはかけがえのない存在だった。
 しかし、幸せな時間はそう長くは続かなかった。
 アリババの母が病死し、彼は父親と名乗り出たラシッドに引き取られた。以後、カシムとマリアムとは一切連絡が取れなくなった。中学校に上がった頃、色々な伝を頼って元住んでいた場所を探してみたものの、あのおんぼろアパートはとっくに取り壊された後だった。
 近所の住人にも当たってみたが、そこに住んでいた人たちがどうなったかについて、手がかりは得られなかった。
 あの時必死になって探したのに見つからなかった存在が、偶然という奇跡の果てにここにいる。まだ信じ切れなくて頬を抓ったアリババを笑い、カシムは偉そうに胸を張った。
「お前がアパート出てったしばらく後に、親父がくたばっちまってな。その後は、あれだよ。なんつーか、まあ……施設行き、って奴だ。けどそこも、どうせ高校卒業するまでしか居らんねーし。つうか、学校なんざ行く知恵がなかったからな」
「お前……」
「つーわけで、バイト三つ掛け持ちで、マリアムと一緒になんとかやってるってワケだ」
「おぶっ」
 重苦しくなりそうな思い出話を呵々と笑い飛ばし、彼はいきなりアリババの頭を掴んだ。
 五本の指を広げ、先ほどよりずっと力を込めてぐりぐり撫で回し始める。あまりの圧力に首が折れそうになって、アリババは鼻息を荒くして奥歯を噛み締めた。
 右手を振って追い払って、彼は出かかった唾を飲んで前に向き直った。
 涼しげな顔をしているが、その裏側には様々な感情が入り乱れていることだろう。自分だけがのうのうと、苦労も知らずに生きてきたのだと思うと、胸が締め付けられるように痛んだ。
 アリババが高校に行っている間も、カシムは汗水流して働いていた。友人と談笑しながら弁当を食べている最中も、彼は空腹を耐えて懸命に努力していた。
 知らなかった、では済まされない。寂しさを訴えるアリババを慰め、布団に引き入れてくれたあのカシムが、たったひとりで世間の荒波に抗っていたというのに。
 悔しさと切なさで、吐きそうなくらいに苦しかった。目頭がじんわり熱を持ち、息を吸えば喉が焦げ付きそうなくらいに痛んだ。
 今にも泣き出しそうな面構えの幼馴染に嘆息して、カシムは冷めた眼差しで彼を射抜いた。
 直後、思い切り良く額を弾く。
「あでっ」
「ばーか。こんなクズを養ってくれてる施設を飛び出したのは、俺の我が儘だ。俺が自分で決めて、選んだことだ。テメーがどうこう言って良いモンじゃねえぞ」
「けど」
「それより、テメーだよ。アリババ、テメーだ。親父さんほっぽって、ンなトコで暢気にしてて良いのか。倒れたんじゃねーのか」
「え?」
 痛がるアリババを無視し、カシムは一気に捲し立てた。自業自得という言葉は使わず、ただ自分の人生を自分のしたいように選択した結果だと胸を張り、そして叩く。エプロンの裾が勢いで揺れて、立て続けに述べられた疑問にアリババは目を丸くした。
 今日は驚いてばかりだ。十数年ぶりの再会を果たした相手から突如飛び出した台詞に唖然として、彼は身体の芯から沸き起こる寒気に四肢を戦慄かせた。
 何故カシムが、それを知っているのか。
 ラシッドが入院した話は、彼が勤めている大学関係者なら皆知っている。だがカシムは、先ほど本人が言った通りならば、学校には通っていない。
 どこでその情報を知り得たのか。もしやアリババが知らないだけで、彼はずっと前からアリババの所在を把握していたのか。
 訳が分からないと混乱する弟分の瞳を覗き込み、カシムは数秒置いて舌打ちした。ちりちりの髪の毛を雑に掻き回して余所を見て、言葉の選択肢を誤ったと素直に反省する。
 言う順番を間違えたと認めて、カシムは疑念を抱き始めたアリババに白旗を振った。
「悪い。こそこそ調べまわるつもりはなかったんだ」
 ただ偶然、話を聞きかじってしまっただけなのだと彼は詫びた。
 それこそ、意味が分からない。偶然耳に出来る話ではないと疑いの眼差しを向ければ、カシムは右の肩を掴んでぐるぐる回し始めた。
 言葉を選んでいるのか、視線は絡まない。トンカツ屋に残してきた二人のことも気になって、アリババは胸の奥でちりちり焦げ付くような感覚に臍を噛んだ。
 数秒の沈黙の末にカシムは口を開き、しどろもどろに弁解を開始した。
「お前の、あー……なんつったっけ。いるだろ、近所に。中学生の、も、モ……なんとかっつう、奴」
「モモ?」
「違う。も、……モル、なんとかだったか」
「モルジアナ?」
「そう、そいつだ!」
 聞き覚えのある名前を声に出せば、カシムが大正解だと手を叩いた。
 モルジアナとは、アリババの家の近くに住む子の名前だ。サルージャ家とは懇意にしており、たまに夕食のお裾分けを持って来てくれたりする。無口だが気遣い上手で、心優しい少女だ。
 年齢はアリババのふたつ下で、現在中学三年生の筈だ。兄がひとり居て、シンドバッドが勤めている大学の体育学部に通っている。
 意外なところから、意外な名前が出て来た。しかしこれで疑問が解決したわけでなく、却って謎が深まった。訝しんでいたら、カシムは左手を腰にやって爪先で固い床を蹴り飛ばした。
 右手は耳の後ろに回して皮膚を引っかき、再び口篭る。態度から、ずっと隠していたのを後ろめたく思っている雰囲気が感じられた。
「マリアムとさ、そのモル……なんとかってのが、同じなんだよ。中学」
「えっ」
「それでたまたま、何かの折にお前の話が出たとかでさ」
 カシムの妹であるマリアムも、言われてみればモルジアナと同年代だった。この近所に住んでいるのなら中学校が同じになる可能性は否定出来なくて、アリババは運命の悪戯としか思えない偶然にただ閉口するばかりだった。
 呆気に取られ、何も答えられない。悪意があって調べたわけでなく、本当に偶然知っただけなのだと判明して、安心するやら改めて驚くやら、とにかく頭の中はぐちゃぐちゃだった。
 巧く状況が整理できなくて惚けていたら、返事がないのを不満に思ったカシムがムッと口を尖らせた。
「しかもテメー、親父さんが入院してから全然家に帰ってねえらしいじゃねえか。それなのに、ンなトコでなに暢気に買い物してんだ。マリアムだって心配してんだぞ!」
「ちょ、ちょっと待った」
 いきなり声を荒らげて掴みかかられて、シャツを引っ張られたアリババは慌てて叫んだ。
 両手を振り回して彼を追い払い、乱れた襟元を正して二、三回と咳き込んでから唾を飲む。手の甲で口元を拭った彼を見て、カシムもハッとした様子で目を瞬いた。
 だが彼が驚いたのは、アリババが噎せたからではなかった。
「アリババ君から離れなさい!」
 突如彼方から鋭い声が飛んだかと思えば、黒っぽい塊がふたりの間を駆け抜けていった。思わず目で追って、アリババは床に失速して落ちた眼鏡フレームにぎょっとなった。
 幸か不幸か通行人が居なかったから良かったものの、無関係の人が巻き込まれていたら一大事だ。想像してぞっと寒気を覚え、アリババは血の気が引いた顔で振り返った。
 そこに立っていたのは、鬼の形相で睨みを利かせた銀髪の青年だった。
 そばかすが残る顔立ちは幼げながら、目つきは人を殺せそうなくらいに尖っていた。怒りも露わに牙を剥いて、いつでも飛び出せるように身構えている。
 ごごご、という効果音が視認出来る雰囲気に鳥肌を立てて、アリババは勘違いしているジャーファルとカシムの間に割り込んだ。
「お、落ち着いてください」
 両手を広げて幼馴染を庇うが、ジャーファルの目には違った景色が見えているようだ。結果的に火に油を注ぐことになってしまい、こめかみを引き攣らせた青年は場所も考えずに雄叫びを上げた。
「アリババ君から離れろと言っているでしょう!」
 口調はあくまで丁寧だが、いつにも増して低い声には凄みがあった。聞いているだけで肌がびりびり来て、カシムも突然の闖入者にぽかんと目を丸くした。
 初対面に相手に怒鳴り散らされる覚えなどないが、迫力に飲まれて反発を抱くのも忘れてしまう。惚けて返事をせずにいたら生意気だと罵倒されて、それでやっと、彼は我に返って唇を噛み締めた。
「いきなり出てきて、アンタこそなんだ。ンなモンぶん投げといて、ゴメンナサイする方が先じゃねーの」
 ジャーファルの伊達眼鏡は、依然白い床に転がったままだった。しかし拾いにいくタイミングも見出せなくて、アリババは一触即発な空気に冷や汗を流した。
 アリババと喋っている時は鳴りを潜めていたが、カシムはかなり短気だ。腕っ節も強い。妹のマリアムが苛められたと聞けば即座に飛び出していき、相手が年上であろうとなんであろうと容赦なくボコボコにしていた。
 喧嘩なら、近所で一番だった。それはきっと、今も変わっていない。妹の学費や生活費を稼ぐために暴力的な性格は封印しているけれど、一度解き放ってしまえば後はなし崩しだろう。
 ここで取っ組み合いでも始めようものなら、カシムは間違いなく職をひとつ失う。長年彼を見捨てたまま過ごしてきたアリババにとって、それは是が非でも避けたかった。
 けれどどうすればふたりの衝突を止められるのか、具体的な案が見当たらない。助けを呼ぼうにも誰を頼って良いか分からなくて右往左往しているうちに、我慢の限界を迎えたジャーファルが唾を吐いて大きく一歩を踏み出した。
「ジャーファルさん、待って。コイツは、カシムは」
「不良に絡まれて、さぞや怖かったでしょう。もう大丈夫ですからね」
「違います!」
 彼の目に映るカシムは、アリババに絡んできた出来の悪い不良でしかなかった。ふたりが知り合いだという考えは毛頭ないようで、にっこり笑いかけられた少年は危うく絶望しそうになった。
 甲高い声で否定するものの、聞き入れられない。カシムも向けられた怒気を倍にして押し返しており、話し合いで場を解決する気は皆無の様子だった。
「ジャーファルさん。カシムも、落ち着いて」
「私は至って冷静ですが」
「アリババは黙ってろ。つか、なんだよオッサン。人の話の邪魔すんじゃねーよ」
 徐々に距離を詰める彼らに訴えるが、耳を貸してもらえない。悲壮感を漂わせ、アリババは両手をぎゅっと握り締めた。
 辺りを見回せば、騒ぎを聞きつけて人垣が出来始めていた。けれど誰も彼も遠巻きに見守るばかりで、仲裁に入ろうという者は待っても現れなかった。
「失礼な。私はまだ二十五です」
「俺に言わせりゃ、二十歳過ぎりゃ全部おっさんだぜ?」
 まだまだ若いのに嘲笑われて、癪に障ったジャーファルが癇癪を爆発させた。それを十代後半のカシムが更に笑い飛ばして、我慢ならなくなった青年は拳をわなわな震わせた。
 このままいけば、最初に手を出すのはジャーファルだ。カシムもそれを承知で、挑発するようなことを口にしているのだろう。
 どれだけ罵倒されようとも、先の手を出した方が負けだ。殴りかかられた方はやり返しても正当防衛を主張出来るが、その逆はないのだから。
 穏やかで冷静そうに見えて、ジャーファルも存外気が短かった。頭に血が上りやすく、思い込みが激しくて、外見に反して猪突猛進を地で行くタイプだった。
 初対面時、シンドバッドの首を絞めていたのを思い出す。もしあんな真似を人前でされたら、弁解が利かない。警察に出動を願う騒ぎになったら買い物どころの話でもなくて、シンドバッドにだってきっと迷惑がかかるだろう。
 そこまで一気に考えて、アリババははっと息を飲んだ。
 先ほどから、シンドバッドの姿が見えない。トンカツ屋でまだのんびり食事をしているのだとしたら、腹立たしいとしか評しようがなかった。
 居て欲しい時に居ないことほど、人に対して失望を抱く機会はないだろう。頼りにしているのにどうして、とアリババは口惜しげに奥歯を噛み締めた。
「君の見識は、とても偏狭で矮小なようですね。私は、暴力沙汰は嫌いです。けれど言って分からない人には力で分からせるしかないのも、きちんと心得ていますよ」
「ケッ。脅そうってたってそうはいかねーぞ。来いよ。そのひょろひょろの腕で何が出来るか、見せてもらおうじゃねーか」
 人の揚げ足を取り、カシムがチチチ、と舌を鳴らした。
 指を立てて前後に振って、ジャーファルから最初の一撃を引き出そうと言葉を操る。それが冷静さを失わせる挑発だというのは誰の目にも明らかなのに、当人は踊らされていることにまるで気づいていなかった。
 余程頭に血が上っているのか、判断力を著しく減退させた彼は周囲の目も意に介さず、言われるままに拳を繰り出そうと身構えた。
 喧嘩慣れしている人間とそうでない人間とでは、勝負など最初から決まったも同然だ。カシムが殴られるのは嫌だがジャーファルが咎められるのも願い下げで、アリババはスローモーションで流れる景色に青くなり、両手で顔を覆った。
「シンドバッドさん!」
 ここに居ない男の名を呼んだのは、無意識だった。
 思えばあの日も、こんな感じだった。床に倒れ伏す父の姿を見た瞬間、アリババは他ならぬ彼に救いを求めた。
 その願いが通じたのか、どうなのか。
「はーい、そこまで」
 突如飄々としてつかみ所のない声が発せられ、振りかぶったジャーファルの手を掴んで強引に下ろさせた。
 間延びした明るい口調は、緊迫する空気を瞬く間になぎ払った。誰もが絶句して、唐突に割り込んできた命知らずな男に騒然となった。
「シン!」
 攻撃を制止された方も怒り心頭に怒鳴り、肩を回して手を奪い返した。だが二度も振り上げる真似はせず、偶然目に入った人ごみに苛々しながら舌打ちした。
 やり場のない感情を懸命に整理しようとしているジャーファルに困った顔をして、優しい目をしたシンドバッドは格好にそぐわぬ朗らかな笑顔で手を振った。
「呼んだかい?」
「あ、あはは。はは……」
 茫然自失と立ち尽くしていたアリババに目を細め、微笑みかける。途端に膝が笑って力が抜けて、彼はへなへなとその場にしゃがみこんだ。
 座ると同時に深い溜息をつき、両手で頭を抱えて脱力する。背中を丸めて小さくなった彼に慌て、ジャーファルは心配そうに手を伸ばした。
 それを遮って、シンドバッドはアリババの後ろで棒立ち状態のカシムに笑いかけた。
「君がカシム君、かな」
「おっさん、なんで俺の――」
「さっき、アリババ君が大声で叫んでたしねえ。それに、君の話は彼から聞いているよ」
 名前を言い当てられ、カシムが驚く。それをカラカラと笑い飛ばして、シンドバッドは解散していく人ごみに目を眇めた。
 通行人の興味が余所に移ったのを確認し、場所を変えようとアリババにも立つように促す。物言いたげにしながら黙っているジャーファルには拾った伊達眼鏡を手渡して、シンドバッドは物陰に隠すように置いていた荷物を取りに行った。
「なんなんだ、あのオッサン」
 いきり立っていたジャーファルを一瞬で宥めたかと思えば、あっという間に場を支配してしまった。最早喧嘩どころではなくなったカシムは調子が狂うと頭を掻き、ふらつきつつ起き上がったアリババに肩を竦めた。
 独白か質問か微妙な台詞を受けて、少年は金紗の髪を揺らして苦笑した。
「シンドバッドさんも、カシムみたいな人だよ」
「……なんだそりゃ」
「俺の、兄貴みたいな人。親父が倒れて、俺、今はあの人のところで世話になってるんだ」
 心持ち誇らしげに笑って、一所懸命荷物を抱え上げようとしている男を見る。広い背中を眩しそうに見つめる彼に、カシムは喉まで出かかった言葉を呑み込んだ。
 シンドバッドを見詰める眼差しが、本当に兄代わりの存在に向けられるものかどうかの判断がつかない。訊きたい気持ちを理性で奥へ押し返し、彼は縮れ髪をくしゃくしゃと掻き混ぜた。
「変なこと教えてねーだろうな」
「変な、ってなんだよ。なんかあるのか?」
「……ねえな」
「だろ?」
 照れ隠しで口を開き、短いやり取りを重ねる。シンドバッドがカシムを知っていたのは、数年前、アリババがあの古アパートを探そうと決めた時、彼に手伝ってもらったからだった。
 中学生が、就学年齢未満での記憶だけを頼りにあれこれ調べられるわけがない。かといってラシッドに直接訊くのも憚られたので、そういう調査に詳しそうなシンドバッドに助言を請うたのだ。
 その最中で、隣の部屋に暮らしていた幼い兄妹の話が出るのは自然の成り行きだった。
 アリババが母不在時の寂しさを感じることなく、元気で明るい子に育ったのは、カシムたちが傍に居てくれたお陰だった。他人を思いやる気持ちや、自分より幼くて弱い子は最優先で守らなければならないという信念も、カシムが教えてくれたことだ。
 そんな彼を、アリババが悪く言うわけがない。あまりにも偶然が過ぎる再会に相好を崩し、カシムは両手を腰に当てて肩を竦めた。
「アレが、俺の代わりねえ」
 彼方を見れば、荷物をひとりで担ごうとしたシンドバッドがひとつ、ふたつと袋を取りこぼし、最終的に雪崩を起こしていた。見かねたジャーファルが嫌味を言いつつ手を貸しに行ったが、自分でなんとか出来ると言い張ってまた同じ失敗を重ねていた。
 三十路目前の男が情けないことこの上なくて、同列に扱われたカシムは軽い頭痛を覚えた。しかし横を窺えばアリババが楽しそうに笑っていて、彼らのやり取りを見ている間にどうでも良くなってしまった。
 エプロンの皺を撫でて伸ばし、昔と変わらず明るく元気な弟分に苦笑する。ふと手首の腕時計を覗き込んで賑やかなゲームセンターにも顔を向け、カシムはけらけら笑っているアリババの頭をこつん、と小突いた。
「カシム?」
「んじゃ、俺は仕事戻るわ」
 緩く握った拳を当てられて、即座に意識を引き戻す。ぽかんとしている彼にひらりと手を振って、カシムは騒々しい店を指差した。
 彼は買い物をする為に、ここにいるのではない。今も仕事中なのだと思い出して、アリババはハッと息を飲んだ。
「あ、あ……えっと。カシム」
「元気そうで安心した。なんか、マリアムが言うには大変そうな感じだったし。お前が良いってんだったら、ウチに連れてきゃ良いかとか考えてたんだけどな」
「……え?」
「どうやら、その心配はなさそうだ」
 人づてに話を聞き、あれこれ懸念を抱いていた。万が一深刻な事態に陥っていて、手を差し伸べてくれる存在もない様子ならば、説得して家に連れ帰る案も検討していた。
 だが実際に会って、話を聞いて、全てが杞憂だと判明した。
「テメーがちゃんと笑えてるんだから、親父さんも心配ねーんだろ。マリアムがちょっくら大袈裟だっただけだな」
「カシム」
 妹から教えられた情報は断片的過ぎて、全体像の把握は難しかった。憶測だけで先走らなくて良かったと嘯いて、彼はぽかんとするアリババ越しに銀髪の青年に目をやった。
 視線に気づき、ジャーファルが振り返る。表情は硬く、今もカシムを疑っている雰囲気だった。
 融通が利いて柔軟性に富むシンドバッドならまだしも、ああいう頭の固い奴は苦手だと苦笑して、カシムは頬を掻いた。
 左足を引き、身体を反転させる。店に戻ろうとする後ろ姿に騒然となって、アリババは反射的に口を開いた。
「あのさ、俺。ほんとはずっと」
 しかしそこまで告げたところで、次に紡ぐべき言葉を見失ってしまった。
 なにを言おうとしていたのかが分からず、道の真ん中で立ち往生する。心臓がバクバク言って、嫌な汗が背中を流れた。
 鼓動が、まるで太鼓の音のようだった。耳の奥で喧しく響いて、震える唇は痙攣して微かな痛みを訴えた。
 凍りついた弟分を顧みて、カシムは剣呑に尖っていた眼差しを緩めた。
「なんかあったらまた来いよ」
 あの日、二手に分かれた道がここでまた交差したのも、何かの縁だろう。折を見て思い出して、会いたいと願ってくれていただけで十分だと笑い、カシムは言ってからふと思い立ち、口を引き結んだ。
 一瞬躊躇し、複数の視線を感じながら頬を緩める。
「何にもなくても、いいけどな」
 会いたい時に会いに来るのに、理由など必要ない。自分たちは幼馴染で、友人で、血は繋がらずとも兄弟だと笑えば、惚けた顔をしたアリババが三秒後に目を見開いた。
 叫ぼうとして口を開くが声が出ず、一度噤んでから息を溜める。ぞわぞわする背筋を波立たせ、
「――うん!」
 力いっぱいの宣言に、カシムは嬉しそうに目を細めた。もう一度手を振って、今度こそ仕事に戻るべく歩き出す。
 弾む足取りを見送って、結局荷物の半分をジャーファルに託したシンドバッドも目尻を下げた。
「私は、まだ納得がいきません」
「お堅いなあ、お前は」
 見た目だけで人を判断すべきでないと頭で理解しても、心が追いつかない。なんとも不満げな表情の後輩に嘆息して、シンドバッドは両手に山盛りの袋を揺らした。
 

「あー、疲れた」
 太陽が西の空に傾き、地平線にキスをする頃。
 やっと終わったと天を仰ぎ、シンドバッドはリビングのソファに両手を広げて倒れこんだ。
 ぼふん、と挟まれた空気が弾け、上下したクッションから大量の埃が舞い上がった。窓を開けていたアリババは眩しい西日に目を細め、本当に疲れ果てている男に肩を竦めた。
「おつかれさまです」
 買った物をマンションに運び入れるのも、相当に大変だった。ジャーファルは学会の準備があるとかで途中で帰ってしまったので、重い荷物を車から移動させるのも、ほぼ彼ひとりでやらねばならなかったのだ。
 アリババも手伝うと言ったのだが、聞き入れてもらえなかった。お陰でこちらはまだ元気が有り余っており、ぐったりしているシンドバッドに笑い返す余裕もあった。
 今日はとても長い一日だった。
 幼馴染と十数年ぶりに奇跡の再会を果たし、近況が判明した。連絡先は聞けなかったけれど、近いうちにまたあの店に行こうと思う。マリアムとも、久しぶりに会いたかった。
 買い物も沢山した。余計なものまで大量に買い込んだ。車に乗り切らないサイズのものは後日配達を頼んだので、明日以降も暫く忙しそうだ。
 欲しいと思っていたものは、大方揃った。本日浪費した合計金額は、出来るなら知りたくない。
 シンドバッドの財布に詰め込まれたレシートの束を思い出して頬を掻き、アリババは踵を返した。夕飯の材料に買い込んだ食材を冷蔵庫に入れるべく歩き出し、ふと思い直して腰を捻る。
 ジャラジャラしたアクセサリーを外しもせず、シンドバッドは相変わらずソファで寝そべっていた。
 うつ伏せなので顔が見えない。長い髪が背中一面に広がって、Tシャツの柄を隠していた。
「シンドバッドさん。帰ったらまず手を洗って、うがいですよ」
「う~……あとで~」
 母親のようなことを口にすれば、くぐもった声が返って来た。完全にやる気のない態度に失笑を禁じえず、アリババは相好を崩して背筋を伸ばした。
 この様子だと、夕食の準備が整うまで起きてきそうにない。自分に厳しく、規則正しい生活を送っていたラシッドとはまるで正反対だ。
 しかしふたりは、年齢差を感じさせないくらいに仲が良かった。シンドバッドが一方的に慕って押しかけている風にも見えたが、その実ラシッドも彼の来訪をとても楽しみにしていた。
 早く父が退院して、また三人でテーブルを囲めるようになればいい。そんなことを頭の片隅で考えながら、アリババは片付けに戻ろうと右足を浮かせた。
「ン?」
 だが身体を前に倒そうとしたところで、後ろから何かに引っ張られた。
 シャツの裾を抓んで、引き止められた。こんなことをする相手はひとりしかいなくて、アリババは怪訝にしながらソファを振り返った。
 このまま転寝するとばかり思っていた男が、のっそり熊のような動きで起き上がろうとしていた。
「シンドバッドさん?」
 疲れているのだからゆっくり休んでくれていいのに。今日は十分働いてくれたから、これ以上彼に無理を強いるつもりはないと訴えるが、シンドバッドはアリババに緩く首を振り、俯いたまま拳を硬くした。
 強くシャツを掴まれて、戸惑いが否めない。怪訝に眉を顰めていたら、ソファに座り直した男が左足を引いてソファの角を踏みつけた。
 長い前髪から覗く唇はきつく引き結ばれて、胸の奥で様々な感情が入り乱れているのが感じられた。
 しかし彼が何を考えているのか、その中身まではまるで見当がつかない。アリババは困惑を深め、助けを求めるかのようにシンドバッドに手を伸ばした。
 力を込めすぎて白くなっている指先にそっと触れる。肌が重なり合った瞬間、男の肩がピクリと跳ねた。
「シンドバッドさん」
 恐る恐る訊ねる声に、シンドバッドはようやく顔を上げた。
 近い位置で視線が交錯する。怯まずに見詰め返してきた少年を寂しげに仰ぎ、彼は再び顔を伏した。
「君が。もし君が、……彼の方が良いと言うのなら、好きにしていいんだよ」
「――え?」
「俺に遠慮しなくていい」
 シンドバッドが何を言っているのか巧く理解出来なくて、アリババは丸い目を何度もぱちぱちさせた。
 搾り出すように低い声で告げられて、頭が混乱した。『彼』が誰を指しているのか分からなくて首を捻り、今日の出来事をざっと振り返ったところでやっと頷く。
 得心が行った様子の彼を盗み見て、シンドバッドは上唇を浅く噛んだ。
 まるで雨の日に打ち捨てられた子犬のようだ。おおよそ彼らしくない、何かに怯えたような表情を目の当たりにして苦笑して、アリババは筋張っている大きな手を両手で包み込んだ。
 ぬくもりに触れて、悴んでいた指先が溶けていく。シャツを手放した後も大事に抱きしめて、アリババは世話の掛かる大人に目を細めた。
「俺は、俺がここにいたいから、ここにいるんですよ」
 最初はひとりでも平気だと思っていた。けれど不安は夜闇と共に訪れて、最初の一晩はシンドバッドのベッドで一緒に眠ってもらった。
 その日だけではない。母を喪い、幼馴染とも引き離され、孤独に耐えながら過ごしていたアリババを救ってくれたのは、他ならぬシンドバッドだ。
 病床の父に言いつけられたから、嫌々ここにいるのではない。初めの頃はそうだったかもしれないけれど、今はもう違う。
 アリババは、自分の意志でシンドバッドと一緒に居る。
「でなきゃ、シンドバッドさんが使わない洗剤とか、掃除用具とか、欲しいなんて言わないですよ」
 居候ではなく、同居人として扱って欲しいから強請ったのだ。一方的に世話になるのが嫌で、気持ちを返したいから我が儘を言ったのだ。
 これまで知らなかったシンドバッドの一面を知ってしまった。もう何も知らず、知ろうともせず、ただ無邪気に憧れていただけの頃には戻れない。
「それとも、俺、……迷惑ですか?」
「まさか!」
 むしろシンドバッドの方が嫌がっているのではと懸念を抱き、恐る恐る訊ねる。途端に彼は声を荒らげ、アリババの手を握り返した。
 勢い良くソファの上で跳ねた男に呆気に取られ、二度の瞬きの末にアリババは笑った。
「よかった」
 白龍の言葉がずっと引っかかり、しこりになって残っていた。それが綺麗に取り除かれて、心がすっと軽くなった。
 心から嬉しそうに呟いて、彼は身を引いた。シンドバッドの手を解放し、今度こそ台所に向かって歩き出す。
 その背中に未練がましく手を伸ばそうとして、指先が虚空を掻いた。手ごたえのない行動に遅れて我に返り、シンドバッドは自分が何をしようとしていたのか分からず瞠目した。
 手は、届かなかった。
 では、届いていたら。
 あの子の手を掴んでいたら。捕まえていたら。
 その次、この身はどう動いていたか。
「――!」
 もしも、の光景が脳裏を過ぎる。引き寄せ、抱きしめ、その先まで想像した自分に絶句して、シンドバッドは呆然と目を見開いた。
 前を向けば、買ったばかりのエプロンを手に取るアリババが見えた。機嫌よく鼻歌などを歌いながら、夕食の準備に入るべくキッチンの照明を灯していた。
 急に明るくなった一画に目を眇め、シンドバッドは両手で顔を覆った。そのまま後ろに身体を倒せば、クッションが体重を受け止めてくれた。
 埃が鼻に入り、息が苦しい。胸が苦しいのも珍しく沢山動いたからだと言い訳をして、彼はそっと、目を閉じた。

2013/08/11 脱稿