Elm

 揺れを感じた。
 思わず下を見たが、地震ではない。振動は足元からではなく、もっと上からだった。腰の辺りでブブブ、と羽虫が飛び回るような音がする。しかし宙を泳ぐ黒点は見当たらなくて、何だろうと首を捻っているうちに、頭がふと警鐘を鳴らした。
「あ」
 あまり馴染みがないものだから、うっかり忘れていた。思い出して首肯して、研磨は慌ててポケットに手を伸ばした。
 赤いジャージをまさぐり、奥の方に沈んでいたものを引き抜く。案の定大きな液晶画面では、着信を告げるアイコンが踊っていた。
 手に取れば、振動が余計大きく感じられた。
「どうした?」
 立ち止まった彼を怪訝がり、前を行く男が振り返った。高い位置から見下ろされ、研磨はゆるゆる首を振った。
 街灯の明かりに照らされて、幼馴染が手に持つものが見えたのだろう。音駒高校男子バレーボール部の主将は得心顔で頷いた。
「転ぶなよ」
 メールかなにかの着信と思ったようだ。軽い注意に留め、ひらりと手を振る。そのまま前に向き直り、彼は先で待つチームメイトへ駆け寄った。
 ひと言、ふた言仲間と会話する最中、一瞬だけ皆の視線が研磨に向けられた。それを避ける形で道の端に寄り、まだ震え続けているスマートフォンに溜息を零す。
 既に着信から一分近くが経過しているのに、電話の主はなかなか諦めが悪い。暗くなった液晶画面をじっと見詰め、研磨は困った顔で首を右に倒した。
 先端だけ金色の髪が揺れ、肩のすぐ上を流れていった。空いた手を丸めて顎に持って行き、着信中と告げる文字の上で親指を泳がせる。
「誰、だろ」
 触れはせず、すぐに指を引き戻して呟く。すぐに応答に出なかったのは、表示される発信者名が公衆電話になっていたからだ。
 排球部のメンバーは全員携帯電話を所持しており、番号も電話帳に登録済みだ。それ以外の知り合いも、一通り網羅している。それに彼らからの通信は大体が無料通話のアプリ経由で、こんな風に公衆電話からかけてくるなど有り得なかった。
 だからなにかの悪戯だと思った。だのに一分半が過ぎても、電話のコールは途切れない。マナーモードを解除して、研磨は眉を顰めて半眼した。
 元から細い瞳を更に細め、意を決して通話の表示をスライドさせる。
 右耳にスマートフォンを押し当て、視線は斜め上に向けて聴覚に意識を集中させる。応対の声は出さない。
 もしもし、のひとつくらい言ってやるべきかもしれないが、長く放置していたのもあってどうにも口にし辛かった。だから無言で待つころにしたのだが、それに対して掛けてきた方も動揺したのか、呼びかけの声は聞こえてこなかった。
 珍妙な沈黙が続いて、研磨は眉目を顰めた。
 悪戯電話の可能性が高くなった。もしくは嫌がらせか。けれどわざわざ安くもない電話代を支払い、意地悪を仕掛けてくる理由が分からなかった。
 コレクトコールではなかった。それは間違いない。自分に通信費の負担が来ないのを確認して、研磨は発熱して仄かに温かい機械を耳から外そうとした。
 その時、タイミングを読んだかのように吐息が聞こえた。
 別段鼻息が荒いわけでもなかった。特殊な性癖を持つ変態からの電話ではなく、息継ぎの合間に漏れた呼気が受話器に掠めただけらしい。
 無論それだけで判断するのは良くない。眉間の皺を深め、思うところがあった研磨は通話のボリュームを上げた。
 バーが右に移動するに従って、胸の鼓動が不思議と早まっていく気がした。どくん、どくんと体の奥で鳴動するそれに合わせて温い唾を飲み、脳裏を過ぎったとある出来事に思いを馳せる。
 もしかしたら、という気持ちが大きく膨らんだ。カレンダーは六月に入っている。少し前、気まぐれに調べた日程では、あちらは既に県大会が始まっていた。
 強まる緊張を振り払おうと、研磨は薄い唇を舐めた。ボリュームを最大に設定して、トクリと鳴った心臓に目を閉じる。
「翔陽?」
 こんな時間に、こんなタイミングで、こんな風に電話をかけてくる相手などそう多くない。自慢ではないが、友人は少ない方だ。幼馴染が聞いたら苦笑しそうなことを思い浮かべ、研磨は逸る心を抑えて囁いた。
 再びスマートフォンを耳にやり、返答を待つ。音量を上げたので、先ほどよりもずっと気配が読み易い。不確定要素の多すぎる問いかけに、向こうは息を飲んだ。
 はっ、と空気を吸い込む音が、すぐ横からした。とても遠い場所にいるのに驚くほど近くに感じられて、研磨はほんの少し、嬉しくなった。
「翔陽、だよね?」
 電話番号はあの日、別れ際にメモに書いて渡してあった。彼の携帯番号も聞いてある。けれど初めての通話は、公衆電話からだった。
 アドレス帳への登録は完了済みだから、小型端末を使ってくれたらあんなに待たせはしなかったのに。顔の見えない相手に僅かながら怒りを抱き、研磨は改めて訊ねた。
 正否の判定はまだだが、確信はあった。先ほどよりも力強い問いかけに、電話口の相手は動揺も露わに声を震わせた。
『なん、で』
 後の言葉は続かなかった、しかし大体の想像はつく。
 どうして分かったのか訊かれて、研磨は簡単だと苦笑した。
「翔陽だと思ったから」
『研磨』
 根拠などどこにもない。直感とでも言うのだろうか、兎も角勘が働いたとしか説明のしようがなかった。
 或いは、そうであればいいと願った為か。希望的観測で呼んでみたのだと笑えば、電話口から呆れたような溜息が聞こえた。
 そしてまた沈黙の帳が降りる。研磨は喋ること自体もあまり得意ではないので、自分から話題を振るのは苦手だった。
 ついつい、向こうの出方を待ってしまう。あまり居心地が良いとは言えない空気に頬を掻き、迷って視線を巡らせる。
 道端で立ったままというのもどうかと思い、ゆっくり出来そうな場所を探す。丁度少し行ったところに公園があって、研磨はそちらに足を向けた。
 あまり長引くと、電話代が沢山かかってしまう。手短に済ませたいところだが、折角の通話を簡単に切ってしまうのも惜しかった。
 久しぶりに聞いた声は、別れ際の元気の良さがまるで感じられなかった。
 人の居ない公園に潜り込んで、研磨はベンチに向かった。木製で、丸みを帯びたデザインは見た目も優しい。背凭れはなく、丸太小屋を連想させた。
 そこに腰を落ち着かせてリュックを下ろしていたら、衣擦れの音でも聞こえただろうか、弱々しい声が紡がれた。
『研磨』
「どうしたの?」
 心許なげな囁きに顔を上げる。昼間は子供の笑い声で賑わう空間も、夜八時近いとなればひっそり静まり返っていた。
 練習後の気怠さを忘れ、尋ねる。もっとも、内容はある程度察しがついていた。
『……ごめん』
「別にいいよ。帰る途中だったし」
『ちがう』
 仲間内でわいわいやっていたわけではない。だから突然電話をかけてきたことを謝らなくて良いと、わざと勘違いして囁く。すると向こうは若干苛ついた口調で、即座に否定した。
 そうではない、そうではないのだと、首をふるふる横に振る姿が思い浮かんだ。研磨は一瞬躊躇し、瞼を下ろした。
 自分の気持ちに正直になって、心で詫びながら目を瞑る。途端に世界は闇に包まれ、その中心だけがぼんやり明るく照らされた。
 淡いスポットライトを浴びるのは、ひとりの少年。研磨より五センチ以上背が低い、遠く離れた場所に暮らす数少ない友人だ。
 いや、友人と呼ぶのは若干語弊があるだろう。けれどライバル、とも少し違う。知り合い、で終わらせてしまうほど浅い繋がりとも思いたくなくて、研磨はまとまらない思考を一旦脇へ追い払った。
 今は彼との関係性に思い悩んでいる時ではない。気持ちを切り替えて暗闇で目を凝らせば、ズームの最中に甘くなったピントが修正された。
 大きくて重い受話器を握り締めて、俯いて唇を噛み締めている。左手は、きっと電話機本体に爪を立てている。傍には自転車、鞄は前籠の中に。辺りは暗く、人はいない。場所は分からないけれど、物音が殆どしないので住宅地の中ではない。
 表情は見えない。隠している。ただ、唇を噛み締めているのは分かる。口元が歪んでいる。涙は、まだ溢れていない。
「翔陽」
 研磨は膝の上に左手を転がした。うつ伏せから仰向けに入れ替えて、何もない空間を握り締める。
 手が届かないのがもどかしかった。か細く震えているだろう肩を引き寄せて、丸くなった背中をトントン、と叩いてやれないのが辛かった。
『ごめん。研磨、おれ』
 鼻を啜る音がした。声が少しだけくぐもり、遠くなった。滑舌が悪くなり、続けられるべき言葉は途中で途切れた。
 堪えきれなくなった涙が溢れたらしく、衣擦れの音がした。ジャージの袖で頬を拭う姿を思い描き、研磨は誰も見ていない場所で首を横に振った。
「……」
 今日は宮城県の、インターハイ予選二日目だった。
 昨日の結果は、インターネットを検索したら簡単に見つかった。順調に勝ち進んでいると、スコアを見て嬉しくなったのを覚えている。
 しかし今、電話から聞こえて来る声に覇気はない。元気の塊だった、あの日の彼の面影はどこにも見当たらなかった。
 お陰で、泣いている姿がなかなかイメージできなかった。無理矢理歪ませようとしても無理だった。頭の中にいる彼はずっと俯いて、顔を見せてくれなかった。
「しょうよう」
 試合の結果を聞くのは憚られた。予想は付いている。敢えて聞かずとも、声だけで十分だった。
 それでも直接、彼の口から語らせたい気持ちは僅かながらあった。意地悪だと自分でも思う。確信が持てないのだから仕方がない、と自分自身に言い訳をして、研磨はひっくり返した手でジャージを引っ掻いた。
 赤い布に皺が寄った。盛り上がった布を人差し指で押し潰して、掌全体で均す。太腿から膝の先まで滑らせて、空中で拳を作る。
 再び腹に手が戻された頃、電話口から長い呼気が響いた。
 人の深呼吸を、こんなに近くで聞いた事があっただろうか。息遣いのひとつひとつに思いを馳せながら、研磨は丸めた手を丹田に押し当てた。
「惜しかった?」
 あまり鍛えられているとはいえない腹筋に力を込め、思い切って問いかける。瞬間、電話を持つ手が震えた。
 まるで彼の緊張が伝わったかのようだ。親指の付け根が痺れて、危うくスマートフォンを落としそうになった。
『……うん』
 返事があるまで、十秒近い時間が必要だった。
『うん。第三セットまでいった。デュースまでいった。強かった。おれも、影山も、旭さんも、キャプテンも。みんな、すっげー頑張った』
 後は、堰を切ったかのように溢れだした。
 早口に、語気を荒げて。喋りながら左手を振り回しているのが見えるようだった。膝も曲げ伸ばしして、身体を前後左右に揺さぶりながら懸命に伝えようとしているのが分かった。
 けれどそれも、不意に途切れた。
 荒い呼吸が続いた。研磨は眉を顰め、彼が謝罪した理由を改めて考えた。
『約束。……した、のに』
「翔陽」
 最後に弱々しい声でぽつりと告げられて、研磨は長く閉ざしたままだった瞼を押し上げた。
 仰いだ空に、星は無かった。
 曇っているわけではない、ただ見えないだけだ。注意して目を凝らせば、辛うじて明滅する煌めきを確認出来る。しかしあまりにも光は淡く、薄く、儚かった。
 まるで今の彼のようだと、ガラにもなく思ってしまう。そういう分野は幼なじみに任せることにして、研磨は広げた手を闇に翳した。
 ゴールデンウィークの遠征が、遙か遠い昔の事に思えた。まだ一ヶ月しか経っていないのに、彼との出会いは一生に残る出来事だと、魂が既に決定づけていた。
 練習試合の後、一セットも取れなかった彼らと約束をした。再会は、大舞台で。全国の猛者が集まる大会で、二度目の対戦を果たそうと。
 強いチームではなかったけれど、強くなるチームだとは思った。あの実力では無理だと冷めた判断の影で、また会えたら良いと少なからず期待した。
 けれど、その願いは叶えられなかった。
 落胆が胸を掠める。寂しさが心を暗い場所へと引きずっていく。
 それを押し留め、研磨は掲げた手で虚空を掴んだ。
「どうして謝るの?」
 囁く声は風に乗り、天へと舞い上がった。
『けんま』
「翔陽は、おれに謝らなきゃいけないような試合、したの」
『――ちがう!』
 ぽかんとした彼の声に、珍しく語調を強めて畳みかける。刹那、鼓膜を突き破る大声が小さな機械から飛び出して来た。
 薄い膜が破れることはなかったけれど、ちょっとビリビリ来た。あの日の別れ際に匹敵する怒号に苦笑して、研磨はほっと胸を撫で下ろした。
 張り詰めていた空気が緩んでいく。ベンチで草臥れている鞄を撫でて、それを引き寄せ膝に抱く。心地よい重みが太腿に広がって、頬も自然と綻んでいった。
『研磨』
 どうしてそんなことを言うのかと、不安げな声が名前を紡いだ。
 親や、幼馴染みや、チームメイトが毎日のように呼んでくれる名前なのに、彼に言われると妙に気恥ずかしく思えてならなかった。
 無意識に微笑んで、研磨は言葉を探して目を泳がせた。顔をつきあわせていれば場に相応しい単語もすぐに見つかるのに、そうはいかない事情がいつになく人を迷わせた。
 彼は静かに待っていた。顔を強張らせて、恐い表情になっている。それを解きほぐしてやりたくて、研磨は再び目を閉じた。
「強かった?」
『……うん』
 散々迷っておきながら、結局、そんなことしか言えなかった。彼は即座に首肯して、聞いてもないのに色々な事を教えてくれた。
 対戦相手は四月に、一度練習試合をして勝ったチームだったということ。あの時とはセッターが違っていた事。“大王様”のサーブが苛烈を極めた事。がーっと来るセッターが良いように翻弄されて、途中で副部長と交代した事。
 速攻が簡単に見抜かれてしまったこと、相手チームに簡単に対処されてしまったこと。最後まで競り合った事、最後に壁に跳ね返されてしまったこと。
 舌足らずで辿々しい説明は、途中で妙な場所に着地してスタート地点を見失いもして、支離滅裂な部分が多かった。だけれど試合内容は曖昧ながらも把握出来て、研磨は無意識に握っていた左手をゆっくり解いた。
 掌が熱を持ち、うっすら汗が滲んでいた。握り締めていたリュックサックは奇妙な形に凹んでおり、なかなか元に戻らなかった。
 彼の試合を、間近で見たかった。探しても、きっと動画は見つからないだろう。物理的な距離が口惜しく、切なかった。
「そっか。がんばったんだ」
『うん』
「くやしい?」
『くやしい!』
 問えば、間髪入れずに怒鳴り返された。
 形容詞はない。単純明快に、ただひと言だけ。だからこそ彼の胸中に渦巻く感情がはっきり分かって、研磨は勝手に形作られた笑みを手で覆い隠した。
 練習試合でも、彼はひたすら悔しがっていた。負けず嫌いを発動させて、諦めようとしなかった。
 勝てない、だから勝ちたい。その単純明快な行動原理は、研磨が持ち合わせていないものだった。
 だのに今の彼からは、その貪欲なまでの気概が失われていた。
 喩えるなら、終わりの見えない滑り台。落ちていくばかりで、他にどこにも行き場が無いような、そんな空気が漂っていた。
 冷たい風を浴びて、研磨はふるりと身震いした。
「ダメだよ」
 ぽつりと、自覚のないままに呟く。殆ど音にならなかったその独白は、無論彼の耳に届くわけがなかった。
 ただ、雰囲気は伝わったらしい。何か言ったかと控えめに訊ねられて、研磨はずっと握りっぱなしだったスマートフォンを左手に持ち替えた。
 癖付いてしまった利き手をジャージに擦りつけて、目を瞑る。祈るように頭を垂れて、研磨はリュックサックに額を埋めた。
 シューズケースの角にぶつかった。それ以上先に行けない。行ってはいけないと、言われている気分だった。
「ねえ、翔陽。……くやしい、だけ?」
 公式戦で負けた経験は、一度や二度ではない。中学時代は鳴かず飛ばずだった。高校に入っても、最初の一年は試合に出して貰えなかった。
 旧態依然の三年生が卒業して、幼馴染みがキャプテンマークを背負うようになってから、少しだけ空気が変わった。音駒高校は、最初から今みたいに強かったわけではない。少しずつ、土台を踏み固めて行きながら、現在の高さまで成長を遂げただけであって。
 あの頃は、よく分からなかった。けれど思い返してみれば、悔しくて唇を噛んだ日々は確かにあった。負けて項垂れるチームメイトを前にして、掌に爪痕を作った記憶は一度や二度では済まない。
 ただ、それだけではなかった。
 覚えている。思い出せる。スパイクを決めてガッツポーズを決める仲間の姿を。ブロックで攻撃を封じ込め、達成感に顔を綻ばせる戦友の笑顔を。
 ナイストス、の言葉を。乱暴だけれど親愛の情がこもった、背中への平手打ちを。やれば出来ると褒めながら、髪の毛をくしゃくしゃに掻き回す手の心地よさを。
 悔しさだけではなかった。一回の負けで全部を投げ捨ててしまえるような、そんな安い辛さじゃない。
「それだけ?」
 返事が無い。追い詰めるつもりで尚も訊ねる。声だけ聞けば素っ気なく感じられる詰問に、彼は何を感じ取ったのだろう。浅い息遣いが聞こえ、研磨はスマートフォンを握り直した。
 汗で滑り落ちそうになるのを支え、右手も添える。左耳では慣れないからと、一瞬迷って右耳へと戻す。その間、彼は沈黙を保ち続けた。
「翔陽」
『そんなこと、ない』
 質問を誤ったかと後悔を抱き始めた頃、ぼそりと、か細い返事が耳に届いた。
『ない。悔しいけど。悔しかったけど。だって、大王様とか凄かった。らっきょヘッドもぐわわって来て、ぶわって、おれの前、ふさいで。振り切っても、いっぱい拾われた。高くて、おれのブロック届かなかった。みんながんばってて、おれも、負けたくなかった。最後、おれが、決められてたら。おれが。おれが……っ!』
 鼻が詰まったらしく、ずび、と啜る音が響いた。ぼろぼろ零れる涙が止まらないのだろう、言葉の合間に嗚咽が混じる。慟哭が聞こえて、研磨は緩慢に頷いた。
 時間が足りなかった。
 彼にはまだ、負け試合を楽しかったと認めるだけの余裕が無い。下手を打てば三年生の最後の公式戦になる。だのにそれを、自分勝手な想いだけで『楽しかった』と笑い飛ばすのは、相当に難しかろう。
 特に最後の一点が、自分のスパイクをブロックされたのなら尚のこと。
 蹲った相手に手を差し伸べるにも、タイミングがある。傷が痛むのに立ち上がらせたところで、また転んで悪化させるだけだ。
 けれど、果ての見えなかった下り坂は、そろそろ終わりに近付いていた。落ちたなら、後は登るだけ。彼にはその力があった。
「したいね。試合」
『けんま?』
 ぐじ、と涙を呑む音がする。ぽつりと零れ落ちた独白に、電話口の向こうの彼は首を傾げた筈だ。
 涙は止まっただろうか。気がかりを残しつつ、研磨は間近に迫りつつある試合日程を思い出した。
「出来る?」
 約束を違えたと言うのなら、もう一度、また交わせばいい。負けた悔しさに押し潰されてしまう彼ではないから、どうせならもっと、今よりも悔しがらせてやろう。
 意地悪を思いついた。ひっそり微笑んで、研磨はぽかんとしている彼に尋ねた。
『……――やる』
 数秒の逡巡の末、紡がれたのは完結極まりないひと言だった。
 出来る、ではない。したい、でもない。
 願望ではなく、希望でもなく。
 やり遂げてみせると誓う、意志。
 力強く響くことばに、研磨は相好を崩した。
「見ててね、翔陽」
『研磨?』
「おれも、負けないから」
 彼にも、東京大会も。
 これから先、経験する幾多の試合で。彼に誇れるような、悔しがられるような試合をしよう。どうして傍で見られないのかと地団駄を踏むくらいの、彼が目を輝かせるような試合をしよう。
 胸の奥に宿った焔を抱いて、笑う。気配が伝わったのか、電話口から初めて笑みらしい吐息が聞こえた。
『ね、研磨』
「なに?」
 目を閉じずとも笑顔が見えた。内緒話をしているようで、耳の奥がくすぐったかった。

『研磨も、がんばって、ね』

2013/7/28 脱稿