鈍感

 今年のカレンダーも残り半分を切り、気温は日増しに上昇していた。街には開放的な格好の女性が増えて、女生徒のスカート丈も比例して短くなっているようだった。
 シャツに透ける下着に顔を赤くする機会も増えて、目のやり場に困ってしまう。もしじっと見詰めようものなら変態扱いされるのは確実で、異性から圧倒的不人気の自分を恨みたくなった。
「これが獄寺君や山本だったら、全然違うんだろうな~」
 今日もまた、別に見たくもないものを見せられて不条理に睨まれてしまった。
 見せびらかしたいのか、見られたくないのか。透けるのが嫌ならばもう一枚重ね着をすればいいものを、まったくもって女子の考えることはよく分からない。
 ぽっちゃり、を通り越している体格の女生徒に敵意を向けられて、正直疲れた。自意識過剰なあちらの態度にがっくり肩を落とし、綱吉は深く溜息をついた。
 耳を澄ませばセミの声が聞こえた。但し朝方耳にする大合唱には程遠く、昆虫たちも日中の暑さは相当辛いらしかった。
 最近ではすっかり目覚まし代わりになっている。今朝も早くに叩き起こされて、思い出した彼は大きく欠伸をした。
 目尻に浮いた涙を拭い、もうひとつ口を開閉させて廊下を行く。昼休み中であるが生徒たちも直射日光を嫌い、グラウンドで走り回る影はなかった。
 熱中症云々と、テレビも連日喧しい。気温が特に高くなるこの時間帯、外での運動を控えるよう学校側も通達を出していた。
 野球部所属の山本はがっかりしていたが、体調不良を起こすよりは良いと最後は納得していた。教室には冷暖房の設備がないので、皆は下敷きや団扇などで涼を取っていた。
 この学校でクーラーが設置されているのは、保健室と校長室、そして応接室だけだ。
 健康な生徒ほど縁遠い場所が多い中、唯一学生が占拠している部屋があった。目の前に迫った扉に苦笑して、綱吉は少しだけ歩調を速めた。
「いるかな?」
 声も弾ませ、期待を込めて呟く。緩く握った拳で控えめにノックするが、応答の声は聞こえなかった。
 途端にわくわくしていた気持ちが萎んで、綱吉は目に見えてがっかりした表情で眉を顰めた。
 念の為にともう二度ほど叩いてみるが、待っても返答は得られない。腕を引いて半歩下がり、彼は瞳を歪めて唇を噛んだ。
「いない?」
 部屋の主は席を外しているのか、どうやら中には誰も居ないようだった。
 切なさが胸を過ぎり、夏だというのに寒気を覚えた。ぶるっと身震いして汗を流し、彼は恐る恐るノブに手を伸ばした。
 銀色のそれは、氷よりも冷たく冷えていた。
 握って左に捻り、そっと押す。中で眠っている可能性も否定できなくて極力音立てぬように室内を覗くが、左右を見回しても人の姿はなかった。
 奥に置かれた立派な机にも、中央に鎮座するソファにも人影は見当たらない。矢張り出かけているのだと知って、綱吉は落胆に頭を垂れた。
「ちぇ」
 折角暑い中、湿気の篭る廊下を歩いて来たというのに。
 道中で体験した嫌な記憶も蘇って、胸の辺りがむかむかする。不満も露わに口を尖らせて、彼はむすっと頬を膨らませた。
「どうしようかなあ」
 ここ応接室は本来の目的を放棄して、目下とある委員会に私的に占拠されていた。
 その委員会とは、風紀委員会。並盛中学校の一般生徒とは一線を画す集団であり、特徴的な髪型や服装で統一された非合法団体だった。
 時代錯誤のリーゼントに黒の長ラン姿で活動する彼らは、学校内で風紀の乱れを確認すると、容赦なく襲ってくる。特に集団を率いる委員長は横暴で、老若男女の関係なく、風紀を乱した者には手加減なしの懲罰を与えていた。
 彼に睨まれて無事に卒業できた生徒はいないとも言われ、その恐ろしさは全校生徒の知るところだ。暴虐無比の暴君は、名を雲雀恭弥といった。
 もっとも彼が自ら嫌われ役を買って出ているのも、並盛中学校を愛しているが故。彼のお陰で学校内の規律が保たれている面は、どうやっても否定できなかった。
 きっと今も見回りに出ているのだろう。不在の理由に思いをめぐらせ、綱吉は半開きの扉に寄りかかった。
「んー……」
 しばし悩み、彼は結局、外に比べれば格段に涼しい室内に足を踏み入れた。
 応接室への出入りは、基本的に自由だ――雲雀に殴られる覚悟さえあれば、の話であるが。だが中には彼の暴力から開放された人間も居て、綱吉もその数少ないひとりだった。
 背中でドアを閉め、二度ばかり深呼吸を。冷えた空気は瞬く間に全身を包み込み、汗が揮発して体温が下がっていくのが実感できた。
 窓にはカーテンがかけられていた。照明も消えているので内部は薄暗い。上を見れば天井据付型の空調が静かに稼動して、冷風を室内に送り出していた。
 設定温度が高めらしく、凍えるほどの寒さは感じない。照明スイッチ傍の操作盤を覗き込めば、シンプルな液晶画面に二十七、の数字が見えた。
「ちょっと、寛がせてもらおうっと」
 もしかしたら雲雀は、綱吉が来るかもしれないと考えて冷房を切らずにおいてくれたのかもしれない。そんな風に好意的に解釈して、彼は嬉しそうに頬を緩めた。
 休み時間中に雲雀が戻ってくる保証はないが、チャイムぎりぎりまで待たせてもらうことにする。午後の授業は大嫌いな数学で、ここで英気を養っておかなければとても持ち堪えられそうになかった。
 調子よく嘯いて、綱吉は部屋の真ん中に置かれた応接セットへ向かった。
 勉強したり、本を読んだりしないので、電気はつけなくても問題ない。白いカーテン越しでも外は眩しくて、日光が突き刺さりそうだった。
 床に伸びる細い光を避け、三人は楽に座れそうなソファへと腰を下ろす。ふかふかのクッションは心地よく、長時間冷房の中にあっただけに、革張りの表面もひんやりしていた。
「あれ」
 自分にとって最も居心地の良い場所に陣取って、早速横になろうと身体を左に倒す。その最中でとあるものに目が行って、綱吉は瞬きを繰り返した。
 寝かせたばかりの上半身を起こし、彼は真向かいに見える黒い物体に息を呑んだ。
「ヒバリさんの」
 無意識に呟いて、前のめりに身を乗り出す。手を伸ばしても届かない場所にあったのは、真っ黒い学生服だった。
 とはいってもそれは表だけで、裏地は目が覚めるような真紅だ。丈は他の風紀委員と違って短めで、トレードマークである臙脂の腕章は外されていた。
 冬場はこれを肩に羽織って活動する雲雀だが、近頃は暑さに負けたか、殆ど身につけていない。白の開襟シャツ姿も悪くないけれど、雲雀といえば矢張り学ランだとひとり頷いて、綱吉は数秒の逡巡を経て立ち上がった。
 背の低いテーブルを回り込み、向かい合わせに並べられているソファの間を移動する。上履きで床を踏みしめ進んで、恐る恐る背凭れに引っ掛けられていたものに手を伸ばす。
 掴むと、布地の厚みがはっきり感じられた。
 意外にずっしり来る重みに驚き、彼は目を瞬いた。並盛中学校指定の制服であるブレザーとはまるで違って、触り心地も少しごつごつしていた。
「ヒバリさんの、学生服」
 反面裏地は滑らかで、さらっとしていた。胸ポケットには何も入っていない。腕章を固定する安全ピンの跡が、左袖の高い位置に残されていた。
 秋口から春の終わりにかけて、彼はずっとこれを愛用していた。袖を通す機会はあまりなく、いつも肩に掛けているだけ。けれどそれが格好よくて、綱吉は密かに憧れだった。
 自分が着たら、あそこまで似合わない。雲雀だからこそ着こなせるのだと改めて実感して、彼は鷹揚に頷いた。
「へー。……えへへ」
 感嘆の息を吐き、しどけなく笑って両手で学生服を掲げ持つ。脇に当たる部分を掴んで左右に広げると、裾が落ちてTの字型に広がった。
 部屋に雲雀はいなかったが、彼の上着が残されていた。たったそれだけでも嬉しくて、綱吉はだらしなく頬を緩めて目を細めた。
「ヒバリさん」
 胴の部分を抱きしめて、固い襟に顔を埋める。鼻をスンと鳴らせば、どこかで嗅いだ覚えのある匂いが鼻腔を駆け抜けた。
 癖の強い臭気だが、雲雀のものだと思うと途端に愛おしい。すっかり雲雀狂いだと自嘲気味に微笑んで、綱吉はストンと腰を落とした。
 弾力のあるクッションが体重を支え、華奢な身体を跳ね返す。正面やや右方向に目をやれば、廊下に通じる扉が見えた。
 ドアは依然閉まったまま、開く気配はなかった。
「暑いんだから、涼しいところでゆっくりしてればいいのに」
 ひとり文句を口ずさんで、綱吉は柔い頬を膨らませた。
 風紀委員の体裁を取っているのだから、取締り業務を遂行する義務があるのは明白だ。働かないもの食うべからず、ではないけれど、責務をまっとう出来ない人間が、どうして他人を指揮できるだろう。
 だからか、雲雀は何かと忙しい。たまに風紀委員以外の仕事もやっているようだが、仔細について綱吉は知らされていなかった。
 教えてもらえないということは、知る必要がないということだ。分かっているが不満は募って、彼はぶすっと学生服を抱き潰した。
 すっかり汗が引いた肌の上を、ざらりとした布が流れていく。筒状の袖が左足に被さって、綱吉は何気なくそれを抓み上げた。
「あれ?」
 そして擽るように撫でているうちに、とあることに気がついた。
 思わず高い声を響かせ、違和感を覚えた場所を顔の前に持っていく。至近距離から確かめるまでもなく、袖口のボタンがひとつ、外れそうになっていた。
 糸は切れていないがかなり緩く、ボタンを下にすれば当て所なく揺れた。一列に並んでいる他のボタンと比べても差は歴然としており、何かに引っ掛けたら簡単に外れてしまいそうな雰囲気だった。
 実用性に乏しい飾りでしかないので、一個くらいなくなろうと雲雀はきっと気にしない。だが見た目が悪くなるのは避けられず、綱吉はやや小さめの金ボタンに眉を顰めた。
「どうしよう」
 今日、明日の問題ではないけれど、いずれ糸は切れるだろう。紛失してからでは遅くて、今のうちに補修してやる必要があった。
 けれどここは応接室。裁縫道具などあるわけがなかった。
 裁縫セットは家庭科の授業で使うことはあるけれど、毎日用いるものではないので基本家に置きっ放しだ。第一綱吉は、縫い物が下手だ。雑巾一枚、まともに作れない。
 その不器用具合は並でなく、針に糸を通すだけでも一苦労だ。玉止めだって出来ない。ましてやミシンなど、未知の領域に等しい。
 母である奈々はとても手先が器用なのに、どうして遺伝しなかったのか。朗らかに微笑む奈々の顔を思い浮かべて肩を落とし、綱吉はやや草臥れた感のある袖を握り締めた。
 雲雀はこの事実に気づいているのだろうか。許されるものなら自分が縫い直してやりたいところだが、今実行に移したところで失敗するのは目に見えている。
 となれば密かに特訓し、巧く出来るようになってから、が妥当な線か。
「う~……」
 しかしそれまで、雲雀が待ってくれるかは分からない。気づいているか否かだけでも本人に確かめるべきか迷っていたら、キィ、とドアが軋む音がした。
 ハッとして背筋を伸ばした彼の前方で、長らく閉ざされていた扉が静かに押し開かれようとしていた。
 途端に緊張で四肢が強張り、持っていたものを強く握り締めてしまう。胸に抱えたものが雲雀の制服なのも忘れて瞠目する彼を知らず、ドアを開けた青年は真っ直ぐ室内に足を踏み入れた。
 凛とした横顔は、夏の暑さなど関係ないと言わんばかりだった。背筋もしゃんとしており、胸を張っているので一歩がとても大きい。
 そこにいるだけで他者を圧倒する存在感に呑み込まれ、綱吉は呆然と目を見開いた。
「……ン?」
 呆気に取られて見詰めていたら、突き刺さる視線を感じた彼が顎を引いた。ドアを閉めながら左に視線をやって、ソファに座る存在に気づいて切れ長の目を丸くする。
 些か驚いた表情を見せられ、綱吉は「ひゃっ」と息を飲んだ。
「なんだ、来てたの」
「あ、ぁ……いえ、あの」
「言ってくれてたら、冷房の温度、下げておいたのに」
「いえ、そんな」
 四肢をぶるりと震わせた彼をしばし凝視して、雲雀はふわりと笑った。気の抜けた表情を浮かべて緩く首を振り、少し高めの温度設定を悔いる。
 それを慌てて否定して、綱吉は手にしたものごと飛び跳ねた。
 ソファの上でどたばた暴れる彼に相好を崩し、雲雀は白シャツの喉に指を入れて襟元を広げた。
 何気ない仕草だけれど、彼がやるとなんでも格好よく見えるから不思議だ。思わず見惚れていたら、無人のソファに寄りかかった雲雀が眉根を寄せた。
 難しい顔をされて、綱吉は首を捻った。
「ヒバリさん?」
「それ」
「え? あ!」
 きょとんとしながら名を呼べば、膝の辺りを指差された。それが何を意味しているか分からず怪訝にして、二秒後我に返った彼は瞬時に裏返った悲鳴を上げた。
 握っていた手を広げ、掴んでいたものをぱっと開放する。もれなく黒い布の塊が膝を滑り落ち、ソファと一体化した。
「え、えへへ。えへへへへ」
「どうかした?」
「いえ、その。最近見かけなかったから、どうしたのかなー……って」
 愛想笑いで誤魔化そうとするが失敗して、質問を重ねた雲雀に綱吉は口篭った。目を逸らして壁を見詰め、左手で学生服を撫でながら言葉を搾り出す。
 夏になって、雲雀は学ランを着なくなった。だのに応接室にはちゃんと用意されていて、もしや冷房が効きすぎて寒い時に羽織っているのか、などとも考える。
 しどろもどろに言い訳を駆使する彼を眺め、雲雀は肩を竦めて苦笑した。
「暫く着ないからね。片付けようと思って」
 暦が秋になり、冬が近付くまで当分出番はない。だからそれまで、虫に食われて穴が空くようなことがないよう、きちんと手入れをして片付けるのだという。
 汚れも落として綺麗にして、次のシーズンも問題なく使えるように。そう嘯いた彼に緩慢に頷いて、綱吉は遅れてはっとなった。
 となれば袖のボタンも、その時に直されてしまう。さーっと血の気が引いていくのを感じ取り、綱吉は口をぱくぱく開閉させた。
「なに?」
 急に慌てだした彼に眉を顰め、雲雀が理由を問うて身を乗り出した。ソファ越しに顔を覗き込まれ、彼は答えに渋ってスラックスを握り締めた。
「あの!」
 意を決して声を上げれば、雲雀は吃驚したのか目を丸くした。
 怪訝に首を傾げ、続きを待って口を噤む。慎重に相手を探る眼差しを浴び、綱吉は緊張気味に唇を舐めた。
「えっと。あの、クリーニング……出すんですか?」
「そのつもりだけど」
「だったら、えと、それ、ちょっと待ってください」
「どうして?」
 許されるなら今すぐ行動に移りたいが、生憎道具も技術も持ち合わせていない。練習するにしたって、一朝一夕で巧くなるとは思えなかった。
 せめて一週間、否、三日で構わない。理由は告げず、ただ洗濯に出すのを暫く待ってくれるよう訴える彼に、雲雀は気難しい顔をして身を引いた。
 姿勢を正して歩を進め、奥の執務机へと向かう。肘掛付の大きな椅子に腰掛けて、並盛中学校風紀委員長は緩慢に頷いた。
「いいよ」
「ヒバリさん」
「但し三日経ったら、ちゃんと理由、教えなよ」
 その必死具合に免じて、今は聞かないでおいてやる。尊大に構えて猶予を与えた彼に、綱吉は声を弾ませ顔を綻ばせた。
 万歳したい気持ちを押し留め、勝機が見えたと胸を高鳴らせる。興奮で頬を紅潮させる彼を見詰め、雲雀は頬杖ついて苦笑した。
 なにを企んでいるかは知らないが、表情がころころ変わるのを見るのは楽しい。いったいどんなサプライズが待っているのか期待して、雲雀は鳴り始めたチャイムに顔を上げた。
「授業、始まるよ」
「うわ、っと。約束ですからね、ヒバリさん」
「分かってるよ」
 三日後、綱吉が再び応接室を訪ねてくるまで、この学生服はクリーニングに持っていかない。扉を潜る直前にも釘を刺されて首肯して、彼は早く行けと問題児を追い出した。
 戸口まで出て見送って、スキップしながら遠ざかっていく背中に肩を竦める。何がそんなに楽しいのかは分からないが、綱吉が笑っているのだからと雲雀は深く気に留めなかった。
 ドアを閉めて室内に戻り、空調の設定はそのままに執務机へ戻ろうとする。だが途中で気づき、彼はソファに放り出されたままの学生服を手に取った。
 襟を掴んで広げ、微かに残っている気がする綱吉の匂いや体温を探す。そしてふと、掴んだ袖に違和感を抱く。
 布を手繰り寄せて確かめて、愁眉を開いて苦笑する。学生服を抱え直し、彼は携帯電話を取り出した。
 そして約束の日。
 小ぶりな荷物を脇に抱え、綱吉は些か緊張気味に応接室のドアを叩いた。
「どうぞ」
 一回目のノックで即座に返答があって、同時にノブが内側から回された。隙間から艶やかな黒髪が現れて、出迎えてくれた雲雀に彼は頬を紅潮させた。
 約束を忘れていなかったと嬉しくなり、それだけで天にも昇る気持ちになる。心は弾み、空も飛べそうだった。
 零れ落ちんばかりの笑顔を浮かべた綱吉に、雲雀は道を譲って微笑んだ。どうぞ、と入室を促して自分はそこに残り、役目を終えたドアを閉める。
 応接室は相変わらず冷房が効いて、廊下に比べると格段に涼しかった。
 帰りたくなくなる心地よさにほう、と息を吐き、綱吉は角張った荷物を抱きしめた。袋の上から縁をなぞり、目当てのものを探して視線を彷徨わせる。
 求めていた学生服はハンガーに掛けられ、トロフィーなどが飾られた棚に吊るされていた。
 前ボタンは全て留められて、赤い裏地は見えない。腕章だけでなく、襟の内側にはめ込むカラーも外されていた。
 綱吉が頼んだ通り、クリーニングには出されていなかった。それにまずホッとして、彼は雲雀を一瞥し、運んできた箱をテーブルに置いた。
 空になった手は緩く握って拳にし、綱吉はどこかウキウキした足取りで制服へと近付いた。
 夏場に着るには厚手な布に相好を崩し、雲雀が見守る前で右袖に手を伸ばそうとして。
 押し潰された筒に触れた瞬間、彼の表情が一気に凍りついた。
「沢田?」
 全身をビクッと震わせたかと思えば、袖を掴んだ状態で停止する。見事に硬直した少年を怪訝に見やって、雲雀は意味が分からず首を傾げた。
 不思議そうにしている男をゆっくり振り返って、綱吉は絆創膏だらけの指で袖口のボタンを撫でた。
「これ……」
「ああ、なんだ。やっぱり気づいてたの」
 今にも消え入りそうな声で訊ねられて、雲雀は臆面もなく頷いた。格別何も感じていない表情で、右手は腰に当てて胸を反らせる。
 綱吉が運んできた小箱の中身も知らず、泣く子も黙る風紀委員長は目を細めた。
「クリーニングで外れて戻って来たら困るからね」
 なんでもないことのように告げて、肩を竦める。眼前の少年が愕然としているのにも構わず、先に気づいて良かったと相好を崩す。
 あの日綱吉が帰った後、自分で触って気がついた。運が良かったと屈託なく笑った彼を眺めて、綱吉は膝から力が抜けていくのをありありと感じた。
 がくんと体勢を崩して倒れこんだ彼に、雲雀は怪訝に眉を顰めた。
「どうしたの?」
 正面から問いかけられて、綱吉は口篭った。言いたいこと、吐き出したいことは沢山胸の中に渦巻いているというのに、いざ口を開いてみれば何の音も絞りだせなかった。
 乾いた空気ばかりが喉をすり抜けていく。このままでは体内の水分が全て放出され、内側から乾いてしまいそうだった。
「沢田?」
 跪いて震えている彼に、流石の雲雀も可笑しいと気づく。琥珀色の瞳が涙で潤み始めているのを見て、朴念仁の背筋にざわっ、と悪寒が走った。
 なにを泣くことがあるのだろう。理由がさっぱり分からなくて困惑していたら、鼻を愚図らせた綱吉の指が絆創膏だらけなのが偶然目に入った。
 親指も、人差し指も、中指や薬指まで。左右の別なく痛々しい格好に騒然として、彼は今頃になって綱吉が持ち込んだ箱に意識を傾けた。
 口が開きかけた袋から覗くのは、淡いベージュ色のケースだった。
「さわだ」
「すみません、なんでもないです」
 突然目の前でふらつかれたら、誰だって驚くに決まっている。無理をして笑って取り繕って、綱吉は弱々しくかぶりを振った。
 表面上は平静を装って微笑むけれど、琥珀色の眼は動揺を隠し切れていない。改めて小刻みに震える彼と学生服とを見比べて、雲雀はやっと合致したパズルのピースに騒然となった。
 かみ合った歯車がゆっくりと動き出し、徐々に速度を上げて高速で回転を開始する。危うく轢き殺されそうになって、風紀を背負う青年は指先を痙攣させた。
 中を確認したわけではないけれど、あの小箱はきっと裁縫箱だ。傷だらけの指が何を示しているのか、三日待ってくれと訴えたあの日の彼を思い出せば簡単に想像出来た。
 類まれな不器用さを持ち合わせた少年が、この数日間、必死に何かを練習していたのだとしたら。
 どうしてもっと早く気づけなかったのかと立ち眩みを起こし、雲雀は汗を流す額を前髪ごと押さえ込んだ。
「ちょっと待って」
 瞬きの回数を増やして涙を跳ね除けようとしている綱吉を制し、彼は右足を前に出した。大きな一歩を刻みつけ、不恰好に笑っている後輩の真横へと移動する。
 ハンガーに手を伸ばした雲雀の動きを窺い、少年は大きな目を丸くした。いつも突飛な行動に出る彼を警戒してきょとんとしていたら、臙脂の腕章を嵌めた青年は重く分厚い学生服を掴み取り、おもむろに肩に羽織った。
 少し前までは当たり前の姿だったのに、久しぶりに見る為か妙に新鮮だった。前後の脈絡が全くない唐突さに驚いていたら、雲雀は綱吉が呆然とする前でいきなり空の袖を握り締めた。
 まるで邪魔だと言わんばかりに振り払い、後ろへと放り投げる。
「ふっ――」
 結構な勢いがあったのに、どういう理屈か、学生服そのものは飛んでいかない。一瞬だけ力んだ雲雀の頬が強張って、直後にはブチッ、と何かが切れる音もした。
 過去にも数回耳にした記憶がある音だ。想像して目を丸くし、綱吉は呆気に取られて絶句した。
「ああ、やっぱり糸が緩かったみたいだね」
 惚けている彼の前で、実に白々しく雲雀が呟く。手を広げてみれば、糸くずが絡んだ飾りボタンがふたつ、コロンと転がった。
 本人はさりげなく芝居を打ったつもりかもしれない。だがこれは、完全に茶番だった。台詞回しもわざとらしくて、騙される人間は恐らくひとりもいないだろう。
 万年最下位の成績を誇る綱吉だって、いくらなんでも気付く。だというのに雲雀は下手な演技を続行し、自分で引きちぎったボタンを小突いた。
「困ったな。これからクリーニングに出すのに、取れてしまうなんて」
 棒読みも甚だしいが、当人は至って真面目だ。綱吉は呆気にとられてぽかんとして、対処に困って目を瞬いた。
 反応がないのを訝しみ、雲雀が眉目を顰めた。振り返り、掌にボタンを載せたまま不安そうに小首を傾がせる。
 瞬間。
「――ぷはっ!」
 堪えきれなくなり、綱吉は盛大に噴き出した。
 腹を抱え、前屈みになって背中を丸める。息を吸うのと吐くのが同時に行われ、行き場を失った肺が苦しそうにもんどりうった。
 右手で口を押さえるが既に遅く、横隔膜が引き攣って痛い。あまりにも滑稽で笑いが止まらず、必死に平常心を呼び出すが悉く徒労に終わった。
「ぶは、ははっ。あは、っふ、ふはは、うひゃははは」
 相手が雲雀だというのも忘れて声を響かせ、綱吉はこみ上げてくる可笑しさ以外の感情に涙を流した。巧く呼吸が出来なくてぜいぜい喘いで目尻を拭い、顔を上げて口の端を持ち上げる。
 前を向けばやや憤然とした様子の風紀委員長が見えて、失礼とは分かっているのだが、また笑ってしまった。
「ひば、……ひっ、ひばり、さん」
「もういいよ」
「ああ、待って。まってください」
 名前を呼ぼうとしたけれど、舌を噛みそうになって上手に喋れない。そうこうしているうちに恥ずかしくなってきたのか、臍を曲げた雲雀が素っ気無く吐き捨てた。くるりと踵を返そうとした彼に慌て、綱吉は傷だらけの手を伸ばした。
 黒い学生服を後ろから捕まえて、まだ少し苦しい呼吸を整えて破顔一笑する。強引に引き止められた青年は拗ねた表情で振り返り、溢れんばかりの笑顔に頬を膨らませた。
 ふいっとそっぽを向かれたが、その耳は仄かに赤い。色々なところから口下手な彼の感情を読み取って、綱吉は嬉しさに顔を綻ばせた。
「そのボタン、俺に縫わせてください」
 告げて、絆創膏だらけの手を広げる。掌を上に並べれば、盗み見た雲雀が照れ臭そうに頷いた。

2013/07/23 脱稿