心の形、想いの形

 日が沈み、昼の気温は遠くなった。肌寒さを覚える中、屋根裏へ通じる梯子を降りたキールは今一度天井にぽっかり空いた空間を見詰め、ややしてゆるりと首を振った。
 動きにあわせ、羽織っていたマントの裾もがひらひらと踊る。肌を擽る襟足を押さえて俯けば、月明かりが生み出す薄い陰が広がっていた。
 物置と化している空間は、フラットに暮らす子供たちのお気に入りの場所だ。親を持たずとも暗い顔をせず、肩寄せあって慎ましやかに暮らす皆を順に思い浮かべ、彼は立て付けもしっかりしている梯子から手を放した。
 身体を反転させれば、踏みしめられた床板がキシキシ音を立てる。踏み抜いてしまうことはなかろうが、僅かでも上下に弾まれると些か不安になった。
 元は孤児院だったというこの建物は広く、部屋数も多い。なにかと騒動に巻き込まれるうちに同居人はどんどん増えていったが、今のところ庭先に追い出される者は出ていなかった。
 いや、ひとり。前々からの住人であるガゼルが、度々リプレを怒らせては外へ放り出されていた。
 フラットの台所を預かる彼女も、元はといえばここの孤児院の出身だ。ガゼルも同じだった。
 年々上昇一途の税金が払えなくて孤児院は閉鎖されたが、行き場のない子供たちはスラムに残るしかなかった。幸いにも元騎士という男が後見人として彼らの面倒を見ると約束し、今のところは事なきを得ている。しかしそれとて、いつまで続けられるか分からない。
 根本的なところが解決しない限り、皆の生活は苦しいままだ。だがもし、現在騙し騙しながらも平穏無事に続いている生活が一気に崩壊し、更に不条理な秩序が世界を支配したとしたら。
 想像していたら、ブルっと身体が震えた。寒気が強まったと右肩を抱いて、キールは足元に置いていたランプを手に取った。
 ふっと息を吹きかければ、召喚魔法で呼び出された焔が踊った。
 仄かな明かりが、窓がなくて暗い通路を照らし出す。淡いオレンジ色の炎が左右に揺れて、目の前がほんの少しだけ開けた。
 優しい灯りにホッと安堵の息を吐き、彼は等間隔で並ぶドアを眺めた。
 扉はどれも閉まっており、中からは微かに物音がした。話し声も聞こえる。既に眠りに就いた後の者もいるようで、全体的に静かだった。
「ハヤト」
 待っていても来なかった名を紡げば、切なさがきゅっと胸を締め付けた。
 こんなことは珍しかった。
 孤児院の壁は薄く、隣の会話が筒抜けになることが多い。だから秘密の話がある時や、周囲に気兼ねなくゆっくり話をしたい時などは、屋根裏の窓を潜って外に出て、屋根の上で過ごすようにしていた。
 けれど今日、彼は姿を見せなかった。
 誰に召喚されたかも分からない奇妙な異界の少年は、部屋に閉じこもっているのか、夕飯以降人前に顔を出していなかった。
 風の冷たさに負けて降りてきてしまったキールはしばし悩み、ランプの光から目を逸らした。物憂げに半眼して、廊下の奥へと意識を向ける。ハヤト、と名乗った少年に与えられた部屋も、ドアは固く閉ざされていた。
 夕食後、また後で、とにこやかに笑っていたというのに。
 具合が悪い様子はなかったけれど、急に身体に変調を来している場合もある。念の為だと自分に言い訳をして、キールは自室として与えられている部屋でなく、孤児院のほぼ中央に位置する部屋を目指した。
 歩く度に床が鳴り、ランプが生み出す陰が不可思議に舞った。目的のドアの前に立って中の様子を窺ってみるものの、何かが動き回る気配は微塵も感じ取れなかった。
「ハヤト?」
 こっそり外に抜け出した、という可能性が不意に頭をよぎった。声は想定していたよりも大きくなってしまって、キールは慌てて口を噤んだ。
 左手で顔の下半分を覆い隠し、挙動不審に左右を見回す。けれど誰も出てこなくて、ドアが開く音もしなかった。
 無駄に緊張しているのを自覚して、彼は意図して深呼吸を繰り返した。
「ハヤト、いるかい?」
 この世界に生まれて初めて得た、特別な存在。生きるということはとても素晴らしいことなのだと教えてくれた、大切で、大切過ぎて愛おしくある存在。
 その名を丁寧に綴って呼びかけるが、中からの返答はなかった。
 試しにノックをしてみるが、こちらも応答がない。握った左手を彷徨わせ、キールは眉を顰めて上唇を噛んだ。
 本当に、こっそり出ていってしまったのだろうか。あまりの無反応振りに些か傷ついて、キールは口を尖らせた。
 誰にも相談せずにひとりで突っ走っているとは考えたくないけれど、完全には否定出来ない。秘密裏にオプテュスに呼び出され、単独で出向いた可能性は無きにしも非ずだ。
 嫌な予感が胸を苛み、キールは息苦しさを覚えて喉を掻いた。マントの止め具を握り締め、先に不在を確かめようとノブに手を添える。
 最初から鍵など取り付けられておらず、扉は呆気ないほど簡単に開かれた。
「ハヤト?」
 少々自信なさげに、出来上がった隙間から中を覗いて問いかける。返事は相変わらずなかったが、意外なことに室内は明るかった。
 驚き、キールは掴んだドアを全開にした。
「ハヤト」
 視界が開け、中の様子は手に取るように分かった。奥に粗末なベッドがひとつ置かれ、その手前には使い込まれた机が。足の長さが不揃いでガタガタ揺れる椅子の上には、真剣な表情で考え込んでいる少年がいた。
 背中を丸めて若干前のめりの彼に唖然として、キールは暫くぽかんと立ち尽くした。
 その間も、ハヤトは顔を上げようとしなかった。時々右手を動かすだけで、キールの存在など歯牙にもかけない。相当深く集中しているようで、横顔はいつになく気迫が篭っていた。
 呆然と立ち尽くしていたキールはハッと我に返り、右手のランプを背中に隠した。ゆっくりドアを閉める、その僅かな物音にも、ハヤトは一切反応しなかった。
 悪い予想は遠くへ消え去ったが、ホッとするにはまだ早い。いったいなにをしているのか気になって、キールは小さな棚の上にランプを置くと、忍び足で彼の後ろに回りこんだ。
 どうやらハヤトは、書き取りの練習をしているようだった。
 机上に広げられていたのは、リプレが買ってきてくれたノートだ。子供たちにも同じものが分け与えられているが、紙そのものが貴重なため、結構な値段がしたはずだ。
 ハヤトもそれが分かっているのだろう、黄色混じりの白い紙には、隙間がないくらいにびっしり文字が敷き詰められていた。
 キールは昼間、頼まれて子供たちに勉強を教えていた。
 無償で学問を学べるという評判を聞きつけ、最近では近所の子供まで顔を出すようになっている。その親たちが時々であるものの、世話になっている礼だと食べ物を分けてくれることもあった。
 昔は鼻つまみ者だったフラットの面々だが、この頃は周囲の評価も変わってきていた。リプレも非常に喜んでおり、仕事もせずぶらぶらしていることの多いガゼルはお陰で余計に肩身が狭くなっていた。
 嫌味を言われたのを思い出し、キールは苦笑した。ハヤトの手元を覗き込めば、まだ書き慣れないのだろう、小さな子供と同レベルの汚い字が多数並んでいた。
「……ん?」
 だが良く見ていけば、キールでも知らない記号が合間に紛れ込んでいた。
「ン?」
 鼻から息を吐き、怪訝に眉を顰める。その吐息が首にでも掛かったのか、長らくノートと睨めっこしていた少年が瞬きを連発させた。
「ハヤト?」
 首をすっと伸ばして壁に視線を移した彼に、キールは小首を傾げた。呼びかけ、無防備な肩に手を伸ばす。
 ぽん、と触れた途端、小柄な少年の身体が盛大に跳ねた。
「うわあ!」
 部屋中に響く大声を上げて、椅子をガタガタ言わせた彼に驚き、キールも惚けた顔で目を見開いた。素早く右手を引いて仰け反って、椅子に踏まれそうになった足もさっと後退させる。
 ハヤトはといえば荒い息を吐き、椅子の背凭れと机の縁とを握り締めて唖然と目を丸くしていた。
 零れ落ちんばかりの眼がキールを映し出し、何度も瞬きを繰り返す。意味もなく口をぱくぱくさせる彼を静かに見守っていたら、ようやく心臓がひと段落したのか、ハヤトが胸を叩いて長い息を吐いた。
「び……っくり、したあ」
 今頃になって気づいてもらえて、苦笑するより他にない。キールは安堵と驚嘆が入り混じる複雑な表情を浮かべ、ドクドク五月蝿い鼓動を宥める少年に肩を竦めた。
「ノックくらいしろよ」
「したよ」
「え、ウソ」
「本当」
 ひとり呆れていたら、ばつが悪かったハヤトが口を尖らせる。言われると思っていた文句を案の定並べられて、キールは瞬時に切り返して胸を張った。
 嘘は言っていない。一度きりではあったが、確かにノックはした。呼びかけもした。それで気づかなかったのは、ハヤト側の落ち度だ。
 自信満々に言い放った彼を呆然と見上げ、彼はゆっくり視線を逸らした。気まずそうに顔を背け、さりげなくノートを隠そうと右肘で机を叩く。
 黒炭を利用して作られた鉛筆が転がって、落ちそうになったのをキールが素早く受け止めた。
「随分と集中していたみたいだけど」
「いや、あー……うん」
 勉強をするのは、悪いことではない。この世界の文字を知るのは、ハヤトにとって利するところはあっても、害になりはしない筈だ。
 だというのに彼は歯切れ悪く口篭り、身を捩って椅子に座り直した。
 居住まいを正した彼に鉛筆を返却し、キールは横に立って広げられたノートを覗き込んだ。
 後ろからちらりと盗み見た時はわからなかったが、書き記されている文字の大半が、キールの知らない記号だった。
 角張ったもの、丸みを帯びたもの、線の数が極端に多いものと入り乱れ、一部が重なり合って紙面は真っ黒だった。果たしてそれらに意味があるのか、分からなくて困惑していたら、ハヤトが落胆とも取れる吐息を零して椅子に寄りかかった。
 体重を背凭れに預けた彼を振り返り、キールは何故そんな顔をするのか目で問うた。
「これは?」
「かんじ、……ああ、いや。俺のいた世界の、文字、だよ」
 興味深そうに示され、ハヤトは言いかけた言葉を途中で訂正した。
 告げる瞬間、寂しそうに見えたのはきっと錯覚ではない。ノートを指で叩きながら笑った彼に息を呑み、キールは走馬灯のように駆け巡っていった記憶に奥歯を噛んだ。
 ハヤトは、ここリィンバウムの住人ではない。名もなき世界から不慮の事故で招かれた、予期せぬ旅人だ。
 リィンバウムには異界の住人を呼び寄せる術ならあるけれど、その逆は遠い昔に失われて現存していなかった。キールも召喚師の端くれだが、彼を元の世界に還す術を未だ見出せずにいた。
 ハッとした彼を見上げ、ハヤトは控えめに微笑んだ。
 机上に置いたランプの炎が揺れて、微妙な陰影を作り出す。昼間、太陽の下で溌剌としている彼とは別人の様相に喘ぎ、キールは痛みを訴える胸に爪を立てた。
「ハヤト、君は」
「大丈夫。キールが探してくれてるんだ、きっと見つかるさ」
 彼を元の世界に還すのが、関わってしまった自分の責務だとキールは考えている。どれだけ可能性が低かろうとも、諦めるわけにはいかなかった。
 胸に抱く強い決意は、ハヤトも承知していた。だから心配はしていないと屈託なく言って、それでも尚どこか儚げに、彼は手元のノートを小突いた。
「でも、その前に……なんか、忘れちゃいそうでさ」
「ハヤト」
「あっちの世界に戻って、自分の名前も書けないとかだったら困るだろ?」
 敢えて冗談めかせて明るく言うが、彼が抱えている不安は計り知れない。無理をして空笑いを続けるハヤトだが、神妙な顔つきになったキールにやがていたたまれなくなったのか、俯いて拳を作った。
 軽くだが机を殴り、黒炭で肌を汚して苦笑する。くしゃりと前髪を握り潰して、彼は天を仰いで息を吐いた。
「ていうか、実際書いてみたら意外に忘れてんだよなー。ちょっとショック」
「文字を?」
「っそ。ええと、俺の名前、こう……書くんだけど」
 短い時間で気持ちを入れ替えて背筋を伸ばし、ハヤトが鉛筆を構えた。真っ白いページを広げて左隅にすらすらと、リィンバウムのものとは大きく異なる文字を書き込んでいく。
 短い棒線が縦横に並ぶ中、最後に縦長の棒を左、右と書き足して、彼は満足げに頷いた。
 勿論、キールには読めない。ハヤトの名前と本人も言っていたが、本当にそうなのかの判別はつかなかった。
「これが?」
「そう。これで、新堂勇人。俺の名前になるんだ」
 半信半疑で問うた友人に目を細め、彼は一音ずつ声に出しながら記号に指を押し当てた。
 全部で七音なのに、ハヤトが書いた文字は四つしかない。どういう仕組みなのか分からなくて軽く混乱したキールを笑い、彼は懐かしそうに相好を崩した。
「これは、漢字って言って。これ一個でいろんな読み方が出来るんだ。あと、俺の名前は『勇人』だけど、この漢字自体にもちゃんと意味があってさ。簡単に言うと、俺の名前は『勇気ある人』ってワケ」
「ハヤト、君はひょっとして、元の世界ではとてつもなく優秀な存在だったのかい?」
「なんでそうなるんだよ。俺の国じゃ、みんな読めるし、書けるぞ?」
 ここサイジェントには、公的な学校は存在しない。貴族は家庭教師を雇い、そうでない子供は私塾に通っている。だから学費を払えない家の子たちは、必然的に学ぶ機会を持たなかった。
 キールが主催の塾に人気が集まるのは、そういう理由だった。学ぶためには金が必要、というのがこの町での決まりであり、義務教育というようなシステムは根幹から存在していなかった。
 つまるところこの世界では、文字について造詣が深いのは、貴族か召喚師といった特権階級である証拠といえた。
 しかしハヤトには、そういう思考が理解できない。大袈裟に驚いてみせるキールを呵々と笑って、彼はそうだ、と手を叩き合わせた。
「ハヤト?」
 急に目を輝かせた彼を不思議に思い、キールが眉を顰める。だがハヤトは答えず、素早くノートになにかを書き込んだ。
 それも恐らくは、文字なのだろう。先ほどの『カンジ』とは違って、今度は随分と丸みを帯びた形をしていた。
「出来た。なあ、キール。これってなんて読むと思う?」
 興奮気味に頬を紅潮させ、今し方書き終えたノートを横へ押し出す。悪戯を企んでいると分かる表情は無邪気で、訊かれたキールは渋い顔をした。
 それもまた、リィンバウムの文字とは形がまるで違っていた。無論読めるわけがない。だのにハヤトはなんとも嬉しそうに頬を緩め、早く答えるようせっついた。
 繰り返し訊かれて、キールは降参だと首を振った。
「ふっふーん。なんと、これも俺の名前だ!」
 それを見たハヤトが得意げに言い放ち、椅子の上で仰け反った。まだ新しいノートを胸に抱え、空白に書き足した字画の少ない文字を手で叩く。
 告げられた内容をすぐに理解できなくて、キールは珍しく目を丸くして驚きを露わにした。
「ええ?」
「これはな、平仮名。これでし、ん、ど、う、は、や、と」
 唖然とする友人に満面の笑みを浮かべ、彼は一文字ずつ指差しながら読み上げていった。
 その上にある文字とは読み方こそ同じだが、形は全くの別物だった。どうしてそうなるのか理解し難くて惚けていたら、ノートを机に戻したハヤトが更に何かを書き込んだ。
 今度は異様に角張っており、一部の形は『ヒラガナ』とどこか似ていた。
「まさか、それも?」
「おう。こっちは、片仮名って奴。これも俺の名前な」
 シンドウハヤト、と書き込まれた紙をまじまじと見詰め、キールは眉間の皺を深めた。もしやからかわれているのかと危惧するが、間違ってもハヤトに限ってそんな真似はするまい。
 異世界とリィンバウムでは言葉が異なるのは知っていた。召喚獣と意思疎通が適わないのは困るからと、召喚術自体に翻訳機能を組み込むのは召喚師の常識だった。
 だがよもや異界のその狭い空間で、複数の言語が無為に乱立しているとは夢にも思わなかった。
 呆然としていたら、まだ隠し球があるとハヤトが口角を歪めた。
「召喚術って便利だよな。英語なんかの勉強も、しなくて済むんだから」
「エイゴ?」
「そそ。……なんて読む?」
 キールとハヤトは今現在、違う言語を用いている。しかしハヤトが喋る内容は自動的に翻訳され、キールが用いるリィンバウムの言語に変換されていた。
 それを言っているのだろう。召喚師の英知を便利、のひと言で片付けてしまった彼は、今度は妙に斜めに傾いだ文字をさらさらと紙面に躍らせた。
 一筆書きの絵のように、文字が一本の線で繋がっていた。問われ、キールは口を尖らせた。
「それも、君の?」
「大正解」
 呆れ混じりに言えば、ハヤトがしてやったりと首を竦めた。小さく舌を出し、この中で最もリィンバウムの文字に似ている記号を撫でる。
「アルファベットもさあ、忘れるんだよな。英単語とか、受験の時にあんなに必死に覚えたのにな。もう全然思い出せないや」
 椅子をキシキシ言わせ、小声で呟く。沈みがちなトーンに瞑目し、キールは机に添えられた彼の手に手を重ねた。
 触れ合った熱にびくりとしたものの、ハヤトは振り払おうとはしなかった。
「また、使えるようになりたい?」
 密やかに問えば、彼は数秒の間を置いて首を振った――横に。
「英語はいいや。でも日本語は、俺はまだ覚えてる。大丈夫だよ。忘れても、思い出せた」
 最初、すぐに頭から出てこなくて愕然とした。けれどいざ鉛筆を握ってみれば、意外にすいすい書けた。連鎖反応的に奥に仕舞い込んでいた記憶が蘇って、一斉に花開いた。
 だから問題ない。これからも、きっと平気。
 まるで自分に言い聞かせるように呟き、ハヤトは目を閉じた。キールの手の下で小さく拳を作り、取り戻した思い出を大事に抱きしめて頬を緩める。
 そんな彼を傍らから見詰めて、キールは改めて四つ並んだハヤトの名前に見入った。
「君みたいだ」
「え?」
 思ったままを口に出せば、彼は驚いた風に顔を上げた。
 真ん丸い瞳に淡く微笑み、キールは角張って重そうな漢字に指を伸ばした。続けて下へ移動して、読みは同じでも見た目が異なる文字をなぞる。
「これはとても複雑なのに、こっちはとてもシンプルで、柔らかい。こっちはなんだか尖っていて攻撃的だけれど、こっちは滑らかで。……うん、なんて言えばいいんだろう」
 今日まで見た事もない文字を、文字と認識するのは難しい。だから今はひとまず記号として眺めて、率直な感想を並べていく。
 訥々と語る彼を呆然と見上げ、ハヤトは緩慢に頷いた。
 そういう風な解釈は、今までしたことがなかった。
 文字はあくまで文字であり、音を二次元で表す術だった。滑らかで優しげだとか、角張っていて刺々しいだとか、そんな見方をしたこともなかった。
 キールは知らないからこそ、感じたままの思いを口にした。それはとても新鮮で、不思議な感覚だった。
「どれが一番、俺っぽい?」
 四種類もある中で、どの文字が最も自分のイメージに重なるか。ふと沸いた興味に負けて訊ねると、彼は一寸意外そうな顔をして、すぐに柔和に微笑んだ。
 目を細め、どきりとするくらいに優しい顔をして、囁く。
「全部」
「キール」
「どれも違う。でも、君だ」
 幼い子に優しいと思えば、理不尽な大人には怒りを隠さない。猪突猛進な面が強いように見えて、皆の意見に耳を傾けて慎重な判断を下したりもする。そしてなにより、勇気がある。
 感情豊かで、良く笑う。人を笑わせるのも忘れない。自分に正直で、真っ直ぐ前を見据えて揺るがない。
 突然異世界に放り出され、不安も大きかったに違いない。だのにおくびにも出さない。今も責任を感じるキールに気を遣い、わざとらしく話題を変えた。
 彼の力になりたかった。彼のために何かをしたかった。
 祈りを込めて、願いを胸に刻む。必ず果たしてみせると誓いを新たにしていたら、不意にハヤトがぷっ、と噴き出した。
 笑うところがどこにあっただろう。唖然としていたら、彼は口を押さえて肩を震わせた。
「キールって、時々すっげーキザなこと、さらっと言うよな」
「……ハヤト?」
「サンキュ。元気出た」
 慰めたつもりは毛頭ない。だが礼を言われてしまった。感謝の意を述べられて、キールは訳が分からず困惑した。
 その表情をも笑い飛ばして、ハヤトは右手を広げた。狭い空間で裏返し、掌同士を重ね合わせて指を絡める。
 握り締められてから気づき、キールは一瞬惚けてから苦笑した。
「君も負けてないと思うけど」
「そんなことねーよ」
 皮肉を返せば、反論が待っていた。そしてふたりは見詰め合って、夜のしじまを裂いて笑った。

2013/07/21 脱稿