Milky Way

 通学路となっている商店街は大半がシャッターを下ろし、本日の営業を終了していた。
 しかし中にはまだしぶとく営業を続け、ひとりでも多くの客を獲得しようと頑張っている店もあった。お陰でそこだけが妙に明るくて、まるで異世界に迷い込んだ気分にさせられた。
 電気屋などは早々に店仕舞いを済ませて静まり返っているのに、二間隣に軒を構える酒屋の看板は煌々と照らし出されている。店先には折り畳み式のテーブルが設置され、法被姿の男性がパイプ椅子に腰掛けていた。
 なにかのイベントだろうか、昨日通った時には見かけなかった光景だ。
 横長のテーブルの傍には緑色が鮮やかな植物が飾られていた。ただ昼の暑さにやられたのか、細長い葉は一様にしな垂れて俯いてしまっていた。
 見るからに元気のない植物なんなのか、遠目からだと分からない。いつもなら前を素通りしてしまうところだけれど気になって、日向は前輪のブレーキを握って自転車の速度を落とした。
 ペダルに置いていた足を前方に投げ出して、酒屋の前ぴったりで停止できるよう調整する。店先に居た男性も近付く影に気づき、欠伸を堪えて背筋を伸ばした。
 まだ距離があったが目が合った。相手が見知った顔と知って、日向は相好を崩した。
「こんばんはー」
 酒の配達に、ちょくちょく家に顔を出してくれていた人だ。向こう側もお得意様の息子だと思い出し、椅子を引いて腰を浮かせた。
 最後に両方のブレーキを同時に握り締めれば、キュッ、と小気味の良い音がした。踵をアスファルトに擦り付けて車体を安定させて、日向は机の上に並べられたチラシに目を落とした。
 いかにも手作りと分かるビラの上部には、カラフルな文字が踊っていた。手書きのイラストも添えられて、下手なりに頑張って作った様子が窺えた。
「翔ちゃんも、書いてくかい?」
 訊かれ、彼は不思議そうに小首を傾げた。
 チラシの隣には、色々な色のマジックやペンが入った箱があった。更にその横には短冊形に切った色紙が、風に飛ばされないよう重石に潰されていた。
 にこやかな笑顔を向けられて、日向は瞬きを二度繰り返した。右に倒した首を戻し、視線を巡らせて軒先に立てられた大きな笹に目を見開く。
「ああ」
 チームメイトの月島よりも背丈があるその笹には、様々な折り紙製の装飾品が吊り下げられていた。
 細かく切れ目を入れて上下に伸ばしたものや、堤燈の形に細工されたもの、こいのぼりにもあるような吹流し、など等。作り手の手先の器用さを反映した笹飾りがところ狭しと並べられ、その合間を縫うようにして色とりどりの短冊がぶら下がっていた。
 日向も小さな頃は、折り紙相手に悪戦苦闘したものだ。頑張って作ったものを妹にくしゃくしゃにされて、本気で喧嘩をしたのも懐かしい思い出だ。
 若干しょっぱい記憶を振り返り、緩慢に頷く。もうそんな季節だったのかと驚き、恐らくは商店街有志が購入したであろう、立派な笹を仰ぎ見る。
「そういや、すっかり忘れてたや」
「部活、頑張ってるんだって?」
「うん!」
 インターハイ予選があっという間に終わり、中間試験が終了して、瞬く間に夏がやってきた。熱闘の末の敗戦に惚けている暇もなく、暦は着実に前に進んでいた。
 日向が高校に入ってからバレーボールに夢中になっているという話は、近所では有名な話だった。五年前の記憶が今尚残っている人もいて、地域全体が彼を応援していた。
 紺色の法被を揺らして笑った男性に頷き、日向はまだ掌に残る感触を強く握り締めた。
 今日も練習で、すっかり遅くなってしまった。しかしどれだけ時間を費やしても、全然足りていない。バレーボールに打ち込めば打ち込むほど、目指すプレイが遠退いていく気がした。
 負けた時の悔しさは、どうやっても忘れられない。喪失感は不意に訪れて、身軽さが身上の彼を鈍らせた。
 次は負けない。
 もう二度と負けたくない。
 だのに目標は高すぎて、背伸びをしても、ジャンプをしても届かない。
 最早神に縋るしかないのかと、そんな風に考えてしまう。温い風に煽られてざわめく笹を見上げて、日向は半開きだった唇を噛み締めた。
 入れ替わりに手を広げれば、春先に比べて固くなった掌が見えた。
 全体的に厚みも増しており、少しは成長できたかと思う。だがトスをくれる影山も、高い壁となってスパイカーに立ちふさがる月島や山口も、日向以上に大きくて固い手の持ち主だった。
 スタートラインに立ったのが他の誰よりも遅いからこそ、みんなより努力して、鍛練を積み重ねなければいけない。追いつくのは容易でなくて、追い越すなど夢のまた夢だ。
 それでもせめて足を引っ張らないよう、仲間の背中を追いかけていきたかった。
 ほんのり赤みを残す指先を見詰め、日向は拳を作った。
 左から自転車を降りてスタンドに爪先を引っ掛ける。車体を軽く後ろへ押しながら足を手前へ滑らせれば、後輪がほんの少し浮き上がって二輪車が固定された。
 倒れないのを確認し、彼は荷物で満杯の鞄をぶら下げて大きな笹へと近付いた。首を後ろに倒さなければ天辺が見えない上背に、チームメイトの嫌味な眼鏡を思い浮かべながら頬を緩める。
 ひらりと揺れた短冊に書かれていたのは、古代文字を思わせる不可解な記号だった。
 或いはもしかしたら、それは日本語なのかもしれなかった。小さい子が不慣れながらペンを握り、一所懸命に願い事を書き記したものかもしれない。
 流れるような丁寧な文字は、その母親か、祖母のものか。家族の平穏無事を願う言葉は優しさに溢れ、見ているだけで心が安らいだ。
「夏ちゃんのもあるよ。探してみるかい?」
「ええ?」
 興味深げに眺めていた日向の斜め後ろに立ち、法被の男性が日焼けした顔を綻ばせた。
 夏、とは日向の七つ下の妹のことだ。
 商店街のこの道は、町のメインストリートも兼ねている。友達と遊びに出た最中に見かけて、皆でわいわい言いあいながら書いたに違いない。
 三年生なので、最初に見た短冊よりはマシな字を書くだろう。だが数が多いので、とても探しきれる気がしなかった。
「いいよ。願い事は、人に言っちゃったら叶わないって聞くし」
「そうか~。まあ、そういうことにしておくか」
「ちょっ、なんだよそれ。余計気になるじゃん」
 強がったつもりはなかったのだが、そうは受け取って貰えなかった。知らなくても構わないと本気で思っているのに、気になるけど無理をしている風に勘違いされてしまった。
 朝方からずっとここに立っている酒屋の店主は、みんなが書いた短冊の中身も知っているのだ。含みのある底意地の悪い物言いにカッとなって、日向は途端にむくむく膨らんだ好奇心に口を尖らせた。
 兄として、妹の動向が気にならないわけがない。もし好きな子と両思いになれますように、というような趣旨が書かれていようものなら、ショックが大きすぎて夕飯も喉を通らないだろう。
 身内の贔屓目を除いても、夏は地域で一番可愛い。天真爛漫を形にしたような妹を思い浮かべて肩を震わせ、日向は天を仰いで闇を凝視した。
 星が空一面に瞬いていた。
「おっちゃん。おれも短冊、書いていい?」
 深呼吸をすれば、喉を掠める空気は生温かった。湿度が高く、汗が蒸発しない。首筋を伝った雫に身震いして、彼はにこやかに笑う男性に尋ねた。
 右足を退いて振り返れば、酒屋の主人が鷹揚に頷いた。
 任せろといわんばかりに法被の上から胸を叩き、足早にテーブルへ戻って準備に入る。日向も後を追って自転車の傍へ戻り、ずっしり重い鞄を担ぎ直した。
「……で、日向はなんて書いたの?」
 翌日、早朝。
 練習に向かうべく部室で着替える最中、何気なく昨晩の出来事を話題に出した日向に、山口が興味津々に問うた。
 商店街でのやり取りは、胸のうちに秘めておくつもりだった。けれど山口が地元の七夕飾りの話を振って来て、その流れで日向もうっかり口を滑らせた。
 短冊を書いたという趣旨に彼は耳聡く反応して、頭の天辺で跳ねた髪を左右に揺らした。そばかすが残る幼い顔立ちの割に上背がある同級生に詰め寄られて、愛用のシャツに袖を通した日向は言い渋って目を逸らした。
「どうせ、バレーボールが巧くなりますように、でしょ」
「あ、そっか。さすがツッキー、頭良い」
 あまり言いたくなさそうな雰囲気を察して、聞き耳を立てていた月島が口角を歪めた。
 格別問題があるように思えない台詞も、彼が言うと嫌味にしかならない。脊髄反射で山口が褒め称えるのにもムッとして、日向はシャツの皺を伸ばして踵を上下させた。
「ぜーんぜん、ちがうし。ハズレ!」
 小さな身体を揺り動かし、子供のように頬を膨らませて叫ぶ。最後にあっかんべー、と舌を出すのも忘れなかった彼に唖然として、月島は同学年のチームメイトに嘆息した。
「違うのか?」
「うわ、びっくりした」
 呆れ調子の表情にも腹を立てていた日向の後ろから、不意に影山が顔を出した。突然現れて距離の近さにも驚き、日向はその場でぴょん、と飛び跳ねて後退した。
 広い部室にいるのは四人だけだった。二、三年生は睡魔に負けたのか、まだ姿を見せていない。お陰で室内は妙にもの寂しく、スペースはあるのに全員が一箇所に集まっていた。
 彼の存在をすっかり失念していた日向の反応に苦笑して、月島が眼鏡を外した。左手に持った布でレンズを軽く拭いて、位置を調整しつつかけ直す。
「で、結局なんて書いたのさ」
 その仕草の最中に問われて、日向は言わずには済ませられない雰囲気に唸った。
「だーかーらー」
「バレーボールの上達じゃないとすると、頭がよくなりますように、とか?」
「それもちがーう」
 こういう願いことは本人だけの秘密、という話はすっかり蔑ろにされていた。是が非でも聞き出そうとするチームメイトに癇癪を爆発させて、日向は握り拳を振り回した。
 確かに、中間試験の結果は惨憺たるものだった。赤点はぎりぎり回避して補習も免れたけれど、クラスの平均点を著しく下げる原因となったのは否定できない。
 にやにや笑う山口にも大声で対抗して、彼はぷんすかと煙を吐いた。一方で影山は、日向が何故こうも言いたがらず、怒っているのか分からないという顔で小首を傾げていた。
「やっぱバレー関係じゃねえの?」
「ああ、分かった。背が伸びますように、だ」
「うっせえ。違うつってんだろー!」
 寝ても覚めてもバレーボール一辺倒の影山の言葉に、月島がぽん、と手を叩いて楽しげに笑った。
 いかにも彼らしい皮肉たっぷりの発言に、日向のこめかみがぴくぴくと引き攣る。青筋を立てて喚き散らしたチームメイトに殴られそうになって、身長百八十センチ越えのふたりは揃って後ろに仰け反った。
 未だ百六十五センチにも届かない日向の背丈は、チーム内で下から二番目に低かった。一般的な男子高校生としてはそう小さくないものの、バレーボール選手としては格段に小柄だと言わざるを得ない。
 だが彼は、その圧倒的不利な立場をものともしなかった。
 身軽であるが故のハイスピードで敵チームを攪乱し、囮として縦横無尽に駆け回る。それは日向が身長の代わりに獲得した、彼だけの武器だった。
 昔は背の高い選手が羨ましく、妬ましいく思ったこともあった。けれど烏野高校に来て囮という役目を与えられたことで、自分の身体に対するコンプレックスはなくなった。
 だから月島の指摘は的外れで、大間違いだ。それに、バレーボールの技術向上だって、神頼みで手に入るものではない。
 他力本願で願いが叶うのなら、誰も努力などしなくなる。巧くなりたければひたすら努力し、練習を積み重ね、それこそ血反吐を吐いてでもボールを追いかけ続けるしかなかった。
 昨日出来なかったことが出来るようになるには、愚直なまでに経験を積み重ねていくしかない。一朝一夕で簡単に手に入るような代物でないことは、この場にいる全員が知っている。
「へえ。日向にしては珍しくまともなこと言うじゃない」
 月島が感心しているようで馬鹿にした台詞を吐き、影山はならばさっさと練習に行こうと頷く。山口だけが面白みがないと拗ねて、タコのように口を尖らせた。
 結局、日向が短冊にどんな願いを込めたのかは分からないままだ。知りたいのに教えてもらえないストレスを抱えて地団太を踏む彼を小突き、月島がいい加減にするよう叱って手を揺らした。
 着替えはとうの昔に済んでいる。あとはシューズやタオルを手に、第二体育館へ向かうだけだ。
「やっべー、遅れた!」
「おーっす。お前ら、悪い。先行って準備頼む」
 そこへ二年生がどたどたと団子になってやってきて、口々に叫んで靴を脱ぎ捨てた。
 後ろから来た田中に押される形で畳に上がった西谷が、焦った様子で捲し立てる。その背後から縁下たちも顔を出し、混雑している入り口に苦笑した。
「ちわーっス。了解です」
「先行きますね」
 中にいた一年生は慌てる彼らに顔を見合わせ、笑いを堪えて目を細めた。日向は敬礼のポーズを作って畏まり、月島が長い足で道を切り開いた。
 急ぐあまり転びそうな二年生にちらりと目をやって、外へと出る。夏の日差しが照りつける中、遠くには部室棟に向かう三年生の姿も見えた。
 彼らは二年生とは違い、さほど動じていなかった。東峰だけが不安そうな顔をして、澤村と菅原両名から同時に窘められていた。
 インターハイの予選は終わってしまったけれど、彼らは引退を先延ばしにし、部活動を継続する道を選んだ。受験勉強という難関も待ち受けているけれど、今しばらくの間、第二体育館は賑やかで、騒々しく、それでいて震えるほどの熱気に包まれ続けるだろう。
 楽しい事ばかりではない。悔しいこと、哀しいこと、辛いことの方が圧倒的に多かったりもする。
 それでも諦めない限り、立ちはだかる壁がどんなに巨大であろうとも、打ち砕けないものはない。
 空を見上げれば、天の川の代わりに白い雲が薄く棚引いていた。太陽は既に高い位置にあり、焦げ付く暑さが肌を焼いた。
「日向、いくよー?」
 ぼんやりしていたら、置いていかれた。階下から山口に声をかけられ、ハッと我に返った彼は小さく舌を出して首を竦めた。
「今いくー」
 元気いっぱいに叫び、駆け出す。階段五段分を一気に飛び降りたら、待っていた影山が呆れた顔で嘆息した。
「怪我しても知らねーぞ」
 ぶっきらぼうな物言いの影に、チームメイトを案じる気持ちが見え隠れする。四月の頭にはなかった気遣いに目を細め、日向は昨日の夜と同じように背筋を伸ばした。
 天に最も近い場所を目指し、大きな笹の天辺に紐を結ぶ。
 今この瞬間も、短冊は風に揺れてはためいているだろう。彼の願いを、思いを乗せて。

 みんなともっと、バレーボールが出来ますように。

2013/07/17 脱稿