病臥

 加湿器がしゅわしゅわと音を立てて、白い霧を懸命に吐き出している。天井近くに設置された空調も、横に長い一枚羽を広げて生温い空気を部屋に送り出していた。
「けほっ」
 マスクをしているので、息苦しくて仕方が無い。自分の呼気で少し湿った布を鼻先に感じながら、綱吉は真っ白い壁と天井の境目に視線を這わせ、布団の中で身じろいだ。
 もぞもぞと膝を寄せて丸くなり、左が下になるよう寝返りを打つ。途端に見えていた景色が一変して、押し迫る壁に視界が埋め尽くされた。
 轟々と唸る空調と、加湿器のモーター音、そして枕元に置いた目覚まし時計の針の音が混ざり合い、頭の中で不協和音を奏でていた。
 お陰でまるで眠れない。もっとも、眠いからベッドに横になっているわけではないので、なにも本当に寝なくても構わないのだが。
「……ェほっ」
 気を抜くと途端に喉の奥がもやもやして、気管の真ん中に何か棘のようなものが刺さっている錯覚に陥る。取り除きたくて咳を繰り返すのだが、違和感はちっとも消えてくれない。
 最初の頃は勢いが良かった咳も、次第に小さく、か細いものになっていった。
 噎せるだけでも体力を大幅に削り取られる。どうしても止められないものは仕方が無いとして、極力咳はしない方向で調整しよう。数十分前に終了した脳内会議の結論を思い浮かべ、彼はぼやけて霞む世界に首を振った。
 瞼を閉ざして視界を闇に染め、汗で湿ったシーツの上で伸び上がる。凝り固まっていた関節がミシミシ言って、筋が痛んだ。
「はふ」
 脹脛に覚えた痺れに顔を顰め、マスクの下で息を吐く。深呼吸したいのに巧く出来なくて、酸欠状態はなかなか改善されなかった。
 鼻が詰まっている所為で、必死に息を吸っても、肺に到達するのは平常時の三分の一にも満たない。かといって口を開けても、分厚いマスクが邪魔をして、こちらもままならなかった。
 あまりの鬱陶しさに、取り外してしまいたい衝動に駆られる。だがそんな事をした日には、治癒は遠退き、奈々に知られれば大層な雷を食らうこと間違いない。
「はぁ……」
 普段は優しい彼女だけれど、本気で怒ると鬼より恐い。ランボとはまた異なる角を生やした母を思い浮かべ、綱吉は深く溜息をついて耳に食い込んでいるマスクの紐を引っ張った。
 ずっと装着しているので、擦られて痒い。見えないが赤くなっているだろう耳の裏側を撫でて労わって、彼は壁に吊るされたカレンダーに目を向けた。
 まだ新品同然で、全体的に丸みを帯びていた。
 この位置からでは、表面に印刷された図柄や、数字は見えない。だが見なくとも、今日が何日なのかくらいは分かる。
「うぅ」
 小さく呻き、彼は肩まで被っていた布団を引っ張り上げた。頭まで被って、蜂蜜色の髪の毛の大半を覆い隠す。
 三学期はもう始まっていた。だが、始業式には参加できなかった。
 冬休みにはしゃぎすぎたつもりはなかったが、その最終日に熱を出して倒れてしまったのだ。リボーンには、まるで学校に行くのを嫌がっているようだと、皮肉を込めて言われた。
 確かに綱吉は、勉強が嫌いだ。運動も苦手だ。
 ほんの一年とちょっと前までは、毎日通学するのが苦痛だった。
 友人もおらず、授業にもついていけず、体育ではクラスメイトの足をひたすら引っ張って、迷惑ばかりかけていた。
 ダメダメのダメツナ、という渾名が示す通りの存在だった彼だけれど、押しかけ家庭教師のリボーンが現れて、獄寺がやってきて、山本と友達になった辺りから、色々な事が変わり始めた。
 つまらなかった学校が、ちょっと楽しいと思えるようになった。
 知り合いが増えた。教室で、当たり前のように話の輪に入れるようになった。それまで恐くて遠くから見ているしかなかった人との距離も、少しだけ狭まった。
 瞼の裏に思い浮かぶ姿に吐息を零し、彼はマスクの上から唇を掻いた。
「心配して……ない、よな」
 願望を口にしかけて、途中で肩を竦めて苦笑する。
 黒い学生服を羽織り、威風堂々と学校内を闊歩している青年は、たかだか生徒が一人風邪で休んだからといって、気にかけたりしない。
 並盛中学校の実質的な支配者である風紀委員長は日々多忙を極めており、綱吉の容態を案じて仕事を放り出したりしない。
 分かっている。だけれど改めて思い知らされて、哀しくなった。
「ゴホッ、コホッ」
 丸めた手を口元にやって、彼は二度、立て続けに咳込んだ。枕の上で頭を上下させて、ゼイゼイと息を吐いて足りない酸素を求めて舌を伸ばす。
 だが頑丈なマスクを突き破るのは叶わず、耐え切れ無くなった彼は白い布を顎の下まで引き摺り下ろした。
 紐に引っ張られて耳が痛む。加湿器が稼働中にも関わらず、乾燥した空気が弱った喉に突き刺さった。
 こんなに苦しい思いをするくらいなら、いっそ死んでしまった方が楽なのではなかろうか。そんな極端な事を考えて、彼は大慌てで自分に首を振った。
 マスクの位置を元に戻し、いがいがする喉を撫でて慰める。己の愚行を反省しつつ、重い身体をひっくり返して枕に突っ伏す。
 風邪如きで死にたく無い。こんなことを考えるのだって、ちょっと熱が高い日が続いて、食欲も出なくて、気持ちまで萎んでしまっているからだ。
 不治の病ではあるまいし、大人しく寝て、栄養のあるものを摂取していればいつか良くなる。また元気に学校に行ける日が来ると信じて、彼は舞い降りてきた不吉な予感を振り払った。
 だけれどどれだけ遠くへ蹴り飛ばしても、弾んでまた戻って来てしまう。
 足元に転がり続ける不安の原因は、一向に下がる気配が無い熱だ。
 夜になってまだ下がらないようなら、医者に行こう。大騒ぎしたくないからと病院にだけは行きたくなかった綱吉だが、母のこの言葉には頷かざるを得なかった。
「やだな」
 病院に行ったら、注射を打たれる。治るためとはいえ、痛い思いは出来るならしたくない。
 だが注射一本で辛い時間が減るのであれば、一寸の痛みは我慢すべきだ。
 頭の中で天使と悪魔が言い争いしている。五月蝿いのが嫌で首を振り、彼は思考を停止させてシーツを握り締めた。
 なんとしてもこの連休で全快して、火曜日から学校に行くのだ。
 そう意気込むが、現状からでは到底達成出来そうにない。
 瞼が重い。睡魔などとっくの昔に遠くへ旅立ってしまったと思っていたのに、視界を暗くしているうちに夜だと勘違いして帰って来てしまったようだ。
 耳障りでしかなかった時計の針の音が子守唄に聞こえた。加湿器の音はパーカッションで、ならば空調は観客席で鳴り響く拍手か何か。
 ちっぽけな部屋が荘厳なオーケストラ会場になる夢を見て、綱吉はゆっくりと闇の世界へ堕ちていった。

 夢の中の彼は、何故か蜜柑畑に居た。
 やや傾斜した山肌に、沢山の木が生い茂っている。その枝という枝に、オレンジ色も鮮やかな蜜柑が、まるで鈴なりの如く実っていた。
 こんなにも食べきれない。橙色に染まる山を見上げて、綱吉は涎を垂らした。
 格別好きな果物ではないけれど、冬といえば矢張り蜜柑。そう相場が決まっている。
 いっぱい収穫して、みんなに分けてあげよう。奈々に、リボーンに、ランボたちにも。獄寺や山本や、京子もきっと喜んでくれるはずだ。
 彼は背中に負ぶった大きな籠と共に気合いを入れて、薮が道を塞ぐ山に分け入った。しかし蜜柑の良い香りはするのに、ちっとも果樹の元まで辿り着けなかった。
 近付いているはずなのに、遠退いている。甘酸っぱい匂いだけでは、腹は膨れない。
 空腹感ばかりが強まって、涎が止まらない。食べたいのに食べられないというのは悔しい以外になくて、彼は不満を顔に出し、思い切って手を伸ばした。
 限界まで背伸びをして、指先を掠める蜜柑の枝を掴もうと足掻く。何度も空振りして、それでも懸命に繰り返すうちに、中指の先が何かに掠めた。
「うー……」
 あと少し。
 自分の背の低さを恨みながら夢の中でジャンプを繰り返して、彼はようやく、念願だった蜜柑の枝をぱしっ、と掴んだ。
 その瞬間、足元が唐突に崩れた。
 着地できない。小柄な身体は、あっという間に暗闇に飲み込まれていった。
「  っ!」
 ハッとして、目が醒めた。
 コチコチ言う時計の音がやけに大きく響く。肌を撫でる汗の感触がはっきりと伝わってきて、その不快感と、高鳴る鼓動に、綱吉は暫く息が出来なかった。
 呆然として、目を開けているのに何も見えない。自分が置かれた状況がさっぱり把握出来なくて、彼は瞬きを連発させて硬直している右手を揺らした。
 何故かそれだけが布団からからはみ出して、宙に浮いていた。
「え、あ……?」
 こんなことになっても、口を覆っているマスクの所為で声がくぐもる。琥珀の目を見開いて視界をクリアにして、彼は次第に落ち着いてきた心臓をまたひとつ、ドクン、と強く鳴らした。
「起きた?」
 低い声が問いかけを発して、惚けている綱吉の頬を叩いた。それでハッと我に返って、彼は狭いパイプベッドにどっかり腰を下ろしている人物に目を丸くした。
 何故此処に、彼が居るのだろう。
 降って湧いた疑問に対する答えが得られぬまま、綱吉は握ったままだった雲雀の腕を慌てて放した。
 強い柑橘系の匂いが鼻腔を擽る。おぼろげに覚えている夢と照らし合わせて顔を赤くして、彼は突き刺さる視線から逃げて頭まで布団を被った。
 途端に腹の上に何かが落ちてきて、綱吉は寝転がったままぴょん、と跳ねた。
「うわ」
「起きたら着替えるように、って」
 さほど重くはなかったが、驚かされた。
 布団を跳ね除けて顎を引き、横に落ちてしまったものの正体を知ってホッと息を吐く。胸を撫で下ろした彼を見て、雲雀は肩を竦めた。
 布団の上に転がっていたのは、洗濯したてのパジャマだった。
 誰がこれを雲雀に託したか、楽に想像がつく。しかし綱吉は、母が部屋に入って来たのにも、そして雲雀がやって来たのにも、全く気がつかなかった。
 いつものように窓から入ったのかと考えるが、鍵は閉めておいたはずだ。
「なん、で」
 まだ夢の続きにいるのかと疑うが、こんなにも視覚も、感触も、嗅覚もリアルな夢があってたまるものか。
 喉に息が引っかかり、出す声はどれも掠れていた。しかもマスク越しなので余計に聞き取り辛かったようで、雲雀はちょっと顔を顰めると、音を拾い上げんとしてか、綱吉の方へ身を乗り出した。
 パイプベッドがギシギシと嫌な音を立てる。真上から覗き込まれて、その近さに吃驚した綱吉は、慌ててマスクの下で口を閉ざし、視線を避けて布団を引っ張り上げた。
 顔の大半を覆い隠した彼にムッとして、雲雀は軟弱な防御壁を打ち破ろうと上掛け布団の端を掴んだ。
「ダメです」
「どうして」
「だって風邪、伝染っちゃう」
 防寒具も兼ねた綿入りの布を奪い取ろうとする雲雀にかぶりを振り、綱吉はいがらっぽい喉を押して叫んだ。
 喋るたびに喉に違和感が走り、唾を飲めばチクチクと痛む。そのくせ鼻が詰まっているので口呼吸をしないわけにもいかなくて、何もかも思い通りにならない状況に、彼は涙ぐんだ。
 琥珀の瞳が見る間に潤んでいって、雲雀はぎょっとして布団から手を放した。
 その隙に綱吉はうつ伏せになり、顔を隠して彼から距離を取った。
「沢田」
「ダメですー」
 過去に雲雀は、風邪をこじらせて入院している。到底そうは思えない元気さだったが、見えないところで熱や咳に苦しんでいたのかもしれないと思うと、それだけで綱吉の胸はぎゅう、と締め付けられるように痛んだ。
 馬鹿は風邪を引かないというのに、綱吉は患ってもう長い。こんなにもしつこく、強力な風邪が雲雀に伝染しようものなら、彼はあっという間に高熱を出して倒れてしまう。
 そんなのは嫌だった。絶対に嫌だった。
 枕に顔面を押し当てて、吐く息さえそこに封じ込めている綱吉に肩を竦め、雲雀は盛大に寝癖がついている蜂蜜色の髪をぽんぽん、と撫でた。
 子供をあやすように指を動かし、心配性な少年に淡い笑みを浮かべる。
「大丈夫だよ」
 囁き声で言い聞かせるものの、綱吉はなかなか顔を上げてくれなかった。
 余程、信用が無いらしい。過去の自分を思い浮かべながら嘆息して、雲雀はベッドから落ちそうになっていた薄水色のパジャマを拾いあげた。
 綺麗に折り畳まれていたのに、あれこれしているうちにすっかり形が崩れてしまった。彼は苦笑を浮かべると、奈々ほど丁寧には出来ないものの、出来るだけ見目宜しいように形を整えていった。
 上下重ねたそれを綱吉の枕元に置いて、腰を浮かせる。負荷がなくなったベッドがまた鳴いて、綱吉は恐る恐る彼へと視線を流した。
 ひょっとしてこのまま帰ってしまうのでは、と不安になったのだが、雲雀は座る場所を床に移し変えただけで、立ち去ろうとはしなかった。
「……」
 彼が訪ねて来てくれたのはとても嬉しいのに、それを素直に言葉に出来ない。風邪引きという状況でなかったなら、今頃はその背中に飛びついて、力一杯抱き締めていただろうに。
 口惜しげに唇を噛んでいたら、鼻腔にふんわりと甘い匂いが漂った。
「ヒバリさん?」
 辛くならない程度に音量を絞り、小首を傾げて見えない雲雀の手元に意識を向ける。声は聞こえずとも気配で察したのか、彼は振り返って不敵に笑んだ。
 大きな掌には、オレンジ色のボールが転がっていた。
「食べる?」
「……それ」
「学校に来なかったの、風邪だったんだね」
 始業式をすっぽかした事を、少なからず根に持っているらしい雲雀のひと言に、綱吉は開きかけた口を閉ざした。
 ずずず、と大きな音を立てて鼻を啜り、息苦しさに喘ぎながらずれたマスクの位置を調整する。右を下にしてベッドに寝転んだ彼にも見えるよう、雲雀は小ぶりの蜜柑を肩の高さまで持ち上げた。
 よくよく見れば、部屋の中央に置かれたテーブルにも、タコの足のように広がったオレンジ色の皮が積み上げられていた。
 蜜柑畑の夢を見た原因は、間違いなくこれだろう。匂いにつられた食いしん坊な自分が恥ずかしくて、綱吉はひとり顔を赤くして頬を手で包み込んだ。
 悶絶している彼に小首を傾げるものの敢えて問わず、雲雀は真ん丸い蜜柑の中心に爪を立て、皮に割れ目を入れた。
 手際よく剥いていく。彼が皮を広げるたびに、食欲を刺激する香りが綱吉を誘った。
「休み過ぎて忘れてるか、それとも学校が嫌になったのかと思ったよ」
「そんなわけ……」
「うん」
 長期休暇後の、初っ端の登校程嫌なものはない。
 それまで朝遅く起きていても良かったのが、一時間目に間に合うように早起きを強いられる。さして面白くも無い、興味も無い勉強に一日の大半を費やされて、遊び惚けてもいられない。
 元々学校があまり好きでなかった彼を揶揄する言葉に首を振り、綱吉は伸ばそうとした手を枕元に落とした。
 雲雀が畳み直してくれたパジャマをまたひっくり返して、丸めて胸元へと引き寄せる。
 イモムシのように小さくなっている彼に微笑んで、雲雀は白い筋が沢山残る房をひとつ、口に入れた。
 薄皮を噛み砕けば甘い汁がいっぱいに広がった。鼻を通して外に流れる呼気にまで、蜜柑の香りが染み付いている。
 美味しそうに頬張る彼を恨めしげに見て、綱吉は本来の用途から大きく外れたパジャマを、彼の代わりに抱き締めた。
 熱さえ下がっていたら、始業式には行った。どうせ授業はなくて、ホームルームだけで帰らせてもらえるのだから、多少咳が出て、鼻水が垂れていても構わない。
 だけれど願いは虚しく、熱は三十八度近くを彷徨い続けた。
 学校に行きたかった。
 雲雀に会いたかった。
 ベッドの上に磔にされて、獄寺達にも会えずに寂しく過ごす始業式なんて、金輪際御免だ。
「ヒバリさん」
「分かってるよ」
 綱吉が、学校が嫌になったわけではない事くらい、この状況を見れば分かる。
 鼻声で名を呼んだ少年に目を細め、雲雀は筋を取り除いた房を彼の前で揺らした。
「食べる?」
 鍵の閉まった窓に悪戦苦闘していたら、買い物帰りの奈々に見付かって玄関から通されたとは、流石に言えそうにない。彼女は勝手に見舞いだと勘違いして、雲雀みたいな人がいて、綱吉は幸せ者だと言った。
 綱吉に瓜二つの顔で微笑まれると、なんだか気恥ずかしい。そんなつもりはなかったのに部屋に通されて、起きたら着替えるようにパジャマまで託されてしまった。
 帰るに帰れなくて、おやつ代わりに、と出された蜜柑をひたすら貪り食っていた。
 少し黄色くなっている指先ごと視界に入れて、綱吉は渋い顔をした。
「それって、俺の」
「うん。君にもって」
 だが綱吉はなかなか起きなくて、これが最後の一個になってしまった。
 テーブルに山積みになっている皮も見て臍を噛んだ綱吉は、平然と言ってのけた雲雀を軽く睨み、身じろいで左耳に引っ掛けていた紐を外した。
 右耳に草臥れたマスクをぶら下げて、両肘をベッドに突き立てて身を起こす。
「はい」
 遠慮がちに口を開いた彼に手を伸ばし、雲雀は生まれたての赤子のように瑞々しい蜜柑を差し出した。
「ン」
 それをパクンと口に入れて、綱吉は喉を刺す酸味と、痛みを覆い隠す甘味に、嬉しいような、苦しいような、良く分からない表情を作った。
 なんともいえない顔をする彼に呵々と喉を鳴らし、雲雀は次の房を揺らした。
「ビタミンだよ」
 薬と思って食べるように言われて、綱吉はもごもごしながら頷いた。
 気のせいか、さっきよりも呼吸が楽になっている。続けてもうひとつ口に入れると、蜜柑以外の匂いと味が舌の上に広がった。
「厚着してるから、風邪を引くんだよ」
「だって、寒いし」
 次の房の筋を取り除いて、雲雀が呆れ混じりに呟く。言い訳の声は、一寸前よりも大きく響いた。
 雲雀はいつだって薄着だ。そしてあの病院での一件以外、彼が熱を出して寝込んだという話は聞かない。
 健康優良児の代表格たる青年に苦虫を噛み潰したような顔をして、綱吉は鼻を愚図らせた。
「もしかして、あの入院って……」
「なに。今頃気付いたの?」
 雲雀が入院した先は、綱吉が怪我で運ばれた病院と同じだった。トンファーを手に、元気いっぱいに綱吉を咬み殺してくれた彼は、何処からどう見ても病人ではなかった。
 細い目を丸くして、雲雀が驚きを顔に出す。突き出された蜜柑を齧って、綱吉は肩を震わせて笑う彼から目を逸らした。
 綱吉が居たから、彼は病院に来たのだ。それも一緒に居ても違和感がないように、わざわざ入院患者を装って。
「……ちぇ」
 本気で心配した自分が急に馬鹿らしくなって、悔しさに負けて舌打ちする。聞こえた雲雀は楽しそうに目を細め、最後のひと房を差し出した。
「早く治してよね」
「分かってますよ」
 このままではキスさえ出来ない。そう嘯いた彼に悪態をついて、綱吉は蜜柑味の指に噛み付いた。

2011/1/2 脱稿