青と、白と、灰色と。
目に映る景色はその三つの色だけで表現出来て、綱吉は物足りなさを覚えて首を竦めた。
吐く息は白く濁り、吹く風に攫われてあっという間に消えてなくなった。行方を追いかけて視線を左に転じれば、彼を此処に連れて来た張本人が、潮風をまともに受けるバイクのハンドル部分を労わるように撫でて、傾いて倒れたりしないかどうか、厳重にチェックを重ねていた。
運転中に嵌めていた黒の皮手袋は外しており、白い指が滑らかに動き回っている。その仕草を眺めているうちに、まるで違うことを思い出しそうになって、綱吉は慌てて首を振った。
「寒い」
ぼそりと言って鼻先までマフラーに埋めて、眼下に見える石段と、その先に続く砂浜とを順番に見下ろす。
両手はポケットの中だ。ずっと寒風を浴び続けていたものだから、指が悴んでまだ溶けない。
手袋もして、がっちりガードしていたのに、自分の方がずっと寒がっている。長く無言でハンドルを握り続けた男を盗み見て、綱吉は悔し紛れに空気を蹴り飛ばした。
前に繰り出した足を、古ぼけた石段の真ん中に下ろす。長年風雨に晒され続けていたからだろう、角は削れて、丸くなっていた。
「綱吉」
「うっ、みー」
気付いた雲雀が顔を上げるが、彼は制止の声を無視して駆け出した。
頬を叩く冷たい風に逆らって叫び、爪先が被った砂を蹴散らして砂浜へと身を躍らせる。夏の日差しの下ならば真っ白に輝いて見えるだろうそこも、真冬の空の下では灰色にくすみ、薄汚れて映った。
天を仰げば太陽は分厚い雲に隠れがちで、陽射しは少ない。海から吹きつける風は休む事を知らず、潮の香りはどれだけ振り払っても、しつこく後ろを追いかけて来た。
一歩進む度にザクザク、と音がする。踝まで頑丈に覆うブーツでなかったら、とっくに靴の中は砂だらけだ。
「さむっ」
左右の手は依然、ポケットの中だ。肩を丸めて呟き、綱吉は後方を振り返って視線を上に流した。
砂浜へ下るための階段横に、雲雀の姿はなかった。ふたりを海辺まで運んで来たバイクが、物寂しげに佇んでいるのだけが見える。
「綱吉」
声がしてそちらに顔を向けて、やっと彼は、雲雀が意外に近くに来ていたのを知った。
光沢のある黒色のライダースジャケットに、膝に届くくらいのロングブーツ。運転中は一番上まで上げていた上着のファスナーは、今は鎖骨の辺りまで下ろされていた。
寒くないのだろうかと、むき出しになっている白い首に目をやって、綱吉は足元の砂を掘った。
「海」
「うん」
ポツリと言った彼に頷き、雲雀は灰色に煙る水平線に視線を投げた。
砂浜はそれなりに広いが、人影は他にまるで見当たらない。八月の陽気さは何処へ行ってしまったのか、静か過ぎていっそ不気味な程だ。
もっとも、これだけ陽射しが弱く、気温も低く、水温だってとても泳げそうにないレベルなのだから、海岸線に誰もいなくても、なんら不思議ではない。
それなのに、自分たちは此処にいる。これではまるで、夏に置き去りにされてしまった哀れな子供だ。
「なんで、海」
真冬の海など、面白くもなんともない。それなのに急に、行こうと言われた。
愚痴を零した綱吉を横目で盗み見て、雲雀は力なく垂らしていた左手を揺らして拳を作った。
は、と息を吐けば白く濁る。呆気なく風に打ち砕かれた靄に目を眇め、彼は何が面白かったのか、急に笑い出した。
「ヒバリさん」
「約束しただろう?」
「約束?」
はにかんだ彼に言われて、綱吉は目をぱちくりさせた。
琥珀色の瞳を真ん丸に見開いて、口をヘの字に曲げる。眉間に皺を寄せて記憶の引き出しをひっくり返してみるものの、思い当たる節は出てこなかった。
「覚えてない?」
人差し指を顎に押し当てた彼に向き直り、雲雀は拳を解いた。ジャケットのポケットに指先を捻じ込んで、肩を落とす。
綱吉が約束を綺麗さっぱり忘れているのに、機嫌を損ねた様子はあまりない。相変わらず穏やかな笑みを浮かべ続けて、彼はおもむろに波打ち際へ歩を進めた。
動き出した雲雀を目で追いかけて、綱吉はダッフルコートのフードを頭に被せた。
濃い目のベージュの塊が、細身の青年を追いかけている。もしアスファルトで舗装された道路から海岸線を見下ろす人があれば、そんな風に映っただろう。
出来損ないの雪だるまと化した綱吉は、時折砂に足を取られて転びそうになりながら、黙々と足を進める雲雀の身勝手さに悪態をついた。
「寒い」
朝、急に電話があった。
今日は暇かと聞かれたので、暇だと二つ返事で答えた。
迎えに行くから暖かい格好をしておくように言われたので、バイクだろうと予想して、それなりに着込んできた。
だけれど行き先が、まさか季節外れもいいところの海だとは思わなかった。
「寒いだけじゃん」
寒風を浴び続けて赤くなった頬を膨らませ、綱吉は寡黙な背中を殴るフリをした。瞬間、気配を察した彼に振り返られて、吃驚してたたらを踏む。
「わっ」
「馬鹿だね」
しかし足場が悪すぎて踏ん張りが利かず、敢え無く湿気た砂の上に尻餅を着く。
呵々と笑いながら言われて、その通りだから否定出来ない綱吉はぶすっと口を尖らせた。恨めしげに雲雀を睨み、差し出された手も拒んで自分ひとりで立ち上がる。
コートに付着した無数の砂を必死に叩き落して、彼は湿った布の感触に臍を噛んだ。
ズボンが冷たい。ただでさえ空気は冷えているというのに、余計に寒くなって、鳥肌立った腕を交互に撫でさすって暖を呼び起こす。
ズズズ、と音立てて鼻を啜り上げて、それを抗議の代わりにして目を吊り上げる。色気とは無縁のところにいる彼に苦笑して、雲雀は拗ねている綱吉の頬を、戯れに擽った。
触れた指の背は乾燥して、カサカサしていた。触れ合った皮膚が絡み合って引っ張られて、綱吉は少しだけ彼の方に身体を寄せて、迫り来る悪寒から逃げた。
「冷えるね」
「当たり前です」
赤味を帯びているから熱いかと思ったが、そうでもなかった。
左手を揺らし、雲雀がそんな感想を口にする。綱吉は反抗的に言い返して、押し寄せる波を避けて雲雀の肘を引っ張った。
水遊びをするような季節でもない。ふたりともブーツとはいえ、不用意に濡らしてよいものでもない。
今日を入れて、あと二日で今年が終わるのだ。あと夜をふたつ越えれば、次の年がやって来る。
早いうちに大掃除を終わらせておいてよかったと、雲雀からの電話に出た時、綱吉は心底思った。年賀状も作って、既に投函済みだ。冬休みの宿題はまだ片付いていないけれど、年越しを前にやっておくべきことは、珍しく粗方終わっていた。
まるで今日の誘いを予見していたかのようだ。本当のところは、リボーンにせっつかれて嫌々遣っただけなのだが、今回限りは、あの横暴な赤子のお節介に感謝すべきだろう。
後ろ向きに数歩進んだ雲雀が肩を回したので手を離してやって、綱吉は雲の方が断然多い空に鼻を啜った。
「赤くなってる」
「寒いんですよ」
横に並んだ雲雀に言われ、挙句ちょん、と小突かれた。トナカイになっていると笑われて、綱吉は手袋のまま両手をそこに重ねた。
雲雀も耳が少し赤く染まっていた。だが、それだけだ。
「うぅ」
どうにも悔しいが、彼が鼻を赤くしているところが見たいか、と冷静に自分に問いかけたところ、首を横に振る事態に陥って、綱吉は悔しげに奥歯を噛み締めた。
「寒い」
何度目か知れない愚痴を零し、彼は誰にも踏み荒らされていない砂浜に足跡を刻みこんだ。
貝殻が落ちているけれど、拾う気になれない。頭だけ飛び出して、他は埋もれているそれを跨いで越えて、横殴りの突風に咄嗟に首を竦めて顔を強張らせる。
煽られた黒髪を押さえ込み、雲雀は目に入ろうとする砂を避けて瞼を閉ざした。
冬の海など、好んで来るものではない。痛感するが、後悔は浮かんでこなかった。
「なんだって、もう」
一方の綱吉はまだブツブツ言って、不満げだ。膨れ面を崩さない彼に相好を崩し、雲雀はまん丸に膨らんだフードを後ろから引っ張った。
「あっ」
ずるりと滑り落ちたその下から、鮮やかな蜂蜜色の髪の毛が溢れ出した。今日も御多分に洩れず、天を向いて元気良く跳ねている。
この髪型は、きっと十年経っても変わらないはずだ。明後日のことも分からないのに、そんな事を胸に思いを抱き、雲雀は両手で頭を抱えている綱吉を笑い飛ばした。
殴られそうになったので急いで逃げて、距離を取る。彼は悔しそうに地団太を踏んで、落ちていた枝を拾って振り回した。
「危ないよ」
「ヒバリさんなんか、こうしてやる」
切っ先鋭い方を向けられて、雲雀はじりじり後退した。それを追いかけ、綱吉は叫ぶと同時に大きく振りかぶった。
ヒュッ、と風が奔る。跳んで避けた雲雀は、振り抜いた直後の隙だらけの綱吉に一気に詰め寄って、驚いて仰け反った彼の手を叩き落した。
指が解け、枝が落ちる。音もなく砂に沈んだそれを、雲雀は一呼吸置いてから靴の側面で蹴り飛ばした。
簡単には届かないところに持っていかれてしまって、綱吉はムスッとしながら肩を怒らせた。今度は直接拳で殴りつけようとして、またもや伸びてきた大きな手に、手首を攫われる。
コートの袖と、手袋の隙間。一瞬覗いただけの素肌を正確に絡め取られて、触れた指先の冷たさ、そして後からやって来た熱さに戦き、綱吉は惚けた顔を慌てて伏した。
そっぽを向いて、寄せては返す波が残した泡をひたすら見詰め続ける。
「約束なんか、……してないのに」
「した」
「いつ」
「覚えてない。でも、したよ。連れて行くって」
恨み言を口にして、柔らかい砂に爪先を押し付ける。体重を受けた分だけ沈んで、浅い穴が出来た。
遠くを見たままの雲雀が、きっぱりと言い切った。迷いのない真っ直ぐな言葉が胸に突き刺さって、綱吉はそれ以上何も言い返せなくなった。
そこまで強く言われると、約束を交わした気になってくる。全く覚えていないし、口ぶりから察するに、雲雀も最近まで綺麗さっぱり忘れていたに違いない。
だけれど、思い出した。
思い出してくれた。
綱吉が覚えていないという事は、当時の彼はさほどこの約束に執心していなかったのだろう。他愛もない日常会話の中に紛れ込んだ、瑣末な出来事でしかなかったはずだ。
本当になるなど、微塵も考えていなかったに違いない。
「だからって、こんな真冬に来るのは、どうかって思うけど」
独り言を口にして、綱吉は白い息が流れて行った方角に顔を向けた。バサバサ言う髪の毛を片手で押さえつけて、無人の海岸線を目で追いかける。
散歩の人もいないので、独占状態だ。五ヶ月前だったなら、まず考えられない。
「……えへへ」
バイクに乗っている時も、雲雀を独り占めだった。振り落とされないように必死だったからその時はなんとも思わなかったけれど、今考えるとあんな風にぎゅうぎゅうに彼の腰にしがみつくなど、やった事が無い。
光景を思い浮かべて振り返り、照れ笑いを浮かべた綱吉はもぞもぞと身を捩った。
落ち着きなく動き出した彼を怪訝に見て、雲雀はやがて、気の抜けた笑みを浮かべて肩を竦めた。
「やっぱり、この季節の海は寒いか」
「寒過ぎです」
「風邪引かないようにね」
「俺、馬鹿ですから」
「自慢にならないな」
口を尖らせて文句を言った綱吉に、雲雀が呆れ混じりに呟いた。相変わらず彼も遠くばかりを見ているが、耳はちゃんと綱吉に傾けて、一言一句聞き逃さないよう気をつけているのが分かる。
手首を振って、綱吉は彼の指を引っ掻いた。何も言わないうちに雲雀は気取って、手首を掴んでいた手の力を緩めた。
滑るように手の甲を下り、五本並んだ指を絡め取る。掌を重ね合わせて握れば、ちょっとやそっとでは解けないくらいに頑丈な繋がりの完成だ。
もっとも綱吉は手袋をしたままなので、お互いの体温を確かめるのはなかなか難しかった。
「暖かい」
毛糸の感触にほうっと息を吐いて、雲雀が囁く。綱吉のペースに合わせて進む彼は、少し歩き辛そうだった。
脚の長さが違うから、というひと言で済ませるのは、同じ男として悔しい。細くしなやかな骨格を思い浮かべ、それに連なる彼の体躯を脳裏に思い浮かべた綱吉は、目の前を過ぎっていった逞しい裸体にハッとして、慌ててブンブン首を振った。
「どうかした?」
きちんと衣服を身につけた雲雀が不審がって覗き込んできて、綱吉は琥珀の目をまん丸にして息を飲んだ。
「……寒い」
まさか貴方のハダカを想像していました、とは口が裂けても言えない。誤魔化しに、既に何度口にしたかも分からない冬の海の感想を述べて、赤い顔も海風の所為にしてしまう。
照れて拗ねた横顔に目を眇め、雲雀は足を止めた。
「戻ろうか」
適当に砂浜を歩いて来たので、バイクを停めた場所からそれなりに離れてしまっていた。
しっかり施錠はしてあるので盗まれる心配は少ないが、それでも見える範囲にないと不安だ。まだ購入してからそう間が無い、新品同然の二輪車に思いを馳せ、綱吉は余っている手で自分の頬を捏ねた。
強張っている筋肉を解して柔らかくして、手袋越しに息を吹きかける。
着いてからまだ十五分も経っていない。折角遠出をして来たのに、これで切り上げて並盛町に帰るのは、ちょっと勿体無い気がした。
ただ寒いのには違いなくて、あまり長時間此処に居たいとも思わない。どこか壁と屋根があり、暖房の利いた場所でゆっくりしたいと思うのは、我が儘ではないだろう。
「帰ります?」
「そうだね。君に風邪を引かれても困るし」
「俺より、ヒバリさんのが、寒そう」
戻るかと言ったくせに動き出さない雲雀の腕を引き、綱吉が渋々問いかける。そうしたら待ち構えていたかのように雲雀が意地悪く言い返して来たので、綱吉はムッと鼻を膨らませ、握る手に力を込めた。
綱吉愛用の手袋で、彼の手ごと包み込んでしまわんとする。
骨が軋む痛みに肩を竦め、雲雀は仕方無しに左足を前に送り出した。
方向転換して、来た道を、少し陸地よりに歩き始める。
背の高い防波堤越しに、車が走る音が聞こえる。誰も冬の海に目もくれない。手を繋いで歩くふたりにも、まるで気を向けない。
並盛町では人の目が気になって、こうやって並んで歩くのすら難しかった。
年の瀬が迫り、一年の終わりが目前に迫っている中で、今日という日は思いがけないプレゼントだった。少し前に終わったばかりのクリスマスよりも、ずっと嬉しいかもしれない。
「お正月、忙しいですか?」
一寸しか会えなかったのを思い出したら、急に切なくなった。
声を潜めて問うた綱吉に、二秒ばかりの間を置いて、雲雀は前を見たまま頷いた。
「そっか」
「暇を見つけて、会いに行くよ」
「……嘘だ」
日々多忙を極める風紀委員長は、長期休暇期間やイベント時期、特に慌ただしい。夜遅くまではしゃぎまわり、風紀を乱す輩が増えるからだ。
いっそ、こんな季節ごとのイベントなど無くなってしまえば良い。だけれどカレンダーになんの印も入っていないのは面白くなくて、どっちつかずの心を持て余し、綱吉は右足を大きく前に蹴り出した。
不貞腐れた声を出した彼を盗み見て、雲雀ははっ、と白い息を吐いた。
「約束する」
風に追い遣られて掠れてしまった言葉に、綱吉は黙って首を横に振った。
「嘘だ」
ほんの僅かに声のトーンを上げて、幾らか気持ちを高揚させて呟く。
雲雀が交わした約束を懸命に守ろうとしてくれている事くらい、綱吉だって、本当はちゃんと分かっていた。ただ、彼の言葉が叶わなかった時の事を考えるとひたすらに切なくて、どうしても素直に頷けなかった。
砂に埋もれていた石を踏み潰して、彼は不意にふっ、と気の抜けた笑みを浮かべた。
「あー、お腹空いたー!」
両手を広げ、いきなり大声を出した綱吉に吃驚して、雲雀は困ったようにはにかんだ。
「何か食べに行く?」
「行くー」
半年も前に契った約束も、彼は忘れなかった。思い出してくれた。こんなにも律儀な人、綱吉は他に知らない。
今は、それだけで良い。
車道へ上がる階段の手前で訊いた雲雀に元気よく返事して、今度は両手を挙げて万歳のポーズを取る。繋いだままの腕を揺さぶられて、雲雀は右腕だけを頭上高くまで持ち上げた。
それを、一気に振り下ろす。
「ぐっ」
肩が抜けそうになって、綱吉は左に身体を傾けて唸った。
悪戯が成功したのを喜び、雲雀が意地悪く目を細める。したり顔をしている彼に憤慨して、綱吉は足元の砂を彼目掛けて蹴散らした。
「こら」
声を低くして叱り、雲雀が後ろに跳んで逃げた。弾みで手が解けて、指先から熱が溶け出す。
空を掻いた指を握り締めて、綱吉は胸を過ぎった寂しさに唇を噛んだ。
「ヒバリさん」
「ああ」
苦しげに名前を呼べば、ブーツを振って砂を落としていた青年が肩を竦めた。緩慢な相槌ひとつ打って、両手をズボンのポケットへと捻じ込む。
綱吉は手袋をしているけれど、彼は素手だ。こうしている間も冷たい風が海から登ってきて、彼らの頬や耳や、背中を叩いた。
やり場がなくなった己の手を握っては広げて、綱吉は面白く無さそうに口を尖らせた。
階段に一歩目を踏み出した雲雀が、そうやって拗ねて砂浜から動かない彼に目尻を下げた。
「何が食べたい?」
手が悴んだままではハンドル操作も覚束ない。温めるためには仕方が無いのだと言っても、綱吉はきっと納得しない。
物足りなさを覚える指先をポケットの中で蠢かせて、鍵を取り出して小首を傾げる。綱吉はコートのフードを目深に被って、表情を隠して大きく息を吸い込んだ。
「お鍋!」
自分の足元に向かって怒鳴った彼に目を点にして、雲雀は雲に隠れた太陽を探し、水平線よりも高い場所に視線を走らせた。
「この時間から?」
「あったかいの、食べたい」
「他にもあるだろう」
「じゃあ、おでん」
下膨れた顔をして、綱吉が次々にリクエストを声に出す。だがどれも腹に重いものばかりで、雲雀は即答しかねて当惑を顔に出した。
まだ日は高い。夕飯が食べられなくなって困るのは、綱吉だ。
「じゃあ、焼き芋。あと、たこ焼き。たい焼きでも良い。肉まんも食べたい。それから、えっと、ホットドッグ」
「お腹、壊すよ」
「でも食べたい!」
拳を振り回して駄々を捏ねる姿は、まるで子供だ。五歳児に逆戻りした綱吉に呆れて嘆息し、雲雀は現在時刻を確かめるべく、袖を捲くった。
昼食には少し早いが、あまりのんびりしていたら店が混み始める。
「後は、お汁粉でしょ、黄な粉塗したお餅もいいな。それとホットケーキでしょ、ハンバーガーでしょ。この辺に美味しいカレー屋さんがあるって、前にハルが言ってたな」
指折り数える少年の目はキラキラと輝いて、とても楽しげだ。
垂れそうになった涎を拭って飲み込んだ彼の一挙手一投足を見守って、雲雀はもう残り少ない今年に思いを馳せた。
「全部は無理だよ」
「えー」
「次、また来よう。その時に」
今度はちゃんと、泳げる時期に。但しその頃に鍋を食べるのは辛いから、そちらは冬の間に済ませたい。
瞬く間に埋まっていく脳内のカレンダーに苦笑して、雲雀はなかなか階段を登ってこない綱吉を手招いた。取り出したバイクの鍵をくるくる回して、置いて行くぞと脅す。
ここから並盛町の家に帰るのに、交通手段は限られている。バスは滅多に来ないし、タクシーを呼べるほど綱吉は金持ちではない。
急ぎ足で駆け出した彼を出迎えて、雲雀は彼の為に買った真新しいヘルメットを高く掲げた。
「でっ」
ゴン、と軽く叩かれて、綱吉が首を竦める。雲雀は呵々と笑い、手袋を嵌めようとして、思い留まって右手を伸ばした。
「はい」
「ん?」
小指を差し向けられて、綱吉は目を丸くした。
「約束。忘れないように」
今度はちゃんと、季節に見合った場所に行こう。
嘯いた雲雀に急かされて、綱吉は照れ臭そうに笑い、細い小指に小指を絡めた。
2010/12/10 脱稿