夢裡

 細波が押し寄せ、乾いた砂浜に覆い被さる。波が引いた後には薄い縞模様が残されて、濡れた石英が光を反射し眩しく輝いた。
 砂を踏めばサク、と微かな音が足の裏を伝った。その心地よい感触を楽しみながら歩を進めれば、後ろには等間隔の足跡がくっきりと残された。
 もっともそれらも、永遠には続かない。波に洗われた砂浜はすぐに平らに均され、呆気なく形を変えてしまう。砂上の楼閣、という言葉がふと思い浮かんで、彼は長く伏していた視線を持ち上げた。
 真っ先に見えたのは煌々と輝く太陽だった。
 澄み渡る青空がどこまでも続いていた。まるで絵の具を塗りたくったような平坦な色合いは、しかし一点の穢れもない証拠だと思えばすんなり納得がいった。
 波が引き、押し寄せてはまた去っていく。太古の昔から連綿と続いている現象を無言で見つめ、彼は半分砂に埋もれていた貝殻を蹴り飛ばした。
 硬い靴に弾かれて、乳白色の巻貝が左に大きく傾いた。
 中身は既に息絶えた後らしく、慌てて逃げ出す様子もない。鋭く尖った先端部分を地中から掘り出して、彼は砂粒に覆われた死骸へと手を伸ばした。
 覗き込めば、案の定、中は空洞だった。
 そういえば、聞いたことがある。遠い昔に、誰かの言葉で。
 貝殻を耳に押し当てると、波の音がする――と。
 実際のところ、それは潮騒ではない。ロマンティックな解釈もたまには悪くないが、大人になってから知った顔で吹聴すると恥を掻くだけだ。
 もっとも真実を語り聞かせてやるにしても、タイミングというものがある。それは違うと誤りを訂正してやったというのに、貴方には夢がないと怒られたのが良い例だ。
 あちらの言い分としては、幼い頃から描き続けてきた幻想を木っ端微塵に砕かれた。たとえ事実でなかったとしても、貝殻ひとつで童心に帰れるのだから、ここは想いを汲み取って「そうだね」と同意して然るべきだったのではないか、ということらしい。
 以上のやり取りをした時は、馬鹿らしいとため息ひとつで会話を締めくくった。けれど今ならば、あのセンチメンタルな感傷も分からないではなかった。
 貝殻の表面を撫で、右の耳にそっと押し当ててみる。ざああ、と狭い空間に反響する音色は、確かに左から聞こえる細波にどこか似ていた。
 そういえばあの貝はどうなっただろう。
 あの子が拾った真珠色の貝殻は、どこへ行ってしまったのか。
『ヒバリさん』
 不意に胸をよぎった疑問に、愛らしい声が重なり合う。まるで掌中の貝から響いたようなタイミングにはっとして、彼は背筋を伸ばして瞠目した。
 利き腕を下ろして前方を見れば、見開かれた黒い瞳がひとりの若者を映し出した。
「つなよし」
 それは今まさに、脳裏に思い浮かべていた人。遠い昔、異国の海岸線を並んで歩いた存在だった。
 甘そうな蜂蜜色の髪はぼさぼさで、重力を無視して四方八方に跳ねていた。学生だった頃よりは少し背が伸びて、表情は大人びて穏やかだ。しかし一度微笑めばえくぼが現れ、照れ臭そうにはにかむ姿は愛嬌に溢れていた。
 シンプルな黒のスーツをそつなく着こなし、両手は背中に隠して結んでいる。胸を反らし気味のポーズを決めて佇む彼との距離は、歩幅にして八歩か、九歩分だった。
 遠くはない。だが、決して近くもない。そんな絶妙なポイントに足を揃えて立ち、青年は雲雀の返事に顔を綻ばせた。
 名前を呼ばれて嬉しかったのか、首を少しだけ右に傾けて頬を緩める。そしてやおら踵を返し、両手を広げて駆け出した。
「綱吉」
 突然走り始めた彼に驚き、雲雀は咄嗟に右手を伸ばした。
 届かないと知りながら空を掻き、掴んでいた貝殻を砂浜へと沈める。足元に落ちたそれに気を取られた一瞬で、若きボンゴレ十代目との距離は最初の倍以上に開いてしまった。
『あはは。あはははは』
 雲雀から逃げ果せたのがそんなに嬉しいのか、甲高い笑い声が一帯にこだまする。立ち尽くす彼を振り返り、青年はしたり顔で首を竦めた。
 早く来い。そう言わんばかりに腕を振られた。手招かれて拒む道理はなく、雲雀は数ある疑問をその場に残し、砂を踏んで歩き始めた。
 先ほどまであれほど気にしていた貝殻を靴底で踏み潰し、再び地中に埋めてから身体を前へと運ぶ。漣が引いては押し寄せて、彼の進路を湿らせた。
 次第に重くなっていく足取りにも構わず、彼は先を行く若者を追いかけて懸命に腕を振った。
「綱吉。待ちなよ、どこへ行くの」
 この海岸は、果たしてあの日一緒に夕日を見た場所と同じなのか。地平線まで続くかと思われる長い海岸線に、ただ波の音ばかりが響き渡る。右を向けば世界は薄く靄がかかり、立派なコテージも、ホテルの影も一切目に入ってこなかった。
 だが雲雀は、それを不思議とは思わなかった。意識する余裕すらなかった。距離を詰めればまた広げられて、どうやっても追いつけない青年に心を絡めとられていた。
 声を荒らげるが、聞こえていないのか立ち止まってもくれない。時々ついてきているかの確認で振り返るばかりで、二十歳を機にマフィアのボスとなった若者は一向に足を緩めなかった。
 さく、さく、と調子よく刻まれる砂の音が鬱陶しい。最初こそ乾いていた砂浜も、いつの間にか全面が水に濡れて革の靴底に張り付いた。
 行かせまいとしているのか、まとわりつく砂利が重い。それを懸命に振り切って、雲雀は奥歯を噛み締めた。
 走っているつもりだった。だのに速度が出ない。普通ならとっくに追いつけているはずなのに、どう足掻いても間隔は狭まらなかった。
 絶対に自分の方がスピードで勝っていると思うのに、何故かあちらの方が速い。じわり、じわりと広がる距離に焦りを覚え、雲雀は汗を振り払って声を荒らげた。
「綱吉!」
 どれだけ名前を呼ぼうとも、声は相手をすり抜けていく。青年は後方を窺うこともせず、軽やかな足取りで波打ち際を駆けていった。
 まるで飛んでいるようだ。背中に翼が生えた人間はひとりで良いと唾を吐き、彼は歯を食いしばって足元を覆う水を蹴り飛ばした。
 ばしゃっ、と派手に飛沫を散らした爪先に、彼は一秒遅れて騒然となった。
「……な」
 なにが起きている。そう呟こうとした声は途中で途切れ、最後まで音にならなかった。
 久方ぶりに足を止めて絶句し、左右を見回す。いつの間にか澄み渡る青空は消え去り、鉛色の冷たい鉄板が頭上を覆っていた。
 高い位置に陣取る天井に、継ぎ目はなかった。ここが人工物の中なのか、違うのかの判断はつかない。唖然として背筋を粟立てているその間も、雲雀の両足は波に飲み込まれていった。
 踝にも届かなかった水位は徐々に上昇し、今や膝に至る勢いだった。ふくらはぎに張り付いたスラックスの感触に鳥肌を立て、彼は一変した景色に目を凝らした。
「綱吉は」
 右足を持ち上げれば、鉄球でもぶら下がっているのかと思うほどに重い。水銀に似た海水を掻き分けて進もうとするが巧くいかず、雲雀は前のめりに倒れそうになった。
 眼前に迫る水面に戦いて姿勢を取り戻し、頭を振って遠くを見据える。吸い込む空気までねっとり湿って重く、器官の粘膜に貼りつく不快感は半端なかった。
 温い汗を頬に流し、雲雀は痺れる舌で口蓋を舐めた。
 時間をかけて唾を飲み込み、荒い息をひとつ吐いて額を叩く。水気を吸った黒髪を掻き回して慎重に辺りを見回せば、遠く、白波の最中に人影があった。
 水位は上昇を続け、既に彼の腿まで達していた。
「綱吉!」
 このままでは溺れてしまう。嫌な予感に冷や汗を流し、雲雀は声の限り叫んだ。
 泳ぎに自信が持てたのは、学生の頃までだ。中学校を卒業し、財団を立ち上げた後は海水浴どころかプールにだって行っていない。服を着たまま泳ぐ術は学んでいるが、それとて数年前の話だ。
 つまるところ、此処最近は全く水と触れ合っていない。身体が覚えているから大丈夫、と胸を張って言えるのは、雲雀がひとりで陸を目指す時だけだ。
 泳げない人間を抱えて海岸線へ戻るのは、容易いことではない。血の気の引いた顔をして頬を強張らせ、彼は必死にその名を叫び続けた。
「綱吉、なにしてるの。つなよし!」
 切羽詰った声が波の音を押し潰す。だが琥珀色の瞳は穏やかに細められるばかりで、雲雀に応じようとはしなかった。
 砂浜で最初に見つけた時のように、両手は背中に隠して胸を張っている。愛くるしい笑顔は状況に合致していなくて、雲雀は内臓を撫でた悪寒に四肢を強張らせた。
 ぞっと来る寒気に指が引き攣る。瞬きも忘れて見入り、彼は直後、強く奥歯を噛み締めた。
「行くな!」
 自分でも驚くくらいの大声に、それでも反応は得られない。既に胸元まで水に浸かっているというのに、青年は相変わらず屈託なく微笑んで雲雀を見つめていた。
 距離にして、八歩か、九歩。あと少しで届くという近さにありながら、どれだけ足掻こうとも彼の手は虚しく空を掻き続けた。
 まとわりつく水が泥と化した。コールタールのように黒く粘る液体に囚われて、最早身じろぐことすらままならなかった。
 それでも尚、雲雀は手を伸ばした。ここで捕まえられなかったら、きっと永遠に掴み取れない。そんな予感に心が急いて、ほかに何も考えられなかった。
 プライドをかなぐり捨て、死に物狂いで水を掻く。少しでも距離を詰めようと必死の抵抗をみせるが、近づけたという実感は皆無に等しかった。
「つな……っ」
 叫ぼうとして口を開いた瞬間、大量の水が押し寄せてきた。
 油断していたわけではないが飲んでしまい、噎せた彼は背伸びをして水面から顔を出した。後ろに仰け反る形で呼吸するが、その間も水はどんどん増えていき、抗う身体を呆気なく押し流した。
 足元を掬われ、立っていられない。水中に没して無数の泡を吐き、雲雀は暗く濁る視界でそれでも手を伸ばし続けた。
 まだ届く。絶対に届く。
 なにがなんでも諦めてやるものかと、固い決意で魂を奮い立たせる。
 刹那。
「――!」
 なにか、が。
 空を掻くばかりだった彼の手を取り、強く握り返した。
 凄まじい力で引っ張られ、黒鉛の海から引きずり出された。一時は見えなくなっていた太陽が燦々と輝き、呆然と居竦む彼の身体を温めた。
 瞬きして、息を呑む。冷えた唇を動かそうとしたが、凍り付いてしまったのか微かに震えただけだった。
 呆気に取られる彼を見下ろし、琥珀の瞳が哀しげに伏せられた。
「つなよし」
 たどたどしい呼び声に、青年は首を振った。
 辛そうな表情で、口は真一文字に引き結ばれていた。感情を押し殺し、嗚咽を堪えている様子が窺えた。
 先ほどまで共に居た、笑顔が弾ける青年とは正反対だ。いったい何が起きているのか分からなくて、雲雀は続ける言葉を見失って唇を戦慄かせた。
 ぽたりと滴が頬に落ちた。それがただの雨粒なのか、塩水なのか、それとももっと違うものなのかすら、彼には判断がつかなかった。
 しかし考えなければいけない。きちんと明確な答えを見つけなければならないという義務感に背中を押され、雲雀は瞑目した。
「う……」
 そうして喉から搾り出したうめき声に頭を叩かれ、彼はゆっくり瞼を持ち上げた。
 細い隙間から光が紛れ込む。眩しさに慣れない網膜が悲鳴を上げ、反射的に目を閉じようとして喉が引き攣った。
 後頭部が枕に沈んだ。蕎麦殻ではない、化学繊維かなにかが詰め込まれた薄いピローケースが凹み、シーツに転がっていた細い管が巻き込まれて左へ滑っていった。
 着衣で海水浴をした余波か、身体の節々が痛い。指を曲げようとしただけで腕の関節全てが一斉に軋み、伸びきった筋がミシミシと音を立てた。
 細胞の幾つかが破壊されたのが分かる。苦しさに耐え切れず荒い息を吐けば、その大半が不可思議な壁にぶつかって口元に帰ってきた。
 温い呼気を浴びせられて、雲雀は集まり来る違和感に眉を顰めた。
 此処は、どこだ。
 ぼんやりと見える世界に青空はなかった。聞こえてくるのは潮騒ではなく、ピ、ピ、と一定のリズムを刻む電子音ばかり。神経に障る甲高いメロディーには覚えがあって、雲雀は混乱する頭を軽く揺らして瞬きを繰り返した。
 息を吐く。途端の視界の下半分が白く濁って、程なくして薄れて消えた。
 壁があった、それもとても局地的なものが。その正体も知っている気がするのに思い出せなくて、雲雀は浅く唇を噛み締めた。
 なかなか脳にまで血液が回らない。身体を動かそうにも全ての部位が重く、ベルトでベッドに括り付けられている気分だった。
 自由の利かない四肢を持て余し、雄叫びをあげようと腹に力を込める。途端にズキリと、これまでに類を見ない痛みが全身を駆け抜けた。
「ぐっ……!」
 電撃に貫かれた、そんな錯覚を抱いて天を仰ぐ。白目を剥きそうになって寸前で持ち堪え、雲雀は痛みの発生源からじわじわ広がる熱に背筋を寒くした。
 死にそうなくらいに、痛い。気絶してしまった方がいっそ楽ではないかと思えるくらいに、兎も角熱くてならなかった。
 こうしている間も、電子音は悠長にリズムを刻んでいた。モニター上の数値が異常な反応を示すものの、本人にはそれが見えていない。人工呼吸器のマスクを白く煙らせながら、彼は歯を食いしばって耐え難い激痛に抗った。
 それが、果たしてどれくらい続いただろう。
 突如轟音と共にドアが押し開かれ、蝶番の限界に達したところで勢い良く跳ね返った。
 駆け込んできた人物が当然の帰結に驚き、裏声で悲鳴を上げた。きゃっ、と女性のように叫んでから戻ってきた戸を押しのけて敷居を跨ぐ。慌しい足音が後に続き、雲雀の視界が一気に暗くなった。
 防菌のカーテンを潜って最初に現れたのは、白衣を纏った男だった。
 無精髭を生やし、垂れ下がり気味の瞳には覇気がない。いかにも面倒くさそうにあくびをして、彼は後ろに控えていた数名の看護士に何か指示を出した。
 場は騒然としていた。その中心にいる雲雀だけが、ひとり静かだった。
 寝台に転がしていた腕を取られて、細い針を突き立てられた。感覚が麻痺しているのか、他の場所の痛みが強すぎるのか。ともあれ先端が皮膚を抉る実感はあっても、痛みはまるで感じない。追加された点滴をちらりと窺って、彼は人を探して視線を泳がせた。
 宙を彷徨う瞳を察してか、医者の肩書きを持つ男がクツリと笑った。喉を鳴らして頬を緩め、髭だらけの顎を撫でてから自然な動きで裾を翻す。
「おい、ボンゴレ」
 日頃は煙草を摘んでいる手を揺らし、彼はカーテンの外に控えていた人物を呼んだ。
 室内に響いた低い声に、雲雀の四肢が戦いた。
 動けば痛いのに、それも忘れて拳を作る。腕を引き攣らせた彼に、看護士が作業を中断させて両手を引っ込めた。
 警告を意味しているのか、なにかの器具がけたたましい電子音をかき鳴らした。耳障りな音色に眉を顰めていたら、甲斐甲斐しく処置する看護士らに向かって白衣の男が顎をしゃくった。
「しかし、患者が」
「意識は戻ったんだ、もう心配いらねーだろ。ソイツは、これくらいでくたばったりしねえよ」
 麻酔を追加しなくても、気力だけで痛みを堪えている。想像を絶する根性だと鼻で笑い、トライデントモスキートの異名を持つ医者は抗菌カーテンを横に押しのけた。
 無責任でおおよそ医者らしからぬ言動に、まだ若い看護士は戸惑いを隠せない。どうしたものかと困っている青年に腕を撫でられて、その不快さに雲雀はキッ、と目を吊り上げた。
 彼が少し前まで意識不明の危篤状況だったと、いったい誰が信じるだろう。恐ろしいまでの回復力を見せ付けた患者に恐れを抱き、看護士はひっ、と悲鳴を飲み込んで後退した。
 ベッドを離れ、シャマルとは違う場所からカーテンの外へと逃げていく。ぱたぱた言う足音は、扉が閉まると同時に途絶えた。
 先ほど聞いた電子音も落ち着きを取り戻し、室内は再び静寂に包まれた。
 それを破り、
「あ、……と。あの」
「…………」
 唯一部屋に取り残された青年が、遠慮がちに声を発した。
 黒いスーツはさながら喪服だ。まるで人が死ぬのを待っていたかのようなその服装に些か腹を立てて、雲雀は返事もせずにそっぽを向いた。
「っぅ」
 そんなちょっとの振動でも、脇腹がぐさぐさと痛んだ。
 鋭い槍で内臓を抉られている感覚に、脂汗が止まらない。幾重にも巻かれた包帯の内側に空いた穴は、そう簡単には塞がってくれそうになかった。
「ヒバリさん」
 仏頂面を崩さない彼に痺れを切らしたか、ベッドから遠い場所にいた青年が恐る恐る足を前に出した。
 病室に飛び込んでいた時の勢いは、どこへ消えてしまったのだろう。中学時代のダメダメだった頃を思い出させる態度に長いため息を零し、雲雀は喋るのに邪魔でしかない器具に首を振った。
 鼻から顎にかかる一帯を覆っているマスクが邪魔なのだと気づき、青年はカーテンを捲るとすぐに手を伸ばしてきた。触れる直前躊躇して、すぐに覚悟を決めてゆっくりと固定を解除する。
 自力で勝ち取った空気は冷えていて、喉が痛んだ。
「ヒバリ、さん」
 酸素マスクを両手で抱え、青年が目を潤ませた。琥珀色の瞳は瞬く間に涙でいっぱいになり、鼻を啜る音が引っ切り無しに鼓膜を打った。
 頬は痩せこけ、隈が酷い。喘ぐように何度もしゃくりあげる姿は、痛々しい限りだった。
「へんな、かお」
 それを笑い飛ばそうとするが、巧く呂律が回らない。雲雀のぎこちない表情と舌使いに息を呑み、青年は一秒置いて嗚咽を漏らして膝を折った。
 ベッドに寄りかかる形でへたり込み、言葉にならないうめき声を上げてひたすら涙を流す。シーツを掻き毟った手に右手を握られて、触れた熱に雲雀はほう、と息を吐いた。
 身体を起こすのは難しく、見えるのは白い天井ばかりだった。
 敵対勢力の拠点に攻め込んで、あと少しで制圧出来るというタイミングだった。左腹部に不自然な熱を感じ、触れてみれば掌が真っ赤に染まった。
 視界が歪み、立って居られなくなった。何が起きたのかは分からない。記憶はそこで途切れ、目覚めたら全く別の場所にいた。
 少なくとも此処は、無駄に警備が厳重な趣味の悪い屋敷ではない。辺りには火薬ではなく消毒薬の臭いが立ち込めており、枕元には押すに押せないナースコールのボタンがあった。
「ほん……っに。死……じゃな、かっ、て」
 声が喉や前歯に引っかかるのか、所々詰まり気味の台詞は非常に聞き取り辛い。しかしその声はとても耳に心地よくて、雲雀はもっとちゃんと聞きたくて、点滴の管が通る利き手を揺らした。
 振動を受け取り、子供のように泣きじゃくっていた男が顔を上げた。目尻に残る涙を一気に拭い、鼻をずびずび言わせながらのろのろと腰を浮かせる。
 枕元に腕を衝き立てた彼に顔を覗き込まれ、雲雀はすっかりやつれてしまった恋人に苦笑した。
「どれ……くらい」
「三週間!」
 その表情が気に入らなかったのか、ボンゴレ十代目こと沢田綱吉は場所も考えずに大声を張り上げた。
 怒鳴られ、頭にキーンときた。傷にも障る罵声に雲雀は顔を歪め、体中の皮が裏返りそうな痛みを必死にやり過ごした。
 ぴくぴく痙攣する彼を見て、綱吉もはっと息を呑んだ。両手で口を塞ぎ、瞳を右往左往させてナースコールを押そうと指を伸ばす。
 だがボタンを掴む前に手は失速し、雲雀の耳元に墜落した。
「本気で心配、したんですからね」
 距離が近くなった。覆い被さって告げられて、雲雀は暗くなった視界で三度瞬きを繰り返した。
 隠れ潜んでいた敵に雲雀が銃撃されて、ボンゴレ有利だった状況は一変した。辛うじて勝利をもぎ取ったものの代償は大きく、十日以上経っても意識が戻らない雲の守護者に、周囲は次第に諦めを抱いていった。
 これしきで命絶えてしまうような男ではないと、綱吉は信じていた。だが待っても、待っても目覚めない。ふたりの関係を知る人は連日病院に泊まりこむ彼に同情的だったが、そうでない人間はボンゴレ十世の所業に怒りを露わにした。
 たかが守護者ひとりが使い物にならなくなっただけで、と心ない幹部が言い放ち、激昂した獄寺が殴りかかる事件まで起きた。強固な絆を誇っていたボンゴレ内部にも軋轢が生じ、歪はゆっくりと広がろうとしていた。
 その矢先に、雲雀は目覚めた。きっと今頃、連絡を受けたボンゴレの居城は大騒ぎだろう。
 あと一時間もすれば、仲間が大勢押し寄せてくるに違いない。群れるのが嫌いな彼だが、今回ばかりは我慢してもらうしかなさそうだ。
 少し先の未来を想像して、綱吉は笑った。深い安堵に身を浸し、また溢れた涙で頬を濡らす。
 そんな彼をじっと見つめ、雲雀が色の抜けた唇を震わせた。
「きみ、に」
「ヒバリさん?」
「あった」
 掠れる小声は、気をつけなければ聞き逃してしまう。意識を研ぎ澄ませた綱吉は、告げられた内容に怪訝に眉を顰めた。
「夢で?」
「……ちがう」
 雲雀はこの三週間、昏睡状態に陥っていた。だから彼の言い分は、おかしい。可能性があるとしたら夢の中でだが、明確に否定されて綱吉は半眼した。
 意識がない彼の枕元に立ち、何度も呼びかけたことをいっているのか。ただそれだと、ニュアンスが合わない。その場合は会った、ではなく、聞こえた、になるべきだ。
 まだ意識の混濁が見られるのか。頭を打ったとは聞いていないが、現場に居合わせたわけではないので否定するだけの材料も持ち合わせておらず、綱吉は後でシャマルに相談しようと唇を掻いた。
 戸惑って伏し目がちになった彼を眺め、雲雀は疲れた様子で目を閉じた。
「ぼくをつれもどしたきみは、……かなしそうだった」
「え?」
「あれは、君?」
 薄く瞼を開き、首を傾けた雲雀が問う。訊ねられて、綱吉は絶句して唇を戦慄かせた。
 重傷者よりもよほど肌色を悪くして、後ろにふらついたかと思えば膝を折って崩れ落ちる。視界から消え去られて、雲雀は聞こえる嗚咽を頼りに彼の心を手繰り寄せた。
「ごめ……、なさ……っ」
 何を謝るのか、綱吉は不意に叫んだ。
 両手で顔を覆い、さめざめと涙を流してかぶりを振る。その涙の意味は、先ほどのものとは色合いが大きく異なっていた。
「俺、ヒバリさんが撃たれたって、聞いて。意識が戻らないって、教えられて。すごく怖かった。不安で、心配で、恐くて……でも本当は、少しだけ。少しだけ、……ほっとした」
「……うん」
「ホッとしたんです。俺、最低だ。ヒバリさんが死んじゃうかもしれないってのに、これでヒバリさんはもう誰とも戦わなくて良いんだって思って、そんな風に考えた」
 振り返ってみれば、雲雀の人生は闘いの連続だった。
 風紀委員長として並盛中学を率いていた彼は、雲の守護者として誰よりも厳しい戦闘を強いられた。圧倒的な実力で他者をねじ伏せてきた彼だけれど、強敵と対戦する機会が多い分、負うダメージも半端なかった。
 会うたびに新しい傷を作っていた。時に命の危険に晒されることもあった。恨みを買う機会も多く、退けても、退けても敵は湯水の如く溢れて止まらなかった。
 本人は楽しんでいる様子だったが、見守る側からすればはらはらして心臓に悪い。無茶はするなと口を酸っぱくして言ってきたが、聞いてくれる男でないのは、綱吉も十分承知していた。
 ずっと危惧していた。いつか、彼が先に逝ってしまうのではないかと。
 失いたくない気持ちは勿論大きい。だが不安を抱えて日々を過ごすくらいなら、いっそ喪ってしまった方が楽になれるのではないかと考えたことも、一度や二度では済まなかった。
 もう傷つき倒れる彼を見たくない。死んで欲しくない。二度と戦場に立たないで欲しい。颯爽と敵を駆逐していく様をまた見せて欲しい。
 相反する感情が入り乱れ、定まらない。涙は枯れることを知らず、身勝手な想いを抱いた自分自身を責め立てた。
「ごめん、なさい……」
「つなよし」
 終わりの見えない謝罪を重ね、項垂れて小さくなる青年に思いを馳せる。掠れて聞き取るのも困難な声に耳を澄ませ、雲雀は吐息に織り交ぜ名を囁いた。
 自由に動けないことが、嘗てないほどにもどかしい。出来るなら今すぐベッドから飛び降りて、跪き懺悔する彼の横面を打ち、呆然としているところを力いっぱい抱きしめてやりたかった。
 馬鹿な子だと笑い飛ばしたい。情けない顔をするなと発破をかけたい。溢れてとまらぬ涙を拭い、小ぶりな鼻を小突いて目一杯くちづけてやりたかった。
 甘美な夢を思い描き、目を閉じる。闇は訪れず、瞼の裏に淡い光を感じた。
 沈み行く海で笑っていた彼も。辛そうな顔をして、雲雀の手を掴んだ彼も。
 どちらの綱吉も、本物だった。
 生きていれば苦しいこと、哀しいことは沢山ある。いっそ一思いに、と願う機会だってあるだろう。特殊な環境下に身を置いている自分たちなら、それは尚更だ。
 雲雀だって、考えなかったわけではない。綱吉が無駄に傷つかないよう、心を痛めないようにするにはどうすればいいか。悩み、迷い、自らが矢面に立つ道を選んだのは数年前のこと。
 死なせてやった方が楽になれると、そんな風に思いを抱くのは甚だ失礼な真似だと分かっている。それでも願わずにはいられない。
 相手の無事を。
 己の平穏を。
 祈らずにはいられない。
「馬鹿な子」
 口に出さなければ隠し通せたものを、本当に彼は嘘が下手だ。正直になんでも吐露してしまうから、そういう脇が甘いところを狙われて、不用意にダメージを受けたりもする。
 放ってはおけない。綱吉を、ひとりにはしておけない。
「……それで?」
 目を閉じたまま、呟く。幾ばくか音量を増した雲雀の問いに、彼は潤んだ眼を持ち上げた。
 何を聞かれたか分からなくて戸惑う恋人に苦笑して、枕の上で身を捩る。
「君は、僕に……どう、して――ほしい?」
 喋るのも、苦痛を伴う。人工呼吸器を外したので、息もし辛い。
 それでも堪えて言葉を紡いだ彼に、綱吉ははっとして背筋を伸ばした。
 寝台に身を乗り出し、色の悪い唇を戦慄かせる。琥珀色の瞳に新たな涙を浮かべて嗚咽を漏らし、大きく鼻を愚図らせる。
 口をパクパクさせて味のない空気を噛み砕いた後、彼は。
 深く息を吸い、悲痛な顔で叫んだ。
「さっさと元気になって、俺のこと、抱きしめてください!」
 そう広くもない病院全体に轟く声は当然傷にも響き、雲雀は内側から沸き起こった痛みに口元を歪めた。だが歯を食いしばって懸命に耐え、額に数個の脂汗を浮かべて目を細める。
 久方ぶりに見る彼の笑顔に、綱吉もまた泣き笑いの表情で白い歯を見せた。

2013/5/14 脱稿