Sun Flower

 その日、部の雰囲気はいつもと少しだけ違っていた。
 ただ何がどう違うのか、具体的に説明するのは難しい。けれど確かに、どこかが普段と異なっていた。
 浮き足立っているとでも言うのだろうか、全体的にそわそわして落ち着きがなかった。互いを牽制しあっているような、ぴりぴりと張り詰めた空気も感じられた。しかも一年生から三年生まで、自分を除く全員が似たような気配をまとっていた。
 その中でも一番せわしなかったのが、烏野高校男子排球部で下から二番目に背が低いミドルブロッカーだった。
 彼はもとから平静さに欠いていたが、今日は一段とその度合いが酷い。何をするにしても騒々しく、声も大きいので存在感は抜群だった。
「ひーなた、ほら。これ、やるよ」
「良いんですか? あざーっす!」
 その彼のふわふわした髪を撫でて、朝練後の部室で副部長の菅原が言った。途端に着替えを終えたばかりの日向は破顔一笑して、大粒の目をきらきら輝かせて元気良く頭を下げた。
 いつもなら背が小さいのを気にして、頭を触られるのを嫌がるくせに。今日の彼は少しも気を悪くした素振りなく、逆にとても嬉しそうに首を竦めていた。
「たいしたモンじゃないけどな」
「そんなことないです。やった。やったー」
「ほーら、お前ら。喋ってないでさっさと教室行けよ」
「はーい」
 いったい何が起きているのか、聞き耳を立てているだけではさっぱり分からない。話に混ざろうにも、まだ着替え途中だった影山はそのタイミングがつかめなかった。
 急いでワイシャツに袖を通し、脱いだTシャツは軽く畳んで鞄へ詰め込む。しかし準備が終わった頃にはあちらの会話もひと段落ついてしまっており、間に割り込んだ澤村を思わず睨みつけてしまった。
 視線を感じた部長が振り返るより先に目線を逸らして、上機嫌にはしゃいでいるチームメイトに舌打ちする。そんな影山の不機嫌さを知ってか知らずか、同じく着替えを終えた長身の眼鏡が堪えきれない様子で目を細めた。
「ンだよ」
「べつに?」
 ニヤニヤしている、という表現が最も的確な表情で見下ろされて、はっきり言って気分が悪い。低い声で凄んでみせるが効果はなくて、月島はひらりと手を振り、嫌味な笑みを浮かべて部屋を出て行った。
 それに二歩遅れる形で山口が続き、騒がしかった男子バレーボール部の部室は一気に静かになった。
「影山も」
「ッス」
 扉を開けて待っていた澤村に催促されて、影山は仕方なく頷いた。棚に置いた鞄を掴み、右肩に担ぎ上げて足早に畳の上を移動する。
 靴を履いて外に出れば、湿気を含んだ温い風が頬を撫でた。
 外階段を下った先で騒ぐ声が聞こえて、手すりから身を乗り出せば眼下に目立つ色の頭が見えた。明るい茶色の頭が綿毛のように揺れており、その傍には坊主頭と、メッシュを入れて髪を逆立てたトサカのような頭がひとつずつ踊っていた。
「じゃー、翔陽。昼休みな」
「あざッス!」
 会話は半分も聞こえてこなくて、どんな内容が語り合われていたのかは皆目見当が付かなかった。しかし最後のやり取りだけは何故か耳に飛び込んできて、鼓膜にこびりついた音に影山は瞠目した。
 なにかの約束を取り付けたのだと、それだけは理解できた。だが昼に何があるのかまでは全く考えが及ばない。気になって耳を欹てるが会話は終了した後で、仔細について知る術はなかった。
「影山?」
「あっ、いえ。すみません」
 鍵を閉め終えた澤村が、まだそこに立っていた彼に気づいて小首を傾げた。部長に怪訝な顔をされた影山は慌てて鞄を抱え直し、厚い雲が覆う空を仰いで首を振った。
 階段をリズム良く下っていき、乾いた地面に爪先を下ろす。日向の姿はそこになく、既に上級生らと校舎に向かった後だった。
 ぼんやりしていても不可解な空気の原因は分からないし、時間だって無駄に過ぎていく。チャイムが鳴れば授業が始まって、それに間に合わなければ遅刻扱いだ。
 後ろから澤村の視線を感じて、影山はもやもやするものを抱えたまま足を繰り出した。
「なんなんだか」
 落ちていた小石を蹴り飛ばし、今一度天を仰ぐ。白い雲が一面を埋め尽くし、低い空が頭上を圧迫していた。
 遠くからは教室に向かう、或いは既に到着した生徒らの雑多な騒ぎ声が聞こえてきた。毎日のように繰り返される他愛無い日常が肌で感じられて、今日は昨日までと何も変わりないと教えられた気がした。
  午前七時前に第二体育館に集合して、早朝練習に汗を流し、部室で制服に着替えて教室で授業を受け、放課後にまた体育館で練習に励む。月曜日から金曜日まで、多少の差異はあれど同じサイクルで繰り返されるスケジュールに安堵の息を吐き、訳の分からない陰鬱な感情を振り払おうと気持ちを切り替えようとした矢先だ。
「ああ、そういえば影山。今日は」
「はい?」
 一定の距離を保って後ろを歩いていた澤村が、不意に話しかけてきた。
 最終目的地は違えども、本校舎までの道のりは同じ。縦に並ぶ形で歩いていた彼は突然のことに驚き、素っ頓狂な声を上げた。
 振り返れば、人好きのする笑みを浮かべた部長が肩の位置で手を振っていた。
 招かれた気がして怪訝に首を傾げ、来た道を戻ろうとした瞬間だ。
 頭上のスピーカーが、始業開始五分前を告げる鐘を高らかと響かせた。
 ザザ、と耳障りなノイズの後に続いたメロディに、澤村がはっと息を呑んだ。喉元まで出掛かった言葉を飲み込んで腕を下ろし、瞬時に頭を切り替えて鞄の肩紐を掴む。
「急げ」
「は、はい」
 中途半端に会話を切り上げて、彼は遅刻を免れるべく走り出した。前方に見えていた生徒の群れも、教室目指して一斉に柄スピードを上げた。
 問題行動は起こさないよう、耳にタコが出来そうなくらい言われている。口煩い教頭には目を付けられたくなくて、影山も慌てて駆け出した。
 結局部長が何を言いたかったのか分からない。そんなに手間が掛かる話だったのかと首を傾げるけれど、聞こうにも昇降口を入ったところで混雑にぶつかってしまい、彼とはそれきり会えなかった。
 三年生の教室までわざわざ出向く気も起こらず、教室に着いて席に座る頃にはこの件はすっかり頭から消え失せていた。
  退屈な授業を受け、睡魔に抗えずに惰眠を貪っているうちに時間はどんどん過ぎていった。
 三組の生徒は既に慣れっこになっており、誰も揺り起こしてやろうとお節介を働こうとしない。冬服から夏服に切り替わって半月以上、白が目立つようになった教室で、影山の深い黒髪はひと際異彩を放っていた。
 机に突っ伏したまま昼休み開始のチャイムを聞いて、彼は垂れた涎を拭ってむくりと起き上がった。
 食事の時間になった途端に目覚める光景も、三組の恒例となっていた。その本性を知らず、外見だけで格好良いと騒いでいた女子もいい加減呆れ気味で、逆に無愛想で嫌な奴と警戒していた男子はそのズボラさを気に入ってか、比較的に親しげに声をかけてきた。
「お目覚めか、影山?」
「おー……」
「寝癖ついてんぞ」
「あー……」
 未だ完全な覚醒には至っていない彼を茶化し、食堂に向かうついでに数人が幅広の肩を叩いた。教室を出て行く騒がしい背中を見送って、影山は指摘された寝癖をかき回して大きな欠伸を零した。
 背筋を伸ばして骨を鳴らし、突っ伏している間に凝り固まった筋肉を解してから昼食に手を伸ばす。荷物が大量に詰め込まれた鞄を漁って引き抜いたのは、重箱かと見紛うサイズの弁当箱だった。
 箸を取り出し蓋を開けて、影山は目礼の後に早速三合近く詰め込まれた白米を掬い上げた。
 量自体も多いが、ひと口に頬張る量もかなり多い。大量の総菜を目にも留まらぬ勢いで掻き込んで行く光景も、ある意味三組の恒例行事と化していた。
 女子ならばとても食べ切れそうにない弁当は、ものの数分で空になった。容器にこびりついていた飯粒さえも残さず綺麗に食べ終えて、彼は満腹になった腹を撫でて満足そうに頷いた。
「ご馳走様」
 朝早くから準備してくれた母に感謝の言葉を述べ、取り出した時同様に慣れた手つきで机を片付けていく。そして他の生徒がまだ食事を楽しんでいる中、ひとり椅子を引いて立ち上がった。
 坂ノ下商店から帰ってきたばかりの生徒など、まだ食べ始めてすらいない。前方の出入り口ですれ違った男子は、相変わらずむっつりした表情の彼に苦笑してぽん、と背中を押した。
「日向なら、正門のトコで見たぞー」
「ああ」
 去り際にそう言って、待ちくたびれていた友人の方へ走っていく。何も言わないのも悪いからと相槌を打った影山は、慌しい足取りのクラスメイトを振り返り、今し方告げられた内容に首を傾げた。
 何故彼に、日向の居場所を教えられなければならないのだろう。
 日向は部活が同じだが、在籍するクラスは違う。彼は一組なので、体育の授業で合同になることもなかった。
 だのにどうして、なんら接点がないはずのクラスメイトが日向のことを知っていたのか。
 訳が分からなくて混乱するが、理由を聞こうにも彼は既に親しい友人と談笑を開始していた。間に割り込めそうな雰囲気ではなくて、影山は眉間に皺を寄せると首を捻りつつ敷居を跨いだ。
 廊下に出ると、雑多な賑わいが肌で感じられた。
 外は曇っているが、気温はそれなりに高い。蒸し暑いのもあって、教室のドアも廊下の壁も、全てが全開状態で固定されていた。
 朝方に比べれば幾分雲の量が減っているようで、足元には薄くだが影が出来ていた。しかし窓から南を窺っても、ぎらぎら照る太陽は確認できない。見えるのは白い暈を被った光る球体だけだ。
「当分晴れそうにないな」
 低い位置に陣取る雲が消えない限り、陽光は期待できない。じりじり焼け焦げそうな暑さと、ねっとり肌に張り付く蒸し暑さのどちらが良いかを考えて、影山は一気に火照った頬を軽く叩いた。
 想像するだけで暑くてならず、シャツの襟を引っ張って首元を少しだけ広げる。それで涼しくなるわけではないが気分の問題で、彼はゆるゆる首を振って廊下を急いだ。
 もっとも、行かねばならない場所があるわけではなかった。
 約束があるでもなく、呼び出されているわけでもない。しかし四月の冒頭から毎日のように通っていた所為で、昼休みを第二体育館近くで過ごすのはもう当たり前になっていた。
 気がつけば習慣になっていたと、先ほども話題に出た茶色い頭を思い出す。身長百六十センチ台のミドルブロッカーは、思えば週に三回程度、三組に顔を出していた。
 ホームルーム後に部活へ行こうと誘いに来ることもあれば、昼休みにちょっと練習がしたいと呼びに来るパターンもあった。特に最近は後者の回数が増えており、昨日だってチャイムが鳴るとほぼ同時に教室に駆け込んできた。
 昼飯くらいゆっくり食わせろと黙らせて、何故か一緒に、向かい合って弁当を頬張ったのを思い出す。そんなことがあったから、クラスメイトも日向の名前を覚えていたのかもしれない。
 今頃になって理由に思い至って、影山は緩慢に頷いた。と同時に、どうして今日は来なかったのかが気になった。
「ああ、そういや」
 すっかり忘れていた記憶が不意に蘇って、ならば納得だと手を叩く。音は響かず、潰された空気に飲み込まれて消えていった。
 早朝練習の後、部室を出たところで聞いた会話が脳内にこだまする。日向は二年生の西谷や田中たちと、なにか約束をしていた。それを優先させたが為に、彼は三組に、影山のところに顔を出さなかったのだ。
 いつになく楽しそうに笑っていた。思えば日向は、バレーボールがひとつでもあれば満面の笑みを浮かべるけれど、そうでない時はあまり喋らず、表情もどこか不満げだった。
 日向にとって影山飛雄という人間には、トスを上げるセッターとしての価値しかないのだろう。それは同じチームに所属し、上を目指すだけと割り切った関係であればなんら問題ない繋がりだった。
 しかしそう認識した途端、チリッと胸の奥で何かが焦げ付くような感じがした。
 細く鋭い針で臍の辺りを擽られたような、心臓を目に見えぬワイヤーで緩く締め上げられたような。
 実際には何も起きていないのに、痛い。思わず左胸に手を当てて、影山は前に踏み出した足で段差の角を蹴飛ばした。
 靴を履き替えて外に出る。空は相変わらず雲に覆われており、昼間だというのに少し薄暗かった。
 雨が降りそうな気配はないけれど、快晴を期待するのも無駄と分かる空模様だ。むしろこれくらいが過ごしやすくて丁度良くて、彼は賑わう空間から離れて体育館を目指した。
 部室も、きっと他の部員で騒がしかろう。向かうのは第二体育館の裏手、人も滅多に寄り付かない静かな場所だ。
 そこに、バレーボールを一個だけだが隠していた。
 七歳から排球に親しんでいた影山とは違い、指導者もないまま中学生活を終えた日向はなににつけても経験が足りない。本人もインターハイ予選で痛感したらしく、以来昼休みも欠かさず練習に励んでいた。
 隠し場所を最初に見つけたのは、日向だ。もう使われていない物置の裏側で、雨が降っても水が掛かる心配はない。唯一不安なのは野生動物に悪戯されることだが、今のところ猫や狸の被害は受けていなかった。
 そこにボールがあれば、逐一部室を経由しなくても済む。時間がより有効的に使えると、彼は得意げに胸を張っていた。
 だからきっと、そこに行けば日向が居る。西谷たちと違って何も約束はしていないけれど、影山は根拠もなく信じた。
 けれど。
「来てねえし……」
 辿り着いた日陰で、彼は奥歯を噛んで低く呻いた。
 腕に巻いた時計を見れば、昼休憩が始まってから既に十五分近くが経過していた。昼飯を食べきるには十分で、ちょっとした用事も片付けられるだけの余裕があっただろうに。
 二年生と交わしていた約束の中身が聞けなかったのが、今更ながら悔やまれた。菅原との談笑も、そうだ。まるで自分だけが蚊帳の外に置かれている錯覚を抱いて、煩悶として落ち着かなかった。
 穏やかでいられなくて、影山は乾いた地面に踵を擦りつけた。
 浅く穴を掘り、それを跨いで歩を進める。古びた物置の裏を覗けば、昨日押し込んだ時と変わらぬ位置にボールが転がっていた。
 腕を伸ばして引っ張り出して、表面をそっと撫でる。張り付いた砂を息で吹き飛ばしているうちに気持ちが萎えて来て、急に教室に帰りたくなった。
 あそこにいたところで孤独感が埋まるわけでもなし、楽しい事など何もないのに。
 バレーボールとは一切関係のない場所に逃げ込んで、日向の影を頭の中からシャットダウンしてしまいたかった。だのに気がつけば腕は頭上に向かい、赤と緑が交差するボールを高く掲げていた。
 自然な構えで軽く膝を折り、直径二十一センチの球体を天高く弾ませる。
 そこにトスを待つスパイカーが居ないと知りながら、ボールを送り出さずにはいられなくて。
「あー!」
 刹那、風を切り裂く大音響が場に轟いた。
「ぶっ」
 横っ面を殴られたような衝撃に噴き出して、影山は真上に飛ばしたボールも忘れて身を竦ませた。
 もれなく弧を描いた球体が傍らを通り過ぎ、数回弾んで転がっていった。キャッチされなかったのを抗議して影山から遠ざかり、地面にうっすら影を作る存在に懐いてその足に躙り寄る。
 猫のように頭を擦り付けてきたボールから顔を上げて、日向翔陽は風船のように頬を膨らませた。
「なに先にやってんだよ」
 憤慨して怒鳴って、両手で抱きかかえた荷物を上下に揺らす。一緒に踵も浮かせて伸び上がった彼に、影山は呆気に取られた顔を向けた。
 届かないと思っていたボールは、本来のルールからは逸脱していたものの、スパイカーの元に無事到達した。ただ今の日向は大量の食べ物を抱きしめている為、それを拾い上げるのは叶わなかった。
 大事なボールを蹴るわけにもいかなくて、特に何も言われなかったが戸惑っている様子が窺えた。不満げな表情で睨みつけてくる眼を数秒黙って見つめ返して、影山は言葉に迷って頭を掻いた。
 怒鳴られた余韻もようやく消えた。気を取り直してわざとらしく咳払いをひとつして、仏頂面の日向の元へ一歩を踏み出す。
 あまり楽しそうではない雰囲気に、またもちりちりと胸の奥が焦げ付く痛みを発した。
「なんだって」
 先輩たちに囲まれている時は無邪気に笑うのに、二人きりになった途端に口数が減るのは何故だろう。その原因の一部に自身の口下手さがあるとは気づかず、影山は悪態をついて身を屈めた。
 両手でボールを拾い上げて、ほぼ真下に近い場所にいる日向を見る。彼はなにか言いたげな顔をして、影山の動きを目で追っていた。
 必然的に視線が交錯して、火花が飛んだ気がして彼は目を瞬いた。
「日向?」
「おれ、飯これから」
「ああ、そう」
 何故そんな顔をするのか、皆目見当がつかない。しかし理由を問おうとした矢先に話を遮られて、呆気に取られた影山は相槌ひとつしか打てなかった。
 会話が途切れて、気まずい沈黙が場に落ちた。
「…………」
 練習中だったらなんでもないことが、ふたりだけになっただけでいきなり難しくなった。普段どんな話をしていたかと、チームメイトに囲まれている時のことを思い出そうとするが、記憶障害でも起きたのかさっぱり頭に浮かんでこなかった。
 ひとり焦って口ごもった彼を知らず、日向は急ぎ脇をすり抜けると、普段は使用されない体育館の出入り口に腰を下ろした。
 五段もない段差の角に座り、運んできたものを一斉に膝へと下ろす。一部受け止め切れなかったものがコンクリートの足場に転がって、天地を逆に停止した。
「大漁だな」
 行き場のなくなったボールを左右から挟みこみ、内部の空気圧を気にしながら影山が呟いた。
 そう表現するしかないくらいに、彼の足元には沢山の食べ物で溢れかえっていた。
 いつもの弁当箱はなく、代わりに大ぶりの握り飯が二個見えた。ラップに包まれており、表面にはサッカーボールを模した形に海苔が配置されていた。
 それ以外には、坂ノ下商店名物のジャンボ焼きそばパンが二個。影山も愛飲しているパック牛乳が全部で三つに、食後のデザートなのかフルーツたっぷりのゼリーまであった。
 身体は小さいけれど、日向はこれで大食漢だ。食べる速度も影山に負けていなかった。
 これだけの量を食べておきながら縦にも横にも大きくならないのが不思議だが、得たばかりのエネルギーを直ぐに運動で使い果たしてしまうから、体内に蓄積されないのが一番の原因だろう。それくらいに彼は良く食べ、動き、全力で汗を流していた。
 見習わなければと思う部分もあれば、そこまでしなくても、と呆れる部分も多い。美味しそうな匂いにつられてふらふらと前に出て、影山は一瞬悩んだ末に彼の隣に腰を下ろした。
 日向は特に嫌がりもせず、おにぎりのラップを調子よく剥いでひと口目を頬張った。
「あー、ム」
「今日は遅かったんだな」
「うん。ちょっと、坂ノ下」
 幸せそうに目を細め、彼は唇についた米粒を摘み取った。それも口に入れて噛み砕き、見れば分かる台詞を並べて二口目に取り掛かる。
 人の食事風景に興味はないつもりだが、意外に見ていて面白くい。影山は頬杖ついて首肯し、一度では食べ切れそうにない惣菜パンへそろりと手を伸ばした。
 こっそり、気づかれないように。だが食べ物への執念は凄まじく、日向は一度も目を向けていないのに景山の動きを察知し、素早く焼きそばパンを庇って反対側へと避難させた。
 野生動物並みの俊敏さを披露されて、影山は目を丸くすると同時に呆れて苦笑した。
「いいじゃねーか、一本くらい」
「よくにゃい」
 店を開けそうなくらいに沢山あるのだから、ひとつくらい譲ってくれても良いものを。
 食べたばかりというのに既に空腹を覚え始めている腹を撫でて言った彼を瞬時に突き放し、日向は口の中をいっぱいにしたまま唇を尖らせた。
 頬袋を満タンにしたリスのようだ。あまりに可笑しくてつい笑ってしまった影山を睨み、彼は横に並べた惣菜パンをいとおしげに撫でた。
「だってこれ、ノヤさんが買ってくれた奴だし」
「西谷さんが?」
「あと、こっちのゼリーは、田中さん! ぐんぐんバーはコーチだろ、そんでこっちのお菓子が、清水先輩。チョココルネは縁下さんだったかな」
「ちょ、ちょっと待て」
 嬉しそうに言葉を重ねて、次々に指差していく彼に頭が追いつかない。混乱して声を荒らげ、影山は今し方名前が出た面々を瞼の裏に思い浮かべた。
 いずれも、バレーボール部に関係する面々ばかりだった。
 当然影山にも彼らとの接点はあって、可愛くはないかもしれないが、大事な後輩であるのには違いない。しかし奢られたのは、どういうわけだか日向ただひとり。
 羅列された事実を前に、一瞬、目の前が真っ暗になった。
 中学時代の失敗は繰り返すまいと、極力心がけていたのに。傍若無人な王様は高校でも忌避される運命なのだと知らされて、ショックで頭がくらくらした。食欲は一気に失せて、今は逆に吐きそうだった。
 額を手で覆い、膝に置いたボールへと突っ伏す。悔し涙で睫を濡らし奥歯を噛み締めていたら、そうとは知らない日向が暢気に言葉を繋げ、横倒しになっていた牛乳パックを拾い上げた。
 表面の砂埃をズボンに擦り付けて落とし、若干嫌そうに苦々しい表情で呟く。
「んでこれが、月島と、山口」
「……あ?」
 上級生ばかりが続いていた中、突然同学年のチームメイトが現れた。もう少しで聞き逃すところだった影山は途端に顔を上げ、細い目を丸くして彼を振り返った。
 目が合って、日向が笑った。ほら、と見慣れたパッケージを突き出されて、影山は受け取りそうになった手を慌てて膝に押し付けた。
「月島?」
「あと、菅原さんに膝サポーター貰った。この前買わなきゃ、って言ってたの覚えててくれたみたい。部長は、練習終わったらアイス奢ってくれるって」
「……あ、アイス?」
「おう!」
 呆気に取られる影山に畳みかけ、日向は元気いっぱい頷いた。百点満天の笑みを浮かべて頬を赤らめ、握り飯の残りをたったふた口で食べつくす。
 ろくに咀嚼もしないで飲み込んで、案の定喉に詰まらせた彼は噎せて苦しそうに胸を叩いた。月島がくれた、と言っていた牛乳を掴み取ってストローを突き刺して、一息のうちに半分近く飲み干してぜいぜいと肩を上下させる。
 先輩たちが日向ひとりを格別可愛がっているわけではないと気づき、影山はぽかんとしたまま彼の一挙手一投足を見守った。
「あー……死ぬかと思った」
「急いで食い過ぎだ」
 誰も盗んだりしないと告げて、手を伸ばす。顎に飛び散っていた牛乳を指で拭い取ってやれば、感触で気づいた日向が照れ臭そうに微笑んだ。
「へへ」
 目尻を下げて白い歯を見せた彼に、落ち込んできた気持ちが少しだけ浮き上がる。幸せのお裾分けを貰った気分で苦笑して、影山は濡れた手を戻してボールを抱えなおした。
 背筋を伸ばして座る彼を見上げ、日向は小さく舌を出した。
「おれ、今日、誕生日」
「ああ、なんだ。それで……――はああ!?」
 皆が色々と恵んでくれたのは、そういう理由があるから。
 あっけらかんと言い放ち、食事の続きを再開する。そのごく自然な流れについ乗っかりそうになって、影山は成る程と頷いた直後に我に返って悲鳴を上げた。
 真横で響いた素っ頓狂な雄叫びに、ふたつめの握り飯に手を伸ばした少年はびくっ、と首を竦めて小さくなった。
 隣を見れば、コート上の王様がありえない顔をしていた。目も口もまん丸に開いて、呆気に取られて停止している。その滑稽だが笑うに笑えない表情に日向は小首を傾げ、恐る恐る皺だらけのラップを剥いでいった。
 ひと口目を齧っても、影山は動こうとしなかった。
 瞬きも忘れて凝視されて、居心地が悪くて仕方がない。折角の食事もこれでは楽しめなくて、彼はむすっと小鼻を膨らませると、数ミリ腰を浮かせて影山に背中を向けた。
 座り直した少年にはっとして、影山は冷や汗を流して背筋を震わせた。
 歯の根が合わない奥歯をカタカタ言わせ、告げられた内容を噛み砕いて吟味する。だがじっくり味わえば味わうほど、全身の汗腺が開いて白い制服を湿らせた。
 脇汗の気持ち悪さを振り払い、影山は額を叩いて膨れ面の日向に身を乗り出した。
「おまえ、それ」
「別に、影山には期待してなかったし」
「ってか、なんでンな大事なこと」
「ほーら、やっぱ忘れてる」
「はあ?」
 一年に一度きりの記念日を、何故教えてくれなかったのか。憤りに任せて怒鳴りつけようとした影山だったが、話を遮って人差し指を突きつけられて面食らう。きょとんとしていたら日向は咥内の白米を一気に飲み込んで、揃えた膝に胸を押し付けた。
 座ったまま身を屈めた彼に覗き込まれ、意味が分からなくて困惑する。戸惑っていたら呵々と笑い飛ばされて、影山は怪訝に眉を顰めた。
「先週、菅原さんの誕生日だったじゃん」
「……そういや、あったな」
 一年生は当日まで知らなかったが、練習中に澤村が菅原にその話を振ったのをきっかけに、ちょっとした騒ぎが起こったのだ。
 いつも世話になっているからと、後輩一同で祝いの言葉を贈った。もっと早く教えてくれれば、と既に暗い外を眺めて思った記憶も蘇る。
 そして更にもうひとつ、今の今まですっかり忘れていた出来事がにっこり笑って手を振った。
「あ――」
 そうだ、言っていた。
 日向は確かにあの日、来週に自分も誕生日が来ると喧伝していた。
 だというのに影山は忘れていた。綺麗さっぱり頭から抜け落ちていて、朝起きた時も、体育館で顔をあわせた時も、全く思い出したりしなかった。
「……悪りぃ」
 他のメンバーが全員覚えていたのに、自分だけが忘れるなど、なんという不覚。あろうことかあの月島でさえ彼を祝う品を、安いながらも用意したというのに。
 急ぎ手を広げてみるが、見えるのは使い込まれたボールがひとつだけ。ズボンのポケットに手を突っ込んでも、触れるのは縫い目に紛れ込んだ埃ばかりだ。
 小銭の一枚も入っていなかった。いつもなら牛乳を買うための百円玉を何枚か用意しているのに、こんな大事な時に限ってすっからかんだった。
 教室に残してきた財布にも、たいした額は入っていない。第一、いったい何を贈ればいいのか分からなかった。
 皆からは余りそうなくらいに沢山の食べ物を貰っている。ダメになる寸前のサポーターも、頼れる副部長が進呈したばかりだ。
 あまり高いものは、手持ちが心許ないので選びようがない。かといって値段を下げれば、渡せるものは限定された。
 放課後は部活があるので時間がとれず、徒歩圏内で行ける店は食料品主体の坂ノ下商店くらい。練習が終わってからだと商店街の店は大半が閉まっているし、なにより日向は帰る方向が逆だ。
 学校の購買で売っている品といえばノートや鉛筆といった文房具で、とても喜んで受け取ってくれそうにない。アイスは澤村が予約済みだ。一度にふたつ貰っても、嬉しさは半減だろう。
 そうなれば後に残るのは、彼の大好きなトスを沢山上げてやることくらい。
「ありえねえ」
 けれどそれでは、いつもと同じだ。今日だけ特別に多く、と思っても、練習のメニューはコーチの指示で変わってくるし、昼休みに体育館は使えない。
 せめて昨日のうちに思い出せていたら、状況も変わっていただろうに。悔やまれてならず、影山は頭を抱えて額をボールに叩き付けた。
 打ちひしがれている横顔を盗み見て、日向は存外に悔しがっている彼に苦笑した。
「別にいーけど?」
 忘れていると気づきながら、敢えて言わなかったのは日向だ。自力で思い出してくれないかな、と少しは期待していたが、こういう結果に落ち着く覚悟はとっくに出来ていた。
 怒る気も起こらない。むしろ思っていた通りの展開になって、笑いが止まらなかった。
「よくねえだろ。なんかねーのか、なんか!」
「なんか、って言われてもなあ」
 欲しいもののひとつやふたつ、誰だって胸に抱えている。当日からは遅れてしまうが希望があれば叶えると息巻いた影山に目を丸くして、日向は口篭って目を泳がせた。
 バレーボールシューズは、母親にリクエスト済みだ。今愛用しているものはまだ三ヶ月しか経っていないのに既にぼろぼろで、いつ底が抜けても可笑しくない状態だった。父や祖父には特に何も言っていないが、臨時の小遣いくらいは期待してもよかろう。
 中学時代の友人からは、朝一番でメールを貰った。妹はユニフォーム姿の絵を貰う予定だ。但し本人は、日向が知っているとは思っていない。
 リビングに置きっ放しにしてあるのだから、否応なしに目についてしまう。当日にプレゼントしてびっくりさせると息巻いている話は母から伝え聞いており、ならば彼女の希望通りにしてやるのが兄としての務めだろう。
 部の面々からの温かい言葉や贈り物もあって、既に胸はいっぱいだ。これ以上受け取ったら零れてしまう。だから今欲しいものは特に思い浮かばなかった。
 贅沢を言えばきりがない。祝おうとするその気持ちだけで十分なのに、影山は納得がいかないのか低く唸り続けた。
「いいって」
「良くねえ」
「いいってば」
「言えよ。なんかあんだろ」
 部員で自分だけ何も贈らなかったというのは、男の沽券にかかわるのだろう。周囲に知れたら見下されそうで、それも嫌らしい。
 押し問答が続いて、なかなか食事が終わらない。食べる速度を著しく落とした日向は答えに迷い、鋭い眼差しから逃げて何気なく空を仰いだ。
 雲が一面を覆っていた。太陽に被る部分は少し薄くなっていたが、青空は待っていても期待できそうになかった。
「あー……」
 温い風が吹く。間近に迫る夏を思わせる、湿気を帯びた風だった。
 今年は雨が少ない。梅雨入りが宣言されたのは例年よりもかなり遅く、しかもじめっとした天候は最初の数日だけ。以後曇り空が続くものの降雨には至らず、早くも夏場の水不足が懸念されていた。
 農業をやっている祖父も気が気でないようで、天気予報を欠かさずチェックしていた。だが祈ったところで、雨雲は望めない。
 その逆もまた然り。けれど。
「欲しいな」
 今日は六月二十一日、一年で最も昼が長くなる日。そして一年で一度だけ巡ってくる、日向翔陽の誕生日。
 そんな目出度い日に、生憎の曇り空。大好きな青空と、輝ける太陽が望めないのは悔しかった。
「なんだって?」
 独り言を耳ざとく拾い上げた影山が声を荒立てる。聞かれていたのに驚いて目を丸くして、日向は首を竦めて舌を出した。
「えーっと。でも無理だと思う」
「ンなの、わかんねえだろ。言ってみろよ」
 流石にこれを彼に強請るのは、少々どころかかなり酷だ。だから胸の中に秘めて終わらせるつもりだったのに、影山は強固に主張して息巻いた。
 その力強い眼差しに圧倒されて、絶句する。或いは王様と呼ばれる彼なら出来るかもしれないと、そんな突拍子もないことを考えてしまって、日向は困った顔ではにかんだ。
 苦笑して、彼は思い切って右手を伸ばした。
「ん?」
 人差し指を伸ばし、南を指し示す。同じ方角に目をやった影山が、直ぐに視線を戻して首を傾げた。
 烏野高校は丘の上にあるので、これよりも背が高い建物は周囲にはなかった。
 あるのは、薄雲に覆われた空ばかり。もしかしたらそこを駆け抜けた鳥がいたのかもしれないが、影山には見えなかった。
 怪訝に眉を顰めた彼を笑い、日向は手を戻して握り飯にかぶりついた。
「ふぁいひょう」
「ああ?」
「んぐ、……っと。だから、太陽。欲しい」
 口の中を満杯にして喋るが、発音がままならない。案の定聞き返されて、彼は咀嚼もそこそこに飲み込んで、言い直した。
 指についた米粒を舐めて、はっきりと告げる。浪々と響く声に影山は最初ぽかんとして、呆気にとられたまま瞬きを繰り返した。
「は?」
 驚き、呆れている。もっともこの反応は日向も想定済みで、格別気を悪くすることはなかった。
 素っ頓狂な声をあげて目を丸くした影山を見上げ、日向は相好を崩した。
「なに言ってんだ、お前」
「欲しいって、あ、そういう意味じゃなくて。晴れないかなー、って思ってさ」
 地球よりもはるかに巨大な恒星が欲しいなど、無邪気な幼児ならばまだしも、高校生が言う台詞ではない。惚けた顔の影山に慌てて説明を追加して、日向は言い訳がましく天を指差した。
 くるくる回る指先を目で追いかけて、ようやく意味を解した影山が嗚呼、と頷く。その緩慢な動きにホッと息を吐いて、日向は甘い気がする唇を舐めた。
 やっと食べ終えたおにぎりの包み紙を丸めて脇に置いて、続けて数量限定のジャンボ焼きそばパンに手を伸ばす。市販品の二倍近いサイズを前にして頬はだらしなく緩み、全身からは幸せオーラが漂った。
 二年生の好意に素直に甘えられる彼は、これで長男だというのだから驚きだ。どこからどう見ても末っ子気質だろうと溜息を零し、影山は立ち上がると軽く腰を捻った。
 抱えたボールを頭上にやって、ストレッチの要領で背筋を伸ばす。自然と視線は上を向き、太陽のない空を捕まえた。
「ひなた、しょうよう」
「んぅ?」
「要するに、晴れりゃいいんだろ」
「ぶほっ」
 遠くを見たまま呟いた彼に、名前を呼ばれた日向が威勢良く噎せた。
 齧り付いていた焼きそばパンを喉に詰まらせ、苦しそうに身悶えて喉をドンドン叩く。顔を真っ赤にしてぜいはあと肩を上下させた彼を不満そうに見つめて、影山は右手にボールを遊ばせた。
「なに言っちゃってんの、お前」
 先ほど影山が言った台詞をそっくりそのまま突き返し、目をまん丸に見開いて怒鳴る。だが彼は口を尖らせ、憤然とした面持ちを崩さなかった。
 日向が影山に告げた唯一の願い。
 誕生日に太陽が見たい。晴れ空が欲しい。青空の下で、影山のトスでスパイクを打ちたい。
 最後のひとつは憶測だったが、日向が言いたいのはつまるところ、そういうことだろう。自分よがりの願望に俄然やる気を滾らせて、影山は百人中百人が無理と判断する偉業に挑むべく、ボールを置いて背筋を伸ばした。
 とはいえ、やってみせると決めた本人でも、どうすれば晴れ空が拝めるのかは分からなかった。
「……どうすりゃいいんだ?」
「おれは今、猛烈に反省してる」
 気合いを込めて曇天を睨みつけてから、ふと我に返って後ろを向く。訊かれた少年は左手で頭を抱え込み、小声で後悔を口にした。
 いくら影山でも、こればかりは流石に無理だ。脳みそまで筋肉のバレーボール馬鹿だとは知っていたが、ここまで酷いと最早笑う気にもなれなかった。
 冗談もいい加減にしろ、と怒鳴り返されるのを期待していた。だから真に受けられると逆に対応に困ってしまって、日向は迂闊なことを口にしたと悔やんで苦虫を噛み潰したような顔をした。
 なんとも気まずい表情をしている彼が気に入らなくて、影山は口を尖らせて地面を蹴り飛ばした。
 砂埃が舞い上がった。風が吹く。上空ではもっと強く吹いているのか、白と灰色が入り乱れる雲の動きは先ほどよりずっと速くなっていた。
「別にさ、良いってば」
「ふざけンな。やってやろうじゃねーか」
「どうやってだよ。神様じゃあるまいし」
「うっせえ」
 天候を操るなど、ゲームの世界でも限られた職種でなければ無理だ。 とあるゲームの、強いのか弱いのか良く分からないジョブを思い出して嘆息するが、影山は諦め悪く怒鳴って唇を噛み締めた。
 どうしてそこまで頑なになるのか、日向にはさっぱり分からなかった。
 けれど裏を返せば、それだけ真剣に祝おうとしてくれているのだろう。思いは十分すぎるくらいに伝わってきて、気持ちだけでお腹いっぱいだと言いたいところだが、それで引き下がってくれる性格だったら苦労はしない。
 悪態ついて吐き捨てて、影山は苦笑いの日向に苛々しながら腕を振り回した。
 そして。
「いいか。テメーは、俺が居れば最強なんだ。だったら、俺だって、お前がいたら何だって出来るに決まってんだろうが!」
 胸に手を当てて大声で力説されて、日向は食べかけの焼きそばパンを膝に落とした。
「……はい?」
「くっそ。今に見てろ」
 今、とんでもない発言を聞いた。
 とても、とても極端で、無茶苦茶な理論を耳にした。
 頭が可笑しくなったかと思った。呆気に取られ、相槌のひとつも打てない。ぽかんとしたまま憤慨する彼を見つめること以外、日向に出来ることはなにひとつ存在しなかった。
 苛立たしげに地面を踏んだ影山がくるりと百八十度回転し、日向に背中を向けた。白いシャツ越しでも分かる引き締まった背中が目に飛び込んできて、その逞しさに思わず顔が赤くなった。
 本気で言っているのだとしたら、馬鹿だとしか言い表しようがない。常識がないとでも言うのか、とにかく突拍子もなかった。
「あーあぁ」
 どうしてこんな奴とチームになってしまったか、奇妙な偶然がもたらした奇跡に苦笑し、日向は頬を緩めた。
 こういう馬鹿さ加減は、嫌いではない。放課後の練習への良い土産話が出来たと相好を崩して肩を揺らしていたら、影山は不意に両腕を伸ばし、掌を上にして天空目掛けて突き出した。
 その昔、何かの映画で見た光景が蘇った。杖を手にした髭の老人が、丁度今の影山と同じポーズをした瞬間、目の前に広がる海が真っ二つに割れて道が出来たあのシーンだ。
 そして。
 影山の頭上でも。
「え……?」
 白い雲に細い切れ目が走り、隙間から溢れた光がオーロラのように輝いた。
 雲とは趣の異なる白が天を駆け、地表へ明るさを届けて優雅に踊った。切れ目はふたつ、みっつと次々に誕生し、体育館傍に佇む彼らをも照らし出した。
「うそ」
 信じがたい光景に絶句し、日向はまん丸に見開いた目で晴れ始めた空を仰いだ。
 未だ雲は多いけれど、陽射しは回復傾向にあった。ちらりと顔を覗かせた太陽は悪戯が成功した子供の顔で笑い、睨まれてさっと隠れて反対側から尻を出した。
 影山が腕を下ろした。まさか願いが通じるとは彼自身も思っていなかったが、呆然とした表情は振り返る直前にかき消して口角を歪める。
 得意げに胸を張った天才セッターに、日向は苦々しい面持ちで首を竦めた。
「偶然だって」
「まだ言うか、テメー」
「ほんとのことじゃん!」
 負け惜しみを言えば噛みつかれて、反論して小鼻を膨らませる。しかしそうしている間にもどんどん空は明るくなって、梅雨の晴れ間に心は舞い上がった。
 青空がふたりを包んだ。澄んだ風が吹いて、夏の気配を匂わせた。
「おめっとさん」
「あんがと」
 素っ気無く告げられた祝福の言葉が照れ臭くて、日向は顔を綻ばせて舌を出した。
 影山が数歩の距離を詰め、隣に並んで座った。途中で回収したボールを膝に抱き、早く食べ終わるようせっついて肩をぶつけてくる。
 突き飛ばされて身体を傾け、日向は頷くと同時に焼きそばパンを口に放り込んだ。牛乳を一気飲みして強引に胃袋に押し流し、濡れた唇を拭って白い歯を見せる。
「よーっし、やっるぞー」
 元気良くぴょん、と飛び跳ねれば、遅れて影山が立ち上がった。片手でボールを易々と握り、晴れ空の下に駆け出した少年を眩しそうに見つめる。
「嘘じゃねーし」
 準備完了だと向かい側で手を振る彼に小声で呟くが、言葉は日向まで届かない。代わりに思いの丈を込めたボールを放ったら、雲間から現れた太陽が楽しそうに笑った。

2013/06/20 脱稿