五月に入り、気候は駆け足で春に突入した。朝晩はまだ肌寒く感じられるものの、昼間、陽が照っている場所なら上着はもう要らない。下に着込んできたパーカーも、そろそろ不要と思われた。
「失敗した~」
朝方、明るくなり始めた頃はまだ涼しかった。空には雲が多く、風も強かったので厚着をしてきたのだけれど、その選択は大きな間違いだった。
学校に到着する頃には額に汗が滲み、早朝練習でも動き回っていたので全身火照って仕方がない。一時間目の授業が終わる頃には雲間から太陽が覗いて、白いパーカーのその上に黒い学生服を着込んでいた日向は、昼休みをに至ってついに音を上げた。
頭上に掲げていた両腕をばたりと倒し、そのまま机へと突っ伏す。母が持たせてくれた弁当箱は既に空で、消化作業に突入した胃が、これまた活発な動きを見せて内側から熱を発していた。
中からも、外からも身体を温められて、このままでは美味しく蒸されてしまう。巨大な皿に盛り付けられた自分自身を想像して、日向は深いため息をついた。
「なにやってんだ。食ってすぐ寝たら、牛になんぞ」
「おれ、おいしくないからな!」
「はあ?」
向かいで一緒に弁当を食べていたクラスメイトが、ひと足先に食事を終えた日向を揶揄し、笑った。それが丁度考えていた内容に合致して、彼は大袈裟に反応して級友を驚かせた。
箸を口に添えてぽかんとしている友人にはたと我に返り、日向はコホンと咳払いして浮かせた腰を戻した。照れ臭そうに頭を掻き、愛想笑いで誤魔化してからもう一度大きく息を吐く。
制服の上から撫でた腹は、大量の米が詰め込まれたお陰で丸く膨らんでいた。
「あづぅい」
「知るか。脱げ」
「そうする~……」
呻くように文句を言うが、クラスメイトは聞く耳を持たない。食事を再開させた彼に小さく頷き、日向は鈍い動きで学生服のボタンを外し始めた。
トレーナーの下は、半袖のシャツが一枚。朝練の後に部室で着替えた時の事を振り返り、ついでだから白いパーカーも脱ごうと裾を捲りあげたところで。
「お前、ンなトコでストリップする気かよ」
事情を知らないクラスメイトに言われ、手が止まった。
「え? なにが?」
「脱ぐんなら、上だけにしろよ。露出狂か」
一瞬訳が分からなくて聞き返せば、箸の先を向けて説教された。信じられない、と言わんばかりの台詞を繰り出されて、日向は自分の胸元と、呆れ顔の友人とを交互に見比べた。
ふと視線を感じて後ろを向けば、数人の女子と目が合った。
「あ」
ここは一年一組の教室で、部室ではない。体育の授業前でもないのに突然服を脱ぎ始めたら、誰だって驚くに決まっている。
暑さに脳細胞をやられたか、指摘されるまで考えもしなかった。うっかりしていたと捲った裾を戻し、日向は仕方なく脱ぎたてほやほやの制服を椅子の背もたれに引っ掛けた。
「……ったく」
「あつぅい」
「言うな。こっちまで暑くなってくんだろ」
皺を伸ばし、袖が床に擦らないよう調整して姿勢を戻すが、一枚脱いだだけでは暑さは消えてくれない。分厚い上着がなくなった分身体は軽くなったが、表皮を覆う高熱を取り払うまではいかなかった。
愚痴を零して机に寄りかかれば、クラスメイトに頭を叩かれた。
あまり力は入っていなかったが、タイミングが悪かった。突っ伏していたところにやられた為に、顎が天板に激突する。危うく舌を噛むところで、反動で顔を上げた日向は用済みになった弁当箱を抱え、赤くなった場所を撫でて背筋を伸ばした。
思ったよりも大きな音が出てしまって、クラスメイトも気まずそうだ。慌てて左手を引っ込め、右手に握った箸で残り少ない弁当のおかずを掻き分ける。
なかなか終わらない彼の食事に焦れて、日向は視線を泳がせた末に椅子を引いた。
「どした?」
立ち上がった彼を目で追い、クラスメイトが訊ねる。だが声に出した頃には既に理解しており、顔の横で左手をひらひら揺らした。
察しの良い友人に苦笑して、日向は取り出した鞄に弁当箱を押し込んだ。
「なんか飲みモン買ってくる」
「いってら~」
入れ替わりに薄い財布を引っ張り出した彼を、クラスメイトはやる気のない返事で見送った。
元々日向は、あまり教室に居着かない生徒だった。
学校には、部活をしに来ているようなものだ。朝早くから夜遅くまで、熱心に活動に励んでいる。それこそ、周りがドン引きするレベルで。
学生の本分は勉強にあるのに、彼の優先順位はバレーボールの方が上だ。授業中も、黒板を板書するよりも睡眠を取っている時間の方が圧倒的に長い。
この調子では、定期試験の点数も赤が並ぶだろう。ただ本人は部活が出来ればそれでいいので、あまり気にしていないようだった。
学生服はそのままにして、日向は席を離れて歩き出した。振り返りもせず廊下に出て、あちこちから賑やかな声が響いてくる空間にホッと息を吐く。窓が数箇所開けられていて、そこから流れ込んでくる風が気持ちよかった。
学生服を脱いで襟元が広がった分、特にそこが涼しい。彼は正面から走ってきた微風を心地よさげに受け止めて、元気良く一歩を踏み出した。
がま口タイプの財布はスラックスのポケットへ押し込み、意気揚々と廊下を突き進む。たった二ヶ月足らずの間にすっかり黒ずんで汚れが目立つ上履きで床を蹴れば、階段まですぐだった。
烏野高校は広い。数百人いる生徒のニーズに応えてか、自動販売機はあちこちに設置されていた。
最も品揃えが多いのは別棟にある食堂で、壁一面を埋め尽くす形で並べられている光景はなかなか壮観だ。缶やペットボトルのみならず、紙のコップで提供してくる分まである。使ったことがないが、アイスの自動販売機まであった。
「あ、いいな。アイス」
色々な味が用意されていて、たまにラインナップが変わるらしい。前に部の先輩から聞いた話を思い出し、日向は両手を叩き合わせた。
飲み物もいいが、デザートも捨て難い。ただあそこで買うくらいなら、坂ノ下商店まで遠征した方がもっと多種多様なアイスが選べる気がした。
四月の間は肉まんでお世話になったが、これからの季節は氷菓が楽しみだ。正門を出てちょっと歩かなければならないが、運動した分、癒し効果も抜群だろう。
想像したら涎が出てきて、日向は音立てて唾を飲んで口元を拭った。
「おーっし。きーめたっ」
階段を下りながら叫び、両腕を突き上げる。突然の大声に、たまたまそこにいた生徒がびくっと肩を震わせた。
だが日向は気づかず、鼻息荒くして残る階段を一気に駆け下りた。二段飛ばしにぽーん、ぽーんとリズム良く飛び跳ねて進み、瞬く間に一階に降り立った後は下駄箱へと急ぐ。
在校生全員分の下足を預かる空間は、この時間も混雑して賑わっていた。
坂ノ下商店で買い物を済ませた生徒がいれば、日向のようにこれから出向こうという生徒もいた。暇潰しにサッカーをしようとグラウンドに出て行く男子の集団もあれば、花壇の手入れを手伝おうという女子の笑い声も聞こえた。
雑多な賑わいは耳に快く、それだけで日向の心を高ぶらせた。
「なんか、いーなー」
特に理由もないまま呟いて、彼は自分の下足入れに急いだ。惣菜パンではないので売り切れる心配は少ないが、人気の高い商品が品薄になっている可能性は高い。どうせなら選択の幅は広い方が良いに決まっており、日向はスノコを踏んでぴょん、と飛び跳ねた。
年季が入った下駄箱の扉を開けると、ほんのり饐えた臭いがした。
「うぎ」
温かくなれば、その分雑菌の繁殖も活発になる。自然の摂理をこんなところで痛感して、彼は顔の前で手を振り、息を止めて靴を取り出した。
数日前に雨が降った後、ろくに乾かさずに履き続けたのが悪かったようだ。ちゃんと磨いて、水気を取って乾かさないといけないのは分かっているのだが、部活で帰宅が遅いとどうしてもほかが手を抜きがちだ。
次の週末は頑張ろうと、今日の夕方には忘れていそうな決意を胸に、彼は靴紐を結び直して爪先で床を叩いた。
「よーっし」
これで準備は整った。後は校舎を出て、坂ノ下商店に行くだけだ。
口の中も唾液でいっぱいで、こちらの準備も万端だった。一刻も早く食べたくて、日向は目をきらきら輝かせて昇降口の扉を潜り抜けた。
コンクリートの床が終わり、土の感触を靴底で受け止める。途端、それまで校舎の壁に遮られていた陽光が一斉に彼の頭上に降り注いだ。
「うっ」
眩しい。思わず目を瞑って陽射しから逃げ、ワンテンポ遅れて利き腕を掲げる。指をそろえて庇の代わりにしても遅く、網膜を焼いた熱線は瞳に貼り付いてすぐには消えそうになかった。
「そーいや、帽子、要るかなあ」
夏が近づき、日の出の時間も早まりつつある。四月の頭はまだ薄暗かった登校時も、今では昼間とそう変わらない明るさだった。
直射日光を正面から浴びて自転車を漕ぐのは、なかなかに大変だ。サングラスか、鍔広の帽子はあった方がいいに決まっている。なお、母が使っている日傘は、片手がふさがってしまうので論外だ。
中学時代に愛用していたキャップがあるので、明日からそれを被ろうか。そんなことをぼんやり考え、日向は額に翳した手を下ろした。
「あっつ」
分かっていても、太陽が眩しい。照りつける日光も無防備な皮膚を焼き、首の後ろの産毛がちりちりと焦げている気がした。
このまま放置していたら、焼き豚ならぬ、焼き日向の完成だ。教室でのやり取りを不意に思い出して首を振り、彼はそうならない為にも、と坂ノ下商店へ急いだ。
だがその足は、五歩と進まないうちに止まった。
「アイスだ」
「ああ?」
欲しくて、食べたくてたまらなかったものが、向こう側からやってきた。
思わず口を突いて出た台詞に、大柄の男子が目つきを鋭くした。
台詞自体は聞き取れなかったものの、間抜け顔で何か言われたのだけは分かったらしい。右手に持ったものを上下に揺らして、影山は険のある眼差しで日向を睨みつけた。
日向と同じバレーボール部に所属している一年生は、類まれなセンスと実力を有するセッターだ。しかし癖のある性格が災いし、中学時代のチームメイトからは横暴な王様と言われ、嫌われていた。
高校に入って多少物腰が柔らかくなったとはいえ、人間そう簡単には変われない。相変わらずの不機嫌そうな表情にくすっと笑みを漏らし、日向は坂ノ下商店帰りらしい影山にひらりと手を振った。
そして。
「アイス」
人差し指以外を折り畳み、彼に差し向けた。
告げられた単語に一瞬唖然とし、影山は右手に握った氷菓に目を向けた。
「見りゃ分かンだろ」
買ったその場で開封して、包装紙は店の中にあるゴミ箱に捨ててきた。むき出しのアイスは薄水色をしており、一部が齧りとられて凹んでいた。
熱で溶けた表面が艶を放ち、光を反射してきらきら輝いている。それと同じ目をした少年に嫌な予感を覚えていたら、日向はずい、と身を乗り出して喉仏を上下させた。
予感的中だと、影山は無意識に右足を後ろに引っ込めた。
ソーダ味の氷菓は、日向も昔から良く口にしていた。最近では、二年生の西谷に奢ってもらって食べた。
それを目にして、我慢出来ずに喉が鳴った。
「いいなー、ガリガリ君」
「言っとくが、やんねーからな」
「えー」
物欲しげに指をくわえた彼に、すかさず影山が言い返す。同時に利き手を高く持ち上げて、アイスを遠くへ避難させるのも忘れない。
取り付く島もない素っ気無い台詞に、日向は不満そうに頬を膨らませた。
「えー、じゃねえだろ」
それを叱り、影山が吐き捨てる。言葉の槍で額を小突かれ、日向は首を竦めて小さくなった。
そもそもこのアイスは、影山が自分の足で店に出向き、自分の金で買ったものだ。だから所有権も影山にあり、それを突然現れた日向に譲ってやる道理は欠片もない。
食べたければ自分で買ってこいと、至極もっともな意見を整然と並べ立てた彼に、しかし日向は納得がいかないのか口を尖らせ唸った。
理屈は、確かに影山の言う通りだ。あまりにも正論過ぎて、反論しようという気にもならない。
それでも理屈にならない部分で不満が残って、巧く心の整理がつかなかった。
口の中は既にアイスのことでいっぱいで、今すぐ食べたいと訴えて憚らない。春の半ばの暑い時間帯で、すぐそこに欲してやまないものがあるとしたら、是が非でも食べたいと思うのは自然なことだ。
しかも持ち主は、毎日顔を会わせる相手だ。これがまったく知らぬ生徒だったなら、いくらなんでもこんな気持ちにはならなかっただろう。
「ひとくち」
「ダメだ。自分で買え」
「ケチ」
「テメーが非常識なだけだろ」
強請るが、突っぱねられた。尚も縋り付くが、呆気なく足蹴にされてしまった。
言い放ち、影山がアイスを齧った。口を開け、隙間に氷菓を押し込んで前歯を突き立てる。その一連の動きを固唾を呑んで見守って、日向は握った拳を上下させた。
「いーじゃんか。ちょっとだけー」
「うっせえ」
じたばた足掻いて訴えるが、聞き入れられない。影山は日向の懇願を一蹴して冷たい菓子を食み、はふはふ言いながら飲み下した。
立派な喉仏が揺れ動き、やがて静かに落ち着いた。剣呑だった目つきも幾ばくか緩んで、甘くて冷たい甘味に満足げな笑みが向けられた。
こんな顔、日向は一度も見たことがない。目の当たりにした瞬間ちりっと来る熱を感じ、彼は無意識に左胸に爪を立てた。
パーカーを握り締め、俯いて地面を蹴る。砂を浴びせられた影山は咄嗟に左足を引き、生意気で身勝手な同級生に顔を顰めた。
「おい」
外履き用のスニーカーとはいえ、あまり汚したくはない。下駄箱が砂まみれになるのは避けたくて苦情を言うが、日向はつーんとそっぽを向いて影山に見向きもしなかった。
我が儘が聞き入れられなくて、拗ねている。思い通りにいかなくて癇癪を爆発させるなど、どこの小学生かと影山は頭を抱えた。
「早くしねーと、売り切れっぞ」
今日は気温が高い。こんな日は冷たい飲み物や食べ物が大人気だ。アイスケースの前にも人だかりが出来ていたのを思い出し、呟く。
そしてもうひとくち、購入直後に比べれば随分と柔らかくなったアイスを噛み千切った直後。
ぼそっと吐き捨てられた台詞を鼓膜が拾い上げた。
「菅原さんだったら、ぜってー奢ってくれたのに」
烏野高校男子排球部副キャプテンの三年生は、部活後によく肉まんを奢ってくれる良き先輩だった。
影山と同じセッターで、気配り上手。いつもにこやかに微笑んでおり、キャプテンである澤村に怒られた後の後輩をフォローする心優しい上級生だ。
バレーボールの技術は影山に遠く及ばないものの、部の精神的柱として存在感は抜群だ。一緒にプレイするなら影山を迷わず選ぶ日向も、登下校を共にするとしたら菅原の方が断然良かった。
彼だったら、ひとくちと言わずふた口くらい、アイスを齧らせてくれたはずだ。損得勘定抜きにして、仕方がないな、のひと言で許してくれる先輩を引き合いに出してきた日向に、影山の頬がひくっ、と引き攣った。
「いーよ、もう。買ってこよ」
「待てよ、コラ」
比べられた。一列に並べて、優劣を付けられた。
たとえ実のない勝負だとしても、負けるのは悔しい。低いランクに突き落とされて、ケチのレッテルを貼られるのは腹立たしかった。
ぶすっとしたまま言って校門を出ようとした彼を追いかけ、影山は腕を伸ばした。左手でフードを引っ掴んで、立ち去ろうとしていた日向の首を絞めて吊り上げる。
「ぎゅえっ」
喉を圧迫され、気道が塞がれた彼は潰れた蛙のような悲鳴を上げ、両手をじたばた振り回した。
襟に指を入れて隙間を作り、暴挙に出たチームメイトを睨みつける。だが身長差が大きいのもあって、あまり迫力は出なかった。
「あにすんだよ!」
怒りを露わに怒鳴りつけても、呂律が回らず、こちらも凄みが利いているとはいえない。明るい茶色の髪をふわふわ風になびかせて、少年は小鼻を膨らませて影山の手を払いのけた。
勢い余ってたたらを踏んで、おっとっと、とよろめいた末に両足で立つ。見事なバランス感覚を披露した彼に数回瞬きして、影山は空になった左手を不思議そうに見つめた。
「なんでだ?」
「おれが知るか」
何故日向を引きとめようとしたのか、咄嗟に思い出せない。記憶が吹き飛んだと怪訝にして口を開けば、フードを叩いて伸ばした日向がぶすっと吐き捨てた。
歪んでしまった形を整え、一旦被った上で背中へと流す。一瞬白兎が現れた気がして、影山は指に垂れたアイスの冷たさに鳥肌を立てた。
ぞわっとして、内臓が擽られた錯覚に背筋が粟立つ。膨れ面でパーカーを撫でた日向は、正門脇で呆然と立ち尽くす彼に小首を傾げた。
「かげやま?」
「ン」
「えっ」
ここに居たら、アイスはどんどん溶けていく。早く部室なり、教室なりに行けばいいのにと苛立っていたら、唐突にそのアイスを眼前に突きつけられた。
鼻に刺さりそうになった氷菓に、驚きが隠せない。肌を撫でたひやっと冷たい空気はほんのり甘くて、仰け反ったまま深呼吸した日向はいぶかしげに影山をねめつけた。
暑くないのか黒の学生服を着込んだ男子生徒は、早くしろ、と言わんばかりに持ったアイスを揺らしていた。
「なんだよ」
「食いてーつったのは、テメーだろ」
「そうだけど、お前さっき」
「いーから。いるのか、いらねーのか、はっきりしろ」
溶けた氷の表面から、白い煙が立ち昇っているのが見える。無意識に喉が鳴って、日向は齧り付きたい衝動を必死に押さえつけた。
パーカーの上から腹を引っ掻き回し、急に態度を変えた影山に疑いの目を向ける。語気を荒らげ怒鳴った彼もまた、不審なものを見る目で日向を見下ろしていた。
ぽたり、アイスの角から水滴が垂れた。
「……くれんの?」
どれくらい無言で見詰め合っただろう。
恐る恐る問いかけた日向に、影山は仏頂面で頷いた。
「ひと口だけだかんな」
いつにも増して低い、地の底から響いてきたような声で告げる。だが幼子が聞いたら泣き出しそうな迫力も、日向の前では何の役にも立たなかった。
先ほどまで駄目の一点張りだったのに、これはいったいどうしたことか。彼の心境にどんな変化が生まれたのかは分からないが、ともあれ念願叶った日向は大きく目を見開き、歓喜の頬を赤らめた。
月島だったらあげる、と言った後にやっぱり止めた、と騙してくる可能性が非常に高いが、その点影山は嘘をつかない。天才セッターの言葉を無邪気に信じ、彼は万歳と破顔一笑して大きく口を開いた。
「あー……」
影山はアイスを水平に構え、満面の笑みでアイスにかぶりついたチームメイトに見入った。
溶け始めているとはいえ、氷菓はまだ十分冷たい。前歯より先に触れた唇が一瞬で熱を奪い取られ、日向はひやっと来た首筋にびくりと肩を跳ね上げた。
体内に蓄積された熱も一緒に昇華して、末端から冷えていくのが分かる。このままだと癒着して剥がれなくなってしまうと恐怖した矢先、ぴったり張り付いた隙間に冷たい水が紛れ込んだ。
一気に滑りが良くなった。牙を突き刺せば、軽く抵抗を受ける。まだ粒の大きい氷の塊が行く手を阻み、これ以上進ませないと熱い闘志を滾らせた。
「ン」
それを難なく屈服させて、彼はシャリっ、という甘く冷たい感触に相好を崩した。
カチコチに凍っていたわけではないので、すんなり噛み砕けた。刃はするりと肉を削ぎ、親指ほどの太さの塊を切り出した。
唇で蕩かされた断面が露わになり、冷たい雫を滴らせる。なんとも嬉しそうな顔で頬を緩めた日向は、露出した棒にこびりつく水分をも舐めようと舌を伸ばした。
「ンっ、ふふ」
一瞬だけ赤い肉をちらつかせ、すぐに引っ込めて鼻から息を吐く。その妙に艶っぽい吐息にどきりとして、影山も慌てて腕を引っ込めた。
遠慮無しに横から齧られた。ひと口でふた口分以上を奪い取られて、お陰で中心に差し込まれた棒の表面が少しだけ顔を出していた。
「食いすぎだ」
「うぇ、へへ」
まだ全然食べていないのに、日向に結構な量を奪われた。だが不思議と怒りは沸いて来ない。許したのは他ならぬ自分自身であり、こいつなら仕方がないという諦めも心の縁に引っかかって影山を揺さぶった。
呆れられて照れ臭そうに笑い、日向は唇を舐めた。表面にこびりついている甘い汁も残さず回収しようとしており、あまりの意地汚さにため息しか出なかった。
「ったく。今度、なんか奢れよ」
「それとこれとは話がべつぅー」
嘆息混じりに言い、影山はすっかり緩くなったアイスを頬張るべく右腕を持ち上げた。口を窄めて尖らせた日向の反論は無視し、断面から生み出される水滴を吸おうと口を開いて。
舌を伸ばそうとしたところではたと気づき、動きを止める。
「影山?」
目に入るのは、日向が今し方齧った場所。アイスの脇腹を抉るように作られた、巨大なクレーター。
そこから滴るのは、彼の熱で溶かされた甘い汁。
その事実を認識した途端、影山の頬が一気に引き攣った。ひくりと喉を鳴らし、横からの呼び声にも気づかない。
ちょっとだけ顔色を悪くして凍りついた彼に眉を顰め、日向はどうしたのかと踵を浮かせて背伸びをした。
そして。
「あっ!」
見えた景色に瞳を輝かせ、甲高い声を発した。
「すっげー。これ、当たりじゃん」
「は?」
僅かに高くなった視界に、細かい文字が紛れ込む。ほんの僅かに露出したアイスの棒の表面には、確かに当たりを表す焼印が確認出来た。
影山が見ていたのはそれだと勝手に勘違いして、日向は興奮気味にぴょんぴょん跳ねた。砂埃を撒き散らし、自分のことのように喜んで頬を紅潮させる。
「やったじゃん。いいなー、いいなー」
「う、うっせ。引っ付くんじゃねーよ、暑いだろ」
当たりくじなど、滅多にお目にかかれるものではない。素晴らしい奇跡に驚嘆の声を上げて飛びつけば、もう少しでアイスを落とすところだった影山が声を上ずらせて怒鳴った。
あからさまに動揺して、肘も使って日向を追い払う。そのついでに棒から外れ落ちそうだった氷菓をむさぼり食っていたら、あまりの冷たさに頭がキーンと来た。
「ぐぅ……」
「なー、なー。おれ、ソレ欲しいなー」
カキ氷を急いで食べた時も、こんな風になる。冷えすぎて逆に痛い咥内を慰め程度の唾液で湿らせて、影山はここぞとばかりに甘えてくるチームメイトに苦虫を噛み潰したような顔をした。
袖を摘まれ、軽く引っ張られた。小首を傾げて可愛らしいポーズを決めて、上目遣いに見つめられた。
これで高校一年生、あと一ヶ月少々で十六歳になるというのだから驚きだ。とても同い年には見えない小さなミドルブロッカーに冷や汗を流し、影山は腰を捻って彼を振り払った。
「誰がやるかよ!」
アイスを食べ終えたばかりだというのに、何故だか身体はかっかと熱い。顔も火照って赤く染まり、舌の表面がひりひり痛んだ。
肘で牽制しながら怒鳴った彼に、日向は不満を隠さず頬を膨らませた。
「ケチー」
いー、と白い歯を出して糾弾し、ぷいっと顔を背けてそっぽを向く。拗ね顔で地団太を踏んでいたら、高い位置からため息が降ってきた。
振り向けば、渋い表情の影山が肩を竦めて首を振っていた。
この棒を持っていけば、もう一個同じアイスがもらえる。坂ノ下商店で店番をしている人物は顔見知りなので、差し出せばすぐに理解してもらえるはずだ。
ただ、さすがにソーダ味のアイスを一度に二本も食べるのは、腹がきつい。かといって後日にしたら忘れそうだし、放置していたら蟻が寄ってきて不衛生だ。
痛みの引いた頭を撫で、迷い、悩む。眉間に皺を寄せて考え、妥協に妥協を重ね、影山は最後に黒髪を掻き上げた。
「ひと口寄越せよ」
「やったー! 影山、すきー!」
「だから、抱きつくなっつってンだろ」
ぼそりと言えば、狂喜乱舞した日向がいつもの調子で飛び跳ねた。ぽーん、と高く宙を舞い、勢いに乗せて影山の胸へタックルする。
後ろによろめきながらもしっかり受け止めて怒鳴るが、危ないといっているのにちっとも言うことを聞かない。怪我をしても知らないと愚痴を零せば、日向は楽しそうに笑って逞しい腕にしがみついた。
「いこ。早く、早く!」
せっつき、掴んだ手を引っ張って捲くし立てる。その、一見すると仲がよさそうなふたりのやり取りに、偶然近くを通りかかった女生徒が朗らかな笑みを浮かべた。
向けられる温い視線に嘆息し、影山は渋々来た道を戻るべく踵を返した。
「覚えてろよ」
瞼を閉じれば、食べ切る前のアイスの姿が蘇る。あの甘い汁が垂れ落ちる光景を見て、彼も同じ気持ちになればいい。
ささやかな復讐を心に誓って、影山は緩やかな傾斜を下っていった。
2013/05/13 脱稿