「ありっとう、ござっしたー」
店員の、やや鼻に掛かった声に見送られてレジ前を通り抜けて、綱吉は向こう側が透けて見える扉の前で一寸だけ歩調を緩め、左足を前に突き出した。
外が暗い所為で、自分の姿がドアにくっきり浮かび上がっていた。巨大な姿見に向き合っている気分に陥って、彼はセンサーが反応したのを確認すると、自動的に左右に分かれた透明な扉を急ぎ潜り抜けた。
途端にムッとした熱風に襲われて、顔が勝手に歪んだ。口を尖らせた綱吉の後ろで音もなくドアは閉まって、振り向けばコンビニエンスストアの店内が、まるで異世界のように煌々と輝いていた。
日が沈んでもう結構な時間が過ぎている。夜闇が空一面を覆い尽くしており、上を見れば雲に隠れた月の影が薄らぼんやり浮かんでいるのが見えた。
「……暑」
九月の真ん中を過ぎ、あと十日足らずで十月になるというのに、まだまだ気温は例年の平均の上を行き、夜になってもなかなか温度は下がらない。今年の夏は記録的猛暑と言われて、その余波がこの時期になっても続いていた。
それでも暦は着実に前に進み、季節としてはもう秋だ。頭の中でカレンダーを思い浮かべた彼は、右手にぶら下げたビニール袋を揺らし、肩を竦めた。
毎日暑いので、いつまで経っても夏物を片付けられない。十月になれば、学校では問答無用で衣替えが行われて、制服も長袖に替わる。もっとも今暫くはベスト、或いはカーディガンは、必要なさそうだ。
並盛中学校はブレザーなので、まだ上に着るものを工夫すれば暑さをしのげる。ただ、学生服の学校はそうはいかないだろうから、大変だ。
そんな事を考えて、彼は二十四時間営業の店の前を離れた。空きスペースの多い駐車場の真ん中を横切って、歩道へと戻る。目の前の信号は赤だった。
「おっと」
車は来ていないが、油断は禁物だ。無灯火の自転車が来る可能性だってある。注意深く左右を見渡した彼は、強行突破を諦めて、大人しく信号が変わるのを待つことにした。
背中に回した手で袋を揺らし、膝の裏側を叩く。中に入ったものが傾いて、形が崩れてしまう懸念はあったが、どうせ最後は皆の胃袋に収まるのだから、多少見た目が損なわれても問題無かろう。
頬を撫でる温い風に首を振り、彼は右から近付いて来た白い光に目を細めた。
トラックだ。
「っ」
前方のライトは真正面に向けられていていた。横断歩道の手前ぎりぎりの所に立っていた綱吉までもが光の渦に巻き込まれて、咄嗟に目を閉じて顔を背けるものの、瞳を焼いた閃光は、暫くの間彼の網膜に留まった。
チカチカする目の真ん中に掌を押し当てた彼は、一瞬で駆け抜けていった大型車両を恨めしげに睨み、気がつけば変わっていた信号の色に慌てた。
「やば」
注意を余所向けていた為に、すぐに反応出来なかった。唾を飲んで渇いていた咥内を潤して、急ぎ数センチの段差を下る。五メートルほどの車道を駆け足で渡り、反対側に到達して胸を撫で下ろす。
ここの信号は切り替わりが早いのだったと、何事もなく行き過ぎられた道路を顧みる。案の定青色が点滅を開始しており、彼はガサガサ言う袋を撫で、自宅に繋がる道に向き直った。
「……あれ?」
そしてか細い街灯が照らす景色の片隅に、見覚えのある背中を見つけて首を傾げた。
距離がある上に暗いので、此処からではそうだと判断するのは難しい。だけれど直感めいた物を感じた彼は、ぶわっ、と来た目に見えないものに全身を毛羽立てると、薄汚れたスニーカーで思い切り地面を蹴りつけた。
遠回りになる道だと分かっていても、走らずにいられなかった。ゆったりとした足取りで歩いている彼に追いつくのは造作もなくて、綱吉は若干息を乱し、肩を上下させ、少しずつ強まる確信に胸を高鳴らせた。
「ヒバリさん!」
あと三メートル。そこまで接近したところで、叫ぶ。
夜間というのもあって足音は大きく響いていた。駆けてくる存在があるのは既に認識していた雲雀は、しかし思いも寄らなかった声にビクッとして、彼にしては珍しい、大きな動きで振り返った。
右手に握られたトンファーに綱吉もぎょっとして、前に出そうとしていた身体を慌てて引っ込めた。
「おっ、と、と」
重心が崩れ、片足立ちでどうにかバランスを取って転倒だけは回避する。折角詰めた距離がまた開いて、綱吉は目を丸くしている雲雀に照れ笑いを浮かべた。
こんな時間に彼目掛けて突撃してくる人間など、そういない。居るとすれば、風紀委員に恨みを持つ人間くらい。
闇討ちを想定し、返り討ちにしてやろうと考えていた雲雀は、予想外の人物の登場に声も出ないようで、彼らしからぬ惚けた顔をしていた。
「ヒバリ、さん?」
「……君か」
あまりにも反応が鈍くて不安になった綱吉が、小首を傾げながら恐る恐る呼びかける。それでハッと我に返り、彼は素早くトンファーを片付けた。両手を空にして、緩く握り締める。
どこか気まずげにしてはいるものの、彼の注意が自分に向いたのが嬉しくて、綱吉は薄紅に染まった頬を掻き、小さく頷いた。
「見回りですか?」
「君は、……散歩、ではなさそうだね」
「あはは」
雲雀が所属する風紀委員会は、並盛中学校を実質的に支配している権力組織だ。委員長たる彼はそのトップに君臨して、辣腕を振るっている。
風紀委員は中学校のみならず、町内の風紀を守る活動にも従事しており、見回りはその一環だ。
雲雀の呆れた感のある口調に頭を掻き、綱吉はコンビニエンスストアの袋を揺らした。
乳白色をしているそれに何が入っているかは、外から見ただけでは分からない。密かに眉を顰めた雲雀は、続けて綱吉の格好を眺め、そっと嘆息した。
「寒くないの?」
この時間であるに関わらず制服の雲雀とは違い、綱吉は学校から帰って早々に着替えて、今は私服だ。薄手の半袖シャツ一枚に、膝丈のショートパンツ。スニーカーを履いているが、靴下は身につけていない。
九月も半ばを過ぎているというのに真夏の格好をしている彼に問うと、綱吉は頬に押し当てていた指を下ろし、肩を竦めた。
「お店の中は寒かったです」
「だろうね」
コンビニエンスストアは冷房が効いていて、肌の露出部分が大きい綱吉には寒すぎた。今は凍えていた身体が外気に温められて、丁度良い。
けれど雲雀の指摘を受けて、生温い中にも秋らしい気配を感じ取り、彼は小さくくしゃみをした。
「あれ」
鼻の下を擦って首を傾げていると、雲雀の溜息が聞こえた。
「風邪引かないようにね」
「はーい」
馬鹿はなんとか、と言うけれど、綱吉は毎年のように冬になると寝込む。どこか呆れつつも、心配してくれているのが嬉しくて、彼は元気よく返事をすると、剥き出しの腕を撫でた。
本人は平気そうだけれど、見るからに寒そうな格好に眉目を顰め、雲雀は薄い雲が広がる空を仰いだ。
「家、こっちじゃないよね」
綱吉が動く度に、底が膨らんだ袋がガサガサと音を立てる。姿勢を戻した彼に訊かれて、綱吉は遠慮がちに頷いた。
雲雀の背中が見えたから、つい追いかけてしまった。後先考えない彼の行動に三度嘆息し、雲雀は左肩を撫でて靴底でアスファルトを蹴った。
「送るよ」
「えっ、良いですよ」
方向転換し、来た道を戻ろうとした彼に、綱吉は慌てて首を振った。手も一緒に左右に揺れて、白い袋が振り子の如く、ふたりの間を行ったり来たりした。
肘に軽く当てられて、雲雀の視線がそちらに向かう。黒い瞳の流れを追いかけた綱吉は、二秒後にハッとして、それを背中に隠した。
どうやら中身を知られたくないらしい。そう判断した雲雀は、気遅れた感のある彼を置いてさっさと歩き出した。
機嫌を損ねた雲雀を追いかけ、綱吉は先程の自分の行動を悔いた顔をした。
「ヒバリさん」
悪気があったのではなくて、笑われてしまいそうで怖かっただけだ。早々と五メートル近い距離が開いてしまった彼を追いかけ、綱吉が声を大きくする。
澄んだ秋の空気に溶けて広がった音に肩を揺らして、雲雀は振り返った。
「気にしなくて良い」
ぶっきらぼうに告げられた、その言葉が何を指しての発言だったのか分からなくて、綱吉は眉間に浅く皺を刻んだ。
町内の見回り中だったのに、綱吉の家に向かう事になった件か。それとも、夜の八時を過ぎた頃合いに、コンビニエンスストアまでわざわざ足を向けて購入した品を教えてくれなかった事に、腹を立てた事か。
暗い所為で彼の表情がよく見えない。もっとも、見えたところで綱吉には、彼の頭の中などさっぱり読み取れないのだけれど。
緩まない歩調に一寸だけ苛立って、綱吉は一歩の幅を大きくして雲雀の隣に並んだ。左側 彼と、軒を連ねる民家との境目に立って、ぽつぽつと灯る街灯の下を何度も潜り抜ける。
明るい場所と、暗い場所とが交互に現れる。四方に伸びた影は濃い物と薄い物があって、それぞれ折り重なり合いながら後ろへと流れていった。
腕の振りに合わせて袋が揺れる。空っぽの右手が、固い物に掠った。
「あ……」
瞬時にその正体を悟り、顔を上げる。彼も首を少しだけ巡らせて、綱吉を見た。
無言のまま、雲雀は緩く握っていた左手を広げた。間髪入れずにすぐに握り直して、解いて、指先を痙攣させる。
前に向き直った彼は、十字路に行き着いたところで足を止めた。
気付かずにそのまま前に出ようとした綱吉が、刹那、引っ張られてつんのめった。
「うわっ」
直後に無灯火の自転車が、彼らの前を猛スピードで駆け抜けていった。右から左へ、警告の鈴さえ無かった。
もう少しで撥ね飛ばされるところだった綱吉は肝を冷やし、一瞬にして暗がりに消えて行った人影を追いかけて、左に続く道を覗き込んだ。
「気をつけて」
「あ、はい」
右から言われて、急ぎ視線を戻して頷く。続けて俯いた彼は、しっかり握られた己の手に首を捻った。
何に、誰に握り締められているのかは、今更確認するまでもない。四本の指を包み込むようにして重ねられた掌から仄かな熱が伝わってきて、彼は寒さとは異なる理由で鳥肌を立てた。
「ひ、ヒバリさん」
「……嫌?」
「え? あ、いえ……」
狼狽えてしまって、咄嗟に振り解こうと肩に力を込める。けれど聞こえてきた寂しげな声にビクッとして、綱吉は中途半端なところで動きを中断させた。
跳ね上がった肘から先を静かに下ろして、ふたりの中間地点に留め置く。
「いいえ」
浮き上がった雲雀の人差し指が何かを探るように動いて、綱吉は首を横に振った。
一旦手を解いた雲雀が即座に戻ってきて、一回り小さな掌を包み込んだ。互い違いに指を絡め合って、ふたり、タイミングを合わせて指を折り畳む。
「……えへへ」
照れ臭さに負けて、綱吉は肩を竦ませた。
こんな事、昼の明るい時間帯には出来ない。数秒間無言で見つめ合って、彼らは同じ瞬間に右足を前に繰り出した。
信号のない交差点を越えて、最初に雲雀を見つけた道まで戻る。赤信号の向こう側では、相も変わらず緑のロゴが鮮やかな店舗が、目映い光を放っていた。
あそこだけは、昼も夜も、一日中変わらない。
夏の夜、光に群がる虫になった気分で見詰めていたら、雲雀に引っ張られた。方向転換を果たした彼に、半ば引きずられるようにして四辻を離れ、暗がりが支配する住宅地へと舞い戻る。
「こんな時間に出歩くのは、感心しない」
「大丈夫ですよ。俺、男だし」
町が寝静まるのはまだ先だけれど、通行人の数は目に見えて少ない。先のような事例もあるし、暴漢に襲われる危険だってある。
前を見据えたまま呟いた雲雀に一瞬きょとんとしてから、綱吉は苦笑した。
だけれど瞬時に怖い顔で睨まれて、彼はおっかなびっくり背中を丸め、右手の指に力を込めた。
爪を立てられた雲雀は、チクリと来た痛みを黙ってやり過ごし、膨れ面をしている年下の少年を上から下まで見詰めた。
この時間になっても元気に跳ねた髪の毛に、大粒の瞳、愛らしい顔立ち。遠目からでは女性と見間違えられても可笑しくない程の華奢さをして、実際腕も、足も、なにもかも細い。
その辺の不出来な女子よりもよっぽど可愛らしい彼から顔を背け、雲雀は奥歯を噛み締めた。
「赤ん坊に言って、夜間外出禁止にして貰わないとね」
「えー! なんですか、それ」
呻くように囁かれた台詞に、綱吉は非難の声をあげた。しかし雲雀は撤回せず、解けそうになった手を握り直した。
骨が軋む痛みに顔を顰めた彼は、真っ直ぐ前ばかり見ている年上の青年の、ふて腐れたような横顔を見上げ、窄めた口から一気に息を吐いた。
そして。
「あは、ははは」
急に笑い出した彼の真意が分からず、雲雀が怪訝に視線を向ける。綱吉は顔の前で左手を振って、なんでもない、と小声で呟いた。
とてもそうは思えないのだが、訊いても教えて貰えそうになくて、雲雀は黙った。
拗ねてしまった彼に笑みを噛み殺し、綱吉は目尻を下げた。
深く息を吸って吐き、胸の高鳴りが外に飛び出していかないように落ち着かせる。夜闇を奔った空気は夏でも秋でもない、どっちつかずな色をしていた。
それでも日が沈んだ影響で、気温は少しずつ下り傾向にあった。身震いした綱吉を気遣って、雲雀が握った手に力を込めてくる。肌越しの体温は優しくて、心地よかった。
こんな風に彼と手を繋いで歩けるなんて、夢のようだ。頬を淡い紅色に染めて、綱吉は最初に比べて随分と鈍くなった歩調にはにかんだ。
雲雀は基本的に、早足だ。綱吉はどちらかと言えば遅い方だが、それでもここまで酷くない。
一歩進めば、それだけゴールに近付く。沢田家に辿り着いてしまったら、この時間は終わりを迎える。
会話はいつしか途絶え、ふたりがアスファルトを踏みしめる小さな音だけが、夜の並盛町に沈んでいった。
「……月」
そんな最中、不意に綱吉が呟いた。
沈黙に耐えかねたわけではない。なんとなく空を見上げて、依然雲が視界の大半を占める中、朧気に輪郭を浮かび上がらせている満月が見えただけだ。
無意識に呟いた後でハッとした彼は、横から突き刺さる視線に顔を赤く染め、首を横に振った。
「な、なんでもないです」
「そういえば、今日は十五夜だったね」
気にしないで欲しいと訴える彼を無視し、上空を仰いだ雲雀がぼそりと言う。聞こえた言葉に、綱吉は竦めていた首を伸ばした。
惚けた顔をしていたら、見下ろされて、彼は急ぎ顔を伏した。バクバク言っている心臓を服の上から押さえ込んだら、腹の辺りに少し重い袋がぶつかった。
袋の口は、テープで固定されていなかった。隙間から中身が一寸だけ見えて、雲雀は首を前に倒した。
「それ」
「う……」
指さされ、綱吉は口を真一文字に引き結んだ。
数秒間の逡巡の末に観念して袋を差し出し、二つある持ち手のうちの片方を手放す。自然と広がった入り口から、透明なパックに入った団子が見えた。
丸く、白い、掌サイズのものが複数個押し込められている。
パックの上部にはシールが貼られており、そこには大きく「月見団子」の四文字が記されていた。
「ランボが、夕飯前に全部食べちゃって。そうしたらリボーンが、月見なのに団子が無いのは嫌だって言うから」
日も暮れて暗い中、ひとりで外を出歩いていた理由を告げられて、雲雀は緩慢に頷いた。黒服に身を包んだ、黄色いおしゃぶりをぶら下げたあの赤ん坊なら、それくらいの事は十分言いそうだ。
綱吉の夜間外出を禁止にするには、まずあの赤子の我が儘からどうにかしなければならないらしい。難しい問題だと顔を顰めた彼を見やり、綱吉は袋を握り直した。
偶々あのコンビニエンスストアでも扱ってくれていたから良かったものの、売っていなかったら、と思うと恐ろしい。あちこち探し回る羽目に陥らなくて良かったと胸を撫で下ろした綱吉だけれど、買い物に出てからもうかなりの時間が経過している。どちらにせよ、帰ったら怒られるのは間違いない。
それはそれで気が重い。薄雲が優勢の空に目を向けて、彼はこっそり嘆息した。
「見えないですね」
昼間は快晴だったので、夜もきっと大丈夫だと思っていた。
ススキを飾って、三方に買ってきた団子をピラミッド型に積み上げて。庭に面する縁側で、家族揃ってお月見をする予定だったのに、肝心の満月がこの有様では、寂しい限りだ。
控えめに笑って言った綱吉に、雲雀はなんとも言えない顔をした。
困っているように見えるけれど、違う気もする。巧く言い表せない自分の語彙の少なさに幾らか傷ついて、綱吉は前方に視線を戻した。
まだ多少距離が残っているものの、沢田邸の屋根は既に見え始めていた。
終わりが近い。名残惜しけれど、彼と堂々と手を繋いで歩けただけで十分だと言い聞かせ、綱吉は行こう、と右手を揺らした。
「そうだ。折角だし、ヒバリさんもお団子、食べて行きます?」
ここで会ったのも何かの縁だから、と声を高くした彼に、雲雀は露骨に眉を顰めた。
言ってから、失敗したと綱吉も気付いた。彼はそもそも、人と群れるのを嫌う。綱吉の家には現在、居候が五人もいるのだ。
最初は奈々と綱吉のふたりだけだったのに、今や大家族と言っても過言ではない。賑やかで、落ち着きが無くて、毎日がどんちゃん騒ぎ。そんな中に彼を連れ込むなど、子羊の檻に狼を解き放つに等しい。
しまった、と左手で口元を覆い隠した綱吉に盛大な溜息を吐いて肩を落とし、雲雀は前髪を掻き上げて後ろへ梳き流した。
「遠慮しておくよ」
「そ、そう、ですね。そうですよね」
きっぱり言われてしまって、綱吉は吃りながら何度も頷いた。
その返答以外有り得ないというのは、分かっていた。だけれどひょっとしたら、という思いもほんの少しあった。
予測できた結末なのに哀しくて、綱吉は気落ちした顔で俯き、下唇を浅く噛んだ。
沈み込んでしまった彼の横顔を盗み見て、雲雀はぼんやりした輪郭を描き出す月に目を細めた。雲を照らす光が周囲に、円形に広がっており、白い暈を形成していた。
闇は深く、低い。そこにぽっかり浮かぶ月は、手を伸ばせば楽に届きそうで、けれどどんなに背伸びをしようとも絶対に届かないところを彷徨っていた。
ざり、と砂を踏む音が厳かに場に満ちる。どれほど歩幅を調整しようとも、前に進み続けている限り、いつかゴールに辿り着く。
門扉の少し手前で、綱吉は足を止めた。
沢田家の敷地を囲む塀は、低い。あまり近付きすぎると、縁側に居るだろう子供達に見付かってしまう。
見付かれば彼らはきっと騒ぎ出す。そうなれば、綱吉は雲雀に、送ってくれた礼を言う暇さえ作れない。
「あの」
「無月」
「……?」
握りあった手を離すのが惜しくて、このままでいたい気持ちが強すぎて、なかなか切り出せない。だけれど言われるよりも、自分から言った方が、感じる切なさは少ない気がして、綱吉は口を開いた。
それを遮る形で、雲雀がぽつり、呟いた。
聞こえたものの、巧く漢字に変換できない。何を意味する語句なのか見当がつかないでいる綱吉に微笑み、雲雀は家々の屋根を慎ましやかに照らす月を見た。
雲に遮られた十五夜は、儚い夢のようでもあった。
「無月っていうのは、今日みたいな……ああ、いや。本当ならもっと曇っていなければならないんだろうけれど」
今日はまだ辛うじて見えるから、当てはまらないのかもしれない。彼らしくない自信のない物言いに、綱吉は首を捻り、朧げな月を見詰めた。
「むげつ」
「はっきり見えないのは残念だけど、それもまた、ひとつの月見だよ。それに」
奥歯で噛み締めるように呟いた綱吉に言い連ね、雲雀は左手の力を弱めた。それまでずっとひとつだった手が分離を果たして、空っぽになってしまう恐怖に襲われた綱吉は、慌てたように彼を追い掛けて指を蠢かせた。
空を掻き毟る小さな手を左手でそっと押し返し、雲雀は団子のようにまん丸い、ふっくらした頬を両側から挟み込んだ。
「え……」
真っ直ぐ射抜かれて、綱吉は戸惑いを顔に出した。琥珀色の瞳を揺らめかせ、静謐に包まれた黒水晶を避けて視線を伏す。照れ臭くて仕方が無くて、見詰め返せない。だけれど雲雀は許さず、頬を押し潰された彼は渋々、臆し気味に正面を向いた。
上目遣いの双眸に目を細め、雲雀は艶を帯びた琥珀に唇を寄せた。
「っ」
綱吉は咄嗟に息を呑み、瞼を下ろした。四肢を強張らせ、思いの外優しい感触に漸く安堵の息を吐く。
「ふふ」
笑った雲雀は立て続けに小ぶりの鼻にもキスをして、頬の拘束を緩め、薄く開かれていた唇を攫った。
吐く息を掬い取られ、綱吉は一瞬で離れて行った悪戯な熱に、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「ヒバリさん」
こんな事をされたら、余計に離れ難い。圧迫感は薄れたが、まだ頬を挟まれたままの彼が辛そうに名を呼ぶのを聞いて、雲雀は瞼を閉ざし、無防備な額に額を押しつけた。
コツン、と骨に軽く響く衝撃に首を竦め、綱吉が雲雀の手首を握り締める。
恐る恐る眼を向ければ、暗がりの中、もっと冴え冴えとした闇がふたつ、並んで彼を見詰めていた。
「ヒバリさん」
「ン」
呼び声に応えるように、雲雀が首を前に伸ばす。さっきよりもずっと長い、互いの存在を確かめ合うくちづけを交わして、相手の呼気を奪い、熱を募らせる。
伸びてきた舌の先で上唇を擽られ、鼻の頭を戯れに齧られて、綱吉はビクリと肩を跳ね上げた。
潤み、妖艶な彩を浮かべた琥珀の瞳に見入り、雲雀は長い睫毛に息を吹きかけ、こめかみに触れるだけのキスを贈った。
「遅くなったのが僕の所為だってバレたら、赤ん坊に叱られるね」
「言いませんよ」
「そうだね。でも、彼は鋭いから」
頬を膨らませた綱吉を解放して、雲雀は濡れた唇に人差し指を押し当てた。手首を裏返し、緋色の唇をも軽く小突く。
最後に額の真ん中を弾かれて、彼は盛大に口を尖らせた。
タコになっている綱吉を呵々と笑い飛ばし、情欲を覚えて潤んだ彩が彼の瞳から消えた事に、雲雀はひっそりと安堵した。
あんな顔のままで、帰らせられるわけがない。
赤く色付いた唇を指の背で拭ってやって、雲雀は彼の肩を二度、叩いた。
「月見も終わった事だし、僕は帰るよ。後はひとりで平気だね」
「つきみ……?」
あと三メートルも行けば、もうそこが綱吉の家だ。流石にこの距離で事故に遭う可能性はゼロに等しくて、子供扱いされたのが若干癪に障った綱吉は、ふて腐れた顔で首を傾げた。
眉間に三本皺を刻んだ彼に笑み、雲雀は愛らしい小鼻を人差し指で押した。
月は雲の所為で殆ど見えず、暈が朧気に存在を主張しているのみ。それに雲雀はさっきから綱吉ばかり見て、空には一瞥もくれていなかった。
意味が分からないひと言に怪訝にしていたら、彼の頭の鈍さに噴き出した雲雀が、またしても小ぶりな鼻のスイッチを押した。
鬱陶しくて手で払い除けてやると、叩かれた彼は大人しく腕を戻した。
そうして、ふっ、と気の抜けた顔をして、目尻を下げる。
顎を取られて、綱吉は咄嗟に爪先立ちになった。
「此処に、ほら、お月様」
ちゃんとたっぷり観賞したから満足だと嘯き、彼は緊張に唇を戦慄かせた綱吉を、いともあっさり解放した。
正面から一直線に見詰めて、迷いもなく告げられた。どういう意味かと改めて考えて、綱吉は。
「俺の、……そんなに綺麗じゃないですよ」
顔の中心より少し上、右側を指さしながら唸った。
「そう? 僕は好きだよ」
だというのにさらりと言い返されて、綱吉は照れて良いのか、拗ねるべきかで迷い、顔を背けた。
踵で地面を蹴り飛ばし、背中に回した手を前後に揺らす。一緒になって団子が入った袋が踊って、彼の膝裏を叩いた。
言われっ放しは悔しくて、何か言い返してやろうと巧い切り返しを考えるが、ろくな言葉が浮かんでこない。鼻を膨らませて唇を噛んでいたら、黒々と冴えた双眸がスッと細められた。
「おやすみ」
「あ」
あれはいつの事だったか、理科の授業だったかなにかで聞いた話が、ふと、綱吉の脳裏を過ぎった。
「知ってますか」
「うん?」
後先考えぬまま声に出して、去りゆこうとしていた雲雀のシャツを抓む。動きを阻害された彼は、小首を傾げながら綱吉を振り返った。
実直な瞳は闇の中でも神々しく輝き、目映かった。
「月が光って見えるのは、周りに闇があるからだって」
銀河系で自ら光を発する恒星は、太陽だけだ。月はその光を浴びて、反射して、輝いている。だから明るい昼間に見る月は、陽炎のように虚ろで、存在感が薄い。
月が月であらしめるには、彼の光を際立たせる闇が必要不可欠。
「沢田?」
「だから。だから、えっと、あの。だから、……俺も」
喋っているうちに、段々自分が何を言っているのか分からなくなってしまって、綱吉は顔を伏した。闇夜でも分かる真っ赤に染まった耳朶を見下ろして、雲雀は告げられた言葉を反芻し、咀嚼し、雲に守られた月を見上げて飲み込んだ。
月明かりは、闇があってこそ映える。
闇は、黒。
それは不安を増幅させながらも、反面穏やかさをもたらし、人に安寧を約束する色に他ならない。
そして雲雀が好んで纏う色は。
俯いて動かない綱吉に相好を崩し、彼は黒濡れた瞳を細めた。
「明日、遅刻しないようにね」
手を伸ばし、見た目に反して柔らかな髪を擽ってやる。
別れがあるからこそ、また会える事が喜びなのだと教えてやって、彼は言った。
綱吉は黙って頷き、顔を上げた。
「また、明日」
「うん。また明日」
辿々しく告げて、返されて、綱吉ははにかんだ。
十五夜の月が、静かにそれを見ていた。
2010/9/9 脱稿