氷蜜

 深みのある器の底で、氷の粒がキラキラと、まるで宝石のように輝いていた。
「あー……ん」
 それをスプーンで集めて掬い、ゆっくりと持ち上げて口へと運び入れる。途端、咥内を鋭い冷気が襲い、僅かに遅れて錐で突かれたにも等しい痛みが頭に走った。
 瞬時に脇を締めてやり過ごし、熱に包まれて溶けて行く氷を舌で受け止めて、綱吉はホッと胸を撫で下ろした。
 キーンと来た痛みと冷たさは一瞬で消え失せて、直ぐに夏の暑さが舞い戻ってくる。額に浮いた汗を拭って前髪を掻き上げて、彼は透明なガラスの器を覗き込んだ。
 あとふたくち、というところだろうか。半分が水と化した氷は仄かに紅色に染まり、スプーンで縁を叩くと軽やかな音が響いた。
 奈々から聞いていた今日のおやつのアイスクリームは、綱吉が冷凍庫を覗いた時には見事に残数ゼロになっていた。空き箱だけが残されていて、腹立たしいやらなにやらで、地団太を踏まずにいられなかった。
 高い位置にある冷凍室に手を伸ばすのに使ったと思しき椅子は、ドアの前に置き去りにされていた。推理せずとも誰の仕業かは分かる。八月も真ん中を過ぎたがまだまだ暑い日が続いており、今日の最高気温は三十四度を突破していた。
 冷たい菓子で少しでも体温を下げたい気持ちは、綱吉も充分理解出来た。しかし人間、限度と言うものがある。
 台所のゴミ箱に残されていたアイスの包み紙と、内側から鍵がされたトイレ。試しにドアをノックしたら、呻くような泣き声が聞こえた。
 ランボが腹を壊したのは自業自得だ。楽しみにしていたおやつを全部食べつくされた恨みもあって、綱吉は彼をそのまま放っておくことにした。
 そして代わりに引っ張り出して来たのが、製氷皿だった。
 食い意地が張った五歳児も、流石に水を冷やして固めただけの氷には手を出さなかったようだ。
 綱吉だって、四角形の氷をそのまま口に入れて頬張るような真似はしない。しかしこれを細かく削り、シロップをかければ、たったそれだけでお手軽で且つ美味しい夏のお菓子になるから、不思議だ。
「あー、ん」
 自分にスプーンを向け、残り僅かとなったかき氷を飲み込む。殆ど溶けてしまっており、噛み応えは無いに等しかった。
 それでも外の気温よりはずっと冷たくて、甘い。彼は幸せそうに目を細めると、器を傾けて薄められたシロップを一箇所に集め、少しだけ残っている氷の粒を匙の先で削った。
 冷蔵庫にあったシロップは、三種類。赤と、白と、紫だ。
 綱吉が準備を整えているうちに、物音を聞きつけたフゥ太たちもやってきて、お陰で台所はちょっとしたお祭り騒ぎだった。
 ランボは相変わらずトイレで唸っていた。彼が何をしてああいう状況に追い込まれたのかは、幼い子供達も既に承知していた。氷菓を独り占めされた恨みは、フゥ太やイーピンにも少なからずあったらしい。
 今日の件で少しは懲りれば良い。ランボには充分な反省を強いる事にして、綱吉は棚から手回し式の氷かき器を取り出した。
 軽く洗って、水気を拭いて取り除き、氷を入れてハンドルを回す。そうすれば鋭い刃に削られた氷が細かな粒と化し、まるで雪のように器に降り注いだ。
 三人分完成する頃には出してきた製氷皿はほぼ空になって、残量僅かだったシロップも、一種類は完全になくなってしまった。時同じくしてトイレから出て来たランボはげっそりとしていて、まるで別人だった。
 葡萄のシロップをたっぷりかけたかき氷に一瞬目が輝いた彼だけれど、おいそれと与えるわけにはいかない。腹の中は依然嵐の真っ最中だというのに、また冷たいものを食べたら、今度こそ病院送り確実だ。
 奈々が買い物に出ている隙を衝いた五歳児の行動力は、生半可なものではなかった。彼女にも事の次第をしっかり報告して、厳しく叱ってもらわなければ。
「あー、美味しかった」
 綱吉も小さな頃、ランボほどではないけれども、こっそりアイスクリームを食べてお腹を壊し、こっぴどく怒られた経験がある。普段優しいだけに、角の生えた奈々ほど恐い存在は無かった。
 甘ったるい汁を啜り、ガラスの器を空っぽにして、スプーンを真ん中に放り投げる。からからと音を立てて縁を一周したそれは、綱吉の右斜め前方に先を向けて停止した。
 蝉の声は聞こえない。耳に届くのは吹き抜ける温い風の音と、家の前を行く車のエンジン音くらいだ。
 後始末もせずに二階に上がって来てしまったので、奈々が帰ってくる前に出したものを片付けてしまわなければいけない。空になった器を手に、綱吉は投げ出していた足を引き、立ち上がるべく膝を起こした。
「よ、っと……ん?」
 腹筋に力を込め、背筋を伸ばす。カタン、と音がした気がして、彼は中腰の状態で一時停止した。
 部屋の中に、他に動くものは無い。前開にした窓の外は夏の晴れ空が遠くまで広がっていた。
 夕立でも来ないかと期待せずにいられない暑さで、じっとしているだけで汗が滲む。ブルーに数字のロゴが入ったタンクトップ姿の彼は、首を傾げて音の発生源を探った。
 外から聞こえた気がする。ならば奈々が帰ってきたのだろうか。
「怒られるかな」
 アイスの件はランボひとりの責任だとしても、かき氷を作って後片づけをしなかったのは綱吉の責任だ。今夜の夕食で、荒熱を取って冷やさなければならないものがあった場合、氷が足りない可能性もある。今から作っていては、間に合わない。
 自分にまで雷が落ちる光景を想像して背筋を粟立て、綱吉は覚えた寒気に腕を撫でた。
 急いで台所に向かわなければ。完全に元通りにするのは時間的に無理だけれど、片付けをしているという姿勢を示しておくだけでも、彼女への心証は随分違うはずだ。
 その場で足踏みし、窓に背を向けてテーブルに手を伸ばす。温い水滴が指先に触れて、指紋の渦を伝って肌に満遍なく広がった。
 コトン、ともうひとつ音がして、綱吉はヒヤッとしたものを敏感に感じ取った。
 最初に聞いた時よりも、音が近い。半端な体勢のまま固まっていたら、また、響いた。
 重いものがベランダの柵にぶつかる音だ。
「……そっち、か」
 奈々ではない。見ずとも確信が持ててしまって、綱吉は左手で額を覆った。
「なに?」
 台詞は聞き取れずとも、彼が何かを呟いたのは分かったらしい。室外機が置かれた狭いベランダに足を置いた青年が、続けて窓を潜り抜けようとしたところで怪訝に顔を顰めた。
 どういう了見で、彼はここの窓を玄関代わりに使うのだろう。一階部分の壁を登り、屋根を伝ってやっと至れるような場所なのに。
 以前から何度か文句を言って、止めるよう訴えているに関わらず、全く聞く耳を持ってもらえない。平井保昌がどうとかこうとか、良く分からない説明をされた日を振り返り、綱吉は盛大な溜息をついた。
 手を額に添えたまま振り返ると、案の定、其処には並盛中学校の制服を身に纏った青年が立っていた。
 窓枠を越えるべく、右足が前に突き出されている。黒光りする靴を視界の中心に置いて、綱吉は渋い顔をした。
「脱いでくださいね」
「分かってるよ」
 苦々しい面持ちで言うと、雲雀はぶっきらぼうに返し、長い脚を室内に滑らせた。無論、靴は履いたままだ。
 脱いでから入って欲しかった。これも、何度となく注意しているのに、聞いてもらえないお願いのひとつだった。
 窓辺に立ってから、雲雀は綺麗に磨かれたローファーを脱いだ。左右揃えて持ち、今し方跨いだばかりの窓を越えて室外機の影に置く。直射日光を浴びて、灰色の機械はかなりの熱を持っていた。
 白い半袖のシャツに、臙脂色の腕章が眩しい。他の風紀委員はこの暑い季節でも黒の長ランを着こなしているというのに、委員長だけは随分と身軽で、涼しそうな格好をしていた。
 もっとも、自室で寛いでいた綱吉の方が、ずっとラフな服装をしているわけだが。
 膝丈のズボンから覗く膝小僧が、他に比べて少し赤くなっている。程よく日焼けして健康的な小麦色の肌をした彼を見下ろして、雲雀は陽射しを避けて窓の前を離れた。
「暑いね、此処」
「そりゃ、夏ですから」
「冷房入れてないの?」
 手を団扇代わりにして顔を扇ぎながら呟いた彼に、綱吉は頬を膨らませた。
 日陰に入っても、室温はそう変わらない。開けっ放しの窓から流れ込む空気は全て熱風で、汗を呼びこそすれ、涼しさをもたらすものではなかった。
 首を傾げながら訊かれて、綱吉は押し黙った。不満げな表情をして、天井近くの壁に設置されている冷房装置を仰ぎ見る。リモコンはベッドの上に、無造作に転がっていた。
「昼はダメだって、リボーンが」
 夜間、眠る時の数時間だけ、使用が認められている。それ以外の時間帯は、よほどの理由が無い限り、スイッチを入れるのはまかりならない。
 屋内でも熱中症になる危険性は高いのだから、日中の使用も出来るものなら許して欲しかった。だがきちんと水分を摂取していれば大丈夫だと、リボーンは容赦ない。
 その彼はリビングの、クーラーが入った部屋で優雅に過ごしている。曰く、子供は体温調整が下手だから、だそうだ。
 不公平極まりないけれど、苦情を言ったところでどうせあの赤ん坊は耳を貸さないだろう。それどころか、反抗的な態度を反省しろと暴言を吐き、手酷いお仕置きを仕掛けてくるに違いない。
 触らぬ神に祟りなし、という慣用句を思い浮かべ、綱吉は肩を落とした。
 落胆している彼を斜め前に見て、雲雀はひとつ頷いた。無人のハンモックを仰いでから、汚らしい室内をぐるりと見回す。
「それは?」
 折角涼みに来たのに、これでは汗が引くどころの騒ぎではない。ネクタイに指を入れて結び目を緩めた彼は、部屋の中央に置かれたテーブルの、空の器に目を留めた。
 銀のスプーンに水滴が絡みつき、そこだけ空気が冷えているように感じられた。
 指差した雲雀につられて腰を捻った綱吉は、光を反射して輝く食器を前に赤く濡れた唇を舐めた。
 雲雀の来訪に特別意味が無いのは、雰囲気から読み取れた。リボーンに用事がある時は、窓を越える前に彼の居場所を問うのが常だ。しかし今日はそれが無かったので、目的はあの赤子ではない。
 灼熱の太陽が路上を容赦なく照らしている時間帯だから、気まぐれを働かせて涼みに来たのだというのが、綱吉の結論だった。冷房の使用をさりげなく催促されたのも、そういう理屈だと考えれば納得が行く。
 ならばかき氷を食べていたと正直に告白したとして、彼がそれを求めてくる確率はどれくらいだろう。
 試しに表情を窺うと、彼は目を眇め、首を右に倒した。
 大人しく返答を待っている。裏を返せば、綱吉が正直に答えるまで、彼はずっとこのままだ。
 左右に揺れ動く天秤を抱きかかえた綱吉は、汗をかいて湿っぽい髪の毛をクシャリと握り潰し、どうか欲しがりませんように、と祈りながら甘いシロップが残る唇を開いた。
「かき氷の……」
「へえ?」
 掠れるほどの小声で告げる。今にも消え入りそうな声色だったが、しっかり音を拾い上げた雲雀は、語尾を上げ気味にして相槌を打ち、二度頷いて濡れたガラス容器に一歩半、近付いた。
 汗の匂いが綱吉の鼻腔を擽った。よくよく見てみれば、彼の白いシャツは汗でしっとりと湿り、所々肌に張り付いて屈強な肉体を透かし彫りにしていた。
 見た目の華奢さに騙されて甘く構えていたら、痛い目に遭う。彼の引き締まった体躯と、しなやかな筋肉から繰り出される一撃の重さを知っているだけに、薄ら寒いものを感じた綱吉は慌てて首を横に振った。
 挙動不審な彼に微笑み、雲雀は指を伸ばして器に斜めに寄りかかる銀スプーンを弾いた。
 透明な音がふたりの間に響いた。涼やかな風に包まれる錯覚に瞬きを繰り返し、綱吉は意味ありげな目つきをする青年に臍を噛んだ。
「……食べますか」
「うん」
 彼は、自分からは欲しいと言わない。あくまでも、綱吉が自主的に動くよう仕向けてくる。
 風紀委員長としてのプライドだかなんだか知らないが、顎で使われるのは癪だ。とはいっても弱者である綱吉が、強者である彼に逆らおうなど、百万年早い。
 唸るようにして低い声で問うたら、間髪入れずに軽やかな返答があった。首肯されて綱吉はがっくり肩を落とし、疲れた顔をして額の真ん中を引っ掻いた。
「もー……」
 予想は見事に当たった、だけれど全く嬉しくない。不満を前面に押し出して呻き、彼は仕方なく空になった器を手に取った。
 雲雀がずらしたスプーンを抓んで落ちないよう底に深く沈め、三十センチばかりの隙間が出来ていた扉から廊下に出る。刹那、湿気を含んだ空気に襲われて、彼は鼻を膨らませた。
 温い空気は重く、一度肌に張り付いたらなかなか剥がれない。鬱陶しげに肩を払い、階段を降りるべく板敷きの通路を曲がったところで、綱吉は視界に飛び込んできた光景に目を見開いた。
「えっ」
「なに」
 素っ頓狂な声をあげた彼に不機嫌な顔を向け、雲雀は口を尖らせた。
 危うく階段を転げ落ちるところだった綱吉は、寸前で踏み止まって冷や汗を拭った。
 十三段しかないとはいえ、落ちれば当然痛い。ガラスの器を持っているので、危険度は手ぶらの倍だ。
 簡単には落ちないところまで後退した彼の傍に、雲雀が進み出る。立ち止まって見下ろされて、綱吉は居心地悪げに身を捩った。
「部屋で待ってるんじゃないんですか」
「誰がそんな事言ったの?」
 これまで雲雀が部屋から出た回数は、片手で足りるほどしかない。トイレを借りるか、風呂を借りるか。階下は子供達の巣窟なので、騒がしいのを嫌う彼は滅多なことでは近づこうとしなかった。
 だのに今日に限って、珍しく自分からドアを潜り抜けて来た。
 屁理屈を捏ねた雲雀に曖昧に笑って誤魔化し、綱吉はグラスの縁を指でなぞって、仕方なく彼を連れて階段を下った。
 トントントン、とリズムよく足音を響かせ、玄関の前で反転する。リビングの扉は閉ざされて、中の様子を知るのは叶わなかった。
「へえ」
 足元から登って来た冷気が、この先の部屋で冷房が使われているのを教えてくれた。感慨深く呟いた雲雀の声に首を竦め、綱吉は黙って台所を目指した。
 暖簾を潜り、無人のキッチンに入る。窓が閉め切られた台所は、二階の部屋ほどではないにせよ蒸し暑く、湿った空気が沈殿していた。中央に置かれたテーブルの片隅では、綱吉が使った時のまま、クマを模した愛らしい氷かき器が少し寂しげな顔をして鎮座していた。
「あるかな」
 使用済みの食器は流し台に置いて、彼は蛇口を捻った。溢れ出した水は、少し温い。石鹸も使って手を洗ってタオルで拭い、物珍しげにしている雲雀を無視して食器棚に駆け寄って、見目涼しげなガラスの器をひとつ取り出す。
 先ほど綱吉が使っていたものとは、少し形が違った。雲雀が眉間の皺を深めるのを他所に、彼は慌しく台所を走り回った。
 テーブルを回りこんで反対側に行き、冷凍庫を開けて製氷皿を確かめる。残っている氷の数を数えて、ひとり分ならばなんとかなりそうだと頷いた綱吉に肩を竦め、雲雀は手持ち無沙汰にクマの鼻を小突いた。
「回します?」
 分厚い扉を閉めて戻って来た綱吉が、笑みを噛み殺しながら言った。
 皿を入れるスペースの上は取り外しが可能だ。クマの頭を開き、現れた穴に製氷皿から引き剥がした四角い氷を幾つか詰めていく。後は蓋をして、力を込めつつハンドルを回して、下部に据え付けられた刃で削って行くだけ。
 構造は至って単純で、簡単だ。ただ固定されているとはいえ刃物を使うので、小さな子供達だけで使わせるのは少し怖い。
 ハンドルを弾いて空回りさせた綱吉を軽く睨み、早くしろ、とばかりに雲雀は肘で彼を押した。
 せっつかれて、綱吉はカラコロと喉を鳴らした。楽しげに肩を揺らし、器を下にセットして、ハンドルが付随した蓋が外れないようしっかりと捩じって固定する。
「よし、っと」
 全ての準備が完了して、満足げに頷いた彼は新たに滲み出た汗を手の甲で拭った。
 視線を持ち上げて後ろを振り返り、現在地を思い出してから先程使ったタオルを引っ張って首に回す。同じく汗を滴らせている雲雀にも目を向けるが、彼は格別何も言わなかった。
 それなのに少し気まずげにして、綱吉は銀色のハンドルを握って、前方に押し出すようにして回した。黙って待ち構える雲雀の前で、さらさらと音もなく雪が降った。
「……」
 透明な器の真ん中にばかり降る雪は、やがて自らの重みに耐え切れ無くなって、急峻な坂を転げ落ちていった。
 中央が尖ってくると、綱吉は手を止めて器を軽く叩いた。回転させて、均等に氷を配していく。
「ふぅん」
 意外に芸が細かい彼に肩を竦め、雲雀は腕を組んだ。しかし自分の体温が不快だったようで、すぐに解き、脇に垂らした。
「あ、そうだ」
 身じろいだ彼に触発されたわけではなかろうが、不意に綱吉が顔を上げた。手は休めず、ガリガリと残り少なくなった氷を削り続ける。
 亜麻色の瞳に見詰められて、雲雀は怪訝な顔をした。
「ヒバリさん、何かけます?」
「うん?」
「シロップ。ヒバリさんだったら、やっぱミゾレかなー」
 幾ら細かく削ったからといって、氷だけ食べても美味しくない。先ほど大量に使ってしまったのを頭の片隅に思い浮かべながら問うた綱吉は、人差し指を唇に押し当てて勝手な想像で言った。
 一見何も掛かっていないように思える透明なシロップなら、まだ余裕があったはずだ。そういう理由も込めて呟いた彼を上から下まで眺め、雲雀は流し台にも顔を向けた。
「赤いのは?」
「苺ですか?」
 鮮やかな赤色のシロップが掛かったかき氷は、夏祭りの定番だ。沢田家でもこの色が一番人気で、綱吉が食べていたのだってそうだ。
 鸚鵡返しに問うた彼に頷いて、雲雀は降雪量を減らしつつある氷かき器を覗き込んだ。外から差し込む薄い光を受け、きめ細かい粒がきらきらと輝いている。
 視線を持ち上げた彼が次に見たのは、言いにくそうに顔を歪めた綱吉の姿だった。
「沢田?」
「えーっと……苺は、ちょっと」
 目をあわせようとしない彼に問い詰めると、綱吉は手応えの無くなったハンドルを解放し、人差し指を小突き合わせた。
 彼が見詰める先にあるものを確認して、雲雀はムッとした。ゴミ箱からはみ出た半透明の容器の正体は、手にとって確かめるまでもない。
「赤いのが良いな」
 その上で繰り返し言った彼を見上げ、綱吉はもぞもぞと膝をぶつけ合わせた。
 ただでさえ残り少なかったところを、綱吉とイーピンが大量消費したので、赤色のシロップはついに底を尽いてしまった。ひっくり返しても、もう一滴も出てこない。
 それなのに雲雀は主張を変えず、苺味を出せ、と聞かない。
「我が儘、言わないでください」
 二階で見たガラスの器は、光を受けて仄かな紅色に輝いていた。
 あの色が欲しいのに、叶わないのは気に入らない。買って来い、と言いたい気持ちをぐっと堪えて、雲雀は苦虫を噛み潰したような顔をする綱吉を睨んだ。
 圧倒された彼がへっぴり腰で後退し、肘をテーブルにぶつけた。
「いたっ」
 かき氷の表面は、部屋の気温の高さもあって、既に溶け始めていた。早く食べないと、ただの水に戻ってしまう。
 雲雀と氷と、どちらを優先させるかで一瞬迷った綱吉が、目の醒めるような赤色の唇を噛み締めた。
 右の眉を持ち上げた雲雀はほんの僅かな時間だけ瞠目し、閃いた悪戯に心の中でほくそ笑んだ。
「沢田」
 彼は手を伸ばし、テーブルの器を引き寄せた。スプーンも使わずに指で柔らかな表面を削り、ほんの少しだけ掬い取って持ち上げる。
 いきなりの暴挙に出た彼に吃驚して、綱吉の反応が遅れた。
「んんっ?」
 突然、氷を載せた指を突きつけられたのだ。防ぐ暇もなく咥内に押し込まれて、彼は目を白黒させて意地悪く微笑んでいる雲雀を凝視した。
 輪郭が急にぼやけた。接近されて焦点がずれたのだと気付いた時には、鳥の囀りにも似た音が響いた後だった。
 舌を伸ばした雲雀が、開けっ放しの綱吉の唇を擽った。丹念に舐め回して、皺の間に潜り込んでいた赤い色素を掻き集める。
「ン」
 咥内で溶け損ねていた氷まで一緒に奪われて、冷たいのと熱いのと、同時に襲われた綱吉は愕然とした。
 間抜け顔を曝け出した彼の前で濡れた唇を舐め、雲雀が満足げに頷く。
「うん、苺味」
「なっ……!」
「苺色」
「言うなー!」
 瞬時に顔面真っ赤になった綱吉を茶化し、雲雀が頬を小突く。彼は鼻を大きく膨らませて、掴んだ氷を雲雀目掛けてぶちまけた。

2010/8/15 脱稿