Coleus

 全身を覆う気怠さは、並大抵のものではなかった。
 意識は浮上したかと思えばすぐに沈み、水面上を彷徨って安定しない。目を閉じてすぐにふっと身体が軽くなったかと思えば、いつまでも眠りに入れず、押し寄せてくる倦怠感に延々苦しめられることもあった。
 肉体を構成するあらゆる関節がみしみしと軋み、頭部に篭った熱は思考回路を膨張させて余計な事まで考えさせる。自分はもう死ぬのだという碌でもない妄想に背筋を寒くしていたら、そこで記憶は途切れて後には続かなかった。
 次に目が覚めたのは、人の気配を感じたからだった。
「……ぅ」
 相変わらず身体は重く、瞼を持ち上げることさえ億劫でならない。枕の上で身を捩れば頭の中で銅鑼が鳴り響いて、がんがん来る痛みに吐き気がこみ上げてきた。
 空腹を訴える胃袋が痙攣を起こすが食欲は沸かず、荒れた食道がちりちりと熱を発して喉も痛んだ。息を吸って吐くだけでも肺が押し潰されそうで、どうにか確保した視界は輪郭が滲んで全てがぼやけていた。
 上にかけられた寝具が重くて、まともに身動きが取れない。健康な時ならなんとも感じないものが今は兎に角鬱陶しくてならず、世界が牙を剥いて襲い掛かって来たような気分だった。
 苦しいし、痛いし、寒いし、喉は渇くしで、散々だ。頭や身体の内側は高熱を発して焼け焦げそうなのに、指先、足先は凍りつきそうなくらいに冷えていて、その落差にも愕然とする。
 指の一本もまともに動かない状況に焦れて奥歯を噛めば、顎の関節が砕けそうに痛んだ。
「ぁぐっ」
 喉が引き攣り、声にならない悲鳴が漏れた。後頭部を枕に押し付けて喘ぐように口を開閉させていたら、寝台に近づく気配があった。
 誰なのかは分からない。目を開けていても見えるのは白くぼやけた世界で、音も耳元でぐわんぐわんと反響し、なにひとつ聞き分けられなかった。
 分かったのは、大きな手が額に触れてきたことだけだった。
「……は」
 その手は程よく冷えていて、思いのほか心地良かった。焦げ付きそうなくらいの熱を吸い上げて、苦痛まで拭い取ってくれるようだった。
 汗で額に張り付いた前髪を払いのけ、長い指が金紗の髪を梳く。慣れていないのか妙にたどたどしい手つきは、けれど想いが込められていて快かった。
 四肢を束縛していた関節痛も幾ばくか弱まり、呼吸もほんの少しだけ楽になる。ホッと胸を撫でおろして目を閉じれば、耳に心地よい低音が鼓膜を震わせた。
「もちっと寝てろ」
 囁くと同時に大きな手で目元を覆われて、アリババは逆らわずに頷いた。言われた通りに目を閉じて、流れに身を任せて眠りに落ちる。
 この手の、この声の主は誰だっただろう。とてもよく知っているはずなのに思い出せなくて、それだけが心残りだった。
 なんとか名を取り戻そうとするのに、鉛のように重い身体が眠るように意識を引っ張った。
 きっと次に目を覚ました時には思い出せている。そう自分に言い聞かせて、最後にちょっとだけ瞼を開いて外の世界を覗き見る。
 退いた指の先。遠ざかる意識の片隅で捕まえたのは、月のように優しい光だった。
 

 その日、シャルルカンは暇を持て余していた。
 折角真面目に起床して朝議にも出席したというのに、その後の予定がことごとく狂ってしまったためだ。周囲からは雪が降るのではとまで驚かれて非常に腹立たしいのに、追加でもうひとつ苛立つことがあって、正直気分は最悪だった。
 けれど熱を出して寝込んでいると聞いた弟子の様子を覗きに行って、ささくれ立っていた感情は波が引くように一気に静まった。
「……ん、ぅ」
 低い呻き声が聞こえ、彼は顔を上げた。身を委ねていた椅子の上で背筋を伸ばし、右斜め後方に陣取っている巨大な寝台を端から窺い見る。
 大人ふたりが楽に並べそうなキングサイズに横になった少年は、辛そうに数回咳き込んだ末に首を振り、鈍い動きで瞼を持ち上げた。
 熱の所為か火照って赤らんでいる頬は、熟しきった果実のようだった。甘い蜜をいっぱい含んだ果物を連想して息を呑み、シャルルカンは虚ろな眼差しを天に投げる愛弟子を慎重に見守った。
 声をかける真似はしない。一旦目が覚めても、またすぐに眠ってしまう確率は高かった。
 ゆっくり休むことで疲弊した肉体は回復していくのに、それを邪魔するのは良い事ではない。だからと上唇を浅く噛んで気配を殺す彼を知ってか知らずか、寝台の病人はもう一度咳をして枕に顔を伏した。
 仰向けから体勢を作り変え、右肩を上にして身を捩る。シーツを掻き回して苦しそうに息を吐かれて、ぜいぜいと喘ぐ声にシャルルカンは膝の上で拳を作った。
 力の入った指先が筋張り、皮膚には爪が突き刺さった。そのうち裂けて血が滲みそうな握り方をして利き腕を上下に振り回し、彼は我慢の限界だと勢い良く椅子を蹴倒し立ち上がった。
「アリババ」
 呼んでも、返事はすぐには得られなかった。
 寝台に歩み寄り、柔らかなクッションに両手を衝き立てて身を乗り出す。覆いかぶさった影に数回瞬きを繰り返し、額に汗を浮かべた少年は色の悪い唇を開閉させた。
 何か言おうとしているようだが、喉が潰れて声にならない。か細く吐き出される吐息に耳を澄ませて、シャルルカンははっとして背筋を伸ばした。
「そうだ、水だな」
 お節介な年上の魔法使いにも、アリババが目を覚ましたらまず水を与えるようにと言われていた。
 眠っている間に大量の汗を掻いているから、放っておけば脱水症状を起こしてしまうと聞いている。思い出して両手を叩き合わせ、彼はいそいそと身を翻して大きな円形テーブルに歩を進めた。
 錫の水差しを手に取れば、無数の水滴が指に張り付いた。
 細長い胴に被せる形で引っ掛けられていた杯を取って冷水を半分ほど注ぎ、銅製のコップだけを持って寝台へと舞い戻る。差し出されたそれをアリババは不思議そうに見つめ、力の入らない動きで首を右に倒した。
 きょとんとしている彼に苦笑を漏らし、シャルルカンは足で椅子を引き寄せた。
「水だ。飲んどけ」
 渇いている自覚はなくとも、身体は餓えている筈だ。
 横になったままの彼に早口に告げるが、反応は芳しくない。相変わらずぼんやりした眼差しは焦点が合っておらず、もしや目を開けたまま眠っているのかと疑って様子を窺っていたら、もう数回瞬きを追加した少年が時間をかけて息を吐き出した。
 はー、と体内の熱を外に追いやった後、僅かに輝きを取り戻した瞳がようやくシャルルカンを射た。
「し、……しょ……?」
「大丈夫か、お前」
 掠れる小声で自信なさそうに呟かれて、高熱で頭がイカれてしまったかと危惧する。思わず身を屈めて問うたシャルルカンだが、アリババはしまりのない顔で笑うばかりだった。
 喋るのも辛そうで、あまり無理をさせたくはなかった。水を飲むために身を起こすのも、今の彼には負担が大きい。
 けれどこのまま放置しても良くならない気がした。水分摂取だけはさせた方が良いと、天秤を掲げた脳内の小人が大声で告げる。圧倒的多数で下された決定に深く首肯し、シャルルカンは起こした椅子ではなく、寝台の縁に腰を下ろした。
 体重を預けた分、木組みの土台が軋んだ。クッションが沈み、アリババの身体がほんの少しだけそちらに流れる。不思議そうな視線を受けて微笑み、彼は汗を掻いている杯を顔の横で揺らした。
「じっとしてろ」
 告げて、シャルルカンは良く冷えた水を口に含んだ。
 咥内が一気に冷えて、思わず飲み込んでしまいそうになった。それを理性で押し留め、四分の一まで中身を減らした杯を引き剥がす。
 続けて、濡れた唇もそのままに身を屈めて左腕を伸ばして、捕まえたのはアリババの後頭部だった。
 広げた手を汗ばんだ頭部と枕の間に差し込み、抱きかかえる形で重い身体を抱え上げる。突然のことに驚いた少年が身を捩るが抵抗は微細で、健康体の青年相手では到底逃げられるわけがなかった。
「ン」
 目を見張ったアリババを覗き込み、シャルルカンが鼻から息を吐いた。窄めた口を尖らせて顎を引き、何かの合図を送ってふっ、と目尻を下げる。
 優しい微笑を間近に見て、金紗の髪の少年ははっとして恐る恐る口を開いた。
 赤く熟れた舌を小刻みに震わせていたら、出来上がった隙間に照準を定めた男が不敵に笑った。
「ん……ぅ」
 触れた唇は焼け付くほどに熱く、いつにも増して柔らかかった。
 くちづけの瞬間、アリババはきつく目を閉じた。大きな手に抱かれたまま仰け反り、歯列を割ってもぐりこんできた舌から逃げて喉を塞ぐ。だがシャルルカンは追いかけず、自らの舌を樋の代わりにして含んだ水を彼に流し込んだ。
 すっかり温くなった水が、腫れあがった喉を覆った。反射的に舌で押し出そうとして、アリババはがっぷり食らいついてくる唇に背筋を粟立てた。
 咄嗟に手を伸ばせば、金色の鎖がしゃらりと音を立てた。
「んう……ム、っは、んン」
「まだ飲むか?」
 彼が首から垂らす鎖を握り、ようやく得た新鮮な空気に軽く噎せる。飲みきれなかった一部を霧にして吐き出して、アリババは胸を撫でて首を縦に振った。
 上目遣いに前を窺えば、悪戯が成功したのを喜ぶ子供の笑顔があった。無理やり抱き起こされて寝台に座り直し、彼はしたり顔のシャルルカンを軽くねめつけてから濡れた唇を撫でた。
 その手を追い払い、杯を空にした男の指が顎を掴んだ。
 くいっと持ち上げられて、そのまま口を塞がれた。間髪入れずにぬるっとした舌が咥内に侵食してくる。僅かに遅れて注がれた水は、先ほどに比べるとまだ幾らか冷たかった。
「ン……ふ」
 鼻から吐息を零し、アリババが睫を震わせ目を細める。眇められた眼差しを同じく至近距離から盗み見て、シャルルカンは役目を終えた舌を戻すどころか逆に奥へと突き出した。
 片隅で丸くなっていたアリババを掠め取り、熱くてたまらない口蓋をべろりと舐める。突然の暴挙に出た彼に戦き、中途半端に渇きを覚えていた少年は総毛立った。
 発作的に掴んだ鎖を引っ張って、同時に顎に力を込めて口を閉じる。
「あでっ」
 逃げ遅れた舌の根元を噛まれ、千切れそうな痛みを覚えた青年はみっともなく悲鳴を上げて身を仰け反らせた。
 握った杯を振り回し、背を丸めて激痛に耐える。肩を小刻みに震わせる彼を前に、アリババも乱れた息を整えて濡れた口元を雑に拭った。
 まだ引ききらない熱の所為か、心臓がバクバク言って苦しい。頭もぼうっとして、涙腺も普段より緩んでいるのか目尻が熱かった。
「いってぇ~……」
 思わず酷いことをしてしまったが、謝罪の言葉はなかなか口から出てこなかった。身悶えている剣術の師匠に零れ落ちんばかりに目を見開いて、なかなか整わない呼吸にただ鼻を愚図らせる。
 声も出せずに凍りついている愛弟子を涙目で確かめて、シャルルカンは少しずつ弱まりつつあった痛みを堪えてかぶりを振った。
「……悪りぃ」
「ししょう」
「病人に手ぇ出すのは、さすがにダメだよなあ」
 自嘲気味に笑い、たどたどしい舌使いのアリババの頬を擽って席を立つ。役目を終えた杯をテーブルに戻しに行った彼を目で追って、目覚めた当初に比べれば格段に楽になった少年はほう、と息をついた。
 もしや彼は、ずっと此処にいてくれたのだろうか。
 窓の外は明るく、まだ日が高いのは容易に知れた。しかし午前なのか、それとも午後なのかの区別はつかず、どれくらいの時間寝入っていたのかもさっぱり分からなかった。
 シーツに手を伸ばせば、触れた布は湿っていた。身に纏っている寝巻きもそうだ。吹く風が火照った肌に心地よく、気を抜くと逆に冷えすぎてしまいそうだった。
「まだ飲むな?」
 関節の痛みも残っているが、さほど辛くない。感覚が徐々に戻ってきているのに安堵していたら、遠くから声がかかった。
 錫の水差しを掲げ持ったシャルルカンの問いに頷き、アリババはまだ五月蝿い心臓を撫でた。
 また口移しで飲まされるのかと考えてどきどきしていたが、心配は杞憂に終わった。もうひとりでも大丈夫と判断されて、彼は手渡された銅の杯を発作的に投げ捨てたくなった。
 しかしそれはさすがに出来なくて、ぶすっとしたまま黙って受け取って口を着ける。縁まで並々と注がれた水は、ほんのり甘く感じられた。
「……おいしい」
 一息に飲み干して、肩の力を抜く。視線を感じて顔を上げれば、腰に手を当てたシャルルカンが歯を見せて笑っていた。
 褐色の肌に、磨き抜かれた白が眩しい。黙っていれば十分良い男なのに喋らせると若干残念な二枚目半をねめつけて、アリババは空になった杯を手の中で躍らせた。
 それを横から奪い取り、身を屈めたシャルルカンが正面から彼の顔を覗き込んだ。
「どれ。熱は、っと」
「……っ」
 同時に空いた手で金髪を掻き上げ、何の臆面もなく額に額を押し当てる。吐息が鼻先を掠めて、やっと落ち着き始めていたアリババの心臓がまた跳ねた。
 どくん、と強く脈打った鼓動に引きずられて呼吸が苦しい。こんなに近いのに視線が絡まない状況に四肢を強張らせて顔を引き攣らせていたら、一通り調べて足したのか、シャルルカンがすっと身を引いた。
 汗に湿った前髪がはらりと落ちて、アリババの視界に紛れ込んだ。瞬きも出来ずに硬直している彼を知らず、シンドリア随一の剣士は緩慢に頷いて背筋を伸ばした。
「まだちっと高いな。まあ、明日になりゃ治んだろ。なんか食えそうか?」
 こうやって熱を計るのが彼の当たり前なのか、シャルルカンは平然としていた。髭のない顎を撫でて軽く考え、右手をひらりと揺らして小首を傾げる。
 唖然として答えられないアリババを不思議とも思わず、彼はコップを手にテーブルへ戻っていった。
 飄々とした足取りを恨めしく見守って、アリババは結局何も言わずに寝台に寝転がった。足元に折り重なっていた寝具を引っ張りあげて肩までかぶり、熱っぽい息を吐いて枕へと突っ伏す。
 急に不機嫌になった弟子にぽかんとして、シャルルカンは手に取った赤い果実を宙に投げた。
「おーい。食うか?」
 正午を告げる鐘の音はまだ聞こえない。しかしあと一時間も掛からないはずだ。
 腹具合から現在時刻を推し量って眉を顰め、シャルルカンは銀の皿に盛り付けられた果物の山を叩いた。
 朝から何も食べていない子供は、腹を空かせて当然だ。もし固形物を受け入れられるようなら何か胃に入れた方が良いに決まっているが、待っても応答は得られなかった。
 何をそんなに不貞腐れることがあるのか。亡国の王子様は気位が高くて扱いが大変と笑い、シャルルカンは皿と一緒に置かれていた小型のナイフを手に取った。
 片刃の凶器を、さながら木の棒の如く扱って不意に天井目掛けて投げ放つ。くるくると回転するそれの柄を空中で難なく掴み取って、彼は椅子の背凭れに身を預けて深く腰を下ろした。
 肩幅以上に足を広げて座り、ナイフは右手に、林檎は左手に持って反応を探るが、アリババはそっぽを向いたまま動こうとしなかった。
 完全に臍を曲げてしまった弟子に肩を竦め、シャルルカンは構わず果実に刃を押し当てた。
「……しかしまあ、なんだな。お前って実は病弱だったとか?」
 アリババが熱を出したのには、一応の理由があった。
 ヤムライハに水魔法を教わったアラジンが、下手なりにそれを披露してアリババの頭上に大量の水球を落としたのだ。当然全身ずぶ濡れだが、その時空は晴れていて気温も高かった。故に油断してそのまま放置して、結局身体を冷やしてしまって明け方から調子を崩した。
 元凶となったアラジンも、同じ部屋で寝起きするモルジアナも、各々に師を持って修練に励んでいる。友人が寝込んだとしても、予定は簡単に変えられない。早めに切り上げて午後から顔を出すとは言っていたが、それも昼食を終えてからだろう。
 アリババ本人も、この結果は不本意に感じていた。そこまで体が弱いとは思っていなかったので、地味にショックでもある。
 調子よく林檎の皮を剥いていくシャルルカンの鼻歌が聞こえて、黙っているのも退屈だったアリババは渋々体勢を変えて彼に向き直った。
 細く薄い皮が地面に垂れ下がり、床の上でとぐろを巻いていた。
「食えそうか?」
「……」
 動きを瞬時に察し、シャルルカンが手を止めて問う。無邪気に訊かれた少年は一瞬むっとしたが、力み続けるのも疲れるとすぐに筋肉を解放して目を伏した。
 睫の動きから肯定と受け止め、シャルルカンは剥き終えた林檎の表面をナイフで削いだ。
 等分に切り分けるのではなく、薄くスライスしてそれを差し出す。ナイフと一緒に揺らされて、アリババは光る刃物に躊躇してからおずおずと口を開いた。
「ほれ」
「ンム」
 水平に掲げられたナイフから、薄く長く切り取られた林檎が落ちてきた。
 細い欠片は口の中に綺麗に入らず、唇に被さって鼻が少し冷たい。それを舌で掬い取って引き寄せて、アリババはじわりと染み出た蜜に喉を鳴らした。
 甘い。
 真っ先に浮かんだ感想は言葉として表に出なかったが、表情には滲んでいたらしい。見ていたシャルルカンは楽しそうに笑った。
「おら」
「あー……」
 もう一切れ追加されて、アリババは先ほどより口を大きく開いた。
 こんな風に食べさせられたことなど、過去に一度もない。いったいどういう育ち方をしたのかと眉を顰めていたら、剣呑な目つきを誤解した男が肩を竦めて目尻を下げた。
「拗ねんな。今日サボった分は、明日取り返せば良い」
 どうやら今日の修行が出来なかったのを悔やんでいる風に見えたらしい。どこまでも剣術一辺倒な彼のお気楽ぶりに、アリババの頬は次第に緩んでいった。
 調子に乗ったシャルルカンが三切れ目を差し出して、アリババも慣れた調子で口を開けた。まるで餌を待つ雛鳥の気分だと苦笑して、ちょっと大きかった塊を奥歯ですり潰す。
 顔色も格段に良くなってきている弟子に相好を崩し、シャルルカンは歪な林檎とナイフを右手に集めて左腕を伸ばした。
 前髪を払い除け、またも額に指を添える。探るような動きをされて、アリババは瞳を上向けた。
「師匠」
「俺もこっちに来たばっかの頃は、良く熱出して寝込んでたからな」
「え?」
 不意に言われ、頭がついていかない。絡まない視線に目を丸くして、アリババは不思議そうにシャルルカンを見つめた。
 色の濃い指が遠退く。目で追って、彼は咥内に残っていた蜜を飲み込んだ。
 椅子に座りなおしたシャルルカンが、照れ臭そうに首を竦めた。
「環境が変わった所為だろうって、シンドバッドさんは言ってたけどな。エリオハプトじゃ、ちょっと調子が悪くても無理してたし。気が抜けたんだろ、って」
 昔を思い出しながら、言葉を選んで彼が呟く。初耳の話にアリババは頷きもせず、相槌も打てずに黙り込んだ。
 八人将にも数えられる男も、元々はアリババと同じ食客だ。今はシンドバッドに忠誠を誓い、シンドリアに骨を埋めるつもりでいるが、生まれ育ったのはこことはまるで違うとある大国だった。
「俺の一族には昔から、不自然な病死者が多くてな。呪われてるんじゃないかって、影で噂されてた。そんなだから、誰かが倒れれば周りが一斉に、大袈裟に騒いでよ。なんつーか、具合が悪くても口に出しにくい雰囲気があってなー」
 久しく思い返すこともなかった記憶を呼び覚まし、他人事のように笑う。表面に張り付いただけの乾いた笑顔にぞっとして、アリババは唇を噛み締めた。
 シャルルカンがどういう経緯でシンドリアに来たのかは知らないが、息が詰まる生活ならアリババにも想像がついた。
 強張った頬を盗み見て、シャルルカンは肩の力を抜いた。林檎の角をそぎ落とし、自分の口に運んで端を噛む。しゃく、と歯が食い込む感触は快く、安心できた。
 だらりと垂れ下がった薄切り林檎を抓み、彼はアリババに目配せした。半分に噛み千切ったそれを差し向ければ、少年は抗わずに口を開いた。
「ぬるい」
「贅沢言うな」
「師匠って、ナイフの扱いも巧いんですね」
「ん? ああ、刃物なら、大抵の奴はな。お前もちっと練習するか。得物が変わればリーチも、攻撃方法も当然変わる。実際に自分で経験してみねーと、その辺も掴み難いだろ」
 愛用の武器を選び、それを体の一部にするのは良い事だが、反面融通が利かない。世界には剣以外にも沢山の武器が存在して、変則的な動きをするものも少なくなかった。
 戦ってみなければ分からないこともある。手にして、扱ってみて初めて分かることもある。
 明日からの課題だ。心に刻み、シャルルカンは随分小さくなった林檎を爪でなぞった。
「寝込むのは、甘えてる証拠なんだとさ」
 酸化して色が変わり始めた表面を撫で、ぽつりと呟く。巧く聞き取れなかったアリババ怪訝に眉を顰め、寝台の上で身を捩った。
 枕の上で頭を弾ませ高さを調整した弟子に目をやり、シャルルカンが小さく笑った。
「ああ、いや。なんだろな。誰だったっけか……そう言われたんだよ。シンドリアに来たばっかりの頃はちょっとしたことでも熱出して、それが悔しくてよ。俺はなんて情けねえんだ、って思ってた時に」
 利き手に握ったナイフを揺らし、柔らかな果実に刃を押し当てて囁く。古い思い出を掘り返してつぎはぎしていく作業は苦手なのか、出来上がった欠片は今までの中で最も分厚く、形も不恰好だった。
「師匠」
「えーっと、だから、……そういうことだよ。熱出して寝込んでても、ここに居りゃ誰かが様子を見に来てくれるわけだし。寝付くまで、傍にいてくれたりすんのも。そういう環境に安心してるから、熱が出るんだろ、だったか」
 体が不調を訴えても、寝込むのを許さない環境があった。
 突き刺さる周囲の目に怯え、高熱を発していても平然と振舞わなければならない空間があった。
 その圧迫感から脱した時、先に安堵したのは心よりも身体だった。
「今思えば、気にするなってことなんだろうけど。沢山寝込むのは、今まで出来なかったことをまとめてやってるだけだ。そんで、大人になった時に簡単にぶっ倒れないように、先払いしてるだけだ、ってさ。……誰だったかなあ」
 シャルルカンの視線が遠くを射た。同じ方角に顔を向けたアリババだが、見えたのは窓の外で照る太陽の片鱗だけだった。
 自分の見る世界が、いつか彼のそれと重なる日は来るのだろうか。
 ふと胸をよぎった疑問を奥底へ封じ込めて、アリババは差し出された林檎に口を開いた。
「あー……がっ」
「へへっ。ざーんねん」
 だが目の前に来たところで白い果実は華麗にターンを決め、シャルルカンの口へと滑り込んでしまった。近づいて来たと思ったら一気に遠ざかられて、からかわれたと後から気づいた少年はショックに目を見開き、哀しそうに小鼻を膨らませた
 口を尖らせて拗ねてしまった弟子に、彼は肩を震わせ笑った。
 甘い果実を噛み砕き、奥歯で磨り潰して舌の上でこね回す。そして小さな団子を作り上げた末に椅子から立ち、ナイフ一式は座面に置く。
 耳元が僅かに凹んで、アリババは真上に覆い被さった影に相好を崩した。
「ほら」
 囁き、シャルルカンは右腕をつっかえ棒にして傾く上半身を支えた。左手は空を走り、少年と青年の境界線上に立つ子供の顎を抓んで軽く引っ張る。
 促されるままにアリババは口を開き、目を閉じて降りてきた唇を受け止めた。
 噛み砕くことなく飲み込んで、舌に残った甘い香りを礼の代わりに彼に押し付ける。舌先を擽られた若者は可愛らしい反撃に面映そうにして、まだ熱が残る弟子の額に額を押し当てた。
「もうちょっと寝てろ」
「師匠」
「寝付くまでは、此処に居てやるよ」
 いつか彼は、この国を出て行く。その眼に映る景色は、きっと永遠に同じにはならない。
 それでも、とシャルルカンは思う。
 鼻の頭にもキスを落とされて、アリババは照れ臭そうに微笑んだ。少ないながらも胃を満たして、安心した様子で眼を閉じる。
 程なくして聞こえ始めた寝息に、シャルルカンは艶やかな金紗の髪を撫でた。
「この国に居る限りは、いくらでも、俺がお前を、甘やかしてやるよ」
 だから安心して熱を出せと言えば、夢見る少年はしまりのない顔で笑った。

2013/5/24 脱稿